徳川家康は江戸幕府を開き、豊臣氏を滅ぼし、天下人となる。
長い天下泰平の時代が到来するわけだが、家康は東照神君という神として君臨する事になる。
現代と戦国の間には家康を神として崇めていた江戸時代が存在する。
また現代に伝わる歴史資料の大半が江戸時代に成立したことから、
家康の事績を伝える資料は家康を理想の君主として崇拝する「東照神君史観」によって描写されている。
近代歴史学では、史料批判の重要性が説かれており、個人の伝記における主人公ヨイショを否定するのは当然の事だが
家康については、いまだに東照神君史観の呪縛から解放されていない。
家康にとって「隠しておきたい過去」が抹殺されていたり、美化されているにもかかわらず、
定説ではそのことに気づいていない例が数多くある。
例えば、姉川の戦いや三方ヶ原の戦い、信康切腹事件などだ。
このスレはその東照神君史観を否定し、真実を暴くスレである。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 09:52:24 ID:YukMO7q7
姉川で浅井勢が13段の備えのうち11段までを打ち破る猛攻を見せたとか
徳川勢が朝倉の大軍相手に奮戦したという定説は、
江戸時代の軍記物がソースで、実際は大した合戦でも無かったらしいね。
徳川はもちろん、
秀忠が長政の次女を娶り、将軍家光を生んでいる。
長政は家光の外祖父であり、家光には浅井の濃い血が流れている。
贔屓目に書いたわけだ。
朝倉義景の低評価は、浅井贔屓の余波では?
徳川史観を見直すのは良いが、
明治史観も併せて見直さないと非常に危険。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 15:45:37 ID:b3Oz7VJy
武田信玄
上杉謙信
徳川史観によって過大評価されている人物。
>>1 十分否定されてるだろ
最近の信長人気で、憶測で信康を切腹させたのは家康の意志だとか言われまくってるし
徳川は、織田家の外様。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 21:36:32 ID:YukMO7q7
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 23:52:52 ID:LA/C5aRA
今川親子
北条一族
石田三成
豊臣秀吉
淀殿
10 :
平民バカ:2006/06/26(月) 06:59:52 ID:9OmZzu93
>>9 石田三成は過大評価されている方では?
関ヶ原は徳川VS毛利だと思う。
西軍黒幕を嫌われ者の石田に仕立て上げたのは徳川の謀略で、佐竹とは早くから話ができていたのでは。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/27(火) 00:18:07 ID:CIUUTtVT
>>5 信康切腹事件は色々な説があるね。
定説通り信長が信康の才能を恐れて殺させた説(ほぼありえない)
信康の乱暴な振る舞いを見かねた家康が信長の了解を取って殺した説
信康が謀反しようとしたので殺した説
過去に信玄と和睦しようとしたのを信長に察知され、後始末を命令された説
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/27(火) 01:01:02 ID:IKpD7G7h
>関ヶ原は徳川VS毛利だと思う。
毛利は何の策動もしてないし、現実に戦ってもないじゃん???
三成を裏切ってるのが史実であって・・・。何か、新史料あるん?
>西軍黒幕を嫌われ者の石田に仕立て上げたのは徳川の謀略で、
>佐竹とは早くから話ができていたのでは。
それだと、家康が上杉と佐竹を怖れて、江戸を離れられなかった一ヶ月以上の
時間の浪費が説明できないのだが?? 三成が「西軍の黒幕」なら、いったい誰が
オモテの役を務めていたのだらう??
13 :
平民バカ:2006/06/27(火) 03:50:04 ID:GpToThyJ
おもての顔はもちろん毛利輝元。
世界最高クラスの城塞都市に入城して、戦争の準備させてたんだから、むしろ活発に天下盗りに動いているように思われる。
関ヶ原戦前の混乱時で最も天下に近い人って毛利輝元じゃないか。
佐竹は動く気なんてないのに西軍黒幕=石田のイメージを浸透させるために『佐竹は怪しい佐竹は怪しい』と言ってたのかも。
佐竹にこだわる家康のエピソードはわざとらしい感じがある。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 02:34:49 ID:cvVAlLFv
信玄は家康に対して精神的な重圧を与え、信長から離反させようとしていた。
信玄は遠江に進行して以来、主な拠点としては、二俣城、堀江城、野田城を攻略している。
城攻めには時間と兵力を消耗するが、この三城を攻略する事により、
浜松城は、徳川家の本国三河と切り離される形になりつつあった。
信玄が順々に攻略した城の配置を確認すると、その基本戦略が読めてくる。
対する家康は存亡の危機であり、単独で武田家に立ち向かう実力が無いのにも関わらず
信長は畿内を離れる事ができず、援軍は期待できない。
三方ヶ原前後の家康は、信玄との和睦の道を選択肢の一つとして考えていたはず。
戦乱の世で生き残るためには、織田と武田のどちらが強いか両天秤にかける必要もあったのだ。
ここからは推測になるが、家康は自身で武田サイドと接触せず、
正室の築山殿と嫡男の信康に和睦工作を行わせたのではないだろうか。
築山殿は今川義元の姪であり、今川旧臣とコンタクトがとりやすい。
今川家滅亡後、今川家の家臣の多くは徳川家か武田家に仕えている。
もし徳川サイドが武田氏とコンタクトをとろうとしたとき、今川旧臣がその橋渡し役を演じる事が出来た。
たとえば、重臣に工作を行わせた場合、露見した時に簡単に切り離す事は容易だが
武田サイドに対して交渉役としての信頼をえる事ができない。
その点、正室と嫡男が交渉の窓口になれば武田サイドも信用する。
結果として信長と家康は窮地を脱したものの、1579年に武田家との内通が露見した事から、
家康は築山殿を殺害し、信康に切腹を命じる事を余儀なくされた。
通説では母子が内通したのは長篠合戦の後だとされるが、
武田家の脅威が薄れた時期に交渉ルートがあったとしても何の意味も無い。
家康は最も窮地に陥った三方ヶ原合戦の行われた前後に武田サイドと接触。
その後も武田家との交渉ルートは保たれていたと考える方が自然だろう。
信長は家康は武田との秘密の交渉ルートを設けている事を早い段階で知っていた。
だが、長篠合戦で武田に痛撃を与える以前の段階において、母子の処断を家康に命じれば
家康の心証を害して離反されかねない。
信長は武田が脅威でなくなった時期を見計らい、強硬な態度で母子の処断を要求した。
家康は命令どおり母子を殺害した。
今日では「築山殿は悪妻」とのイメージが強いが。それはまさに徳川史観によって歪曲されたイメージに過ぎない。
家康は徳川家存続のために妻子を犠牲にしたのだが、この事実には徳川家の天下である江戸時代に隠匿された。
そして「築山殿は、武田と内通したばかりか、息子の家康も引き込んだ」という脚色をして
すべての責任を築山殿に押し付けた。
また、定説では信長が信康が自分の嫡男である信忠より優秀である事を妬み、信康を死に追い込んだという。
これこそ徳川史観の極致ともいえ、信長が自分より格下の家康の息子を抹殺する理由など存在するはずも無い。
徳川史観によって家康は妻子を犠牲した薄情者にならずにすんだのだ。
徳川史観の呪縛から解放されると家康の真の姿が見えてくる。
>佐竹は動く気なんてないのに
上杉と盟約を結んだ上に、福島城の上杉方に兵を出してるわけだが??
よって秋田移封ケテーイ!!
思い込みが強いなぁ・・・・モノホンのバカなのか・・・??
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 11:19:12 ID:t3w9/Dkz
どっちかっていうと、「家康タヌキ親父史観」の方を糾した方がいいわな。
>>15 佐竹の動向はたった一言でいえば、日和見
少し説明をすると
・慶長四年(1599)夏、車丹波守猛虎以下五百余名(三百とも)を上杉方援軍として会津に派遣
・翌年七月南郷棚倉に義宣出陣(上杉との密約、家康からの仙道口出陣命令の両面がある)
・八月水戸城に戻る(上杉に対する違約か?)
・同月東義久以下三百を信濃の秀忠のもとに送る(帰ってよしと言われ水戸にもどる)
・あとは様子見
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 01:42:00 ID:Epwp3DtJ
信康事件は単純に信長か徳姫かわいさにやった
だけのことかも知れない、彼は身内には甘いからね。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 05:13:14 ID:ODdO751l
岡崎派と浜松派の内紛が原因だと思う。
>>18 豊臣遺臣なら、ほんと、いやマジで乙と言ってあげたい。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 21:08:51 ID:M4dBxHLD
江戸時代の三等史料をソースとしてきた今までの歴史学会が異常だった。
>>14 何が何でも家康の意志で殺したことにしようとしている人達と違うのは評価するが、
信長の意図はあくまで信康を抹殺することにあったのは明らか。
信康が信忠より優秀かどうかは別として、
身内に甘い信長が、嫡男のために将来ライバルになりそうな若者を一人抹殺してやっただけの話。
家康も当然、信長の意図が信康の抹殺にあることはよくわかっていた。
そうである以上、信康を救うのは無理でも、
築山殿だけならうまくやれば助けられると思っていたようで、
築山殿を殺害したとの報告を受けて、
「女だから何とかできただろうに。何の考えもなく殺してしまったのか」
と嘆いたいわれる。
家臣たちがこっそり逃がして尼として出家させることを期待していたのだ。
信長にとって築山殿の命を奪うことはさほど重要でないから、
家臣が勝手に出家させたとなればほっとくだろうと家康は読んでいたわけだ。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 13:26:09 ID:k+QE7e5u
東照大権現の華々しい戦歴
桶狭間の戦い………急造の砦に多大な犠牲を払って攻略。主が死ぬと尻に帆をかけて逃げ出す
三河一向一揆………常に苦戦。結局和議と称して一揆勢を騙し、沈静化させる
遠江侵攻………武田信玄と共同作戦で今川領に攻め込む。家康は今川本隊と北条の援軍を相手にした信玄に
比べて遥かに楽であったのに攻略できず。お得意の和議で騙して遠江を得る。
姉川の戦い………織田軍のお陰で勝ったのにその逆であった様に歴史を捏造
三方ケ原の戦い………無謀にも追撃を試み惨敗。馬上で脱糞の醜態
高天神城………武田勝頼をひたすら恐れ信長に泣き付く。結局、落とされる。
上田城………真田昌幸に徹底的にやられる。倅も落とすことが出来ず
>>23 いやだから時期的にそんな事(たいした根拠も無しに抹殺)していいのかと。
それこそ武田側いっちゃうぞ>徳川。
本能寺直前の圧倒的な織田家ならともかく。
信長がそんなこと気にするかよ。
あれだけ方々から裏切らるのは、他人の感情など最初から無視するから。
もう少し他人の気持ちがわかっていれば、本能寺の災難にも遭わなかったかもね。
信長は自分に対する相手の思惑はともかく、織田家に対する他家の思惑は
ある意味異常に敏感だぞ。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 00:05:14 ID:/G43enYH
江戸幕府崩壊とともに、東照神君の神格性は低下したのでは
神仏分離と廃仏稀釈の国家政策の中では、大権現はんの神通力もきかしませんしなあ....
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 11:31:07 ID:4JztXyfl
というか、250年間平和が続く体制を作り上げただけでも、細かいことは
全部吹き飛ぶんだがな。不思議なことに、どの時代でも家康最大の業績は
まともに評価されたことないな。
>>30 「体制」を作り上げたことを功績とするのなら、それは秀忠や家光とそのブレーン達に
帰するべきですね。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 21:19:10 ID:hJsIcwXm
官僚がやるようなことは誰でもやれる
戦国から官僚制度が機能する体制に移行させることが難しかったわけで
大久保と本多の実績。
>>34 幕府の基本ラインは家康が作ったもの。トップダウンの戦国型の組織を
譜代大名の合議制に変え、さらに、その譜代大名から主家を乗っ取るよ
うな者を出さないために、譜代の石高を低く押さえ込んだ。
>>36 トップダウンから合議制に変えたのって、秀忠からじゃないのか?
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 23:32:22 ID:P3Qf5yt9
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 13:21:19 ID:HPo1UOz5
・松平元康は今川家の一門であったにもかかわらず肝心なときに裏切った、ともいえる。
「われらが神君家康公」が忘恩不忠の徒であっては困るから、
今川家は悪辣な支配者、氏真は「裏切られても当然な愚君」である必要があった。
「今川=悪の帝国」「氏真=無能」というのは、江戸時代以降につくられたイメージが大きいのでは?
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 14:14:36 ID:HPo1UOz5
世間のイメージではあまりに晩年の太った政治家としてのイメージに偏りすぎてない?
実際には武将としての実績だって凄いのに。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 14:15:08 ID:HPo1UOz5
誤爆ね。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 16:09:43 ID:tf39Nwiy
でもなあ・・・実際氏真は一国の主としての器量に問題があったと思うよ。
当時、一、二を争う大勢力があんなに簡単に滅亡してしまうなんて。
国人衆の離反が相次ぎ、家臣も裏切り三昧。
内政方面では評価できるけどね。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 16:35:14 ID:hx7oOSMV
>>39 実際、嘘とも本当ともいえないし、捏造と呼べる
程でもない、(言ってないけど)
その程度のことは徳川家の主観という意味では
間違っていないと思う、
明治史観や秀吉の焚書、大閤記の類の方が問題。
松平家と岡崎衆は今川家の家臣というより植民地であって、
常に先鋒の捨て駒に使われていたわけだからな。
こういう、支配のされ方をしている戦国時代の大名に裏切り
がどうのこうのなんて後世の規範を当てはめたところでどう
にもならない。実際、君臣の関係が高度の倫理化された幕末
でさえ、薩長の行動を徳川家への反逆としては語られないわ
けだし。
明智光秀や豊臣秀吉が織田家と裏切ったということは言えるが、
松平家の今川家からの離脱や天下を取った行為とか幕末に薩長
が倒幕に動いたのを裏切り行為とはいえないわな。
ちょっと聞きたい。
>>44の論理は正しいとは思うが
それなら家康が秀吉を裏切って言いがかりで滅亡させて不忠者みたいな
イメージわいてるけどこの論理でいけば秀吉なんか家康に恩を売ったわけじゃないし
小牧以降からしぶしぶ従っただけなんだから裏切るのも当然と思うのだがどうだろう
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 21:56:38 ID:v69yDsCe
そうだろうけど、それだと秀吉厨は救いがなくなるから
家康が悪いということにしないとな
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 23:45:50 ID:KjR+N2As
>>45 つうか、思いっきりそう言っているだろ。
戦争で負けて無理やり臣従させらた形の大名と、ただの素浪人やら
浮浪者あがりから抜擢してもらって大名になった連中とじゃ、もと
められる忠誠がまったく違うわな。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 00:09:21 ID:yasb++Bs
>>44 >先鋒の捨て駒
これは、新参の者が忠誠を示す為のこの時代の当然の常識。
はっきりいって、戦国時代の常識に従えば岡崎松平家は広忠の代から今川の家来。
そちらこそ江戸以降の武士道という色眼鏡でみているよ。
ちなみに薩長が徳川への謀反と見られないのは時代の勝利者であることと、徳川
を超える権威を上手くつかったから。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 00:17:23 ID:UNB1w57d
>>49 広忠−家康と2代も今川の下で戦っているのに、それでも新参かい。
しかも、戦場で戦果あげても死んでも一切恩賞はないし。
もともとの松平家の所領である岡崎城も取り上げてるし。
本来家来ってのは、所領を安堵してくれるから戦場で働くもんだ。
領地取り上げて、無償で働かせ続けて、家来もへったくれもあるもんか。
>>43 秀吉は焚書してないだろ、太閤記も小瀬甫庵江戸時代に書いたもんだし、
これが問題だったら徳川実記や三河物語といった徳川よりの書物はどうなんだよ。
>>50 無償じゃないだろ、松平清康が横死して岡崎を追われ、
当時10歳だった広忠を援助して再び岡崎に戻したり、
その後に織田の侵攻を受けた三河に何度も兵を派遣してるし、
広忠が死んで残された幼少の家康を育てて一門にし、
また三河に入れてやったりしてる。
義元に三河の支配権を確立する野心があっただろうとはいえ、
本来ならとっくに衰退していたであろう松平家を保護したのは事実。
とはいえ今川を切った事自体は俺個人としてはたいした問題じゃないと思うけどね、
戦国の習いってやつだし。
>>52 全面的に同意。
そう言う意味で義元には確かに家康は恩がある。
が別に義元の方も無償で助けたわけでもないので
義元が死亡したら、それ以上今川家に義理立てする
必要もないかと。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 11:41:49 ID:H3zwHBQa
そもそも、戦国時代で恩義を嵌め込むのが 無 理
>>52,53
今川がやったのは恩と言えるほどのものではないよ。
たとえ恩だとしても、松平家としては完全に持ち出しだしな。
普通、衰退した家を回復する場合は、所領を取り返して戻してやり、
その代わりに臣下にする。だが、今川家の場合は所領を取り上げて
しまった。確かに、岡崎に織田家が攻め込んできたときに援軍を出
しているが、自分達がそこから年貢を取っている土地を守るために
軍を出すなんて、あまりにも普通もことだ。さらには、実際に先手
で戦うのは岡崎衆の方だし。
普通なら、こんな状態になると家臣団が離散してしまう。だけど、
岡崎衆は変な連中で、散らなかった。それを利用して、散々無償で
戦わせたっての実態だろ。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 19:13:13 ID:3aoKQtxN
家康と氏真の時代になって立場が逆転すると
松平家臣団の風下になってしまった今川の連中も苦労したという話を聞いたな。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 22:11:28 ID:Nn7Z8rby
>>4 武田信玄
理由はもちろん家康を破ったから。
そして武田旧臣が主家滅亡後に家康に多数仕えている為。
その旧臣(とその子孫)は幕府でも重要な地位についてた為。
上杉謙信
その武田と互角の戦いをしたから。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 23:42:15 ID:yasb++Bs
>>55 追い出された広忠に岡崎城を回復してやった。
広忠の死後、後継者(家康)不在で本来なら下克上で所領も横領されてなくなる
だろう所を、今川軍が占領することで松平家の本領を確保し、かつ家康の家督相続
を保護した。
はっきり言って、あの時点で今川が軍を出していなかったら松平家は消滅、領地は
家来どもに切り分けられていただろうな。
忠勇無比の三河武士、なんてのは江戸時代の自家礼賛。
今川義元は松平家にとっては頭が上がらないほどの恩人ではあるが、その家来たち
にとっては余計なことをしてくれた厄介者。
この両者の認識の違いを押えておかないと松平家については理解できない。
★過大評価★
武田信玄…家康を破ったから
上杉謙信…武田信玄と互角だったから
長野業正…同上
浅井長政…家光のじいちゃんだから
織田信長…家康の上司だったから
真田親子…秀忠を破ったから
家康の松平家は、
松平党十数家の一家に過ぎず。
爺ちゃんが力で伸し上がって、松平党を纏めた(一時的に)だけで、
松平の統領家では無いからな。(信長の親父と同じ感じ)
爺ちゃん暗殺後、今川の力、権威、後ろ盾でその地位を確保しようとしてた訳で。
ものすごく乱暴な言い方をすると、
家康の松平家が三河を支配する、根拠も大義名分も無い訳だ。
北条は過小評価されてるよな
家康の前に関東に善政をしいてたら
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 21:52:15 ID:GNV63mEE
姉川の戦いって徳川から見た呼び名で
実際は織田方は苦戦もせず普通に勝ったらしいね
家康隊奮戦は徳川史観による捏造らしい
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 01:38:08 ID:jkyHua6b
徳川史観による各人物の評価
義元 名門であることに傲った愚かで無能な貴族趣味デブ。
信長 残虐、非道で神仏を恐れぬ魔王 息子と妻を殺害した残忍・無慈悲な人物。
秀吉 成り上がりものの猿面冠者、徳川が受け継ぐべき天下を奪った簒奪者。
家康 艱難辛苦をなめながらも、勤勉、実直で文武両道の律儀者、乱れた世を治め太平の世の中を作る、源氏長者。
明治史観による各人物の評価
家康:古狸、陰湿な策略家
秀吉:天下人、見習うべき人
義元:たいして変わらず
信長:たいして変わらず
義弘:戦国最強
こういうのはどうか
秀吉:天下人、見習うべき人
家康 艱難辛苦をなめながらも、勤勉、実直で文武両道の律儀者、
乱れた世を治め太平の世の中を作る、源氏長者。
この両方を持ち上げる
それでいい教育だ。
戦国武将も全員尊敬できる。敗者からも学べる。
甲陽軍艦なんかは武田勝頼を非難している。
大きい部分で馬鹿なイメージが付いているのでそれはそれで、
話を聞いた人が「勝頼の二の舞にはならないぞ」と思い
これで教育になる。
勝頼や勝頼ファンにとってはこの世間評は喜ばしくないが、勝頼の歴史は役立っている。
歴史の詳細は興味のあるマニアックな人が研究すればよし。
自分は自分より前に生まれて人生を経験した人を見ることができる。
自分以外は師。
みんな偉大。
言っていることはわかる
しかしそれでは面白くない
>>67 そう、このことを把握した上で、武将の評価すれと良いんだね。
あとは、悪口いったりいろいろ楽しめる
結局どっちが良くてどっちが悪いなんてテーマになるから水掛け論なんだよねえ。
功罪あってしかるべきなんだから。
でも、議論をするための議論は確かに楽しくもあるんだよねえ。難しいねえ。
視点の違いだからね。
社会主義、資本主義、自由主義、全体主義他
と同じで一長一短あるよ。
宗教と同じで、教えで止めておけばよいが、
実社会にまで当てはめたら矛盾も生じるし、中世ヨーロッパの科学技術においては
ほぼ害しかないし。
その時の状況によっては真反対の決定を下す時もあるよ。
特に政治司る人や、ましてや戦国なら当然とも言える。
現実主義者が多いんだから(古い権威も現実の一つだから)。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 23:09:26 ID:TOfKt/Mw
小早川秀秋暗愚説は徳川が広めた。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 23:45:27 ID:iVs3jBx8
種子島と弓矢と槍の激痛を、家康はほとんど知らない。
だからウンコ漏らすし、すぐオシッコちびる。
(信長は足に、モロ鉄砲食らってる。というか信長も秀吉も傷だらけ)
家康を軽蔑しませんが、尊敬はできません。
まあ糞漏らしは擁護できんわな。
自分の何もかもを失う恐怖なんだから、同情は出来るが。
擁護しようとは思わんが家康の糞漏らしを批判する奴は
(俺も知らんが)戦場の恐怖を知らんだろ。
目の前に槍持って自分を殺そうとする奴が殺到してくる
頭上からは矢が無数に落ちてくる、自分の護衛と称する連中もいざとなれば
自分を守ってくれるとは限らない。
想像しただけでも恐怖だね。小便や糞くらい俺なら漏らす可能性をを否定できんな。
だから戦国時代でも例外じゃない。実は有名所の武将だって、死の恐怖が迫った瞬間
糞や小便を漏らしたかも知れない、吐いた奴だって居るだろう。ただそれが後世に残ってないってのは
恥ずかしいから後世に残さないようにしたか、あまりにも当たり前なので記述するほどのことでもないかのどれか
まぁ、秀吉も晩年は寝小便しまくりだったし。
家康厨の盲信っぷりに恐れ入った。
普通に怖い。俺だったら逃げ出してしまう。
相当強さが知れ渡っている大将か兵の鼓舞がうまい大将でなければ。
恐怖というより、戦闘以外のことはどうでもよくなっちゃうんだろうな
無邪気に糞漏らしたなんて言って喜んでいる奴は
戦闘というものの非日常性がわかっていない
>>74 なんでお前が戦場の恐怖知ってんの?
傭兵かなんか?
当時の戦場の怖さを体験することができないから、想像してるんじゃね
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 04:46:16 ID:zb2GuJkF
丹羽家の書状の要約を読んでみると、
当時の徳川は織田家の分国大名扱いか。
まぁ、確かにそういう側面はあるが・・・
徳川をどういう風に織田家中は見てたのかな。
徳川家康に息子を切腹させる信長との関係なんか、
同盟国というレベルではないしな。
>>80 74じゃないが基地外に追いかけられる夢なら見るぞw
つーか当時の大崩かまされた総大将が皆糞漏らしてれば仕方なし、とは思うけど。
エピソードが残っちまったのが不幸っちゃ不幸だな。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 14:26:16 ID:5OG4V124
>>84 自分で残したんだけどね。
それを器が大きいと思うか、糞漏らしてやんのwって思うかの違いだな
スカトロ且つ露出マニアなんだな
Mっケがあるんだろう
ときにおまいら、築山殿事件についてどう思うかね?
とりあえず昔定説だった信長が無能な信忠と比べて
信康の優秀さに嫉妬して―というのはないと思うが。
家康の自作自演がいちばん納得のいく線かなあ。
>>88 時期的にもそれだけの圧力を信長が家康にかませる事が出来るとは思えんしね
仮に、信康切腹要求がなんの根拠のない理不尽な言いがかりだったのなら。
信長は徳川が要求を蹴って離反する事態に備えて尾張に大軍を用意しておかなければ
ならないはずなのだが、そんな動きもないしな。
そもそも信忠が無能だったなんてエピソードはないし(むしろ有能らしき逸話ならあるけど)
逆に信康が「信長を怯えさせる程の」有能だったなんてエピソードもない。
信長が、よその家の息子を殺さなきゃいけない理由なんてありません。
妻子が死んだのを、
信長父娘のせいにするとは汚い。
信忠より信康のほうが優秀もしくは同じくらいだったから、
命令したのではないか。
そうすれば安心だからな
>>93 家康が自分の息子を殺す理由はもっとない
何でもかんでも汚いのは家康かよw
>>95 この時代、親子兄弟の相克なんていくらでもありますが?例えば某甲斐国の名門とか。
他人を殺すケースのほうがはるかに多いだろ
1578年当時だったら家康が信康を殺す理由は充分過ぎるほどあるよ。
親バカの信長が信忠のために殺したと考えるほうがはるかに考えやすい
信長ヲタは信長を美化しすぎないで現実見ろよ
見てるけど。
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 23:37:04 ID:gnu4Ko8o
信康の悪行
鷹狩りに出て獲物が一匹も取れず立腹しているさいに出家に出会い、
狩り場で出家に出会うと獲物無しと怒り出家の首に縄をつけて馬で引きずり回して殺す。
舞踏の催しのさい、踊り方の悪しき者、信康、弓を取って射殺す。
妻たる織田家の娘の徳姫との間に子が産まれず、母の築山殿の勧めにしたがい、武田家の家人の女と浮気を始める。
その件を徳姫付きの侍女が徳姫に報告したと聞き激怒した信靖は徳姫のいる屋敷に土足であがりこみ
つげ口した侍女を脇刺で刺し殺し「我らの仲を裂いたのはこの口か」と言い侍女の口に手を入れて裂いた。
数々の悪行に対する榊原康政の再三の諌言に激怒した信康は榊原を射殺そうと弓を持ち出すが
榊原は少しも恐れるふりを見せず「無罪の者を殺せば大殿の思し召しがある」と言いはなった。
それを聞いた信康は顔色を変えて部屋の奥に引き篭った。
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 00:42:34 ID:QrKeMC2P
>>103 信康、秀次、忠長…
悪口の内容が全部同じ。
躾のなってない権力者の息子は同じような道を歩むとも取れるが。
秀次、忠長は権力者の息子だが、
信康は違うべ
と言ってみる
瀬名→淀ラインといってみる
おっ池上季美子繋がりだ
とボケてみる
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 20:25:29 ID:HYQuElg8
徳川家の記録
「家康は無理やり瀬名姫と結婚させられた」
地元の郷土資料
「家康が義元に頼んで瀬名姫を嫁にもらった」
>>109 実はそのレス待ってた、なんて言ってみる
>>110 まあそういうのはいくらでもあるわな。
徳川家史料
「清洲同盟は対等な関係」
地元の郷土史料
「岡崎殿、清洲へ御出仕」
最終的な勝者になった徳川は、自分たちに都合の良い資料を作ることが出来るからな
自分たちに都合の良い資料を作る必要があったとも言えるし
支配体制を強化するために、利用できるものは何でも利用するって段階だったろうからな
おんな太閤記〜茶々
徳川家康〜瀬名
とクドク言う
ごめん普通の話題にお戻りください
ガキの頃は池上季美子は嫌いだったが、今はあのキツの色っぽさに
説教くらいたいなんて思う日々。
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:53:26 ID:nxGTIYlD
信康切腹が、家康主導なんて話は、早い時期から言われてたよ。
なんせ、事件当時に書かれた、当代記や安土日記に
「信長は信康を切腹させる許可を与えただけ」ときっちり記述されている。
そして、江戸時代になり書かれた、三河物語などに突然
「信長の命令で信康を切腹させた」とか怪しい話が出始めている。
これは多分、天下人になり神君家康公とまで言われた家康にとって、
都合がわるい出来事はカバーしなければいけなくなったための、
作為が生まれたものとも考えられる。
あと、天正7年頃に、信長が家康の嫡男を切腹させるなんていうのも
おかしな話じゃないかな?
織田家の体制がほぼ万全となり、全国に信長に逆らう者も、
あまりいなくなったような段階ならともかく、
まだ武田家も健在で、徳川が武田側に寝返れば織田も危ないような時期に、
唯一、信頼出来る味方の嫡男を無理矢理、殺させるような馬鹿な真似を、
信長はしないと思う。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 14:17:36 ID:KVpkOWOi
秀忠が生まれた年に信康が死んでいるというのも何かありそう…
秀忠母の一族は、家康サイドの人達だし…
西郷局の一族・・・
彼女の母の実家、西郷氏(伯父の西郷清員が養父とも)
彼女の母の最初の夫(西郷局の父) 戸塚忠春
彼女の母の再婚相手 服部正尚
西郷氏は三河の古い家だしなあ。
家康の母にしろその母にしろ、再嫁なんか珍しいことでもないし。
妻子を岡崎に連れてきたのは間違いだった。
自分の両親みたく、キッパリと離婚して
織田系の女性と再婚すべきだったな
そういやなんでしなかったんだ?>離縁
今川からの独立・手切れを行うのならまずするべきことのような気がするが。
浅井長政なんかも六角との手切れにまず離縁をしているし。この時代には
同盟関係の解消に政略結婚の解消が、たとえ子供を生んでいたとしても普通
に行われているのに。
嫡男かわいさ、かな?
最終的には織田に顔が立たず・・・
に一票
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 23:03:26 ID:7p1hjZae
こういう場合、普通は信康だけ連れていくんじゃないの?
あ、いい視点だそれ。
自分が母ちゃんと生き分かれて哀しかったからって、メロドロマな理由だったりしてね。
家康、信康を連れて瀬名姫と離縁
↓
織田と同盟を結び、お市と再婚
↓
今川滅亡、瀬名姫自害
↓
邪魔になった信康&岡崎関係者を処分
↓
徳川家資料
「信康が死んだのは、お市が信長にチクリの手紙を書いたから」
↓
お市悪妻伝説
瀬名姫悲劇の美女伝説
どのみち今川の子は、邪魔になると・・・
離縁しないのは簡単に人を捨てないという家康の哲学(後に仇となるが)
織田方の女性と再婚すれば、今川が織田になっただけのようなもの
縁故ありの正妻を置かないのは正解だな
>>128 まだハタチそこそこの家康に、そんな余裕があるとは思えない。
独立したばかりの不安定な時期に、少しでも後ろ立ては欲しかったはず。
旭は別にして、正妻おかないのは懲りたからじゃないかな
父母やそれに代わりうる存在もなく育って、武将としてのみの教育下に置かれて
有無を言わさない結婚して、その結果は母子共に処断する破目に。
家族ってものに何か根本的に常人とは違う感覚持ってても不思議ではないよね。
それがどういう感覚なのかは、真面目な分析は出来ないけど。
個人的には、冷厳でポーカーフェイスで人を中々信じなくて、でも実は寂しがりやで
信じた人間にはとことん誠意を示すって家康像が浮かぶ。
なんとなく血の繋がりなんて所詮血だけって思ってそうなんだよな。
家康の親子感で特徴的なのは、晩年の三子、
すなわち義直、頼宣、頼房への溺愛
年をとったからなのか、それとも天下をとって安心し
本来の性分が出たのか
石川数正が、信康らを岡崎に連れてこようとした時に、
家康に反対されたというのは本当?
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 01:11:14 ID:luKaRcgB
身内他人を問わず、
自分にメリットのある人しか好きにならない。
よくも悪くもプロに徹してるというか…
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 14:35:18 ID:bbF6XKbX
リアルタイムで書かれた資料ってあまりないんだな
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 23:54:31 ID:uOFCGkhr
まともな記録は残してないくせに、
側室の素性だの脱糞だのくだらないことばかり記録に残してる
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:10:31 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 19:57:19 ID:LUYr23lf
本物は桶狭間で氏んでいます
今川の血も利用価値があったんだろ。
正真正銘の源氏だし、旧今川領、家臣団支配の正当性とか。
武田に対抗するには十分の大儀名分になるだろ?
一時的には、氏真も保護したし。
今川氏親は岡崎信康の曽祖父。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:10:03 ID:fouvZ96T
信康が信忠より優れていた、っていう証拠はあるの?
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 23:34:19 ID:NSX0pS2b
秀康を家康に認知させたのは信康
秀康強化版→信康
秀康劣化版→信孝
信孝強化版→信忠
つまり信忠は秀康と同じと言うことか?信忠が信康より劣るとは考え難いと思うんだがなあ。
信忠は死ぬまでのわずかな間に結構な功績を挙げているが、活躍時期が短いため評価が難しい
秀康は剛勇な武将で、実戦経験こそ少ないが、関ヶ原で三万近くを統率したり後々に秀忠より
信頼されてたと言われている。息子の忠直の隊は大阪の陣で最も首を取っただけあって
領内の兵の質も秀康時代からよかったとも考えられる。
まま、同列って言っても差し支えないんじゃない?
信康が秀康や信忠に勝ってるとは思えないけど
信康は父親に何もさせてもらってない感じ。
最初から、跡継ぎにする気なんてなかったんだろうな…
母親共々、針のムシロに座らされるような思いをさせた挙げ句に殺されるために岡崎に来たような気さえしてくる…
信康の死を悼んでいたとしたら天下人になってからの五徳姫への厚遇が
解せんからな
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 18:44:40 ID:Max3gBTJ
信康好きだ
数正と忠次のことだけが納得いかんな。
家康はなにを考えたのだろうか。
理解出来るだろ?
織田が佐久間追放したのと同じじゃね?
152 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/24(水) 07:33:32 ID:dcEeQenC
「偉大なる凡人」という評価が最近の主流のような。
(司馬遼太郎、池宮彰一郎などの小説のせいでね)
153 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 12:09:22 ID:Ro75CsCL
信康と築山御前の首塚が岡崎にあります。織田方の首実験の後、岡崎に返されたらしいが、このあたりも疑問。
二人の死を望んだのは岡崎衆だったのでは?家康がすすんでやったことには思えない。
もちろん、織田も積極的ではないような…
154 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 08:47:26 ID:pyxIqvTg
信康&築山殿&岡崎衆は家康から見れば他家の人って感じだったのかもな
155 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 12:05:04 ID:a8SMGOUS
156 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 18:49:52 ID:Ij38zfdi
信長の命で信康を殺させられたという話だけでなく
今川で人質として苦労し、成人してからも今川の属将
扱いだったというのも家康の苦労人ぶりを強調するための
作り話っぽいな。
無論これを作ったのは家康本人ではなく徳川家の関係者
だろうが。
157 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 19:28:32 ID:qyJv2f2a
苦労ぶり強調されすぎとはいえ、今川の属将には違いないよ。
158 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 16:32:35 ID:wLUtL8/g
信康を殺すし、次男(信康死後は後継者)も人質に出すわ
平均寿命を越えて参陣してるのに後継者をきちんと定めておかないわ
(忠吉はそのせいで自分をアピールしようと関ヶ原で独断専行)
でその辺がしっかりできてないイメージがある。
家康が急死したりしたらお家騒動になって徳川家が没落しも仕方ないよな。
159 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 22:54:33 ID:Mtqd8cmB
関ヶ原の時点で、後継者は秀忠で確定してるんだが・・・
160 :
人間七七四年:2007/04/20(金) 18:30:19 ID:INpr6kYN
つまり
優秀で自分を脅かす林や佐久間は追放して
ボンクラな秀吉や光秀や勝家等を重用したと
161 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 22:30:02 ID:wbmtQOzo
最終的な勝者である徳川はいいように歴史を書けるから
信康事件は「信長が嫡男の信忠より優秀な信康を恐れて
殺させた」なんて風説を流布させたのも徳川方かもな。
何しろ神君が「妻子殺し」では困るから。
大久保彦左衛門の「三河物語」にはそうは書いてないようだが。
162 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 04:58:10 ID:yFMrQBud
尾張が弱兵ってのも神君史観?
163 :
仙台藩百姓:2007/06/26(火) 14:01:03 ID:sxzjMtV5
実際一番活躍したのが尾張衆で
三河衆など信玄や勝頼に追い立てられてただけだおね( ^ω^)
164 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 01:54:04 ID:3N8eEt5H
三河兵が強いとはよく聞くが
強いと思える戦歴が無いw
165 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 02:51:52 ID:Y8ctkBxT
信康事件は、本当は武田への内通疑惑が浮上した信康の処分について信長に伺いをたてて、
で信長が「好きなようにすれば?」て言ったんだっけ?
166 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 09:34:36 ID:vNTEMNws
>>164 同意
徳川史観の金ヶ崎や姉川の捏造っぽい活躍か
桶狭間前哨戦で数百の立てこもる織田方の丸根砦、鷲津を急襲して
攻略したくらいしか活躍してないんじゃ?
数正が抜けて旧武田家臣吸収後は三河武士で構成されているとは言えないだろうし。
旗本八千騎というように親衛隊というか中核部隊って扱いだしね。
まぁその旗本八千騎も大坂の陣で真田隊に散々に蹴散らされてるけど。
167 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 11:36:25 ID:LRat9cFh
168 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 12:26:40 ID:FHOpAOiU
>>161 徳川支配体制による反発とか明治史観とか
そもそも言論統制してたって程クリーンなイメージないだろとか
いろいろツッコミたいんだが
169 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 14:15:50 ID:NbPLQQwP
家康の評価は虚実入り交じりまくりだと思ってる。
家康本人はホラ吹きな秀吉と違って小牧以外はあんまり宣伝やってないイメージがある。
林羅山も御用学者的に調子をあわせた点もあるが、芯がないわけではない。出典は忘れたが家康と対座していて、憤然と席を立ったという話もあるし、日本は神国、みたいな超国家主義的な思想を持っている。
武家政治を行なってから日本の政治が悪くなったとか羅山文集などの著書で語るからな。
江戸時代無論神君神話も足されだろうし、逆に江戸時代でも狸親父的な話は広まっている。明治になったら一般的にはかなり叩かれたし、マルクス史観もあったんだから、どんだけなんだか。
170 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 09:38:04 ID:LcUsPALr
171 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 18:15:11 ID:7uBol4G+
>>170 根拠を示さなければただの徳川アンチだよな。
172 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 17:19:25 ID:4/EO4VP9
173 :
人間七七四年:2007/11/05(月) 03:15:54 ID:wQKUXAq6
王権復古してから日本は侵略戦争しまくって自滅したんだがww
未だに外国では天皇家=戦争指導者として名を馳せてるし
天皇家がどれだけ悪事を働いても正当化されて神聖視されてる時点で
武家政権以前から日本の政治は腐敗してるだろ
174 :
人間七七四年:2007/11/05(月) 03:37:58 ID:wQKUXAq6
後継者争いで血みどろの戦争も暗殺も歴史の改ざん隠蔽も
武家政権はるか以前の天皇家からやってるんだから
武家政権になって日本がおかしくなったと批判するのは何だかなぁ
175 :
人間七七四年:2007/11/25(日) 00:47:38 ID:9rZsmhOy
176 :
人間七七四年:2007/11/28(水) 17:48:42 ID:MP6xTaS6
>>7 明治史観というより明治時代に入ったとき徳川史観否定するのはよいが
身分がなくなって平民教育を施す際秀吉は非常に題材としてよかったので
無理矢理もちあげたり、そのために捏造なども行うという副産物を生み
出してしまったこと。
177 :
人間七七四年:2007/12/06(木) 01:07:51 ID:9Fq270hO
秀吉は主家乗っ取りの大悪党なのになぁ
農民から取り立ててもらった大恩人の息子を殺したり娘を側室にしたり
挙句に幼い孫使って天下取って用済みになったら孫をおなざりにw
やむなく豊臣の傘下に入った家康とは土台が違うわな。
178 :
人間七七四年:
良スレ