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人間七七四年:
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棟札(家系紹介)と碑文(個人紹介)の目的差から情報に相違が生じたのではないかとの説はわかった。そうかもしれない
ただし碑文は武蔵個人の紹介だけど
「父・新免、無二と号し、十手の家〜中略〜十手を改めて二刀の家と爲す。」
ここのとこは武蔵の属する新免家の紹介では?
棟札のほうは、おそらく、宮本村の平田武二と混同したのではないかと個人的には思っている。天正8年に死んでるって記録もあるそうだし、
いろいろ読んでるとどうも、宮本村に天正年間に無くなった武二と、慶長まで生きてた無二の二人がいるように思えるんだよな。
>慶長日記自体には、無二=武蔵の養父とは書いてないでしょ?
百歩譲って、養父と確認はできないし新免ではないかもしれんが、それでも武蔵の生きている当時、慶長年間、豊後・日出城主に剣術を指南している「無二」なる武道家が豊後に居たという証拠にはなるよな。
だから、もしも棟札どおり武蔵の養父が死んでいたとて「沼田家記」の
「道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候」
これが誤りとはいえない。
つまり(親かどうかはわからんが)武蔵を警護して、(慶長日記にある)豊後の「無二斎」なる武道家のとこまで送ったってことだからね。
棟札は「沼田家記」を否定しないし、慶長日記は「沼田家記」の信頼性を上げている。
まあそうすると「平姓杉原氏御系図附言」のほうは、無二って名前から類推して「剣術は宮本無二斎の流派を伝たまふ」と書いたってことだな。
…ところで気になるのだけど、沼田家記、ネット上検索すると
1、「道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候」
2、「道を致警護無別条豊後へ送届武蔵親無二斎と申者に相渡申候由に御座候」
この2バージョンあるね。どっちが正しいんだろう。
もし1が正しいのであれば矛盾はない。
2であっても、身元引受人の武道家「無二」を沼田側が勝手に親だと勘違いしただけと解釈もできる。
沼田延元の慶長時代の手記を沼田家記に編集するときに「親」と足したのかもしれんよね。
なんせ編集時にはもう「小倉碑文」経由で武蔵の親は無二っていう情報があるんだから。