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人間七七四年:
長文ですまんな。
二天流の継承者の書いた記録はマンセーばっか。
(『小倉碑文』『武州傳来記』『武公傳』『二天記』『兵法先師伝記』なんか)
要するに亀田一家で亀田興毅の試合の記録を書いてるようなもんな。
逆に他人の記録ををみると武蔵が巌流と交わした武士同士の約束を破って多く
の弟子を引き連れ加勢させたという記録が多い。
『西遊雑記』なんかに記録されてる地元の民間伝承や『本朝武芸小伝』にある
中村守和が語る話もそうだし。
だいたい当時の武蔵の使う武道は新免無二の当理流ベースだから
弟子達が手裏剣術とか、小具足のヒモとかで、遠くからわかんねーように
巌流の動きを封じてったんだろーよ。
更に昭和後期に見つかった『沼田家記』の試合後の記録な。
卑怯な行動に怒った巌流の弟子達に追われて必死で逃げて、沼田のおっさんに
助けてって匿って頼んで城に匿ってもらって
更には鉄砲隊で警護してパパ(無二)のとこまで送って貰うんだぜ。
★どう考えてもフツーの一浪人への待遇じゃないよな。
調べてみるとそもそも沼田延元って細川忠興の従兄弟で、新免無二は細川家に
弟子がものすご多いんだよ。要は親戚の師範のワルガキを匿ったようなものな。
沼田家記の表現もあんまし身内の武蔵の事を悪く書けず微妙に抑え気味な表現
なんだが、それでも奴の卑怯さは伝わる。
★もともと武蔵と巌流で小倉の師範としてどっちが優秀かって決闘だったけど
勝ったあと、小倉から逃げ出してパパの住んでるとこに行くんだぜ。
小倉で師範できなかったんだよ。
みんなが卑怯さにあきれかえって白けてもう小倉に居場所がなくなったって事な。
『桜庭を、ヌルヌル作戦で破って殺した秋山』みたいなもんで
強い武蔵すっげー!マンセー!ムードなど出るはずなかったのはわかるよ
地元には試合後百数十年も「巌流は負けたけど侍の誉れ!」的伝承が残ってるし
だいたいついた島の名前も武蔵島とか新免島ではなくって、
わざわざ 「 巌 流 島 」 だぜ。
何をかいわんやだよ。