コピペ
834 :名無しでいいとも!@放送中は実況板で :2006/09/16(土) 12:21:12 ID:+P99KU7D0
>>811 長文を何度も書き込むので、私には書き込み規制がかかっています。
2回書き込むと、その後4時間くらい、書き込みができません。
>>772 現代に残る織田信長の若き日のイメージは、弟の織田信勝のもので、
実際の若き日の信長は家に篭もり、南蛮渡来の鉄砲を分解したり組み立てたり、
外国の茶碗を集めたり、集めたコレクションを君主の斯波義統と見せ合って、
一緒に女物の着物を着て踊ったりしていました。
国を乗っ取る野心はなく、尾張国内を統一したら、斯波家に尾張を譲り、
自分は隠居しようと考えていました。
また、小指にツバをつけて鼻をほじり、鼻くそをとって、大きな鼻くそが出ると、
しばらく眺めていたり、いじったりしていたようです。
当時の人たちは、信長と斯波の君主の
集まりを、タン壺に集まるウンコのような人たちと陰で言っていたそうです。
信長の父親も、息子が理解できず、弟の信勝のほうを高く評価していましたが、
祖父が、信長の経済に関する才能を見抜き、父親に強く信長に家督を
譲るよう、迫ったようです。
信勝は、時代の最先端である鉄砲を大量に買い込み、戦争に勝つことを主張しましたが、
信長は、鉄砲よりも経済の活性化、物流コストの軽減を訴え、鉄砲の購入を後回しにするよう、
主張していました。この言動から、当時の家来たちは、信長のことを時代遅れの守旧派と
呼んでいました。
そして、信勝を応援する自分たちこそ、革新派であり、進歩派で、時代の最先端を行く
人間だと信じていたようです。
書きたいことは沢山ありますが、書き込み規制があって、書ききれません。
コピペ
835 :名無しでいいとも!@放送中は実況板で :2006/09/16(土) 12:36:00 ID:BllWDqwg0
>>834 斬新な信長像ですね。これと似たようなものはお目にかかったことはないかな。
誰か近いことをいっている人っている、あるいはかすっているかなっていう人はいた?
コピペ
837 :名無しでいいとも!@放送中は実況板で :2006/09/16(土) 12:50:12 ID:+P99KU7D0
>>835 いません。たとえば、桶狭間ですが、武功夜話など現代の信長史の主流になっている
学説と、私の感じるものはまったく逆です。
信長は、今川義元を尊敬しており、裕福な豪農の息子で、針の行商で
尾張と駿河を行き来し、大きな財を手に入れていた豪商、木下藤吉郎を
通じて、駿府の様子を細かく聞きだしていたようです。
楽市楽座も今川義元の政策を真似したものだそうです。
また今川義元も織田信長の非凡な才能を見抜き、早期に叩き潰そうとしたようです。
しかし、桶狭間は京都への上洛戦ではないようです。
信長は、桶狭間の戦いを、今川が、国境の砦の補給路を遮断して、孤立させ、
徐々に浸蝕している国境紛争だと考えていたようです。
今川義元も、信長が非凡であるがゆえに、信長が自分の作戦を見抜くと予想していたようです。
そして、信長が補給路を確保するために進出したところで、背後を遮断し、
信長を包囲し、一気に今川義元の本隊で襲撃して織田信長を殺そうという
作戦を取ったそうです。完全に今川義元の作戦に織田信長がはまった形です。
しかし、そこで偶然急激な雨が降り、敵味方入り乱れたときに、織田信長の
本隊と今川義元の本隊が遭遇したそうです。今川方は織田を包囲しており、
部分的には密集隊形の織田方の数が多く、偶然に今川義元の首を
討ち取ることができたそうです。
しかし、織田信長は、最初からこれを国境紛争と考えており、まさか
今川義元本隊が出てきているとは考えず、大将首を討ち取った報告を受け、
「松平元康の首を討ち取ったか。」と言ったそうです。