島津強すぎ・・・
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった。
http://www.m-network.com/sengoku/sendai01.html 第1位 島津家(忠良・貴久・義久・義弘)
日本の戦国時代において、名君続出の大名家といえばまず島津家があげられよう。
後に「島津に暗君なし」と言われることになるが、これは決して誇張表現ではない。
島津家は鎌倉以来の名家であったが、室町時代後半には本家と分家の対立が激しくなってきた。
その時分家の伊作島津家に忠良が登場し、彼の策謀から子の貴久を島津本家に送り込むことに成功したのだが、ここから「薩摩隼人」として広く知られている島津の家風が生まれてくるのである。
島津忠良は後に日新斎(じつしんさい)と号し、島津家の心得とも言うべき「いろは歌」を作り家臣たちを教育した。
忠良はこういった功績から薩摩人の間では後に神格化されている。
さて、後を継いだ貴久は政治に力を入れ着々と足場づくりを固めていったが、分家やまわりの豪族たちとの抗争は絶えなかった。
貴久は陣頭に立って果敢に攻め込んでゆくタイプではない。合戦の際は彼の4人の優れた子たちの力が大きかったのである。
長男の義久、次男の義弘、三男の歳久、四男の家久とそれぞれ個性的な子たちに恵まれた。
義久は軍政両面、特に統率能力や状況判断力に優れ、義弘は戦国屈指の猛将で無敗の強さを誇っていた。歳久は知謀に富み、家久も勇猛無比な武将として知られ、かの沖田畷の合戦では龍造寺隆信5万の大軍にわずか三千人あまりで戦いを挑み、撃破した上にその首を挙げている。
義久の代になって秀吉軍と衝突するが、彼は家中の反対を押し切り、かなわぬと知るやあっという間に頭を丸めて降伏したのである。
これは臆病卑怯な行為ではない。彼は島津家の存続を第一に考え、最善の方法を瞬時に考えて行動したのである。
後に関ヶ原の際、行きがかり上やむなく西軍についたが、戦後素早く詫びを入れ本領を安堵している。これも義久の判断と指図である。とにかく政治力に優れた人物であった。
義弘の代になっても兄弟仲はすこぶるよく、こういう家は戦国では非常に珍しい。そのおかげで戦国の荒波をうまく乗り切れたのであろう。
剣術においても東郷重位により薩摩示源流が広まり、その強さは後々まで天下にとどろき渡った。
「島津に暗君なし」…この言葉には誰も異論はないと思う。
【日本の英雄島津氏】
明治時代に
帝国陸軍は長州の軍隊と呼ばれるほど長州出身者が幅を利かせていた
帝国海軍は薩摩の軍隊と呼ばれるほど薩摩出身者が幅を利かせていた
なぜ海軍が薩摩出身者が多かったのかというと島津斉彬公の近代化政策によって
幕末薩摩は反射炉や造船所など近代化のための施設があり、幕府につぐ軍監を保有していたために
近代兵器に特に軍艦の操船に慣れていた為である
帝国海軍は日露戦争においてロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で壊滅させるという
海戦史上に残る快挙を成し遂げている
よって島津氏は日本の危機を救った英傑であり英雄
【島津はカエサルより強い説】
肥前の熊・龍造寺隆信は宣教師ルイス・フロイスにカエサルに例えられた。
しかし島津はそれに寡兵で完勝した!
つまり島津>>>>>>>>>カエサル が成立!
【郷土食が支えた最強の島津軍団】
戦国時代、勇猛で強い軍団といえば、武田信玄の甲州軍団、上杉謙信の越後軍団、三河武士(徳川軍団)があげられるが
忘れてはならないのは命知らずの島津軍団である。秀吉、家康でさえ島津と戦う事を避けたほどだった。
島津一族を強力な戦闘軍団につくりあげたのが、島津中興の祖、島津日新斎忠良である。
日新斎は、古代国家の頃、その荒々しさで都人に恐れられた熊襲の子孫、隼人族(猛人ともいう)
を家臣としてとり立てて、軍団の核としていた。
この島津軍団の兵糧のひとつに「ちまき」がある。ちまきは本来保存食で、兵糧などの携帯食料として使用されていたが
薩摩のちまきは一風変わっていた。
(中略)
薩摩のちまきは、灰汁でつくることから「あくまき」呼ばれる。ゆうに二,三ヶ月はもち、しかも高カロリーなのだから、理想的な食料だったのだ。
また鹿児島の特産品「かつお節」も高タンパク、ビタミンB郡を多く含み、保存性の高さはピカ一。「武教全書詳解」にも
「かつお節は、薬にあらずといえども、時にして飢えに及ぶときには、これを噛めば性気を助け、気力を増し、飢えをしのぐのみならず、役に立つものなれば
必ず用意すべき事なり」とある。
鹿児島県では、豚や鶏は、歩く野菜といって食べてきた。これら古代以来の野趣に富んだ郷土食が、薩摩武士の体力を強靭にし、最強の島津軍団を支えたのだ。
【外科医でもあった島津義弘】
関ヶ原の戦いの、”敵中突破”で知られる島津義弘は、和歌や茶の湯のたしなみもあり、
文武兼備の名将であるが、さらに外科の医術にも通じていた。
得意としたのが傷の手当てである。合戦では、刀や槍を受けて負傷するケースはざら。
また傷が化膿しておでき、丹毒などの皮膚病を起こす事も多い。
武士たる者は多少の応急処置を施せるのが普通だが、義弘の医術はプロ級だった。
負傷者が出ると義弘自ら診察に出向いたという。
このとき、傷の専門家を伴い、義弘が診察した結果を確認させ、手当てを施させている。
義弘の医術は奥義を極め、家臣らに伝授もしている。
そのなかには、すでに医学を修得したものもいたというから、義弘の医術知識はかなりの域に達していたのだろう。
【文武両道の島津兄弟】
島津兄弟は戦バカというように見られがちだが
実際には学問・文芸の素質があり、
義久は古今伝授(選ばれた者だけ「古今和歌集」の全巻の解釈・秘奥が伝達される)を受けた。
茶の湯を愛した義弘は、千利休の弟子であり、また「維新公御自記」という著作も残す文人。
【島津軍の敵中突破】
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【幕末の島津隊】
1.薩英戦争 世界最強の英艦隊に敗れるも、大打撃を与える。
2.禁門の変 御所に攻め込み勢いづく毛利勢に突撃、これを壊滅させる。
3.万国博覧会の妨害 援助を求める為、フランスに赴いた幕府使節団は薩摩琉球国
の妨害に遇いフランスからの支援を受けられなかった。
4.鳥羽・伏見戦 討薩に燃える徳川勢1万5千を3千の兵で撃破。
5.上野戦争 黒門にて多くに死傷者を出すも、徳川勢を破る。
6.白河城攻略 2千強の列藩同盟軍の篭る白河城を7百の寡兵で攻略。
その後の戦局を一方的なものとした。
7.平潟上陸作戦 平潟海岸に強襲上陸。同盟軍頼みの伊達隊の総崩れ・上杉隊
の戦線離脱で同盟軍は次々と降伏。
8.長岡城退却 長岡藩河井の作戦で包囲された島津隊(毛利隊含む)。
敗走するも、同盟軍に激しく抵抗し前線に赴いた河井を
負傷させる。 その後、長岡を再占領。
9.会津侵攻 必死に抵抗する松平・丹羽隊を圧倒、帰趨を決する。
※ 西南戦争は薩摩を中心とした不平士族の反乱であって、島津隊ではない
【泗川の戦い】
背景
豊臣秀吉が死んで、朝鮮半島に侵攻中の日本軍にも撤退命令が下っていたが明と朝鮮の連合軍が黙って撤退を許すはずもなく戦闘は継続されていた。そんな状況の中で董一元率いる20万と称する明軍が泗川城に攻め寄せる。
泗川城は船舶の運航を守るために築かれた城で落とされたら退路を断たれて日本軍が全滅する危機にあったが駐屯していたのは島津義弘と島津忠恒率いる島津軍7000のみだった。
宗氏や立花氏が援軍を申し入れるが義弘は何故か断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つことになった。
経過
泗川には文禄に築かれた泗川古城と、慶長の役の時に築き上げてまだ完成していなかった泗川新城の二つがあって、古城に500の兵を置き、義弘忠恒親子は新城に駐屯していた。
明軍は古城に殺到。明軍に5000の損害を出るものの守備隊も150の損害を出して古城から撤退。古城陥落から二日後に明軍は新城を攻撃するが明軍の陣営の中にあった弾薬庫が爆発するという事件がおきる。
鉄砲の流れ弾が火薬にあたって引火したという説と島津兵が火薬庫に火をつけにいったという説があるがどちらなのかはわからない。
(また爆発したのは泗川古城の食料庫で、食料庫に蓄えられていた食糧を燃やすことによって籠城戦を断念させて短期決戦にに持ち込むために撤退時に爆破させたという説もある)
いずれにせよ明・朝鮮連合軍は混乱に陥り、その隙をついて島津軍は外に打って出た。
猛烈な勢いの前に明軍は後退するものの1万の別働隊で城の手薄な部分を襲わせるが、別働隊の接近に気づいた島津忠長が100騎だけでこれを迎撃。
苦境に陥るものの味方の援軍が間に合って迎撃に成功。義弘や忠恒も自ら刀を振るって敵兵を切り殺すほどの乱戦になるが島津軍の優位のうちに戦況は進み、明・朝鮮連合軍は京城までの後退をよぎなくされた。
この結果、連合軍は島津軍の報告では38717人、明の報告書によれば8万あまりの戦死者を出したという。この戦いにより島津義弘は「鬼石蔓子」と恐れられた。
勝敗の原因
明軍の敗因は短期決戦を選んでしまったことにあるだろう。
島津の軍勢は万にも満たない小勢であり、短期決戦を選んでも勝てると判断したのだろうが相手は日本一の強兵の島津兵であり確実を帰すのなら籠城戦を選択するべきだった。
いくら島津兵であっても食料が尽きれば戦うことができなかった。
ただ、明軍が短期決戦を選んでしまったのは島津軍が短期決戦をさせるように誘導していった節がある。
つまりは島津軍が得意とする釣り野伏せに明軍は引っかかってしまったというわけだ。
その後の影響
泗川を落とされていたら出口をふさがれたことになり、最悪の場合は日本軍が全滅していただろう。明軍を防いで陸路の安全を確保したことは大きな功績になった。
その事は五大老たちから高く評価されて文禄・慶長の役唯一の加増に預かったがそれ以上に重要なのは島津兵の強兵ぶりを天下に知らしめたことである。
後に関が原の戦いで西軍について存亡の危機に立たされたが本領安堵を勝ち取った原因の一つが泗川での戦功にあったことは言うまでもない。
また小林市では戦勝を記念して輪太鼓踊という舞踊が今に伝えられている。
【島津の強さ】
関ヶ原で驚異的な強さを見せた島津義弘の年齢は64。
これだけでも島津の強さは伺える。
のちに徳川に恨みを持った薩摩は大久保利通や、西郷隆盛などの偉人達を輩出し、
で徳川幕府を倒すことになるのである。
【島津>>>>徳川】
鳥羽伏見の戦いで5000の薩摩軍は15000の幕府軍に完勝!
つまり
島津>>>>徳川×3
【島津の相手は最強クラスばかり】
大量の支城と小京都と呼ばれた城下町を持ち隆盛を極めた伊東
同じく隼人の血を持つ肝付
名将甲斐を抱える阿蘇
毛利を九州から撤退させ、北九州の覇者となった大友
名将だらけの立花一族
フロイスに世界最高の英雄カエサルに例えられた肥前の熊龍造寺
表裏一体の筑紫
四国の覇者長宗我部
天下人豊臣
天下人徳川
力を合わせた朝鮮義兵
朝鮮の名将李瞬臣
超大国の明
島津家始祖の島津忠久の父は
惟宗広言
惟宗広言のプロフィール。
日向守基言の子。代々大宰府府官の家柄の出。
大宰少監を経て、文治二年(1186)、五位筑後守。
後白河院に今様の名人として近仕した(梁塵秘抄口伝集)。
勇猛な島津家は本来優美な歌人の家柄なんですね
無謀とも思える敵陣中央突破を敢行し、島津勢は義弘と豊久の指揮で家康の本陣を突くと見せかけ、そのまま戦陣離脱を図った。この時に島津軍の「捨てがまり」という戦法を用いた。
これは殿軍の真骨頂であり、己を犠牲にせねば到底なしえぬ戦法であった。
徳川勢の追撃を振り切り、義弘を逃がすために豊久は戦場に踏みとどまり徳川勢に応戦した。
豊久の戦いぶりは凄まじく、徳川でも屈指の精鋭・赤備えを率いる井伊直政に銃撃を浴びせ重傷を負わせ、家康の四男・忠吉にも大怪我を負わせた。両人ともこの怪我がもとで早世している。
しかし、多勢に無勢。豊久率いる島津勢はその数を減らしていった。やがては豊久自身も乱刃の中に倒れ伏した。父・家久を彷彿とさせるような壮絶な戦いぶりであった。
義弘が海路薩摩に到着したとき、その兵は数十人になっていたという。この島津勢の剛勇ぶりは語り草となり、その影響もあったかなかったか島津の領地は安堵された。
だが所領安堵の報を知っても義弘は憮然としてこう言ったそうである。
「豊久の恨み、末代までには晴らそうぞ」
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 00:21:11 ID:0pyTzOZl
島津奔るの全パクリだね
でも確かに島津は強いね
島津は薩摩という日本の端にいたから
天下を取れなかったし、また潰されもしなかった
そして奴等の強さは薩摩という風土によって初めて培われたものだね
ただ、それ故に村意識が強く部外者を受け入れない
結局、謙信と一緒で戦は強いが天下人には、なれない武将達だね
島津奔る自体がパクリだな。
ていうかまた島津厨が暴れているのか。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 00:42:17 ID:/ggTHvcB
島津奔るのどの部分がパクリなんだろうか?
島津義弘を題材にした小説なんて他に無いだろ?
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 00:48:08 ID:/R1fZrZR
島津奔る 盗作
で検索してみ
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 01:06:07 ID:/ggTHvcB
司馬遼太郎の関ヶ原と2ページ分くらい盗作疑惑が出ているみたいですね。
和田氏のスギ氏の絵画盗作と比べるとほんのわずかなものですが、絵画にくらべる
と小説は盗作に厳しい判定がなされるのかな?
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 02:05:05 ID:fi3EAhWt
また秀長軍にケチョンケチョンにされたいか、惰薩摩が!
それとも官軍の征伐が望みか?
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 17:02:42 ID:05iqWkLG
なんちか!おいたちと、はまっとか!?おなごんけっされん分際で!!薩摩隼人ん底力みせっくるんで、覚悟せいよ!
>>21 実際秀長強いし…
秀吉に隠れて地味だけど戦歴はもの凄いだろ
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 18:33:06 ID:ohmiem7y
豊臣・織田の野戦は野戦築城して篭るからな
敵にしてみれば実際は野戦というよりも攻城戦みたいなもんだからな
しかも島津は攻城戦は苦手っぽいしな
無理も無しというか島津家も勝てるとは思ってなかったと思う
秀長の大軍に囲まれている島津家一の忠臣山田有信を救出しないで見捨てるわけにもいかないだろうし
>>24勝てないと思ってるに和睦せんで戦う島津は頭カラッポの芋侍じゃー!
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 19:03:09 ID:ohmiem7y
>>25 といって九州征伐は九州各地の大名が島津家からの離反続きで
戦らしい戦もせずに退却の繰り返しの後に和睦すると家中が納得しないという理由があったのだろう
島津軍は強いでしょ
武士の子弟は農民の首を取る訓練をして、江戸期ですらその風習が続いてたんだから
剽悍というか残虐さは並じゃない
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 20:14:37 ID:05iqWkLG
俺は鹿児島人だが、そんな風習聞いたことないぞ!
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 22:12:11 ID:WHkwyvr6
島津の勝ちを認めるorz
>>27 江戸期の薩摩の士族の師弟は、磔が行われるとその死体にみんなで一斉に飛び掛り
一番最初にその死体から肝を取り出した者が勝ち、と言うゲームを楽しんでいたそうな。
>>30 それは外科医を目指す医学生の話だな
薩摩では江戸時代には、すでに西洋の外科医学を取り入れていた
ちょ・・・鹿児島人って残酷・・・
武士に限った話だろうけど
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/16(金) 08:05:45 ID:WQZOHVuy
島津貴久はアラブ種の馬を輸入していたらしい。
当時はかなり高価だっただろう...
繁殖に成功していれば相当強力な島津家の武器になっただろう
武田騎馬軍団は本当は存在しなかったというレスを良く見かけるが
もしもアラブ種の繁殖に成功していたら文字通りに島津騎馬軍団が出来ただろう
>>33 似てんだろうが、ちと違うのでは
島津貴久は ペルシャ馬
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 10:14:58 ID:Vx5CK66y
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 17:19:45 ID:D0NaUdfd
いやだから20万とかよしなさいって。
俺も島津ファンだがあんたたちみたいのいるから馬鹿にされて肩身が狭い。
20万なんて普通に考えてあるわけないでしょーが。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 21:08:46 ID:V/McvADb
サイト主に抗議してこい
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 21:51:58 ID:IX+pV8ts
明軍が20万と号していたのだから、別に20万と書いてもいいんじゃないか?
実際には明軍+朝鮮軍+義兵の正確な兵数なんて分からないのだし。
明が20万と号した?
明軍に「鬼石曼子」と恐れられた?
ソースは何だろう?
島津を石曼子と書いてる資料はあるんだが。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 22:47:00 ID:IX+pV8ts
>>42 明軍の総数五十六万、その十八万は順天に、他の十八万は蔚山に、而して
殘餘の二十万を以て、泗川に當つたと云ふ勘定だ(茜藩野史)
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 23:57:13 ID:LIKXVlNG
泗川の戦いは鉄砲だけじゃなくて、鉄砲、弓、大砲で敵をひるませて
城から繰り出して突撃、また退いて、鉄砲、弓、大砲で迎撃を繰り返して大軍を破った
島津義弘は明軍が短期決戦するように誘い込んだふしがある
それは泗川古城の500の兵を囮にした壮大な釣り野伏せ戦法と云われている
>>43 で?
それじゃあ明が20万と号したじゃなく数えたでは。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/18(日) 12:11:49 ID:/xjrApJJ
大友家との耳川合戦では島津の兵は皮革製の鎧のおかげで溺れることなく
川の中まで大友兵を追撃したそうだ
鉄砲導入といい島津家は合理的な戦をするね
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/18(日) 15:11:54 ID:tRpVJzBU
元々が武闘派戦闘集団だからじゃない?隼人族や白波賊に詳しい人いる?
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/18(日) 15:21:27 ID:2wedkujc
親戚の宮崎県のおじさんが、地元の砂土原城を島津に攻略された
とか言ってたな。砂土原って甲子園に出てたような気がするが。
泗川城の戦いって島津は
スターリングラードのソ連みたいなことやったんだよな?
包囲されつつも外にいた少数の島津隊が弱い部隊に攻撃してパニクって
さらに場内に進入した明軍は火薬が爆発起こして大混乱と。
これなら4万ぐらい死んでてもおかしくない。
50 :
山本七平:2006/06/19(月) 23:53:33 ID:GiCAmeue
義弘公の器量は大した物だったらしい。家康屠れば次は義弘って諸侯間の陰の噂。
如何せん傍系で地理的に遠いのが不運だった。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 01:35:25 ID:xuzNaz5d
島津は兄弟で1パック
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 01:44:57 ID:nlCxe46N
♪ダサツマになるよ〜
◎−◎ ◎−◎
((∩∴)д∴)∩∴)д∴))))
〉 _ノ 〉 _ノ
ノ ノ ノ ノ ノ ノ
レ´(_フ レ´(_フ
_■_ ________________
|∵∴∵|:::ー-ーーー-ー─ーー--ーーーー-ーー-ー,||
|∵∴∵|:::: ダサツマの系図 i ||
|∵∴∵|:::: ; ||
|∵∴∵|:::: 檀 君-──┬──文鮮明 :; ||
|∵∴∵|:::: │ | ||
|===|:::: 山 窩──白丁隼人 ! ||===-3
|∵∴∵|:::: │ ; ||
|∵∴∵|:::: マレー系土人─李氏朝鮮 | ||
|∵∴∵|:::: │ i ||
|∵∴∵|:::: 島 津 家 | || ◎−◎;
|∵∴∵|:::ーーー ーー- -ーー-ーー-ーー-ーー─|| (∴д(∴) <これがバレたらマズいでゴワス
 ̄■ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【ダサツマの秘密】
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 01:53:43 ID:xuzNaz5d
鹿児島人は世界中でモテモテだったんだな。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 10:18:08 ID:ZStAOHsl
織田・豊臣の野戦築城戦法にはちょっと辛いが
もしも野戦築城の準備する時間が無い状況で野戦になったら
島津は戦国時代最強だと思う
織田・豊臣軍なんてメじゃないだろね
島津軍の野戦における破壊力は超一級品だ
野戦の強さだけなら武田軍とか上杉軍とかの比じゃないね
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 12:11:23 ID:mnVoiabP
戦で苦手とか言ってられないだろw
不利なら有利な状況に持っていくのが名将
家康も城攻めが苦手で有名だが
小牧長久手では豊臣軍相手に戦術で打ち勝って一寸の領土も削られなかった
やはりこの辺りが天下人と地方留まりの差だな
武田も城攻めヘタだお。
なんで武田は叩かれないのか不思議でしょうがないお。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 16:09:57 ID:KZSFXTWp
武田には真田幸隆が貢献しているからねえ
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 16:17:51 ID:KZSFXTWp
>>55 ちょっと状況が違っているから
家康の場合は守りだったから、じっくりと敵の動きを見ていれば良かったからね
島津の場合は山田有信救出戦だから
島津のほうから野戦築城敵陣地に攻めていかなければいけなかったからな
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 18:14:17 ID:nlCxe46N
立花宗茂
道雪出兵中に立花城に攻め寄せた秋月種実8千の軍を留守隊5百で撃破
島津忠長5万の軍を2千の兵で豊臣からの援軍上陸まで防ぎきる。撤退にかかった
島津軍に追撃をかけ追い払い、高鳥居城を攻略、さらに奪われた宝満城、岩屋城を
即座に奪い返した
志賀親次
豊薩戦争の折、肥後口から豊後に侵入してきた島津義弘軍3万7千の軍を恐れ内通しようと
した父を切腹させ岡城の城主となる。島津軍は兵をいくつかに分け岡城他の豊後の各城を
同時に攻略する作戦にでたが、岡城(千の軍と言われているが7万石×300で実際は2千くらい
あったと思われる)に攻め入った軍(新納忠元が指揮したと言われている)は3度に渡り撃破され
しかもその内の1戦においては島津得意の釣り野伏せを模した戦法で破られるという屈辱を受け
ている。岡城攻略をあきらめた島津軍は稲富新介に5千の兵を与え志賀軍に備え主力を北上さ
せるが、功を焦った稲富は独断で岡城を攻め親次に散々に打ち破られた。
佐伯惟定
豊薩戦争の折、日向口から侵入してきた島津家久軍(これも約1万の軍をいくつかに分散し佐伯
栂牟礼城(2万石×300で600+伊東家の残兵等で千くらいか)には家久の子豊久が攻めてきた)
島津からの使者を切り惟定は伊東家からの客将山田匡徳と組み惟定が正将として豊久軍に正面
から当たり注意を引いたところを匡徳が奇将として奇襲をかけるという戦法(立花道雪の正と奇の
軍法を模したと思われる)で島津軍を撃破した。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/20(火) 18:52:16 ID:1D3leh6W
>>56 信玄よりも勝頼のほうが城攻めは上手だよね
なのに勝頼は評価が低く、叩かれっぱなし
ちょっと気の毒w
>>58 そういう状態に陥る時点でマズイ
家康は相手の大軍に自分から動けば負けるのは分かっていたから
豊臣軍を釘付けにして長期戦に持ち込み
混成軍の弱みである統率のほつれを待つという作戦を確実に遂行した
開戦時から戦略を明確に持ってそつなく熟していける力量はやはり他より秀でている
ただ戦術が巧みなだけの人物はいくらでもいるし
それだけでは一流とは言い難い
第一、豊臣軍は疫病で撤退も検討していたほどだぞ。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/22(木) 23:35:35 ID:c4rwt249
豊臣軍が来る前に大友を滅ぼす事が出来てたら、状況も違ったのかも。
上陸が難しくなるし。
島津も実際そうしようとしてた。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 02:13:47 ID:pQ3ScHM1
高橋紹運が命をかけて頑張って時間かせぎしたからね
大友家は良い家臣がたくさんいるよな
ただ九州征伐は実際の戦闘以前に黒田如水の謀略作戦で島津家に従属していた
大名たちを内応させていたからな
九州統一している事が黒田如水の謀略作戦の障壁になったかどうかは疑問だ
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 08:08:57 ID:0ydzMwqB
早々と長曽我部か毛利あたりの領土まで征服していたなら秀吉と五分で戦えたと思うけど田舎大名の島津より物量で遥かにシノグ人たらしの秀吉に付く方がおいしそうだもんな〜ましてや口の達者そうなカンベ〜が調略してくれば皆寝返りするするわな、そりゃ
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 08:50:25 ID:0ydzMwqB
↑ちょうそかべ、漢字間違ってる
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 11:14:59 ID:wC7Rr20Q
如水の謀略は、手当たり次第に寝返り勧誘の手紙をばらまいたらしいね
それで島津配下の大名達はお互いに裏切るのではないかと疑心暗鬼に陥ってしまったらしい
オレが島津義久だったら鍋島直茂なんてくせものは早いうちに何とかして降ろして、
島津家の一門衆を大名にしておいただろうなあ
鍋島直茂なんて絶対に裏切るのは見えているからなw
織田信長も当時は朝廷の忠臣と見られていたが
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 01:42:05 ID:dXfHcw2Y
?
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 02:47:51 ID:h+zQWXH0
島津は兄弟が仲良さそうで仲良くないからな
島津家家臣の子孫が来ましたよ。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 12:30:45 ID:8I1HvvWx
義弘は義久をすごい尊敬していたぞ
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 14:19:37 ID:dXfHcw2Y
義久は家事全般こなす良妻型で義弘は外で一生懸命に働く親分親父型だな
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 14:32:35 ID:h+zQWXH0
ん〜説明するのめんどいけど義引と義久は晩年は仲は良くない。後秀吉の九州征伐の時とか
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 14:47:42 ID:dXfHcw2Y
島津って兄弟じゃなくて夫婦じゃ・・熟年離婚寸前
愛が冷めたか
家久って、島津ファンの間で評価低いの?
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 18:50:38 ID:fJZOLINV
戦が上手なのは家久が一番なんじゃないの?
義弘は戦上手とかじゃなくてカリスマ一番
強力なカリスマで兵の力が2〜3倍に強化されるみたいな
家久だけは母親が違うからなあ。
ブッコミで神経すり減らす役どころだわ真っ先に毒殺説は立つわで
当人たちにとって家久だけは、日新斎が言うほど兄弟意識はないかもね。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 19:03:12 ID:fJZOLINV
義久は戦では、あまり評価される事は少ないが
耳川の合戦を知った家康は「義久の鬼謀、まことに恐ろしい」
と感想を漏らしたとか。
歳久はたった一人、豊臣家からの大友家との和平調停を呑むように主張した
しかし、島津家が降伏後は、反豊臣レジスタンスと化す
情勢を正確に読む力がありながら、無謀と思える反抗は謎が多い
一説には歳久が島津家内の反乱分子を集めて、自分もろとも一掃するための策だったとか
鹿児島では4兄弟の中で歳久がもっとも尊敬されているらしい。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 19:09:40 ID:fJZOLINV
家久は年齢が離れすぎているから
兄弟の中では気楽な立場から大胆な行動をしていたのだろう
早い時期に一人上洛して、明智光秀の茶席に招待を受けていたり、
信長軍の行進を観たりした感想が残っている
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 21:20:56 ID:RRkh3DAO
島津に暗君なしとは良く言うが、出自や養子に出された経歴を差引いても
十四代目当主の島津勝久は明らかに当て嵌まらない黒歴史。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 22:25:52 ID:6G9RrG32
宮部>>>>>越えられない柵>>>>>義弘、家久
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 23:09:44 ID:jZULoVkK
おい!
島津オタのオマエラ!
島津日新斎
島津貴久
島津義久
島津義弘
島津歳久
島津家久
こいつらの活躍を一人一人、具体的に説明してくれ!
島津歳久→妊婦の守り神
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 12:27:46 ID:fNQDlTZV
鹿児島の守護神
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 12:57:11 ID:aIj36mCB
島津義久と島津義弘は豊臣政権との関わり方で態度が大きく異なっていたのだけど
義久と義弘は本気で対立していたのだろうか
なんとなく「やらせ」で義久は薩摩人の敵愾心を保つために豊臣政権からの独立独歩を印象づけ
義弘は豊臣政権からの圧力逃しのために豊臣政権の協力していたような気がするのだけど
どうだろうか?
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 17:17:01 ID:HDM8WAbE
現加治木島津当主の義秀さんの切れ長な目が義弘の肖像画とそっくり
島津義久
陰険じじい。根暗。上方情勢に疎い。
家督を譲る前までは耳川に自ら出陣し勝利に貢献。
対して遥か後方にいた大友宗麟は大敗。
沖田畷では有馬からの出馬要請が来ると機敏に兵を派遣し勝利に貢献。
WW2の南雲、栗田の出し惜しみに比べると勝てる戦に出し惜しみが無く決断力がある。
家督を譲る前までは有能な人だったのだろう。
島津義弘
戦国時代トップクラスの戦術家。
ただの戦屋でないのは
>>8の木崎原の動画を見れば一目両全。
戦では無頼の強さを見せるものの戦略家としては2流の評価が多い。
島津歳久 これと言った活躍無し。
島津家久
戦国時代恐らく最強の戦術家。
島津一の戦上手と当時から言われていたらしい。
ただの戦屋でないのは沖田畷、戸次川の戦法を見れば一目両全。
早死にしてなければもっと有名になっていたかもしれない。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 19:54:45 ID:If0w+sm6
義弘、家久らは2万の軍勢でもって高城に向けて進撃した
豊臣軍へ和議を申し込み油断させ
宮部ら1万5千の守る陣へ夜襲をしかけた
しかし宮部は夜襲を見抜き柵を植え掘りを深くして待ち構え反撃を行った
義弘、家久らは一陣二陣と破り宮部の本陣に迫るも朝を向かえついに抜けず
豊臣方に続々集まる援軍の攻撃に耐え切れなくなり
700余りの遺体を残して敗走した
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 21:39:25 ID:YukMO7q7
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 22:17:46 ID:C63VmbQg
>90-91
後からどんどん加筆+添削可能なwikiもたいがいだが
そのaskanetの中の人もトンデモ本を参考にしたりしてたいがいですよ?
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 23:18:39 ID:LA/C5aRA
中の人は地元民だけどね
お知り合い?それとも本人降臨?
いや勘違い。
96 :
しまづよしひさ:2006/06/26(月) 16:42:51 ID:uzqitnG3
歳久の事を貴方にちゃんと知って欲しい
おれあんましらんけど
大抵の鹿児島県民は島津について殆ど知らない。
丸に十字の紋と義弘と斉彬。これだけ、合戦の場所も何をしたかも知らない。
学校でも特に触れないので歴史に興味のある人で無いとまず詳しく知る事は無い。
誰でもそうだけど興味が無い事は覚えられない。
残念な事に若い鹿児島県民は歴史の楽しみ方を知らない。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/26(月) 18:46:44 ID:gcErC60h
島津なんか学校で習うわけないだろw
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/26(月) 18:57:37 ID:jT9X+PlJ
なぜだろうね?
鹿児島の人にとっては幕末の西郷さんの存在が大きいのはわかるが
戦国時代のゲームはやらないのだろうか?
やれば、戦国時代に活躍した島津家を選択すると思うのだが
島津ファンは他県の人間が多いと常々思っていた
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/26(月) 19:01:04 ID:jT9X+PlJ
あ、自分が他県人だからと言って他も他県人かどうかは分からないか?
でも島津ファンは他県の人が多いような気がする
オレにとってはアンチの人が時々やるような鹿児島県民貶めがまるで煽りになっていなかったんだよねw
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/26(月) 19:30:52 ID:gcErC60h
島津は知名度皆無に等しいから
鹿児島で人気ないならどこでも人気ないかと
西郷、大久保は有名だけどそれに島津家は繋がらない
>>101 島津で無いって言ったらさらに悲惨な大名や武将多そうだな
俺みたいに御当地がマイナーかつ有名所に囲まれてる人間には羨ましい限りだ
>>99-100 そこで鹿児島出身のオイイズヒア。
なんだかんだ言って、「歴史」というジャンル自体マイナーだからねえ。
一般人の知ってる地元の偉人なんて、そんなに数いないんじゃないかな?
近代に中央で出世した人が多数出れば、そっちに持ってかれてしまうのはわかる。
でもその明治にしたって、鹿児島じゃ首相クラスでもロクに名前知らないんだよね。
>>97の「歴史の楽しみ方を知らない」というのがすごーくわかる。
とにかく、過去の栄光に目が眩んじゃってる感じ。今が零落れてるだけに。
だから西郷一辺倒で、大久保は嫌い。
維新さえなければ、四兄弟も人気高かったと思うんだけどね。
そうそう、義久スレの住人には、結構他県人が多い印象があるね。
ちなみに自分は北条オタで、島津はそんな詳しくないw
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/26(月) 23:20:54 ID:9zsVuitt
北条オタw
なんか、マニアックな趣味だな
俺、思うんだけど
○○家オタでランキングつけるとしたら
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/26(月) 23:24:49 ID:S2tggL0V
薩摩島津家がいやだったら信濃島津家や越前島津家に萌えりゃいいじゃん
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/26(月) 23:28:48 ID:9zsVuitt
1織田 2武田 3上杉 4伊達 5真田 ←ここまでが接戦
6毛利 7豊臣 8徳川 ←ここまでが接戦
9島津 10大友 11北条 ←ここまでが接戦
こんな感じじゃね?
>>104 まあ、北条は良く言えば通好み、悪く言えば地味で華がないからな。
そんな俺も北条オタ。
神奈川人だけど別に北条好きじゃない。
俺の知り合いも北条好きって人いないなぁ。
そんな俺は島津大好き。
>>100の言うのに当てはまるな。
三好と今川と竜造寺も接戦しています。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 18:39:30 ID:NWYF5afx
◆鹿児島は在日国家
島津は、農民たちを奴隷のように酷使し過酷に絞り上げ、厳しい階級社会を作った。
まるで中国や北朝鮮のような社会。
おまけに犬が郷土料理。
犬を食べることがそんなに珍しくなかった江戸庶民でさえ、川柳を作って薩摩人の
犬食いをバカにしたほど。
まさに在日国家。
◆鹿児島のトリビア
小泉純一郎の父であり、横須賀港湾ヤクザとして名高い小泉家に婿入りした
鮫島純也は、鹿児島の在日朝鮮人・帰化人の加世田部落の出身。
そして在日の北朝鮮帰国事業「地上の楽園計画」の初代会長でもある。
◆島津軍の残虐行為
「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後国に連行されて売却された。
その年、肥後の住民は飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養う事さえ、おぼつかない状態であったから
買い取った連中まで養えるわけが無く、彼らはまるで家畜のように高来(島原半島)に連れていかれた。
(中略)
時に四十名もが一まとめにして売られていた。 」
「最大に嘆かわしく思われた事は、
薩摩勢が実におびただしい数の人質、とりわけ婦人、少女、少年を拉致するのが目撃された事である。
これらの人質に対して、彼らは異常なまでの残虐行為をあえてした。 」
ルイス・フロイス『日本史』より
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 18:56:17 ID:AY1XyKrz
山内上杉家マニアの人居ますかぁ?
北条はミーハーなファンがいないんだよ
何故かと言うとゲームで地味だから
北条の評価点は政治的なものだから安易なヲタは受け付けないようだ
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 21:00:54 ID:M4dBxHLD
島津厨=ゲーム厨
>>111 太田道灌ファンはいても、山内だの扇谷だののファンは居るまい。
子孫=ファンくらいかねぇ
あとは超地元とか
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 12:25:06 ID:en3lyE21
なんで鹿児島が在日国家なんだよww
徳島と並んで日本で在日の数が一番少ないって統計出てるじゃねーかw
加世田は島津家の直轄領だっつーの。大きな河川があって米が獲れたからな。
小泉の親父は特攻基地のあった万世出身だぜ。
鮫島氏に詳しいなら戦国期に名前の出てくる鮫島宗政ぐらいは聞いたことあるだろ。
鹿児島はガチガチの保守だからサヨクや宗教の入り込む素地はないよ。
昔から海軍関係者多いしな。海保も多いぞ。奄美以外は自民の圧勝地域。
在日に支配されてる他の地域の人はよう分からんけど苦労してそうだな。
鹿児島は市内にも殆ど外人おらん。
鹿児島の支配階級は朝鮮系
民衆はフィリピン系
118 :
↑:2006/07/01(土) 14:59:26 ID:ZTmL4PPQ
じゃ、こいつみたいな粘着アンチの正体はw
しっかし・・痛いスレだなぁ
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 15:52:48 ID:Xbsq12FY
>>110 > 鮫島純也は、鹿児島の在日朝鮮人・帰化人の加世田部落の出身。
鮫島家は貝殻崎城城主だったこともある
在日でもないし、部落でもない
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 16:33:26 ID:MjCej3LT
薩摩に居住していたのは隼人族(一般的には南方系と言われる)
その後入植した惟宗氏(朝鮮渡来)の一族である島津氏が支配した
粘着アンチうざす
>>121 隼人族は縄文人(日本の原住民)の一派。DNA的には一般的な日本人(朝鮮半島由来の弥生人)より
沖縄人やアイヌ人に近い。戦国時代に豊後から万単位の奴隷を連れ帰ったため、やや弥生系と混血しているようだ。
日本はけして単一民族国家じゃないよ。
隼人は二重のつぶらな目、濃い髭、南方系を思わせる風貌、アルコールに強いことが特徴。
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 00:02:50 ID:tg0hcli8
島津氏は
明治時代には以仁王の遺子の末裔と称していましたけど、本当の所はどうなんですかね?
鎌倉御家人だから、どこかに根拠はあるんだろうな。
ウィキでは
しかし、惟宗(島津)忠久が惟宗広言の子であるかどうかははっきりせず、
また「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局が源頼朝の側室で、
忠久は頼朝の落胤」とする説が『島津国史』や『島津氏正統系図』などに記されている。
しかし、学会では島津氏の頼朝後胤説は大友能直の頼朝落胤説ともども、
偽源氏説として否定する意見の方が強い。
現在も島津氏の忠久以前の系譜については定説が無く、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
頼朝の抜擢の背景を解明するためにも研究課題となっている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
島津忠久(しまづただひさ、治承3年12月30日(1180年1月28日)
- 安貞元年6月18日(1227年8月1日))は島津氏の祖。
秦氏の流れを汲む惟宗忠言の子とされる。
母は比企能員の妹・丹後局。妻は畠山重忠の娘。
こんきよく調べれば根拠くらいみつかる!
秦河勝-石勝-百足-足国-伊波太気-秦足長-智奈理-氏継┐
┌-----------------------------------------------┘
└惟宗永厚-具範-広孝-貴重-孝近-孝言-基言-広言-忠久
秦氏で広言(忠言)まで繋がる系譜ってこれくらいしかないんだよね。
まあ惟宗氏は鎌倉と朝廷を結ぶ何らかの仕事してたんだろ。
九州南部はもともと平氏勢力が幅利かせてたから
島津荘(都城)への任官は源氏勢の扶植を狙ったものってのは分かるが。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 04:37:32 ID:fEndgfQh
島津は関東のエタあたりが薩摩に流れて成り上がって
頼朝に献金して守護職もらったんだろ
エタ頭の弾左衛門家と同族ぽいし
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 09:43:17 ID:IiJdHSkY
歳久の戦績が余り残ってないのは、秀吉、義久に抹消されたからですか?
義久は歳久を大事にしていたみたいだよ。
なるべく戦場に出さないように自分の側で仕えさせていた。
加世田は伊作から移った島津日新斎の隠居地だからな。
城下町として整備されて"麓"の地名も残ってる。江戸時代も地頭を置いて直轄領。
現在も小さいながら武家屋敷の跡が見れるよ。知覧みたいには大規模じゃないけど。
小泉の親父・鮫島純也の出身地は東加世田村にあたる万世小松原。
ここは昔は河口を利用した海運が発達して坊津や片浦と並ぶ商人の港町。
江戸年間に大洪水が起きて河口が数km移動して貿易港としては廃れた。海運商としては丁子屋などが有名。
日新斎が健在の頃は三男の島津尚久に鹿籠(枕崎)の地を与えて南薩摩を統治させてた。
また倭寇の拠点でもあったと思われる。尚久は倭寇の頭目みたいな感じだったとか。
ちなみに歳久は薩摩平定戦にはかなり駆り出されてる。んで負傷。
まあ薩隅平定の大将は忠将みたいなものだから殆ど目立たないね。
その後は病気がちで義久について領内統治に加勢助力。
それと相良に対する出水の義虎、大口の新納忠元の後詰みたいな形かな。
歳久が祁答院の領地を治めていたところを見れば大体想像出来るのでは。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 16:11:07 ID:oeSwtNYA
有力御家人の比企氏の娘が母
また有力御家人の畠山氏の娘が妻から考えると
島津忠久は鎌倉幕府のかなりの有力者だったのだろうな
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 16:51:32 ID:g4m4uotO
有力者が薩摩や大隅にいくわけないだろ
当時の薩摩なんて僻地も僻地
今で言えば月の裏側に転勤になるようなものだ
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 17:37:36 ID:fSoAguT+
もっとも偉大だったのは斉彬公でしょうな
島津斉彬公が存在しておられなかったら維新の原動力となった強国・薩摩もなく
西郷もなく、従って維新も成功できなかっただろう
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 19:14:43 ID:2oHjtmlB
質問なんですが、薩摩藩に先田某という武将は実在したのでしょうか?
昔接客業をしていた頃、お客さんに「あなた珍しい苗字だね。確か薩摩藩に
先田ナントカって武将が居たんだよ」と云われた事があります。
苗字の由来を調べていたら、「出自不明ながら鹿児島に多い」と明記されて
いたので何か関係あるのかな?とは思いましたが、いくら検索しても
分かりません。
>>137 下向したのは三代目の久経の時代。久経は昼番衆。
忠久と忠時は鎌倉にずっといた。
なんで久経が薩摩に行ったのかってのは元寇があったからなんだよ。
要するに筑前の防備のためには自ら所領に出向いて軍勢集めなきゃならなかったんだな。
元寇がなかったら平安の荘園領主と同じでずっと鎌倉にいただろう。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 01:42:29 ID:Mi0D7EF6
それに忠久は薩摩守護 、大隈守護 、日向守護のほかに越前守護にも任じられてますね
数年で殺人事件起こして没収されたけどな
ボッシュートされたのは比企能員の変の連座だろ
北条の邪魔者排除の仕方はいちいちエゲつないよな
まあ権力志向の者にとっては必要なことだが
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 11:04:33 ID:Mi0D7EF6
>>137 その他に島津忠時は若狭守護にも任じられている
島津家といえば南九州だけではないよ
承久の乱後に忠久は越前守護だし
忠時は若狭守護も含め鎌倉時代の話
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 23:26:47 ID:M4ZWeztH
仁安2年(1167年)頃、頼朝は伊東祐親の下に在った。
ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。
しかし祐親が在京の間にその四女と通じて子千鶴丸を成すと、
祐親は激怒しさらに平家との関係を慮り千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に沈め四女を北条義時の妻とし頼朝を討たんと企てた。
一部では千鶴丸は生きていて、甲斐源氏逸見氏に預けられ、
島津忠久となり九州の大名島津氏の祖となったとされているが傍証はない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 10:14:38 ID:afjb0oiZ
何かなければ頼朝から幼い子供が抜擢されるわけないからな
頼朝のご落胤、以仁王の子、いずれにせよ島津は貴種だろう
これを系図の仮冒という。
>>147 出が卑しいから出自を捏造しなきゃならないんだろw
惟宗氏の後は藤原氏を名乗ってその後に源氏を名乗るぐらいだから
余程いい加減な出身なのは間違いない
戦国時代ぐらいまでに造られた石碑などにはみな藤原姓で書かれているが
酷いものは藤原の「藤」の字を削り取って「原」にサンズイを付け加えて「源」にしたものまである
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 15:41:40 ID:afjb0oiZ
>>149 出が卑しい人間が成り上がれるのは、実力が相当あって世の中が戦国時代のような乱世の場合だな
しかし忠久が頼朝より島津庄の下司職を命じられたのは1185年
忠久は1179年生まれなので6歳の幼子、実力も何もあったものじゃない
1189年には奥州藤原氏攻めで軍功を上げている
10歳の子供が軍功を上げるということは、よほど家中がしっかり補佐していたのだろう
それらは子供の実力というよりも、しっかりした由緒があったと考えた方が納得できるだろう
それから出自を曖昧にしていたのは、比企能員の変で連座され断罪されたように北条氏を刺激しないように
との自己防衛のためだったと思えますね。
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 19:01:02 ID:mpRIbp5P
島津が藤原や源氏を仮冒するのは勝手。
しかし姓は家にあって養子を取ろうと誰を祖に仰ごうと変わるものではない。
同じように頼朝庶子を名乗る大友氏や八田氏ですら公式には藤原姓。
中世以前にあって姓を節操なくコロコロ変える一族。島津氏くらいしか例がないのではないか。
中原氏→比企氏→北条氏と上司を代えた下級地頭からの成り上がりが真相に近いだろう。
貴種ならば姓を変える必要も出生秘話の必要もないのだから。
藤原氏つーのは今さら別に不思議じゃないだろ。
嶋津荘は摂関家の荘園として近衛家と密接な関係あるんだから。
元々惟宗氏は近衛家の被官でそのパイプ役として早い時期から頼朝と
関係持ったつーのが今の有力な説なんじゃねーの?
実朝暗殺後の摂家将軍擁立にも協力して動いたとか見たことあるが。
薩摩に先に下向した家臣の本田氏や酒匂氏見れば割としっかり家として組織されてる。
それに重要なのは明との貿易が絡んでるからな、島津の場合は。
姓とかに関係なく名義の使い分けは昔からやってたみたいよ。
まあ現代から見ればそこらへんどうでもいいとは思うんだけどね。
貴種言うなら既に皇族とも関係持っちゃって皇后出したわけだし。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 14:02:39 ID:HPo1UOz5
頼朝説は島津が捏造した偽史。
忠久の墓石まで動かす念の入れようはちょとコワイ。
歴史捏造は島津のお家芸で、
その才覚は維新後の皇国史観に結実した。
いいんじゃない、殊更貴種でなくても
でも皇国史観に薩摩はタッチしてないし
蘇我王家だか九州倭王朝だかは知らないけど、
そもそも書紀が出鱈目なわけだし
記紀を出鱈目と一刀で切り捨てるのもどうかと思うが。
どうやら惟宗姓が落としどころだな。
そうかな?
何かの目的で真実を隠してると思うがな
その何かは意見分かれるが
系図を眺めてるとね、鎌倉〜室町初期間。
実名の付け方が時代とずれてるっぽいんだよね。
ごめんな紀記の話だった
島津は最初の惟宗が妥当と思うよ
一番最初というのが味噌で、理由があってかわってるんじゃ
同じ九州守護職の大友・少弐は藤原氏や中原氏と絡んで
鎌倉初期の頼朝との関係が島津氏と似たり寄ったり。
既に江戸時代に否定されてた頼朝落胤説とかどうでもいいでしょ。
そんなもん現代でも真面目に語ってるやついないし。
既に800年近く続いてるっつー事実と、天皇家と同じで
これから先どーやって家を絶やさないようにするかが大切。
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 00:53:06 ID:xq/lO9hs
四兄弟ばかり目立つが、島津忠長もかなり優秀。
以久なんか日新斎の孫なのに。
『垂水市史』『垂水市史料集』などを読むと以久とか忠将とか
鹿児島県史や宮崎県史についての一般的な本に書いてある物とはイメージが違う
以久は篠山城建設時に家康の命で上洛させられたときに
細川忠興とケンカして憤死したと上記の本にはあるが・・・
細川家と島津家は当時は比較的良い関係だっただけにちょっと信じがたいが
以久は1610年に60歳で亡くなってるわけだけど死ぬ前までは
割りと元気だったらしいからな。
嫡子の佐土原2代目藩主・忠興がそのとき11歳という
幼少だったこともあって不穏な噂が流れたんだろう。
薩摩本家の義久の後継問題もあったし。
どいう経緯で貴久が島津本家に入って、乗っ取ったか簡単に教えて。
本家の忠昌が自殺
→その後長男忠治、次男忠隆が後を継ぐがどちらも相次いで若死に
→他家の養子に出されていた三男坊の勝久が急遽本家を継ぐが政権基盤が脆弱
→有力分家の薩州家をの援助を目当てに実久の姉と勝久がケコーン
→ところが実久が権力を握りやりたい放題
→勝久に守護職を譲るよう実久が迫る
→横暴に耐えかねた勝久は実久姉を離縁
→今度は相州家の忠良を頼る
→忠良は勝久と貴久を養子縁組させることを条件に協力
→貴久の元服と同時に守護職を禅譲、勝久は隠居
あとは三つ巴の内戦の後、貴久親子が薩摩を抑える
忠良の横暴に耐えかねた勝久が再度實久を頼る
・・・が抜けてる。
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:11:54 ID:HOqz1wlt
島津最強
やっど
義久には男子はいなかったの?
なんで大河で島津を取り上げないんだ?山内なんてマイナーなのをやる必要はない
>>171 ヒント『日本の隣の半島で大活躍』
戦国島津を語る上で避けて通れないネタだからな。
明治維新の頃なら大河いけるんじゃね?
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 05:02:13 ID:zb2GuJkF
もうやったような
「俺たちは西郷さんがいるから、戦国時代の島津なんかどうでもいいや。」
by鹿児島県民
鹿児島県民は8公2民の暴政を強いてた島津家を恨んでるだろ。
あぼーん
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 02:12:30 ID:lhwTTMVb
島津義弘
朝鮮征伐時も豊臣の圧力を理解しない本家の増援はほとんど無し。朝鮮征伐で兵員、
兵站の確保に四苦八苦、そのため寡兵で大兵と戦わなくてはなら無かった。
出征の段階で本家の支援と事前の準備が整わなかった性で、出征が諸侯より大分遅
れた。商船に頼んで乗せて貰った等の記述有り。
露梁海戦
和議を破り明軍・朝鮮軍が撤退部隊を包囲、その救援に日本水軍が行った海戦。
日本側の被害
足軽 戦死者300〜500人前後、捕虜180、溺死者不明
軍船 200隻、拿捕100隻(輸送船を多数流用)
将校 戦死者無し
朝鮮・明
一般兵 不明
軍船 拿捕朝鮮船四隻・明船2隻(征韓録による)、他は不明
将校 ほぼ壊滅
その後、明・朝鮮軍は日本軍の撤退を邪魔出来なかった。将校の被害から朝鮮・明軍は
ほぼ壊滅と見た方が良い気がする。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 15:31:49 ID:H9c0pqA/
SI 俺たちはいつも二人でひとつだった
地元じゃ負け知らず、そうだろ?
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 15:45:21 ID:H9c0pqA/
義久と義弘
「戦国アミーゴ」でした
板違いだが、王朗と厳白虎「三国アミーゴ」
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 19:33:25 ID:/pQ1XGVE
(´w`)<島津を始末するナンチテ
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 22:22:15 ID:l1jSanr1
島津氏
「丸に十字」紋は、島津宗家の家紋である。
島津氏(しまづし)は、鎌倉時代から江戸時代まで続いた大名である。
守護から戦国大名へと自己形成し、また江戸時代には外様大名・薩摩藩主として存続した。
全盛期は、薩摩国を中心とした南九州を領有し、初代島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の3国の守護に任じられた。
鎌倉時代より脈々と続いており、越前、信濃、駿河に支流としての島津氏が派生している。
出自・島津庄の荘官
島津氏は、秦の始皇帝の末裔と称する渡来人の秦氏の子孫の惟宗氏の流れを汲み、
惟宗基言の子の惟宗広言が主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の島津庄の荘官(下司)として九州に下り、
その子の惟宗忠久が 、源頼朝から日向国島津庄(宮崎県都城市)の地頭に任じられ島津を称したのがはじまりとされる。
現在の宮崎県都城市が島津家発祥の地と言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 00:04:42 ID:XmsMv43/
徳川、島津、大友、みんな家系捏造が大好きだね。
惟宗姓なら捏造じゃないと思うけど。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 06:52:10 ID:p+GYiMhW
島津、大友のような鎌倉時代からの由緒正しい家柄と
徳川のような成り上がり大名を同一視すんなよ
島津、大友なんてどこの馬の骨か分からん奴のどこに由緒があるのかと
伊集院忠棟って、最近のコーエーの信長シリーズではどんどん評価が落ちてるね。
秀吉にも気にいられて8万石を与えられるくらいだから、内政官のみならず、武人としても優秀っぽいけど・・
忠倉に至っては凡将みたいだしね。
新納忠元なんか猪扱いだし。
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 21:25:10 ID:p+GYiMhW
>>186 鎌倉時代からの守護大名というだけで戦国時代では十分過ぎるほど由緒あると思うけどね
>>187 最後がマズーですからね>忠棟
>>188 忠元は事実庄内の乱での行動はいの(ry
忠倉はほとんどと言っていいほど活動実績の史料が残ってないのが痛い。
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 15:22:12 ID:2wkBUEta
>>186 鎌倉時代以前の島津忠久の父である惟宗広言は平安貴族で歌人として有名。
立派な殿上人なんだから、どこの馬の骨ともわからないなんてとても言えない。
そんな事言っていたら、戦国大名のほとんどは鎌倉時代何やっていたのかわからない
馬や牛の骨ばかりになってしまうぞw
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 15:49:24 ID:+1XKvOX1
島津の場合はあくまで推測でしかない
惟宗氏の子孫ではないだろうかと言われているだけで
実際よくわからない
それを示すものも残っていない
島津自身も何度も先祖変えてるぐらいで
凄くいい加減なものでしかない
素性が明確ならわざわざ詐称する必要などないし
島津は弾左衛門と同じ出生伝説をもっている
家紋まで同じである
案外島津もエタ出身だったりしてプピ
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 16:05:36 ID:2wkBUEta
>>192 惟宗氏出身なのは確実だろう
鎌倉時代に頼朝から出された地頭職任命の下文にも
惟宗忠久と書かれている
ただ島津家では惟宗広言の養子であり、頼朝のご落胤と伝わっているという伝説があるだけ。
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 16:18:47 ID:+1XKvOX1
そもそも忠久自体がどういう人物なのか不明であり
忠久以前に繋がるものがない
それで藤原名乗ったりしたが
いつの間にか源氏に変わった
室町時代頃は藤原と源が混同していて
藤原と書いてあるものもあれば源と書いてあるものもある
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 16:44:00 ID:2wkBUEta
>>195 先にも書いたように幕府から出された下文にも惟宗忠久と書かかれているので
惟宗氏出身だと思うけれど、島津家では惟宗広言の養子であり、頼朝の落胤と言っているのだから
決め付けないで「不明」ということでもいいです。
ただ忠久は実在したのは確かで鎌倉幕府の守護大名に任命された人物であるのだから
鎌倉時代→室町時代→戦国時代→安土桃山時代→江戸時代
と大名として生き残った名家なのは間違いなく
戦国期に家を起こした新興勢力の多い戦国時代を語る板において
>>186のように、その島津家を由緒正しい家柄じゃないと戦国時代板で語る方が間違っていると思うわけですw
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 17:11:46 ID:jHoWFV3Z
不明と言っといて由緒正しいとはこれいかにw
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 17:39:50 ID:2wkBUEta
>>197 だから、物分りの悪い奴だな
戦国時代の時点では
島津家は鎌倉時代の忠久から始る格式ある家柄という意味だよ
ゆいしょ 1 【由緒】
〔「ゆしょ」の慣用読み〕
(1)物事の起こり。また、今に至るまでのすじみち。来歴。いわれ。
「神社の―を尋ねる」
(2)長い歴史を経て作りあげられた格式。
「―のある家柄」「―正しい」
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 18:44:35 ID:jHoWFV3Z
いわれがハッキリしないんだから由緒正しくないだろw
それにいくら古くても出が卑しければ卑しいまま
先祖代々奴隷階級だとハッキリしてたら名家なのか?w
源氏や平氏が血筋云々言ってるのも
天皇家の血筋を引いてるのを示すものであって古い事だけを誇っているわけではない
そんなこと言い出したら天皇家だって3,4千年も遡ったら謂れが
はっきりしないという話になると思うが……
とりあえず、水掛け論にならないよう、200が「由緒正しい」と思う
基準を明確にしてみたらどうかな?
どの時代の、どのレベルが「貴い」のか分かればそれに近しい
ほど良いということにはできるだろう。
その言い方だと天皇家が基準だとは思うけど、どの時代位まで
さかのぼればいいのかな?
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 19:53:13 ID:2wkBUEta
基準の提示を求めるのとそれを基準にするのは違うと思う。
とりあえず論争の着地点があるかないか分からないと議論が
無駄かどうか判断もつかないし。
だめだこりゃと思えば無視するだけ、2chではID変われば別の
人が基本だろ?
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 20:38:16 ID:jHoWFV3Z
人が存在してると言う事は太古から続いてるのは間違いない
みんな古くから続いているという点は同じなのだよ
あとはいかに筋目がハッキリしてるかが問題
日本人は神々の子孫でありその頂点たる天照大神の子孫が天皇家であると信じられてきた
その皇室に繋がる血筋こそ貴いものとされる
そして八百万神の後裔達がそれに準ずる
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 20:57:57 ID:2wkBUEta
>>204 >人が存在してると言う事は太古から続いてるのは間違いない
>みんな古くから続いているという点は同じなのだよ
何を当たり前の事を言ってるのだろうか?w
それと由緒正しいの辞書で示した意味
>(2)長い歴史を経て作りあげられた格式。
>「―のある家柄」「―正しい」
の違いくらい分かるだろう?
鎌倉時代から守護大名家だった島津家と
太古に祖先が生きていた事が確実だけど
100年以上前の先祖が辿れない家との格式が同じだとでもいいたいのかな?
鎌倉時代から続いてる島津家をどこの馬の骨扱いする奴なんか相手にするな。
しかもつっこまれたらガキ臭いこと言って言い訳するし。
こんなガキ相手にしても疲れるだけ。
ほっとけ。
徳川=松平だって。
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 10:31:57 ID:FCW2b7/S
徳川=遊行僧の徳阿弥の子孫だろ?
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 10:56:51 ID:mkKEzRID
惟宗朝臣の家格が高いわけないじゃん
秦河勝ら秦氏の活躍を、どう評価するにもよるけど
元慶七年(883)に惟宗朝臣を賜った、由緒・事実は動かない
wikiかよ・・・
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 12:23:10 ID:FCW2b7/S
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 17:11:50 ID:dq8Y1bQb
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 20:37:32 ID:qO2NUkC0
姫様主人公なんて見たくないよ
戦国大名の島津家でやれよ→NHK
島津家の華は幕末だからしょうがないだろ
島津とか立花みたいに朝鮮で活躍した家はドリフの軍隊コントが封印された時点から大河化無理だろ。
あと20年もすればどうなるかわからんが。
朝鮮抜きでいいから大河お願い。
見所いっぱいあるし可能だよ。
大隈平定戦だろ、んで対伊東、相良相手に二正面作戦取らされ
伊東勢の怒涛の攻撃で島津ピンチ。
そんな時に義弘が木崎原で勝利し戦局が一気に島津有利に。
その後も日向をかけて大友と耳川の激戦、そして対竜造寺。
もう少しで九州制覇だというところで大友家臣団の必死の抵抗。
んで豊臣との戦いに敗れ一時の平和の後に関が原。
超面白そう。
女に媚びうるような大河はもうたくさんだ。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 22:41:53 ID:ELeo6Yq3
島津の姫様の物語が大河になるってさ
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 22:45:42 ID:j/tyNPws
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 22:56:47 ID:qO2NUkC0
戦国・島津を大河にするとなると
やはり主人公は義弘公がいいかな?
大河になれば大河で人気が出た伊達政宗の人気を超えるのは日を見るより明らかだな
伊達政宗は脚本が良かったから。
最近の脚本家じゃ超えるのは中々難儀だと思う。
でもやはり島津の大河は是非とも作って欲しいな。
加えて渡辺謙がハマリ役だったからねえ。
隻眼とか母親に殺されかけるとか秀吉相手のパフォーマンスとか、
物語の「華」では、政宗公はやっぱり凄い。痛快な覇気もある。
翻って島津は、大衆に訴える点で弱い気がするが、どうなのかな?
大河は、大友や竜造寺も好きな身としては、九州三国志も見てみたい。
敵が魅力的に描かれていればこそ、島津も映えるというもの。
ただ、島津よりも滅亡寸前の大友が一番盛り上がりそうだけどさw
途中からは、鍋島、立花がそれぞれ引き継いで。
和解する宗茂公と義弘公とか、面白い物語に出来ると思うんだけどなあ。
島津家で一番面白いのは幕末だよ。
フジの大奥は殺伐とした所があって面白かったけど
NHKがやると殺伐の部分が消えて100%ホームドラマになりそうな予感。
絶対、反戦ドラマになるよ。
フジの大奥を超える事は不可能だよ。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 10:24:46 ID:AkrKqCu+
>>222 大友・竜造寺のような癖のある敵役って、ある意味魅力的だよな?
悪の魅力をプンプンと放ちそうだw
いかんせん島津氏は知名度無さ杉
義弘でさえ、ハァ誰?状態、島津の退き口あたりでやっと昔の人が知っている程度
どうしても島津と言えば幕末になっちゃうよな、いやほんと絵になる兄弟なんだけどな
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 11:39:01 ID:AkrKqCu+
>>225 伊達政宗だって大河放送前の一般人の反応は
「ハア?誰それ?」状態だったんじゃないのかなあ?
政宗は原作の小説からして有名だったろ。
つーか、島津大河作るにも原作がないよな。
「奔る」は面白いけどパクり問題が。
学研、PHPはマイナー過ぎ。
「賭け」は小説ですらない。
存命の歴史小説家に大河の原作になるような小説が書けるとは思えん。
今のNHKに大河作られるくらいなら放置の方がマシだろ
義久「俺は戦は嫌いだ」
とかなるぞ
ラストサムライとか糞みたいなのいらんから誰かかっこいいの撮ってくんねーかな
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 15:12:37 ID:AkrKqCu+
大河の合戦シーンって少人数のアップ撮りでお茶濁すから迫力全然無いんだよな
そんなのより「その時、歴史は動いた」で使用するようなCGで戦場シーンを説明的にやってくれた方がいいと思う。
島津の釣り野伏せなんて、絶対そっちの方がいいと思うけどな
何だよイチゴクリームって
アップローダーの名前
葵徳川三代の島津軍の描写は良かったよな。
て言うかあの大河は関ヶ原に無茶苦茶金掛けてたような。
葵の島津は、麿赤兒、山口祐一郎、二人とも良かったなあ。
そういえば山口祐一郎って鹿児島縁の人なのな。
あの関ヶ原は全体的に好き。三成も家康もカッコよかった。
>>228 それはありそう。
となれば、義弘、家久は戦好きで、兄を困らせる悪者か。歳久の株は上がるかもだが。
歴史解釈は自由だが、そういう島津大河は見たくないなあ。
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 01:07:41 ID:xvCUoFbT
おいはゆっさが好っじゃっでね
>>223 戦シーン描かなくていいから、姫に焦点あてたのかなw
どちらにせよ、今回みたいに女は優秀、男は愚鈍みたいな描き方だとイヤだねぇ。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 16:54:51 ID:KaUcs5aW
白洲正子の祖父の樺山資紀は、樺山久高の子孫なのでしょうか?
それぞれだけを見ると、資紀=下級武士、久高=征琉球司令官で、
身分が断然違うのですが。
戦国時代のネタじゃないので本来なら微妙に板違いかと思うが
樺山資紀は分家(しかも他家からの養子)なので、久高とは関係なし。
ちなみに樺山本家は維新時に領地を島津本家に返上したこともあって維新後は辛酸をなめたらしい。
分家の方は軍事功績で華族に。
鹿児島藩はこの樺山みたいに維新後は本家が零落し分家が成功した一族が多い。
島津家もご一門衆で久光の血縁に近い人は華族に取り立てられたが
そうじゃない人は士族編入→財産を失って零落というパターンにはまった人が多い。
家久の子孫の永吉島津家もそうだよ。もっとも永吉島津家は豊久に子供がいなかったので
江戸時代早々に忠恒の子供に乗っ取られてるけど。
240 :
238:2006/08/03(木) 18:35:13 ID:KaUcs5aW
>>239 ご丁寧なレスをありがとうございます。
明治維新の方かな?とも思ったのですが、
久高の方が頭にあったので、このスレで
質問させていただきました。失礼しました。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 21:50:03 ID:xvCUoFbT
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 23:36:36 ID:l1KUEr8I
樺山資紀は江川達也の日露戦争物語よんで彼の熱いキャラに口癖の『チェストー』に惚れました。
本土にいるはずの軍令部長の樺山が輸送船に乗り最前線に出て攻撃を始め、戦闘したところが面白かったな
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 05:01:53 ID:PEX0jCTT
なんか鹿児島を誤解されそうな事がたくさん書いてあったので一応。
実際鹿児島もほかの県と変わらんただ桜島の灰がウザイだけ。
島津は農民いじめてたみたいな事を書かれていたが、鹿児島はほかと比べて武士の比率が多く
収入が少なかった。
武士が自ら農作業してるくらいだったから、農民をいじめるってのは自分の首をめるようなもので
実際やってなかったと思う。
あと在日が多いかわからんが、そんなものは多かろうが少なかろうが関係なくない?
でも実際、島津は朝鮮とかとの繋がりは結構ある。鹿児島の薩摩焼きは義弘が朝鮮から連れ帰った職人が
作ったもので、今現在も窯元はその人の子孫。
あと島津が戦国最強とか言ってるが、流石に最強とまではいえないが、トップクラスのうちの一つだとは思う。
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 05:21:10 ID:U1HAVskY
>>244 トップクラスだろうが、通訳なしでは上方と話ができなかった田舎者
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 05:44:03 ID:2VBlmQYM
百姓は相当酷い生活だったのは間違いない
普通年貢が七割に及ぶと一揆が起きると言われるが
島津では一貫して八公二民と言う超高税だった
八割も取られたら本当に生きてるだけと言う生活
また、薩摩では身分に対する差別が強く郷士などはかなり虐げられた
城下士と郷士の確執はよく話しに聞くところである
西南戦争でも郷士出身の捕虜は手が骨になるほど肉を削がれるなど過酷な拷問を加えられた
当然それ以下の身分の百姓がどのような扱いを受けたのかは容易に想像できる
八公二民は毛利や武田も。
毛利は七公三民
戦国時代は六割ぐらいが全国平均だったみたい
江戸時代になるともっと下がっていったが
後北条は四公六民といわれるね
後北条は反銭懸銭棟別銭の三種以外の徴収は禁止、
破ったら、領主や代官を飛び越えて小田原本城へ直訴化だもんな。
島津を初め、武田や毛利と比べると低い税収でどうやってやりくりしていたんだか・・・。
つ肥沃な平野による石高
つ全国規模の港町小田原
小田原には支那人町まであったというしね。
北条氏直にスレを乗っ取られてしまった。
>>248 天領は、後北条の統治機構を踏襲したものだからな。
基本は四公六民。
ただ諸藩は幕府の財政締め付け政策もあり、もちろん藩の政策にもよるが天領よりは重い傾向にある。
水戸藩が大日本史編纂のため重税だったし。
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 00:10:56 ID:aOyaaUGp
で今の島津さんは何してんの?
まぁ色々。本家は曲がりなりにも旧藩屏だからな。
現在の当主なんかの話聞きたかったら日本史板に行った方が早い。
分家も多いから多種多様。
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 11:10:15 ID:7qHRmXvf
参勤交代っていくらくらいのお金がかかったんだろうね?
島津家は江戸までの距離が遠いから、さぞや大変な金額だったんだろうね・・・
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 12:21:53 ID:PZlWiQEb
島津強かったが やることもあくどい 占領地の民を南蛮人に売って マカオとかに奴隷として売られた 金に汚いシマーズ
畿内とか九州の大名なら当たり前じゃないの?>人身売買
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 22:15:21 ID:PZlWiQEb
当たり前ならいくつか 例を書いてよ
関ヶ原のときも農民攫ってるしな。スゲェよ。
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 23:32:56 ID:7qHRmXvf
よく上杉謙信とか武田信玄が奴隷狩りしていたってレスは見るよな
>>ID:PZlWiQEb
何だネタかと思ったら真性か。
>>254 ミッション系女子校で黄薔薇の蕾やってます。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 04:14:27 ID:H51hwiEp
幕府からの要望で木曾川堤防作ったのが薩摩藩士 武士の身分で
土木工事した、凍てつく冬の木曾川 工事
数名の武士川で溺死した、また数名武士は武士である
ゆえに土木作業とはといい切腹した。
やがて、木曾川流えきに住む農民達が薩摩藩士の頑張
る姿に感銘し農民達が食料をくれた。
過去NHK「その時歴史が動いた」で放送していた。
生麦騒動 薩摩藩大名行列に割り込み入った 英国二
人を武門の習いに従い斬った。
生麦事件の大名行列に参加していた武士一人の晒し首白黒写真は今に残る。
【幕末写真館】
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 04:16:46 ID:H51hwiEp
大名行列ではどの藩でも武門習いに従い子供も斬って
いる。
島津といえば農民にとっての暗黒世界。江戸期には知識人から常にその農政を批判されていた。
「一揆を起こす気力も出ないほど搾取されている」などと言われていたな。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 06:32:13 ID:3brQmv85
よぐよ薩摩飛脚どが言うべ おらの田舎じゃ ありえねぇ話しだべ
ま、上杉謙信公様に比べたらしまずなんて雑魚だけどなw
悔しかったら上杉スレで反論するんだなwwwwwww
>>270 何だまたお前か。
島津と謙信の何処に接点があるんだよ。
お前が勝手に比べてるだけだろ。
夏休みになるとこんな奴ばっか沸くのな。
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 15:10:26 ID:9cz/01Rn
謙信と島津接点は 現代人とは双方訛りがきつくて 会話不能
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 15:20:44 ID:XJYdhrKR
>>271 いや、アンチ上杉厨なんだよ。
そうして煽ったスレの住民を上杉スレへ誘導し、荒らさせる。
この策略で、何度も上杉スレがグダグダに。
上杉厨は自演荒らしが得意で困る
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 15:49:34 ID:xmNTJFTD
270は武田厨に見せかけた上杉厨だよ。上杉厨は最低だな
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 15:58:00 ID:t7QCbZiX
また上杉ファンの発狂か
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 20:41:12 ID:lDPJD9ZD
ID操作もできない芋ばかりなんだなw
どう見ても負け惜しみにしか見えんがね。
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:49:43 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 00:18:08 ID:TdgP89HW
捨て奸…泣カス
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 14:14:09 ID:kjuyS6JO
岐阜には島津藩兵士の子孫が多いらしい
徳川が島津に財を蓄えさせないために行った治水工事とかで
最後は人柱まで行って工事を終わらせたんだとか
感謝しています
のちのハードディスクである
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 10:29:38 ID:AJHdO+55
岐阜には嶋津の直径子孫(本家)が居るよ
>284
そういや、NHKのそのとき歴史は動いたで見たことあるよ。
たしか、偉い家老?だったかそういう人が、治水工事が終わったと、切腹したんだろ?
そのことが、ずーっと島津家にわだかまってって倒幕に一端になったてことらしいね。
幕府の自業自得ってやつか(W
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 06:46:54 ID:aCMQWPF+
島津は僻地大名
中央から見たら雑魚
南西諸島を含めたら70万石くらいか
自己解決77万石だった かなり多い
・・・しかしそれには「籾高」という超上げ底島津900年トリックという魔術が・・・
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 08:48:00 ID:RyN6ZR49
島津の一族に大場っていますか?
家臣に大場氏はいたけど
一族にはいなかったような・・・
今偶然『「さつま」の姓氏』を借りてきたので大場氏を調べてみたが
「伊佐郡藺牟田郷に桓武平氏金丸五代盛正の次男・盛安を祖とする大場氏がある。
盛安は分家して大場氏を称した
盛安−盛助ー盛宗−盛次=盛滝(西木場義賢次男)と続く」
とあります。
295 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/15(金) 03:38:28 ID:kFUFSud1
「島津奔る」読み始めたんだけど、義久ボロクソに書かれてて悲しい。
どのくらい信憑性あるの?
司馬をぱくって絶版に追い込まれたもんだからな
ぱくり元がファンタジー小説家なんだから推して知るべし
297 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 11:57:39 ID:irkqcuyf
木曽川工事は天罰だな。まああれによって
先祖の業が取れたからよかったんじゃない?
関ヶ原での島津の空気の読めなさは異常。
でごわす
大阪の役でも参陣してないのに
真田日の本一の兵とか言っちゃって、空気読めてないよな
まあ、あれは国許への書簡を大々的に取り上げてる連中が空気読めてないのか
301 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 17:16:54 ID:hhsY+pTO
空気読む・読まないは関係ないだろwww
このすれでもAAの龍伯様、使いたいなぁ・・・
303 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 05:32:41 ID:N7IS1qJj
島津
304 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 10:07:01 ID:/fTTRABG
居たんだな
305 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/24(水) 16:26:45 ID:/LnWeiMn
伊地知正治ってどんな人?
つ google
めんどくさいから教えろよ
>>137 大隈は、結構な大物が守護になっている。
たとえば、北条義時他の北条氏。
当時の南回りの海上交通路だから
それほど僻地とはいえない。
1197年〜1203年 - 島津忠久
1217年〜1224年 - 北条義時
1225年〜1245年 - 北条朝時
1250年〜1272年 - 名越時章
1283年〜1291年 - 千葉宗胤
1295年〜1317年 - 北条時直
1323年〜1333年 - 桜田師頼
1376年〜? - 今川貞世
× 大隈
○ 大隅
よくネット上はおろか、ちゃんとした本でも見かける間違いではあるが
気をつけられた方が
311 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/03(土) 12:14:49 ID:zp7VjGfY
ルーズベルトに釣り野伏せを教えた奴出てこい
312 :
l:2007/02/03(土) 21:23:58 ID:MiDxehwP
島津
313 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/03(土) 23:06:16 ID:HeTSUW4F
>>137 宇宙飛行士ってのは超エリートなわけだが
>>313 まあ、某大臣並に物の例えがまずかったと言うことだな
2ちゃん的にたとえれば・・・
「沖 の 鳥 島 に 転 勤 を 命 ず る」
というところか。
岐阜県人だけど、島津ファンです
どうして大河ドラマにならないのか不思議なくらい、
魅力的で凄い逸話が溢れていますよね
年末時代劇でも良いから、しっかり歴史公証された
重厚な戦国島津が見たいです。
やっぱり朝鮮での大活躍がネックなのかな?
太守様にすれば無問題!!
朝鮮?出陣してませんからー
秀吉の朝鮮出兵を面従腹背で、のらりくらりと
かわす義久。
関ヶ原の合戦後、島津の生き残りを掛け
家康と行き詰る交渉を重ねる義久。
けっこう面白い話になると思うよ。
318 :
l:2007/02/07(水) 20:13:16 ID:X9jeilEQ
ん?いいですな。
319 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 01:55:25 ID:PigjmiBZ
>>317 しかもそれを鹿児島の言葉でやって欲しい。
標準語字幕付きで。
320 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 05:10:06 ID:DsrSrSX0
忠良:緒方けん
貴久:渡辺謙
義久:真田広之
義弘:佐藤浩一
歳久:阿部寛 中村トオル 東幹久
家久:坂口憲二 永瀬智也
豊久:?
忠恒:?
久保:?
竜造寺隆信:ぐっさん
大友宗麟:?
秀吉:?
家康:西田敏行
濃い顔集めればいいってもんでもないか・・・
薩摩ってだけで濃い顔を想像してしまうよ
321 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 08:50:24 ID:xI3sjT0K
>>317 いや、それ違うらしいよ。
単に義久が世間知らずの中立主義で
豊臣や徳川に強攻策を出してただけで、
別に政治家として老獪だったわけじゃない。
義久のそんな依怙地で世間知らずな部分を
義弘や忠恒がフォローして家を守ったというのが真相。
>家康と行き詰る交渉を重ねる義久
はあ?
そもそも義久は交渉なんてしてないよ。
322 :
↑:2007/02/08(木) 09:29:44 ID:OF0ar3O5
山本博文の本 丸写し乙
いくらネタスレ住人でも原典史料も読みましょうね
>>320 >佐藤浩一1960、西田敏行1947
義弘1535、家康1543で関が原1600とかやったら微妙だな
まあ家康は30前の姉川1568や三方が原1572でも爺がデフォなんだがw
戦後処理
薩摩に戻った義弘は敗戦の痛手にもめげず、薩摩領全土をあげて徳川との対決姿勢を図り国境を固めると同時に、
一方では全知を傾けて徳川との和平交渉にあたる。
ここで注目されるのは、義弘が和平交渉の仲介を依頼したのが、執拗に義弘の首を狙った井伊直政だったことである。
義弘が並の武将とは違う点を感じさせるところだが、頼られた直政も悪い気はせず、さっそく誠心誠意、
徳川・島津の講和のために奔走することになる。
家康も戦後一時、島津討伐を考えたが、義を重んじるすぐれた人格者である義弘は東軍諸将と交誼が深く、
時が経つにつれ関ヶ原で見事な戦いぶりを示した義弘に強い同情が集まっていった。
またここで島津討伐を強行すれば、徳川の勝利が動揺する恐れもあった。
家康も、態度を軟化させざるを得ず、まさに方便ともいうべき論法で島津本領安堵を決定する。
すなわち「義弘の行動は個人行動。当主の義久は承認していないから島津家そのものに処分はしない」と。
家康の苦しい胸中たるや推して知るべしというところだが、こうして島津氏に対する本領の安堵、
義弘の三男・島津忠恒(長男・久保は文禄の役で陣中没、次男は夭折)への家督譲渡が無事承認されたといわれる。
但し、史料によると関ヶ原の合戦後しばらく義弘は桜島に謹慎しており、
実際に徳川家康と交渉していたのは兄の義久と息子の忠恒である。
また、その後江戸幕府は義弘と直接交流したことは一度もなく、
義弘が死んだときに香典を送ったのみで、どちらかというと無視に近い扱いをしていた。
325 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 22:18:20 ID:fjOw/P7t
義久と義弘は、うまくタッグを組んで豊臣や徳川政権にあたっていたと思われ。
豊臣政権では義久が悪役みたいな形を取り、朝鮮出兵を出し渋り、そんな兄を豊臣家に対してフォローしていたのが義弘。
関ヶ原後は義弘を謹慎させた義久が外交を行い家康に対して「徳川様に味方せよと申しておいたのに、しょうがない弟です。」
と島津家は本来は徳川方だったはずだったのですよ。
西軍についてしまったのは、ただの行きがかり上のことで徳川家に悪意を持ってませんと強調。
だたし家康の上洛命令には「お金が無くて行けません」ととぼけた返事をして絶対に国元から離れようとせず。
そして軍備を固めている。
豊臣政権時代は義弘に外交をまかせていて、影の薄かった義久だが、なかなか食えない奴だよ、彼はw
同意。
手段は違えど、島津のために適材適所の働きをしていたと思うがな、義久も義弘も。
早々に義弘を蟄居・処分して、内部問題として一切口を挟ませないやり方も非凡。
まあ、すぐに蟄居解除させて働けるようにするのもなかなかw
327 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 20:39:46 ID:fYmKhCgX
在日隼人族はフィリピンに帰ってください(>_<)
328 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 23:37:15 ID:/RQjZXu9
ここの「名無し」が遂に決定したのか
329 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 10:29:24 ID:ux4CXXur
島津奔るの義弘強い
強すぎる
330 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 17:47:38 ID:femj6dGF
「捨てがまり」は初めて聞いた時、正直その凄さが全然わかってなかったなぁ
大将以外捨て駒扱いかよって中ニ病ながらに思ったもんだ
331 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 21:22:17 ID:EpSYYAct
鬼石曼子
中国で鬼は幽霊のことを指す。
加藤清正の「鬼上官」は清正の兜が中国の幽霊がかぶっている帽子に
似ていた事からついたあだ名。
以上のことから明軍が「鬼石曼子」と呼んだとすれば「幽霊の島津」という意味になる。
不気味ではあるがどちらかといえば侮辱した呼び方に思われる。
332 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 23:40:04 ID:oQ3h943g
日本と中国・半島での「鬼」の意味が違うからな
333 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 23:56:14 ID:3UtFRifk
その幽霊も中国では情けないイメージがあるからな
日本での畜生よりも、悪い呼称かもしれない
334 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 23:59:18 ID:8jDqhqPN
鬼ババアみたいな意味じゃね
335 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 02:10:47 ID:EQCRIMsF
鬼ババアの「鬼」はまさに日本的な使われ方の典型だと思うが。
つまり「すげぇ(強い/恐い)」
336 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 00:50:16 ID:oNq/aKGF
汚らわしいという意味なのかな?
疫病島津とか、糞島津とか?
337 :
人間七七四年:2007/03/19(月) 00:01:44 ID:NERKEDrQ
豊後の大友義鎮(宗麟)が特に可愛がっていた鷹が、ある日突然行方が分からなくなった。
その鷹は島津領・日向宮崎の久保山治郎という者の在所に飛んできたが、
そういう事情を知らない久保山はこれを捕らえて義久に贈った。
これを知った義鎮は非常に怒り、手の者を出して久保山を捕らえた。
これを聞いた義久は義鎮のもとに使者をつかわし、鷹も返した上に
「大友お屋形のご秘蔵のものと知っていたなら、義久もとどめ置かなかったでしょうに。
また、久保山ももしそれを知っておりましたなら、お屋形のもとへ鷹を届けましたでしょうに。
彼も知らなかったのです、彼の罪をこの義久に免じてお許しいただけませんでしょうか」
と、ねんごろに謝罪した。ところが義鎮はますます怒り、使者の前で久保山の首をはねてしまった。
使者は肝をつぶして帰ってきたが、この話を聞いた人々の心は次第に大友家から離れ、島津家に傾いていったという。
338 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 20:53:12 ID:Ds90goeS
島津義弘ってチェストーって掛け声してたの?
339 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 23:11:40 ID:F8bgRG+s
島津が関が原で西軍に付いたのは鳥居元忠の所為というのは嘘。
保身のために西軍に付き、保身のために死んだ元忠に泥をかぶせただけ。
死人に口なし。
幕末の薩摩の原動力は関が原や木曽川の治水工事の恨みというのは嘘。
関が原で薩摩は領地を減らされたわけではなく、
かえって幕府から琉球を攻め服属させる許可をもらっている。
木曽川の件も明治になるまで鹿児島ではほとんど知られていなかった。
340 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 09:13:58 ID:IXIfJVzr
幕末の薩摩は卑怯な寝返り組の雄だから、
その正統性が欲しかっただけだろ
慶喜も晩年、長州は首尾一貫倒幕だったから許せるけど、
薩摩だけは許せないと語ってるし
341 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 17:52:37 ID:veuYs2co
たまにスレが進んだかと思えば・・・
見飽きたコピペもあるし、自演か?
342 :
人間七七四年:2007/03/22(木) 20:56:15 ID:HyqVOuqe
「明史」の日本伝に「秀吉は薩摩の奴隷出身」という記述がある。
清代の小説「水滸後伝」に出てくる太閤に率いられた薩摩兵は凶暴で殺人を好むという設定だ。
どうも薩摩は日本のなかで最も野蛮な部族が住んでいる土地と思われていたようだ。
343 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 00:03:41 ID:FHKhKnCC
さがりすぎ あげ
344 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 00:16:11 ID:aOfHb91Q
明治以降の島津と皇室の結びつきは異常。薩長としても毛利はさほどでもない。
頼朝のご落胤という確証が実はあってそれで優遇されてるという可能性はないだろうか。
345 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 18:21:36 ID:QJh3UDUg
ないな
346 :
奇:2007/03/23(金) 18:44:35 ID:d0oWxQV2
うん、ない。
347 :
仙台藩百姓:2007/03/23(金) 19:37:58 ID:BUJrr/UR
薩摩隼人は古代から朝廷と結び付きが強いお
隼人は蛮族の代名詞的存在で異民族平定の象徴として宮廷で飼われていたお
主に番犬の役割を担い人が来るとワォーンと犬の鳴き声を上げて迎えたお( ^ω^)
348 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 23:50:34 ID:/cf2pKCz
素直に考えたら、近衛家との関係だろ。
349 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 21:45:20 ID:R8SdqfuK
戦国最強は やはり島津家だと おもう その強さは 本州勢との戦や 朝鮮出兵で証明されている 次いで 武田勢 越後勢 と続くのでは…
350 :
人間七七四年:2007/04/06(金) 21:48:07 ID:3/wa6pFT
政宗公に比べれば皆塵
351 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 02:54:29 ID:6q8ln3l+
島津の強さは戦略云々だけではなく
捨て奸に代表される様な自己犠牲的な部分
少数で大軍を迎えうつ向こう見ずな部分だと思うし
その辺がものすごい怖い。
九州でも朝鮮でも数倍の敵を平気で破ってるし
もし島津を本気で潰そうと思ったら
数万かそれ以上の死者は覚悟しないと、と思わせる。
家康から特にお咎め無しだったのはその辺だろうね。
島津は怖いからそっとしといた方がいい、みたいな感じで。
352 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 17:22:04 ID:PxAEPAV7
>>351 >島津は怖いからそっとしといた方がいい、みたいな感じで。
まあそうだろうね。それプラスあんなはしっこぐらいどうでもいいみたいな感じだろうね。
でもその島津が勢力を保ち続け250年後に幕府を倒すことになるとはね。
353 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 19:52:41 ID:4MsKVjw+
島津家久の軍律も関係しているな。
354 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 21:38:36 ID:4MsKVjw+
「持ち場より前進、もしくは左右にずれたり後退しても正面の敵を撃破していたら良し、
それ以外は大将も士卒も死罪に処す」という苛烈な「場定(ばさだめ)」という軍令
355 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 22:02:44 ID:Jlq7sLzr
考えてみれば恐ろしい話だよな。
鍛え上げた貴重な武士たちを惜し気もなく使い捨てる感じが。
近い戦術で言えば、ソ連や中国の人海戦術や日本の特攻隊だけど、こっちは即製の兵士を使い捨てにしてるだけだもんな。
言ってみれば、正規軍を使い捨てる様にしてるわけだ。
徳川が下手に滅ぼそうと軍を起こしたら、湾岸戦争のアメリカみたいに得るものが少ないのに、失うものが無駄にでかくなりそうだ。
恐ろしく面倒臭いな。
356 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 23:19:38 ID:FtupjmOX
廻城包囲戦で孤立した友軍を救うべくわずかな手勢で突撃、敢えなく戦死した
島津忠将について語らないか
357 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 00:31:00 ID:ziqSYMUr
358 :
人間七七四年:2007/04/13(金) 13:07:12 ID:Zr+ii+eH
359 :
人間七七四年:2007/04/13(金) 17:02:48 ID:P5IclhTf
三月十九日 義ひろ
さいしやうとのへ
今夜もそなたを夢にまさしくミまいらせ候て、たゞいまけんさん候やうにこそ候つれ
又よきたよりの折ふしハ、さいさい同事成共、ふミにて申のほせ候ハ、うれしかるへく候。
(*´Д`)ハァハァ
360 :
人間七七四年:2007/04/13(金) 18:47:45 ID:y5LyJX/3
日本語でおk
361 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 01:16:46 ID:8Ndx5q+/
いや、日本語だし
但し約400年前のw
362 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 18:53:59 ID:KbCKkqZF
>>359 「今夜もまたあなたの夢を見ますた、まさに今この場で出会ったような感じだよ
また良い知らせがあったら些細なことでも手紙にして言ってくだされば嬉しい限りです」
こんな感じか…なかなか頓知が利いてる文章だな
宰相夫人とは相当仲良かったみたいだし、このさい義弘との夫婦愛ネタでも
いいから大河やってほしい
363 :
人間七七四年:2007/04/14(土) 20:51:05 ID:U55DroGy
夫婦ネタで言えば、義久婦人は、義久の叔母だよな。
一体どういう事情があったんだろう。
詳しく知っている人が、いたら解説頼むよ。
364 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 16:07:58 ID:5a8Ernbw
島津が頼朝のご落胤の方が夢があっていいよな。薩長同盟も頼朝と大江広元の
子孫が同盟して天下を取り返したことになるし。島津の正史では頼朝の落胤って
ことになってるらしいけど、戦国、江戸、幕末のころも自他藩ともに頼朝の
子孫って認識はあったんだろうか?
365 :
仙台藩百姓:2007/04/15(日) 17:19:01 ID:mVZ17zOD
少なくても薩摩藩士は洗脳されていたようだお( ^ω^)
幕末に浅草の穢多頭弾左衛門家に
※弾家も頼朝ご落胤を祖先とし家紋も島津と同じ轡紋
薩摩藩士の益満休之助が
「同じ頼朝の子孫同士仲良くしようぜ」
と言うような事言い、たかりに行っていたお
益満のような下級武士でも知ってるんだから
藩内は浸透していたと思うお
それにしても
穢多と同じ出自…
おっと、これは失礼しましたお
一緒にしちゃ弾家に失礼ですおね(≧ω≦)
366 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 17:40:22 ID:5a8Ernbw
>>365 なるほどね。薩摩藩士が気概を失わなかったのもその辺が影響してんのかもね。
頼朝の子孫、うちの殿こそが武士の本流中の本流、いずれ天下を取り返す、ってな感じで。
そして広元の子孫の毛利と同盟して徳川を倒すことに傾いたと。
367 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 19:10:16 ID:3B9Twp5X
結果論
そんなことよりwikiの義弘の記事が面白いな
最後の一文付け加えたやつはネ申
368 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 22:08:25 ID:U2akFS1x
最近「結果論」で片づけるのが流行ってるのかい
それより
>wikiの義弘の記事が面白いな
>最後の一文付け加えたやつはネ申
最後の一文って
「なお、島津家関連の物品を所蔵・研究・展示している尚古集成館では、系図重視の観点から義弘を
第17代当主と認定している。このため、初代当主の忠久も源頼朝の庶子となっている。」
ってやつのことか?
369 :
会津藩の末裔:2007/04/17(火) 23:35:56 ID:9jnoULiD
戊辰戦争今なお続く・・・・・
かかって来いや、芋薩摩武士。
いや、焼酎飲みすぎ気味のアル中鹿児島人。
370 :
人間七七四年:2007/04/18(水) 14:38:27 ID:xlrwms7A
会津犯の誰の末裔?会津磐梯山ってどんなの?
371 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 01:53:01 ID:qW78R0Mp
会津大虐殺か・・・
官軍は略奪暴行もだが、会津側の死体を片付けさせないのは非道いね!
会津軍は以前から軍規で略奪暴行を禁じていたのに・・・
どうしてあんなに苛烈だったのか?新撰組のせいか?
官軍の庄内藩攻めではあんなに相手の面目を保たせ寛容な占領政策をしたおかげで、
現地に信奉者が生まれ西郷隆盛公言行録みたいなのまで出版されてるのに
372 :
会津藩の末裔:2007/04/19(木) 11:35:13 ID:ALm/PhWx
今でも男色の風習は続いてるとお聞きしますが、やっぱりホモは多いのかね。
373 :
会津藩の末裔:2007/04/20(金) 21:01:33 ID:/A/n/kkX
情けなや〜芋薩摩。
図星とみえて誰も反論すらできぬか・・・・・。
この際一挙に芋薩摩人を根絶やしにしようと思うがどうか?
374 :
ーーー:2007/04/21(土) 02:03:44 ID:KhCR1MYX
>>365 仙台藩百姓タンのスレが最近でたみたいよ、遊びにきたら。
375 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 16:46:44 ID:+F8IR1Pz
>>372 昔(10年前ぐらい)の大手信用調査会社の調べでは男の72%、女の22%が同性愛者。
薩摩は腐りきってるよ。滅んだほうが世の中のため。
376 :
人間七七四年:2007/04/21(土) 17:22:32 ID:SpP5szo6
>>375 いや、衆道の伝統を頑なに今世紀迄受け
継いでいるという事でしょうな。
同性愛が否定されたのは、西洋文明が流布
された後の話。両刀使いという事で子孫はき
ちんと残しているから問題には成らなかった
377 :
人間七七四年:2007/04/22(日) 06:57:24 ID:vB9288eE
マジかよ!薩摩人の俺でも知らなかったよ。
378 :
人間七七四年:2007/04/22(日) 22:53:08 ID:8MY6OMbE
>>377 >>375を真に受けてるのかよw
今から10年前と言えば1997年
その当時でも個人情報の管理にはうるさくなっていた
ましてや性嗜好を調査するなんて無理無理
379 :
人間七七四年:2007/04/23(月) 08:35:22 ID:Vt1QEl/U
薩摩隼人の俺が来ましたよ
鹿児島に23年住んでるけどホモに会ったことないな
(´・ω・)
380 :
人間七七四年:2007/04/23(月) 08:36:13 ID:eUpJePpZ
GW久しぶりに鹿児島帰るから黎明館でも行こう
381 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 04:17:06 ID:PiBdEHnI
どうでもいいんだけどさ、鹿児島の人って今も、ちぇすとー!って言うことあるの?
おれの中でかっこいい掛け声No.1なんだけど
382 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 09:33:34 ID:K845b4Mk
わっぜwなら使う
383 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 12:32:30 ID:81NoQ4MK
今の鹿児島県人は、極一部に鹿児島弁が混じる事も有るが余程の年寄りを除いて
北関東や東北、関西より遥かに標準語に近い話し方をする。
384 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 20:44:49 ID:mCaZnPUY
「ちぇすとー!」は、示現流で使う掛け声であって、方言じゃないでしょ
385 :
人間七七四年:2007/04/25(水) 00:53:14 ID:h4mZEN7W
>>383 鹿児島より青森の弘前市や秋田市のほうがよっぽど標準語だと思うが
386 :
人間七七四年:2007/04/25(水) 01:30:37 ID:r1QmS6HQ
江戸育ちの島津斉彬は、初めて示現流の稽古を見たとき、
「まるで気違い・・・」という感想を漏らしたという。
387 :
人間七七四年:2007/04/25(水) 04:34:27 ID:eKNDzj0H
数年前、キックの試合の手伝いしたら鹿児島のジム(道場?)の選手が
「ちぇすとー!」と言いながらガンガン攻めるタイプでちょっと感動した。
388 :
人間七七四年:2007/04/26(木) 00:53:41 ID:/Ux6ltx+
20年くらい前、鹿児島にいたことがあるけど、MBC南日本放送のラジオ番組で「チェスト行けヤング」という若者向けの番組があった。
外来語だと思う。鹿児島には語源的に外国語の方言がいくつかあるようだね。
「ラーフル」とか。
389 :
人間七七四年:2007/05/05(土) 22:01:13 ID:tGEXrcqM
島津家に琉球だけでなく台湾も支配して欲しかったなあ。
日本の近現代史の地図も変わっていただろうに。
390 :
人間七七四年:2007/05/06(日) 10:35:14 ID:xohOiz0q
391 :
会津藩の末裔:2007/05/07(月) 11:14:24 ID:urZDxRRX
芋薩摩では今でも二本差しのゴロンボが大道闊歩しております。
392 :
↑:2007/05/07(月) 13:34:27 ID:qa08LQDK
仙台藩百姓程度の芸もないし
つまんねーんだよ
393 :
会津藩の末裔:2007/05/07(月) 18:17:37 ID:urZDxRRX
芋薩摩人は恥垢の臭いが強烈です。皆さん失神なさらぬ様に。
包茎は剥いてカビキラーで洗浄してください。
394 :
人間七七四年:2007/05/10(木) 14:19:37 ID:jrv6ziJB
395 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 17:38:28 ID:MSymVF0+
鹿児島では島津家は別に尊敬されてもないしあまり知られてないよ。
あぁ磯庭園の〜・・・ぐらいの認識。
西郷隆盛の方が全然メジャーだよ
396 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 17:45:16 ID:MSymVF0+
一通り読んだけど思わず笑ってしまったな〜
まぁアメリカも日本と中国の違いを良く理解してないしこんなもんだろーね
397 :
人間七七四年:2007/05/12(土) 19:43:25 ID:2CrhT4oi
今日、日帰りでラーメン食べに鹿児島に行ったんだが、ついでによった黎明館という歴史博物館がよかった。特に薩摩の戦国時代の資料が充実してた。と言っても複製が殆どなんだが。戦国末期の薩摩の山城のジオラマは大迫力だった
398 :
仙台藩百姓:2007/05/12(土) 19:50:19 ID:UpJtwWir
山城?城山じゃなくて?
399 :
人間七七四年:2007/05/12(土) 20:23:29 ID:8HhLZWat
薩摩にあった山城って広い意味で言ったんだろ
400 :
仙台藩百姓:2007/05/12(土) 21:54:40 ID:UpJtwWir
どの山城かわかんねーおヽ(`Д´)ノ
401 :
人間七七四年:2007/05/13(日) 00:12:01 ID:2qd1XrHn
戦ばっかりで大河にしずらいんじゃないか?
結局、戦いだけならネタとしては少ないと言う事で。
一番手ごろなのが戦国期なんだろうけど、兄弟仲良く内乱もなく。
ただただ対外戦が続くだけだし・・・
402 :
人間七七四年:2007/05/13(日) 00:16:43 ID:2qd1XrHn
あー、3代くらいやるなら別だけど。
403 :
人間七七四年:2007/05/13(日) 04:07:21 ID:djY4dv5v
>>384 「チェスト」は、示現流ならではの掛け声ではないようです。
ソースはウィキの示現流の項目からですが…。
404 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 22:26:18 ID:HhId+/Gm
>>403 同じwikiで、「チェスト」で検索すると、示現流で使う台詞という説明w
実際の所、どうなんだろ?
405 :
人間七七四年:2007/05/15(火) 00:55:46 ID:9igj0pG/
406 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 18:08:03 ID:WdFwy0U7
208 :非公開@個人情報保護のため :2007/05/16(水) 13:32:03
霧○市の市長の公用車運転手妻との不倫、旦那にばれて慰謝料を自分の選挙の後援会
から払わせたこと(政治活動の支出として処理)、自分の後援者への不明朗な資金流出、
協議会旅費での海外視察(復命の必要がないため、海外でやりたい放題)を調べています。
この人は、自ら現場にでかけ、同行した業者に設計をさせ、その業者に入札させるとんでも
ないおじさんです。
407 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 21:25:01 ID:QGtVVbpF
頼朝さんは女ぐせが悪く、あっちこっちで浮気しまくっていたからなあ。
島津忠久が頼朝のご落胤だとしても全然不思議じゃないよね。
408 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 22:35:43 ID:MipylfqZ
409 :
人間七七四年:2007/05/18(金) 00:05:59 ID:Di6jj92v
410 :
人間七七四年:2007/05/18(金) 13:07:45 ID:2IqY89yi
木崎原の戦は島津義弘の指揮だ
当時36歳
411 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 22:12:23 ID:xHoWwNkz
今度鹿児島に行く予定なんだけど、戦国島津のファンとしてここだけは見とけってとこ教えてください。
今のところ黎明館、尚古集成館、仙嶽園、福昌寺、島津義弘像あたりを考えています。
412 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 23:00:27 ID:cbf5VywR
413 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 16:57:22 ID:NqBGFrNy
ケチをつけるようだが、沖田畷の
竜造寺軍6万はないだろ。
多くて4万じゃね?
イエズス会の記録によると、2万5000らしいが
それから木崎原の戦い伊東軍3000って 少なすぎね?
日向一国を支配しているのに
3000は以上だろ
414 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 16:58:29 ID:NqBGFrNy
↑異常ね
415 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 17:25:58 ID:lf927saH
島津は水増し大好きだから
3000でも水増ししてる可能性が高い
まあ、それは置いとくとして
太閤検地で日向は12万石
それを目安に考えると万石250人でピッタリ3000人
実際日向を一寸残らず支配していたわけじゃないだろうし
当然全員で出陣はしない
2000前後と考えるのが自然だろう
で、当然侵略者側も誇張するから
公称3000は凄く妥当だと思う
416 :
415:2007/05/25(金) 19:05:21 ID:NqBGFrNy
なるほど、よく分かりました。
僕は伊東氏の3000という記述を
見たときから、なんてやる気のない
一族だ、
と思っていました。
伊東一族の皆さんすみませんでした。
417 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 20:01:03 ID:tW59aDe7
>>412 訂正ありがとうございます。>仙厳園
島津義弘像は伊集院の銅像ですw
岩剣城、行けたら行ってみます
418 :
参考:2007/05/25(金) 23:06:21 ID:PG+6k82z
419 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 18:30:04 ID:+WsGly4P
まあ、3000というのは少ないようなきがするけど、
実際は相当な兵力だからな
一万以上用意できる、ってのはもの凄いこと
420 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 01:16:53 ID:/1c2ykMh
島津が頼朝の落胤かどうかはっきり白黒つけてほしい。
島津の子孫のうち、系図上源氏の血が入っていないはずの人から他の源氏のDNA
と同様のものが検出された場合、島津は頼朝のご落胤と言えるのではないだろうか。
でなければ違うんだろうし、やろうと思えばできるはずだ。
421 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 10:17:42 ID:JvMZR3IK
だから大昔から完全否定されてるって
島津自身全く統一性ないし
戦国時代頃だって藤原名乗ったりしている
そもそも一度も肯定された事はない
422 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 11:36:59 ID:uuaMJw6C
>>421 バカだな
頼朝の落胤なんて公言すれば鎌倉幕府に睨まれるだろう。
藤原姓を名乗っているのは、近衛家の縁を利用したいわば防御行為だろう。
423 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 21:03:41 ID:9r5bG2d4
忠久という頼朝の落胤がいたのなら、実朝が死んで源氏直系が絶えた時に話題にもならなかったのは何故?
八田だの宇都宮だの大友だの島津だの。
義朝も頼朝も大変だよなあ。
425 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 22:48:45 ID:trPNN1lm
>>423 実朝が死んだ理由とその背後の勢力を考えろ
426 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 23:00:14 ID:beN4cULj
以前日本史板にもわいた強烈な信者がここにも来たか。。。
427 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 23:06:51 ID:u0jFoZDz
最早、源氏より島津の方がブランド価値的に上だから正直どうでも良い。
428 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 13:56:23 ID:hFBW7FXF
島津最強とかって言ってる奴って何なの?
朝鮮や支那の弱小軍団を叩いたのがそんなに凄いのかなぁ
戦国最強は武田とか上杉とかって世間一般には良く聞くけど、島津義弘が最強だなんてのは2ちゃんねるでしか聞いた事がない
やっぱり朝鮮・支那相手に大勝したという点でネットウヨが担いでんのかね
まぁでも島津義弘が戦国時代を代表する猛将であることは間違いない。西日本では毛利と並んで最強かもしれんね
429 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 14:02:33 ID:hFBW7FXF
それと島津が源氏かどうかなんてY染色体調べりゃすぐ分かるだろ
多分当主にしてみれば、神秘のベールに包んでおきたいと断るに違いないけど
自称平家嫡流の伴さんもそうだろうね
430 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 18:36:02 ID:wg+eRV49
>>428 もう何年も前に出版された2ちゃんねるの本の中にも
島津義弘最強というスレが紹介されていたなあ...
最強戦国武将といえば2ちゃんねるでは島津義弘、これは定説みたいだよ。
431 :
仙台藩百姓:2007/06/08(金) 19:34:48 ID:0RZX3Csx
逃げ足だけなら最強だおね(≧ω≦)プッ
あとほら吹きも
432 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 20:25:39 ID:wg+eRV49
戦国武将の重要な仕事のひとつは、自分を宣伝することだからね。
島津家は宣伝上手で逃げるのも上手、それは戦国武将としては優秀ということだと思う。
九州征伐の時も島津家は余力を残して降伏している。
秀吉に日ノ本に大馬鹿者が二人いる、一人はわしで日ノ本の端まではるばる大軍を率いてやってきた。
もう一人は島津義久、もうすこし粘れば豊臣軍は補給がまかなえずに引き上げただろうに、早々に降伏しおった。
早々に降伏してきた島津義久の態度を秀吉はたいそう気に入ったそうだ。
まあ、言いたい事は戦国武将、とくに大名ともなれば、逃げるが勝ちという言葉が大切なんだと思う。
戦は終わらせ方が重要。
太平洋戦争の時の日本のようなボロボロの状態になるまで徹底抗戦して敗戦を迎えるのが良いか。
島津家のように早い時期に負け戦を見極めて、兵力の余力を残して降伏するのが良いか。
勝ち戦の時は敵を徹底的に痛めつけ、負け戦の時には出来るだけ早い時期に終わらせる。
島津義久は戦上手な大名だと思う。
そういう意味では最強といってもいいんじゃないでしょうか?
>>428 たまたま朝鮮出兵のときに敵の弾薬庫に弾が命中して連鎖反応の爆発を誘発して慌てた明の将軍が「鬼島津!」と叫んだだけだろう?
434 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 23:46:04 ID:dM+MkBRP
忠久ってどこまでが史実なのよ?
母親が丹後局ってのはOK?
丹後局が住吉大社で忠久を産んだってのはOK?
だったら父親は誰なのよ?
維宗氏と丹後局の関係が時系列でよくわからん。
435 :
仙台藩百姓:2007/06/09(土) 03:43:25 ID:3hnLZ469
>>432 その理屈なら益々最強ではないお( ^ω^)
政宗公の方が遥かに戦上手と言う事になるお
政宗公は豊臣の実力を見極め矛を収めて
たった一兵も失う事もなかったお
義久は喧嘩吹っ掛けて返り討ちに合い
泣く泣く降伏したに過ぎないお( ^ω^)
多くの将兵を失い膨大な戦費を無為に費やし
傾いた島津の財政は百姓から搾りに搾っても立て直せず
明治に借金踏み倒すまで続く事になったお
436 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 18:17:19 ID:6jq64ZEM
>>434 比企氏の乱で島津忠久も諸誤職解任されているのだから
丹後の局(比企能員の妹)が母までは間違いないだろう。
437 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 18:18:52 ID:6jq64ZEM
>>435 宣伝上手といっても、実力がまったくないのに宣伝だけ誇大では悲しい
伊達政宗がまさにそれ。
誇大広告で実力がないから、しらける。
438 :
仙台藩百姓:2007/06/09(土) 19:28:22 ID:3hnLZ469
何を指して言ってるのかサッパリ分からないお( ´ω`)
芋っころはいい加減日本語を習得して欲しいものだお(≧ω≦)ピッ
伊達の話題はスレ違いだろうしな。
440 :
仙台藩百姓:2007/06/09(土) 21:26:24 ID:3hnLZ469
だから漏れはかごんまの話しをしとるとですお( ^ω^)
関ヶ原の頃、諸大名の懐柔に躍起になってた家康ですが
全国有数の大大名であったはずの島津は結局放置された形です
伏見守備を頼まれて勇んで向かったものの
文字通りの門前払い
怒って必死に攻め立てたりしたけど
まるで道化だお(≧ω≦)プピーッ
完全にコケにされとるですお( ^ω^)
しかも西軍についたらついたで
貧しい島津は少数の兵しか動かせず
西軍にとっても完全に期待外れ
本戦でも怖じけ付いて陣で震えていたのか
相手にされないからふて腐れていたのか知らんが
ポケッとしてる間に合戦終了
慌てて脱兎の如く逃走を図るが
ボコボコにやられるわ道に迷うわで殆ど皆殺しにされはぐる
右往左往する田舎者に見兼ねた西軍諸大名が
世話焼いてくれてやっと逃げ帰る
関ヶ原随一の珍武将だおね(≧ω≦)ピーッ
その書き込みは最後の一行だけでいいな。
442 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 00:52:31 ID:LT7GQW2L
>>435 財政難は幕命による三川普請(木曽、長良、揖斐)があったからだろ。
小学校の社会見学で行ったなあ・・・
444 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 16:38:32 ID:KJttwlGD
445 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 19:05:55 ID:k26c9xAI
そもそも薩摩・大隈の石高は、低い。
朝鮮と関が原に率いて行った人数が少ないのは、国許で実権を
握っていた義久の意向によるものだよ。
446 :
仙台藩百姓:2007/06/10(日) 23:52:18 ID:6ofGAFoo
十数年に渡って九州一円を荒らし回ったはいいが
秀吉にボロ負けして隅に追いやられたのだから
貧乏になるのも当然だお( ^ω^)
更に朝鮮出兵
帰還して間もなく今度は家久が忠棟を惨殺した事から
伊集院氏に反乱起こされて鎮圧に手間取り戦は長期に及ぶ
中央の仲介もあってようやく降伏させたのが
会津討伐が始まるの3ヶ月ほど前
もうボロボロで遠征どころの話しじゃないおね( ´ω`)
447 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 15:18:38 ID:3MgvJNn5
448 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 06:22:30 ID:043jDFxA
行政管理室に電話をしました。中渡瀬氏のことも聞くために。
担当者、西氏と電話が繋がりました。
流出の件を聞くと、担当の者(上の者)がいないと言われました(まただw)
担当者は、何名いるのか聞くと4名だと回答をもらいました。
中渡瀬氏については、今回の処分で最終だということでしたが、任天堂のROMの件。
被害者女性の画像を削除しないで、自分だけの画像を削除した件や、県の職員が第一発見者なのか聞いた所、私個人はそこまでわかりませんという回答でした。
中渡瀬氏に電話を代わるように伝えると、えつだ氏という人が電話にでました。(さっき上の方はいないといってましたが、いましたね。また嘘ですか^^;)
中渡瀬氏は、行政管理室にいないので代われないと言われました。
熊毛支庁に電話をすれば対応してもらえるみたいです。
今回の1300名〜1400名の情報流出と裏金の資料について問い詰めました。
そうすると調査中とのことでした。
情報を流出した疑惑の人についても事実確認と調査中との回答でした。
電話は、17分(録音済み)しましたが、まぁ予想通りの回答でした。
流出した件についての対応はどうするのか聞くと、個人については、対応を検証中。
流出した情報は一生ネット上で出回りますが、どう対処するのか聞くと、それについてはそのような専門部署があるのでそちらでと言ってました。
嘘で固められた鹿児島。
身内擁護の鹿児島。
県民の皆さんには大変失礼ですが、この鹿児島県庁は、本当に終わっています。
腐れすぎです。
今後も間違いなく、流出は続くと断定しておきます。
http://www.mudaijp.com/wp/?p=405
449 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 15:15:39 ID:yjH/VQ3t
>>446 島津はボロボロで兵力を出さんかったと違うど!
義久は中立派。義弘は豊臣派。義久は兵を出したくなかったのが事実。
だから、義弘は1300人のちっちゃな一団で関が原行く事になったのよ。
450 :
仙台藩百姓:2007/06/13(水) 21:30:59 ID:FVa5UqAm
そもそも島津の財政が豊かだった話しを聞いた事ないお
木曽川の治水が大変だったとか言うけど
島津の後に毛利も木曽川で同程度の治水工事してるお
それでも長州藩では内政をしっかり行い
貯蓄もしていたから
島津ほど財政逼迫する事はなかったし
当然死人もでなかったお( ^ω^)
無能な芋大名の家臣や領民は可哀相だお・゚・(ノω`)・゚・。
451 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 00:35:16 ID:x9jWlhCF
452 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 00:56:22 ID:tzJrKJww
453 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 05:02:42 ID:NCJEJUD7
所詮仙台藩の言うことだ
どっかの独眼龍同様、大半はホラと誇大発言だ
454 :
虎之助:2007/06/14(木) 11:45:12 ID:f/aQ8/Gw
島津の宝暦の治水は涙がでるほど辛かったんや!
毛利と比べもんになるかい。いまでも木曽川では
薩摩に感謝した祭りがあるけど、毛利に感謝とは
違う。一緒にしたらアカンべ、伊達の小倅。
455 :
仙台藩百姓:2007/06/14(木) 12:44:12 ID:KUs9m8JW
あのね
毛利の国力は島津の半分程度なんですお
その点から見て負担率がどうなるか
少し考えれば分かると思うのですが
薩摩芋ときたら( ´ω`)ヤレヤレ
456 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 13:07:41 ID:UJqY1rDp
薩摩芋vsべこ政宗
べこ政宗の勝ち
457 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 13:16:50 ID:spo1pE3q
島津だらしないなぁ
458 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 13:56:54 ID:f/aQ8/Gw
まぁ確かに江戸時代に入ると島津の国力にもガタが
来たかもしれないけど、戦国時代国力が豊富でなけりゃ
(物資とか軍事面で)九州統一までもっていけないでしょ。
459 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 14:15:06 ID:Y5d4NXY2
仙台人が信長の野望をプレイする
伊達晴宗の時代は本拠が米沢なので選ばない
伊達政宗の時代は本拠が宮城だから選ぶ
仙台人に援軍を頼む時に注意すること
昼飯、つまり弁当を必ず手の届く範囲に用意すること
大砲の音でも怯まないよう、耳栓を用意すること
逃げ出さないよう、四六時中相互に監視させること
酒と女は好きなだけ与えること。但し仙台の原住民女性は避けること
仙台人一人に対し、他県民を二人以上添えること
歩行者天国と道路の区別を教えること
460 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 16:28:32 ID:cIZKHLiq
島津は徳川将軍家と縁戚になったし、近衛家の門流だし、
閨閥的にもつおい。
461 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 20:37:02 ID:cPRCELjV
江戸時代の島津家は、琉球貿易で石高以上に豊かだったんじゃない?
462 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 20:52:35 ID:qYFuLbG7
いれんな本を読めば 島津最強は わかるはず その強さを 関ケ原 朝鮮で まざまざと みせつけた 日本の中央に島津家が あれば 歴史は変わっていたとおもう 島津勢 越後勢 次いで武田勢と続くのでは…
463 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 22:51:14 ID:5tqFG8yr
いれんな本を読んだのだが、
島津は当主の惣領権すらろくに確立出来なかった事くらいしか分からなかった
464 :
仙台藩百姓:2007/06/14(木) 23:52:15 ID:KUs9m8JW
関ヶ原で何もしないで逃げようとしたら
皆殺しにされはぐったのが何で島津最強になるのか
薩摩芋の思考はトリッキー過ぎて理解できないお
デンプンが脳にまわってるんじゃないですかお?( ^ω^)
466 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 00:41:33 ID:HN/6OPid
467 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 03:51:17 ID:lBA9U0pT
伊達、そこらへんでもう止めちょけ。おはんの来る所で
なか!
468 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 04:18:08 ID:Bp3b2ZNk
おやっとさあ
469 :
山形百姓:2007/06/15(金) 10:52:22 ID:TEpZlzNc
べこ政宗?
うまいんだずぅ
470 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 10:58:32 ID:iIq14Gvv
火山灰地の痩せた土地でコメも育たず、食えない武士の比率がやたらと高く、
借金踏み倒しと密貿易でなんとか生きながらえた島津晒し上げ。
471 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 18:57:40 ID:L+vLhDe8
472 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 20:40:36 ID:cuAzv5GT
>>463 どういうこと?
島津家以外に薩摩の惣領権を主張している一族でもあったとか?
島津一族の内乱に勝った時点で惣領権は確立してんじゃないの?
473 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 21:55:47 ID:QI//XcxJ
>>472 家臣がどれだけ当主の命令を聞いたかが問題。
朝鮮出兵の時の出兵拒否、歳久派の梅北国兼の反乱と歳久の粛清、伊集院忠棟の命令不服従、
江戸時代に琉球征服後義久が死ぬまで続く義久派・義弘派・忠恒派の派閥争い。
家臣は島津家に勢いがある時は従っても、自分の利益に反すると命令不服従や反乱を起こす。
これでは惣領権が確立されていたとは言えないのでは?
474 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 22:20:09 ID:V8SdXedd
>>473 その理屈だと、立花・高橋・筑紫・秋月なんかに
離反されまくった大友も惣領権が確立されてナイって事だ♪
475 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 22:53:12 ID:HN/6OPid
上杉や毛利モナー
家臣に殺された織田だって(ry
476 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 23:28:03 ID:QI//XcxJ
何で一部の家臣の反乱と、大半の家臣のサボタージュを同じ扱いをするかな
478 :
虎之助:2007/06/16(土) 01:05:06 ID:/4e+aAwX
島津は磐石。大友、織田はもろかったんよ。
比べたらダメじゃい!
479 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 01:43:57 ID:ILl1RbT4
大老に滅ぼされる豊臣家を思うと……。
480 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 03:22:20 ID:7FJB08PE
義久の命令の下に一枚岩と言うわけじゃなかった
かもしれんが、一応、義久が当主で、その娘婿の
家久(義弘の子)が次期当主と言う形が出来ていた。
薩州家の面々にもそれなりの礼遇はしていたけど、
あくまでも有力な一族と言う位置づけ。義虎を義
久の後継者にと言う話も事実あったが、家久が後
継者になってからは、消えた。
481 :
463:2007/06/16(土) 12:24:21 ID:um9sODYB
「惣領であることの権利」が確立されていないと言っているのではなく、
「惣領が行使できる権利」が確立されていないと言っているのだがな。
482 :
仙台藩百姓:2007/06/16(土) 12:33:31 ID:1AoLfnqC
内部分裂など起こしてアホだおね( ^ω^)
483 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 13:12:13 ID:xnfIAjIR
484 :
仙台藩百姓:2007/06/16(土) 14:07:38 ID:1AoLfnqC
成実は出奔したのだお
政宗公の惣領権を脅かすものではないお( ^ω^)
綱元も出奔したけどいずれも戻って以前通りに仕えたお
島津のように家中の統制がとれなかったり
力を持った家臣を騙し討ちで殺すような
卑怯な真似はしないお( ^ω^)
485 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 15:50:10 ID:xnfIAjIR
486 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 19:21:51 ID:Ql94cf7K
>>485 うあ!伊達政宗ってこんな小汚い卑怯者だったんか?
どおりでこの板で嫌われていると思った。
487 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 20:16:09 ID:SNU8ANLc
大阪の陣でも「伊達は功名の為に味方を攻撃したりして、つまらない
やつだ・・・」と島津も言ってます。
まぁ、そんなトコでしょう。
488 :
仙台藩百姓:2007/06/16(土) 21:52:28 ID:1AoLfnqC
>>485 それ創作だお(≧ω≦)プッ
実際は成実出奔後に城の接収を拒んだ城兵と合戦になり
何人か討ち死にしただけだお
もっとも勝手に出奔したのだから
仮に誅殺されても仕方ないけどね
家久のように忠棟を卑怯にも騙し討ちにして
怒った忠棟の一族が叛旗を翻したら鎮圧に手間取り
家康などの仲介もあり何とか降らせる事が出来たが
ほとぼりが冷めた頃一族を殺すといった
卑怯な真似とは違うお( ^ω^)
逆ギレもいいところの理不尽さだお
489 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 22:13:46 ID:I1T3u9tA
「島津奔る」の義久は無能すぎ。なんか恨みあるのか
490 :
仙台藩百姓:2007/06/16(土) 22:46:55 ID:1AoLfnqC
>>487 それも創作だお(≧ω≦)プッ
誰もそんな事言ってないし
当の合戦に参加した大名達ですら一言も批判してないお
家康も政宗公の無実を認めているお
むしろ重長などは鬼の小十朗と言われるほど
目覚ましい働きをしたお( ^ω^)
それにひきかえ島津ときたら
合戦に参加もせず山奥で妄想小説を書き
あまつさえ事実関係を知らずに妄想で批判するとは
呆れ果てたものだお( ´ω`)ヤレヤレ
大方伊達の武功に嫉妬でもしたんじゃないお?(≧ω≦)プッ
491 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 23:40:33 ID:xnfIAjIR
ま、家久(忠恒)が馬鹿殿なのは認めるw
ところで最近東大の山本なんとかという教授の説を流用して
松尾なんとかという尚古集成館の学芸員が島津家久名君説を広めようとしている模様
とーほぐの百姓のパワーで論破してくれるか
但し当方交通費通信費ケンカ要員料その他一切の費用は負担しない
492 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 00:44:17 ID:7cYQFce6
>>490 いや創作でなく事実なんですけど。
政宗は「向こうがうちの陣に逃げ込もうとしたから打ち散らした」と言って家康も
その弁を入れたが、実際には休んでいた味方の軍を後ろが攻撃して皆殺しにした。
このあたりは諸記録に残っているよ。
493 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 16:05:22 ID:8kwCizXL
伊達政宗がこの板で妙にバカにされている理由がわかったよ
494 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 16:51:51 ID:FKF/yI3j
>>492 >実際には休んでいた味方の軍を後ろが攻撃して皆殺しにした
ほう?w 何で休んでいる神保を敢えて皆殺しにする必要があるの?
その残っている「諸記録」とやらのソースをここにあげてご覧。
無論、創作講談は駄目だが。
495 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 17:36:24 ID:wGZrDyLI
496 :
仙台藩百姓:2007/06/17(日) 18:23:43 ID:Fa+gJJUO
>>492 そんな事は分かってるお
神保の武功云々で殺したと言うのは
難波戦記の創作だと言う事を言っているのだお
こんな事は2ch内ですら何年も前からみんな知ってるのに
薩摩芋ときたら今更こんなネタで喜んでるとは
こんなんだから芋芋馬鹿にされるのだお( ´ω`)ヤレヤレ
497 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 18:54:04 ID:8kwCizXL
498 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 19:15:38 ID:itor+5vz
百姓 「それも創作だお(≧ω≦)プッ 」
名無し 「諸記録に残っているよ。」
百姓 「そんな事は分かってるお 」
論破を考えすぎて持論崩壊するの巻
499 :
仙台藩百姓:2007/06/17(日) 21:21:20 ID:Fa+gJJUO
( ´ω`)ヤレヤレ
薩摩芋は予備知識を全く持たずに
いい加減に騒ぎだすから議論にもならないお
いちいち一から説明しなきゃならないのかお( ´ω`)
神保隊殲滅については多少資料が残っているのだお
大坂方に殲滅されたと言うのが一般的のようだが
伊達軍によるものではないかと言うものもあるお
正確に言うと家康が政宗公を呼んで
事の真相を確かめたと言う内容
(あくまで風聞を書き留めたものだが)
だから殲滅自体があったのは常識
殲滅自体がなかったなんて言う奴はいないお
こんな事は今更騒ぐ事ではないお
で、神保の武功を妬んだとか
休んで居るところを襲ったとか言う話しは
講談本にしか記述はないお
これは何の根拠もない話し
話しの元が不明なのだから当然だけど
だから創作だと言っているのだお
なんで煽りの説明しなきゃならないんだお( ´ω`)
薩摩芋は根本的なところから終わってるお
500 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 21:45:21 ID:itor+5vz
確かに、根本的なところから終わってるな
野良仕事に戻れよwwwww
501 :
人間七七四年:2007/06/17(日) 22:48:03 ID:8kwCizXL
>>499 伊達政宗が理由は不明だが味方の神保の隊を殲滅したんだお?
理由は懇談本に書かれているように嫉妬が原因だったかも知れないだお?
それに講談本にしか書かれていないのに、なぜ島津の殿様の誰かが政宗を批判したんだお?
島津の殿様は噂を聞いて政宗を批判したんだお?
だったら講談本よりも以前にそういう噂が広まっていたってことだお?
まったくの創作ではないっていう証拠になるだお?
502 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 06:31:18 ID:N14AZ7+w
>>501 神保勢が全滅したのは創作ではなく事実だよ。で、ここで
問題となっているのは、
>>492が「実際には休んでいた味方の軍を
後ろが(伊達が)攻撃して皆殺しにした」のも史実と書いてること。
このソースが「難波戦記」なら失笑されても仕方ないでしょ。
だから、そんな講談本じゃなく、確かな諸記録ってのをあげてくれ
るのを、皆待ってるわけだ。
あと、島津の伝聞記録だが、「政宗を笑った諸大名」を1名でも具体的に
上げてくれればいい。信憑性がますしね。
以前遂に、これに答えられなくて逃げてしまった厨がいたよw
503 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 09:03:01 ID:Ven8vHyo
父親、兄弟だけじゃ飽き足らず味方までも壊滅させるずんだ餅
504 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 09:26:51 ID:SkAlIuhi
神保の監督者たる猛将水野勝成は、政宗の前では小犬のようになって
言うこと聞いてるな。
505 :
仙台藩百姓:2007/06/18(月) 12:14:06 ID:HdN4uDrn
>>501 ほうほう
政宗公が神保を殲滅したと言い切りますかお
それは史学的大発見ですお
是非ともその資料を発表お願いしますお( ^ω^)
しかし噂で批判とは
百姓町人ならいざ知らず、大名がこの迂闊さでは
薩摩芋の程度が知れると言うものだお( ´ω`)ヤレヤレ
506 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 12:54:25 ID:j0PJQl0C
島津とか伊達程度の話題で
名将勝成の名前出すなよw
507 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 13:14:48 ID:ZaGTmpzi
神保如き殲滅して当然だろw それで政宗公の器量が小さいことになるのかよw
むしろ家康への牽制だろ。 大阪の陣終わって伊達潰しにでようものなら、こんな
DQNなことやっちゃうよって感じでな。
俺は神保殲滅はあったと思ってるよ。 真田の娘抱えたり、宗教勢力取り込んだり
相変わらずなことやってるからな政宗。 まあだからって神保殲滅が狭量だとは
思わんけどな。 生きるか死ぬかの戦国だからな、政宗公の犠牲になられてお気の毒だけどね。
508 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 14:24:55 ID:Pq6X+MDA
正直。宮城一県が騒いだって何の影響もないと思うが。
何よりスレが違うから、それぞれさっさと根城に帰ってください。
509 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 18:39:28 ID:Ven8vHyo
伊達の軍法には敵味方の区別はない
510 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 19:39:04 ID:ucCD1Shx
伊達政宗は嫌いじゃないけど、全然興味がないので、宮城県民の方々は政宗
スレで楽しんでいただきたいものです。
私は鹿児島県民ではりませんが、島津氏はスゴイと思います。
511 :
仙台藩百姓:2007/06/19(火) 12:30:28 ID:hwofCGMu
島津厨が政宗公の話しふってきたきたくせに
都合悪くなったら余所でやれですかお( ^ω^)
まったく薩摩芋は(ry
512 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 12:32:51 ID:W2zlT1tZ
513 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 13:01:35 ID:3CvtMrPn
神保が疲れて休息していたというのも眉ツバもので、裏付けがない上に怪しい。
例えば伊達の前線の片倉隊は道明寺の戦いでも、午前2時頃から延々と戦いつづけて
真田の正規軍と正面から激突している。当日は、落城で各大名が大阪城へなだれこんでいる
状態で、「疲れたから」という理由で槍をおいて呑気に休んでいるいる場合でもない。
下手をすれば、徳川の軍鑑に懈怠行為として懲罰を食らう可能性もあろう。
で、「諸記録」は?
514 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 13:32:22 ID:rJXBqgYm
自作自演臭いスレ
515 :
仙台藩百姓:2007/06/19(火) 16:20:31 ID:hwofCGMu
>>512 漏れは島津の話しをしてるお( ^ω^)
明らかに
>>483>>487のレスで脱線してるお
まったく薩摩芋は(ry
て、すっかり芋レベルに引き込まれているお(;^ω^)
なんとも実のないスレだお
所詮デンプン質か( ´ω`)ヤレヤレ
516 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 16:27:09 ID:W2zlT1tZ
分かったから。
517 :
宇喜多直家信者:2007/06/19(火) 21:18:01 ID:gopbB/5y
我が精強宇喜多軍でも、島津の釣り野伏せに勝てる気はしない、
その点佐伯惟定は偉大である、いわゆる堅田合戦であの島津家久を
破った功績はさすが、
518 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 23:52:01 ID:YGh2R0sD
>>481 惣領の行使できる力が弱かった割には
戦場では「釣り野伏せ戦法」とか「捨てガマリ戦法」だとか
兵が命を捨てるのを厭わない戦法が使えるのが不思議だな。
この間「その時歴史が動いた」で武田家をやっていたけど
武田家の家臣団も独立性が強くて、武田家の言う事を聞かずに信玄は苦労したって言ってた。
村上義清に負けたのは家臣が信玄の指揮に従わずに抜け駆けしたのが原因だったと言っていたぞ。
それに比べると島津氏の場合は、戦場ではかなり統率が取れていたような感じがするけどなあ。
519 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 00:08:59 ID:EcFd33Fh
>>518 それが不思議なんだよね。
当主の命令を聞かない割りに、耳川や沖田畷のようなことをやってのけたり、
自分の大将が死んだらその馬前で討ち死にしろなんて軍法が守られていたり。
武将クラスとその配下の結びつきが非常に強く、
一方で武将の独立性が高かく当主の言うことを素直に聞かないってことなのかな?
520 :
仙台藩百姓:2007/06/21(木) 12:28:42 ID:am5zcOCA
また妄想が始まったお(≧ω≦)プッ
そんなの珍しくもないっちゅーねんお(≧ω≦)ブブブ
まったくこれだから田舎芋は( ´ω`)ヤレヤレ
見てる方が恥ずかしいお(≧ω≦)ブピーッ
521 :
宇喜多直家信者:2007/06/21(木) 12:59:05 ID:2tEnc520
>>519 釣り野伏せは並みの武将に出来るものではないよな
さすが薩摩隼人
あと百姓消えろ、
>>521 その下段こそ不要なレスだぞ。
島津氏の支配体系の強さは時期ごとでぜんぜん違うっぽい。
523 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 22:26:57 ID:OQiSlT71
薩摩隼人の性質は桜島みたいなもんだと思えばよか。
524 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 22:42:35 ID:fxZd/3FM
鹿児島人は糞だね。
頭の悪い奴ばかり。。。職場で使い物になりゃしねえよ!!
さっさと肥溜めに帰れ
525 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 23:00:06 ID:F23u230z
しかも、その強さが幕末まで脈々と行き続けている。
長州も強かったけど、その中心は民間人で構成された奇兵隊だし。
仙台・米沢は敵じゃないしね。
薩摩=魔人ブウ 仙台=ヤムチャと言ったところか?
う〜ん、次元が違いすぎる。
526 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 07:35:52 ID:4//B/IbR
島津って中国人だろ
527 :
仙台藩百姓:2007/06/22(金) 12:16:00 ID:iynWZ2S5
中国人というか朝鮮人?
ともかく大陸系と言う事だお
薩摩隼人はどうみてもフィリピン系( ^ω^)
528 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 12:20:25 ID:Rdo9DJRC
>>525 しかし、近代の限界も見えたよね。
中世では強い軍隊だけれども、最後は百姓に負けた。
まさに最後のサムライというべきか・・・
529 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 14:46:33 ID:+Ya0nVjZ
>>525 それは薩摩藩としての強さであって島津家の強さではないような気が・・・・
島津久光は廃藩置県の時に「大久保、西郷にやられた」と憤慨してたし。
530 :
仙台藩百姓:2007/06/22(金) 16:34:41 ID:iynWZ2S5
薩摩芋は口だけは威勢がいいが
土壇場になると腰が抜けるおね( ^ω^)
いつも逃げてばかりだお(≧ω≦)ピーッ
秀吉や家康は放置したから助かったけど
西南戦争じゃ逃げまくっても
かごんままで追ってこられてしまったから
惨めな最後でしたおね( ´ω`)ナム…
531 :
宇喜多直家信者:2007/06/22(金) 16:50:33 ID:OVou5Jy+
小田原遅参針穴野郎の伊達よりましだろ。
しかし関ヶ原で義弘が生き残ったのは長寿院のおかげ。
532 :
仙台藩百姓:2007/06/22(金) 17:17:59 ID:iynWZ2S5
老いぼれ一人逃がすのに何人犠牲になったことやら
さっさと腹でも切ればよかったものを( ´ω`)ヤレヤレ
馬鹿殿を主に持つと悲惨ですお( ^ω^)
533 :
宇喜多直家信者:2007/06/22(金) 17:28:45 ID:OVou5Jy+
>>532 しかしそれほど家臣に慕われていたとも言える。
義弘は医術の心得があったので、戦場で負傷した家臣を
自ら世話したという逸話もあるぐらいだ。
また降伏してきた相手を滅ぼしたりせず、相手の戦死者も手厚く葬るなど、
島津が義に厚いことは有名。
この点伊達よりはるかに寛容で慈悲深い心だと思う。
このような主君であったからこそ、主の危機には家臣が身を挺して
守ったのであろう。
534 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 17:41:01 ID:DBTnJa5b
宇喜多直家信者はいい事を言う。
自分がそもそも島津を好きになったのも、敗死した長曾我部信親や
高橋紹運等に対する敬意なんだよね。
535 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 17:47:06 ID:+Ya0nVjZ
そう言えば…鹿児島で外から来た娘がレイプされ、
男は家に帰って両親にそれを報告。
これで嫁さんが来る。良かった良かったと家族で喜んでた所に
警察が来てターイホって話を聞いた事があった…。
レイプすれば嫁になるって薩摩男の思考もおかしいけど、
それを疑問に思わずに喜ぶ両親が恐ろしくて印象に残ってた。
八割ネタだけと思ってたけど、傷物婚 なんて習慣が実際にがあったんじゃ
あの話もマジだったのかなぁ…。
鹿児島スレとか読むと夜這いとかの話もあったし…。
傷物婚
目をつけた娘をさらい、レイプ、レイプ、レイプ。
更に暴行し、娘が半死になったところで開放。
娘が家に戻り体調が回復した頃訪問し、
娘の両親、レイプされた娘に頭を下げてお願いされて結婚する、というもの。
昔の薩摩あたりはムラ社会でレイプされたのはその日のうちに知れ渡り、暴行した男と
結婚しないとその家が村八分にされたり、レイプされた娘がふしだらとされ、
一生結婚できず、日陰の生活を強いられる。 よく言う農家脳。
536 :
仙台藩百姓:2007/06/22(金) 18:00:07 ID:iynWZ2S5
そんなのは薩摩芋お得意の大ぼら妄想伝説に過ぎないお
島津の侵略戦を見たフロイスは
島津軍に蹂躙された人々は捕虜になって連行されるか
戦と疾病で死ぬか、餓死するかのどれかだと書いてるお
領民からあれだけ搾り取る島津だもん
敵地なんて乱暴狼藉し放題だお( ´ω`)
また、島津軍の捕虜になった者達は羊の群れのように
市場を歩かされて、一、二文の安値で売り払われたらしいお
島津軍の凱旋時は拉致した大量の女子供で
道が渋滞して大変だと島津の家老も日記に記しているお
島津軍はまるでイナゴの群れだお( ´ω`)
島津軍の来る所、残るは絶望のみと言ったところだお
537 :
宇喜多直家信者:2007/06/22(金) 18:10:10 ID:OVou5Jy+
>>536 大友からの視点だからなあ・・・
しかしそれぐらいどこの大名でもやってるぞ、徳川伊達織田しかり、
ちゃんと高城川も木崎原も慰霊碑は残ってるし、
にわかにすべてデマとは信じられん。 何しろ高森惟直ほどの者さえ許している。
538 :
仙台藩百姓:2007/06/22(金) 18:14:23 ID:iynWZ2S5
539 :
仙台藩百姓:2007/06/22(金) 18:21:12 ID:iynWZ2S5
>>537 だから薩摩芋の言う事は大ぼらだって言ってるのだお
義も慈悲もあるかいな
せめて領民ぐらい慈悲かけてやりゃいいおにね( ´ω`)
島津も領民(隼人)は土人だと馬鹿にしてたのかもね
540 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 18:28:15 ID:Kw87/BM7
また会津の負け犬が吠えてるのか?
541 :
仙台藩百姓:2007/06/22(金) 18:45:59 ID:iynWZ2S5
会津で思い出したが
近代でも戊辰の役で敗軍の会津相手に乱暴狼藉し放題して
いまだに怨まれてるんだおね( ^ω^)
先祖が先祖なら子孫も子孫だお
薩摩の野人相手に武士道語っても意味ないけど(≧ω≦)ピッ
542 :
宇喜多直家信者:2007/06/22(金) 18:56:18 ID:8XExTCMM
>>539 慈悲どうこうではなく幕府が島津の力を削ぐため石高も籾で換算させたりしたため、薩摩藩の
財政が厳しくなったためやむなくの処置というのが真相だろう。
しかし島津家も倹約貿易はしているし、八公二民でも最低限だったとされている。
けして過度の年貢取立てというわけではなく、必要最低限の処置だったといえる。
また薩摩国は面積のわりに人口が少なく、また土壌も豊かであったので、
河尻秀隆の甲斐や富樫政親の加賀のように、一揆が起こったことは一度もなかった。
これはむしろ島津本家・分家と農民が一体となったゆえの処置といえよう。
慈悲なしの藩であったら自分たちは裕福に暮らせるだけの年貢を取り立て、
倹約なんかするとは思えんが。
543 :
仙台藩百姓:2007/06/22(金) 19:40:40 ID:iynWZ2S5
最低限で8公2民てどんな悪政だおw
これ以上ないくらいの搾取だお
一揆が起きなかったのは善政だからではないお
例の侍過多によるものだお
三役や庄屋を始めとする他藩では百姓が担当する部分も
薩摩では全て士分を配置したお
本来百姓の不満を聞く役割の者達が監視役になっているわけだお
あとは百姓の配置を換えなども行った
それらによって農民の横の繋がりを徹底的に絶ったわけだお
結束できなきゃ一揆を起こしようがないお
級武士と結託した一揆が多少起きていたけどね
でも諸島に比べれば本土の弾圧などまだマシだお( ´ω`)
島津領の諸島は奴隷化されていたからね
544 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 20:09:25 ID:+Ya0nVjZ
>>542 >また薩摩国は面積のわりに人口が少なく、また土壌も豊かであったので
えっ? シラス台地で土壌は貧しかったと思うが?
それに人口は少なくないぞ。
>河尻秀隆の甲斐や富樫政親の加賀のように、一揆が起こったことは一度もなかった。
確かに致命的な一揆は起こらなかったが小さな一揆は起こったぞ。
というか一揆というのは単なる百姓抗議とかも含むんだが。
>しかし島津家も倹約貿易はしているし、八公二民でも最低限だったとされている。けして過度の年貢取立てというわけではなく、必要最低限の処置だったといえる
「八公ニ民」が全盛なわきゃないだろう。
薩摩で一揆とかが押さえられてたのは字慈悲とか倹約ではなく半士半農が多かったらだ。
本当の農民は地獄統治だった。
545 :
宇喜多直家信者:2007/06/22(金) 20:20:29 ID:8XExTCMM
確かにやりすぎかもしれん。さすがにもう反論できんので謝る、すまん。
しかし島津が義に厚かったのと薩摩の人口が少ないのと土壌が豊か(ちょっと違うかもしれぬが、
南国なので独特の生産物があった)なのは事実だと思うぞ。
546 :
宇喜多直家信者:2007/06/22(金) 20:40:36 ID:8XExTCMM
関係ない話ですまんが、梅北国兼は一体何がしたかったのだろうか、
豊臣家の支配から脱却しようとしたという説もあるが、正気とは思えぬ。
547 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 22:58:11 ID:Hkop4Ppn
内政面で言えば島津より徳川や北条のほうがはるかに善政
548 :
宇喜多直家信者:2007/06/22(金) 23:20:51 ID:8XExTCMM
内政面で言ったら北条が一番だろうな
549 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 01:01:16 ID:2pcXF5Co
うちは関外四郷の郷士出身だが未だにかつての小作の人たちと仲良くやっているのだが…
ホントに農民は苦しかったんだろうか?何となく八公二民は「米」に限っていた…というような気がするんだが。
ウチも5〜6代前の人たち小作の人と混じって畑を耕しながら幕末やらを乗り越えていたみたいだし…
それとも同じ薩摩藩内でも鹿児島側と宮崎側で環境は違っているのか?
結構資料とか知っていそうな仙台藩百姓氏、何か楷書で整理された資料無いですかね?
ウチに残っている分限帳とか、図書館の資料だけではワカランところが多すぎる。
…まあ、自分が古典資料を読む勉強不足だとは解っているんだが、片手間ではどうしても限界があるので…
550 :
宇喜多直家信者:2007/06/23(土) 02:12:02 ID:zTxIKoR5
>>549 おおっ、生々しい証言ですな、
それはそうと気になって調べてみたら変なことに気付いた。
八公二民はつまり収穫米の8割を年貢として収め、自分には2割しか残らないという事である。
しかしよく考えたらおかしい。当時の非農民と農民の割合を考えると、
非農民1割5分(武士など他)、農民8割5分であると言われている。
ならばそれほどの年貢を徴収して一体何に使ったのであろうか。また米を8割徴収し食うほどの
大食いがごろごろいたわけでもない。
当然余った米を輸出できるはずもなく(鎖国)、それならばどこかに間違いがあるとしか考えられない。
551 :
宇喜多直家信者:2007/06/23(土) 02:27:38 ID:zTxIKoR5
しかしこれらの疑問は今までの、八公二民=過酷な年貢、庶民の貧困というイメージを
覆すことによって解決する。
まず8割の年貢というものがそれほど過酷なものなのであろうか。
普通は過酷だと考えるだろうが、現在でも高額納税者は8割近い所得税をとられる
場合があるのである。それでも、農民のような低所得者には厳しいと思うかもしれない。
しかし、よく考えてみれば年貢というのは土地にかかる税なのであって、土地の
所有者が払うべきものである。
土地の所有者とは、近代的な土地所有の観念とは違うが、自作農以上の農民のことである。
地主から土地を借りて耕作している小作人は、地主に小作料は納めねばならないが、
年貢をとられるということはなかった.
552 :
宇喜多直家信者:2007/06/23(土) 03:02:19 ID:zTxIKoR5
自作農、つまり土地持ち農民は生産手段と労働力を自前で持っているのだから…
…れっきとした経営者なのである。経営者にも差はあるが、今でいう社長だから
低所得者とはいえない。
小作人は今で言えば歩合制の従業員に相当する。またいうが、小作人に土地を貸してる
地主が経営者である。また江戸時代の農村の争議は、領主や代官と農民の間ではなく
地主と小作人との間に持ち上がってきた場合の方が多い。現代の企業内争議とかわらん。
さらに水呑百姓というのがいる。自作農以上に雇われて耕作する季節労働者で、今までは
最下層の貧民の象徴とされていたが、近年の研究の結果かなりの裕福な者もいたことが
分かってきた。
この水呑百姓は貧しいゆえ労働ではなく、今でいうパートタイマー、別の本業を持ち、
アルバイトとして農作業を手伝う、という者が多かったようだ。ただ自分の土地は
持ってないので江戸制度では最下層に分類されてしまったらしい。
しかし本業は商工業であったりしたという。当然土地無しなので年貢は払わない。
553 :
宇喜多直家信者:2007/06/23(土) 03:24:49 ID:zTxIKoR5
こう考えると、5〜8割という年貢がそれほど過酷だったとは思えなくなる。
充分その負担に耐えられる者からしか、取ってはいなかったのである。
また、本当に5〜8割の年貢を搾取されていたのだろうか。年貢の元になるのは
当然検地である。検地台帳にはその田畑から見込める生産量が、土壌、日当たり、
などのデータから事細かに算出されている。
この検地は毎年必要なものであるから、各藩が大切に保管している。しかしある
学者がこの記録を集計し、1つの村あたりどのくらいの間隔で検地が行われたかを
確かめた。
その結果は驚くべきものであった。なんと江戸270年間を平均して、各村につき
たったの2回という結果が出たのである。
…また農家所得は3割程度しか把握出来ないと言われる。
これで分かるだろうが、脱税のし放題なのである。この事態を危惧し対処しようとした
まじめな代官達が、今で言う、悪代官とされたケースも多い…らしい。
1840年代に海外の歴史学者らは、住むならどこがいいかの質問に、
「貴族階級ならイギリス、庶民なら日本に住みたい」と答えたという…
以上だが、これは自分で考えたものでは当然ない。1990年代の本2冊参照、
どの程度信用できるのかは分からぬが、なかなか説得力のある説である。
八民二民でその日食うものにも困るようだと、上がいくら厳しくとも一揆が
起こらんはずがない、と俺は思っていたので、この説には共感する…
長々とスレ汚してすまんかった。
554 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 07:46:19 ID:PTZW4NXD
島津とか真田とか武田とか前田とか
戦国史でファンがついて好意的に見られてる大名が
民にとっても優しかったという事はないんだが。
「私はその大名の地元だが好意的に見られている」とかもアテにはならない。
単に時代が下るとそういう大名の勢力を強さのみを一般人も誇るようになるしね。
例えば俺は石川県の人間で前田家の膝元なんだが、今の石川では[加賀百万石のお殿様]として
凄く前田家に対する評判はいい。
しかし、実際は前田家は全国でも屈指の搾取を行ってた。
あと戦国期なら武田の地獄統治は有名だった。
毎年、餓死者が出るのは当たり前で逃亡者もたくさんいたとか、当時の史書は語っている。
555 :
仙台藩百姓:2007/06/23(土) 07:49:23 ID:gacL8vQD
宇喜多信者も少しは頭のいい奴かと思ったら
こいつもただの妄想君だったか( ´ω`)ヤレヤレ
556 :
山形義光:2007/06/23(土) 07:56:36 ID:4DJ49g5c
やはり最上だな
557 :
554:2007/06/23(土) 07:58:53 ID:PTZW4NXD
福島正則とか見ればわかるとおり、
「大名、武将としての好感」というのが
必ずしも「民に厚かった」というのと結びつくわけではない。
戦場で大暴れしたり、武将同士の友情話しとか主君への義理堅さと
「民への慈悲」はまた別問題。
それどこころか確か武士の所領というのは
「少しでも多額の税を徴収し多くの軍備を整える」のが主君への忠誠であり「良い大名」と考えられてたんだが。
そもそも武士の所領なんてのは「軍事費」というのが本来の意義だったと思うが。
島津とか真田とか好きな人は
「彼らは民にも厚かったんだろうな」とか思いたいんだろうけど、
それは残念ながら違う。
558 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 09:56:47 ID:lt1sZy5c
まだ無名時代の西郷隆盛家では、1組のフトンに4人くらいが足を
突っ込んで寝ていたんだよね。たいした善政だw
559 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 10:04:05 ID:9NdzCkUs
関外四郷の郷士の末裔の方が書き込んでいたけど、私の家は鹿児島県内のとある郷の
郷士(戦国期までは地頭クラスだったのに、用済みになりリストラされたみたいです。)
で三役やってたみたいです。
小作の人達と仲良くやってるとのことですが、うちの方は同じ郷内でも士族(郷士)の集落
と、平民(農民)の集落とは分かれており、戦前世代までの人達には未だに差別意識があります。
でも、今は田舎に残っているのは昔からの家が多く、純粋な農民身分の家は戦後に都市部へ出て行って
しまったのでしょうか、あまり見受けることがありません(名字でわかる)。
という私の親も学校、就職と都市部へ行き、私は生まれも育ちも鹿児島ではないのですが・・・。
親や祖父母の話を聞くと、先祖達は士分で役職も広い土地もあったが、やってた事はやはり他の日本の
農村部における自作農と変わらなかったみたいです(父も祖父も百姓仕事はプロ並!)。
もっと、薩摩藩の外城制度について知りたいので帰省したら何か調べてみようかと考えています。
560 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 10:17:01 ID:wNSkrWkH
薩摩藩は500万両の借金をかかえていた。
参勤交代の金も容易に工面できず、大坂までで旅費が尽きて
立ち往生する有様だった。一般農民の悲惨さが知れるというものだ。
561 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 11:23:55 ID:tO/8cejr
それを言うなら参勤交代や宝暦治水などを命じた幕府にも責任がある
のでは? まぁ重豪の豪奢な支出にも問題はあるが・・・。
幕府は島津を潰したかったんだよ、家康が島津・毛利を特に注視して
いたのは有名な話。後継ぎがいなくて潰される所を過保護に助けても
らってる仙台とは訳が違う。
562 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 11:48:07 ID:75iAUMiL
563 :
仙台藩百姓:2007/06/23(土) 12:36:31 ID:gacL8vQD
>>561 それだけ義久や義弘がアホだったと言う事だお( ^ω^)
奴らの判断ミスの代償を後々まで背負わされたわけだ
実際に負担させられるのは下の者達なんだから迷惑な話しだお
毛利は必死に富国政策を推し進めていたようだが
島津の貧困ぶりを見るに
薩摩芋は搾り取るしか考えがなかったんじゃないお?(≧ω≦)プッ
思想的にも長州は進んでいたし
薩摩芋とはえらい違いだお(≧ω≦)ピーッ
564 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 13:05:59 ID:tO/8cejr
そんな薩摩芋のボコボコにされた伊達もアホだね!って言いたいとこ
だけど、よく考えてみると戊辰戦争自体も捏造だという事に今気づいた
よ( ^ω^)
百姓様が崇拝する伊達家が薩摩芋如きに負ける訳がない。
神聖なる政宗公の血を受け継いだ伊達慶邦公は早く戦争を終結させない
と日本は植民地化されると危惧して、多大な犠牲を払っても日本を守り
ぬいた訳なんだ。
仙台藩では年貢など搾取してません。藩の運営はすべて善意なる民衆等
の寄付で賄われてます。 事実です!!
偉大なる伊達家を中傷する小者どもは捏造という手段でしか対抗できな
かったんだね!う〜僕も伊達厨になろうかな。
565 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 14:59:12 ID:eg60F9Lu
>>561 将軍が大名から正室を迎えたのは島津だけ。しかも外様大名。
家康が注視していようが150年も経てば見る目も変わる。
島津斉彬は阿部老中のおかげで家督を継げたわけだし、
一橋派の中心人物ですらあった。
566 :
宇喜多直家信者:2007/06/23(土) 15:10:17 ID:Uji0T6gm
567 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 23:04:40 ID:O7L57zIO
税が軽ければ、善政=内政優秀な大名という思い込みもゲーム脳らしい間違いだと思う。
優秀な大名とは、可能なかぎり民から搾取しつくしていながら、民が一揆を起さないような統治をする大名のことだと思う。
568 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 23:28:45 ID:yC0GADVx
雑穀しか食べてはいけない仙台藩の農民はなぜ米を作っていたの?
569 :
山形義光:2007/06/24(日) 00:12:44 ID:DG8ATJmU
最上への貢ぎ物だろ
バカか?
570 :
549:2007/06/24(日) 00:43:16 ID:RAbq64Nd
宇喜多直家信者氏もよく色々調べておられますね…自分の不勉強がよく解りますわ…
>>559 まあ、ぶっちゃけ高岡なんですが…高岡の町は、外から攻めてくる敵に対する防衛線だけでなく
紙屋、去川の関から逃げ出そうとした薩摩藩の犯罪者を斬るための町…とも言われていますから
元々藩内でも白い目で見られていた…だから、ほかの郷と違う空気ができたとも言えるかもしれないですね。
…とりあえず犯罪者を斬る云々は郷土史研究会の会報で見かけただけなのでどこまで本当か解りません。
一揆の話が出ているのでほんの少し薩摩藩内の一揆(?)など…
郷…つか外城には鹿児島から地頭が派遣されるのはよく知られているかと思います。
ところがその地頭がその郷で理不尽な圧政をした場合、二才衆などは地頭長屋に討ち入りをして地頭を追い払ってしまった…
というお話が残っています。
結構他の外城でも一所持でない限り地頭を追い出すと言ったお話はあるんじゃないかと思います。
ところがこれは百姓一揆ではなく武士同士のいざこざとして一揆に数えられていない。
だから薩摩藩では一揆がほとんど起きなかった…と、捉えられているんじゃないかと思います。
…まあ、これも上と同じで郷土史研究会の会報に載っていた話なのでどこまで本当か解りませんがね。
奉公に対する御恩が十分でない上役に対しては郷士が反抗もする。
小さな支配者の集まりが薩摩藩の実態じゃないかと思います。
「薩摩藩の民衆支配の構造」って本がこっちでは売ってますがまだ買って読んでいないので何とも言えないところです…
571 :
559:2007/06/24(日) 10:57:17 ID:QgWBYpGE
>>549 レスありがとうございます。
地頭を追い出したという話は初めて知りました。
薩摩藩では、土佐藩などと違い元々城下士と郷士は同格であり、上級郷士等は
城下士の下層(西郷等の)よりも家格にしても経済面でも上であったと思います。
ところが、江戸中期の藩の改革(リストラ政策)により身分上において差別化
されてしまった。
このような面からも、地頭追い出しなどと発生した起因になるのでしょうか。
明治維新後の城下士と郷士の対立(西南戦争でも見られる)にも、反映しているように思えます。
いえ、たしかに鹿児島は今でも貧乏県ですよ。
戦後、うちの父や祖父達もシラスを掘り起こして耕作可能な土壌を出し田畑へと開墾していたくらい
ですから。米にしてもあまり質の良くないものがわずかに取れる程度です。
鹿児島の風情や人情、歴史などは貧困故のものであるのでしょう。
そんな鹿児島も、私にとってははるか昔に南海より筏に乗って渡ってきた先祖伝来の土地ですし、
唐芋侍の子孫としてとても大切なとこなんです。
572 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 12:33:12 ID:02dXi+ac
>>571 単純に米作に向いてない地とでは米以外の作物を作ればいいと思う。
米の出来る地方は米。米のできない地方はサツマイモ。
冷涼な土地は大麦というよにね。
しかし日本ではそういうのが許されてなかったとなあ。
どこでも米を作ろうとするし。
573 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 00:31:32 ID:77qH4clc
もともと豊後・豊前・筑前・筑後、肥後・肥前は上国。
日向・大隈・薩摩は中国。貧しい土地だったんだよ。
長曽我部信親の亡骸を葬って供養したのは、戸次の地元民。
574 :
宇喜多直家信者:2007/06/25(月) 02:54:41 ID:HFV8834+
>>573 谷忠澄じゃないのか、
土佐物語では、忠澄自ら島津軍に出向いて、保管されていた信親の亡骸を
持ち帰り、高野山に供養の堂を建て、同時に死亡した土佐武士700人余りの
霊を弔う大石塔を建てたとされてるが、
まあ土佐物語だから分からんが、
575 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 20:25:36 ID:Ct9m6RHh
576 :
人間七七四年:2007/07/05(木) 05:15:40 ID:e113CbxW
島津家を馬鹿にする奴見ると、なんか怖いよ…島津島津と言ってるから鹿児島は田舎だ、とほざいた京都の院卒君、なんか怖いよ…じゃあ御所潰せよ。いや、島津家馬鹿にする奴見ると、俺は怖くて仕方ないよ。
577 :
人間七七四年:2007/07/05(木) 07:17:06 ID:TIqpZSo0
?
578 :
山形義光:2007/07/05(木) 11:21:42 ID:wdtbqr0J
あれこそ島津武士だな笑
島津は好きでも嫌いでもないが、田舎だからといって
差別するのもどうかと思う。他に理由あるのならすまんが。
580 :
人間七七四年:2007/07/06(金) 01:05:31 ID:wiBFpB9D
別に島津は好きでも嫌いでもないが、
>>576みたいのを見ているとバカにしたくなる
581 :
長門 ◆q8GdomS4XA :2007/07/06(金) 02:57:18 ID:bs54+l23
戦国時代の九州は田舎と馬鹿に出来ないのでは?
少なくとも装備や施設面では九州って関東より上なんじゃない?
関東って小田原城でさえ瓦が殆んどないありさまなんだよね?
>>581 関東というか後北条家だろう。
北条家は中央とはほとんど関わりを持ってないからな。
確かに伊東氏の日向とか大内の山口はかなりの発展地。
584 :
583:2007/07/06(金) 03:06:10 ID:Y8Rd6xqM
585 :
山形義光:2007/07/06(金) 10:36:30 ID:mS7QDqA+
大陸文化の入り口は九州だからね
やはり奥州が一番田舎
586 :
人間七七四年:2007/07/07(土) 18:21:23 ID:JFJadjx5
>>582 北条氏綱から名乗る相模守や左京大夫は自称じゃなくてちゃんと朝廷から許されて名乗ってるもの、
中央とのつながりは決して少なく無い。
587 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 01:11:44 ID:ECQoOXc8
で、島津は中央との繋がりを持っていたのか?
588 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 22:27:05 ID:2REyuUk7
つ 近衛
589 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 13:16:05 ID:0Fum1gg2
島津氏はわざと少数で戦ってるの?
590 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 10:52:17 ID:fiZJfKFU
>>587 徳川将軍家に2人の正室を送り込んでいるが、
2人とも近衛家の養女として嫁入りしている。
591 :
仙台藩百姓:2007/07/13(金) 12:33:27 ID:TbQpA3+g
薩摩と朝廷との関わりは深いお( ^ω^)
古くはまつろわぬものとして大和朝廷より幾度も討伐をうけたが
朝廷は隼人を珍獣として都へ連れ帰り門外で飼育して番犬としたお
彼らは狗人(イヌヒト)と呼ばれ
遠吠えをあげて貴人を迎える役目を近代まで担ったお( ^ω^)
592 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 12:46:14 ID:bhSPbvj9
坊津に流された近衛家当主もいたしな。
593 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 04:24:48 ID:pkkH7oyE
きやゃあああああー!!!!!
す、すまぬ、生まれた時から、野球はトラファン、宗派は島津。
594 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 03:07:10 ID:zrfkf7sw
島津歳久の何が優れているのか分からん
あいつDQNじゃね
595 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 02:11:57 ID:M0EcVnMp
>>593 根っからのトラファン=弱い時代からのトラファン=負けて負けて負けて負けてたまに勝つような弱い者好き
ということは
>>593の脳内では島津は…
596 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 18:44:50 ID:XUYxR05N
義久→ラオウ
義弘→トキ
歳久→ジャキ
家久→ケンシロウ
597 :
人間七七四年:2007/07/23(月) 02:46:07 ID:CRrtiWYg
>>594 堂崎合戦で相良を撃退して義弘隊を救ったり、城攻めで幾つも功績上げてたはず。
黙殺されてしまったが、九州征伐で歳久の意見が通ってればまた変わってたかも。
晩年の奇行は養子が死んだせいだとか、反豊臣との心中が目的だとか言われてるがぶっちゃけ謎。
後、今では廃れてしまったが菩提寺が鹿児島三大詣りとして忠良、義弘のものと同列に扱われてて、
鹿児島での人気も高かったそうだ。
如何せん義弘と家久が派手すぎて義久と歳久はかすんでしまっているが、この二人だって十分名将だぜ。
両方ともあまり合戦に出ないタイプだったようだが、それでも功績残してるなら十分かと。
というかDQNは家久だろう・・・常識的に考えて
598 :
お約束:2007/07/23(月) 13:38:35 ID:1ZcQKDCf
どちらの 家 久 かな(・∀・)
599 :
人間七七四年:2007/07/23(月) 15:57:32 ID:0zvDdfeh
質問。
薩摩武士のエピソードの一つだったと思うのだが、英国艦隊か何かに
物売りの姿をして近づき、外交文書を届けるふりをして、三人くらいで乗り込んで
乗組員を全員斬る話。 英国人が文書を持った一人だけ乗せろというはずだから、
聴き間違えたふりして、一人が乗り込み、さらに一人が乗り込む。最後の文書を持っている
男が乗り込んだら、隠し持った刀で乗組員を斬り、船をゲットする計画だったような・・・
未遂に終わったが、島津の殿様じかの命令だったという。
どうしても重い打線
600 :
人間七七四年:2007/07/23(月) 19:35:17 ID:CTii0Mbq
で、何を質問したいの?
4兄弟のうち、上2人を生かすために下2人が進んで犠牲になった。
オレは堅くそう信じてる。
602 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 06:04:35 ID:khZiePUF
>>597 俺も歳久大好き。でも、本とかに余り活躍がのっていないので、後半しか知らない・・
歳久ネタを教えてください!城攻めの話とか知りたいです!よろしくお願いいたします!
603 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 09:42:46 ID:4gD7TcN1
石田三成のおかげでなんとか検地を終えますた
604 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 02:21:15 ID:fb5VpsBp
義虎。
605 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 02:27:57 ID:fb5VpsBp
595 俺の脳内では島津は、薩州島津家だったんだな。
606 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 04:17:21 ID:sDT90ghi
最強だかなんだか知らんが田舎すぎw
607 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 05:28:15 ID:E3IXgTNk
日本最果ての土地だから生き残れた
609 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 20:49:50 ID:4PTBI+dy
>>605 田舎って言っても、西日本だから関東よりずっと都会でしょ。
東京に集権された今でも60万いるしそこそこだぞ。鹿児島行ったことないだろ?
610 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 01:56:38 ID:qU5+Cwvg
関東より都会なわけ無いだろ、常識で考えろ。
611 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 04:34:22 ID:kbr0PZ+g
612 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 05:13:24 ID:qU5+Cwvg
戦国時代関係ない
613 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 09:37:35 ID:8Xib56oO
614 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 14:54:42 ID:kbr0PZ+g
夏だな
615 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 18:23:32 ID:qU5+Cwvg
ちなみに薩摩の村数は300前後、石高は遥かに低い伊豆とあんま変わらん。
616 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 20:34:11 ID:8Xib56oO
今日は暑いねぇ
617 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 06:39:55 ID:kmbnIacc
>>606 軍事力と国力はイコールじゃないしな。
島津は人口における武士の比率が非常に高い割に
一人に対する禄高が低かったらしい。
そこが戦争だけは強くなる秘訣だったのではないかと。
618 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 08:58:44 ID:EoO0uWAt
表高77万石でも奄美を含めないと50数万石。
しかも火山灰地だから実高は半分くらいなんだろ。
西郷みたいな貧乏武士ばかりで話にならない。
歳久はまだしも
家久が毒殺されたとかは嘘だろう。
つーか、何で島津オタは
それに拘るかわからん。
>>620 当時はな。
戦国時代の関東以東は田舎というより未開の地と言って良い程。
しかしシラス台地で人口に対して武士の割合が高かった薩摩が貧乏だったのも事実なわけで。
田舎かどうかは知らんが、関東よりも先進地帯だろ
ていうか何故田舎とか貧乏とかなんて話題がループしてんだ。
当時の関東が田舎なのも薩摩が貧乏なのも変えられない事実だろ。
>>話題がループ
ヒント:世間では学校が夏休み突入中
戦国時代の関東をもっとちゃんと調べた方が良いよ、
徳川が行くまでは寒村だったなんていう徳川の都市伝説を未だに
信じてるようじゃ恥ずかしいにも程がある。
江戸が徳川いくまで寒村だったとかはよく言われる嘘だよね。
実際は小田原、鎌倉に次ぐ開けた場所だった。
東京湾は戦国期から江戸湾と呼ばれてたし。
627 :
人間七七四年:2007/07/29(日) 20:56:42 ID:sGgfDiaq
鹿児島育ちの島津久光は西郷隆盛に田舎者呼ばわりされてたようですが。
628 :
仙台藩百姓:2007/07/29(日) 21:04:17 ID:7Pphd00k
せごどんだって田舎者だけどね( ^ω^)
世間知らずと言う意味でいったんだろうけど
629 :
人間七七四年:2007/07/29(日) 21:10:20 ID:iInZtjwP
>>625>>626 戦国時代に関東が以外に開けていたという所は同意。
だけどこのスレ的にぶっちゃけどうでもいい。
国力はどうだったとか技術的に進んでいたかとかは意味有るが、
よそと比べてどっちが田舎かなんて議論は無意味。
夏厨に釣られてどうする。
630 :
人間七七四年:2007/07/29(日) 22:48:53 ID:LBk9pgHG
島津とは少しずれるのですが、
種子島に伝わったものが、島津を超えて根来寺に先に
伝わった経過を教えて下さい。
>>630 鉄炮伝来を知った根来衆の津田監物が、種子島へ行き種子島時堯からもらった
鉄炮一丁を紀州根来へ持って帰った。
632 :
人間七七四年:2007/07/29(日) 23:18:08 ID:LBk9pgHG0
根来衆のネットワークはそんなに広かったのですね
津田監物は種子島の御用商人ですかね
情報の広がりの早さはすごいですね
633 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 00:44:16 ID:m17jH/sL
>>632 キーワード:
種子島家
貿易
日蓮宗
それぞれの深いつながりを考えると、おのずから見えてきます。
634 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 22:23:32 ID:AyEtKHVJ
鹿児島は屯田兵だからなぁ、必要になったら戦うって感じか。
635 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 22:55:41 ID:4Cbt/42N
それで国外出兵となると小勢しか出せないの?
それにしても国土防衛戦のはずなのに耳川でも少ないな。
636 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 23:05:08 ID:9vBbzgTe
もう一つ、紀伊ではもともと海上交易が発達していたこともあります。
紀伊の住人は船で四国沖から薩摩坊津へ、そこからさらに琉球や中国まで出向いて
商売やっていたそうな。
637 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 17:09:00 ID:ZoDq93HM
あげ
638 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 19:24:17 ID:HC0mmYKk
今日、岩屋城跡に行ってきた。
兵どもが夢の跡か・・・。
639 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 19:26:37 ID:9QDD254y
岩屋城跡って徒歩になるの?
640 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 21:54:02 ID:i50o5uTI
641 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 22:00:06 ID:HC0mmYKk
岩屋城跡は四王寺山って山の中腹にあるんだけど、頂上まで舗装道路があって、
車で行けば徒歩は1分くらいかな。
近くには高橋紹運公と玉砕した兵士達の墓もある。
眺めのいい静寂な城跡からひぐらしの鳴き声を聞いてると
何か感慨ぶかくなってね。
642 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 11:24:24 ID:z9IUrvES
643 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 12:42:15 ID:YUBoWjL/
これ『葵徳川三代』の物だね(番組自体は『その時歴史が動いた』のようだが)
山口裕一郎@来年は島津久光 自体に不満はないんだが
今見たら鎧兜の考証には不満があるな。
現存している豊久の鎧(関ヶ原で着用していた物らしい!)は南北朝風の古風な物だった。
こんな当世具足じゃないはず。
『葵』は他の武将の鎧兜の考証は緻密なだけにやや残念。
644 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 00:49:43 ID:+uKC11qm
何言ってるのかわかりませんけどカッコよかった。
645 :
人間七七四年:2007/08/21(火) 06:04:48 ID:6YofpmJl
島津の下にはどのくらい中央の情勢が伝わっていたのだろうか
646 :
人間七七四年:2007/08/21(火) 11:36:37 ID:FNnQHtQr
それなり。
よく「田舎もんの島津は中央の情勢を知らないから負けた」といわれる九州征伐でも
義久は早くからまともに秀吉と闘っても負けることを理解していたようだ。
ただ、それを弟の忠平、家久以下の暴走主戦派(当時の島津家で最有力派閥)
に言って聞かせて理解させてやることが出来なかった模様。
今時専で再放送している『独眼竜政宗』の伊達家中のドタバタぶりを見てると、似たところがあるなと思う。
最も伊達家の方は当主自体が暴走主戦派だったが。
本能寺の変もほぼ時差なく幹部クラスには情報が伝わっている。
しかし、新納忠元の手紙には
「明智光秀の謀反で、細川藤孝様もおわりだな」
みたいなことが書いてあって、細部についてはアバウトだった様子。
647 :
人間七七四年:2007/08/22(水) 20:52:57 ID:pBD6UUwj
>>646 >「明智光秀の謀反で、細川藤孝様もおわりだな」
>みたいなことが書いてあって、細部についてはアバウトだった様子。
当時の情勢を考えれば、至極全うな意見だと思うが。
おそらく、中国・関東・北陸辺りでもこのくらいの認識だったんじゃないか?
648 :
人間七七四年:2007/08/23(木) 21:19:33 ID:Sr3fvEwj
7年くらい前に学研が島津戦記という本を出していたようなのですが、どなたか本の内容を知っている方いませんか?
掲載されている合戦の一覧と、歳久や豊久の記述部分もお教え願えたら嬉しいです。
今になって、本の存在に気付いたゆとりですが、ぜひ、参考にお願いいたします。
649 :
人間七七四年:2007/08/23(木) 22:17:46 ID:LXy+msaw
まじで?すげぇ、欲しいw
650 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 00:11:02 ID:pmGkZAT9
『裂帛 島津戦記』のことか?
歳久専用ページは2頁、豊久も同じくらい
歳久の担当は作家、豊久は尚古集成館の学芸員だったが
実は豊久については間違いがどうどうと書いてあるw
合戦についてはかなり詳しく取り上げてたと思う
特に詳しいのは
・木崎原の戦い
・高城川(耳川)の戦い
・沖田畷の戦い
・関ヶ原
泗川、露梁津については余り覚えていない。
人物の人となりを深く掘り下げた内容を期待しているなら
余り期待しない方がいいかも。。。
市立図書館など一般向けの本に強いところで、意外に所蔵していたりする。
百聞は一見にしかず、あきらめずに探して見なされ。
651 :
648:2007/08/24(金) 06:47:51 ID:Cs/7L6u+
>>650 有難うございます。歳久と豊久が2ページもあるんですか。そいつは嬉しい限りです。
頑張って探してみます!
652 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 11:38:01 ID:VmBJ0G5T
忠将・尚久・以久あたりはやはり放置されてるんだよな。島津戦記。
653 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 12:52:41 ID:pmGkZAT9
>>648=
>>651 豊久に関しては1頁だったかも知れない(ともかく記憶が曖昧)
重ねて言うが、人物の人となりを知りたいのなら、余り期待しない方がいいです>島津戦記
>>652 忠将辺りは武功もあるから取り上げるにふさわしいと思うんですけどね。
654 :
人間七七四年:2007/09/05(水) 03:08:05 ID:xYKcUoLz
妙円寺が近いのう。
655 :
人間七七四年:2007/09/05(水) 20:00:00 ID:3TwaPMrO
参りたいのう。
656 :
人間七七四年:2007/09/05(水) 20:17:28 ID:xYKcUoLz
遠く大阪より彼の地を応援いたしております。
657 :
人間七七四年:2007/09/05(水) 23:14:03 ID:0tkiPrGy
島津4兄弟
次男・島津義弘
ご存知「鬼島津」。
島津を九州制覇後一歩というところまで引っ張り、その後の朝鮮征伐、
関が原でも比類なき武功を立てる、九州史上最強の侍。
三男・歳久
智謀・武略に長けた島津家の大黒柱。兄弟を支え武功を積み重ねる。
秀吉の九州侵攻に最後まで抵抗するなど、忠義一徹。
最後は秀吉の島津家追求を防ぐため、自ら命を絶つ、まさに男の中の男。
四男・家久
島津兄弟最強を謳われる島津家末弟。
大友を壊滅した耳川の戦い、龍造寺を滅ぼした沖田畷の戦い、いずれも
少数の兵力で大勝利を挙げた戦争の天才。
最後はその才を恐れた秀吉に毒殺された悲運の名将。
長兄・義久
もはや説明不要のバカ殿様。
戦が怖くて優秀な兄弟にまかせて城で寝ているだけだったという臆病者。
秀吉の実力を侮り九州の領土を失うばかりか、今度は家康の実力を見誤り
関が原で西軍について義弘を殺しかける。
結局、島津の領土を元の九州の片隅だけにしてしまった無能者。
他の兄弟に比較して革新の義久の能力が高すぎる。
自作では是非改善を期待する。
46 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 07/02/04 10:44:34 ID:QW75ZaG4
>>4を修正
(A〜E評価)政治 統率 知力 教養
島津 貴久 C C C C
島津 義久 B D C A
島津 義弘 D A C C
島津 歳久 D C B C
島津 家久 D A C D
島津 以久 C C C D
伊集院忠朗 B C B B
伊集院忠棟 B D C B
新納 忠元 B C C B
平田 宗茂 D B D D
頴娃 久虎 B C D D
川田 義朗 D D B B
659 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 08:14:09 ID:obfJCf2I
他スレでも書いたが
歳久の知謀を評価すべき実績が何かあるかな?
爺さんの孫褒めだけでは納得できん
660 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 12:44:31 ID:5AiCfuuD
>>657 取りあえず桐野作人の「島津義久」嫁
小説だが、考察が綿密なことには定評のある作家なので馬鹿には出来ないぞ
鹿児島弁のハードルが高いのはご愛敬w
661 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 14:27:04 ID:44euQGoX
優秀な弟や家臣団をうまくまとめていた義久は十分優秀だろう
むしろ
>>659のように歳久が一番微妙だろう
662 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 18:17:35 ID:r+QUSvcc
歳久は血気盛んな猪武者で戦に出すと損害が馬鹿にならなかったらしい。
で、智謀の歳久なんてあざ名つけさせて後方に引っ込ました。
「歳久、お前は島津の切り札だ。ここぞと言うときに出てもらうぞ」
とおだてておいてとうとう最後まで使わずにすました義久の器量は中々のもの。
663 :
歳久、なめんな!:2007/09/06(木) 18:28:53 ID:K1j0O8Wr
歳久は使いかっての良い人材。
兄や弟が前線に張り付いて居るときに、出てきた敵の後方の城を落としたり、反島津のドン渋谷一族のいたやっかいな土地の整理をさせられたり、義久の支え役。
義弘が菱刈・相良連合軍に討ち取られかけたのを救助したりしたスーパーサブ。
耳川での釣り野伏せりの伏兵役やらもしている。
島津家の事務班だな。義弘も家久も歳久のスーパーサブのお陰で自由にやれた。
九州征伐前に出された秀吉の国分けに義久までもが激怒した中、冷静に島津不利を指摘した。
664 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 19:00:48 ID:cWAVc8f0
>>4を修正
(A〜E評価)政治 統率 知力 教養
島津 貴久 C C C C
島津 義久 D D D C
島津 義弘 D A C C
島津 歳久 C C B C
島津 家久 D A C D
島津 以久 C C C D
伊集院忠朗 B C B B
伊集院忠棟 B D C B
新納 忠元 B C C B
平田 宗茂 D B D D
頴娃 久虎 B C D D
川田 義朗 D D B B
665 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 21:13:57 ID:TVUhBOzJ
>>664 伊集院忠朗は何でそんなに高いんだ?
業績って鶴を切ったくらいじゃね?
地方武将なら、エピソード1個残るだけでもそれなりに評価に繋がると思ったので。
667 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 23:18:53 ID:Azmr43HD
家久がどちらかの陣営にいれば、川中島の戦いなど、一度で雌雄を決して
いたのにね。
668 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 23:39:00 ID:3c635hnZ
義久は無能ってことはないんじゃないの?
個人的には、家康との会見のときの家康がした評価が妥当なものなんじゃないかと思うけど。
将の将って感じ?
少なくとも、功をあせって猪突して首をとられるような大将よりは上じゃないかな。
九州征伐の時の決定は、合議によるものじゃなかったかな?
違ったらすまん。
669 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 01:55:35 ID:RjGtUf69
義久と歳久が後方で島津の屋台骨をしっかりと支えていたからこそ、義弘と家久は切り込み隊長として名を上げられたんだよ。
つまり、四兄弟全てが相互に自身の持ち味を他の兄弟と交合わせた結果、島津が後世に誇る奇跡的な戦果に繋がった。
どれか、一人を貶めるだなんて馬鹿げている。・・・と、私は思います。
>>668 そうだよ。主戦派の義弘・家久その他家臣団と、慎重派の義久・歳久に別れてしばらくもめた。
最後は秀吉の国分け発表で義久も折れて決戦へ!でかい勝ちを拾って、それを元に有利な和平交渉をしたかったみたいだよ。
670 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 14:14:51 ID:sBZi/ZWf
忠倉?忠蒼?
671 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 15:13:24 ID:o3WwiaHy
黒糖地獄
672 :
仙台藩百姓:2007/09/07(金) 16:13:58 ID:fD3p02Dq
現実は四人揃って仲良くボコられたんだおね(≧ω≦)プーッ
673 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 17:58:49 ID:dxtdffWF
島津兄弟が凄いのも分かるが、九州平定の時の羽柴秀長、黒田如水、小早川隆景の3将は島津兄弟を凌駕してるな。
兵力差もあるけど。
674 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 18:55:52 ID:oJqK/4mX
>>670 忠倉。これで「ただあお」という、らしい。
息子の忠棟がああなった事が原因だと思うが、
生没年未詳、しかも父・忠朗と比べても業績が全くと言っていいほど伝わっていない。
忠倉が跡を嗣いだはずなのに、それ以降の年月を書いた文書にも父の署名が出てくることがある。
歳久以上に超謎な人物。
>>671 板違い
>>672 お久しぶり 元気そうで何より
>>673 せっかく漫画で人気回復している?センゴクと大友吉統の馬鹿さが
その3人との比較によっていっそう際だつのでそれは言わない方が・・・
675 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 06:13:41 ID:+Bsccyu+
上にちょっと出ているけど、歳久の素晴らしさをもっと俺に教えてくれ
676 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 10:53:17 ID:opzeDjvh
>>673 出た!秀長厨!
1944年ぐらいのアメリカ対日本なみの戦力差あって勝てないほうがおかしい。
牟田口なみの無能でもなければ負ける奴なんかいねーよタコ!
だいたい黒田、小早川が事前に勝てるようにお膳立てしてといてくれたおかげだろうが。
秀長なんか二人に比べたらただのお飾り。
いやぁ黒田は凄いよ。
事前に鍋島をはじめ、ほとんどの九州勢を味方につけるか中立にさせたんだから。
大将は秀長じゃなく秀次でも結果は同じだったよ。
別に秀長がすごかったわけじゃない。
677 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 11:07:45 ID:opzeDjvh
長宗我部もかわいそうだよな。
あんな1945年のドイツみたいな多方面から攻められた状況で勝てるわけが無い。
秀長が長宗我部の大将だったら勝てるとでもいいたいんだろうか秀長厨は。
絶対無理だね。
うざいんだよ秀長厨。
678 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 11:16:32 ID:opzeDjvh
秀次もかわいそうだ。
黒田、小早川配下で四国、九州征伐の大将にされていれば
やはり一方的な勝利をおさめて今のような無能な評価にならなかったものを。
秀長はラッキーだったね。
誰でも勝てる戦の大将になっただけで名将扱いされて。
679 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 12:38:35 ID:qHWSlp8z
>>673 おいおい、支配や土着が全然進んでない北九州で
まともに戦ったことないしwそのまま崩れた島津を大軍で押し込んだだけじゃん
四国勢は位置と時期よかったから家久がやったけどさ。
それで、黒田勢が上言われてもw
自信あるなら、関ヶ原後、さっさと薩肥国境越えてこいや
680 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 13:22:47 ID:htnSEWJd
>>675 14歳年上の奥さんをもらったこと
その間に一応子供を作ったこと
少子化に悩む現代日本においては4兄弟の中でも最もたたえらえるべき人物と思うが、他に何か?
681 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 15:56:09 ID:XwaWTnYm
ここは、島津マンセースレなんだね。鹿児島人多いのかな? 俺の親父が鹿児島出身だけど。
チェストー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
682 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 16:28:58 ID:Pl/6RlT1
そら、島津スレだから島津好きが集まるオアシス。
歳久は、資料があまりない・・
683 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 18:58:19 ID:H0ziY7U1
>>676 しかし、負けると分かってるならなぜ戦ったんだ?
負けないと思ってたんならかなり頭悪いことになるな、君の理屈では。
684 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 20:32:50 ID:vXw7+azr
頭が悪いのは書いてる本人ではww
685 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 08:13:02 ID:k80SguRj
>>683 そりゃ長期的に見れば負けるだろうが
家康がやったみたいなことを、やりたかったんじゃないか
686 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 14:12:34 ID:I77ay0qE
>>683 おまえは到底うけいれられるわけのないハルノートなんか突きつけてきたアメリカと
戦いを避けることができたと思うか?
莫大な投資をして育てた満州をすて、
中国との戦いで莫大な戦費と人を死なせときながら中国大陸から撤退。
世論は納得したと思うか?
「あなたたちの家族は無意味な戦いで死にました。」
「あなたたちの税金は無意味に使われました。」
納得するわけが無い。
軍部だって納得しない。クーデーター起こすなり暴走してた可能性大。
よく知りもしないで勝てるわけ無いのにアメリカに喧嘩売った日本はアホといってるようなもんだよお前は。
687 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 14:23:42 ID:I77ay0qE
>>673 で、秀長厨よ。
やたらマンセーするが島津を上回るというなら是非戦歴を見せてもらいたいものだね。
圧倒的戦力差以外ので。
豊臣側の資料だけじゃなく負けた側の資料も含めてな。
勝ったほうの資料は都合よく書かれてるからダメな。
688 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 14:34:20 ID:I77ay0qE
ちなみに俺は島津も書きだが黒田と隆景も好き。
官兵衛と隆景を秀長なんかと同列にしてほしくないね。
あんなの前田利家と大してかわんねーだろ。
689 :
688:2007/09/10(月) 14:35:49 ID:I77ay0qE
おっと間違った。
×ちなみに俺は島津も書きだが黒田と隆景も好き。
○ちなみに俺は島津も好きだが黒田と隆景も好き。
690 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 14:53:43 ID:H8Oxs9kO
>>686 いや、戦わざるをえなかったのはそうだろうが・・・
大東亜とそのままいっしょに論じるのはどうだろう?
中国利権をえたいアメリカの日本閉じこめは
そのままアジアの民族的危機感を刺激するものだったが
島津の場合はまだ牧歌的だろう
本能寺後の中央無視もあったし、
そうぶじれいという交渉でのデメリットもある
四国征伐の異常な速さも計算外だっただろうが
そういった政治的な判断のなさは島津に責任がある
当時の島津家の実効支配といっていいのは
三州と肥後だけだし、すでに下した伊東に譲らなければいけないとはいえ、
ほぼ三州安堵は島津家としては十分だろう
しかし、決戦が豊臣方の大名が九州を治める大義名分をつくった点で
豊臣方には島津に感謝していいほどだし、それが
後の島津と徳川の結びつきを強くしたことを考えれば
一概に悪かったとは言えない戦だがね。
691 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 21:48:24 ID:XKmuASC4
戦国最強では無いだろ
しかし日本の雑魚でもチョンよりは強い
692 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 22:30:29 ID:tZ9uVcqi
俺は義久や義弘は結構好きだけど、後釜である忠恒の外道ぶりは好きになれない。
693 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 22:30:40 ID:5qKsiIK6
黒田も天下人補正がある過大評価気味の人物ではあるよなあ。
694 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 23:42:38 ID:gsjnAJvx
>>690 まぁ、大友のなり振り構わない、秀吉への媚振りがすごかったからなぁ。
なんとかっていう茶器とか刀とか金だか銀だか大量に自ら持ってたんだろ?
695 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 00:01:42 ID:qQ/Tp63J
宗麟の「おにーさん、おにーさんだけが(ry」技は本家の半島民を凌駕するほど見事。
この手で落ち目の将軍家にも事大して「九州探題」職ぶんどってるし。
696 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 17:44:21 ID:MHl+y4GL
歳久が義久の傍らで常に作戦参謀として仕えていたから智謀の歳久って、本当?
義久の業績に大きく被る損な補佐役って、高校の歴史の先生が今日言ってた。
皆さん、どう思いますか?
697 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 17:49:15 ID:IacwbWFz
>>694 金品で国や命が買えるなら、これ以上よい買い物はあるまい
698 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 18:55:59 ID:qQ/Tp63J
>>697 一件正論のように思えるけど
そのうち相手の要求がエスカレートしてきて最後は身ぐるみはがされちゃうんだよねw
>>696 ・・・そんなマイナーなことを教えてるって、どこの学校ですか?
699 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 23:11:16 ID:mJMG7Yz3
>>698 いや、休み時間に聞いたんです。しかも、豊久も一緒に。ニコニコ動画でその時を昨夜見たので。
場所はK県の0群の下の方。一応、進学校です。鶏が・・・これ以上は言えない。
700 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 23:20:30 ID:qQ/Tp63J
・・・そんな大事なことはメール欄に「sage」と入力してから書き込むように。
701 :
人間七七四年:2007/09/12(水) 00:46:06 ID:Jpbm5IGT
ゆとりですみません
702 :
仙台藩百姓:2007/09/12(水) 15:55:20 ID:5/ZjvQ3Y
豊久て逃げ遅れて死んだ奴だおね(≧ω≦)プッ
703 :
人間七七四年:2007/09/12(水) 18:18:53 ID:GDSkrLJQ
秀吉の九州征伐前の島津仕置きは
薩摩・大隅・日向・肥後半分・豊前半分らしいです。
肥前は秀吉がもらうらしいですから
龍造寺や有馬がどうなるか知りませんが
島津はバカなことをしたと思います。
704 :
人間七七四年:2007/09/12(水) 19:53:45 ID:erPr+hoa
行を開けて書くほどの内容か?
煽りにしても、うまくやれw
705 :
人間七七四年:2007/09/14(金) 08:22:44 ID:UmglY3Rr
仕置を受け入れてたら豊臣政権の大名中でもかなりの大身になるな
706 :
人間七七四年:2007/09/14(金) 09:48:49 ID:myziORom
その後の処生が難しくなったかもね
小早川みたいにバカボン押しつけられるとか
(島津も実際バカボン忠恒が跡継いだじゃないかというつっこみは無しで)
707 :
人間七七四年:2007/09/14(金) 17:25:00 ID:PODfXymc
忠恒は素行はともかく実務は優秀だぞ。
小早川のアホとはレベルが違う。
708 :
人間七七四年:2007/09/14(金) 17:54:41 ID:V3YnkuP9
山田有栄は、江戸時代の島津藩の基礎を作った名宰相。
文武両道。かっこ。゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!!
709 :
人間七七四年:2007/09/14(金) 23:15:55 ID:XxGfoEgQ
皆、鬼島津、鬼島津って言うけれど、最強の鬼島津は二代目家久だぜ。
父、義弘の戦場での鬼っぷりを精神の一番大切な所に誤遺伝し、
兄、久保の華やかで涼やかな快男児振りを尻目に、影武者徳川家康の秀忠よろしくリアルで陰湿体質を体現!
気に入らない政敵は、鮮やかな手腕で“暗殺”を施し、父の兄弟であろうともその子孫は根絶やしに向け虎視眈々と荒探し!
正に日新齋の築いた島津の暖かみを全て改革断行!
その子の光久をあげるまでもなく子種も豊かな鬼代のだだっ子!
これほどまでの“鬼”が、かつても今も島津にいただろうか!ああ、我らが(二代目)家久公、ここにあり!
710 :
人間七七四年:2007/09/15(土) 00:15:00 ID:GVgVruDQ
>>709 そのまま時代劇のナレーションに使えそうですね 悪代官専用だけどw
必殺のオープニング風に聴いてみたい。
712 :
人間七七四年:2007/09/15(土) 01:09:25 ID:6a4egt+h
あれ?もう、仕事人シリーズになっているよ。
俺が好きなのは、第12話の幸侃誅殺かな。
自身の屋敷を見下ろすようにして建つ幸侃邸からの楽しそうな酒盛りの笑い声に、忠桓が「ゆるせねえ」って、仕事人達に銭を配るシーンは秀逸。
火縄銃や刀身の手入れをしている彼らのバックに流れる演歌は、何度聞いても泣けてくるよ。
713 :
人間七七四年:2007/09/15(土) 04:07:19 ID:DrbpkpRP
>>683 島津の戦を教えておきたかったから
手強いとなれば、味方(配下)にしたくなるだろうし。
映画の300みたいな感じかな。
714 :
人間七七四年:2007/09/15(土) 04:22:04 ID:5fjAE5MF
まぁ義弘を追い詰めた菱刈が最強なんだけどね
715 :
人間七七四年:2007/09/16(日) 00:05:02 ID:vjR+mgfZ
>>712 だがちょっとまってほしい
一見悪代官に見える幸侃は本当にそうなのか
実は忠恒の方が悪だ
おやこんな時間に宅急便が
716 :
人間七七四年:2007/09/16(日) 07:16:46 ID:Fbs5nLEJ
本家のアカピーと違って、良い奴だったのに、余計な事を言うから・・
総員、
>>715に黙祷!!
717 :
人間七七四年:2007/09/16(日) 10:06:02 ID:clJzfMmw
>>709 義久が生きている間は側室も設けなかったけど、死んだとたん
嫁(義久三女)から島津家伝来の古文書を取り上げて、追い出し
たんだよな。
718 :
人間七七四年:2007/09/16(日) 17:01:37 ID:YnwScbuc
いまいる島津は、義弘系統しかいないの?
土佐の山内といい、活躍したはずの当主はこき下ろされてる希ガス
719 :
人間七七四年:2007/09/16(日) 17:46:10 ID:clJzfMmw
>>718 義久・歳久は娘しかいなかったはず。
義久の外孫は、一時後継候補だったが、改易されてアボーン。
家久(初代薩摩藩主)が、粛清したんじゃなかったかな。
歳久は娘婿(義久の外孫の一人)が討ち死にして、梅北一揆後
歳久の孫は生き残ったけど、若死にしたはず。
忠仍だったっけ。
721 :
人間七七四年:2007/09/16(日) 23:08:02 ID:clJzfMmw
722 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 00:14:47 ID:c925q1Ph
忠仍(後改名して久信)は、義久の外孫(以久の内孫)
>>719の指摘通り忠恒に排斥される。
その死因には諸説あるが、忠仍の母(義久の娘)の手紙に「毒買」と書いてあることから毒殺説有力
ちなみに豊久の弟も一時忠仍を名乗っていてややこしい。
歳久の娘婿は忠隣。根白坂の戦いで若くして戦死。
>>721の指摘通り、薩州家出身。
723 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 00:19:02 ID:c925q1Ph
あと遅レスだが
>>717 嫁は追い出したが、古文書ボッシュートまでは出来なかった模様
それを根拠にして嫁は忠恒の次の後継者に光久を指名した(光久の母は義久の曾孫になる)
忠恒は本当は別の側室に産ませた男子を跡継ぎにしたかったらしい。
バカみたいに子供作りまくったツケとも言えるね。
725 :
717:2007/09/17(月) 00:43:02 ID:vJaxBmga
>>723 解説サンクス。
これだけでドラマになりそうだ。
726 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 01:44:13 ID:/9DthYrA
島津版大奥
727 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 10:42:31 ID:AnAl7YCb
728 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 12:34:35 ID:g5+U4XFl
忠恒は、忠長を養子に迎えようと動いてたって話もあるしもしこれが実現してたら
歴史が大きく変わったかもしれん。
729 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 19:36:21 ID:xSIKFxbP
∩___∩
| ノ ヽ
/ ● ● | 肥前のクマ─は島津は嫌いクマー!
| ( _●_) ミ でも、お前らの釣り餌は旨いクマー!
彡、 |∪| 、`\
/ __ ヽノ /´> ) ちなみに忠桓はクマーを見習ったに違いないクマー!
(___) / (_/ 島津の大先生にあたるのは俺クマー!
| /
| /\ \ だから、このスレでもクマーを讃えるべきクマー!
| / ) )
∪ ( \ ただ、一代目の家久は嫌いクマーな!
\_) ↑こいつ、最悪クマー
730 :
人間七七四年:2007/09/17(月) 23:58:02 ID:c925q1Ph
731 :
人間七七四年:2007/09/18(火) 12:22:42 ID:3yPXtz/K
>>728 どの忠長かな(・∀・)ニヤニヤ
・・・いや、実際分かってるんですがw
732 :
人間七七四年:2007/09/19(水) 22:00:21 ID:s9C4oyK6
>>657 義久って、家康の話からしても当時からダメ大名ってイメージだったんじゃないの?
ダメっぽいのをあえて褒めて残すことで地方の弱体化を図ると。
733 :
人間七七四年:2007/09/19(水) 22:43:24 ID:gmKWz2SR
義久の太閤検地をぎりぎりまで逆らったタイミングは凄い。
おかげで支配下の豪族たちの憎しみは三成や安宅に向った。
義弘の言うとおりあっさり受け入れてたら、
支配下の豪族や家臣たちは反乱おこして、佐々成政のようになってたかもしれん。
関ヶ原後もいつまでもゴネてたりで無能なバカ殿って思われてるが
あれも絶妙なタイミングだったと思う。
もしあっさり上洛してたら取り潰されてたかもよ。
それどころか国境を要塞化して1万を越す兵力が健在としらしめて
島津討伐軍と3ヶ月にらみ合いした強気の姿勢もすごい。
結局島津討伐軍は戦わずに引き返した。
能力が戦のほうにばっか偏ってた島津にはうってつけの人だったと俺は思う。
734 :
人間七七四年:2007/09/19(水) 23:20:28 ID:s9C4oyK6
それはひいきの引き倒しというものだろう。
735 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 00:02:52 ID:zEZFgRvC
その逸話自体が実は(以下自粛
※ちなみに捏造ということではありません
736 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 09:42:28 ID:uwTuNxgv
>>733 太閤検地は大名家の豪族に対する支配力を強める意味もあったんだから、
大名家にとってもメリットのあるもの。
太閤検地を強行できなかったというのは配下を掌握しきっていなかった
証拠でもあるのでは?
737 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 12:04:20 ID:zEZFgRvC
「検地」なら大名家にそれなりにメリットあるけど
「 太 閤 検地」となると一概には・・・
特に島津家の検地実行期間は朝鮮出兵で大半の家臣が半島出張中
わざとその時期にしたという説が定説だが(山本博文など)
検地に反発した家臣が離反して大友氏みたいに空中崩壊という末路をたどる可能性もあった。
738 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 22:53:07 ID:JyFWvbx1
まぁ外城とか郷とかがそれなりに力あるのはメリットでもあるからな。
強さとの引き換えみたいな。伊集院の乱を鎮圧するのに手こずったように
739 :
人間七七四年:2007/09/21(金) 01:33:51 ID:k8giMYYY
>>737 NHK教育でやってたんだが
「高校 日本史 -太閤検地と刀狩-」
1回見ることをお勧めするw
島津と佐竹の検地には石田三成が出張ってきたんだな
740 :
人間七七四年:2007/09/21(金) 11:32:54 ID:Xh3w9wnh
741 :
736:2007/09/22(土) 01:38:58 ID:v7OczKYo
739は漏れでは無いのだがorz
742 :
人間七七四年:2007/09/22(土) 20:04:41 ID:G50Ug7wl
743 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 20:39:41 ID:IVS0wWFt
みんな、九州征伐の時の家久急死はどう受け取りますか?
やっぱ、病死でしょうか?秀吉か義久の暗殺?
それとも、島津の力を少し削いでおこう?大隅をあげれなかった長我部の息子の代理仇討ち?
744 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 23:58:13 ID:77qnL4d7
>>743 下の行は一番テラアリエナサス
当時の手紙などの史料からみて一番有力なのは急病死
ただ当時から「秀吉による暗殺」説はくすぶっていた(フロイス『日本史』)
ちょうど同じ時期にやはり武功で知られた吉川元春も急死したから
そういう噂が飛び交ったんだろうと思われ
元春ちょうど九州在陣中だったんだっけ
原因はくわんぴょーえが鮮度の悪い物を無理矢理食わせた中毒死とか聞いたことがある
745 :
人間七七四年:2007/09/28(金) 06:19:07 ID:7bL6DF9V
なるほど、有難うございます。
ちなみに家久の単独降伏はどう見ておられますか?
746 :
人間七七四年:2007/09/28(金) 20:51:46 ID:uYPmAmkc
>>744 鮭を無理して食べて悪化したという話を聞いたことがある。
家久については、もともと病気だったという話もあるよ。
何の病気かは知らないけれど。
747 :
人間七七四年:2007/09/28(金) 23:22:30 ID:l+uEC1/m
家久の単独降伏については
「伊集院忠棟がそそのかしたから」
という史料があります
が、同時代史料じゃないw 江戸時代になってから書かれた物。
島津氏が秀吉に降伏していた時期は当然ながら情報も錯綜して混乱していたのか
大量に手紙類は残っているのだが、分析が難しい。
また、家久側からこの辺りをみるための史料の残存状況が良くない。
家久は義久の命で暗殺されたとするのは原昭午氏の説だが
原氏が論拠としている手紙の解釈には疑問があることを
前に出ていた桐野氏のコラムで指摘されています。ご興味があればどうぞ。
http://373news.com/_bunka/jikokushi/13.php
748 :
人間七七四年:2007/09/29(土) 06:28:00 ID:MAuQ4nPL
>>747 有難うございます。病死の可能性が高いようですね。
あと、
>>747さんは資料はどの辺りで目にしておられるのですか?
お勧めの奴があったら何冊かお教えください。
749 :
人間七七四年:2007/09/29(土) 22:05:25 ID:OPd6AcRt
島津氏の根本史料といったら
『旧記雑録』
これは『鹿児島県史料』という名前で本になってる。県立の中央図書館では所蔵しているところ多いのでは。
『島津家文書』もあるが、マイクロフィルム馬鹿高w
大学図書館クラスでも所蔵してない方が普通。
750 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 00:13:06 ID:pilA3u03
>>748 有難うございます。
明日、さっそく図書館に行ってきます。
めっさ分厚い本が10冊くらい確かに鹿児島県資料って名でありました。今まで僕は華麗にスルーしていましたがw
751 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 14:34:00 ID:cn6aDKpD
確か東大にも島津家の資料あったねぇ。一般の人見られるかは知らない
752 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 21:08:52 ID:TkLLYtFT
>>751 それが『島津家文書』ですよ
実物は先年国宝指定を受け、国立一期校の歴史学専門の教授でも実物を拝むのは難しい。
『大日本古文書』で活字化しようとした物の、膨大な量のため追いつかず
結局本になったのは一部の文書のみ。
近年紀伊国屋書店でマイクロフィルム化されたが、それがすごい値段で。
なかなか規模の大きい大学図書館でも所蔵してない代物なのだな。
753 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 22:38:14 ID:TkLLYtFT
間違った 紀伊国屋じゃなくて丸善だったorz
754 :
人間七七四年:2007/10/13(土) 22:48:37 ID:lYaMfEv1
上の方にある島津戦記って、忠良・貴久の逃避行とか、廻城攻防とかものっていますか?
誰か、全合戦項目を教えてください。武具とか戦術の説明とかもあれば、嬉しいのですが・・
島津の装備とか、他の所とは違いがあったのかな?漫画のセンゴクは中央の話しだし・・
755 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 03:02:45 ID:ZHB9hwS4
>>754 かなり詳しく、載っていたよ。
戦術、特に鉄砲の運用については、かなり洗練されていたみたいだね。
ぎゃくに意外だったのは、示現流等の剣術が、それほど重視されて
いたわけではなかったことかな。
756 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 19:32:20 ID:9X2s755m
>>755 そいつは朗報です。すぐにアマ辺りで探してみます。
757 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 22:15:43 ID:oSLxWP1Z
758 :
人間七七四年:2007/10/20(土) 22:19:31 ID:Q4R6Keuy
馬鹿な質問ですが、秀吉が九州征伐に来た時には、本当に太平寺の周りに10万人もの兵が野宿して,秀長軍も庄内の辺りに10万人で屯っていたんでしょうか?
あと、島津の戦力はどのくらいで対抗してたんでしょうか?
759 :
人間七七四年:2007/10/22(月) 21:13:36 ID:UPel9AXk
760 :
人間七七四年:2007/11/01(木) 20:08:28 ID:BosaFuJp
761 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 21:46:40 ID:BqZSOeRj
カルタゴの戦い ○義弘軍2百 対 ●ハンニバル軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人アントニウスを一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾き、カルタゴは衰退。
コンスタンティノープルの戦い ○島津軍2万 対 ●東ローマ帝国軍4万5千
地中海の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって東ローマ軍の死者2万人、重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、東ローマ帝国は衰退。
アムール川の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●モンゴル軍6万
モンゴル帝国はこの戦いで大ハーンを失い島津の傘下に入る。 外蒙でもフビライハーンを討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
ウォーテルローの戦い ○家久軍1万 対 ●フランス革命軍
寄せ集めにすぎないフランス革命軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いでナポレオン戦死。フランス革命は頓挫し、列強に占領される。
セヴァストポリの戦い ○義弘軍7千 対 ●イギリス・フランス連合軍20万
クリミア戦争の勃発により、フランス・イギリス連合軍は20万の軍勢を薩摩軍の中央を守る義弘のセヴァストポリに向ける。
義弘は、クリミア半島にいくつかあった要塞を破棄、新たに築いたセヴァストポリ要塞に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 連合軍の死者は8万。
日本海の海戦 ○義弘軍 対 ●ロシア水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 旅順港の広瀬中尉を救出し、さらにT字戦法により、 ロシアの名将ロジェストウェンスキーと交戦し見事討ち取る。日本軍圧勝。
もし義弘が日露戦争に参加してなかったら日本軍は満州で全滅してた。 明治政府は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
スターリングラード退却戦 ○義弘軍3百 対 ●赤軍8万
クロパトキン隊を突破、追撃してきたボルコフとマレンコフを撃破。 この傷が元で2人は数年後死亡。
スターリングラード市内に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 スターリンは島津を恐れ、戦後も減封する事が出来なかった。
763 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 14:16:09 ID:GwoOzmVF
義弘の戦上手ぶりは どこから学んだのだろか?
764 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 18:01:28 ID:ym6OQUcl
本多忠勝同様で天賦の才かと思われ。けど、きっと祖父。
765 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 20:49:08 ID:vDFR/VhE
義弘と家久
どっちが強いんだ
766 :
お約束:2007/12/11(火) 00:50:57 ID:NaTyBxzv
>>765 義弘>>>>>>>>> 越えられない壁 >>>>>>>>>>家久(旧名「忠恒」)
767 :
人間七七四年:2007/12/11(火) 01:35:38 ID:tvrrcbun
そういうのは要らない
768 :
人間七七四年:2007/12/11(火) 01:56:19 ID:HxLXWB+/
義弘の弟家久との比較だろ。普通に考えて。
769 :
人間七七四年:2007/12/19(水) 01:24:53 ID:dXK61xnb
770 :
人間七七四年:2007/12/19(水) 15:23:24 ID:JHNSXZKd
「島津家」が「品津家」になっとるw
なんかの歌舞伎のネタを元に書いてるのかな
771 :
769:2007/12/19(水) 21:37:59 ID:3XySOl67
>「島津家」が「品津家」になっとるw
の補足ですが、当時、武者絵においては元亀・天正以降の武家を描く事が禁じられてたので
戦国期に断絶した大名から、この作品が刊行された幕末期まで存続していた大名も含めて、
あえて実名を出すのを避けて当て字とか仮名にするのが通例になってたためだったりします。
ついでなので、自分の持ってる武者絵本から義弘公をば。
www.uploda.net/cgi/uploader1/index.php?file_id=0000277166.jpg
かなり本名寄りの表記ですが、時期的には新納のよりも もう少し前の発刊です。
772 :
人間七七四年:2007/12/20(木) 00:07:49 ID:SUwxCY6t
>>771 うp感謝
「嶋須」ねぇ・・・w 他はほぼ実名、義久と義弘の関係は嘘書いてるが
773 :
人間七七四年:2007/12/22(土) 21:25:59 ID:XaP8a0Ty
774 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 20:45:58 ID:o+XegMYy
奇跡のナンタラ島津家文書って、2000年くらいに出版された本を読んだ方がおられたら教えてください。
島津家文書には、歳久宛の文書が29通あるそうですがいくらかはこの本にも載っていますか?
あと、家久に対する上の兄弟達の歌とかあったらよろしくお願いします。
775 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 22:33:58 ID:Bfu0tj1F
>>774 >奇跡のなんたら島津家文書
それ、たぶんその年島津家文書の国宝指定を記念して行われた展覧会の図録じゃないかな
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA49311632 これは未見なのだが
>歳久宛の文書
『鹿児島県史料』所収「薩藩旧記雑録 後編」でほぼ見ることが出来ます。
後編1〜後編3あたり(後編は6巻まであります)。
>家久に対する上の兄弟達の歌
寡聞にして知らないのだが
義久が樺山善久(家久の舅、義久重臣)に対して
「家久ってもうほんとに子供ですけど、これから頑張ってしつけますので」
というような内容の手紙を送っているのをどこかで見たような。
776 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 06:40:17 ID:hqDU8a6R
>>775 有難うございます。図書館に今日辺り繰り出します。楽しみで朝なのに興奮してきましたw
小説関係は島津はほとんど読んだのですが、これから資料関係にチャレンジです。
家久って、可愛い奴ですね。
777 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 06:57:30 ID:hqDU8a6R
今日、月曜だった・・
778 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 12:07:07 ID:0rZeqZtZ
しかも祝日だな・・・
お住まいの地区によっては祝日の場合は振り替えで開いてることもあるから、確認してみたら
779 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 14:56:33 ID:msoAbU3Q
開いてました。いくらか必要な部分をコピーしてきたので、今から家でゆっくりと解読する事にします。
色々とお教え頂き有難うございます。
780 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 11:05:34 ID:/VlW3Y1+
義弘が西軍の大将だったら、関ヶ原は勝っていた。
781 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 13:40:24 ID:6gbmNegx
そらそうよ
782 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 20:48:28 ID:eMGTFE0U
指揮権だけだったら朝鮮補正で味方は納得。敵はマジかよ・・。
頭は毛利、勘定は三成、戦は島津。
783 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 12:16:36 ID:mjz6Kr2X
784 :
人間七七四年:2008/01/13(日) 21:36:13 ID:W6ykXf3G
立花宗茂、島津義弘
西軍は本戦で彼らを生かせなかったのが実にもったいないな
785 :
人間七七四年:2008/01/13(日) 23:11:30 ID:E5WPV5TE
義弘は、手持ちの兵力が甥の豊久の分を入れても1000人強だったからああいう使い方しかできなかったかと。
宗茂の使い方は本当にもったいない、関ヶ原の本隊に入れなかったのは理由があったんだっけ?
誰かと仲が悪かったとか?
786 :
人間七七四年:2008/01/13(日) 23:37:01 ID:DnE0OxON
たしか宇喜多秀家と仲が悪くて左遷された。
以前家臣同士がケンカしてるはず。それを秀家が根にもってた。
787 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 00:06:39 ID:PEAD8xws
鹿児島の者ですが、島津義弘、島津豊久、長寿院盛淳、山田有栄、肝付兼護etc..(13将)
の島津の退き口って凄いですね!!井伊直政、松平忠吉を捨てかまりで重傷を与え落馬
させてますね!けど、何で本多忠勝は落馬はしたものの傷も負わず、13将のほとんどを討
ち取っていますが。。しかも、たった500人で。本多忠勝って強かったのでしょうか?東国で
は有名な武将ですが、九州では島津や立花道雪、宗茂。高橋紹運が最強なのでちょっと、
嫌いな武将ですが、皆さんどうですか??
788 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 00:25:42 ID:2Kn0bMcP
無傷って事は部下がいろいろやってくれてるって事
789 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 00:27:47 ID:Pife/4I2
家康の過ぎたるもの〜とか
東の本多、西の立花とか
称えるエピソードは多いねぇ♪
790 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 05:00:34 ID:8WnYjVA7
>>787 秀吉に対しそこそこの勢力ながら、たいしたことせず頭丸めて土下座した島津と
酷い劣勢なのに粘った徳川、その中で1、2を争う侍大将を比べるなんて
791 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 06:24:05 ID:ceq7IhPb
分かりやすーい 釣り 乙
_、_
( ,_ノ` ) n
 ̄ \ ( E) ウンコジョブ!!
フ /ヽ ヽ_//
792 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 06:59:13 ID:zpnuxHzT
まあ島津よりは強いな>忠勝
793 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 20:42:08 ID:xE3MFicQ
てゆーか日本語は変で読みにくい787
794 :
人間七七四年:2008/01/15(火) 21:27:08 ID:na6Ow3uw
何故だろう。
忠勝強いとか言うやつがゲーム厨にしか見えないのは。
せめて井伊直政だろう…
ただの突撃隊長しかできなかった忠勝が最強って(爆笑)
795 :
人間七七四年:2008/01/15(火) 22:34:02 ID:ZM0xjXUg
796 :
人間七七四年:2008/01/15(火) 23:52:39 ID:na6Ow3uw
えっ?
直政って無双やバサラに出てたっけ?
忠勝がリョフみたいな扱いなのは知ってるが。
しかし残念。家康は直政を死ぬまで重用してました。何でも使えるから。
忠勝は哀れw
時代に適合できなくて誰からも相手にされることなく寂しく死にました。
797 :
人間七七四年:2008/01/15(火) 23:52:43 ID:na6Ow3uw
えっ?
直政って無双やバサラに出てたっけ?
忠勝がリョフみたいな扱いなのは知ってるが。
しかし残念。家康は直政を死ぬまで重用してました。何でも使えるから。
忠勝は哀れw
時代に適合できなくて誰からも相手にされることなく寂しく死にました。
798 :
人間七七四年:2008/01/15(火) 23:56:23 ID:XzRQpGrO
ID:na6Ow3uwが必死なのは分かった
スレチな上に連投とはw
799 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 00:04:52 ID:Vnl2i+DC
>>798 いや。俺もびっくりした。連投はわざとじゃないよ。
一回押したつもりが2回書き込まれてしまったw
800 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 00:13:44 ID:u36wPmqq
忠勝強くないって理由に、直政の外交実績語ってもな
戦闘ではどうみても直政は忠勝・康政に劣る
801 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 00:17:02 ID:gK2RIe2G
ゲーム厨と対して変わらんよ
802 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 01:28:59 ID:Vnl2i+DC
しかし忠勝強い言う割りに500人ぐらいしか率いたこと無いんだよね。
統率力ないんじゃないの?
803 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 01:33:46 ID:Vnl2i+DC
関ヶ原でも井伊3600に対し忠勝500人w
少ねぇw
804 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 01:54:18 ID:Vnl2i+DC
戦果はというと実は敵の賛辞ぐらいしかない忠勝。
ああ、伊賀超えがありましたっけw
秀吉なんかその時の気分で誰でも絶賛するからな。
805 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 02:14:43 ID:Vnl2i+DC
ああ、忠勝厨の脳内では500で豊臣軍8万を撃退したことになってるんでしたっけ?
ひゃー凄い凄い。そりゃ最強ですわ(爆笑)
806 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 06:59:49 ID:EW1bEROQ
連投バカスwww
相手にされないからって島津スレでぼやくなボケw
807 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 14:53:42 ID:BmBSSKSB
本多忠勝は、関ヶ原の時、息子本多忠政にほとんどの兵を預けて秀忠に動向させている。確か、5000だっけかな。
で、手持ちの兵は500しか居なかったそうだが家康から忠勝の兵500は万に値するとか云われたとか。色々な、戦闘
を陣頭指揮して来たのは、嘘では無いだろ。意外と、知られていないが、武田勝頼の戦いなどで兵3000を率いたりし
ている。長篠も1500かな?5000未満の兵力は動かした事はある。が、名門島津兄弟の義弘、家久は兵5000〜2万
まで率いている。だいたいは、5000程度。大兵を動かして出て来るのが義久。しかし、新納忠元は万の軍勢を動かし
ている。この武将、島津四兄弟に隠れて存在薄いがかなりの名将。下手したら、四兄弟並。といっても新納忠元も遠い
親戚なんだけどね。結構、一門衆の絆が固い島津家。山田有信。この人大好き。島津の重臣のポスト、戦功もばっちり
息子も出来が良い。死後は、当主、義久が棺の前で自ら焼香して泣いた程の男。島津四兄弟以外にも名将ぞろぞろの
島津家。やっぱり、凄い!
てか、釣られたw ここ島津スレなのになんで本多忠勝が出て来るの?他のスレでやってくれ。隔離の戦国武将強さスレ
とかで。
808 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 19:58:57 ID:Vnl2i+DC
で、忠勝には何か無いのかね。それらしい武勲は。
無いんだよねw
あるのはお世辞だけw
日本のチョウヒとか(プッ)
809 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 20:12:04 ID:sEz42USo
810 :
人間七七四年:2008/01/25(金) 21:41:05 ID:L2hoVDot
島津って、関ヶ原のときに本気出したらどのくらい兵を出せたの?
811 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 02:38:09 ID:W5xvmKFn
812 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 11:54:00 ID:TZKhjR6t
国元が滅んでしまっては元も子もないからな
813 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 11:57:21 ID:TZKhjR6t
あ、如水もアヤシイ動きしてたし
814 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 13:32:30 ID:SMl6lB/r
鹿児島っていつ頃から鹿児島って呼ばれてたの?
由来は調べたけど、戦国時代でも鹿児島という呼称は使われていたのか?
江戸時代にはもう鹿児島って呼ばれてたよね?スレチ?ごめ
815 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 14:37:56 ID:g7SwQtRf
816 :
人間七七四年:2008/01/27(日) 14:50:15 ID:XBRN0dOi
長宗我部や島津は石高低い割りに動因兵力は多い。
その気になりゃ2万ぐらい動因できたでしょ。
817 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 12:02:29 ID:hmsqyotg
戦国最強といわれる島津。
関が原での適中突破で後世にまで伝えられる捨て奸。
さて、最後まで付き従ったものは忠義に厚い者なのか。
それとも意気地なしだったのか。
818 :
人間七七四年:2008/02/15(金) 10:45:35 ID:q+vu8qqJ
山田有栄なめんな
819 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 21:41:00 ID:Tia++ONm
チェストでごわす
820 :
あ:2008/02/20(水) 00:38:46 ID:95vGAfJ3
島津の釣り野伏せりは、九州・四国勢力には通用しましたが、本州勢力の秀吉軍には...
島津の釣り野伏せりは、九州・四国勢力には通用しましたが、本州勢力の秀吉軍には、まったく通用しませんでした。
なぜですか?
821 :
人間七七四年:2008/02/20(水) 00:57:24 ID:/EKbbMmu
822 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 21:50:16 ID:Vx7rHiMe
>>820 島津軍にビビって秀吉くんは24万の兵まで使ったって本当ですか?
823 :
あ:2008/02/25(月) 02:26:38 ID:UqFAzkK2
伊達より強いはな。
824 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 19:45:19 ID:6VlwBQWK
825 :
人間七七四年:2008/02/26(火) 23:16:15 ID:YeSE+THD
そんなに動員できたのか?三国志並だな
826 :
人間七七四年:2008/02/26(火) 23:24:21 ID:n4p4CN2w
兵站の関係から実数は16万くらいって聞いた事がある
827 :
人間七七四年:2008/03/04(火) 12:16:08 ID:qMAN0DWU
小田原攻めん時は何万だったっけ?
828 :
人間七七四年:2008/03/04(火) 14:38:16 ID:0Qon3uzv
22万。
829 :
人間七七四年:2008/03/04(火) 19:29:15 ID:Y6ai9DZF
九州の田舎では威張ってても中央では逃げ足だけがとりえの島津w
830 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 00:05:24 ID:d/i8v+zx
薩摩土人弱小www
831 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 00:08:33 ID:d/i8v+zx
会津にひれ伏す弱小薩摩土人
832 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 00:19:33 ID:YRiyx4/M
反応ナイからって自演されてもw
833 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 11:32:16 ID:U2v00r16
こっちはID出るからねえ
834 :
人間七七四年:2008/03/12(水) 20:15:44 ID:2a2fNUsK
義弘は筑前で待機しといて先に日向から豊後を攻めた方が良かったな。
総大将を敗死させれば高橋や立花も折れただろうに。
835 :
人間七七四年:2008/03/12(水) 21:48:36 ID:5uaJoUrh
義弘と伊集院忠棟などが「肥後から攻撃する派」
家久notDQNと上井覚兼などが「日向から攻撃する派」
で対立していたから ムリポ
836 :
人間七七四年:2008/03/13(木) 18:27:39 ID:zT8flnjB
生涯無敗の家久先生が仰るなら日向から攻込んだ方が良かっただろうな。
837 :
あ:2008/03/24(月) 16:35:00 ID:22bp3lBr
島津の九州戦線を見る限り、義久・義弘は後ろに隠れてるだけだな。
歳久にいったては事跡するない。
家久>政久>新納>伊集院、この当たりが前線の大将格。
838 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 12:25:28 ID:/884mrGT
薩摩・大隈・日向の三州にキリシタンっていたの?
839 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 13:54:41 ID:WlQCmdDe
石田隊の隣でなにしてたの
840 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 14:16:48 ID:o+RLy1bD
>839
いたよ
レオン税所七右衛門は北郷三久の説得に関わらず棄教せず処刑、去年バチカンより列福された
島津光久の祖母もキリシタン こちらもばれて種子島に島流し
>839
お弁当を食べていたので参戦せず
あ、これは他の大名かw
841 :
人間七七四年:2008/03/26(水) 12:10:48 ID:am+Tm5IC
1500の兵が300ぐらいに減るまで柵の中で防戦してた
主に鉄砲で迎えうっていたが何回か敵側の突撃受けたものと思われる
842 :
人間七七四年:2008/03/26(水) 15:12:05 ID:iORiZ4pq
関が原の退き口は300人でやったって事ですね
そう考えると凄さが増してきますね
843 :
人間七七四年:2008/03/27(木) 21:43:44 ID:IE5+5HmI
ちぇえぇぇぇぇぃすと!
844 :
人間七七四年:2008/03/27(木) 23:43:09 ID:kZk1lt/H
鬼石蔓子チェスト
845 :
人間七七四年:2008/03/28(金) 09:14:34 ID:X3ljEY+T
不覚最近まで島津が関ヶ原に布陣していたことを知らなかった。つい大津城か田辺城を攻めてるもんだと。
846 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 06:37:36 ID:TFW/Zz+g
島津は騙されたんだよ
三成も家康もウンコタンソク
847 :
人間七七四年:2008/04/14(月) 16:22:27 ID:OkGsaxo/
本来は東軍に組するはずだった というのはどこまで本当?
848 :
人間七七四年:2008/04/14(月) 23:31:43 ID:7MTTSVcq
豊久の鎧見ただけで泣ける。
もう少し評価されても良い希ガス。
849 :
人間七七四年:2008/04/15(火) 10:23:25 ID:45LL7rGL
>>847 義久が様子見とけって言ってたのまでが本当
850 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 14:24:09 ID:xv39lAql
豊久かっけぇ
851 :
人間七七四年:2008/04/21(月) 22:49:20 ID:mfBaNBww
大内氏は朝鮮人、島津氏は中国人の子孫らしいね。
渡来人ていわれてるけど
ようは在日のことだろ?。
852 :
人間七七四年:2008/04/21(月) 23:16:52 ID:OUB4FwFR
>>847 伏見城に入城しようとしたのも本当でしょう。
そのお蔭で義弘は生き延びることはできましたが。
853 :
人間七七四年:2008/04/21(月) 23:21:03 ID:a+EdQ/2v
ちぇすとぉぉぉぉぉお!!
854 :
人間七七四年:2008/04/21(月) 23:36:46 ID:oyGt6sLN
いいんだよ伏見城入ってなくて。
入ってたら死んでたよ。それこそ無能。
だいたいあんな周りが西軍勢がずらりといる中、東軍になんかつけるわけないだろ。
855 :
人間七七四年:2008/04/21(月) 23:44:57 ID:OUB4FwFR
>>854 当時の状況なら無能とまでは…?
伏見城の乱戦、武運拙く散る白髪の爺も戦国絵巻の一場面になると思うよ。
856 :
人間七七四年:2008/04/22(火) 11:41:57 ID:SiHXm93E
>>851 島津は源の流れをくむ由緒正しい家柄だぞ
それを在日というのなら日本人全部在日だ
857 :
人間七七四年:2008/04/22(火) 11:52:16 ID:BCYGfqc4
デムパに対抗しようとする香具師もまたデムパ
クラクラしてきた・・・
858 :
人間七七四年:2008/04/22(火) 18:05:53 ID:SiHXm93E
そりゃオマエがバカだからだよ
859 :
人間七七四年:2008/04/22(火) 23:27:38 ID:vZbb5iuD
858君は色んなスレで悪態ついて回ってるけど、そろそろ職探ししたら?
860 :
_:2008/04/29(火) 20:09:22 ID:qbK7ecDr
秀吉到着前に筑前平定するにあたってだが
岩屋城を力攻めするしか手がなかったのかな?
四方八方囲んでいるなら、兵糧攻めしたらいいかなと思ったが、やっぱ時間かかりすぎて
豊臣が上陸してやっぱり時間切れでアウト?
岩屋は宝満山城の西側にあってさらに立花山城の通り道でもあるけど……
岩屋を無視して立花山はやっぱキツイかな……あのあたりは天然の要害だし、
岩屋を無視すると大軍とはいえ二方に挟まれるか……
あと島津って水軍ある?
861 :
人間七七四年:2008/04/30(水) 00:00:39 ID:ywVGSdAg
>岩屋城を力攻めするしか手がなかったのかな?
(ry)
>岩屋は宝満山城の西側にあってさらに立花山城の通り道でもあるけど……
>岩屋を無視して立花山はやっぱキツイかな……あのあたりは天然の要害だし、
>岩屋を無視すると大軍とはいえ二方に挟まれるか……
その理由で岩屋城正面突破を狙った
結果は物の見事に大失敗(戦そのものは買ったけど)だったが。
>あと島津って水軍ある?
九鬼や村上のような常設水軍ではないけど
配下に倭寇(島津尚久は倭寇の元締めという説有り)を抱えていたと言われるくらいだから
それなりの装備はあったと思われる
862 :
人間七七四年:2008/05/01(木) 02:23:49 ID:s0shKgWA
>>856 〉〉島津は源の流れをくむ由緒正しい家柄だぞ
惟って「神話」だろ?
宗れとも結構信憑性の高い話なの?
863 :
人間七七四年:2008/05/01(木) 13:03:12 ID:pNFinRgm
今となっちゃどうでも良くなってるからな、そこらへん。
最終的に残って繁栄したものが勝ち組だからね。
864 :
人間七七四年:2008/05/03(土) 16:08:34 ID:iGyICQnA
戦国時代の「源氏の流れを…」と言うのはほとんど信憑性ないでしょ。家系図を捏造したり、無理やり養子ってゆうことにしてもらったりがほとんどじゃね?
865 :
人間七七四年:2008/05/06(火) 07:11:13 ID:lkCkRYaC
866 :
人間七七四年:2008/05/06(火) 09:52:25 ID:j+ZJwTIf
>>865 それは事実だろう
朝鮮の文献に記録が残ってるらしいし
どの程度の軍勢とやりあったかは未だに不透明だけど
867 :
人間七七四年:2008/05/06(火) 12:07:25 ID:4/EoEkTq
島津を石曼子と表記してるのは残ってるが、鬼が付いてるのは見た事も聞いた事も無い
868 :
人間七七四年:2008/05/11(日) 06:07:17 ID:vHB0+CzW
歩兵第45連隊は薩摩藩のように強かったのでしょうか?
869 :
人間七七四年:2008/05/11(日) 10:24:18 ID:GA4OT70l
>>856,
>>862-864 近衛家の庶流として日向諸県に赴任したのが島津の起源でしょ?
その後も近衛を「本家」として交流してたらしいし。
公式には「藤原姓」で、「源氏後裔」というのは伝承レベルなんだよね?
870 :
人間七七四年:2008/05/11(日) 12:19:12 ID:O4YW+nEB
惟宗氏は近衛庶流ではない。その被官。
「公式」の解釈に拠る。現在の島津本家が主張する江戸時代以降の『島津国史』や
『島津氏正統系図』を根拠にするなら源氏後裔説が成立する。ってことだOK?
現在の学会で「頼朝の子孫」という可能性が低いと言われてるのであって
今後別の重要な証拠の文書が出てきたらそれはそれで大きく変化するでしょ。
今は国分氏・市来氏の文書が重要根拠となってる
頼朝の種って可能性も低いかもしれんが下向を直接拝命した時点で近い繋がりだったことは確か。
近衛と関係が濃厚なのは荘園管理に拠る所が大きい。これも恐らく頼朝と近衛との関係。
要するに始祖の忠久に関してはよくワカンネーってことだ。あまり気にするな。
重点的に調べるなら久経や久時の事跡だな。
871 :
人間七七四年:2008/05/11(日) 14:57:19 ID:+MrSCWbQ
>>851 そんなこといってたら日本人の殆どは渡来人の血を引いてることになる。
872 :
人間七七四年:2008/05/11(日) 17:42:57 ID:r7L+KrcN
>478:日本@名無史さん :2008/03/30(日) 13:14:24
島津家は頼朝の落胤って聞いたが本当なのか??
>483:日本@名無史さん 2008/03/30(日) 16:32:03 [sage]
宗家に聞けば落胤と言うだろ
藩の公式の系図がそうなっちゃってんだし
>484:日本@名無史さん 2008/03/30(日) 16:39:39
徳川家は新田氏の末裔って聞いたが本当なのか??
>485:日本@名無史さん 2008/03/30(日) 16:42:58
宗家に聞けば末裔と言うだろ
幕府の公式の系図がそうなっちゃってんだし
>486:日本@名無史さん 2008/03/30(日) 16:46:05
秦→惟宗→島津ってのは、可能性が高いのであって、確証ではない。
大友や島津は平氏勢力圏だった九州の守護に任じられたのだから、
頼朝からは絶大な信頼はあったと思われる。
頼朝の落胤の可能性は低いがゼロではない。
真実はタイムマシンが完成するまでは闇の中だ。
>487:日本@名無史さん 2008/03/30(日) 17:26:42
出自不詳or茶筅賎民orどこぞの乞じき坊主ってのは、可能性が高いのであって、確証ではない。
豊臣や徳川は乱世の時代に終止符を打つべく関白や征夷大将軍に任じられたのだから、
朝廷や諸侯等からは絶大な信頼はあったと思われる。
新田の末裔の可能性は低いがゼロではない。
真実はタイムマシンが完成するまでは闇の中だ。
ワロタ
873 :
人間七七四年:2008/05/14(水) 14:51:43 ID:49MI4MuU
>>872 そのネタはどの島津スレでも定期的にループネタとして登場するな
874 :
人間七七四年:2008/05/15(木) 11:57:53 ID:N4LlwPQW
出自なんて気にするのは貧乏人の証左
結局「だからどーした」で終わるし
875 :
人間七七四年:2008/05/15(木) 18:52:28 ID:iPg3ES5K
出自をことさらに侮るのは馬の骨の証左
結局「成り金」で終わるし
まあ、今さら惟宗あたりまで遡るのは確かに無意味だけどな。
名門かどうかが大事だったのは当時の事だから。
876 :
人間七七四年:2008/05/16(金) 15:55:34 ID:4b3OC5YL
古モンゴロイドまで遡れ
877 :
人間七七四年:2008/05/16(金) 16:59:45 ID:Qf4obgCG
義久の最初の正室は義久にとっては叔母にあたるけど、
甥と叔母の結婚って、当時は普通だったの?
長宗我部盛親と信親の娘の結婚は家臣に猛反対されたんじゃなかったっけ?
878 :
人間七七四年:2008/05/16(金) 17:50:48 ID:gYBRn2Rf
島津氏的には割と普通だったようで
あの薩州家・島津実久の最初の妻も叔母です。
但し実久はその後後妻を迎えたところから見ると、
義虎を生んでいくばくもしないうちに死去したと思われます。
>長宗我部盛親と信親の娘
そうらしいですね。
但し、家督相続のごたごたを解決するために
早世した跡継ぎの娘(この例では信親の娘)と、後がまの叔父(この場合は盛親)
が結婚するということもわりとよくあったようで
島津氏関係者では肝付良兼(母は島津御南)の娘と肝付兼亮、肝付兼護は叔父姪の結婚です
879 :
878:2008/05/16(金) 18:36:35 ID:gYBRn2Rf
同時代の叔父姪の結婚例として
伊東祐兵と伊東義益女
も挙げておきます
880 :
人間七七四年:2008/05/16(金) 20:24:38 ID:+FYGk4rt
>>876 薩摩人は古モンゴロイド(オーストロネシアン)でそ
そういえば伊達成実の両親も叔父姪だったね。
882 :
人間七七四年:2008/05/17(土) 22:38:14 ID:f03WMBsY
チェスト〜〜〜〜〜〜!
883 :
人間七七四年:2008/05/17(土) 22:38:41 ID:f03WMBsY
ちょり〜〜〜〜〜す
884 :
人間七七四年:2008/05/21(水) 21:34:38 ID:fbwCgQhq
しかし、島津は鹿児島人から見たら、知名度激薄と思われているが、鹿児島県民の俺から言うと、結構な数いる。
学校で島津を少しではあるが、教えるところもあるっぽい。
でも歳久の扱い方は異常。歳久神社……小さいよ?
歳久神社(平松)……道の横にあるだけですか。
885 :
人間七七四年:2008/05/21(水) 23:13:51 ID:KgScFjL8
黙ればか鹿児島県人どもウザイ自作自演の論説はよせ!
お前ら焼酎の飲みすぎ・・・・
886 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 00:25:57 ID:goGiTuBX
歳久ってこれといった活躍ないからね。
朝鮮でも戦ってる豊久の方が戦上手なんじゃないの?
887 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 00:47:33 ID:t5iEfl2S
4兄弟の仲で一番微妙だからなぁ・・・>歳久
家久は沖田畷で豊久のエピもあり、武勇高き猛将だしなぁ・・・。
一揆に家臣が加担してたから切腹、だったっけ?
888 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 00:51:05 ID:OOyJjYSr
歳久が一番好きなんだが。
派手な兄弟に比べて裏方に回ることが多かったのは事実。
889 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 01:01:25 ID:tN+nDkd1
歳久は途中から病気のために裏方に回ったようだね。
病気になった時期ははっきりしないが
旧記雑録によると秀吉が攻めてきた時には
もう馬に乗ることができず輿に乗って闘っていたという話が載っているから
この頃にはかなり足が萎えていたのは事実だろう。
890 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 10:47:49 ID:9J4R8+jM
歩兵第45連隊は薩摩藩のように強かったのでしょうか?
891 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 11:55:46 ID:wRm+rE71
892 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 20:22:00 ID:7hwKrzfG
鹿児島人と鹿児島県民って違うのか?w
893 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 21:49:47 ID:goGiTuBX
島津家文書ってどうすれば読めますか?
売ってるんですか?
図書館にあるんですか?
894 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 22:59:28 ID:tN+nDkd1
>>893 まずはヤクザ番ゲットおめでとう。
『島津家文書』については当スレの
>>752に解説があった。
895 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 09:09:26 ID:3k8is49E
>>892 多分アメリカ国民とアメリカ・アングロサクソンとアメリカ・インディアンくらいの違いがあるんだろ
896 :
893:2008/05/23(金) 10:07:22 ID:L/pYqNnY
>>894 ありがとうございます。
国宝というだけあって一般人では読むのむずかしいかなと思ってたけど
やっぱりそうなんですね残念。
その時でも紹介されてたけどすごい量だったし。
三国志正史みたいに高くてもいいから販売してほしいなぁ。
897 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 12:07:54 ID:TBeQZ0sH
898 :
人間七七四年:2008/05/29(木) 02:04:39 ID:8nxqM33P
899 :
人間七七四年:2008/05/29(木) 12:07:47 ID:1/KdSfDG
島津に属していた豪族の当主で、
戦(城攻めだったと思う)の最中に投石か何かに当たって失神したというのは誰?
島津家の重鎮が直接手当てをして、助かったらしいが(おそらく義弘だろう)。
900 :
人間七七四年:2008/05/30(金) 00:25:46 ID:1X+gxSiy
>>899 「豪族の当主」という表現はどうかと思うが、岩屋城攻めのときの上井覚兼と思われ。
ネタ元は『上井覚兼日記』。
>島津家の重鎮が直接手当てをして、助かったらしいが(おそらく義弘だろう)。
本によってはこう書いてあるものもあるが、『上井覚兼日記』にはそんな記述は無い。
お見舞いは受けているが。
>>899-900 同じ岩屋城攻めでは、石に当たって負傷した上井覚兼に替わって山田有信が指揮を執ったらしいが、
「覚兼に替わった薩将山田有信の甲にも落石が命中、負傷して後退した。」(九州戦国の武将たち/吉永正春著より)
とあるがひょっとしたらこっちかもな。
902 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/03(火) 02:13:22 ID:1iJFb4S2
島津家って部落じゃないよね?
義弘が医術の心得を発揮したのは朝鮮出兵だったかな?
>>899 天正14年、高橋紹運守る岩屋城を攻めた際、
義弘に従っていた高城城主山田有信は、敵兵の落とした巨石に当たり絶息した。
これを聞いた義弘は、関屋清左衛門に命じ、
草葉を封印した手巾で有信の胸を締めさせたところ、有信は息を吹き返した。
うはwwコテ付いたwww♪
気にしないで^^;
|∀・) ・・・
|彡サッ
>>907 昔の鳥だとモット・・・
あまり、お気になさらずに
スレ汚しスマソです♪
899だけど、冊子を引っ張りだしてきて確認しました。
>>904氏の記述そのまま、山田有信でした。
関屋という人物を介して手当ての手法を伝えていたとあったのに、
義弘が直接手当てをしたものと、記憶が入れ違ってました。
大変お騒がせしました。
また、上とは別の記事ですが、
療養中の覚兼に処方を贈ったという話がありました。
>>900氏の言及については、こちらの逸話が関係しているかもしれません。
911 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 14:37:40 ID:WI1IePJk
部落なのっ!?
おいおい、中国大喜び。
中学ん時、歴史教師に伊地知氏の末裔だった人がいたけど
わかりにくいと評判の先生でした。
>>914 対照的に世界史の先生が
若い頃世界を旅した冒険野郎で、インドでバス乗ってたら山賊に銃撃された話とか
腹下した時に西洋医学の薬じゃ全然ダメだったのに、
インド人の呪い師に謎の薬を貰って奇跡的に回復した話とか
胡散臭い話ばっかりするもんで大人気だったよ。
教え方も最初にバーッと黒板に書いて、
「ここテストに出るから、ここだけノートに書いて覚えて」
で、後は先生の面白体験談。
伊地知先生はなあ〜
御高齢というのもあって、何を言ってるのかさっぱり聞き取れんかった・・・
今、近くにいたらいろいろ聞きたい話はあったんだが。
916 :
人間七七四年:2008/06/10(火) 12:19:40 ID:eSCtX3LO
義弘の朝鮮の手柄話をぜひ聞きたい
917 :
人間七七四年:2008/06/10(火) 22:48:49 ID:85Lw6YSM
四川の戦いでは島津隊のみで快勝。
まさに義弘版スターリングラード。
まさか明軍も自分たちが包囲してるのに自分たちが包囲されてるとは夢にも思わなかった。
すげーよ義弘。
露梁海戦では和睦を破って攻めてきた卑怯者李舜臣を返り討ち。
撤退しながら戦うというだけでも不利なのにいや凄い。
まぁ島津だけが戦ってたわけでは無いが立花なんかも頑ばった。
918 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 16:47:40 ID:C9MtujU1
司馬遼太郎は伊地知くそみそ ≡ ´・ω・`)サッ
919 :
人間七七四年:2008/06/12(木) 15:14:54 ID:6E+87kt3
義弘は足軽、雑兵などに絶大な人気があったというが当然
920 :
人間七七四年:2008/06/12(木) 17:04:10 ID:Dljkpz9U
そのわりに集まったのは1000人ぽっちw
しかも半数は豊久の兵w
921 :
人間七七四年:2008/06/12(木) 21:12:38 ID:i1CwDTIJ
>>920 島津家の御家事情じゃなかったっけ?兵が集められなかったのは。
本国で重臣・伊集院氏の造反?を警戒して
兵を動かすに動かせなかったとかいう話があったはず。
あと義久が反対してたとか。
私兵で1000も集められれば大したもんだろ。
922 :
人間七七四年:2008/06/12(木) 21:28:01 ID:8oGk8/mS
国内の一部にしか伝わらなかった事も考慮すべきだね
923 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 07:43:47 ID:bpwq10gN
だいたい、隣国あたりならともかく鹿児島から関が原に個人の意思で
参戦する兵がそれだけいるだけでも奇跡的だわ。
924 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 11:36:56 ID:RuIPMVb8
船乗れなかったヤツは徒歩で駆けつけたらしーからな
途中脱落したのも多かっただろうに
どんだけー
925 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 16:41:05 ID:a44RLRgr
926 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 17:56:21 ID:tPOZHVwz
>>925 島津は2番手軍で動く必要なかった説有り(『島津義弘の賭け』山本博文)
ただこの説では当時の生き残りの回想録などにも書かれて有名なあの話し
「最初三成は家来をよこして兵を動かしてくれと言ったが ざけんじゃねぇ! とおいかえし
今度は三成自らおながいに来たがやっぱり追い払った」
というのと符合しないのだが。
927 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 18:20:18 ID:41zxRNUD
頴娃久虎って、猛将だったの?
928 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 18:30:43 ID:ACruAvxm
あ? 伏見城に入らせてもらえない?
じゃあ郷へ帰ろうぜ
929 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 19:48:36 ID:tPOZHVwz
>>927 うん。
しょーもない事故で早死にしたのは惜しまれる。
そのために頴娃氏自体が衰退してしまったし。
薩摩藩時代は家老を務められる程度には家格回復したようだが。
久虎が頴娃氏を継ぐ過程もなかなかブラックである。
久虎自体に罪はないのだが、久虎の事故死を聞いた当時の人は因果応報と思ったかも知れない。
930 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 20:16:20 ID:OVLknTgm
過去スレに西南戦争の時の薩摩側の人々が歳久を崇拝していたってあるけど、
それが書いてある資料ってありますか?
あと、戦国期の肝付さんのとこの資料なんかがあればお教えください。
931 :
930:2008/06/13(金) 20:17:34 ID:OVLknTgm
あっ、小説でも構いません
932 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 00:54:41 ID:Kx5iihOo
>>930 >西南戦争
その当時の史料は寡聞にして知らないが
西郷隆盛が月照と入水自殺するときに、島津歳久の竜ヶ水での自害の話をしたのは有名な話し
>戦国期の肝付さんの史料
つ 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家分け2』「肝付氏系図文書写」「新編伴姓肝属氏系譜」
933 :
930:2008/06/14(土) 06:17:47 ID:sGXkonVO
>>932 ありがとうございます。なるほど、私の所有する西郷隆盛の小説にはその下りがありませんでした(T_T)
あと、藩士が義弘は優柔不断で歳久の方を褒めてたって話も出来ればネタ元をお願いいたしますm(_ _)m
934 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 16:13:14 ID:IfPEZdes
義弘の最高合戦は?
935 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 19:03:51 ID:Kx5iihOo
>>933 そういうことを書いた史料はちょっと知らないのだが・・・
小説ではそういう設定になっている物があると聞いたことがあるのだが、タイトルと作家名は忘れましたw
>>934 人数規模で言うと木崎原の戦いだろうが、あのときの伊東軍はピクニックモードだったという話しもあるしなぁw
ヤパーリ泗川か?
936 :
人間七七四年:2008/06/15(日) 06:34:55 ID:xnXbOOMF
937 :
人間七七四年:2008/06/16(月) 20:27:20 ID:L02VTSRb
伊集院駅の義弘像は木原崎の戦いのシーンだと思うけど、どうなんだろ?
938 :
人間七七四年:2008/06/16(月) 22:40:32 ID:+Kmxpiqe
939 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 14:13:36 ID:5xebxPKH
泗川の戦いはものすごい。誇張なんかも抜きにしても一番や
940 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 14:25:05 ID:MTaivALH
伊集院の義弘像、中学校の美術教諭が製作手伝ったつってたが本当かのう
941 :
人間七七四年:2008/06/21(土) 03:11:18 ID:qVuHi2NZ
942 :
人間七七四年:2008/06/21(土) 17:34:02 ID:wsAVIXZm
スーパーサイヤジンは薩摩人からきている。
943 :
人間七七四年:2008/06/21(土) 17:44:31 ID:W8vfuSqA
>>934 島津義弘の最高の合戦は次の合戦に決まってるさ!
944 :
人間七七四年:2008/06/21(土) 18:34:11 ID:ziaNOAko
木崎原は凄い。
普通は戦力を一点に集中して各個撃破がセオリーなのに
逆に分散して陽動、待ち伏せ、包囲のコンボだからな。
教科書通りの戦いでは勝てなかっただろう。
義弘は蒙将というより知将の方に分類されるべき。
945 :
人間七七四年:2008/06/21(土) 19:36:45 ID:NiLXidGJ
ほう。飛騨の民がおるとな。
947 :
人間七七四年:2008/06/21(土) 21:44:59 ID:ky1uKTH0
美濃の人コンバンハー♪
1/8は飛騨の血が入ってるだけに気になるんよ。
949 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 13:18:48 ID:pCG64GCS
一応姉がいるけど周辺大名と比べて陰が薄いからな・・・
950 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 23:41:31 ID:9p3lHXk9
951 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 11:01:01 ID:WYjbvqTC
歩兵第45連隊は薩摩藩のように強かったのでしょうか?
952 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 18:20:48 ID:7LYo4ud3
日置島津家文書って、どうすればみれますか?
あと、島津の分家ごとに古文書があるのでしょうか?
953 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 19:46:31 ID:XpWkEFvS
>>952 日置島津家文書は散逸してしまってすべてを見ることは不可能。
但し、一部の文書は鹿児島県と東大によって買い戻しされており、
それらについては『鹿児島県史料 旧記雑録家分け』9巻10巻の「日置島津家文書」で見ることが出来る。
古文書は各家のお手紙のやりとりとか帳簿とか家系図とかいろいろだから、
島津に限らずどこの大名家でも分家毎に古文書はあると思うよ
但し島津家に関して言うと、今のところ活字化されているのは
・垂水島津家(『垂水市史料集』)
・日置島津家
・永吉島津家(『鹿児島県史料 旧記雑録家分け9』)
・新城島津家(『鹿児島県史料 旧記雑録家分け10』『11』)
・都城島津家(=北郷氏)(『都城市史』)
知っているところではこれぐらいかな。
あと関係のある地方自治体の郷土誌の資料編などに載っている可能性もあるが。
954 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 00:54:58 ID:WicwkxnM
いつもせんきゅー☆
955 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 22:20:06 ID:dABERzwW
義弘次男の島津久保に興味があるのだが、ググったり本を読んでもいまいち人柄がよくわからない…
何か彼を知るのに良い資料や逸話は無いだろうか
956 :
人間七七四年:2008/06/26(木) 01:09:05 ID:7OdJZjpx
957 :
人間七七四年:2008/06/26(木) 02:16:08 ID:Vst12sy8
ちょとちがうような
>>955 次期後継者と目されていた割には、早世したためか『旧記雑録後編』に所収されている史料も少なく、
しかも逸話も聞いたことがない
久保の若死にで棚ぼた当主となった弟・忠恒(家久)によっていろんな史料が消された可能性もあるかも・・・
ちなみに義弘の息子はみんな幼名が判明していますが、久保だけが幼名が判明していません。
久保関連で数少ないまともにオヌヌメできる史料といえば、死ぬ直前に母親に送った手紙
『島津義弘の賭け』に口語訳が載っている。
958 :
955:2008/06/26(木) 18:25:10 ID:4RRrQ7bd
>>957 おおお、詳しい説明有難う!島津義弘の賭けか…読むには読んだがその時は久保を意識して無かったから、また改めて読んでみるよ。
ありがとう!
959 :
人間七七四年:2008/06/30(月) 16:15:25 ID:zTpuwhEY
島津義弘:島津義弘 見参! 御大将、覚悟めされい
敵の総大将:あれに見えるは鬼島津の旗印・・・: わが命運も尽きたか
かっこええな
960 :
人間七七四年:2008/07/01(火) 21:31:27 ID:ccqnz8Ft
武将風雲禄の裏ワザですね♪
961 :
人間七七四年:2008/07/02(水) 23:36:30 ID:CO4ufCYP
チェストーー!!
チョリース!
962 :
人間七七四年:2008/07/06(日) 23:31:49 ID:U1LUKHaP
島津氏って中国人の子孫なんだね
天皇家も認める正式な中国人の子孫
日本に帰化して秦とか惟宗という姓を天皇から貰ったんだそうだね
島津というのは近衛家の荘園の名前
島津氏は近衛家の一地方荘園の管理人の
残念な氏族
963 :
人間七七四年:2008/07/06(日) 23:51:44 ID:5s/Yun8A
煽りとしては文章はひねってある物の基本は使い古されて見飽きたネタ
よって0点
964 :
人間七七四年:2008/07/07(月) 02:17:25 ID:XCSf2xN6
まさか家康も島津が260年後徳川を倒すとは思わなかっただろうな。
965 :
人間七七四年:2008/07/07(月) 11:53:01 ID:sZuABODJ
家康どころか十二代家慶辺りでもビックリ!だったろう
十三代将軍の3回目の正室は島津家出身、斉彬の妻も一橋家出身で親戚だったのだから。
966 :
人間七七四年:2008/07/07(月) 12:08:52 ID:neTOvH+M
ついでに皇后送り出したり分家が嫁さん貰ったり
967 :
たられば君:2008/07/07(月) 15:57:09 ID:WBW/RK0c
今上の甥のカメラマンがいるね
968 :
人間七七四年:2008/07/11(金) 18:55:27 ID:EfheYkH2
上方と手紙のやりとりしてるの基本的に親方様と歳ぼん・伊集院さんだけ?
969 :
人間七七四年:2008/07/11(金) 20:46:15 ID:rD2d70ZH
喜入
樺山
喜入は京都担当家老だったから
樺山は和歌関係
970 :
人間七七四年:2008/07/11(金) 22:13:35 ID:vDmehYBM
豊臣鎮西軍記読むと、歳久だけ名前がない。
事績のない人物をマンセーするって、どんだけえええええええええ。
971 :
人間七七四年:2008/07/11(金) 23:57:48 ID:3HsNJvPO
よくわからんが肖像画を見る限り、戦国一のイケメンが義弘である
事に、よもや異論はあるまい。
972 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 00:36:45 ID:1LXiI71w
まもなくこのスレに信長マンセー派が襲来(予定)
>>970 そのころは病気で主力を外れていたから 敵方の文書に出てこないのは当然だろう
973 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 03:23:49 ID:BowFtQy6
>>971 義弘の肖像画って、あの細目でぷくぷくした顔のやつ?
974 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 09:14:46 ID:YeLDP7Xs
関ヶ原で煮え湯を飲まされた薩摩が倒幕の核になるなんて…、
最後までしつこく追っ掛けてきた井伊の末裔を薩摩が刺すのも…、
因果だよね〜。
975 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 14:21:00 ID:zQdCFQax
>>969 なんかそういうの判りやすくまとめた本があったら教えてください。
島津家における会社の組織図みたいなのが知りたくて・・
出来れば、簡略図がみたいかな〜、なんて
>>970 豊薩なんたらには歳久がちゃっかり。
しかも、歳久関連は島津方の資料とほとんど同じ内容。
>>974 毛利にしても、恨みつらみの怖さが判るよねw
976 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 17:57:14 ID:1LXiI71w
毛利はワカランでもないけど
島津は途中まで、というより幕末もギリギリまで御台所に2人も自家の姫を入れるなど
決して不仲ではなかったんだよね。
一押ししてきた慶喜が突如、島津をはじめとした諸藩を切り捨てにかかったのが急展開の始まり。
・・・
板違いでしたなw
>島津家における会社の組織図みたいなのが知りたくて・・
>出来れば、簡略図がみたいかな〜、なんて
組織図が載ってたかどうかを失念してしまったが
その辺の研究は『戦国大名島津氏の領国形成』(福島金治)というのが最もまとまっており、かつ唯一の本。
残念ながら絶版なので、図書館で借りて下さい。
福島先生はその後就職先の関係から、現在は全く戦国島津氏の研究から足を洗われたのが残念である。
977 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 18:11:04 ID:wM2GQ6nA
関が原の経緯に関しては、島津・徳川双方に遺恨はないのでは?
後の木曽川工事の負担なんかはいじめっぽいけど
978 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 18:50:56 ID:q3m+SKoV
どう考えても、武田や上杉より強いな島津。
地方だったため、信長・秀吉・家康の流れでは重視されてないけど。
武田最強とかいう歴史読本の悪影響だろな。
979 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 18:55:18 ID:q3m+SKoV
毛利元就を撃退している大友・立花に大勝。
大友に大勝している竜造寺・鍋島に大勝。
豊臣先遣隊のチョウソカベ・仙石に圧勝。
明軍にも大勝。
明らかに、当時最強だろ?ってレベルの大名家を撃破している島津。
980 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 18:56:52 ID:zQdCFQax
>>976、
>>977 不勉強、ごめん
その福島先生という方は本当に残念ですね
本は図書館に行ってみます
喜入さんと樺山さんは京都を行ったり来たりですか?それとも、鹿児島から部下に
命令を出していたとかですか?出来れば、お二人の活動年代も知りたいです。
近衛さんが下向した時からなのか、家臣も一杯便乗した家ぼんのお伊勢参りからなのか
981 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 19:43:00 ID:BiK5Qmgu
>>978、979
そういうの止めなされ。
本当に島津ファン?
反感買うようなレスは止めようね。
982 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 21:06:10 ID:xw8+Xi95
島津軍=上杉軍(謙信健在時)
これは、暗黙の事です。
983 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 21:09:54 ID:1LXiI71w
>>980 義久のころの樺山家当主は善久→忠助(善久の次男)
善久は忠良に「自分の息子同然に扱う」と目をかけられた人物で
義久の義理の叔父に当たる(善久の妻が義久の叔母)
ただし家老職には就いてないようです・・・「忠良の息子同然」だからこれが当然の扱いなのかな?謎。
善久の長男は戦死してしまい、このため次男・忠助が後を嗣ぎます。
忠助も島津家家中では重鎮でしたが、やはり家老職には就いてないようです。
善久は家ぼんと前後して上洛した
(表の目的は善久に変わって伊勢参りだが、主な目的は和歌の武者修行らしいw)のですが、
どうもこれが最初で最後の上洛だったようです。忠助は上洛経験はなかったような・・・。
ちなみに善久の娘が家ぼんの妻なので、善久は家ぼんの舅でありかつ和歌の師匠です。
樺山善久 永正10年−慶長元年11月24日 天正年間には年齢的な問題から第一線から引退か
樺山忠助 天文9年−慶長14年5月13日 唐入りには息子が行ってるから文禄2年頃には隠居扱い?
984 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 21:18:26 ID:1LXiI71w
>(表の目的は善久に変わって伊勢参りだが、
うぎゃ変換ミス
正解は
(表の目的は 義 久 に変わって伊勢参りだが、
失礼しました
985 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 23:38:55 ID:DVKLy4bZ
980過ぎたし、そろそろ新スレ建てる時期だが・・・。
986 :
人間七七四年:2008/07/13(日) 00:43:22 ID:SEytixNT
では言い出しっぺの
>>985様、よろしくね(はぁと)
987 :
アニマル:2008/07/13(日) 02:13:56 ID:6GhOVyvj
988 :
人間七七四年:2008/07/13(日) 03:17:51 ID:gaPDLxxo
4兄弟の中で歳久だけずば抜けて実績がないように思える東北人の俺
989 :
人間七七四年:2008/07/13(日) 06:26:10 ID:ZpDjzomC
謀略家って、そういう者ですよ
ただ城攻めは結構実績が残っているのが歳久らしいところ
横川崩れの引き金となった横川城、大隅一の要害小浜城、岡城と双璧に当たる白仁城
これらはほぼ一日であっさり落としているんだよね
耳川でも最後の作戦会議の描写では義弘と歳久しか資料では見たことないなあ・・・
島津では会戦ばかりが目立ちすぎて、歳ぼんのような城攻め功績が霞んでいるのも事実
飛び抜けて実績がないのなら義久のほうが・・・
991 :
人間七七四年:2008/07/13(日) 11:08:36 ID:qTjDS0iv
龍伯殿は総領ですから、実績なくていいんですよ。
本人も弟達に任せた事を認めてるし。
992 :
人間七七四年:2008/07/13(日) 13:10:58 ID:Z0OYtcbT
一度でいいから優秀な弟三人の元に会社経営のトップってやってみたいな
いや、優秀な義姉妹三人の元に変更っと
993 :
人間七七四年:2008/07/13(日) 22:02:00 ID:Il11LU2/
義弘と家久の実績がすごすぎて、相対的に存在感がないってとこでしょうね。
そういう意味では、新納忠元などの家臣団もそうだといえるかも。
忠長とか征久とかも。