【日本の】戦国時代の近畿地方【中心】

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1小魔玉  ◆N10JLQ90IM
芦屋河原の戦い&船岡山合戦〜大阪の役までの近畿地方(山城・摂津・播磨・
河内・近江・丹波など)の、武将・城・合戦などマターリ語っていくスレです。

オイラが住んでいる西宮市には、越水城跡という城跡があります。
この城は、永正16年(1519年)頃に瓦林政頼が築城したとあり、その後、細川晴元の家臣・
三好長慶の居城となり、三好氏の本国・阿波と畿内を結ぶ重要拠点であったとあります。

この他に、伊丹城・鷹尾(芦屋)城・花隈城・尼崎城・富松城などが城跡として残っています。
う〜ん、通な城跡がオイラの近所に残っているんだなぁ〜( ^∀^)ゲラゲラ
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 09:30:16 ID:XtNyPCRj
いまだ!2ゲット!
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 09:34:27 ID:XtNyPCRj
いまだ!2ゲット!
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 09:41:13 ID:YZaSiNib
自分語りいれなきゃ気が済まないのかおまえは
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 09:42:49 ID:rtdA5NRz
いまだ!2ゲット!
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 17:15:19 ID:T+G37EEn
波多野って三好に従属してたの?
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/11(日) 19:57:32 ID:7dTkg1jE
やはり播磨国!やはり姫路城(または白鷺城)
8小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2006/06/11(日) 22:28:58 ID:z1+7705z
中国道を車で走っていると、赤松PAというPAがあります。地名から、そこが名門・赤松氏の発祥の地
なのかと思った今日この頃(その他に、別所・有馬・三木などの地名もあります)。
と、『信長の野望(蒼天録の船岡山シナリオw)』で赤松氏に天下を取らしたかったのですが…
やっぱり無理でしたorz

>>6
波多野氏は、応仁の乱で細川氏方(東軍)に属して以来、細川氏に従属という形をとっていたみたいです。
(細川氏と三好氏が対立した時、細川氏方に味方したとあります)
と、波多野秀治・秀尚兄弟が信長に処刑されて、波多野氏は滅亡したとあるのですが…
波多野氏の子孫は残っていないのか疑問ですw

>>7
『暴れん坊将軍』で、江戸城として扱われる姫路城ですね( ^∀^)ゲラゲラ
(オイラは、JR姫路駅の正面口から見る姫路城が好きです)
と、JR姫路駅の隣の駅・御着駅…その近くにある御着城跡も味のある城跡ですw
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 09:43:50 ID:22Ytwf8w
御着城と言えば小寺氏だったか…
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 15:41:28 ID:WrRekcMf
波多野は藤原秀郷の後裔だったよな?
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 16:13:26 ID:TB7XGOq1
三好は早死、呪われてる
12小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2006/06/12(月) 21:46:29 ID:5c/lv/zc
この週末に、摂津一向一揆の中心・塚口御坊跡(塚口城跡)に行ってくる予定ですw

>>9
一時期、黒田官兵衛は小寺孝高と名乗っていたみたいですね。
と、小寺氏・別所氏・有馬氏は赤松氏の一族…う〜ん、渋い一族ですw

>>10
イロイロ諸説はあるみたいです、その説が一番高いですねw
と、藤原氏秀郷流には、蒲生氏・結城氏・小山氏などがいるようですね。

>>11
松永久秀の陰謀が見え隠れしますが( ^∀^)ゲラゲラ
と、三好義興や十河一存、そして安宅冬康は”少なからず”久秀の毒牙が…((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/16(金) 01:43:39 ID:E669Ruea
■■オタク殺到■■ 戦国武将縁の寺・神社 ■■
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1118036056/

14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/16(金) 02:02:58 ID:kTCENk21
>>1
近所に住んでるんだな。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/16(金) 02:23:01 ID:7N9RmVes
近畿は、近代の造語。畿内が正しい表現。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/17(土) 21:41:59 ID:V/McvADb
三好の滅亡早すぎ
17小魔玉 ◆N10JLQ90IM :2006/06/18(日) 20:39:47 ID:HKnJp0Sf
↓西宮神社(えべっさん)と源(多田)満仲の銅像ですw

http://u.pic.to/arix
(西宮神社は、高倉上皇や豊臣秀頼と繋がりがあるみたいです。)

>>14
住めば都の西宮市ですw

>>15
そういえば“畿内制圧”と言いますね。
と、ありがとうございます!!1つ勉強になりましたw

>>16
三好長慶の弟・義賢と息子・義興が長生きしていれば、状況は変化したのでしょうか?
(と、秀吉の場合も、秀長と鶴松が長生きしていれば…)
18奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/06/22(木) 22:46:27 ID:EfeDfBsa
ただのまんじゅう。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 15:15:25 ID:qTHjeON7
>>18
何がまんじゅうなんでしょうか?
20奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/06/23(金) 21:02:37 ID:d4XEa6Ez
経基と血の繋がりが怪しまれている多田満仲を揶揄してそう言うんよ。
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/23(金) 21:09:18 ID:DKXdho8D
ゑーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ただのまんぢゅうかよーーーーーーーーーーーーーーー
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 22:29:46 ID:RRkh3DAO
長慶って意図的にあくどいイメージを植えつけられている感があるな。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 23:02:26 ID:c9FbB/bP
久秀って畿内出身だったけ?
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 23:03:48 ID:RRkh3DAO
山城の西岡って聞いた
25小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2006/06/24(土) 23:31:52 ID:0l97TwDy
明日は花隈城跡でも行こうか思案中…
と、雨が降る可能性が高いですがw

>>20
多田満仲は、本領の川西市では“かなりの”独裁者だったと言い伝えられています。

>>22
オイラもそのイメージがあります!!
(『信長の野望』の影響かもしれませんw)

>>23
>>24さんの山城・西岡出身説が有力ですが、摂津出身説もあります。
(オイラも、信憑性が高いのは山城出身説だと思います)
と、斉藤道三も山城出身みたいですw
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 16:08:20 ID:pPiiFEYI
>>22
長慶としては復讐を成し遂げただけって感じだと思うんだがねえ。
そのあとのビジョンが無さそうなところがまた。
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/29(木) 22:31:08 ID:fUPBy7Vv
でも晴元も殺していれば少しは変わっていたかも。ちょっと粘られすぎだろ。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 16:56:10 ID:fSoAguT+
「堺政権」前後の畿内情勢は非常に複雑で分かり難いですが、
結局は足利も細川も畠山も六角も三好も衰退してしまい
信長の上洛の頃は切り取り放題だったと。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 20:35:17 ID:oCIYcKoe
互いに潰しあいだもんな
管領→三好→松永と格は落ちてんもんな
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 16:00:45 ID:tf39Nwiy
六角は信長上洛の頃には観音寺騒動と浅井離反でボロボロだったな。
あっという間に滅ぼされた。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 17:39:20 ID:KojK1AQ9
浅井の主君は京極だから、六角には負けて従ってた状態だから仕方ないな
観音寺騒動は確かにひどいな
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 18:47:32 ID:ZV58xkq1
一色に近畿に入りますか?
33名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 16:02:08 ID:z438m1Hw
>>32
畿内は山城・大和・河内・和泉・摂津だけどね

いまでいう近畿地方にははいるでしょ、丹後
34小魔玉 ◆N10JLQ90IM :2006/07/10(月) 20:11:30 ID:OarH0rNG
“獅子身中の虫”と分かっていながら、信長や三好氏に重宝された松永久秀は
やはり将として優れていたのでしょうか?

と、久秀の居城・信貴山城と多聞山城では、どちらが立派な城なのか気になります。

>>32
オイラも>>33さんと同意見ですw
(オイラ的には↓の一帯を語るスレにしたいです)
http://weather.msn.co.jp/localarea005.armx

と、紀伊地方辺りも範囲に入れていきたいと思っています( ^∀^)ゲラゲラ
(一色氏や山名氏、畠山氏に筒井氏なども語っていきたいなぁw)
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 21:20:36 ID:hsZNh6SG
紀伊の守護は畠山かな?
陰薄いよな
36小魔玉 ◆N10JLQ90IM :2006/07/10(月) 21:58:16 ID:OarH0rNG
畠山満家までは実力を持っていたみたいですが、満家の子・持国が養子(畠山政長)を迎えた直後に
実子(畠山義就)が生まれて、“案の定”お互いに家督を巡って争いが起こり、畠山家は下り坂を
転げ落ちた…みたいですねw(管領・細川家然り…う〜ん、やはり家督争いは大変だなぁ)
と、オイラもよく分からないのですが、河内畠山家と紀伊畠山家はどちらが強かったのでしょうか?

あと、淡路地方一帯も入れ忘れていました( ^∀^)ゲラゲラ
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 17:28:48 ID:M0xZX1O3
と、に萌え
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 14:56:13 ID:AHjEoA4W
>>36
応仁の乱の原因の一つとなった、義就流、政長流の争いは
天文十一年(1542)の稙長の河内進攻で収まり、
政長流が河内と紀伊をこの後押さえる
39名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 19:48:19 ID:J+eip5ub
播州小寺ってのも微妙な家だな
あと別所は赤松の家とは少し違うようだな
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 20:21:34 ID:J+eip5ub
×赤松の家
○赤松の流れの家
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 17:11:06 ID:Fio7aWUO
諸説はあるみたいだけど、赤松の流れには違いないのでは?
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 22:40:58 ID:i1h7/1pu
この辺の土豪については平田弘史さんの漫画に載ってるな
43名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 00:47:18 ID:XmsMv43/
◆御一家衆・・・本家に次ぐ地位で、足利将軍の直臣になっていたのもいる
七条家、伊豆守家、播磨守家、有馬家、上野守家、在田家、本郷家、
広岡家、永良家

◆御一族衆・・・前者よりはワンランク下扱いの赤松一族
    別所家は16世紀後半に台頭したことは周知のとおり。
下野守家、遠江守家、能登守家、宇野家、間島家、上月家、別所家、
佐用家、豊福家、得平家

◆年寄衆・・・赤松一族以外の重臣
      御一家衆、御一族衆の分家もある
浦上家、喜多野家、富田家、小寺家、中村家、上原家、堀家、櫛橋家、
依藤家、明石家、薬師寺家、城所家、後藤家、衣笠家
44奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/07/28(金) 00:52:13 ID:vdr79GrL
誤爆?
45名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 00:53:51 ID:XmsMv43/
小寺氏の話題が出てたから
46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 11:45:23 ID:sHYbBSI4
小寺とか宇野とかは単独の豪族だけでなく一族のなかで他の豪族に仕えた人も
多いようだね。別所の家来にも小寺某というのがいたし宇野氏の一族も
播州一円の豪族に仕えてるし。
47小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2006/07/29(土) 20:38:53 ID:CHw2T1/D
http://s.pic.to/3oyet
久しぶりに近郊の城跡巡りに行って来たのですが、↑の右端に写っている瓦林城跡は、
赤松則村(円心)の家臣・貴志義氏が築城したとあります。
(貴志義氏以降の子孫の名が見当たらないので、この人の代で断絶したと思います)

と、赤松満祐が将軍・足利義教を殺さなければ、歴史が変わっていたのかも知れませんね?
(嘉吉の乱が起こらず、細川家・山名家・赤松家の三家鼎立が続いて…って、これはないですねw)

>>38
おぉ〜、ありがとうございますw
と、能登畠山家も同族…だったかな?

>>42
たしか平田弘史さんは、黒田官兵衛が主人公の漫画を描いていたはずですw

>>43
年寄衆に属している明石家というのは、宇喜多氏の家臣・明石全登の家系なのですか? 
48名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 20:46:48 ID:AzWc8H4J
hmhm
49名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 21:53:42 ID:6Y6K3sPb
>42
黒田三十六計だったろ?
50名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 23:12:00 ID:QKY2SI/Q
伊勢氏とか蜷川氏とかどうしちゃったのかな
51名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 14:14:54 ID:dLAkCeci
蜷川・・・義輝に親世・親長父子が仕えるが、義輝の死後、親長は長宗我部を頼り、
後に家康の御伽衆に

伊勢・・・貞孝まで政所執事、貞孝と子貞良は三好義興攻められ敗死
貞良の子貞為は信長、秀吉に仕えた
52名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 15:26:57 ID:yLGBMV4j
畿内の戦乱にずっと畠山が絡むけど、いまいち目立たないね
53名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 08:06:03 ID:IdzIuJ8s
>>52
長慶出て来るとすぐに紀伊へ逃げるヘタレだから。
長慶もお人よしでなかなか追い詰めないから。





でも義賢を撃ち殺したり、飯盛城囲んだり、たまには底力を見せています。
54小魔玉 ◆N10JLQ90IM :2006/08/16(水) 16:16:06 ID:ZuAnrb39
江戸時代に入って、5000石の高家になった事を考えれば、
ある意味、畠山家は勝ち組なのかもしれませんねw
(家康は名家好きだったんですかね?)


http://p.pita.st/?m=ic4ftpex
↑と、昨日は久しぶりに京都に行ってきました!!
(京都御所の蛤御門は、意外に小さかったッスw)
55名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 15:33:03 ID:/ztd8l/G
畠山は畿内では一方の雄なんです、目立ちませんが
政長流の尚順、稙長、政国、高政は、細川京兆家、三好家とずっと戦って、滅びもしない

畠山がいないと内輪揉めばかりになる、畿内の戦国

>>54
>家康の名家好き
・・・三河譜代だけで、幕府(特に旗本・御家人)の体制を築けなかったから、と思います
ただ選抜の基準は、名家優先のような・・・
56名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 15:43:57 ID:tFnnQq9w
三管領で早々に京から姿消すのは、斯波だね
応仁の乱勃発時の管領は、以外な事に斯波義廉(斯波としては最後の管領かな)
一方の義敏は文明十五年(1480)に尾張に下って、それっきり
57奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/09/05(火) 23:05:06 ID:J3FdCZku
大内六角あたりに乗っ取られてる感じで。
58小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2006/09/18(月) 11:52:43 ID:0QOMaUhd
http://p.pita.st/?m=qvauskep
↑阿保親王塚古墳に行ってきたのですが、長州の毛利氏は阿保親王(在原行平・業平兄弟)の
 子孫になるのでしょうか?

>>55
三河譜代の荒武者達に、京の公家さん達の相手が務まるとは思いませんからねw
と、紀伊の畠山氏は鈴木(雑賀?)氏とは何らかの関係はあったのでしょうか?

>>56,>>57
オイラが思う斯波氏は、織田氏や朝倉氏が世に出るために用意された、お膳立て
大名だと…そう思う今日この頃です( ^∀^)ゲラゲラ
59名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 12:03:23 ID:VoO7CbOB
モレは近江国安土在住だぞ。安土城は世が世なら日の本の中心、首都にもなっていたかもしれんのに
今じゃあ“マムシ注意”の看板がむなしく立っているんだぞ!
60名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 13:38:08 ID:M4rSIkSW
全米が泣いた
61名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 17:13:40 ID:4te6BxjR
(´;ω;`)
62名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 23:56:38 ID:MIG4ozC+
>>59
“マムシ”=“濃姫”じゃね?!
63名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 10:49:18 ID:A7G1UzFn
>>62
うまい
64名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 01:03:11 ID:VFsq8+u0
>>59
わかる。その気持ち。
俺の近所なんか平家の天下が続いてればやがて御所ができていたかもしれないのに
今じゃ神戸の中心街からずれたガラの悪い工業地帯さ・・・。

荒木村重はどこ出身だったっけ?今の伊丹の方だった?
65名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 13:49:04 ID:WyuHws+e
>>59 夏草や兵どものが夢のあと

>>64 摂津国 池田城主・池田長正の家臣・荒木信濃守義村の嫡男として池田(現・大阪府 池田市 )に生まれる。
   荒木氏は丹波国八上城(篠山市)にいた波多野氏の一族といわれています。 
66名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 12:34:23 ID:KViAHWhx
>>65
d
67名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 23:47:17 ID:BPDrpxz3
日本100名城の一つに選ばれてる明石城について


本丸ないけど
68名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 15:20:07 ID:QYhpFa94
>>67
あそこアヒルさんが多いよねw
69名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 10:33:55 ID:dU6ZKQyW
>>68
冬には白鳥も来るよね。
あと足こぎボートもあった気がする。
70名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 13:58:51 ID:a1d5IC6n
なんかいいなあ〜♪
71名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/24(水) 06:56:33 ID:dcEeQenC
近畿佐竹氏について情報ください
72佐用村民:2007/02/06(火) 15:20:52 ID:XahfC0kZ
今じゃあ立ち入り禁止の立て札上がっていて遊べないらしいが
まだ俺が小さかったころ、実家の裏山にあった利神城跡でよく遊んだもんだ・・

そういや・・もう何年も田舎に帰ってないなー ( ̄ヘ ̄) ウーン・・・
73人間七七四年:2007/03/13(火) 19:36:07 ID:H6IFKeay
15世紀の近畿は本当に混沌としてるな
74人間七七四年:2007/03/13(火) 23:38:32 ID:WgE67Y3Z
近畿(室町)の勢力が落ちて戦国時代になった。
75人間七七四年:2007/03/19(月) 15:56:53 ID:RPz5m+wd
だが近畿のカオスッぷりがいい。
76人間七七四年:2007/03/28(水) 17:18:32 ID:cMhKqWcE
1493

  ●        ○
足利義稙 vs 足利義澄
         細川政元
畠山政長   畠山義豊
大内義興   一色義直
富樫政親   京極政経
         土岐成頼
         赤松政則

遊佐長直   上原元秀
神保長誠

         越智家栄
         古市澄胤
77人間七七四年:2007/03/28(水) 17:42:27 ID:cMhKqWcE
1504

   ○       ●

細川政元 vs 細川澄元
         畠山義英
武田元信   一色義有

薬師寺長忠 薬師寺元一
         赤沢朝経

香川元長

永正元(1504)年、九郎が元服し、将軍である足利義澄から偏諱を受け「澄之」と改名する。
これを澄之による家督相続の動きと危険視した摂津国守護代である
薬師寺元一が叛乱を起こし政元に引退し家督を澄元に譲渡するように迫るが、
遂に未遂に終わってしまうのである。
78人間七七四年:2007/03/28(水) 18:43:15 ID:cMhKqWcE
1507

   ●      ○
足利義稙 vs 足利義澄
細川澄之   細川澄元
畠山尚順   畠山義英
         細川成之

         細川高国
         三好之長

香西元長
薬師寺長忠

永正4年(1507年)6月、澄之の家臣の香西元長や薬師寺長忠らが政元を暗殺する永正の政変が起こる。
さらに元長・長忠らは澄元の暗殺も計画したが、澄元の重臣・三好之長の機転によって近江に逃げられた。
その上で、澄之は元長らによって丹波から上洛し、自ら政元の葬儀を催したことで第11代将軍・足利義澄から政元の後継者と認められた。
なお、澄之は政元の暗殺計画にはほとんど関与しておらず、若年の澄之を新たな細川家当主として擁立することで
幕政を牛耳ろうと企んでいた元長・長忠らが中心的な役割を果たしていたとされる。
しかし近江に逃れた澄元と三好之長は近江の国人を味方に引き入れ、8月1日には逆襲をはかって京都に攻め上った。
澄元と同じく政元の養子であった細川高国も澄元に加担したため、澄之は敗れて戦死した。享年19。
このとき、元長や長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊したのであった。


この表では義稙の名が出てくるが当時山口にいた義稙を澄之は担いだんだろうか?
79人間七七四年:2007/03/28(水) 22:44:00 ID:cMhKqWcE
1508

  ●       ○
足利義澄 vs 足利義稙
細川澄元   細川高国
畠山義英   畠山尚順
赤松義村   大内義興
六角高頼   北畠材親
大友親治   仁木高長
細川成之   細川尚春

細川政腎   細川尹腎
三好之長

         内藤貞正
         香西元盛
         波多野稙通
九里備前   柳本賢治
池田      神保長誠
         伊丹元扶
         三宅国村
         河原林政頼

前将軍足利義稙は大内義興に擁立されて上洛を開始する。澄元は義興との和睦を画策したが、
同じく政元の養子で澄之討伐に協力した細川高国が大内方に寝返り伊勢に逃亡したため、決裂してしまった。
永正5年(1508年)4月、細川高国が京都に侵攻を開始する。このとき、仁木高長や摂津の伊丹元扶、丹波の内藤貞正らも
呼応したために澄元は敗北し、之長や将軍・足利義澄と共に近江に逃れた。そして6月、足利義稙が大内義興に擁されて
上洛すると、義稙によって澄元の家督は剥奪され、代わって高国の家督継承が承認されることとなり、高国は7月18日に右京大夫・管領に任官された。
80人間七七四年:2007/03/28(水) 23:01:28 ID:cMhKqWcE
1527〜1531

   ●      ○
足利義晴 vs 足利義維
細川高国   細川晴元

赤松政村
北畠晴具
仁木義広

細川尹腎
         三好元長

朝倉孝景   内藤国貞
尼子経久   波多野稙通
         柳本賢治
         池田
         三宅国村

伊丹国扶
浦上村宗

享禄4年(1531年)、高国は天王寺の戦いに敗れて自害する。戦後、今度は細川晴元と三好元長が対立。
そして、天文元年(1532年)に元長が細川晴元によって討たれた後、
天文3年(1534年)には六角定頼・六角義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。

勝っても将軍になれなかった義維。晴元と元長の影響か?ならば義維は三好よりだったのかどうか。
81人間七七四年:2007/03/28(水) 23:09:49 ID:cMhKqWcE
1532

   ○      ●
足利義晴 vs 足利義維
細川晴元   細川持隆
         畠山義宣
赤松政村
六角定頼

三好政長   三好元長
         三好勝長
茨木長隆

木沢長政

本願寺

晴元は元長と対立し、天分元年(1532年)に晴元は本願寺証如や木沢長政らと手を結び、
一向一揆を扇動して元長を堺で殺害した。さらに足利義維とも不和になったために追放し、
将軍・足利義晴と和睦した。その後、一向宗は堺公方を襲撃するなど対立し、対立宗派の法華宗と協力して
法華一揆を誘発させ、領内で一向宗の活動が活発であった近江の六角氏とも協力して山科本願寺を攻めた。
天文5年(1536年)には京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、比叡山延暦寺・六角氏と連合して壊滅させた(天文法華の乱)。
天文6年(1537年)、右京大夫に任官し、幕政を支配した。
82人間七七四年:2007/03/28(水) 23:21:21 ID:cMhKqWcE
1553


足利    vs 足利義輝
細川氏綱   細川晴元

         細川持隆
三好長慶
三好義腎
安宅冬康
十河一存   香西元成
         久米義広

三宅国村

天文18年(1549年)、晴元が三好長慶に敗れて没落した後、細川持隆は三好長慶に対抗しようとして
足利氏の一族である足利義栄を擁して上洛しようとしたが、計画が長慶の弟・三好義賢に漏れてしまい、
天文22年(1553年)に見性寺において殺されてしまった。その子・細川真之は傀儡の守護として擁立され、
四国の実権は三好氏に完全に掌握された。このとき、持隆派であった久米義張、佐野丹波らも殺害されている。
83人間七七四年:2007/03/28(水) 23:27:50 ID:cMhKqWcE
以上の表はここから。 ttp://www.geocities.jp/kawabemasatake/keicyou.html
文はwikiなどから適当に。

摂津の歴史で面白いページを見つけたので。
ttp://www.ikedaya.com/wagamachi.html
「勝正を追え」では年表順で見ることが出来る。
84人間七七四年:2007/03/29(木) 14:23:28 ID:hsfTWKuN
細川政元
文正元年(1466年) - 永正4年6月23日(1507年8月1日) ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E5%85%83

応仁の乱の東軍の総大将細川勝元の嫡男。細川家京兆家当主。
将軍義材を廃位するなど半将軍とよばれるほど絶大な権力を握るが、修験道に凝り一切女人を近付けず実子がなかったため
公家から養子(澄之)を取るなど家中を混乱させ更にもう二人も養子(澄元・高国)を取ったため深刻な問題にしてしまった。
最後は一番最初に取った養子の澄之派の者に暗殺された。


・十代将軍に義澄を推す。→日野富子・畠山政長の推す義材に決定。1489年(延徳元年)
・畠山の内乱が起こっている山城の国一揆を扇動。→畠山両軍山城より撤兵。1485年(文明17年)
・将軍義材留守中に謀反。→日野富子・赤松政則を抱き込み義澄将軍擁立。義材幽閉。1493年(明応2年)
・逃亡した義材が北陸から攻め上がってくるが撃退。呼応した畠山尚順も撃退。1499年(明応8年)
・九条家から家督相続を条件に細川澄之を養子として迎える。1502年(文亀2年)
・しかし先代よりの家臣から反対され澄之を廃嫡し、分家の阿波細川家から細川澄元を養子として迎え家督相続を約束した。→澄之・澄元両派の対立が先鋭化した。1503年(文亀3年)
・摂津守護代の薬師寺元一らが、澄元の擁立を図って挙兵するが、弟の薬師寺長忠に討たれる。1504年(永正元年)
・政敵畠山政長の敵であった畠山基家(義豊)の子義英は政元の傀儡同然だったが独自の動きを見せたため赤沢朝経に攻撃させ没落させる。→本願寺と強い繋がりが出来る。1506年(永正3年)
・大和にも侵攻する。
・紀伊、さらに丹後・丹波へは細川澄之、細川政賢、武田元信らを送り一色義有に対して軍を侵攻させる。→途中で政元暗殺が起きたためもあり失敗。赤沢朝経らが討ち取られた。永正4年(1507年)
澄之派に懐柔された警護役の竹田孫七・香西元長・薬師寺長忠によって、湯殿で行水をしていたところを襲われて殺された。享年42。永正3年(1507年)6月23日


権力欲も強く。畿内各地に派兵するなど強い軍事力を持っていたが、修験道に走り政治を疎かにし最後は自分から蒔いた火種により討たれてしまった。
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/hosoka_k.html
ttp://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/itki/iku3/303.htm
85人間七七四年:2007/03/29(木) 14:41:40 ID:hsfTWKuN
細川澄之
延徳元年(1489年) - 永正4年(1507年)8月1日 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%BE%84%E4%B9%8B

関白・九条政基の末子。
文亀2年(1502年)9月、澄之を家督継承者として養子になり、政元から丹波守護職を与えられた。
ところが文亀3年(1503年)5月、政元は澄之を廃嫡し、細川義春の子・細川澄元を養子に迎えて後継者に指名した。
その後は養父・政元の命令に従って、永正3年(1506年)には丹後の一色義有討伐に赴いたが、敗退している。
永正4年(1507年)6月、澄之の家臣の香西元長や薬師寺長忠らが政元を暗殺する永正の政変が起こる。さらに元長・長忠らは澄元の暗殺も計画したが、澄元の重臣・三好之長の機転によって近江に逃げられた。
その上で、澄之は元長らによって丹波から上洛し、自ら政元の葬儀を催したことで第11代将軍・足利義澄から政元の後継者と認められた。
なお、澄之は政元の暗殺計画にはほとんど関与しておらず、若年の澄之を新たな細川家当主として擁立することで幕政を牛耳ろうと企んでいた元長・長忠らが中心的な役割を果たしていたとされる。
しかし近江に逃れた澄元と三好之長は近江の国人を味方に引き入れ、8月1日には逆襲をはかって京都に攻め上った。澄元と同じく政元の養子であった細川高国も澄元に加担したため、澄之は敗れて戦死した。享年19。
このとき、元長や長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊したのであった。


公家から養子に行き細川家内の主導権争いに巻き込まれ敗北し戦死。
86人間七七四年:2007/03/29(木) 15:20:49 ID:hsfTWKuN
香西元長
生年不詳 - 永正4年8月1日(1507年9月7日) ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E8%A5%BF%E5%85%83%E9%95%B7

細川氏の家臣。山城国半国守護代。嵐山城主。
元来讃岐国の武士であるが、父元直の頃には京都へ詰めるようになり、讃岐の領地は元直の弟が継承している。
文亀2(1502)年に九条家から九郎(のちの澄之)を養子に迎え細川京兆家の家督を公家が相続することとなったが
これには内衆である香西元長や薬師寺長忠らや他の細川家が反発した。
そこで文亀3(1503)年になると細川阿波国守護家から、改めて六郎(のちの澄元)を養子に迎える。
永正3(1506)年のことである。この年、澄元は摂津国守護に就任し、澄之は丹波国守護に就任した。
そして政元は澄元の後見を三好之長に任せたが、ただでさえ阿波国守護家出身ということで、細川京兆家との繋がりも薄いところに加えて、
阿波国守護家の重臣が澄元の後見となったことで、内衆たちは強い危機感を持つようになる。
このために澄元を支持して来た香西元長や薬師寺長忠らは澄之支持に乗り換える。
永正4年(1507年)に、主である管領細川政元の丹波出陣に際して役銭供出を拒否した賀茂社を焼き討ちしている。
政元の後継者を巡る争いで元長は細川澄之を支持していたが、澄之が家督を継承する望みが薄いことを悟ると薬師寺長忠・竹田孫七らと共謀し、
同年に政元を暗殺して澄之を当主として擁立した。しかし一度は競争相手である細川澄元を京都から伊賀へと駆逐するが、
細川高国や澄元らの反撃を受けて澄之の邸宅であった遊初軒での戦いで戦死した。

宗家・分家・庶流の後継者争いの中でその下の家臣たちの間でもも激しい権力争いが行われてたようだ。
ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00176.htm
87人間七七四年:2007/03/29(木) 15:55:38 ID:hsfTWKuN
薬師寺長忠
生年不詳 - 永正4年8月1日(1507年9月7日) ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E9%95%B7%E5%BF%A0

細川氏家臣、摂津守護代。兄に元一。
当初、薬師寺家当主の座は、摂津守護代職と共に兄の元一が継いでいた。しかし元一が永正元年(1504年)に、細川政元の養子の一人、
澄元を擁立すべく挙兵した際にこれを鎮定し、その功によって長忠が後を継いだ。
永正4年(1507年)に香西元長・竹田孫七らと謀り政元を暗殺、澄之を擁立する。
しかし澄元や高国らの攻撃を受けて敗北、戦死した。

竹田孫七
不詳

上とあまり変わらないので短め。
88中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2007/03/29(木) 16:08:08 ID:/7EsixjR
摂家から格下の細川に入った九郎
細川から超格上の摂家に入り乗っ取った日赤の某氏
89人間七七四年:2007/03/29(木) 16:49:53 ID:hsfTWKuN
ここで重要になってくるのが内衆ですが

細川典厩家、上野(細川)氏、一宮(小笠原)氏、安富氏、香川氏、長塩氏、上原(物部)氏、内藤氏、秋庭氏、薬師寺氏、
寺町氏、奈良氏、香西氏、大平氏あたりが「京兆内衆」というべき存在であると思います。
そのなかでも一宮氏、安富氏、香川氏、上原氏は継続的に京兆家内衆中枢にいました。
文明期以降には、秋庭氏、寺町氏、薬師寺氏が台頭。

細川典厩家は、細川一族の中でも京兆家(細川本宗)に最も近い関係にあり、京兆家の評定を仕切っていて、摂津西成郡の分郡守護。
上野氏は、細川一族で、伊予の分郡守護や、備後・土佐・丹波の守護代。
一宮氏は、小笠原一族から阿波一宮大宮司の養子となった家系で、丹波や摂津南中島郡(西成郡の一部)の守護代。
安富氏は、讃岐・備中・近江の守護代。
香川氏は、讃岐・摂津の守護代。
長塩氏は、摂津の守護代。
上原氏は、丹波の守護代。
内藤氏は、摂津・丹波の守護代。
秋庭氏は、備中・摂津の守護代。
薬師寺氏は、備後・摂津の守護代。
寺町氏は、摂津東生郡の守護代。
奈良氏は、摂津の守護代。
香西氏は、丹波・山城・摂津住吉郡の守護代。
大平氏は、土佐の守護代。

ttp://www.geocities.jp/kawabemasatake/keicyou.html
ttp://www.geocities.jp/kawabemasatake/utisyuu.html
90人間七七四年:2007/03/29(木) 17:53:14 ID:hsfTWKuN
細川政元は、応仁・文明の乱を起こした一方の大将、管領・勝元の嫡子であった。
文明五(一四七三)年に勝元が病没したため、八歳(九歳とする物語もある)で細川家の家督を継いだ。
とはいえ此の時点で管領になったわけではない。細川・斯波・畠山の三家を管領家というが、
此は単に、管領になり得る家系に過ぎない。また、此の頃までには【細川家】なる集団が幕政を牛耳るようになっていた。
寄らば大樹と細川家に群がる腰巾着ってぇか子分ってぇか、被官といぅんだが、そういぅ武士たちの集合体が【細川家】であった。
いくら幼名が「聡明丸」だからって、八歳で幕政を取り仕切ることは難しい。細川家の被官が、管領代なんてのを名乗り命令書を発した。
其れが公的な効力を持つようになった。実体としては細川家内衆と呼ばれた十家程度の細川家被官が評定衆を構成し、
内部のパワーバランスで【細川家】の意向を決定した。「管領」なる公職ゆえではなく、あくまで被官と細川一族の集合体である「細川家」の意向が、
幕政を左右していた。言い換えれば、管領という幕府から与えられる地位によって幕政に受動的に参与するのではなく、
細川家が【細川家】たるが故に主体的に幕政を動かすってことだ。既に名分論は崩れている。
唯一の主権者たる天皇から国政を独占的に委任されているのは足利将軍なのだが、世襲により相続するから当然、実際には幕府内部の合議制へと移行する。
管領や侍所頭人ら有力武家の連合体との色彩を強めるが、管領だの何だの、それぞれの要素も世襲だから当然、各要素の内部も合議制に移行する。
そのうち細川管領家の合議機関が、細川家評定衆だ。

これを見れば10代将軍就任前後以降の行動は政元が主体的に行っていたものかどうかどうなのだろう?
ttp://www.infomadonna.ne.jp/~hirohumi/20060707a.htm
91人間七七四年:2007/03/29(木) 18:15:32 ID:hsfTWKuN
しかしこういった説もある。

本稿では細川政元と修験道との関係について検証してみた。その結果、確かに政元は修験道に凝っていた。
しかし、政元は修験道を単なる自らの趣味に終わらせてはいなかった。前稿で指摘したように、
この時期の細川京兆家の動向は守護代級有力内衆によってのみ領導されるものではなく、
政元独自の活動が存在していた。(33)そして政元の活動を支えるもののひとつに修験道があったのである。

ttp://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/suegara/shisenin.htm

政元の政治への関りは時期ごとに見ていかなくてはならないのかもしれない。
92中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2007/03/29(木) 18:45:37 ID:/7EsixjR
「細川両家記」なんかににみえる政元の「浮浪」行動を
単なる修験道の一環としてではなくさまざまな人物と隠密に内談するための
方便だったのではないかと見る向きもある
93人間七七四年:2007/03/30(金) 14:56:20 ID:EK8QufWS
>>92
細川両家記面白そうですね。
原文読めばいいのだけれど当分はそれ検索ワードにいれていろいろ調べてみます。
94人間七七四年:2007/03/30(金) 21:39:18 ID:EK8QufWS
澄元と高国の前に代表的な細川家分家をまとめてみよう。

細川典厩家
細川氏の分家の一つ。上記細川高国は元々典厩家の出身である。
細川政賢・細川尹賢の代には本家である京兆家の内紛に介入し一定の影響力を持った。
のちに京兆家とともに衰退するが、典厩家の出身の細川氏綱が三好長慶に担がれて室町幕府最後の管領となる。
その死後は氏綱の弟の細川藤賢が典厩家の当主となるが、足利義昭に仕えて織田信長に抵抗したものの降伏してその家臣となっている。

阿波細川家
阿波細川氏は14世紀中頃に細川頼春の子 詮春に始まる。
代々阿波守護となり、京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、詮春の阿波細川家は下屋形あるいは阿波屋形と尊称された。
数え方によって変わるが10代で終わる。なお阿波細川氏は成之のころから讃岐守護も兼任するようになり、阿波讃岐細川家とも言う。
また、詮春から数えて4代目の細川持常のとき、永享12年(1440年)に戦死したとされる一色義貫に代わり三河守護職も兼任した。
しかし一色義貫の死が、実は当時の室町将軍足利義教の陰謀によるものであったため、
細川持常・成之父子が三河国に守護職権を確立する際に一色残党の激しい抵抗に会い、多大な犠牲を払った。

和泉上守護家
→肥後熊本藩主家(肥後細川家)細川家下屋敷跡
95人間七七四年:2007/03/30(金) 22:24:08 ID:EK8QufWS
当時の権門の近臣たちには、その仕える主君の個性や思想などどのようであろうと構わないのだ。
宮仕えする侍とは、多くの場合、外面だけは取り繕ってなかなかに毅然とした風貌に構え、
ものにも動ぜぬ落ち着きすました体裁をなしているが、その実中身の精神はそれほど不惑なものではなかった。
何しろ下剋上の時代である。その信ずるところは、己れの立身出世ばかりで、そのための手段として
主家の隆盛を願うのみであり、この「為あって」する忠義奉公を何か崇高な自己犠牲のようにも自分で
信じ込んでいるのが有り体のところである。
 であるから、出世や栄誉についての同朋との鞘当ても凄まじく、顔では愛想よく付き合ってはいても、
内心では人を出し抜くことばかりに執心していた。ましてや競争に負けて、下手に下がったとあっては、
その嫉妬は狂気にも等しいものとなる。したがって主家も同族同士で内訌に明け暮れていたが、
その家臣たちにしても家中に派を成しては絶えず暗闘していたのだ。

ttp://www1.megaegg.ne.jp/~sairaku/ankoku.htm
96人間七七四年:2007/03/30(金) 22:26:46 ID:EK8QufWS
細川澄元
延徳元年(1489年) - 永正17年(1520年)6月10日 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%BE%84%E5%85%83

阿波細川家出身。
先に養子になっていた澄之を廃嫡し、文亀3年(1503年)5月に政元の養子として迎えられ家督継承者に指名された。
永正元(1504)年澄之が元服。澄元の元服もこれよりも先に行われ、将軍からの偏諱も、やはり先であったようである。
その年の九月、薬師寺元一が澄之による家督相続を阻止しようと政元を廃し、
細川氏京兆家の家督に澄元を据えようと行動を起こし、鎮圧されるという事件が勃発する。
永正三年(1506)二月、三好之長は澄元を擁して上洛した。政元は澄之に丹波を、澄元に摂津をそれぞれ分割継承させた。
このとき、三好之長は摂津半国の守護代に任じられている。澄元を擁する之長の実力は政元も認めるほどのもので、
澄元が細川宗家の家督になれば之長が権勢を振るうことを危惧した澄之派の香西元長・薬師寺長忠らは、
[永正3年(1506年)から永正4年(1507年)にかけて、政元の命令で澄之と共に丹後の一色義有を攻めたが敗北している。]
永正4年(1507年)6月23日、政元を暗殺すると、6月24日には澄元も澄之の家臣に屋敷を襲い、澄元と三好之長と共に近江甲賀に逃走した。
そして澄元は近江の国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之とその支持者を討ち取り、
8月2日には第11代将軍・足利義澄に対して細川家の家督継承を承認させたのである。
ところが澄元は若年だったため、家宰であった三好之長の実力が逆に大きくなり始め、
澄元は之長と対立して一時は阿波に帰国しようとした。このときには足利義澄の説得もあって帰国はとどまっている。

このような京都における一連の内乱が、周防に流れていた第10代将軍・足利義稙のもとに知らされると、
義稙は大内義興に擁立されて上洛を開始する。澄元は義興との和睦を画策したが、
同じく政元の養子で澄之討伐に協力した細川高国が大内方に寝返ったため、決裂してしまった。
永正5年(1508年)4月、細川高国が京都に侵攻を開始する。
このとき、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らも呼応したために澄元は敗北し、
之長や将軍・足利義澄と共に近江に逃れた。そして6月、足利義稙が大内義興に擁されて上洛すると、
義稙によって澄元の家督は剥奪され、代わって高国の家督継承が承認されることとなった。


と一旦ここまで。1年のうちに政元→澄之→澄元→高国とめまぐるしく家督が変わり畿内は大混乱になった。
97人間七七四年:2007/03/31(土) 01:37:45 ID:pRbgcLNu
薬師寺元一
? - 永正元年(1504年)

薬師寺与一元一は、武家文人として知られ、教養豊かな人物であった。
政元は年を追うに連れて専横になり、むやみに権威を振りかざして義澄とも衝突するようになってきた。
家臣とも旨くいかず、永正元年(1504)、重臣の薬師寺元一は愛想を尽かして、淀城に拠って、額田宗朝らと主君細川政元に背いた。
[西岡の国人や土豪らは元一の反乱に味方し、西岡の神谷(こうたに)城に集結した。]
政元は元一の弟薬師寺長忠らを派遣して元一を討たせた。攻防ののち、額田宗朝が討死、宗朝の兄四宮長能は自刃し、
元一は捕われの身となった。元一はかつてみずからが建立した京都舟橋の一元院に幽閉された。
元一は最後に臨み、つぎのようにいって切腹したという。
 皆々様ご存知のごとく
 我は一文字好みにて薬師寺与一名乗りも元一
 この寺も一元院と名付けたり
 されば腹をも一文字に切るべし
 …と。二十九歳であったと伝える。

[この乱によって西岡の国人や土豪らは勢いをなくした。]
薬師寺元一の反乱の失敗は、薬師寺元一の味方であった紀伊の畠山尚順や讃岐の細川成之らの来援が
間に合わなかった故であったようだ。(「長岡京市史」を要約)

薬師寺氏 ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/yakusi_k.html
西岡被官衆 ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/nisioka_syu.html
(2):風雲急を告げる西岡! ttp://hata0913.hp.infoseek.co.jp/matunaga-2.htm

年表から
1503/06/14,文亀3/05/20 細川政元が、細川義春の子の澄元を養子にするため薬師寺元一らを阿波に派遣する。
1504/03/25,永正1/03/09 赤沢朝経が管領細川政元にそむき、槙島城にたてこもるが、摂津守護代薬師寺元一に攻められて逃走する。
ttp://macao.softvision.co.jp/dbpwww/cgi-bin/req-res.pl?month=6&day=14&TODAY=%91I%91%F0 ほか
1504 永正1 2・30 (甲子) 9・4 摂津守護代薬師寺元一,細川政元に背くが,攻められ自殺する(宣胤卿記)
9.4 摂津守護代薬師寺元一守護細川政元を廃し養子澄元を立てんとし淀城に拠りて背く政元之を撃つ(政家)
9.19 政元淀城を陥るついで薬師寺元一を自殺せしむ(政家)
ttp://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2033-33.html
ttp://nakanihon.net/nb/hujinennpyou/hujinennpyou5.htm
98人間七七四年:2007/03/31(土) 01:39:36 ID:pRbgcLNu
赤沢朝経
?〜永正元年(1504年)

管領細川氏家臣。通称源次郎。官途は信濃守。沢蔵軒宗益と号す。
朝経は悪太郎と称し豪傑の風があったといい、家督を嫡子政経に譲って上洛し弓法的伝の道を広めた。
そして、管領細川政元に伝授をしたことから、政元に推挙され将軍足利義政の弓道師範となり、武者所を兼任するに至ったという。
1503年六角の内部争いに介入し、伊庭貞隆とともに高頼を日野城に攻めたが、のちに伊庭と六角は和睦。
1504年には薬師寺元一と結んで政元を廃しその養子澄元を擁立しようとして失敗し、翌年に赦免。
1506年に三好之長と結んで河内高屋城主畠山義英・尚順を大和に追う。法華寺・多武峰を焼き、寺社領を押領。
幕府幕府御料所17ヶ所給人を務め、また山城上3郡守護代に任ぜられるなど、大いに権勢を振るった。
また三好之長とともに澄元を擁し、細川澄之を擁する香西元長らと対立した。
1507年若狭守護武田元信とともに丹後守護一色義有の阿弥陀峰城を攻略中、
政元暗殺の報告を受け、撤退しようとしたが一色勢に追撃されて自刃した。

Hosokawa clan ttp://f2.aaa.livedoor.jp/~kshine/1hosokawa%20clan.htm
武家家伝_赤澤氏 ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/og_akaza.html

1504 永正元年
3月、細川政元は被官赤沢朝経を攻めようとするが朝経は逃れる。
6月、政元、赤沢朝経を宥す。
9月、摂津守護代薬師寺元一、守護細川政元を廃し、養子の澄元を擁立せんとして淀城に拠る。城陥り、元一捕らえられて自殺する。京都に土一揆蜂起、幕府は徳政を行う。上杉朝良は今川氏親・伊勢宗瑞(北条早雲)の授けによって上杉顕定を破る。
10月、幕府は徳政令を定める。
ttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m180.html

畠山氏や大和国にも大きな影響を与えた。
99人間七七四年:2007/03/31(土) 01:53:45 ID:pRbgcLNu
赤沢朝経の動向にこんなのもありました。

文明10年(1478)、畠山政長と義就の抗争の中で登場したり、細川政元と畠山尚順(政長の子)の抗争の中で登場します。
そして、そんな中での明応8年(1499)9月28日、細川政元方の赤沢宗益が槇島館を陥落しちゃうんです。
(『後法興院記』明応8年9月28日条)

この時期の城主は真木島氏で、元は槇長者、宇治離宮八幡宮(現在の宇治神社と宇治上神社)の神官の身分だったようです。
それが時代を経るに従い、荘園管理者(荘官)と同等の身分となり、五ヶ庄一帯の土豪(在地領主)になったと考えられています。
真木島氏は畠山尚順に付き、細川政元に抗したため、槇島館を落とされてしまったようです。
この抗争の背景には、足利義澄を擁立する細川政元と畠山尚順が味方する将軍・足利義材との抗争という要素がありました。
真木島氏は将軍直臣団に加わっており、室町幕府の奉公衆の地位にあったようですね。

ttp://sans-culotte.seesaa.net/article/24378154.html
100人間七七四年:2007/03/31(土) 03:06:08 ID:pRbgcLNu
細川政賢
? - 永正8年8月24日(1511年9月16日) ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E8%B3%A2

細川典厩家の一族で、摂津西部の守護を務めた。
明応4年(1495年)に父が死去したため、家督を継いで摂津西部の守護となった。1506年丹後守護・一色義有と戦う。
永正4年8・1 細川澄之,細川高国・政賢らに攻められ自殺する。香西元長および讃岐守護代安富某・香川某,討死する(宣胤卿記)
永正5年(1508年)の春に九州・四国の兵を集め、前将軍足利義材は上方へ攻め上がってきた。
このため同四月十六日には、将軍の義澄と細川澄元・政賢以下は近江へ退いた。
細川澄元を支持して、澄元と敵対する細川高国と敵対したため、高国によって守護職を罷免された。
そして永正8年(1511年)8月24日、細川澄元と呼応して高国と戦ったが、敗れて戦死したのである(船岡山の戦い)。

1508年に養子の尹賢が高国方として政賢の後を継いでいる。

細川政賢
生没年:-1511
父:摂津分郡守護 細川政国
1495-1511 摂津分郡守護
妻:
澄賢(子:晴賢)
尹賢
明智家記・明智軍記 ttp://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/6291/gunki/gunki0106.html
細川氏(諸家系) ttp://nekhet.ddo.jp/people/japan/hosokawa02.html
101人間七七四年:2007/03/31(土) 03:07:09 ID:pRbgcLNu
細川尚春
? - 永正16年5月11日(1519年6月8日) ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E6%98%A5

淡路守護細川家の事実上、最後の当主である。
細川成春の子として生まれる。文明15年(1485年)、父の死去により家督を継いで淡路守護となる。
管領の細川政元に従い、永正2年(1505年)には政元の命令によって讃岐に侵攻して細川成之や三好之長らと戦うが敗れた。
永正4年(1507年)に政元が暗殺されると、細川高国や細川澄元らに味方して、細川澄之を戦死に追い込んだ。
しかしその後、独立を企んで実権を握った高国と対立する。
永正8年(1511年)に三好之長が高国に対して和泉で挙兵すると、それに呼応して淡路で挙兵し、
播磨に侵攻したが、敗れて淡路に撤退する。

阪神間歴史散歩 ttp://homepage1.nifty.com/0705/rekishisanpo.htm
全国の城(兵庫18)鷹尾城 ttp://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage86.htm
はあとふる淡路島(淳仁天皇) ttp://www.eonet.ne.jp/~heartful/jyunnin.html
102人間七七四年:2007/03/31(土) 03:08:21 ID:pRbgcLNu
1507 永正4年
6月、細川澄之は父政元(42)を殺し、澄元を近江に追う。
8月、細川高国は澄之(19)を殺す。高国は澄元を政元の嗣として入京。
12月、大内義興は足利義尹を奉じて上洛を企てる。幕府は義興との和をはかる。

1508 永正5年
2月、幕府は斯波義敏・山名到豊をはじめ西国諸将に義尹の上洛を防がせる。
3月、細川高国は細川澄元と不和になり、伊賀に逃れる。
4月、高国挙兵し、京都に攻め上らんとする。澄元は近江に逃れる。義澄は義尹の上洛を恐れ、近江に逃げる。
6月、義尹は入京し、大内義興ら従う。
7月、義尹は征夷大将軍となる。

1509 永正6年
5月、幕府は訴訟の法を定める。

1510 永正7年
1月、義尹は細川高国・大内義興らに近江の足利義澄を討たせるが、果たさず。
6月、足利義澄は宋素卿を明に派遣する。

1511 永正8年
この夏、幕府は朝鮮に国交回復を求める。
7月、細川澄元は阿波に挙兵し、上京を謀る。
8月、義尹・細川高国ら丹波に逃げ、澄元の武将細川政賢ら入京する。義尹は澄元の軍勢を山城船岡山に破り、京都に還る。
12月、幕府は伺事の条規を定める。

ttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m180.html
103人間七七四年:2007/05/06(日) 00:40:50 ID:ASY6ZRTh
104人間七七四年:2007/05/06(日) 07:56:21 ID:CkM/0dP/
>>1

                      __ _
                  ,  ´二ゝ─‐-─‐ヘ
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                /.:, イ.:;'.:.`:ト 、バ:.ヽ\.:ヽ,.:.:.:.:.!: !ヘ:.:ハ
            / / イ.:.!.:.!:.!, --ヽ、\ ゝ久_丈i:. ! ハ:.ハ
             /:./  !.:.!.:.i.:f ィ´::ヾ    ´f´::::ヽヾ :!ヽ l:.ハ
              /:./ ,  !.:.!.:.iハ マ_;;;ノ  ,   マ_;;ノ j:. j/ j:.:ハ
            /:/∧,」 !.:.!.:.!ヘ ""  r==ォ "" ,/:.イ!ハ┘:!ヾ
         //!:.バ:.:.:| |.:.ハ.:V ゝ、  丶  /  ィ/:./:.:i/^l:.! ヽ オナニーは一日二回にしなさいよ!
          レ' !:.! i.:.:.ヾ!ヽハ.:V.:.:.:.:>,  _ ィ´V.:/.:.:/  リ:|
           !:i !.:.:.:.:.:.:.:{ハ.:V'´ /′  .少'/`ー|  /j/
           ヾ ヽ_, '7// /-、  -/ "  /フ   ヒ=ヽ
              ハ ヽ. /// /'´ ̄/   ///  ,`弋 \
           /  { y'// ,'---/   //- ′.Y´  , `ヽ`l
          /   ヽfl l l  !   /  //〈  `ー〈::....ノ   V
         /        !l l !. ! ./ ///   ヽ_ー 、 `ヾ_/ //
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     ヽ   ー==广   〈 ヽヾY〃/       >、!
      ヽ    \  , イ/ ヾi!'〃    ー≠ハ
       \  /'⌒\  <<フ水<ヾー ____/ /
         丶/ /'⌒ヾマヾ〈//! !V /三三三}"
.           L、/   /"/ ! !ヽ′    ヽ
           ゝ、 / /   !_j        ヽ
      ____ イ 〆   / /:::.   /     ヘ
   〈'⌒ヽ      //:: ヽ  / /::::::. ___/      ハ
    ∨::::::::`ヽ、    /:::.  く/ :::::  / `       l
    ∨:::::::::::::::::`ヽ / :::::...     /::: !         l
.     ∨:::::::::::::::::::::\ ::::::::::....   /::. !           !
      ゝ ::::::::::::::::::::! ヽ、:::::::::..  !:::::./   ___  l
         `ヽ、::::::::::!    `ー―- Lノ -イ ̄     ヽ」
          `ヽ、l        l    !        !
              !         ├──ヘ          !
105人間七七四年:2007/05/06(日) 11:42:02 ID:Z8hsfM9j
僕は大阪府南河内に住んでるんですが誰が支配していたんですか?
106人間七七四年:2007/05/06(日) 14:42:59 ID:zkE1xhYK
>>105
河内なら畠山じゃない?

なぜ大阪は摂津・河内・和泉に分かれてるのだろう
いまの地図見ても良くわからないね
107人間七七四年:2007/05/07(月) 00:14:21 ID:qa08LQDK
古代においては摂津と河内のみ 和泉は当初なかった。
奈良時代後期に河内から和泉が分離されるが
これは和泉や河内に本拠があった道鏡の権力が高くなったことに関係していた
・・・とか聞いたことがある。
108小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/06/14(木) 23:12:29 ID:2t0vd0Bh
久しぶりに帰還!!( ^∀^)ゲラゲラ
と、去年ぐらいから撮り始めた城跡を↓ポチッと貼りますw

○播磨・龍野城跡
http://p.pita.st/?m=m3jokzv1 http://p.pita.st/?m=7pdropv5 http://p.pita.st/?m=pdjxvx4g

○播磨・明石城跡
http://p.pita.st/?m=iemscvth

○摂津・高槻城跡
http://p.pita.st/?m=orpixia8

○摂津・尼崎城跡
http://p.pita.st/?m=luleouv5

○摂津・池田城跡、摂津・有岡(伊丹)城跡、摂津・富松城跡
http://u.pic.to/arf3

○摂津・花隈城跡、摂津・越水城跡、摂津・瓦林城跡
http://s.pic.to/3oyet

○山城・二条城跡
http://p.pita.st/?m=moqjtclv
109小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/06/14(木) 23:15:00 ID:2t0vd0Bh
○近江・観音寺(佐々木)城跡、近江・安土城跡
http://p.pita.st/?m=hqju1l5u http://p.pita.st/?m=rkczj3dr

○近江・膳所城跡
http://p.pita.st/?m=h7vjbzds

○美作・津山城跡、美作・岩屋城跡、美作・波作利城跡
http://p.pita.st/?m=h67wst70

○丹波・福知山城跡
http://p.pita.st/?m=mfhzaklh

○丹波・黒井(保月)城跡
http://p.pita.st/?m=qdtvnpi0

○但馬・八木城跡
http://p.pita.st/?m=fwiw2rg1

○因幡・鳥取城跡
http://p.pita.st/?m=ia2ul1oh http://p.pita.st/?m=8tla6iij

○伯耆・羽衣石城跡
http://p.pita.st/?m=7a2d0mgr

○伯耆・打吹城跡
http://p.pita.st/?m=lzxdaufy

○備後・福山城跡
http://p.pita.st/?m=ioqdjflh
110小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/06/14(木) 23:33:46 ID:2t0vd0Bh
○尾道城?(名のある城だと思ったら、単なる観光城…騙されましたorz)
http://p.pita.st/?m=0np9smjh

○源氏の聖地・多田神社
http://p.pita.st/?m=koia6qal

>>76-102
激しく乙ですw

>>104
忠告を素直に受け入れ、一日二回に抑えます!!( ^∀^)ゲラゲラ

>>105
オイラも106さん同様、畠山氏が治めていたと思いますが、南北朝時代なら
楠木正成公が治めていたと思います!!(千早赤阪も南河内だったかな?)
と、近くの狭山市だど、江戸時代に北条氏が治めていたはずですw
111人間七七四年:2007/06/17(日) 00:20:14 ID:vQtEcmp0
大阪の福島あたりにも城があったそうな
112人間七七四年:2007/06/17(日) 07:19:23 ID:YISwb/SN
>>111
野田砦と福島砦?
113人間七七四年:2007/06/17(日) 11:01:11 ID:b+zs+wZO
戦国や江戸時代のオオサカは大阪?大坂?

114人間七七四年:2007/06/17(日) 13:36:36 ID:YISwb/SN
>>113
石山は上町台地の北端にある小高い丘で、真下で淀川と旧大和川が合流し、
その付近に淀川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、住吉や堺、紀州に向かう陸上交通の起点でもある
渡辺津が形成されていた。蓮如の隠居坊から次第に拡大して寺内町を形成して商工民などが住み自治が行われた。
この寺内町が、台地にそった坂にあることから「小坂」、後に「大坂」と呼ばれるようになった
(大坂という地名の出現は1498年とされる)。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA

漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、大坂の「坂」の字を分解すると「土に返る」と読めてしまい
縁起が悪いということから、江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、明治時代には大阪の字が定着する。
一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、
すなわち武士が叛くと読めることから「坂」の字を嫌ったとも、単に、役人の書き間違えの言い訳から定着したともいう。
本来は「阪」と「坂」は異体字の関係にあり、どちらが正しいという性質のものではない
(唐代の干禄字書では「阪」を正字、「坂」を俗字とする)。 大阪・大坂という名字もある。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82
115小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/06/17(日) 16:10:16 ID:SM+iwVZD
↓今日は三木城跡と淡河城跡を散策!!
○播磨・三木城跡
http://p.pita.st/?m=odwspvwb http://p.pita.st/?m=bexpq5oz

○播磨・淡河城跡
http://p.pita.st/?m=hrjplwgl

と、三木城跡散策の帰り道に、竹中半兵衛公の墓と三木城攻めの際に秀吉が
本陣を構えた平井本陣跡に寄り道…って、平井本陣跡に向かう林の中で、大きな蛇に遭遇!?
いきなり出会うと、スゴく(( ;゚Д゚)))ガクブルですw

○竹中半兵衛公の墓
http://p.pita.st/?m=vskcw5g3

○平井本陣跡
http://p.pita.st/?m=vjgd2dsq

>>111
それはたぶん、JR野田駅の近くにある“野田城跡”だと思います!!
と、本願寺が織田軍と戦をした時に、本願寺勢が篭城した城だと言われている…はずですw
(詳しいことは分かりません)

>>114
おぉ〜めちゃ詳しくて、オイラも勉強になりましたw
と、“土に返る”&“士が反する”ってのは、凄く説得力のある答えだと思います!!
116人間七七四年:2007/06/17(日) 17:53:35 ID:YISwb/SN
>>115
ttp://tenkafubu.fc2web.com/miyosi/htm/noda.htm
ttp://www.ne.jp/asahi/tanba/kirinosato/OSAKAsiro&yama-docu.htm
金ヶ崎から志賀の陣まで↓
ttp://okhome.hp.infoseek.co.jp/war/war080.html
ttp://okhome.hp.infoseek.co.jp/war/war081.html
ttp://okhome.hp.infoseek.co.jp/war/war082.html

野田福島の戦いは石山合戦の幕開けと信長が朝倉義景に頭を下げた志賀の陣の発端になった戦いだね
ヤングマガジンのセンゴクでもおもしろいところだった
117人間七七四年:2007/06/17(日) 20:07:56 ID:BZLk5ZZA
ほうほう、みんな詳しいな
市内に城があったってのは、なんか感慨深い
118小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/06/18(月) 22:53:56 ID:ZuYO5Nga
>>116
ぬおぉ〜!!めちゃめちゃ勉強になる&面白いサイトですね!!
(さっそくお気に入りに登録しましたw)

と、歴史に凄く詳しそうな116さんにイロイロお聞きしたいことがあるッス!!
オイラの住んでいる近くに“塚口御坊(塚口城跡)”があるのですが、
ここも本願寺と縁があるのでしょうか?

あと、ここ最近、オイラの田舎・美作に興味が出てきているのですが、
116で紹介されたようなサイトで、美作を題材にしたのってありませんか?
(隠れた名門・三浦家や後藤家などのサイトがあれば嬉しいのですがw)
って、周囲を山に囲まれた美作(ほとんど山ですがw)…この地を巡って、
山名・赤松・尼子・毛利・宇喜多などが争っていたんですね?

そうそうです、仙石秀久も淡路・洲本城主として近畿に縁のある武将でしたね( ^∀^)ゲラゲラ

>>117
特に116さんは詳しいですよw
と、117さんも関西在住ですか?
119人間七七四年:2007/06/19(火) 00:44:52 ID:ip0CWwWw
>>118
大阪市内在住です
なので野田に城があったのは嬉しかったですね
120人間七七四年:2007/06/19(火) 00:47:42 ID:7oig1cXE
>>118
ネット知識だけで私もあまり詳しいことは知りませんので

塚口御坊
つかぐちごぼう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1409年(応永16)に性曇上人が建立した浄土真宗寺院。尼崎地方の一向一揆の中心的役割を担った御坊。
「興正寺塚口別院由緒」(立花志稿)によると、興正派の有力御坊は42坊あり、
1468年(応仁2)の細川勝元と山名持豊の戦いでは、広根村(川辺郡猪名川町)最徳寺、多田村(川西市)光遍寺、
箕輪村(豊中市)超光寺の3か寺が摂津国三門と称し、とくに別院として塚口御坊を警護した。
同坊は、川辺郡・豊島〔てしま〕郡・能勢郡の末寺や道場を組織する一向一揆の中心となっていたのである。
この塚口御坊には寺内町が形成され、町の周囲にかつて築かれていた土塁と周濠の一部が現存し、
当時の面影がうかがえる。戦国時代の確かな末寺数は明らかでない。
ttp://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%C4%CD%B8%FD%B8%E6%CB%B7

塚口城
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
戦国時代の史料にみえる城。塚口は、伊丹から神崎に至る伊丹街道(有馬道)の重要な通過地で中世では在郷町。
塚口御坊と称された浄土真宗興正寺別院の寺内町として栄えた。1578年(天正6)荒木村重と織田信長との合戦のとき、
「塚口は伊丹より尼ヶ崎までの道筋ゆえ、荒木村重塚口を出城に構えられ候…」(興正寺塚口別院由緒/立花志稿)と、
この寺内町に前線基地を築いた。寺内町の周囲には土塁が巡り濠があった。
土塁は高さ2間半、延長531間、堀幅は2〜3間。同年12月11日の荒木攻めでは信長の軍勢の一部は塚口郷に進駐し、
伊丹城の出城をU字形に囲む戦法をとったことで知られる。
ttp://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%C4%CD%B8%FD%BE%EB
121人間七七四年:2007/06/19(火) 21:01:51 ID:HgQq2J+0
>>118
こういったスレもありますよ
岡山県(備前・備中・美作)の戦国史
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171890434/
122小魔玉  ◆w.WWWwWwww :2007/07/01(日) 01:31:28 ID:3gN7b+bI
久しぶりに参上!!

>>119
大阪市内在住…デパートやオイラの好きな難波・日本橋が近くて羨ましいかぎりですw
(大阪城も近くかな?)
と、119さんのIDが凄かったので、オイラもトリで対抗します( ^∀^)ゲラゲラ

>>120
おぉ〜!!激しく感謝です!!
やはり石山本願寺が近くに在った影響か、尼崎市(塚口)や伊丹市(有岡)では、
今でも門徒さんが多いと聞きます!!
と、荒木村重が謀反を起こしたのは、家族や家臣の中に多数の門徒さんがいたため
已む無く反旗を翻したと聞いたことがありますが(池上遼一先生の『信長』でも
同様のエピソードがありました)、これは事実なんでしょうか?
(って、荒木村重本人は門徒ではなかったらしいですがw)

そうそうです、120さんも近畿圏の生まれor在住ですか?

>>121
スレ紹介、激しく感謝です!!
と、落ち着いたら、作州の歴史について書き込んできますw
123小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/07/01(日) 01:45:29 ID:3gN7b+bI
↓昨日散策した城跡ですw

○播磨・上月城跡
http://p.pita.st/?m=5yhjkquw &  http://p.pita.st/?m=gvmghnxt
(尼子勝久公と山中鹿之助公の墓参りができて、チョット感激ですw)
○播磨・佐用(福原)城跡
http://p.pita.st/?m=1wcw2ib8
>>72の佐用村民さんが言われていた“利神城跡”も行きたかったのですが、
 場所が分からず断念…orz)
○播磨・三日月陣屋
http://p.pita.st/?m=szs7zij3

○播磨・城山城跡
http://p.pita.st/?m=yjurumte

○美作・三星城跡
http://p.pita.st/?m=ama6gva6

○美作・高田城跡
http://p.pita.st/?m=aliablhw

って、佐用郡が兵庫県だったと今頃分かりました!!( ^∀^)ゲラゲラ
(てっきり岡山県だと…)
124人間七七四年:2007/07/12(木) 02:35:09 ID:oUGOWwHJ
畿内で一番優秀な武将て六角定頼だよな
125宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2007/07/12(木) 02:47:30 ID:rxKdmgsD
美作高田城城主三浦一族の執念はすごい。
126宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2007/07/12(木) 02:48:43 ID:rxKdmgsD
スレ違いだったか
127小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/08/15(水) 15:45:06 ID:EUcS/h1t
ブログを始めたので、もしよかったら見て下さいね!!
http://blog.livedoor.jp/honobono2007/

あと、オイラの独り言スレを立てたので、何かの参考にして下さいw
【城跡】オイラの歴史探訪記【神社仏閣】
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/yume/1187152070/l50

>>124
オイラもそう思いますw
でも、同時期に生きた浅井亮政と六角定頼、この二人の場合
どちらの方が優れていたんでしょうね?

>>126
オイラも度々、スレ違いな雑談を繰り返していますw
128人間七七四年:2007/08/15(水) 17:53:16 ID:WeZ3ksTb
>>127城スレから来た者ですが
小魔さんブログ作ったんですねw
129小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/08/15(水) 22:23:24 ID:EUcS/h1t
>>128
はい、始めました!!
と、ブログは自由性の高く、そして凄く面白いのでハマりそうですw

これも城跡スレでの助言のおかげです( ^∀^)ゲラゲラ
130城址スレROM浪人:2007/08/18(土) 12:12:38 ID:sV887eEr
>>129
頑張ってくださいね
面白いネタの提供を期待してます
131小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/08/19(日) 20:36:28 ID:oEz0pvvO
>>130
励まし、激しく感謝です!!
今日は三好氏の居城であった若江城跡と飯盛山城跡を巡ってきて、
それをブログに掲載していますので、もしよろしければ見て下さいw

と、週末は城跡や史跡巡りの事を書くつもりッス!!
(今の目標は、近畿地方の城跡完全制覇…って、これは無理かな?)
132城址スレROM浪人:2007/08/19(日) 22:27:12 ID:QizYPWQb
>>131
以前、関東の城云々でお話した事がありますが
当方、ちょっとマニアな観光客てなかんじです
友人や妻ととドライブ、旅行に行くと空掘とか見ながら「うおーすげー」とか言ってますので
呆れられていますが、詳しいわけではないです
暫くは100名城のスタンプでも集しむつもりです

名城も今は荒城となり残念ですね
城スレなのに住人が悉く野戦好きだからなぁ・・・
133同じく城スレ住人:2007/08/20(月) 07:45:39 ID:jaMBNHXG
あっちは収拾がつかなくなっているので
こちらに避難させてもらいます
小魔玉殿がネタを紹介して私たちがコメントしてた時が懐かしい・・・
しかしなんであんなに荒れるかな?
134人間七七四年:2007/08/23(木) 23:45:49 ID:Ztj/9yzm
あっちとはどちら
135人間七七四年:2007/08/23(木) 23:46:23 ID:Ztj/9yzm
書いてたね。スマソ
136小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/09/04(火) 00:14:52 ID:M0WCblAZ
>>132
あの時はイロイロな情報ありがとうございました!!
と、関東の城跡はまったく知らなかったので、132さんの詳しい情報(思い止まらしてくれたりw)が、
大変参考になりましたw

ちなみに今年の盆休みは、出雲に行って松江城跡・月山富田城跡・鳶ヶ巣城跡を散策してきました!!
(結局、東に行かず西に行きましたw)

てなわけで、先週は小寺氏の居城・御着城跡と嘉吉の乱の舞台となった城山城跡に行って来ました!!
(なかなか面白い城跡でした)

>>133
すいませんが分かりませぬ( ^∀^)ゲラゲラ
と、夏も終わったので、ボチボチ落ち着くと思いますよ?
137人間七七四年:2007/09/04(火) 00:33:33 ID:LA1E57t1
>>136
そういえば八王子城まだでしたよね?
私もいずれ行きたいと思っているのですが(100名城のスタンプも有りますし)
関東では城と言うより心霊スポットとして有名になってしまっているのが残念ですが・・・

先日、圏央道で八王子城の下をくぐってきました
意外と長いトンネルだったので山自体の大きさを確かめたくなって来ました
開通間もない為トンネルは綺麗でしたが
いずれ心霊系の話が出てくるんですかねぇ
138人間七七四年:2007/09/04(火) 07:58:10 ID:A7z4g+TT
八王子城に行く際はぜひ滝山城とセットで!
と地元民の自分がオススメしてみる
139小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/09/04(火) 22:34:18 ID:M0WCblAZ
>>137
はい、まだ行っていません!!
と、八王子城跡には、本当に霊(北条方の家臣や農民達の)って出るんでしょうか?
(不謹慎だと思われるかもしれませんが、出るのなら行ってみたいですw)

新しいトンネルなら大丈夫だと思うのですが、古い(整備されていない)トンネルだと
やっぱり出るんでしょうね?((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル
(オイラの地元・神戸だと裏六甲、田舎の岡山だと人形峠が心霊スポットですw)

そうそうです、137さんは八王子城跡の近くまで行ってきたのですね?
東京からどれくらいで行けましたか?

あと、100名城のスタンプはどれぐらい攻略されましたか?

>>138
滝山城跡は八王子城跡から近いのですか?
と、北条好きのオイラなので、北条所縁の史跡巡りをしてみたいッス!!
(137さんと138さんオススメの八王子城跡と滝山城跡、小田原城跡に
 岩槻城跡に早雲寺にも行ってみたいですw)

って、さすがに関西から関東は遠いので(時間はあるのですが、お金が…orz)、
北条氏規の嫡男・北条氏盛が藩主を務めた、河内・狭山の陣屋でも見に行ってきますw
140人間七七四年:2007/09/06(木) 00:25:40 ID:QsiqsJdn
>136
もしよろしければ御着城のレポートとかあればお願いします。
ゆかりなもんで。
141小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/09/06(木) 01:16:59 ID:mtgU3aZa
>>140
寝る前に近畿スレをチェックできて良かったですw
と、【http://blog.livedoor.jp/honobono2007/】のブログに
史跡巡りの探訪記を書いていますので、もしよかったら見て下さい!!
(ちなみに御着城跡の探訪記は9/1に書いていますw)

そうおすです、御着城跡(公園みたいな感じになっていましたがw)の隣に、
黒田官兵衛の祖父・黒田重隆公の墓があったので、お参りしてきました( ^∀^)ゲラゲラ
(あと、小寺氏の墓にも)

だいたい週末は、城跡か神社仏閣巡りに行っていますので、その日に探訪記を書いています!!
142人間七七四年:2007/09/06(木) 08:24:01 ID:Z+uq+zbP
>>141
今週はどこいくの?
143小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/09/08(土) 00:33:38 ID:47+g3v51
>>142
明日は天気も良さそうなので、八王子城跡と滝山城跡に行こ…
ってのは無理なので、他に行くとこを思案している最中ですw

と、前から行ってみたかった但馬・竹田城跡や北畠氏の居城・霧山城跡、
河内畠山氏の居城で、古墳とセットになった高屋城跡にも足を運びたいですし、
明智光秀の居城・坂本城跡ってのも一度見てみたい…

う〜ん、予定は未定です( ^∀^)ゲラゲラ
(先週同様、西に向かうのもイイかな?)
144人間七七四年:2007/09/15(土) 16:57:27 ID:VmJQT8Zb
>>143
見ました!
赤松関係の城は殆ど行ったんですね?
145小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/09/15(土) 23:41:16 ID:61cBvehP
>>144
赤松氏関連の城跡では、まだ置塩城跡を訪れていないので、機会があれば行きたいと思ってます!!
(白旗・城山・感状山・上月・駒山・龍野・御着・淡河・三木など、赤松&赤松一族の城跡は
 巡ったのですが、他にもあるのかな?)
と、今週は丹波の史跡巡りをしてきましたので、また見て下さい( ^∀^)ゲラゲラ
146人間七七四年:2007/09/22(土) 22:19:29 ID:11xfJHxG
小寺の不肖の末裔としては感慨深いな。
147宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2007/09/23(日) 02:14:51 ID:QVGVdUZM
>>145
赤松氏関連の城なら、藍岡山城は赤松康則が築いたようです。
遺構も残っているようだ。
148人間七七四年:2007/09/23(日) 19:43:54 ID:c4kSLfKi
細川
三好
六角
筒井
畠山
赤松
山名
一色
浅井
別所
足利
どれが好き?
149宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2007/09/23(日) 20:32:55 ID:QVGVdUZM
>>148
別所
150人間七七四年:2007/09/23(日) 21:11:02 ID:s+uqr28k
>>148
京極
武田
萩野
波多野
小寺
黒田
浦上
は?
151人間七七四年:2007/09/23(日) 21:50:25 ID:o5iJh3uP
>>148
俺も別所
152人間七七四年:2007/09/23(日) 22:44:08 ID:neqxswFb
三重県 北畠氏 星合氏◆ 木造(滝川)氏 田丸氏 九鬼氏
関 氏 神戸氏 分部氏 長野氏 細野氏 柘植氏
赤堀氏◆ 春日部氏 鹿伏兎氏◆ 大河内氏◆ 雲林院氏◆ 千種氏◆
服部氏 楠 氏
滋賀県 京極氏 六角氏 高島氏 朽木氏 蒲生氏
浅井氏 大原氏 青地氏 多賀氏 永原氏 佐々木永原氏
下坂氏 上坂氏 今井氏 平井氏 小倉氏 磯野氏
三雲氏◆ 山中氏◆ 伴系大原氏◆ 山岡氏 佐治氏◆ 多羅尾氏
和田氏 新庄氏 赤田氏◆ 建部氏 深尾氏 小川氏
目賀田氏 伊庭氏 駒井氏 山崎氏 柳ヶ瀬氏 近江井口氏
雨森氏 久徳氏 東野氏 高宮氏 高野瀬氏 宮部氏
田中氏 中村氏 毛利(森)氏 脇坂氏 谷 氏 石田氏
片桐氏 小堀氏
京都府 足利氏◆ 細川氏京兆家◆ 畠山氏 一色氏 内藤氏
伊勢氏 蜷川氏◆ 革嶋氏◆ 彦部氏◆ 上原氏 金山氏
上林氏 塩見氏◆ 摂津氏◆ 松井氏◆ 高 氏 椿井氏◆
狛 氏◆ 川勝氏 宇津氏 物集女氏 鶏冠井氏 神足氏
湯浅氏◆ 三善氏一族 ●西岡被官衆 ●本阿弥家
奈良県 松永氏 布施氏 越智氏 筒井氏 万歳氏
古市氏 箸尾氏 十市氏 片岡氏 当麻高田氏 秋山氏◆
沢 氏◆ 多田氏 井戸氏 中坊氏 吐山氏 松倉氏
島 氏◆ 柳生氏◆ 赤埴氏 ●宇陀三将 ●観世家
大阪府 池田氏 伊丹氏 能勢氏◆ 摂津三宅氏 細川氏上守護家
芥川氏 中川氏 入江氏 平岡氏 高山氏 淡輪氏
上田氏 水走氏 安見氏 楠木氏 和田nigita氏 大野氏
渡辺惣官家 本願寺◆ 下間家◆
和歌山県 湯川氏◆ 堀内氏 玉置氏 山本氏 有馬氏
雑賀鈴木氏 隅田氏 湯浅氏 愛洲氏 安宅氏 野辺氏
色川氏◆ 小山氏 野長瀬氏 土橋氏◆ 生地氏◆ 目良氏
貴志氏◆ 高河原氏◆ 紀(国造)氏 津田氏◆ ●田所氏
兵庫県

丹波国(摂津) 赤井氏◆ 源姓荻野氏 平姓荻野氏 久下氏 波多野氏
中澤氏 波々伯部氏 足立氏 酒井氏 小畠氏 細見氏
籾井氏 畑 氏 有馬氏◆ 塩川氏 松原氏 間島氏
但馬国 山名氏 八木氏 垣屋氏 太田垣氏 田結庄氏
田公氏 宿南氏
東播磨国 別所氏◆ 糟屋氏 淡河氏◆ 在田氏◆ 依藤氏
明石氏◆ 櫛橋氏◆ 神吉氏 細川氏◆
西播磨国(淡路) 赤松氏 小寺氏◆ 後藤氏 英賀三木氏 宇野氏◆
上月氏 浦上氏◆ 安積氏 海老名氏 佐用氏 福原氏
広瀬氏 孝橋氏 黒田氏◆ 香山氏◆ 衣笠氏 船曳氏
広峰氏 妻鹿氏 中村氏 島津氏◆ 田原氏 本郷氏
栗山氏 安宅氏 赤松36家
153人間七七四年:2007/09/24(月) 02:05:22 ID:IxC54sFN
>>148
六角の俺は異色か
154人間七七四年:2007/09/24(月) 03:27:32 ID:4lzsPqiM
おれも六角好き。
155人間七七四年:2007/09/24(月) 10:18:47 ID:aLDjwcWs
丹後の鬼頭
一色サイキョー!
156小魔玉  ◆N10JLQ90IM :2007/09/28(金) 23:33:09 ID:WaT6og9U
おぉ〜凄く面白そうな展開になってますね!!
と、いろいろなカテゴリーに分けると“もっと”面白くなるかもしれませんね?
例えば、近畿地方で好きな…
【大名】赤松家
【武将】三好長慶
【合戦】大坂の陣
【城】龍野城
【領地を貰えるなら、どの場所を選ぶ?】
越水一帯(西宮・芦屋・宝塚)、そして西宮神社(えべっさん)を庇護w

>>146
世の移り変わりは“歴史の常”ってことですねw
と、小寺氏は黒田家で存命したとあるので、146さんの御先祖さんは九州出身ですか?

>>147
藍岡山城跡の存在を知らなかったので激しく感謝です!!
って、国道176号線で篠山方面に向かっていけばありそうなので、今度行ってみます( ^∀^)ゲラゲラ

と、築城者の赤松康則は、義佑公の嫡孫に当たるとあるのですが…これは義佑公の弟・義雅の系統よりも
藍氏のほうが本流のような気がするのですがw
157人間七七四年:2007/10/02(火) 17:09:31 ID:rxHXQf8I
大名−六角
武将−蒲生氏郷
合戦−姉川の戦い
城−観音寺城
所領−近江一国

158たられば君:2007/10/02(火) 17:56:26 ID:tDHiDcVh
近江の北三郡は京極領で朽木谷は・・・まあどうでもいいか
159人間七七四年:2007/10/03(水) 02:21:09 ID:PU9C+XFS
大名 赤井
武将 三好康長
合戦 教興寺の合戦
領地 河内
城 高屋城
160小魔玉  ◆..FLAT..J. :2007/11/12(月) 00:50:24 ID:Yt7BL6LB
久しぶりに顔出し( ^∀^)ゲラゲラ
161146:2007/12/01(土) 22:02:55 ID:F11J7xSd
>156
激亀失礼。
母方が小寺、母の実家は西播だよ。今でも播磨には小寺姓が多い、
うちも直系とかじゃないんだろうけどね。
別所の家来にも小寺某というのがいた気がする。
ちなみに子供の頃母の田舎で近所にある某赤松傍流の城を先祖代々の城だと
聞かされた事がある。w いい加減なもんだよ。
一度小寺大明神にでもおまいり行こうかな。w仕事もうまく行かんし。
ちなみに父方は俵藤太の流れらしい。(詳しく知らんけどね。)
162人間七七四年:2007/12/09(日) 15:29:57 ID:/ldv6+HE
最近酒の量が増えてきた。
163人間七七四年:2008/01/08(火) 02:24:53 ID:SWTCrMcA
畿内勢力大好き。三好長慶と六角親子がガチで合戦したことてあるんですか?
164人間七七四年:2008/01/16(水) 02:31:51 ID:iNL9KuGN
長慶が将軍追放したとき松永兄弟が湖東で六角と合戦したような。
なんとか撃退して領土の侵蝕は免れたが
165人間七七四年:2008/01/16(水) 03:59:57 ID:NZPhcxIC
高槻城址なら、自転車でいける距離だな。
だから一回も行ってないw

大阪でも北河内は、京阪の境目で、あんま大物大名には縁が無いw
166人間七七四年:2008/01/16(水) 11:15:26 ID:lmzSgvmH
なんか近江にも鉄砲鍛冶村があったようですね?
ゲームとかにはあまり反映されてないですが。
167人間七七四年:2008/04/05(土) 22:32:11 ID:+z7b9GeU
この時代の畿内がマイナーなのは、司馬がこれを題材にした小説を書かなかったから。
168人間七七四年
国友なら堺と並び称されるくらい鉄砲で有名じゃん。