政治板でちょんと言うと停止される! パート2

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411名無しさん@3周年
 遼東半島は、春秋時代より存在が確認され、燕の領土であった。後漢末になると、公孫氏が支配していた。三国時代では、公孫淵が呉と通じ魏から独立したが、司馬懿により滅ぼされた。このことが倭の卑弥呼が魏へ
の遣使へと繋がったという説がある。

 一方、司馬懿により滅ぼされた公孫氏は、204年に公孫度の跡を継いだ公孫康時代に朝鮮半島へ進出し、楽浪郡を手に入れ、200年から210年代にかけて楽浪郡の南に新たに帯方郡を置く等、朝鮮半島を支配した。「三
国志」によると、倭国や朝鮮半島南部の所謂馬韓.弁韓.辰韓の三韓50余りの小国家が帯方郡に従ったとあり、東方の異民族との外交権を掌中に収めていた。其処で、景初二年(238年)の十二月、倭の卑弥呼が皇帝か
ら倭の女王に詔が下される。

 以上のことは、【魏志の倭人伝】に記載がある。

 好太王(374年 - 412年)は高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)。姓は高、諱は談徳。先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられており、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕
の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。好太王の名は、好太王碑文によれば正式な諡は國岡上廣開土境平安好太王といい、韓国では広開土王または広開土大王とも呼ばれている。

 其の広開土王(391〜412)の碑文には、

 「新羅、百済は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし倭が391年に海を渡り百済、加羅、新羅を破り、臣民となした。

 また『399年百済は先年の誓いを破って倭と和通した。

 そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。丁度其の時、新羅からの使いが『多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい』と願い出たので、大王は救援することにした。

 400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都には大勢居た倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。

 処が、安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

 404年、倭が帯方地方に侵入して来たので、これを討って大敗させた。』」とある。
412名無しさん@3周年:2013/05/02(木) 17:27:13.59 ID:91M+pQ/o
 391年倭が百済新羅を征服したと言う碑文の記載に、古事記、日本書紀の対応する記述は、『神功皇后は、朝鮮半島へ出兵し、新羅、百済及び高句麗を降伏させた』と記されている。また倭によって支配を受けていたこ
とも明らかとなっており主従関係が存在しており、百済の王族は、倭によってその婚姻が決められており、基本的には百済王の后は倭人の中から選ばれ、その王子が王位に付くまでは人質として倭国に来ていたことが窺
がえる。