政治板でちょんと言うと停止される!

このエントリーをはてなブックマークに追加
307正我是倭人哉 ◆SyqqpHSzdQ
>>257の続き。
 当時明朝の政治は比較的平穏に収まっていた。明神宗は皇帝らしく紫禁城内でゆったりと過ごしていれたものの、一方張居正の当時の政策の成果は次第に崩れて来ていた。申時行や王家屏等の主なる大学士の人達
は張居正の権勢が朝野を傾けたと取り上げて、絶えず内閣の権力を弱化し無視し続け、順次権力を弱めて遂には中国隋代から清代まで行われた政治制度を取り辞めてしまった。西方や北方の世情は比較的ずっと安定
していた。遼東部は波乱はあったが、前線の勝報は絶えず齎されていた。
308正我是倭人哉 ◆SyqqpHSzdQ :2012/05/14(月) 13:56:21.40 ID:gsjUUS7N
>>307の続き
 可戸部が調査をした後には、“勝報には嘘が多く、人の功績を膨らませて官位に授けること甚だ多く、薊鎮を四鎮に分けてしまい、更に一鎮を三路に分け、官を数多く設けて元々の額に較べて数十倍も水増ししたのだ。”
と糾弾した。(《神宗実録》巻二百三十六)然れども軍A関係する者達のこのような欺瞞の膨張は、未だ最悪の事態にはなっておらず、当時の明は堪え得る状況であったので、このようなことがあっても朝廷は警戒もせずに
放任していた。
309正我是倭人哉 ◆SyqqpHSzdQ :2012/05/14(月) 14:02:07.73 ID:gsjUUS7N
A→に
>>308の続き
数年の内に続けざまに太湖の農民が蜂起し、永昌の衛士兵が暴動を起こし、広東の白蓮教の武装蜂起するなど立て続けであったが、これらは素早く鎮圧された。