政治板でちょんと言うと停止される!

このエントリーをはてなブックマークに追加
205正我是倭人哉 ◆SyqqpHSzdQ
朝鮮の万暦の役は四百年前に朝鮮半島で起きた異国との戦争である。日本の史書では万暦の朝鮮の役を二度の戦争に分けて、それぞれ文禄の役と慶長の役と称した。朝鮮の史書では壬辰の国家存亡の役と称してい
る。この戦は万暦二十年(1592年)から始まって万暦二十六年(1598年)までに終わって、七年間続いた。

この戦争には、明も“国家を挙げて”此れに臨み、通算延べ数十万の兵を送って闘い、戦費凡そ銀八百万両近くがかかって、屡繰り返し和と闘い、苦しみ乍も最後に漸くこの闘いに勝利を勝ち取れたのだ。
206正我是倭人哉 ◆SyqqpHSzdQ :2012/05/12(土) 22:02:45.24 ID:QmLAz9e1
闘いは凡そ四段階分ける。第一段階は日本軍の快進撃の段階で、極短い短期間ではあるが日本軍は素早く朝鮮全域を占領した。第二段階は明軍の反撃の段階で、明軍は一連の戦役を通して、漸く平城、開城などの
地を取り戻した。第三段階は和平交渉に向っての段階である。第四段階は日本軍の二度目の侵略で、明軍と朝鮮軍と派連携して戦略を練って反撃し、終に日本軍を総て朝鮮から追い払ったのだ。
207正我是倭人哉 ◆SyqqpHSzdQ :2012/05/12(土) 22:28:24.94 ID:QmLAz9e1
朝鮮の万暦の役はその時の東アジアの政治と軍事の構造に深く影響を残した。この役に拘った為、明は地方の乱に、その後20年間討伐に向かう財力を失くし、女真族を日増しに強大にならせ、終には明に対して致命的
な脅威となった。
この役の為、朝鮮は国家滅亡まで追い込まれて何とか国家の体面を保てるまでには、数十万の軍民の死傷者の重大な犠牲を負い、財政的にも重篤な危機に見舞われたのだ。
 この役によって、日本は威勢を喪失し、豊臣秀吉親派の勢力は完膚無き迄衰退し、その後間も無く日本は徳川幕府時代に入った。朝鮮の万暦の役は実際には再び東アジア諸国の政治や軍事力の統合の効果を長きに
亘って果たすことも出来たのだ。