天皇制 181

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630名無しさん@3周年

以下は以前に書いた内容のコピペ。

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ステレオタイプ的に誇張するなら、アメリカ人にとっての価値基準は、
聖書を参照することから、社会に対し直接的に向き合う必要がない為に、
それは個人主義的な価値観を生み出す温床となり、政府のような立場の存在は、同じ価値基準を持ちながら、
解釈の違いが見られる存在間における仲裁を求める立場として求められる一方で、
聖書があるからといった理由で、社会全般の規範のあり方について、政府が積極的に関与することを拒否する。
もともとが、宗教的社会に対する政府の迫害から逃れてきた歴史を抱える人達が多い以上、
そうした発想に至るも、また当然だと言えるだろう。

日本は敗戦を迎えて、このようにアメリカ人的な枠組みを流入するようになった。
しかし、日本人はアメリカで言えば、広く通底するような価値観というものは、宗教に求めることは不可能で、
同じくステレオタイプ的に誇張するなら、単一民族としての同胞意識を通じての歴史伝統や慣習といった物によって、
基礎付けられてる社会そのものが価値基準の参照先となってる。
法とは、そのような価値基準を明確にする上で明文化したものであるが、
アメリカのように価値観的に通底する物がないままによる、個人主義のような考え方の氾濫は、
政府による仲裁の必要性が拡大され、法の存在も社会全般を対象に広くもとめれることによって中立性の強要につながり、
社会的にあいまい性の上に作られた個人の存在が、法というより明確な基準に従い、
個人の個性は、なお更に平べったい存在になっていく。

例えば、国旗・国歌法もサヨク側による個人主義的騒ぎ立てによって、むしろ引き出された結果であり、
自分で自分の首を絞めたような物だ。
ギャギャー騒ぐにしても、なんでもすれば良いと言ったものじゃないですよ。
左翼側に対し、新しい年を前に有用なアドバイスを送るものである。