「(3月14日に)2号機の燃料棒が露出したとき、東電側は『全員撤退したい』と伝えてきた。撤退したら
終わりだった。絶対に止めなければならなかった」
あの時点で撤退とは無責任極まりない。この政府関係者は、事故の初動から東電の対応に不信感を
抱いていた。
地震発生時の11日、福島第1原子力発電所1〜3号機は自動的に止まったものの、津波により外部の
設備が使えなくなった。予備の電源も失われ原子炉内を冷やすシステムも動かなくなった。炉内を
冷やさなければ、燃料棒が溶け深刻な事態を招く。東電はまず電源を復旧しようと電源車を送った。
しかしそれをつなぐ部分が水没しており結果的に失敗した。
そのうちに1号機では炉内の熱で水蒸気が発生し、圧力が高まっていった。破裂しないうちに放射性物質を
含む水蒸気ごと逃がし、圧力を下げる必要があった。これをベント(排気)という。「ベントをやらなければ
ならなかったが、本店は非常に消極的」(政府関係者)という状況だった。
福島第1原発の現場責任者は、吉田昌郎・執行役員発電所長である。その陣頭指揮は光っていたようだ。
「吉田所長は勇敢で現実的だった」と政府関係者は言う。「しかし、本店を経由してしか現地に連絡できなかった。
だから12日朝、菅直人総理がヘリで現地に飛び『ベントしろ』と言った。吉田所長の背中を押しに行ったんだ」
(政府関係者)。
ダイヤモンド・オンライン 2011年3月25日
http://diamond.jp/articles/-/11628 日本を間一髪で救ったのは、菅直人首相だった。