1 :
名無しさん@3周年:
2 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:32:21 ID:NgsN1hLh
われわれ楯の会は自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に
報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で
準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、またわれわれも心から自衛隊を愛し、もはや
隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知った。
ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。
このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を
呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に
出たのは何故であるか。たとへ強弁と言はれようとも自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
三島由紀夫「檄」より
3 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:33:14 ID:NgsN1hLh
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして
末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、
自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただ
ごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるを夢見た。
しかも法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の
法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を
なして来ているのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。
三島由紀夫「檄」より
4 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:33:46 ID:NgsN1hLh
自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、
警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。
われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目覚める時こそ日本が目覚める時だと信じた。
自衛隊が自ら目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのを信じた。憲法改正によつて、
自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる
責務はない、と信じた。
三島由紀夫「檄」より
5 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:34:05 ID:NgsN1hLh
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念はひとへに
自衛隊が目覚める時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。
憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の
前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。
政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の
本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」
ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍(なが)ら
訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
三島由紀夫「檄」より
6 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:34:26 ID:NgsN1hLh
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な
警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。
その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の
反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。
治安出動は不要になつた。政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、
国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしやぶらせ
つづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、
実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は
気づかない筈はない。そこで、ふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
三島由紀夫「檄」より
7 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:37:04 ID:NgsN1hLh
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来
二十年に亘つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は
政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の
可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた
自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が
残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。
男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、
決然起ち上がるのが男であり武士である。
三島由紀夫「檄」より
8 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:37:23 ID:NgsN1hLh
われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な
命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを
正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に
与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。
シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、
軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に
操られ、党利党略に利用されることではない。
三島由紀夫「檄」より
9 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:37:42 ID:NgsN1hLh
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。
武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。
繊維交渉に当たつては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる
核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、
抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。
三島由紀夫「檄」より
10 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:38:18 ID:NgsN1hLh
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。
日本を日本の真姿に、戻してそこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。
生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、
共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、
この挙に出たのである。
三島由紀夫「檄」より
11 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:41:56 ID:NgsN1hLh
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。
生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義と
そこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべき
ことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、
文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。
或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・
自分のシニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
12 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:42:33 ID:NgsN1hLh
(中略)
この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。(中略)
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。否定により、
批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を果たすわけではないが、
政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ果たしてゐないといふ
思ひに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、といふ考へが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながら
そこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
13 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:42:55 ID:NgsN1hLh
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれは
ほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて、文学に対する近代主義的
盲信を根底から破壊してやらうと思つて来たのである。(中略)
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望が
いかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけの
エネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
14 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:43:14 ID:NgsN1hLh
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、
その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が
極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
15 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 11:43:46 ID:NgsN1hLh
日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいて
ゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
(中略)
日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。
諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。
私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。
一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。
青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。
三島由紀夫
昭和45年11月、楯の会会員への遺言「楯の会会員たりし諸君へ」より
16 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 20:23:07 ID:NgsN1hLh
松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。
わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだといふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が
日本であるものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを
考へていきたいです。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
17 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 20:23:32 ID:NgsN1hLh
(中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメント
やることによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことを
やつたところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。
昔のやうに爆弾三勇士、あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、
これはテレビにも写らなかつた、なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、
いまテレビに写つてるものは、どんなものが出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また
忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系になにものも加へないままで消えていくんぢやないか。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
18 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 20:24:02 ID:NgsN1hLh
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、
ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。
紙くずでうづまつてしまふ。それで情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん処理してゐるんです。
この東京といふもの、日本といふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。
そのなかで人間はなにをすべきかといふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんです…
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
19 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 20:26:16 ID:NgsN1hLh
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、
その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、
さらに戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として
抹殺するにいたつたのである。(中略)
以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。
神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、
いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な
問題に触れた行動であることが理解されたのであつた。
影山氏の「日本民族派の運動」を読む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、さらに興趣を増すことと
思はれる。
三島由紀夫「一貫不惑」より
20 :
名無しさん@3周年:2011/01/14(金) 20:26:42 ID:NgsN1hLh
氏はおそろしいほど実証的であり、歴史を正す一念において、博引旁証、及ばざるところがない。忘れつぽい
日本人から見ると、その点、却つて日本人離れがしてゐる。実に皮肉なことだが、神風連の事件そのものが、
純潔に自分の思想を守つて抵抗するといふ徹底性の点で、却つて西欧人に理解されやすい要素を含んでゐると
思はれるのと、このことは照応してゐる。西欧化した日本人が、西欧から学ばなかつた唯一のものこそ、
思想に対するこのやうな西欧人の態度なのである。(中略)
又、思想的立場を異にする花田清輝氏などに対しても、本書は公正な態度で、さはやかな記述をしてをり、
その点、思想上の敵に対して卑劣な悪罵の限りをつくす一部の左翼人の著書とは対蹠的である。(中略)
昭和の文学史は、あまりに多くのイデオロギッシュな歪曲や、眼界のせまい文壇人の文壇意識などによつて
毒されてきた。今後昭和の戦前戦中の文学について語る者は、必ず本書に目をとほすことなしには、公正な目を
養ふことができないであらう、と私は信ずる。
三島由紀夫「一貫不惑」より
21 :
名無しさん@3周年:2011/01/15(土) 12:11:56 ID:alz2xBlz
戦後日本の歴史が一つとぎれてしまつた。そのとぎれたところに自衛隊の問題があり、警察の問題があり、
またいろいろ複雑な言ふにいはれない、日本人として誠に情けない状態があらゆる面に発生してきました。
(中略)
大体戦後の民主主義といふものは、アメリカといふ成金の新しい国から来たものでありますから、アメリカは
アメリカとしての歴史はもちろん持つてはをりますが、彼らが大切にしてゐる古い歴史といふのはせいぜい
十八世紀です。アメリカに行くと、これは非常に古い家である、十八世紀だなどとよくいはれる。
彼らはどんなにさぐつて見ても十八世紀以前に遡つてアメリカの歴史を語ることができない。
それより古い頃にはインディアンがゐたんで、インディアンの方がよつぽど歴史上における誇りもあるし、
自信もあるはずです。これが白人に駆逐されてしまつた。
白人であるアメリカ人といふものは、人の家にどかどか入つて来て、平和に暮らしてゐた人間を追ひ散らして、
新しい国を建てた。それが移民の国アメリカです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
22 :
名無しさん@3周年:2011/01/15(土) 12:12:26 ID:alz2xBlz
さういふ国の人に、日本のやうな古い歴史、文化を持つた国の伝統と連続性の力といふものは判らない。
彼らにどう説明して聞かしても判らない。それは無理はないです。何となれば彼らの感覚にはそんな古い
歴史といふものがないのですから……古いといふと十八世紀を思つてゐる人間にいくらいつても判らない。
判つて貰はうとすることが所詮無理なんでせう。
まあ、日本がアメリカに占領されたといふことは国の運命で仕方がないかも知れませんけれども、一番
根本なところが彼らに判らなかつたことは日本にとつても不幸だつたのでせう。それはわれわれだけが判つて
ゐるのであつて、国といふものは、永遠に連続性がなければ本当の国ではないと思ひます。
そしてとに角今は空間といふものがここに広がつてゐる。この空間に対して時間があるわけです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
23 :
名無しさん@3周年:2011/01/15(土) 12:12:42 ID:alz2xBlz
今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。
(中略)
しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。
ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。
この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが
出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。
われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーセックスと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」
と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。
空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。
それでは、今日の人類を一体何が繋いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には
「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
24 :
名無しさん@3周年:2011/01/15(土) 12:13:03 ID:alz2xBlz
(中略)
今ソビエトで一番の悪口は何だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒する一番きたない言葉、それをいはれただけで
人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、
「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。
その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ
「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は
危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。
ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和を
かち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。
それが現在の国家像であると考へられていいんです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
25 :
名無しさん@3周年:2011/01/15(土) 12:13:23 ID:alz2xBlz
ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。
日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、
日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、
手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいんではないか、歴史や文化などは
いらんではないか、滅びるものは全部滅びても良いではないか、と考へる向きが非常に強い。
さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても、
共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。
(中略)
共産主義国家が、国家意思を持つてゐて、日本のやうな、佐藤首相が自らの手で国家を守るといつてゐるこの国に、
国家意思がないとは一体どういふことだらうか。
さういふことになるのは今の日本の根本が危ふくなつてゐるからです。根本はここにあるのです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
26 :
名無しさん@3周年:2011/01/15(土) 23:41:36 ID:alz2xBlz
自衛隊法第三条にも明記されてゐる通り、いまや我々が自衛隊は間接侵略の対処及び、通常兵器による局地的な
侵略については、安保条約の力を借りずに全くの自分の力でこれに対処するやうに規定されてゐる。
…なぜこのやうな変化があつたのかといふと、これは日本の自主防衛力が多く認められてきたことばかりとは
いへない。すなはち、間接侵略といふものは、高度に政治的な戦争形態であり、高度にイデオロギッシュな
性質なものであり、またその範囲はきはめて広く思想戦、心理戦、言論戦から実際のゲリラ戦や、いはゆる遊撃戦
活動から社会主義革命に至るまで、あらゆる段階を含んで進行することは自明であるから、このやうな国内問題に
類する間接侵略に対して、外国軍隊が直ちに第一段階で介入することは内政干渉と受けとられる恐れが充分あるので、
したがつてアメリカとしても間接侵略に対する対処を早く自衛隊自らの手にゆだねようとしたわけであらう。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
27 :
名無しさん@3周年:2011/01/15(土) 23:42:00 ID:alz2xBlz
日本の周囲の情勢を見渡すのに、直接侵略事態はむしろ可能性が薄く、間接侵略事態がある程度進行した場合に
はじめて直接侵略事態が起こるであらうといふことが常識として考へられる。
一例がソビエトはいはゆる熟柿作戦といはれてゐるやうに、昔からいつたん相手を安心させてから、例へば
一国が両面作戦を恐れてソビエトと手を握つた時に、ソビエトは一旦これと手を握つて相手を安心させた後に、
相手がソビエトに背をむけて敵と戦つてゐる留守を狙つて背後から、その条約を破つてこれを打ちのめし、占拠し、
あるひは自分の手に収めるといふ時機を狙ふ戦略に甚だ老練であり、甚だ狡猾である。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
28 :
名無しさん@3周年:2011/01/15(土) 23:42:19 ID:alz2xBlz
ソビエトが現下のやうな政治情勢で、日本に直接侵攻してくることは、すぐには考へられないけれども、
ソビエトなり北鮮なり中共なりのそれぞれ色彩も形態も異なつた共産主義諸国が、もし日本に政治的影響を及ぼして、
間接侵略事態を醸成するのに成功した場合、そしてそれが日本全国の治安状態を攪乱せしめ、国内の経済も崩壊し、
革命の成功が目の前に迫つた場合、このやうな場合にはソビエトが、あるひは新潟方面に陽動作戦を伴ひつつ
北海道に直接侵攻してくる危険がないとは決していへない。
決していへないけれども、このやうな直接侵略事態を考へる前に、最も我々が問題にすべきものは、これを
最終目的として狙つてくる、間接侵略事態の進行である。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
29 :
名無しさん@3周年:2011/01/15(土) 23:44:09 ID:alz2xBlz
Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。
三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。
Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。
三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より
Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?
三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。
三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より
30 :
名無しさん@3周年:2011/01/17(月) 20:25:57 ID:IjCHldfW
自主独立の問題一つとつても、戦前の「自主独立」の日本が、軍縮会議以来、いや三国干渉以来、絶えず列強の
干渉によつて軍縮に対するチェックを受け、それによつて国内世論が、沸騰してきたことを考へると、
日本のやうな地理的要衡の、一定の経済力と一定の軍事力しか持ちえない小国が、条約下にあらうがあるまいが、
国際同盟の参加国であらうがあるまいが、外力の影響によつて左右されるのは宿命的だと思はなければならない。
(中略)
抵抗とは遊戯ではない。完全無防備の抵抗といふものがもしありうるならば、その最有力な例をとり上げて
指摘するならともかく、それが成功するかしないかの時点で、それを無防備的抵抗の良きお手本とすることは、
それ自体が国家を否定し、民族の自立を否定する思想であると言はなければならない。
三島由紀夫「自由と権力の状況」より
31 :
名無しさん@3周年:2011/01/17(月) 20:26:21 ID:IjCHldfW
(中略)
無益な武力的抵抗によつて、国家主権を奪はれるくらゐなら、流血の惨を避け、秩序を保つて表面的に妥協を
受け入れ、国家の存立をはかつたはうがよい、といふならば、非武装抵抗の利点は、一つは血を流さないですんだ、
といふことと、一つは国家の主権が曲りなりにも保たれたといふことでなければならない。
しかし、それはあくまで「非武装抵抗」の利点であつて、「非武装」の利点ではない。非武装(チェコは事実上
非武装国家ではなかつたが)それ自体は、強大な武力に対して何らの利点を持ちえないことは明らかである。
武力抵抗の反対概念は、非武装そのものではなく、非武装抵抗といふことであらう。
三島由紀夫「自由と権力の状況」より
32 :
名無しさん@3周年:2011/01/17(月) 20:26:40 ID:IjCHldfW
そして非武装抵抗の存立条件は、国民の結集した否(ノン)にしかなく、又、陰に陽にサボタージュその他で
抵抗する他はないが、次に来る段階は、非武装抵抗ですら血を流さずには有効性は発揮しえぬ、といふ段階であり、
又、国家の主権が曲りなりにも保たれても、その国家権力の実質的な主導権を奪はれるといふ状況をすでに
容認するならば、そのあとで、実質的な主導権を奪ひ返さうといふ抵抗は、抵抗の最初の論理的根拠を欠くことになる。
なぜなら、われわれが抵抗の手段の選択を迫られたとき、その一方(すなわち非武装)によつて、論理的に
一貫するならば、敵をすでに受け入れた己れの状況に対する抵抗とは、われわれ自身に対する抵抗に他ならなく
なつてしまひ、抵抗の論理は自らの身を喰ふものになるからであり、つひには抵抗それ自体が成立たなくなる
からである。
そのとき、われわれは、非武装抵抗の利点が一つもない地点に立つてをり、「非武装抵抗」と「非武装」とは
同義語になり、つひには敗北主義の同義語になるのである。
三島由紀夫「自由と権力の状況」より
33 :
名無しさん@3周年:2011/01/20(木) 12:17:47 ID:G/T/BIdI
もし暴力肯定が戦争肯定につながるといふ市民主義的な思考に従ふならば、三派全学連の存在理由は全く
認められないことにならう。その点では私は国家といふものの暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争を
肯定することにはならないといふ立場に立つものであるが、この立場に真に対立するものが次のやうな毛沢東の
言葉なのである。すなはち「われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は
戦争である」これが毛沢東の独特な論理であつて、この論理がすなはち右に述べたやうな暴力肯定の論理と
ちやうど反極に立つものである。すなはちそれは平和主義の旗じるしのもとに戦争を肯定した思想なのである。
私は戦後、平和主義の美名がいつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなはち人民戦争を肯定する論理に
つながることをあやぶんできたが、これが私が平和主義といふものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの
理由である。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
34 :
名無しさん@3周年:2011/01/20(木) 12:18:26 ID:G/T/BIdI
そして、私の暴力肯定は当然国家肯定につながるのであるから、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の
肯定が国家超克を目的とするかのごとき欺瞞に対しては闘はざるを得ない。国家超克はいはゆる共産主義諸国の
理論的前提であるにもかかはらず、現実の証明するとほり共産主義諸国も国家主義的暴力の行使を少しも遠慮
しないからである。(中略)
しかし「人民戦争のみが正しい暴力である」(このことは、「中共の持つ核兵器のみが平和のための正しい
核兵器である」といふ没論理をただちに招来する)といふ思想は、それほど新しい思想であらうか。それは又、
古くからある十字軍の思想であり、その根本的性格は「道義的暴力」といふことであるが、道義的主張はどんな
立場からも発せられうるものである。かくてあらゆる道義が相対化されるときに、被圧制、被圧迫の立場のみが、
道義的源泉であるとすれば、その自由と解放は、たちまち道義的源泉を涸(か)らすことになるのは自明である。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
35 :
名無しさん@3周年:2011/01/20(木) 12:18:53 ID:G/T/BIdI
道義の問題を別としても、暴力に質的差異をみとめること、正義の暴力と不正義の暴力をみとめることは、軍隊と
警察の力のみを正義の力とみとめ、その他の力をすべて暴力視する近代国家の論理と、どこかで似て来るのである。
かくて毛沢東の論理は、結局、国家の論理に帰結する、と私は考へる。
私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は、
責任観念を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となつて、世人の
憎悪の的になることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないのである。
自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
36 :
名無しさん@3周年:2011/01/20(木) 12:19:30 ID:G/T/BIdI
(中略)
彼らは今なほ「朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」といふやうな、古くさい左翼風の下品な
きまり文句のとりこになつてゐた。そして彼らは、目に見える天皇像があまりにも週刊誌に毒され、マス・
コミュニケーションに毒されてゐる、その毒された媒体を通してしかこれを評価し得ないことも明らかである。
彼らはその根本について少しも疑つてみようともせず、また、マス・コミュニケーションに耐へながら
存続してゐる天皇といふものが、何ゆゑこのやうな新しいマス・コミュニケーションと極度の言論の自由の中で
存立し得てゐるかといふ、歴史的意味や時間の連続性の問題についてもよく考へてゐないことが察知された。(中略)
天皇といふものが現実の社会体制や政治体制のザインに対してゾルレンとしての価値を持つことによつて、
いつもその社会のゾルレンとしての要素に対して刺激的な力になり、その刺激的な力が変革を促して天皇の
名における革命を成就させるといふことを納得させようとしたがうまくいかなかつた。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
37 :
名無しさん@3周年:2011/01/20(木) 12:19:52 ID:G/T/BIdI
天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての天皇もあり得ない、
(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。すなはち、天皇は私が古事記について述べたやうな
神人分離の時代からその二重性格を帯びてをられたのであつた。この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、
現実所与の存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての、観念的な、理想的な天皇像といふものは
歴史と伝統によつて存続し得るし、またその観念的、連続的な天皇をいかに否定しても、そこにまた現在のやうな
現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残るといふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと
私は考へる。そして現在われわれの前にあるのはゾルレンの要素の甚だ稀薄な天皇制なのであるが、私はこの
ゾルレンの要素の復活によつて初めて天皇が革新の原理になり得るといふことを主張してゐるのである。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』)」より
38 :
名無しさん@3周年:2011/01/22(土) 17:20:22 ID:J9aLnKQN
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児の
やうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと
思つてゐる。安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より
39 :
名無しさん@3周年:2011/01/22(土) 17:20:53 ID:J9aLnKQN
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。精神といふと、またいつもの精神主義かと
いはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との
信念で行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。
そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは
大勲位の勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
40 :
名無しさん@3周年:2011/01/22(土) 17:21:15 ID:J9aLnKQN
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに
見てわらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のこと
など考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。
さういふ基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのでは
ないかと疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、
自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
41 :
名無しさん@3周年:2011/01/22(土) 17:21:36 ID:J9aLnKQN
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。左翼の大衆運動といふものは、大衆を
動かさなければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが
基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。ところが
われわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、
初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、
さういつた絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。
かりにも世間を甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにも
ならないところまで来てゐることを自覚して欲しい。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より
42 :
名無しさん@3周年:2011/01/23(日) 11:44:48 ID:1yVXe46Z
たしかに、自衛隊には明るすぎるほど明るい一面がある。しかし、すべてがさうではなくて、たとへば若い幹部の
あひだにも三種類の傾向があるのがわかりました。
一つは理知的かタイプの行動家。もう一つは、いまの都会のインテリよりも、もつと懐疑的な懐疑派。それから、
すべてを振りきらうといふ行動派です。第二のタイプはもつとも少ないけれど、なかには十九世紀的な懐疑派もゐて、
さういふ連中が私に向つて「日本の防衛は私におまかせください」などといふと、私はかへつて不安になりました。
生死観ですが、自衛隊の精神教育については、私はだいたいに不満足です。といふのは、隊員の反撥を恐れてか
世間の反撥を恐れてか、生死観につながるやうな教育をやつてゐないのです。私の意見では、隊員には幸福追求を、
幹部には死の覚悟を、それぞれ別途にはつきりわけて教育すべきであると思ひます。しかし、その裏付けには
退役後の生活保障などを充実してやる必要があるので、いま、それがないことが、彼らの生死観をコン濁させる
一因になつてゐます。
三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より
43 :
名無しさん@3周年:2011/01/23(日) 11:45:17 ID:1yVXe46Z
ある若い候補生が私にかう聞いたことがあります。「私たちに“戦争待望心理”といふものがあるといふ人が
あるがどうでせうか」と。私は答へました。「消防隊員が火事を待望するのはあたりまへぢやないか。火事が
なければ、どうして火消しがウデを見せることができるんだ。“備へる”といふことと“待つ”といふことは、
人間の心理のウラ表である。“待つ”といふ気持がなければ“備へる”気持もないだらう。だから世間の思惑など
忘れて、自分たちの危機に備へる意識に毎日毎日、生きる覚悟をしなくちやならない」とね。
(中略)
私は、私の考へが軍国主義でもなければファシズムでもないと信じてゐます。私が望んでゐるのは国軍を
国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民の間の正しいバランスを設定することなんですよ。
三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より
44 :
名無しさん@3周年:2011/01/23(日) 11:45:34 ID:1yVXe46Z
自衛隊は、必ずしもアメリカの中古兵器を使つてゐるわけではありません。少なくとも、いま使つてゐる国産の
「新小銃」は優秀な兵器です。むしろ私が一番疑問に思ふのは、万一いま大戦争が起つたら自衛隊全部がアメリカの
指揮下にはひるのではないかといふ危惧です。この問題については、隊内のいろんな人たちとも話合ひました。
私の考へはかうです。政府がなすべきもつとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長など
ではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はつきりわけて
PRすることである。たとへば安保条約下においても、どういふときには集団保障体制のなかにはひる、
どういふときには自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかといふ“限界”をはつきりさせることです。
三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より
45 :
名無しさん@3周年:2011/01/23(日) 11:45:57 ID:1yVXe46Z
私はあらゆる国家は固有の自衛権を持つてゐるといふ考へから自衛隊を合憲と見る人々の主張に反対してゐない。
しかし、本来民主国家の国民的権利に属する国防の問題を義務化することには反対といふ観点から徴兵制度には
賛成でない。若者にとつて団体生活が必要だといふ私の考へは、徴兵反対となんら矛盾しないのである。いまの
青年に自制心とか規律とかが欠けてゐるのは事実だから。
終りに、私は考へやうによつては現在ただいまが危機だと信じてをり、国民が危機感を持つてゐないことに
焦燥してゐる。自衛隊員の危機感を孤立させないことが、むしろ危機感を最新的に解消させる方法だと信じる。
私が望んでゐるのは国軍を国軍たる正しい地位におくこと、国軍と国民の間の正しいバランスを設定すること
なのである。そして日本人であること、愛国心、国土防衛、自衛隊の必要性――この四者の関係はイモズル式で
一つ引つぱると全部出て来るものと考へる。
三島由紀夫「青年と国防」より
46 :
名無しさん@3周年:2011/01/24(月) 23:19:41 ID:bRlllnED
左翼はいつも、より良き未来世界といふものを模索してゐる。いつもより良き未来社会へ向かつて我々は
進歩してゆくと考へてゐるのです。(中略)
ところがソビエトはご承知のやうな状態になつた。これは完全な官僚社会のみならず、その常套語を使へば、
帝国主義なのです。そして、かつて日本人が未来社会と思つたのが帝国主義になつてしまつた。もう
スターリン批判以来、日本人のソビエトに対する夢も崩れた。では、中共はどうか。中共はどうも日本人の
西洋崇拝から言ふと少し外れる処があつたんだけど、文化大革命といふことがあつたので、ますます日本人の
理想から遠くなつてしまつた。近頃は経済的には先進国になつてゐますので、その点でも、あらゆる後進国的な
ラディカルな革命のやり方でやれるものかどうかといふ疑問は幼稚園ぐらゐ出てゐれば大体分るわけです。
そこで未来社会の展望を失つたところに彼らの焦燥と彼らの一種の絶望感があることは確かなのです。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
47 :
名無しさん@3周年:2011/01/24(月) 23:20:03 ID:bRlllnED
それで、より良き彼らの本当の未来社会とは何であるか。皆さんは、「自由からの逃走」といふエーリッヒ・フロムの
本などをお読みになつたことがあるだらうと思ひますが、“われわれの窮屈に閉込められたこの自由といふ名の
下に於いて、人間が一種のフィクションに堕してしまつた社会”から何とか抜け出して、“自由な人間主義の
本当に実現される世界、しかもそこでは社会主義がその最も良いところを実現してゐるやうな社会”であります。
いはゆる、ヒューマニテリアン・ソシャリズムですが、完全な言論自由化の社会主義といふやうな、誰が考へても
実現不可能のやうな、より良き未来に向かつて進んで行かうと、それがまあ大体の左翼型のラディカルな革命の
行動の先にある未来国であると考へて良いと思ひます。(中略)
何も私は共産主義に対抗して生きてゐるわけではありません。別にそれを職業にしてゐる人間でもありません。
ですけれども彼らの考へにうつかり動かされ、蝕まれていつたならば、どういふ結果になるか目に見えてゐる。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
48 :
名無しさん@3周年:2011/01/24(月) 23:20:19 ID:bRlllnED
(中略)
私は未来といふものはないといふ考へなのです。未来などといふことを考へるからいけない。
(中略)我々はアメーバが触手を伸ばすやうに、闇の中を手探りで少し先の未来までは予測ができる。或ひは
来年くらゐまでは予測できるかもしれない。しかし、人間が予測されない闇の中を進んでゆくためには、その闇の
彼方にあるものを信ずるか、或ひはその闇といふものに対決して本当に自分の現在に生きるかといふことの
二つの選択を迫られてゐるといふのが私の考へ方の基本であります。
“未来に夢を賭ける”といふことは弱者のすることである。そして、自分をプロセスとしか感じられない人間の
することであります。(中略)
このやうな思考の中からは人間の円熟といふことも出て来なければ、人間の成熟といふ思考も絶対に出て来ない。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
49 :
名無しさん@3周年:2011/01/24(月) 23:20:37 ID:bRlllnED
実は、人間は未来に向かつて成熟してゆくものではないんです。それが人間といふ生き物の矛盾に充ちた
不思議なところです。人間といふものは“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らないんです。
「葉隠」といふ本を御覧になつた方があるとみえて、笑つてゐる方がそこに居りますが、やはり死といふ事を
毎日毎日起り得る状況として捉へるところから人間の行動の根拠を発見して、そこにモラルを提示してゆく。
非常に極端な考へ方なのですが、あれ程生きる力を与へられた本を私は知りません。
あの思考には、未来が無いのです。我々は常識で考へて「未来がない」と言ふと、まるで破産宣告を受けた人間とか、
ガンの宣告を受けた人間のやうに考へますが、さうではなくて、私は、「青年にこそ未来がない」と、
私自身の考へから、経験から言へるのです。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
50 :
名無しさん@3周年:2011/01/24(月) 23:20:54 ID:bRlllnED
(中略)
そこで、何も未来を信じない時、人間の根拠は何かといふことを考へますと、次のやうになります。
未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、
今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。
そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。
つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。
今、私が四十歳であつても、二十歳の人間も同じ様に考へてくれば、その人間が生きてゐる限り、その人間の
ところで文化は完結してゐる。その様にして終りと終りを繋げれば、そこに初めて未来が始まるのであります。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
51 :
名無しさん@3周年:2011/01/24(月) 23:24:24 ID:bRlllnED
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ
気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な成熟といふ
ものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。
自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。自分の背中に日本を背負ひ、日本の歴史と伝統と文化の全てを
背負つてゐるのだといふ気持に一人一人がなることが、それが即ち今日の行動の本になる。
(中略)「俺一人を見ろ!」とこれがニーチェの「この人を見よ」といふ思想の一つの核心でもありませう。
けれども、私は中学時代に「この人を見よ」といふのは「誰を見よ」といふのかと思つて先輩に聞きましたところ、
「ニーチェを見よ」といふことだと教へて貰ひ、私は世の中にこんなに自惚れの強い人間がゐるのかと驚いた
ことがあるのです。しかし、今になつて考へてみると、それは自惚れではないのであります。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
52 :
名無しさん@3周年:2011/01/24(月) 23:24:41 ID:bRlllnED
自分の中にすべての集積があり、それを大切にし、その魂の成熟を自分の大事な仕事にしてゆく。
しかし、そのかはり何時でも身を投げ出す覚悟で、それを毀さうとするものに対して戦ふ。(中略)
ここにこそ現在があり、歴史があり、伝統がある。彼らの貧相な、観念的な、非現実的な未来ではないものがある。
そこに自分の行動と日々のクリエーションの根拠を持つといふことが必要です。これは又、人間の行動の強さの
源泉にもなると思ふ。といふのは人間といふものは、それは果無い生命であります。
しかし、明日死ぬと思へば今日何かできる。そして、明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができる
といふのは、人間の全力的表現であり、さうしなければ、私は人間として生きる価値がないのだと思ひます。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
53 :
名無しさん@3周年:2011/01/24(月) 23:25:04 ID:bRlllnED
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が
結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。
しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と
伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。
特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと
思ふのです。ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。
私は未来は信じないけれども後世は信ずる。
特攻隊の立派な気持には万分の一にも及びませんが、私ばかりでなく、若い皆さんの一人一人がさういふ気持で
後輩を、又、自分の仕事ないし日々の行動の本を律してゆかれたならば、その力たるや恐るべきものがあると
思ひます。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
54 :
名無しさん@3周年:2011/01/26(水) 23:17:03 ID:ahQMH7mN
昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、
時々刻々に変貌する政治権力の恣意によつて学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあつて文筆に
携はる者として、座視するに忍びざるものがある。
この政治革命の現象面にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に留保するが如きは、われわれの
とるところではない。われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に
抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、
支持を表明する者である。
われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、
ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、
すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。
三島由紀夫「文化大革命に関する声明」昭和42年3月1日
(共同執筆・川端康成、石川淳、安部公房)
55 :
名無しさん@3周年:2011/01/26(水) 23:17:29 ID:ahQMH7mN
Q――つぎに東南アジアについてちよつと聞きます。インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、東南アジアと
日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。
三島由紀夫:中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。もし日本と中共とのあひだに
国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。
まあ海でへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。
ただ「見ぬもの清し」でせうな。
三島由紀夫「インドの印象」より
56 :
名無しさん@3周年:2011/01/26(水) 23:17:47 ID:ahQMH7mN
Q――日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な“大平感”なんだらうけれど、日本にさういつた幻想が
あることも、また一つの現実ぢやないでせうか。
三島由紀夫:たしかにさうですね。幻想(イリュージョン)といへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。
ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実(ファクト)」です。
しかし、日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、事実と
イリュージョンとの合金です。「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件が
あるでせう。海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。
ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。幻想をくだくには
幻想をもつてしなくつちや。ですからもし、ぼくが政治家だつたら……。
Q――「中共はこはくない」といふ幻想は、どうやつてくだきますか?
三島由紀夫:「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもつてですよ。
三島由紀夫「インドの印象」より
57 :
名無しさん@3周年:2011/01/26(水) 23:18:24 ID:ahQMH7mN
Q――寺院も寺院だが、信仰をする人々、つまりレリジョン・イン・アクションはどうでしたか。
三島由紀夫:これはもう……インドでは宗教が生きてゐます。あれだけ宗教がナマナマしく生きてゐる国は
見たことがありませんね。…
Q――実践を持つてゐる宗教は強いといふことぢやないですか。キリスト教を例にとつても、宗教改革いらい
プロテスタンティズムは、宗教とは人間の頭のなかの問題である、といつてきた。ところが、長い目で見ると
カトリシズムのはうが結局は強かつたといふやうな……。
三島由紀夫:さうです。現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。
人間は、目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。だから
カトリックの荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも同様だが、生きてゐる宗教とは
そんなものなんですよ。プロテスタンティズムのやうなものは理論としてはりつぱだし、啓蒙主義の時代には
役立つたかもしれないが、いま宗教が復活するとすれば、あんな形では絶対に復活しませんね。…
三島由紀夫「インドの印象」より
58 :
名無しさん@3周年:2011/01/26(水) 23:19:03 ID:ahQMH7mN
Q――日本人のものの考へかたのなかで、絶対に日本以外には通用しないものがある、と感じませんでしたか。
三島由紀夫:…ぼくは外国に行くときは、必ず「ノー」といふ言葉を用意して行くんです。外国では「ノー」
といふのが三分の一秒でも五分の一秒でもおくれたら、あとで自分がえらいめにあふ。「ノー」といふべきときは
必ず「ノー」(大声で)と急いでいはなくちやならん。日本ぢや「ノー」といはなくても、あとでちやんと
始末がつきます。
Q――日本文化をどう思ひましたか。インドは、いはば日本文化の源流ですが。
三島由紀夫:昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(豊饒の海)も、唐・天竺的な大きい
文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。
で、いまはもつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんな
あすこにあります。
三島由紀夫「インドの印象」より
59 :
名無しさん@3周年:2011/01/27(木) 23:21:50 ID:T4F6JfS2
どうもこの日本人といふのは、防衛といふ問題について、まだ戦争のアレルギーが残つてゐる。すぐ、徴兵制度の
恐怖といふのを考へる。私はこの機会にもはつきり申し上げておきますが、徴兵制度は反対であります。少なくとも
自分の意志に反して兵隊にするといふことは、これからの時代には、私は原理的に不可能なんぢやないかと思ふんです。
そんな兵隊が軍隊にゐたら反戦運動やるに決まつてるし、パンフレットを配るに決まつてるんです。そんな人間で
軍隊が内部崩壊することを恐れるのに比べれば、人数は少なくつてもいいから、やりたいつて奴だけ集めればいい。
それ以外の人間は、もし戦争でも起きたらどういふふうに国に協力できるか。それは各々の軍を持つてやればいい。
…普段の平時からそれぞれの能力に応じて、一旦緩急ある時に協力できる体制を作ればいいぢやないか。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
60 :
名無しさん@3周年:2011/01/27(木) 23:22:06 ID:T4F6JfS2
国民精神といふものは、歴史と伝統と文化との誇りから自然に生まれてくるものである。外国から押しつけられた教育で、
国民の誇りをなくすやうな方向へ日本を持つて行きながら、さうして国民精神を自ら崩壊させる方向へ持つて
行きながら、何をもつてさういふものを基盤にした防衛といふものが成り立ちうるか。
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の日本に残した、
この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。しかし、我々が
いくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正できないといふことは、
何を意味するんだといふことを考へないできたんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
61 :
名無しさん@3周年:2011/01/27(木) 23:22:24 ID:T4F6JfS2
それでは憲法改正すりや、ファッショになるだらうか。これが非常に問題なんですね。
ナチスはワイマール憲法を改正してないのは、皆さんご存知と思ふんです。
ナチスはたうとう憲法改正事業つていふことを、やつてないんです。そして、全権授権法つていふのを成立させたのは、
ワイマール憲法下で成立させたんです。あくまで平和憲法下でナチズムといふものは出てきたんです。
この事実、歴史的な事実をよく知らない人間は、憲法改正すればファシズムになる、ナチズムになると言ふんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
62 :
名無しさん@3周年:2011/01/29(土) 00:00:24 ID:+mRFX9ak
今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさへ言へることで、あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら
威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、
航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである。
そして今日の「日本は大したもんだ派」は、みんなこの上に立脚してゐるのである。私がお茶漬ナショナリスト
といふのは、かれらのナショナリズムの根拠を追ひつめてゆくと、舌の上に感じる「ものの味」といふ、
どうにも否定できない、しかも主観的で説得力のない、さういふもののエモーションを一方に持ちながら、
一方では文明開化以来の迷妄に乗つかつてゐることだ。
では、「日本はまだ貧しい」とか、「日本はどうして大したもんだ」とか言はないで、問題をそんな風に大きく
しないで、ただ、
「お茶漬は実にうまいもんだ」
とだけ言つたらどうだらうか?
比較を一切やめたらどうだらうか?
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
63 :
名無しさん@3周年:2011/01/29(土) 00:00:45 ID:q2H/DsAV
(中略)
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮で
あつても少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、
衰亡してしまふ。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口のPTA精神や、青少年保護を
名目にした家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに
一驚を喫した。こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは
言はずに、せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
64 :
名無しさん@3周年:2011/01/29(土) 00:01:02 ID:+mRFX9ak
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。
一つは私の泊つてゐたニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルに、たまたまオリエント研究関係の
国際会議か何かで、三笠宮殿下が御来泊になり、正面玄関に大きな日の丸の旗が掲げられ、パーク・アヴェニューに
ひるがへつた。これは実に晴れがましい印象だつた。自分も一日本人、一同宿者として、その巨大な日の丸の旗の、
一センチ角ぐらゐを受持つてゐる感じがして、心がひろがるのであつた。
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、
へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、
胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
65 :
名無しさん@3周年:2011/01/29(土) 00:01:19 ID:+mRFX9ak
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、
日本人の感情として、外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな
心情を鼓吹するやうにできてゐて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、
胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…(中略)
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない、さういふ
中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつき
ながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
66 :
名無しさん@3周年:2011/01/30(日) 10:35:19 ID:7wefeS4M
近代日本が西洋文明をとりいれた以上、アリの穴から堤防はくづれたのである。しかも、文明の継ぎ木が
奇妙な醜悪な和洋折衷をはやらせ、一例が応接間といふものを作り、西洋では引つ越しや旅行の留守にしか
使はない白麻のカバーをソファーにかける。私はさういふことがきらひだから、いすが西洋伝来のものである以上、
西洋の様式どほり、高価な西洋こつとうのいすにも、家ではカバーをかけない。
昔の日本には様式といふものがあり、西洋にも様式といふものがあつた。それは一つの文化が全生活を、
すみずみまでおほひつくす態様であり、そこでは、窓の形、食器の形、生活のどんな細かいものにも名前がついてゐた。
日本でも西洋でも窓の名称一つ一つが、その時代の文化の様式の色に染まつてゐた。さういふぐあひになつて、
はじめて文化の名に値するのであり、文化とは生活のすみずみまで潔癖に様式でおほひつくす力であるから、
すきや造りの一間にテレビがあつたりすることは許されないのである。
三島由紀夫「日本への信条」より
67 :
名無しさん@3周年:2011/01/30(日) 10:35:37 ID:7wefeS4M
私はただ、畳にすわるよりいすにかけるはうが足が楽だからいすにかけ、さうすれば、テーブルも、じゆうたんも、
窓も、天井も、何から何まで西洋式でなければ、様式の統一感に欠けるから、今のやうな生活様式を選んだのである。
それといふのも、もし、私が純日本式生活様式を選ばうとしても、十八世紀に生きてゐれば楽にできたであらうが、
二十世紀の今では、様式の不統一のぶざまさに結局は悩まされることになるからである。
私にとつては、そのやうな、折衷主義の様式的混乱をつづける日本が日本だとはどうしても思へない。
また、一例が、能やカブキのやうなあれほどみごとな様式的美学を完成した日本人が、たんぜんでいすにかけて
テレビを見て平気でゐる日本人と、同じ人種だとはどうしても思へない。
こんなことをいふと、永井荷風流の現実逃避だと思はれようが、私の心の中では、過去のみならず、未来においても、
敏感で、潔癖で、生活の細目にいたるまで様式的統一を重んじ、ことばを精錬し、しかも新しさをしりぞけない
日本および日本人のイメージがあるのである。
三島由紀夫「日本への信条」より
68 :
名無しさん@3周年:2011/01/30(日) 10:35:55 ID:7wefeS4M
そのためには、中途はんぱな、折衷的日本主義なんかは真つ平で、生つ粋の西洋か、生つ粋の日本を選ぶほかはないが、
生活上において、いくら生つ粋の西洋を選んでも安心な点は、肉体までは裏切れず、私はまぎれもない
日本人の顔をしてをり、まぎれもない日本語を使つてゐるのだ。つまり、私の西洋式生活は見かけであつて、
文士としての私の本質的な生活は、書斎で毎夜扱つてゐる「日本語」といふこの「生つ粋の日本」にあり、
これに比べたら、あとはみんな屁のやうなものなのである。
今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、といふのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、
われわれは日本につかまれてゐる。だから私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことに
なるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである。
三島由紀夫「日本への信条」より
69 :
名無しさん@3周年:2011/01/30(日) 10:36:13 ID:7wefeS4M
低開発国の貧しい国の愛国心は、自国をむりやり世界の大国と信じ込みたがるところに生れるが、かういふ
劣等感から生れた不自然な自己過信は、個人でもよく見られる例だ。私は日本および日本人は、すでにそれを
卒業してゐると考へてゐる。ただ無言の自信をもつて、偉ぶりもしないで、ドスンと構へてゐればいいのである。
さうすれば、向うからあいさつにやつてくる。貫禄といふものは、からゐばりでつくるものではない。
そして、この文化的混乱の果てに、いつか日本は、独特の繊細鋭敏な美的感覚を働かせて、様式的統一ある文化を
造り出し、すべて美の視点から、道徳、教育、芸術、武技、競技、作法、その他をみがき上げるにちがひない。
できぬことはない。かつて日本人は一度さういふものを持つてゐたのである。
三島由紀夫「日本への信条」より
70 :
名無しさん@3周年:2011/01/31(月) 23:30:50 ID:otdRhGRy
このごろ世間でよく言はれることは、「あれほど苦しんだことを忘れて、軍国主義の過去を美化する風潮が
危険である」といふ、判コで捺したやうな、したりげな非難である。
しかし人間性に、忘却と、それに伴ふ過去の美化がなかつたとしたら、人間はどうして生に耐へることができるであらう。
忘却と美化とは、いはば、相矛盾する関係にある。
完全に忘却したら、過去そのものがなくなり、記憶喪失症にかかることになるのだから、従つて過去の美化も
ないわけであり、過去の美化がありうることは、忘却が完全でないことにもなる。
人間は大体、辛いことは忘れ、楽しいことは思ひ出すやうにできてゐる。この点からは、忘却と美化は
相互補償関係にある。美化できるやうな要素だけをおぼえてゐるわけで、美化できない部分だけをしつかり
おぼえてゐることは反生理的である。人の耐へうるところではない。
三島由紀夫「忘却と美化」より
71 :
名無しさん@3周年:2011/01/31(月) 23:31:08 ID:otdRhGRy
私は、この非難に答へるのに、二つの答を用意してゐる。
一つは、忘れるどころか、「忘れねばこそ思ひ出さず候」で、人は二十年間、自分なりの戦争体験の中にある
栄光と美の要素を、人に言はずに守りつづけてきたのが、今やつと発言の機会を得たのに、邪魔をするな、
といふ答である。
この答の裏には、いひしれぬ永い悲しみが秘し隠されてゐるが、この答の表は、むやみとラディカルである。
従つて、この答を敢てせぬ人のためには、第二の答がある。
すなはち、現代の世相のすべての欠陥が、いやでも応でも、過去の諸価値の再認識を要求してゐるのであつて、
その欠陥が今や大きく露出してきたからこそ、過去の諸価値の再認識の必要も増大してきたのであつて、
それこそ未来への批評的建設なのである、と。
三島由紀夫「忘却と美化」より
72 :
名無しさん@3周年:2011/02/02(水) 19:54:55 ID:inYoCWz5
……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、
それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の
怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。(中略)
それをニ・ニ六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。
その純粋無垢、その勇敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、
かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。
(中略)
その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されてゐた。少年たちが参加すべきどんな行為もなく、
大人たちに護られて、ただ遠い血と硝煙の匂ひに、感じ易い鼻をぴくつかせてゐた。悲劇の起つた邸の庭の、
一匹の仔犬のやうに。
三島由紀夫「二・二六事件と私」より
73 :
名無しさん@3周年:2011/02/02(水) 19:58:04 ID:inYoCWz5
(中略)かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようと
いふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の
「人間宣言」に引つかからざるをえなかつた。
昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の
根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。これは文士たると
否とを問はず、生の自然な欲求と思はれる。そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として天皇を
規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、
一すぢの影を投げ、影を辿つて「英霊の声」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら「美学」と
称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを
知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。
三島由紀夫「二・二六事件と私」より
74 :
名無しさん@3周年:2011/02/03(木) 12:29:22 ID:isqX84od
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくやうな
状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。
私は本来国体論には正統も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があつて、むしろ
国体思想イコール変革の思想だといふ考へ方をするのである。それによつて、平田流神学から神風連を経て
二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のナインであり、天皇信仰自体が永遠の
現実否定なのである。
道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。
二・二六は、このやうな意味で、当為(ゾルレン)の革命、すなはち道義的革命の性格を担つてゐた。
あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミクスとは、つねに永久革命の
形態をとる。すなはち日本天皇制における永久革命的性格を担ふものこそ、天皇信仰なのである。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
75 :
名無しさん@3周年:2011/02/03(木) 12:29:48 ID:isqX84od
追ひつめられた状況で自ら神となるとは、自分の信条の、自己に超越的な性質を認めることである。
決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、男性的な美徳である。
事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。弱さとは
そのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか? もしさうだとすれば、強さとはファクトを
容認した諦念に他ならぬことになり、単なるファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が
最悪の状況に立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは「最後の楽天主義」の
英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、つひには実在となる。なぜなら、悔恨を
勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の最後の自由の証左だからだ。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
76 :
名無しさん@3周年:2011/02/04(金) 16:34:58 ID:Q4q4ddjY
戦後二十二年間、私は原爆について発言しなかつた。(中略)
第一に、原爆に関しては、体験した者と体験しない者、被曝者と被曝しなかつた者といふ二つの立場以外、絶対
ありえないからだ。これがベトナム論などと根本的に違ふ点であり、そのことを忘れた発言はすべてウソである。
被曝しなかつた者が、いくら「おかはいさうに」と同情してみせても、そんなことで心慰められる被曝者は
一人もゐない。(中略)
広島に“新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。(中略)
それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。世界の終りだ、と思つた。この
世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。もつとも、原爆によつて突然発生したと
いふより、私自身の中に初めから潜在したものであらうが……。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
77 :
名無しさん@3周年:2011/02/04(金) 16:36:29 ID:Q4q4ddjY
ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは二度と
くりかへしません」といつた。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文学は、終戦の詔勅の
「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない。
そのかはり日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。
一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される
工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。
いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は
核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
78 :
名無しさん@3周年:2011/02/04(金) 16:37:51 ID:Q4q4ddjY
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることが
できない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、
輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。
日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。
戦後二十二年間、平和はまさに米ソの核均衛の上に保たれてゐた。だか、お互ひの核ドウカツだけで均衛が
保たれたかといふと、さうは思へない。第二次大戦中、広島で原爆が使はれたといふ事実、たくさんの人が死に、
今も肉体的、精神的に苦しんでゐる人がゐるといふ事実がなかつたとしたら、観念的にいくら原爆の悲惨さが
わかつてゐても、必ず使はれたらう。人間とは本来、さういふものである。その意味でヒロシマこそが、最大の
「核抑止戦略」であつた。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
79 :
名無しさん@3周年:2011/02/04(金) 16:39:19 ID:Q4q4ddjY
加へて、第二次大戦を転機に、世界的に被害者と加害者の逆転がおこつた。先進国が後進国に負ひ目をもち、
大国のアメリカが外ではベトナム、内では黒人問題で手をやく――といつた一連の現象である。つまり弱者が
優位に立つといふ“逆勢力均衡”なのだが、その先端を切つたのは、被害者の極、ヒロシマなのであつた。
将来、小型爆弾が使はれる可能性は、皆無ではないだらう。ベトナムのやうに、今使ふかと世界の注目をあびて
ゐる地点よりも、未開の国で突如使はれるかもしれない。大国が、中程度の国をそそのかして核使用の口実を
つくることも考へられる。
だが、いちばん危険なのは、防衛力としてのABM(弾道弾迎撃ミサイル)が開発されて、攻撃力としての
ICBM(大陸間弾道弾)との均衛が成立したとき、つまり大国がICBMに対して自国の安全を守れるといふ考へに
達した時であらう。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
80 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 12:28:18 ID:+S0odX1V
現下の日本のもつとも重要な問題は、国家理念の確立と、青年に「大義とは何か」を体得せしめることであります。
多くの青年が、日本が犯される時は銃を執つて戦ふ覚悟を、口でこそ示しますが、その方途も、真の敵の所在も
明確につかんでゐないのが実情であります。
間接侵略の過程においては、まづ基幹産業の侵蝕と破壊が企てられることは、常識でありますが、わが企業体を
身を以て守るといふ覚悟乃至行動は、それ以上の高い国家理念の裏附なしには期待することができません。
企業防衛こそ国土防衛の重要な一環であり、一例が電源防衛にしても、それ自体がただちに国土防衛の本質的な
ものにつながります。
しかしこのやうな自覚も、強い思想的バック・ボーンなしには、たちまち足元から崩れ去るのが、今後の複雑な
政治状況であり、又、そのためには団体生活の訓練と、一定の基礎的な肉体訓練が必須であります。
三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
81 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 12:29:40 ID:+S0odX1V
このやうな青年によつてこそ、日本の安全保障と自主防衛の精神は、将来へ向つて輝やかしく保持され、国の安全こそ
企業の安全につながることが、国民全体によつて理解される糸口がひらけるのであります。
企業防衛イコール国土防衛の精神を確立するために、われわれは陸上自衛隊の協力を得て、従来の体験入隊より
一歩前進した、比較的長期間の組織的体験のプランを作製し、各企業体経営者各位の賛同を得て、J・N・Gの
横の組織を創り出したいと念ずるものであります。
仮 案
一、中卒あるひは高校卒の青少年を、一定期間(十日乃至一ヶ月)当組織へお預りし、体験入隊をお世話し、
必要に応じて年一回、あるひは春秋二回といふ風に継続し、J・N・G隊員として、溌剌たる挺身的な模範社員を
各職場へお返しします。企業防衛を国土防衛の基盤として理解する、信念ある中堅社員育成のために、資する
ところ大なるものがあると信じます。(後略)
三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
82 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 23:44:41 ID:+S0odX1V
戦後平和日本の安寧になれて、国民精神は弛緩し、一方、偏向教育によつてイデオロギッシュな非武装平和論を
叩き込まれた青年たちは、ひたすら祖国の問題から逃避して遊惰な自己満足に耽る者、勉学にはいそしむが
政治的無関心の殻にとぢこもる者、「平和を守れ」と称して体制を転覆せんとする革命運動に専念する者の、
ほぼ三種類に分けられるにいたりました。(中略)
われわれは一九六〇年以後、言論活動による国の尊厳の回復の準備を進めて参ると共に、一九六五年にいたつて、
国防精神を国民自らの真剣な努力によつて振起する方法の研究に着手しました。(中略)…核兵器の進歩は
却つて通常兵器による局地戦(いはゆる代理戦争)の頻繁か発生を促し、これを戦ふ者も正規軍のみでなく、
ベトナム戦に見る如く人民戦争の様相を呈して来た以上、必ずしも高度に技術化された軍隊でなくとも、
通常兵器を以て国防に参与できる余地のあることが常識化されるにいたりました。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
83 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 23:45:45 ID:+S0odX1V
そもそもわが自衛隊は、安保体制下集団安全保障の一翼を担つて、国防の任務に就いてをりますが、この任務のうち、
純然たる自主防衛の領域は、新安保条約によれば、
一、間接侵略に対する治安出勤
二、非核兵器による局地的直接侵略に対する防衛
の二領域であります。この二つのケースにおいては、自衛隊は、いかなる外国軍隊の力をも借りず自らの手で
国防を引受けるといふ重大な任務を負うてゐるのであります。(中略)
「間接侵略」の形態も亦、一様ではありません。革命の客観的条件の成熟と向うが認めた時点が何時であり、
そこへ向つて、いかなる一連の動きによつて「間接侵略」といふ内戦段階へ移行するかは予断を許さぬのみならず、
現に今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐると考へて
いいのです。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
84 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 23:46:44 ID:+S0odX1V
これに応戦する立場も、単に自衛隊の武力ばかりでなく、千変万化の共産戦術に応じて、あるひは言論、あるひは
行動により、千変万化の対応の仕方を準備するのが賢明であります。そのための最後の拠り処は、外敵の
思想的侵略を受け容れぬ鞏固な国民精神であると共に、民族主義の仮面を巧妙にかぶつたインターナショナリズムに
だまされない知的見識であり、又、有事即応の不退転の決意でなければなりません。このやうな決意を持たぬ思想は、
怯懦に陥つて、いつか敵の術策に陥ることをなしとしないのであります。
不退転の決意とは何か? すなはち、国民自らが一朝事あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を守る決意であり、
自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。
しかし、気魄だけでは実際の役に立たないので、武器の取扱にも周到な教育を要し、指揮統率の能力も、
又これに応ずる能力も、一定の訓練体験なしには、つひに画に描いた餅にすぎません。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
85 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 23:47:58 ID:+S0odX1V
又、別方面から考へれば、何事も感覚的にしか理解しえない無関心層の青年に、国防精神を植ゑつけるには、
単なる思想指導や言論による教育では不十分で、実際に彼らに執銃体験を与へることによつて、彼らが
武器といふものの持つ意義も危険も知り、感覚を土台にして、より高い国防精神に覚醒する端緒をつかむといふ
ことも十分考へられるのであります。
ここに思ひ到つたわれわれは、諸外国の民兵制度を研究し、左記のやうな各種の資料を得ました。
(中略)
以上のやうに、民兵制度なるものを種々検討してみたわれわれは、平和憲法下の日本で、われわれ国民が
市民としての立場で国防に参与する方途は、ここにあると確信するにいたりました。民主国家国民としてあらゆる
自由と権利を享楽してきた日本人は、戦後、義務の観念を喪失したと云はれますが、実はまだ使つてゐない権利が
一つ残つてゐるのではないか、民主国家の国民としてのもつとも基本的な権利である、「国防に参与する権利」
だけは、まだ手つかずのままではないか、といふのがわれわれの発想のもとであります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
86 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 23:49:00 ID:+S0odX1V
民兵といふ言葉はみすぼらしく、魅力的でないので、われわれは祖国防衛隊といふ言葉を使ひます。(中略)
専門家の概算によると、長大な海岸線を持つわが国の国土防衛のためには、三五万から百万の陸上兵力を
必要としますが、(中略)…のこりの十七万は何とか国民の自主的な努力により確保せねばならぬのであります。
従つて祖国防衛隊は、大都市においては都市防衛、海浜地域においては沿岸警備、山間地域においては
対ゲリラ防衛を任務とすることになるでせう。又、出勤した正規軍師団の後方警備要員としても有効適切であります。
ヨーロッパ諸国の軍事制度を研究した者は、むしろ戦前の日本の国軍一本化がむしろ異例であることを知つてゐます。
正規軍以外の各種の軍隊の並立のうちに発達してきたヨーロッパ軍事制度の歴史に鑑み、日本の戦前の軍事制度に
関する常識を、戦後の平和憲法下の特殊事情を考慮して、一ぺん徹底的に考へ直し、真に有効な現代的方途を
発見してゆかなければなりません。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
87 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 23:52:12 ID:+S0odX1V
現に戦時中も、総力戦体制と称しながら、軍の権力構造を保持するために、知識人や行政上経営上の指導者をも
一兵卒として召集し、無理な一本化を急いで弊害のみを助長させた教訓は近きにあり、むしろ、戦争末期は
市民軍の養成を別途に推進すべきであつたのであります。
正規軍の増強と精鋭を望む議論としては正論でありますが、日本の現状から見るとき、徴兵制度の弊害の記憶が
ありありと残つてゐる国民感情から見ても、又、もし将来徴兵制度復活が実現されても、そのときはもはや
国論統一が成し遂げられた時点であり、国論統一が成就するや否やわからぬ過渡期の危機を収拾するには間に合はず、
前途のとほり、間接侵略の複雑微妙な進行過程において、徴兵制を強行すれば、軍自体の赤化の危険さへ
懸念されるのであります。その点からも、「思想堅固な者にのみ、武器をとらせる」方式を別途に考へなければ、
間接侵略に真に対処することは不可能なのであります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
88 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 23:53:38 ID:+S0odX1V
これらの考察ののち、われわれは一九六六年秋にいたつて、祖国防衛隊のもつとも基本的な原案を作製しました。
(中略)
概ね、右のとほりでありますが、無給である以上、隊員には強い国防意識と栄誉と自恃の念の養成が必要とされます。
又、まだ法制化を急ぐ段階ではありませんから、純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他はなく、
一方、一般公募にいたる準備段階に数年をかけ、少くとも百人の中核体を一種の民間将校団として暗々裡に
養成することが先決問題と考へられたのであります。(中略)
われわれはかくて自衛隊内部にも知己を得て、国防問題について真剣に論じ合ひました。われわれの知りたいことは、
市民軍の指導者たる幹部要員の教育に、必要最低限度、どれだけ訓練が必要とされるか、現行法制下でそれが
可能か、といふことでありました。そしてつひに、それが可能であるといふ成果を得たのであります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
89 :
名無しさん@3周年:2011/02/05(土) 23:54:43 ID:+S0odX1V
祖国防衛隊基本綱領(案)
祖国防衛隊は、わが祖国・国民及びその文化を愛し、自由にして平和な市民生活の秩序と矜りと名誉を
守らんとする市民による戦士共同体である。
われら祖国防衛隊は、われらの矜りと名誉の根源である人間の尊厳・文化の本質及びわが歴史の連続性を
破壊する一切の武力的脅威に対しては、剣を執つて立ち上がることを以て、その任務とする。
隊 歌
強く正しく剛(たけ)くあれ
文武の道にいそしみて
正大の気の凝るところ
万朶(ばんだ)の花と咲き競ふ
日本男子の朝ぼらけ
われらは祖国防衛隊
若く凛々しく勇ましく
高根の雪に恥づるなき
市民の鑑(かがみ)武士の裔(すゑ)
祖国を犯す者あらば
かへりみはせじ楯の身を
われらは祖国防衛隊
清く明るく晴れやかに
憂憤深き夜は明けて
正気光りを発すれば
歩武堂々の靴跡に
敵影(てきえい)霜と消え失せん
われらは祖国防衛隊
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
90 :
ひまつぶしのコピーぺ:2011/02/06(日) 00:05:12 ID:/42I/HRi
三島さんは純粋な線の細い文学者。
小沢一郎は主権回復を願う本物の政治家。
安保破棄
主権回復
国軍再建
91 :
名無しさん@3周年:2011/02/06(日) 08:10:07 ID:0TM3JLSW
小沢が言ってるのは、国軍再建じゃなくて「すべての軍を国連軍に一本化する」だけどな。
中学生並みの妄想。
92 :
名無しさん@3周年:2011/02/06(日) 16:20:09 ID:N00Fhquq
当時(戦時)の文化界のことを研究すると、時代からの流され方が、何だかあんまりだらしがなかつたやうな
気がする。だらしがなかつたのならそれでもよいが、戦後の変節の早さ、かりにも「一国一城の主」が、女みたいに
「私はだまされてゐた」と言ひ出すのを見ては、私はいはゆる文化人知識人の性根を見たやうな気がしたのである。
大体、文化人や知識人と名乗るだけの人間が「だまされてゐた」では通るまい。この種の人たちは、十中八九、
口ほどにもないお人よしで、実際にだまされてゐたのかもしれないが、それを言はないで、だまされてゐたままの
自分の形を押し通すだけの自負がなかつたのか。思想的弾圧のはげしさは言語を絶してゐたかもしれないが、
いくら割り引いてみても、知識人文化人のたよりなさの印象はのこるのである。
変節防止のために相互監視をやつたらどうか。言論の自由を守るとは、結局自分を守ることだといふのでは情けない。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
93 :
名無しさん@3周年:2011/02/06(日) 16:21:33 ID:N00Fhquq
「われわれの考へる言論の自由」といふものを本当に信じ、それを守り抜くためには、一人一人ばらばらでは、
はなはだたよりなかつた前歴があるから、今度は二度と引き返せぬやうに、相互監視でもやつて変節を防止しなければ、
第一、われわれの言論を信じてくれる読者各位に対して申し訳ないではないか。十年もつといふ宣伝で買つた洗濯機が、
三日でこはれてしまつては、商業道徳に反するではないか。
大体、文化人知識人などといふものは、弱い立場なのである。社会的地位もあいまいで、非常の場合に力で押して
来られたら一トたまりもない。幸ひ今は平和な時代で、大きな顔をしてゐられるが、われわれが大きい顔をして
ゐられるから、平和がありがたい、といふのでは、材木が売れるから地震がありがたい、といふ材木屋の考へと
同じである。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
94 :
名無しさん@3周年:2011/02/06(日) 16:23:12 ID:N00Fhquq
(中略)
世論なるものの作られ方自体にも、相当怪しいところがあるのである。子供にだつて、シュークリームと
あんころもちの二つを選ばせれば、どちらがうまいか、自分の意見を決めることができるが、シュークリームだけを
与へつづければ、世界中でシュークリームほどうまいものはないと思ふやうになる。今、日教組がとなへてゐる
「教育の自由」とは、シュークリームだけを与へる教育の自由なのである。ジャーナリズムの有力な傾向も、
公正に見せかけた「選択の自由の排除」であつて、われわれは言論を通じて、公正な選択の場を何とか確保しようと
努めてゐるにすぎない。
現代政治の特徴は何事も世論のフィルターを濾過されねばならぬことであらうが、そのフィルターにくつついた煤の
煤払ひをしなければ世論自体が意味をなさぬ。かくも強力なフィルターが、煤のおかげで、ひたすら被害者、
被圧迫者を装つて、フィルターの濾過を拒んでゐるやうな状況は、不健全であるのみならず、フィルターの権威を
落すものであると考へられる。
かくてわれわれは、手に手に帚を持つて、煤払ひの戦ひに乗り出したといふわけなのである。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
95 :
名無しさん@3周年:2011/02/06(日) 16:27:32 ID:N00Fhquq
このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、
かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげて
ゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。
新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つてゐるやうに思はれる。写真や映画は
正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を混濁させる。かうなつてくると、
いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ目なら自分の目を信ずる他はなくなるのだ。
私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり精巧であらう。
三島由紀夫「同人雑記」より
96 :
三島由紀夫:2011/02/06(日) 22:39:58 ID:3O4/QfEC
>>90 私と小沢は真逆である。私には戦争が起これば国を守るために最前線で戦う覚悟がある。
小沢は民を戦地という死地に追いやり自身は国内で安穏と芸者をあげて遊び、
敗れれば命乞いをして、しかも嘘を吐き戦争責任を逃れ戦後も権力の座に居座り、
国を又しても誤まった方向へと導く逆臣である。
戦後民主主義政治などと聞こえはいいが、その実体はこの私利私欲に走り民を奴隷の如く扱い、
失政の限りを尽くした生きさらばえた°t臣共の茶番劇に他ならない。
国民よ、今こそ目覚め、日本神道に立ち返り天皇を中心とした国に戻し、
逆臣共を完全に駆逐し、日本を再興しようでは無いか?
天皇陛下万歳!
97 :
名無しさん@3周年:2011/02/06(日) 23:37:03 ID:N00Fhquq
私は弱い者が大ぜい集まつてワイワイガヤガヤ言つて多数の力で意見を押しとほすといふ考へがきらひだ。
全学連だつて、一人一人会えば大人しい坊ちやんだし、体力的に弱いタイプが多い。なぜ多数を恃むのか。
自分一人に自信がないからではないのか。「千万人といへども我行かん」といふ気持がないではないか。
もつとも一人の力では限りがあることがわかつてゐる。だから私は少数精鋭主義である。その少数の一人一人が、
「千万人といへども我行かん」といふ気構へをもち、それだけ腕つ節がなければならない。たつた一人孤立しても、
切り抜けて行けなければならない。
三島由紀夫「拳と剣――この孤独なる自己との戦ひ」より
98 :
名無しさん@3周年:2011/02/07(月) 10:49:34 ID:k+/R1A8V
衛藤瀋吉氏の或る論文で「間接侵略に真に対抗しうるものは武器ではない。国民個々の魂である」といふ趣旨があつて、
私も全く同感だが、そこに停滞してゐては単なる精神主義に陥る惧れがあり、魂を振起するには行動しなければ
ならない。動かない澱んだ魂は、実は魂ではない。この点で私の考へは陽明学の知行合一である。又「自らの手で
国を守る気概」といふ自民党のスローガンは立派だが、では一体何をするかといへば、国民一人々々は税金を払つて
三次防を認めればよい、といふのでは、戦後の経済主義を一歩も出ず、次元の低い傭兵思想にすぎない。私はひたすら
「文武両道」といふ古い言葉で、この両様の機会主義に反抗して来たのである。
(中略)今や空前の素人時代、軍事問題防衛問題も、玄人のほかに、熱烈な素人の厚い層があつてよいではないか。
因みに一言つけくはへれば、私は戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス
(無防備の富)だと考へる者である。
三島由紀夫「わが『自主防衛』――体験からの出発」より
99 :
名無しさん@3周年:2011/02/07(月) 11:40:57 ID:k+/R1A8V
ノサップ岬には数回足をのばし、ガスの晴れ間から水晶島にソ連の監視兵が動いているのさえ観ることができた。
還らぬ北方の島々への関心はさすがに高く、私達の使命感はより一層高まった。現地の漁民はただもくもくとして
働き、涙さえ浮かべようとしない。(中略)
学生運動は社会的起爆剤としての役割を持っている。学生及び青年の行動が、連鎖反応的に運動の輪を拡げ、
大きな力へと成長させてゆく。その歴史的自覚を持ったときこそ、新しい学生運動の明るい展望は開けて
くるのである。とするならば、北方問題に関しても、政府も漁民も立場上言えないような主張を代弁するのが
学生ではないのだろうか。民族の悲願として、全千島、南樺太をあらゆる条約や障害をのりこえて取り戻すこと。
この正当な主張も、政府及び根室市がソ連と交渉するときには、歯舞、色丹、国後、択捉だけが対象となっている。
千島列島はサンフランシスコ条約で放棄したから可能ならば日本に復帰させて頂きたいと及び腰である。
森田必勝「民族運動の起爆剤を志向」より
100 :
名無しさん@3周年:2011/02/07(月) 11:42:05 ID:k+/R1A8V
外交のベテランソ連に対し、はじめから下手で臨むものだから、馬鹿にされて相手にされないのも当然だと
言えるかも知れない。
(中略)
私達は一体何のために「北方領土復帰運動」を行なうのだろうか。ただ単に魚の穫れる漁場がほしいとか、
領土的野心からとかでは決してない。根室市で、私達と関係者との懇談会の席上、ある一人の老人は絶叫調で
こう言った。「たとえ、ソ連が何十年居坐ろうとも、われわれは日本民族の闘いとして、この運動を続ける」と。
この老人の一言に、恐らく私達すべての立場は代表されるのではないだろうかと思う。
(中略)
北方領土への関心は、一般国民をして領土主権の問題、民族意識の問題、国家理念の問題へと眼を開かせる。
それはやがて、日本という中級国家が、これからの世界の荒波をどう航海しどうすすんゆくのかという、
主権国家としての自立の条件への模索となってゆくであろう。
森田必勝「民族運動の起爆剤を志向」より
101 :
名無しさん@3周年:2011/02/07(月) 11:43:11 ID:k+/R1A8V
結集された同志諸君! 我々はついにソ連に奪われた祖国固有の領土、貝殻島、水晶島が見渡せる所まできています。
(中略)我々は、その北方領土諸島への最短距離にある貝殻島を眼の前にして、身体中の怒りが、民族の血が
たぎりつつあるのです。日本民族の祖先が営々としてきずきあげてきたあの島々を、我々はたとえ何年かかろうと、
どれだけの犠牲が出ようと、必ず取り返してみせる、といった意気込みをもって、更に力強くこの運動を続けて
いかなければなりません。(中略)
我々は午前中、ここに立てられている標識に「本土最東端=ノサップ岬」と書かれているのを発見しました。
ノサップが日本の最東端なのか?
日本の最東端は全千島列島の尖端にあるシュムシュ島であり、ソ連の軍事占領下にあるとはいえ、本来は
日本領土ではありませんか! ノサップをもって、本土最東端などと開き直る敗北主義は、(現地の方々が、
これほど敗北的な現実主義に陥っていることを、我々は改めて知らされたけれども――)我々の熱意と民族の魂とで
粉砕しなければならないと考えます。
森田必勝「演説 北方領土返還問題」より
102 :
名無しさん@3周年:2011/02/07(月) 11:44:15 ID:k+/R1A8V
(中略)
一九一七年のロシア革命は、全世界の知識人にショックを与え、人類の幸福、バラ色の社会とかいうデタラメな
宣伝文句につられて日本にもマルクス主義運動が入ってきました。階級史観なるエセ歴史主義の虚妄は、やがて
本家本元のロシアの、その後の数限りない侵略の事実によって明らかにされているではありませんか。(中略)
我々にとって、共産主義は敵には違いないが、イデオロギーというよりも、むしろ人間の魂の問題として、
このような思想を拒否するわけです。だから、何回も何回も繰返すように、反共という立場はイデオロギーの
位相によるアンチではなく、人間性の問題として、人の自由を束縛し、他国民の迷惑を何とも思わぬような
独善的な国家主義を、(それはマルクスのいった共産主義とはほどとおいけれども――)我々は憎んでゆかなければ
なりません。
森田必勝「演説 北方領土返還問題」より
103 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 10:41:12 ID:Vaj+5Naq
ニ・ニ六事件を肯定するか否定するか、といふ質問をされたら、私は躊躇なく肯定する立場に立つ者であることは、
前々から明らかにしてゐるが、その判断は、日本の知識人においては、象徴的な意味を持つてゐる。すなはち、
自由主義者も社会民主主義者も社会主義者も、いや、国家社会主義者ですら、「ニ・ニ六事件の否定」といふところに、
自分たちの免罪符を求めてゐるからである。この事件を肯定したら、まことに厄介なことになるのだ。現在只今の
政治事象についてすら、孤立した判断を下しつづけなければならぬ役割を負ふからである。
もつとも通俗的普遍的なニ・ニ六事件観は、今にいたるまで、次のやうなジャーナリストの一行に要約される。
「ニ・ニ六事件によつて軍部ファッショへの道がひらかれ、日本は暗い谷間の時代に入りました」
三島由紀夫「二・二六事件について」より
104 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 10:43:24 ID:Vaj+5Naq
二・二六事件は昭和史上最大の政治事件であるのみでない。昭和史上最大の「精神と政治の衝突」事件であつた
のである。そして精神が敗れ、政治理念が勝つた。幕末以来つづいてきた「政治における精神的なるもの」の底流は、
ここに最もラディカルな昂揚を示し、そして根絶やしにされたのである。
勝つたのは、一時的に西欧的立憲君主政体であり、つづいて、これを利用した国家社会主義(多くの転向者を
含むところの)と軍国主義とのアマルガムであつた。私は皇道派と統制派の対立などといふ、言ひ古されたことを
言つてゐるのではない。血みどろの日本主義の刀折れ矢尽きた最期が、私の目に映る二・二六事件の姿であり、
北一輝の死は、このつひにコミットしえなかつた絶対否定主義の思想家の、巻添へにされた、アイロニカルな死に
すぎなかつた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より
105 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 10:46:37 ID:Vaj+5Naq
二・二六事件を非難する者は、怨み深い戦時軍閥への怒りを、二・二六事件なるスケイプ・ゴートへ向けてゐるのだ。
軍縮会議以来の軟弱な外交政策の責任者、英米崇拝者であり天皇の信頼を一身に受けてゐた腰抜け自由主義者
幣原喜重郎の罪過は忘れられてゐる。この人こそ、昭和史上最大の「弱者の悪」を演じた人である。又、
世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる。誰がその責任をとつたのか。政党政治は
腐敗し、選挙干渉は常態であり、農村は疲弊し、貧富の差は甚だしく、一人として、一死以て国を救はうとする
大勇の政治家はなかつた。
戦争に負けるまで、さういふ政治家が一人もあらはれなかつたことこそ、二・二六事件の正しさを裏書きしてゐる。
青年が正義感を爆発させなかつたらどうかしてゐる。
しかも、戦後に発掘された資料が明らかにしたところであるが、このやうな青年のやむにやまれぬ魂の奔騰、
正義感の爆発は、つひに、国の最高の正義の容認するところとならなかつた。魂の交流はむざんに絶たれた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より
106 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 10:50:52 ID:Vaj+5Naq
もつとも悲劇的なのは、この断絶が、死にいたるまで、青年将校たちに知られなかつたことである。そして
この錯誤悲劇のトラーギッシュ・イロニーは、奉勅命令下達問題において頂点に達する。奉勅命令は握りつぶされて
ゐたのだつた。
二・二六事件は、戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、宮城包囲を敢へてしなかつた
ことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、左翼の革命理論から云へば、
これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、女子供を一人も殺さなかつた義軍の、
もろい清純な美しさが溢れてゐる。この「あやまり」によつて、二・二六事件はいつまでも美しく、その精神的価値を
永遠に歴史に刻印してゐる。皮肉なことに、戦後二・二六事件の受刑者を大赦したのは、天皇ではなくて、
この事件を民主主義的改革と認めた米占領軍であつた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より
107 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 11:10:59 ID:5h/GgwoB
2.26は、貧乏日本が裕福アメリカに宣戦布告したようなもの。
で、抑え込まれた。国家レベルでもそうなった。単に弱肉強食なだけ。
青年将校を非とするなら、その後の日本も非で、
逆なら逆のはずなんだが、自分に歯向かってくるのは非で、
自分が行く時は是。そういう客観性の欠如で戦争も負け。
108 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 23:49:08 ID:Vaj+5Naq
何を守るかといふことを突き詰めると、どうしても文化論にふれなければならなくなるのだが、ただ文化を守れ
といふことでは非常にわかりにくい。文化云々といふと、おまへは文化に携つてゐるから文化文化といふ、それが
おまへ自身の金儲けにつながつてゐるからだらう――といはれるかもしれない。あるひは文化なんか守る必要はない、
パチンコやつて女を抱いてゐればいいんだといふ考へ方の人もゐるだらう。文化といつても、特殊な才能を
もつた人間が特殊な文化を作り出してゐるんだから、われわれには関係がない。必要があれば金で買へばいい、
守る必要なんかない――と考へる者もゐるだらう。しかし文化とはさういふものではない。昔流に表現すれば、
一人一人の心の中にある日本精神を守るといふことだ。太古以来純粋を保つてきた一つの文化伝統、一言語伝統を
守つてきた精神を守るといふことだ。しかし、その純粋な日本精神は、目には見えないものであり、形として
示すことができないので、これを守れといつても非常に難しい。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
109 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 23:50:20 ID:Vaj+5Naq
またいはゆる日本精神といふものを日本主義と解釈して危険視する者が多いが、それはあまりにも純粋化して考へ、
精神化し過ぎてゐる。(中略)
だから私は、文化といふものを、そのやうには考へない。文化といふものは、目に見える、形になつた結果から
判断していいのではないかと思ふ。従つて日本精神といふものを知るためには目に見えない、形のない古くさいものと
考へずに、形あるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思へるものを並べてみろ、そしてそれを
端から端まで目を通してみろ、さうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやつて
守ればいいかを考へろ、といふのである。
歌舞伎、文楽なら守つてもいいが、サイケデリックや「おれは死んぢまつただ」などといふ退廃的な文化は
弾圧しなければならない――といふのは政治家の考へることだ。私はさうは考へない。古いもの必ずしも
良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりももつと
退廃的なものがたくさんある。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
110 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 23:52:54 ID:Vaj+5Naq
それらを引つくるめたものが日本の文化であり、日本人の特性がよく表はれてゐるのである。日本精神といふものの
基準はここにある。しかしこれからはづれたものは違ふんだといふ基準はない。良いも悪いも、あるひは古からうが
新しからうが、そこに現はれてゐるものが日本精神なのである。従つてどんなに文化と関係ないと思つてゐる人でも、
文化と関係ない人間はゐない。歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが退廃的であつても、そこには日本人の魂が
入つてゐるのである。
私は文化といふものをそのやうに考へるので、文化は形をとればいいと思ふ。形といふことは行動であることもある。
特攻隊の行動をみてわれわれは立派だなと思ふ。現代青年は「カッコいい」と表現するが、アメリカ人には
「バカ・ボム」といはれるだらう。日本人のいろいろな行動を、日本人が考へることと、西洋人の評価とは
かなり違つてゐる。彼らからみればいかにばか気たことであらうとも、日本人が立派だと思ひ、美しいと思ふことが
たくさんある。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
111 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 23:54:07 ID:Vaj+5Naq
西洋人からみてばからしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、
不道徳なものは全部やめようぢやないか――といふのが文明開化主義である。西洋人からみて浪花節は下品であり、
特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、さういふものを全部否定していつたら、
日本には何が残るか――何も残るものはない。
日本文化といふものは西洋人の目からみて進んでゐるとかおくれてゐるとか判断できるものではないのである。
従つてわれわれは明治維新以来、日本文化に進歩も何もなかつたことを知らなければならない。西洋の後に
追ひつくことが文化だと思つてきた誤りが、もうわかつてもいい頃だと思ふ。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
112 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 23:55:17 ID:Vaj+5Naq
再び防衛問題に戻るが、この文化論から出発して“何を守るか”といふことを考へなければならない。私は
どうしても第一に、天皇陛下のことを考へる。天皇陛下のことをいふとすぐ右翼だとか何だとかいふ人が多いが、
憲法第一条に揚げてありながら、なぜ天皇陛下のことを云々してはいけないのかと反論したい。天皇陛下を政治権力と
くつ付けたところに弊害があつたのであるが、それも形として政治権力としてくつ付けたことは過去の歴史の中で
何度かあつた。しかし、天皇陛下が独裁者であつたことは一度もないのである。それをどうして、われわれは
陛下を守つてはいけないのか、陛下に忠誠を誓つてはいけないのか、私にはその点がどうしても理解できない。
ところが陛下に忠誠を尽くすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもつてゐる国家を裏切るのだといふ
左翼的な考への人が多い。しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきてゐる
文化の象徴である。さういふものに忠誠を尽くすことと同意のものであると私は考へてゐる。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
113 :
名無しさん@3周年:2011/02/08(火) 23:59:37 ID:Vaj+5Naq
なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。日本文化を
守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、政治的偏見に
まどはされずに、「菊と刀」の文化をすべて統一体として守るには、言論の自由を保障する政体が必要で、
共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである。
(中略)
アメリカでいくら黒人暴動が起こつても、黒人暴動で核は使へない。ベトナムでは使へたかもしれないが使はなかつた、
といふことを考へると、日本にこれから危難な起こるとすれば間接侵略形態においてだらう。中共もソ連も海を越えて
攻めてくるかどうかわからないが、さうすると国内戦の様相を考へた場合、一方の政治権力をもつてゐる側も
核を使ふことはできない。その間に反対側の政治勢力に完全に押へられてしまふといふことも、十分あり得るのが
いまの情勢だと思ふ。防衛問題も、ことに陸上自衛隊については、間接侵略にどう対処するかといふことに一番
重要な使命をもつてゐると思ふ。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
114 :
名無しさん@3周年:2011/02/09(水) 00:00:40 ID:tci9FQiE
(中略)
間接侵略においては日本人一人一人の魂がしつかりしてゐたら、日本刀で立ち向つても負けることはないと思ふ。
もちろん小銃、機関銃、無反動砲など、普通科の近代兵器は自衛隊に整備させてゐても、私はやはり市民武装と
いふ形で日本人が日本刀を一本づつ持つことが必要だと思ふ。勿論、ほんたうに日本を守らうと思つてゐない者には
持たせられないことはいふまでもないが……。
私は現在日本刀が美術品として、趣味的に扱はれてゐることに対して、甚だ残念に思つてゐる。日本刀を美術品とか
文化財として珍重するのはをかしなことで、これは人斬り包丁だ――と私は刀屋に冗談話をするのだが、
日本刀のやうに魂であると同時に殺人道具であるといふのは、世界でも稀れなものであらう。
日本刀を持ち出したのは一種の比喩であるが、私は自衛隊の武器は通常兵器でいいが、その筒先をどこに向けるべきか、
といふことこそ問題だと思ふ。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
115 :
名無しさん@3周年:2011/02/09(水) 00:02:00 ID:tci9FQiE
(中略)
これに関して、一説によるとある創価学会の自衛隊員は、「私はいざといふときには上官の命令で弾は撃たない、
池田さんのおつしやつた方に向けて撃つ」といつたといふ。こんな軍隊は珍らしい軍隊で、このやうに、
いざといふときにどつちへ弾が行くのかわからないといふのでは全く困る。
再び魂の問題に戻るが、自衛隊に対しては決して偽善やきれい事であつてはならない。自衛隊は、平和主義の
軍隊であり、平和を守るための軍隊であることに違ひはないが、もつと現実に目覚めて、一人一人高度の思想教育を
行なはなければならない。さうでなければ毛沢東の行なつてゐるあの思想教育に勝てないと思ふ。さうでなければ、
日本の隣にある、このぎりぎりの思想教育を受けた軍隊に勝つことの不可能なことを、私は痛感するのである。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
116 :
名無しさん@3周年:2011/02/09(水) 10:28:23 ID:tci9FQiE
(中略)
ドナルド・キーンといふアメリカ人がおもしろいことをいつてゐる。幕末に来日した外国人旅行記を読むと
「維新前の日本人はアジアでは珍しく正直で勤勉で、清潔好きで非常にいい国民である。ただ一つだけ欠点がある。
それは臆病だ」と書いてゐる。ところがそれから五、六千年後は、臆病な国民どころか大変な国民であることを
世界中に知られたわけだが、それがまたいまでは、再び臆病な日本人に完全に戻つてしまつてゐる――といふのである。
しかし鯖田豊之氏にいはせると、日本人は死を恐れる国民だといつてゐる。これはおもしろい考へ方だと思ふ。
確かにアメリカはベトナム戦争であれだけの死者を出してゐる。日本人だつたら大変な騒ぎだと思ふが、羽田空港などで
戦地に赴くアメリカ兵士の別れの場面を見てゐても、けろりとしてゐるが、日本人だつたらとてもそんな具合に
淡々として戦場に行けるものではない。まづ千人針がつくられる。日の丸のたすきを掛け、涙と歌がついて、
悲壮感に溢れてくる。そのほかいろいろなものが入つてくる。それらが死のジャンプ台にならなければ、どうにも
死ねない国民なのだ。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
117 :
名無しさん@3周年:2011/02/09(水) 10:29:45 ID:tci9FQiE
私はインドへ行つて死の問題を考へさせられたのだが、ベナレスといふ所はヒンズー教の聖地だが、そこでは
人間が植物のやうに死んでいく。死骸がそこらにごろごろあつて、そばでそれを焼いてゐるのに平気でゐる。
これは死ねば生まれ変ると信じてゐるためで、未亡人など、自分も死んだら死んだ亭主に会へるといつて、
病気になるとお経を読んで死を待つてゐる。このインド人のやうな植物的な死に方は、日本人にはとても
真似できないだらう。日本においては死は穢れだとされてゐることもあるが、日本人といふものは非常に死の価値を
高く評価してゐる。だから、たやすく死んでたまるかといふことで、従つて切腹で責任を果たすといふことにも
なるわけだ。
私たちは、さういふ死生観にもとづいて、文化概念としての栄誉大権的な天皇の復活をはからなければならないと思ふ。
繰返へすやうだが、それが日本人の守るべき絶対的主体であるからだ。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
118 :
名無しさん@3周年:2011/02/09(水) 16:16:51 ID:tci9FQiE
私は必ずしも栄誉大権の復活によつて「政治的天皇」が復活するとは信じません。問題は実に簡単なことで、
現在の天皇も保持してをられる文官への栄誉授与権を武官へも横辷りさせるだけのことであり、又、自衛隊法の細則に
規定されてゐるとほり、天皇は儀仗を受けられるのが当然でありながら、一部宮内官僚の配慮によつて、それすら
忌避されてゐるのを正道に戻すだけのことではありませんか。
いはゆるシヴィリアン・コントロールとは政府が軍事に対して財布の紐を締めるといふだけの本旨にすぎないが、
私は日本古来の姿は、文化(天皇)を以て軍事に栄誉を与へつつこれをコントロールすることであると考へます。
三島由紀夫「橋川文三への公開状」より
119 :
名無しさん@3周年:2011/02/09(水) 22:55:13 ID:tci9FQiE
私は民主主義は妥協を産物とした賢明な制度であると思ふが、しかしそれはあくまで技術としての政治制度であり、
これはわれわれの誇りであるのだが、これにはこれなりの限界がある。私は、われわれの守るべきものを民主主義が
保障するとも思はないし、また民主主義を守ることがわれわれの守るべきものを最終的に保障するとも考へてゐない。
それではいつたい何を守るのか。私は日本の歴史と伝統の純粋性を守ることであり、それをしない人間は
日本人ではないと思ふ。文化のタテの連続性を守つていかねばヨコにいくらひろがつても、結局われわれが
日本人としての魂を保持できないのではないか。そして私は天皇のお姿が日本の文化をよくあらはしてゐると思ふ。
天皇は権力ではないと思ふ。権力とは、あるものを拒絶することによつて自分の存在を定立する力であると考へる。
民主主義ではこの権力特有の拒絶の機能を非常ないろんなかたちで薄められてゐるからこそこのやうないろんな問題が
起きてゐるのだが、もし権力といふものが拒絶を本質とするならば、何ものも拒絶しないものが天皇であるといへる。
三島由紀夫「私の自主防衛論」より
120 :
名無しさん@3周年:2011/02/09(水) 22:57:47 ID:tci9FQiE
天皇といふ“鏡”はどんな顔でも映してしまひ、スターリンの“鏡”は自分の気に入らない顔は映らないやうに
できてゐる。日本の文化の全体を天皇といふ“鏡”は包摂してゐる。
日本の歴史をみてわかるやうに天皇は多くの時代日本文化の中心であられた。日本文化のおほらかな、人間性を
あらはした明かるく素直な伝統が天皇の中に受容されてゐる。この文化の象徴である天皇を守るにはどうしたらいいか。
私は、天皇の鏡にもし日本の文化、歴史、伝統とちがつた、大御心といふことのためでないものが映つてきたならば、
それは陛下は拒絶なさることはできないので、国民がそれを拒絶することが忠義であると思ふ。
共産主義が日本の政体を変へて天皇を日本の文化、伝統から引き離し、あるひは日本の文化を破壊して天皇をすら
破壊しようといふ意図を秘めてゐるのであるから、われわれはこれと戦はねばならないと思ふのである。
三島由紀夫「私の自主防衛論」より
121 :
名無しさん@3周年:2011/02/09(水) 22:58:39 ID:tci9FQiE
そして天皇の伝統が絶たれた場合にわれわれの祖先代々の文化の全体性が侵食されてしまふからこそ、それを守つて
戦はねばならない。そのためにはやはりいまの憲法下でも、非常に制約があるけれども陛下があるときには
自衛隊においでになつて閲兵を受けられることも必要であらう。
あるひは国の名誉の中心として文武いづれの名誉の中心も陛下であられるといふかたちをなんとか新憲法下でも
つくつていけることができるんぢやないかと考へるのである。
私は日本を守るとはどういふことか、守るべきものは何なのかといふことについていま青年たちと議論してゐる。
私はまづ手近なところから、自分にできる範囲のことで小さくやつていきたい。すべてそこから始めなければ
何ごとも始まらない。
国民一人一人がいざといふ場合は銃をとつて立ち上がるぐらゐの気持を持つてやらないと将来の日本はえらいことに
なるぞといふ感じを持つてゐる。
三島由紀夫「私の自主防衛論」より
122 :
名無しさん@3周年:2011/02/10(木) 00:13:43 ID:m9B9BfjY
何時も楽しく読ませてもらってます。
誰か知らんけど感謝。
123 :
名無しさん@3周年:2011/02/10(木) 00:45:28 ID:134hm/wM
自演おつ
124 :
名無しさん@3周年:2011/02/10(木) 01:10:12 ID:H7CSWvxV
日本の道徳には統治の思想がないから、
三島が危機感を持つのは理解できるが、
国民には伝わらないだろう。
盾の会のメンバーは三島個人に心酔したのであって
三島思想を理解し、深化するところまでは行かなくて当然。
125 :
名無しさん@3周年:2011/02/10(木) 10:12:39 ID:a6VbhsG1
>>122 こちらこそありがとう。また覗いてください。
126 :
名無しさん@3周年:2011/02/10(木) 11:48:24 ID:a6VbhsG1
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。さう言ふと、バカに
古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に姿を現はすことは
ないのである。老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
存分の働きはしてゐたが、いかにも顔色がすぐれなかつた。
三島由紀夫「現代青年論」より
127 :
名無しさん@3周年:2011/02/10(木) 11:50:10 ID:a6VbhsG1
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は二・二六事件に
欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い道義性の
実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、強姦の罪を
犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが革命の道義性をいかに重んじたかの証左であつて、
毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。
三島由紀夫「現代青年論」より
128 :
名無しさん@3周年:2011/02/10(木) 11:51:17 ID:a6VbhsG1
…一学生の万引き事件、日大紛争における暴力団はだしの残虐なリンチ事件、……これらは学生による政治活動から、
道義性が崩壊してゆくいちじるしい事例である。あとには目的のためには手段をえらばない革命戦術が残つてゐる
だけである。一見、平和戦術をとつてゐる一派も、それ自体が戦術であることが見えすいてゐて、何ら高い道義性を
感じさせることはない。
ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、といふのが、今通りのいい議論だが、私はさう考へない。
青年の荒廃は青年自身の責任であつて、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の源泉に
なるのである。
私の知つてゐる青年たちの中には、たしかに立派な青年もゐる。信ずるに足る青年もゐる。私の知つてゐる
非青年五十人と、青年五十人と公平に比べると、大した差はみとめられない。日本人が全部堕落してゆくとは
とても信じられない。しかし、私は、青年をおだて上げておいて、自分は左ウチハで暮さうといふ気はみぢんも
ないから、無理を承知で自分も青年と一緒にかけまはつてゐるのである。
三島由紀夫「現代青年論」より
129 :
名無しさん@3周年:2011/02/11(金) 00:35:13 ID:Vf8q8D2g
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。
失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、
みんな大笑いする。
僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でも
なんでもない、ただ爆弾持って駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、
ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、百メートルを十六秒以下で
なければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。
ベトコンはやせているから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。
どうして日本のインテリというのは、ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は
重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との関係において。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より
130 :
名無しさん@3周年:2011/02/11(金) 13:08:50 ID:Vf8q8D2g
(大野)氏が、天皇に心をとらへられることを、単に十九世紀の制度の作つた新しい侵略主義的感情だといふならば、
階級が感情を作るといふこの古くさい退屈な理論は、尊皇思想のみの力が明治天皇制を形成したといふ唯心論の
裏返しにすぎない。制度が先か、国民感情が先か、といふ鶏と卵とどちらが先かといふやうな「論争」に
巻き込まれたくない点では、氏も私と同様であらう。
私が特に制度の問題を論ずるに当つて、歴史的「文化的」伝統との関聨を重んじ、このエトス=パトスに重点を
置くのは、文化とは非常に高度な洗練を成立条件としつつ、一方民族の根底的なエトス=パトスの原始性と
切り離されたとたんに、その生命力を失ふやうな繊細な花だといふ考へがあるからである。
三島由紀夫「再び大野明男氏に――制度と『文化的』伝統」より
131 :
名無しさん@3周年:2011/02/11(金) 13:10:40 ID:Vf8q8D2g
高度な宮廷文化(みやび)の保持者として機能しつつ、民族的原質とつねに相関はつてきたものこそ天皇であり、
それを措いて、他に日本民族の最終的なアイデンティフィケーションは不可能であると私は考へる。もちろん、
宮廷文化を除外した日本の歴史も書けるし、民衆文化史も書けるであらう。大野氏の云ふやうに「ええぢやないか」
騒動を中核に置いた民衆の歴史を書くことも可能であらう。しかし、大野氏のやうな考へは、文化から、その最高の
洗練と美と高貴を追ひ出さうとする一種の畸型の情熱に転化することが容易であり、あげくのはては、毛沢東の、
「百姓にわからない文化は文化でない」といふ考へ方や、江青女史の京劇改革の方向へ結びつき、つひには
文化芸術は、ガサツな政治宣伝の道具に使はれてしまふのである。すなはち大野氏は、最初の私の引用にあるやうに、
「革命的であればこそ他のあらゆるものに優越する」といふドグマを、一歩も出ない人だからである。
三島由紀夫「再び大野明男氏に――制度と『文化的』伝統」より
132 :
名無しさん@3周年:2011/02/12(土) 11:34:35 ID:PQezcmRJ
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞がこの
青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。かういふヒステリー症状は、
ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、かれらは何を隠さうと
したのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
133 :
名無しさん@3周年:2011/02/12(土) 11:36:30 ID:PQezcmRJ
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
134 :
名無しさん@3周年:2011/02/12(土) 11:37:55 ID:PQezcmRJ
電線の下を通るときは、西洋の魔法で頭がけがれると云つて、頭上に白扇をかざして通り、あらゆる西欧化に
反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された
西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、
敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、一つの
例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際起つた
もつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、
このやうに純思想的文化的叛乱ではない。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
135 :
名無しさん@3周年:2011/02/12(土) 11:39:55 ID:PQezcmRJ
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと
共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の近代ほど、
光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。私の四十年の歴史の中でも、
前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の二十年は、平和主義の下で、
あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
136 :
名無しさん@3周年:2011/02/12(土) 11:41:43 ID:PQezcmRJ
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、
失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例で
あつた。それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、
ヴィエトナムがどこにあるかさへ知らなかつたのである。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
137 :
名無しさん@3周年:2011/02/12(土) 11:44:02 ID:PQezcmRJ
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中に
あつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
138 :
名無しさん@3周年:2011/02/13(日) 12:10:27 ID:m/4+q29Z
日本とは何か、といふ最終的な答へは、左右の疑似ナショナリズムが完全に剥離したあとでなければ出ないだらう。
安保賛成も反共も、それ自体では、日本精神と何のかかはりもないことは、沖縄即時奪還も米軍基地反対も、
それ自体では、日本精神とかかはりのない点で同じである。そしてまたそのすべてが、どこかで日本的心情と馴れ合ひ、
ナショナリズムを錦の御旗にしてゐる点でも同格である。「反共」の一語をとつても、私はニューヨークで、
トロツキスト転向者の、祖国喪失者の反共屋をたくさん見たのである。私は自民党の生きる道は、真の
リベラリズムと国際連合中心の国際協調主義への復帰であり、先進工業国における共産党の生きる道は、
すつきりしたインターナショナリズムへの復帰しかないと考へる。真にナショナルなものは、そのいづれにも
本質的に欠けてゐるのである。
真にナショナルなものとは何か。それは現状維持の秩序派にも、現状破壊の変革派にも、どちらにも与(くみ)しない
ものだと思はれる。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
139 :
名無しさん@3周年:2011/02/13(日) 12:12:13 ID:m/4+q29Z
現状維持といふのは、つねに醜悪な思想であり、また、現状破壊といふのは、つねに飢ゑ渇いた貧しい思想である。
自己の権力ないし体制を維持しようとするのも、破壊してこれに取つて代らうとするのも、同じ権力意志の
ちがつたあらはれにすぎぬ。権力意志を止揚した地点で、秩序と変革の双方にかかはり、文化にとつてもつとも
大切な秩序と、政治にとつてもつとも緊要な変革とを、つねに内包し保証したナショナルな歴史的表象として、
われわれは「天皇」を持つてゐる。実は「天皇」しか持つてゐないのである。中共の「文化」大革命に決定的に
欠けてゐる要因はこれであり、かれらは高度な文化の母胎として必要な秩序を、強引な権力主義的な政治的秩序で
代行するといふ、方法上の誤りを犯した。文化に積極的にかかはらうとしない自由主義諸国は、この誤りを
犯す心配はない代りに、文化の衰弱と死に直面し、共産主義諸国は、正に文化と政治を接着し、文化に積極的に
かかはらうとする姿勢において、すでに文化を殺してゐる。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
140 :
名無しさん@3周年:2011/02/13(日) 12:14:04 ID:m/4+q29Z
(中略)
最近私は一人の学生にこんな質問をした。
「君がもし、米軍基地闘争で日本人学生が米兵に殺される現場に居合はせたらどうするか?」
青年はしばらく考へたのち答へたが、それは透徹した答へであつた。
「ただちに米兵を殺し、自分はその場で自決します」
これはきはめて比喩的な問答であるから、そのつもりできいてもらひたい。
この簡潔な答へは、複雑な論理の組合せから成立つてゐる。すなはち、第一に、彼が米兵を殺すのは、日本人としての
ナショナルな衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナルな衝動による殺人といへども、殺人の責任は
直ちに自ら引受けて、自刃すべきだ、と考へる。これは法と秩序を重んずる人間的倫理による決断である。
第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持つてゐる。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
141 :
名無しさん@3周年:2011/02/13(日) 12:16:15 ID:m/4+q29Z
なぜなら、基地反対闘争に参加してゐる群衆は、まづ彼の殺人に喝采し、かれらのイデオロギーの勝利を叫び、
彼の殺人行為をかれらのイデオロギーに包みこまうとするであらう。しかし彼はただちに自刃することによつて、
自分は全学連学生の思想に共鳴して米兵を殺したのではなく、日本人としてさうしたのだ、といふことを、
かれら群衆の保護を拒否しつつ、自己証明するのである。第四に、この自刃は、包括的な命名判断
(ベネンヌンクスウルタイル)を成立させる。すなはちその場のデモの群衆すべてを、ただの日本人として包括し、
かれらを日本人と名付ける他はないものへと転換させるであらうからである。
いかに比喩とはいひながら、私は過激な比喩を使ひすぎたであらうか。しかし私が、精神の戦ひにのみ剣を使ふとは
さういふ意味である。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
142 :
名無しさん@3周年:2011/02/13(日) 20:47:42 ID:m/4+q29Z
私は決して平和主義を偽善だとは言はないが、日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、
日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はないと信じてゐる。この国でもつとも危険のない、人に
尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであつた。それ自体としては、別に
非難すべきことではない。しかしかうして知識人のConformity が極まるにつれ、私は知識人とは、あらゆる
Conformity に疑問を抱いて、むしろ危険な生き方をするべき者ではないかと考へた。一方、知識人たち、
サロン・ソシアリストたちの社会的影響力は、ばかばかしい形にひろがつた。母親たちは子供に兵器の玩具を
与へるなと叫び、小学校では、列を作つて番号をかけるのは軍国主義的だといふので、子供たちはぶらぶらと
国会議員のやうに集合するのだつた。
三島由紀夫「『楯の会』のこと」より
143 :
名無しさん@3周年:2011/02/13(日) 20:50:46 ID:m/4+q29Z
それならお前は知識人として、言論による運動をすればよいではないか、と或る人は言ふのであらう。しかし
私は文士として、日本ではあらゆる言葉が軽くなり、プラスチックの大理石のやうに半透明の贋物になり、
一つの概念を隠すために用いられ、どこへでも逃げ隠れのできるアリバイとして使はれるやうになつたのを、
いやといふほど見てきた。あらゆる言葉には偽善がしみ入つてゐた、ピックルスに酢がしみ込むやうに。
文士として私の信ずる言葉は、文学作品の中の、完全無欠な仮構の中の言葉だけであり、前に述べたやうに、
私は文学といふものが、戦ひや責任と一切無縁な世界だと信ずる者だ。これは日本文学のうち、優雅の伝統を
特に私が愛するからであらう。行動のための言葉がすべて汚れてしまつたとすれば、もう一つの日本の伝統、
尚武とサムライの伝統を復活するには、言葉なしで、無言で、あらゆる誤解を甘受して行動しなければならぬ。
Self-justification は卑しい、といふサムラヒ的な考へが、私の中にはもともとひそんでゐた。
三島由紀夫「『楯の会』のこと」より
144 :
名無しさん@3周年:2011/02/13(日) 20:57:24 ID:m/4+q29Z
私は或る内面的な力に押されて、剣道をはじめた。もう十三年もつづけてゐる。竹の刀を使ふこの武士の模擬行動から、
言葉を介さずに、私は古い武士の魂のよみがへりを感じた。
経済的繁栄と共に、日本人の大半は商人になり、武士は衰へ死んでゐた。自分の信念を守るために命を賭けるといふ
考へは、Old-fashioned になつてゐた。思想は身の安全を保証してくれるお守りのやうなものになつてゐた。(中略)
今の学生の叛乱は、ソクラテスらのソフィストが若者をアゴラに閉ぢこめたため、アゴラ自体が叛乱を起した、
といふ感じがする。しかし私は、若者はギュムナシオーンとアゴラを半ばづつ往復しなければならぬと信ずる者であり、
学生ばかりでなく、あらゆる知識人がさうすべきだ、と考へる者だ。言論を以て言論を守るとは、方法上の矛盾であり、
思想を守るのは自らの肉体と武技を以てすべきだ、と考へる者だ。
三島由紀夫「『楯の会』のこと」より
145 :
名無しさん@3周年:2011/02/13(日) 21:00:46 ID:m/4+q29Z
かうして私は自然に、軍事学上の「間接侵略」といふ観念に到達したのである。間接侵略とは、表面的には
外国勢力に操られた国内のイデオロギー戦のことだが、本質的には、(少なくとも日本にとっては)日本といふ国の
Identify を犯さうとする者と、守らうとする者の戦ひだと解せられる。しかもそれは複雑微妙な様相を持ち、
時にはナショナリズムの仮面をかぶつた人民戦争を惹き起し、正規軍に対する不正規軍の戦ひになる。
ところで日本では、十九世紀の近代化以来、不正規軍といふ考へが完全に消失し、正規軍思想が軍の主流を占め、
この伝統は戦後の自衛隊にまで及んでゐる。日本人は十九世紀以来、民兵の構想を持つたことがなく、あの
第二次世界大戦に於てすら、国民義勇兵法案が議会を通過したのは降伏わづか二ヶ月前であつた。日本人は
不正規軍といふ二十世紀の新しい戦争形態に対して、ほとんど正規戦の戦術しか持たなかつた。
三島由紀夫「『楯の会』のこと」より
146 :
名無しさん@3周年:2011/02/14(月) 13:11:53 ID:2OU4T0tV
>>26の前に補足
日本の軍備の制約下では、核兵器は保有を許されてゐないから、安保条約が当然必要になり、自民党のいはゆる
「核の傘の下」に入ることを余儀なくされてゐるわけである。全く現実的な見地でいへば、アメリカの強大な軍備に
守られてこそ、やうやく日本の自主防衛ですらも可能になるといふやうな情況にあることを否定することはできない。
しかし、果たしてこれをもつて日本人は満足するであらうか。ごく素朴な見方をしても、日本人は久しく、自衛隊が
果たして我々自身の軍隊であるかといふことに疑惑を表はしてきた。もし日本が代理戦争のやうなものに巻き
込まれて、自衛隊が出勤し、あるひは国連警察軍の名目の下に、アメリカが出勤するやうなことがあつた場合、
その自衛隊の最高指揮権は名目上、日本の総理大臣になつてゐるけれども、米軍との共同動作がどの段階でなされ、
且つ、その日本軍と米軍との戦略的な観点の相異がどこで調整されて、どこで最終的にコントロールされるかと
いふ問題になれば、人はそれをアメリカ大統領ではないかといふ疑惑を禁じることはできないのである。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
147 :
名無しさん@3周年:2011/02/14(月) 13:13:13 ID:2OU4T0tV
>>28の後に追加
(中略)
自衛隊が間接侵略事態に我々の味方であるといふことは心強いことではあるけれども、同時に自衛隊のそれぞれの
使命を我々の目の前に平時からはつきり分けておき、それによつて我々と自衛隊との間の大きな国民的な紐帯を
確保しておかなければ、いつたん緩急ある時には甚だ危険であるといはなければならない。なぜならば間接侵略事態に
対処する国民の努力と、治安出勤に出た自衛隊との間にすこしでも齟齬ができれば、自衛隊は支配階級あるひは
権力機構あるひは外国勢力の傀儡であるといふ宣伝がたちまちなされて、国民感情の間にヒビが入れられ、その
国民と自衛隊との間の間隙、齟齬、亀裂にこそまさに革命勢力の狙ひが生かされてくるのであらうからである。
したがつて私は平時から自衛隊と国民との間の緊密な紐帯が必要であると考へる者であり、そのためには単なる
自衛隊のファンであつたり支持者であるだけでは足りず、国民が何らかの形で自衛隊の内部に接触し、且つ
自衛隊の訓練を国民的訓練の一部として受けるべきであるといふ考へさへ持つてゐる。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
148 :
名無しさん@3周年:2011/02/14(月) 20:06:32 ID:2OU4T0tV
堀辰雄といふ小説家は胃弱ぢやありませんでしたけれども、肺結核で、昔、薬がない時代ですから病気が長く
続いたんです。堀辰雄の小説は非常にうまいしきれいな小説ですけれども、なんとなく微熱が出てゐる、なんとなく
寝汗が出てゐる。(笑)
よく明治時代の小説にありますが、胸の悪い女の人は美人に見えて、白い頬つぺたにポッと赤みがさしてて
きれいである。堀さんの小説を見ると、いかにも胸の悪い美人といふ感じがするんです。私は小説と肉体との
関係といふものを、これもずいぶん考へました。私も実は昔胃弱で、大蔵省にゐた頃は非常な胃弱でした。
当時から、小説の締め切りが近づくと胃が痛んでしやうがないんで、壁に足をのせて逆立ちして、しばらく
我慢したりしてた。こんなことを続けてゐたら今に肉体的破産である、さう思ひまして私は、自分の身体を鍛へ
直さうと思つたわけです。(中略)
私は、文士といふものは肉体のもうひとつ奥底にあるもので書くんだが、肉体といふものはそれを媒体にして
出てくる大事な媒体だといふふうに考へるんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
149 :
名無しさん@3周年:2011/02/14(月) 20:08:04 ID:2OU4T0tV
小説を書くときには、自分の幼時記憶やら、あるひはもつと生まれる前の記憶もあるかもしれません、人類の
いろんな記憶がわれわれの精神のなかに堆積されてゐる。自分の無意識のなかへ手を突つ込めば、どこまでズルズル
入りこむか分からない。しかしその奥そこに何かがあつて、それが自分に芸術作品を書くやうにそそのかしてゐる。
多少神秘的な考へですけれども、ユンクの言ふやうな集合的無意識、その集合的無意識がある人間に技術を与へて
小説を書くやうに促してゐるんだといふふうに私は考へるわけです。
(中略)書くといふ行為にも肉体が媒体になつてゐるのがはつきりしてゐるんですから、したがつてその媒体に
何かの故障があれば、もつと基にあるものが出てくるときにどこかでひつかかるに違ひない。これは、フィルターで
濾されるやうなものであります。私は、小説家としてなるたけ濾されないで、途中で何かにひつかからないで
出てくるやうに自分の身体をこしらへようと思つたのが、私が体育に精を出した端緒でありました。
三島由紀夫「日本とは何か」より
150 :
名無しさん@3周年:2011/02/14(月) 20:09:01 ID:2OU4T0tV
と申しますのは、前にお話ししたやうに、堀辰雄さんの小説といふものは非常にいいけれども、堀辰雄はどうしても
旋盤工の話は書けない。どんなに頑張つても新宿デモの話を書けない。堀さんの小説の世界といふものは、完全に
限られてゐる。それからまた川端康成さんは、これは非常な胃弱といひますか不眠症の方でありまして、やはり
この方の小説は非常に優雅な美しい小説でありますけれども、川端さんがストライキの小説を書いたといふものは
ひとつもない。さういふ具合に、作家といふものはかなり肉体によつて掣肘されてゐるやうな感じがする。
人間の問題全部に興味を持つのが作家であるとすれば、その媒体でもつてひつかかるものをとらなきやならない。
媒体をなるたけ自由に、透明に自在にしておいて、さうすることによつて媒体の力をフルに使つて媒体以前のもの、
自分のもつとも源泉的なものを表に出さなきやいかんといふふうに考へてきたわけです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
151 :
名無しさん@3周年:2011/02/14(月) 20:10:03 ID:2OU4T0tV
(中略)
そして、日本といふ国が非常に特徴的だと思ふのは、私が日本のことを考へると日本も日本のことを考へて
ゐるんだといふ神秘的な共感を感じるんです。といひますのは、世界の国のなかで日本ほど「自分は何だ、
日本とは何だ」といふことをしよつちゆう問ひつめてきた国はないんぢやなからうか。(中略)
私は、日本といふものは何だといふことを考へますと、日本とは何だと考へることが日本なんだといふふうな結論を
出さざるを得ない。(中略)
そして日本が自分自身に対する問ひかけ、日本とは何だといふ問ひかけは、そのままやはり私個人の問ひかけと
同じであるといふふうに考へるわけです。
そこで、さつき申しあげたやうなふたつの問題がつながつてくる。私は今のやうな時代には、つまりは安保賛成、
反対といふやうな簡単な問題ぢやないんだ、これから日本といふ国は、「日本とは何だ」といふことを非常に
鋭く鋭く、ますます問ひつめられる状況にあると、かう判断するわけです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
152 :
名無しさん@3周年:2011/02/14(月) 20:10:56 ID:2OU4T0tV
安保については、自民党の悪口を言ふやうですが、安保賛成か反対かといふことで私は日本人全部を分けるといふ
考へには賛成ではない。これは、あたかも白人と黒人とにアメリカ人を分けるやうなもんだ。私はやはり、
安保反対か賛成かで分けられないものが日本人のなかにある。それが、日本人が合理的に安保に賛成したはうが
生活が楽であるといふやうな論理算段、理性判断ぢやなくて、情緒判断における選択といふものがどこかにある。
これが七〇年問題のこれから先の大きな問題になるんぢやないかといふことを、私は信じて疑はないんです。
これから一年、来年の六月の安保は自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いて
いくときには、表面上のかたちは安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。しかし私は、
安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
153 :
名無しさん@3周年:2011/02/14(月) 20:13:15 ID:2OU4T0tV
これは単なる文学者の直観といひますか、文学者的ないひ方と思つて聞いていただいて結構なんですが、
私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成と
いふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。
そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。私はこの安保問題が一応方がついたあとに
初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。
そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、アナーキストも出てくるでありませうし、
われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。しかし、われわれは最終的にその問ひかけに
直面するんぢやないかと思ふんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
154 :
名無しさん@3周年:2011/02/14(月) 20:14:17 ID:2OU4T0tV
たまたま私がさういふことを言ひますものですから、こなひだの全学連とのディスカッションで私の隣へ
ヒッピーふうな学生が来まして、ふけだらけの髪の毛が肩まで垂れて、髭を生やして不気味な感じでありましたが、
その男が「三島、お前は可哀さうだ。お前、日本人てとこに、完全に囲ひの中に入つてゐる一種の家畜にすぎない」
「君は一体なんだ」
「俺は日本人ぢやない」
「君はどこか外国で生まれたの?」
「いや、俺は無国籍だ」
「君の戸籍、どうするの?」
「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」
といふんです。私はその顔をいくら眺めても、やはりモンゴリアン的な日本人の風貌をしてをりまして、これは
どう考へても西洋人ぢやないと思つた。
かういふ人たちがこれから増えてくる、「あくまで私は日本人だ」「オレは日本人ぢやない」――さういふ
二種類の人種がこれから日本に出てくる。そのときに向かつて私は自分の文学を用意し、思想を用意し、あるひは
行動を用意する。さういふことしか自分には出来ないんだ。これを覚悟にしたい、さう思つてゐるわけであります。
三島由紀夫「日本とは何か」より
155 :
名無しさん@3周年:2011/02/15(火) 17:21:22 ID:E2dO7RlK
Q――二・二六事件に関してどう考へてゐるか。
三島:十一歳のとき起きたあの事件は、私にたいへん大きな精神的影響を与へた。私がいまも持つてゐる英雄崇拝と
ざせつ感は、すべてあの事件に由来するものです。いふまでもなく私は反乱軍といはれた青年将校の味方で、
のちに反乱軍として糾弾した本がたくさん出たが、さういふたぐひの本を読むと、ハラがたつて破つて捨てた
ほどですよ。その後の軍閥政治であの挙兵が逆用され、すつかり汚されてしまつたが、青年将校たちの行動は、
いはば昭和維新になりうる可能性を持つたものであり、救国の信念に基づく純粋なものでした。
それが反乱軍の汚名を冠せられたのは、陛下を取り巻く卑怯で臆病でずる賢い老臣どもの策謀であり、ひいては
それを受け入れられた陛下ご自身の責任です。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
156 :
名無しさん@3周年:2011/02/15(火) 17:22:34 ID:E2dO7RlK
Q――戦前の「天皇制国家」を唯一の国体と考へるのか。
三島:さうです。天皇が自ら人間宣言をなされてから、日本の国体は崩壊してしまつた。戦後のあらゆるモラルの
混乱はそれが原因です。なぜ、天皇が人間であつてはならぬのか。少なくともわれわれ日本人にとつて神の存在で
なければならないのか。このことをわかりやすく説明すれば、結局「愛」の問題になるのです。
近代国家はかつての農本主義から資本主義国家へ必然的に移行していく。これは避けられない。封建的制度は崩壊し、
近代的工業主義へ、そしていきつくところは、人生の絶望的状態である完全福祉国家とならざるをえないすう勢だ。
そして一方、国家が近代化すればするほど、個人と個人のつながりは希薄になり、冷たいものになるんですね。
かういふ近代的共同体のなかに生きる人間にとつては、愛は不可能になつてしまふ。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
157 :
名無しさん@3周年:2011/02/15(火) 17:23:28 ID:E2dO7RlK
たとへばAがBを愛したと信じても、かういふ社会では、確かめるすべをもたない。逆にBのAに対する愛にしても
さうです。つまり、近代的社会における愛は相互間だけでは成立しないといふことなのです。愛し合ふ二人の他に、
二人が共通にいだいてゐる第三者(媒体)のイメージ――いはば三角形の頂点がなければ、愛は永遠の懐疑に終はり、
ローレンスのいふ永遠に不可知論になつてしまふ。これはキリスト教の考へ方でもあるが、昔からわれわれ日本人には、
農本主義から生まれた「天皇」といふ三角形の頂点(神)のイメージがあり、一人々々が孤独に陥らない愛の原理を
持つてゐた。天皇はわれわれ日本人にとつて絶対的な媒体だつたんです。私は天皇制についてきかれるたびに、
いつも“お祭りは必要なのだから大切にすべきだ”と一言いつてたのは、さういふ意味です。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
158 :
名無しさん@3周年:2011/02/15(火) 17:25:56 ID:E2dO7RlK
Q――現在の皇室について。
三島:私はもちろん天皇主義者だが、そのなかでいふべきことは、はつきりいふのが本当の愛国者だと思ふ。
いまの皇室あり方は非常な危機を内包してゐます。(中略)
皇太子殿下も、たまには防衛大にお出かけになつて、愛国心に燃える青年に菊のタバコをおすすめになつたらどうか。
いまの一本のタバコが将来一億円に値するんです。皇室がたよれるのは結局彼らなんですよ。
陛下についてのご不幸は、まはりに争臣がゐなかつたことです。取り巻きの重臣はすべて英国で教育を受けた者ばかり。
英米の体制が悪いわけではないが、なぜか英国で教育を受けた日本人は日和見主義者で、現状維持にきふきふとする
弱い人間になつてしまふ。ただ一人、例外的人物は吉田茂氏で、占領時代の英米式体制のなかで、英国的思想を
逆用して抵抗したはじめての日本人として象徴的な人物でした。
第二に、青年層に接触される機会がなかつたことですね。(中略)もし、青年たちと接触があれば、あの事件
(二・二六)の底にはなにがあつたかわかつたはずだし、憂国の青年がいだいた真心をあんなに無残にじうりん
なさるはずがなかつたと思ふんです。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
159 :
名無しさん@3周年:2011/02/16(水) 10:40:37 ID:Aq8pKkar
近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元禄には、華美な風俗だけが跋扈してゐる。情念は涸れ、強靭なリアリズムは
地を払ひ、詩の深化は顧みられない。すなはち、近松も西鶴も芭蕉もゐない。われわれの生きてゐる時代が
どういふ時代であるかは、本来謎に充ちた透徹である筈にもかかはらず、謎のない透明さとでもいふべきもので
透視されてゐる。
どうしてかういふことが起つたか、といふことが私の久しい疑問であつた。外延から説明する、工業化や
都市化現象から説明する、人間関係の断絶や疎外から説明する、あらゆる社会心理学的方法や、一方、
精神分析的方法にわれわれは飽きてゐる。それは殺人が起つたあとで、殺人者の生ひ立ちを研究するやうなものだ。
何かが絶たれてゐる。豊かな音色が溢れないのは、どこかで断弦の時があつたからだ。そして、このやうな
創造力の涸渇に対応して、一種の文化主義は世論を形成する重要な因子になつた。正に文化主義は世をおほうて
ゐる。それは、ベトベトした手で、あらゆる文化現象の裏側にはりついてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
160 :
名無しさん@3周年:2011/02/16(水) 10:41:47 ID:Aq8pKkar
文化主義とは一言を以てこれを覆へば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か
喜ばしい人間主義的成果によつて判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、
人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。
フラグメントと化した人間をそのまま表現するあらゆる芸術は、いかに陰惨な題材を扱はうとも、その断片化
自体によつて救はれて、プラザの噴水になつてしまふ。全体的人間の悲惨は、フラグメントの加算からは
証明されないからである。われわれは単なるフラグメントだと思つてわれわれ自身に安心する。
悲惨も、いかなる悲惨であらうとも、断片の範囲を出ないからであり、脱出はわれわれの能力外のところではあるが、
立派にのこされてゐるからであり、われわれの不能に酔ふことと脱出に酔ふこととは一致してゐるからである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
161 :
名無しさん@3周年:2011/02/16(水) 10:42:43 ID:Aq8pKkar
日本文化とは何かといふ問題に対しては、終戦後は外務官僚や文化官僚の手によつてまことに的確な答が与へられた。
それは占領政策に従つて、「菊と刀」の永遠の連環を絶つことだつた。平和愛好国民の、華道や茶道の
心やさしい文化は、威嚇的でない、しかし大胆な模様化を敢てする建築文化は、日本文化を代表するものになつた。
そこには次のやうな、文化の水利政策がとられてゐた。すなはち、文化を生む生命の源泉とその連続性を、
種々の法律や政策でダムに押し込め、これを発電や灌漑にだけ有効なものとし、その氾濫を封じることだつた。
すなはち「菊と刀」の連環を絶ち切つて、市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧する
ことだつた。占領政策初期にとられた歌舞伎の復讐のドラマの禁止や、チャンバラ映画の禁止は、この政策の
もつともプリミティヴな、直接的なあらはれである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
162 :
名無しさん@3周年:2011/02/16(水) 10:44:32 ID:Aq8pKkar
そのうちに占領政策はこれほどプリミティヴなものではなくなつた。禁止は解かれ、文化は尊重されたのである。
それは種々の政治的社会的変革の成功と時期を一にしてをり、文化の源泉へ退行する傾向は絶たれたと考へられた
からであらう。文化主義はこのときにはじまつた。すなはち、何ものも有害でありえなくなつたのである。
(中略)しかしこれはもともと、大正時代の教養主義に培はれたものの帰結であつた。日本文化は外国に対しては
日本の免罪符になり、国内に対しては平和的福祉価値と結合した。福祉価値と文化を短絡する思考は、大衆の
ヒューマニズムに基づく、見せかけの文化尊重主義の基盤になつた。
われわれが「文化を守る」といふときに想像するものは、博物館的な死んだ文化と、天下泰平の死んだ生活との
二つである。その二つは融合され、安全に化合してゐる。その化合物がわれわれを悩ますが、しかし、文化に
対する、ものとしての、文化財としての、文化的遺産としての尊敬は、民主主義国、社会主義国(中共のやうな
極端な例外を除いて)を問はないのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
163 :
名無しさん@3周年:2011/02/16(水) 10:45:37 ID:Aq8pKkar
(中略)
(社会主義的文化政策は)文化の形式と内容は分離可能なもの考へられてをり、形式自体は無害であるから、
これに有用な内容を盛ることができるとされ、極端な場合は江青女史の京劇改革のごときものも可能になる
ところの理論的根拠がほの見えてゐる。
しかし、単にものとして残された安全な文化財については、レニングラード・バレエがソヴエトにとつて
有害でないやうに、歌舞伎も、能も、あらゆる伝統的日本文化も、一応有害ではないのである。それはむしろ
有益な観光資源であり、芸術院会員の歌舞伎俳優は、一転して、忽ち人民芸術家の称号を与へられるであらう。
(中略)アマチュアの創造する文化は、既成職業人の創造する文化よりも、はるかに規制しやすいといふ認識が
ここ(働くものが文化をつくる)には含まれてをり、社会主義国家が発表機関を独占すれば、ことさらな
言論統制を強行しなくても、一般アマチュアの発表慾と虚栄心に訴へかけて、それと引きかへに、内容を
規制することが容易なのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
164 :
名無しさん@3周年:2011/02/16(水) 10:48:01 ID:Aq8pKkar
しかし、社会主義が厳重に管理し、厳格に見張るのは、現に創造されつつある文化についてであるのは言ふ
までもない。これについては決して容赦しないことは、歴史が証明してゐる。(中略)
何らかの政治的規制が文化の衰弱を防ぐといふ口実をゆるすところが、文化自体の包含する矛盾であり、
文化と自由との間の永遠の矛盾である。(中略)
が、いはゆる自由陣営の文化主義と、社会主義国の安全な文化財に対する尊重とは、いづれも一見、伝統の
擁護と保持の外見をとるがゆゑに、もつとも握手しやすい部分であると思はれる。
いづれの立場からも文化は形成された〈もの〉として見られてゐる。その結果何が起るかについては、中世以来の
建築的精華に充ちたパリの破壊を免かれるために、これを敵の手に渡したペタンの行為によくあらはれてゐる。
(中略)国民精神を代償として、パリの保存を購つたのである。このことは明らかに国民精神に荒廃をもたらしたが、
それは目に見えぬ破壊であり、目に見える破壊に比べたら、はるかに恕しうるものだつた!
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
165 :
名無しさん@3周年:2011/02/16(水) 10:49:37 ID:Aq8pKkar
このやうな文化主義は、一度引つくりかへせば、中共文化大革命のやうな目に見えぬ革命精神の形成のために、
目に見える一切の文化を破壊する「逆の文化主義」「裏返しの文化主義」に通じるのであり、それは、ほとんど
一枚の銅貨の裏表である。私はテレヴィジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、
日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによつて
世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、これがそのまま、戦場中の一億玉砕思想に
直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、
保持者自身が全滅し、又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、といふ思想である。
戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のやうに、戦後思想へ伝承されてゐる。このやうな逆文化主義は、前にも
言つたやうに、戦後の文化主義と表裏一体であり、文化といふもののパラドックスを交互に証明してゐるのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
166 :
名無しさん@3周年:2011/02/16(水) 23:59:38 ID:Aq8pKkar
第一に、文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の
無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、
いかに混濁した形をとらうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると
考へられ、従つて、いはゆる芸術作品のみでなく、行動及び行動様式をも包含する。文化とは、能の一つの型から、
月明の夜ニューギニアの海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも
包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する。源氏物語から現代小説まで、万葉集から前衛短歌まで、中尊寺の
仏像から現代彫刻まで、華道、茶道から、剣道、柔道まで、のみならず、歌舞伎からヤクザのチャンバラ映画まで、
禅から軍隊の作法まで、すべて「菊と刀」の双方を包摂する、日本的なものの透かし見られるフォルムを斥(さ)す。
文学は、日本語の使用において、フォルムとしての日本文化を形成する重要な部分である。
三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
167 :
名無しさん@3周年:2011/02/17(木) 00:00:35 ID:frMlaES8
日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない。日本文化は、行動様式自体を
芸術作品化する特殊な伝統を持つてゐる。武道その他のマーシャル・アートが茶道や華道の、短い時間のあひだ
生起し継続し消失する作品形態と同様のジャンルに属してゐることは日本の特色である。武士道は、このやうな、
倫理の美化、あるひは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。能や歌舞伎に発する芸能の型の重視は、
伝承のための手がかりをはじめから用意してゐるが、その手がかり自体が、自由な創造主体を刺戟するフォルム
なのである。フォルムがフォルムを呼び、フォルムがたえず自由を喚起するのが、日本の芸能の特色であり、
一見もつとも自由なジャンルの如く見える近代小説においても、自然主義以来、そのときどきの、小説的フォルムの
形成に払はれた努力は、無意識ながら、思想形成に払はれた努力に数倍してゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
168 :
名無しさん@3周年:2011/02/17(木) 00:01:44 ID:frMlaES8
第二に、日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである。西欧ではものとしての文化は主として
石で作られてゐるが、日本のそれは木で作られてゐる。オリジナルの破壊は二度とよみがへらぬ最終的破壊であり、
ものとしての文化はここに廃絶するから、パリはそのやうにして敵に明け渡された。
(中略)
このもつとも端的な例を伊勢神宮の造営に見ることが出来る。持統帝以来五十九回に亘る二十年毎の式年造営は、
いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであつて、オリジナルはその時点においてコピーに
オリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。大半をローマ時代のコピーに
たよらざるをえぬギリシア古典期の彫刻の負うてゐるハンディキャップと比べれば、伊勢神宮の式年造営の
文化概念のユニークさは明らかであらう。歌道における「本歌取り」の法則その他、この種の基本的文化概念は
今日なほわれわれの心の深所を占めてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
169 :
名無しさん@3周年:2011/02/17(木) 00:02:51 ID:frMlaES8
このやうな文化概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神(あまてらすおほみかみ)と
オリジナルとコピーの関係にはないところの天皇制の特質と見合つてゐるが、これについては後に詳述する。
第三に、かくして創り出される日本文化は、創り出す主体の側からいへば、自由な創造的主体であつて、型の
伝承自体、この源泉的な創造的主体の活動を振起するものである。これが、作品だけではなく、行為と生命を
包含した文化概念の根底にあるもので、国民的な自由な創造的主体といふ源泉との間がどこかで絶たれれば、
文化的な涸渇が起るのは当然であつて、文化の生命の連続性(その全的な容認)といふ本質は、弁証法的発展
乃至進歩の概念とは矛盾する。なぜならその創造主体は、歴史的条件の制約をのりこえて、時に身をひそめ、
時に激発して(偶然にのこされた作品の羅列による文化史ではなくて)、国民精神の一貫した統一的な文化史を
形成する筈だからである。
三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
170 :
名無しさん@3周年:2011/02/17(木) 19:14:56 ID:frMlaES8
日本人にとつての日本文化は次のやうな三つの特質を有することになるが、これはフランス人にとつての
フランス文化も、同種の特質を有すると考へてよからう。すなはち国民文化の再帰性と全体性と主体性である。
真のギリシア人のゐないギリシアに残された廃墟は、ギリシア人にとつては、そこから自己の主体へ再帰する
何ものもない美の完結した〈もの〉であつて、ギリシアの廃墟からの文化の生命の連続性を感じうるのは、
むしろヨーロッパ人の特権になつてゐる。しかし日本人にとつての日本文化とは、源氏物語が何度でも現代の
われわれの主体に再帰して、その連続性を確認させ、新しい創造の母胎となりうるやうに、ものとしての
それ自体の美学的評価をのりこえて、連続性と再帰性を喚起する。これこそが伝統と人の呼ぶところのものであり、
私はこの意味で、明治以来の近代文学史を古典文学史から遮断する文学史観に大きな疑問を抱くものである。
文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返してくる、といふ認識に
他ならない。
三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より
171 :
名無しさん@3周年:2011/02/17(木) 19:15:57 ID:frMlaES8
又、「菊と刀」のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと
容認することが、文化の全体性の認識にとつて不可欠であつて、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の
文化政策的理念に抗するところのものである。文化はまるごとみとめ、これをまるごと保持せねばならぬ。
文化には改良も進歩も不可能であつて、そもそも文化に修正といふことはありえない。これがありうるといふ
妄信は戦後しばらくの日本を執拗に支配してゐた。
又、文化は、ぎりぎりの形態においては、創造し保持し破壊するブラフマン・ヴィシュヌ・シヴァのヒンズー三神の
三位一体のやうな主体性においてのみ発現するものである。これについて、かつて戦時中、丹羽文雄氏の
「海戦」を批判して、海戦の最中これを記録するためにメモをとりつづけるよりも、むしろ弾丸運びを
手つだつたはうが真の文学者のとるべき態度だと言つた蓮田善明氏の一見矯激な考へには、
深く再考すべきものが含まれてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より
172 :
名無しさん@3周年:2011/02/17(木) 19:17:36 ID:frMlaES8
それが証拠に、戦後ただちに海軍の暴露的小説「篠竹」を書いた丹羽氏は当時の氏の本質は精巧なカメラであつて、
主体なき客観性に依拠してゐたことを自ら証明したからである。文学の主体性とは、文化的創造の主体の自由の
延長上に、あるひは作品、あるひは行動様式による、その時、その時の、最上の成果へ身を挺することであるべき
だからである。そして日本文化は、そのためのあらゆる文化的可能性をのこしてゐるからである。
以上三つの再帰性、全体性、主体性による文化概念の定義は、おのづから文化を防衛するにはいかにあるべきか、
文化の真の敵は何かといふ考察を促すであらう。
三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より
173 :
もずい:2011/02/17(木) 20:09:33 ID:03oO8Wst
174 :
名無しさん@3周年:2011/02/18(金) 22:49:11 ID:M4qulfsV
体を通してきて、行動様式を学んで、そこではじめて自分のオリジナルをつかむといふ日本人の文化概念、
といふよりも、文化と行動を一致させる思考形式は、あらゆる政治形態の下で、多少の危険性を孕むものと
見られてゐる。政治体制の掣肘の甚だしい例は戦時中の言論統制であるが、源氏を誨淫の書とする儒学者の思想は、
江戸幕府からずつとつづいてゐた。それはいつも文化の全体性と連続性をどこかで絶つて工作しようといふ政策で
あつた。しかし文化自体を日本人の行動様式の集大成と考へれば、それをどこかで絶つて、ここから先はいけない、
と言ふことには無理がある。努力はむしろつねに、全体性と連続性の全的な容認と復活による、文化の回生に
向けられるべきなのであるが、現代では、「菊と刀」の「刀」が絶たれた結果、日本文化の特質の一つでもある、
際限もないエモーショナルなだらしなさが現はれてをり、戦時中は、「菊」が絶たれた結果、別の方向に欺瞞と
偽善が生じたのであつた。つねに抑圧者の側のヒステリカルな偽善の役割を演ずることは、戦時中も現在も
変りがない。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
175 :
名無しさん@3周年:2011/02/18(金) 22:50:30 ID:M4qulfsV
ものとしての文化の保持は、中共文化大革命のやうな極端な例を除いては、いかなる政体の文化主義に委ねて
おいても大して心配はない。文化主義はあらゆる偽善をゆるし、岩波文庫は「葉隠」を復刻するからである。
しかし、創造的主体の自由と、その生命の連続性を守るには政体を選ばなければならない。ここに何を守るのか、
いかに守るのか、といふ行動の問題がはじまるのである。
守るとは何か? 文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守らうといふ企図は必ず失敗するか、単に
目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに剣の原理である。
守るといふ行為には、かくて必ず危険がつきまとひ、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。平和を守るには
つねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである。
文化主義はこのパラドックスを回避して、自らの目をおほふ者だといへよう。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
176 :
名無しさん@3周年:2011/02/18(金) 22:52:15 ID:M4qulfsV
(中略)力が倫理的に否定されると、次には力そのものの無効性を証明する必要にかられるのは、実は恐怖の
演ずる一連の心理的プロセスに他ならない。(中略)そこ(文化主義が暴力否定から国家権力の最終的否定に
陥る経路)では「文化」と「自己保全」とが、同じ心理的メカニズムの中で動いてゐる。すなはち、文化と
人文主義的福祉価値とは同義語になるのである。
かくて、文化主義の裡にひそむ根底的エゴイズムと恐怖の心理機構は、自己の無力を守るために、他者の力を
見ないですまさうとするヒステリックな夢想に帰結する。
冷徹な事実は、文化を守るためには、他のあらゆるものを守ると同様に力が要り、その力は文化の創造者保持者
自身にこそ属さなければならぬ、といふことである。これと同時に、「平和を守る」といふ行為と方法が、
すべて平和的でなければならぬといふ考へは、一般的な文化主義的妄信であり、戦後の日本を風靡してゐる
女性的没論理の一種である。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
177 :
名無しさん@3周年:2011/02/18(金) 22:53:50 ID:M4qulfsV
(中略)
もし守るべき対象の現状が完璧であり、博物館の何百カラットのダイヤのやうに、守られるだけの受動的存在で
あるならば、すなはち守るべき対象に生命の発展の可能性と主体が存在しないならば、このやうなものを守る行為は、
パリ開城のやうに、最終的には敗北主義か、あるひは、守られるべきものの破壊に終るであらう。従つて
「守る」といふ行為にも亦、文化と同様に再帰性がなければならない。すなはち守る側の理想像と守られる側の
あるべき姿に、同一化の機縁がなければならない。さらに一歩進んで、守る側の守られる側に対する同一化が、
最終的に成就される可能性がなければならない。博物館のダイヤと護衛との間にはこのやうな同一化の可能性は
ありえず、この種の可能性にこそ守るといふ行為の栄光の根拠があると考へられる。国家の与へうる栄光の根拠も、
この心理機構に基づく。かくて「文化を守る」といふ行為には、文化自体の再帰性と全体性と主体性への、
守る側の内部の創造的主体の自由の同一化が予定されてをり、ここに、文化の本質的な性格があらはれてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
178 :
名無しさん@3周年:2011/02/18(金) 22:55:59 ID:M4qulfsV
すなはち、文化はその本質上、「守る行為」を、文化の主体(といふよりは、源泉の主体に流れを汲むところの
創造的個体)に要求してゐるのであり、われわれが守る対象は、思想でも政治体制でもなくて、結局このやうな意味の
「文化」に帰着するのである。文化自体が自己放棄を要求することによつて、自己の超越的契機になるのは
この地点である。
従つて、文化は自己の安全を守るといふエゴイズムからの脱却を必然的に示唆する。現在、平和憲法を守ることが、
一方では、階級闘争の錦の御旗になり、闘争とは縁のない、感情的平和主義者、日和見主義者、あらゆる
戦ひの放棄による自己保全を夢みるマイ・ホーム主義者、戦争に対する生理的嫌悪に固執する婦人層などの、
自己保全派の支持層に広汎に支へられてゐるといふ事情は、イデオロギッシュな自己放棄派が、心情的自己保全派に
支持されてゐるといふ矛盾を犯してゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
179 :
名無しさん@3周年:2011/02/19(土) 23:53:49.82 ID:EgfkAStR
文化における生命の自覚は、生命の法則に従つて、生命の連続性を守るための自己放棄といふ衝動へ人を促す。
自我分析と自我への埋没といふ孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を
成就すると考へられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このやうな献身的契機を含まぬ文化の、
不毛の自己完結性が、「近代性」と呼ばれたところのものであつた。そして自我滅却の栄光の根拠が、守られるものの
死んだ光輝にあるのではなくて、活きた根源的な力(見返す力)に存しなければならぬ、といふことが、文化の
生命の連続性のうちに求められるのであれば、われわれの守るべきものはおのづから明らかである。かくて、
創造することが守ることだといふ、主体と客体の合一が目賭されることは自然であらう。文武両道とはそのやうな
思想である。現状肯定と現状維持ではなくて、守ること自体が革新することであり、同時に、「生み」「成る」
ことなのであつた。
三島由紀夫「文化防衛論 創造することと守ることの一致」より
180 :
名無しさん@3周年:2011/02/19(土) 23:56:04.90 ID:EgfkAStR
さて、守るとは行動であるから、一定の訓練による肉体的能力を具へねばならぬ。台湾政府の要人が、多く
少林寺拳法の達人であると私はきいたが、日本の近代文化人の肉体鍛錬の不足と、病気と薬品のみを通じて肉体に
関心を持つ傾向は、日本文学を痩せさせ、その題材と視野を限定した。私は、明治以来のいはゆる純文学に、
剣道の場面が一つもあらはれないことを奇異に感じる。(中略)肺結核の登場人物は減少したが、依然として、
そこには不眠症患者、ノイローゼ患者、不能者、皮下脂肪の沈積したぶざまな肉体、癌患者、胃弱体質、感傷家、
半狂人、などの群がり集まつた天国なのである。戦ふことのできる人間は極めて稀である。病気及び肉体的不健康が
形而上学的意味を賦与されたロマンティスムから世紀末にいたる古い固定観念は、一向癒やされてゐないのみならず、
こんな西欧的観念は、時には時世に媚びて、民俗学的仮装であらはれたりする。このことが行動を不当に
蔑視させたり、危険視させたり、あるひは逆に過大評価させたりする弱者の生理的理由にさへなつてゐるのである。
三島由紀夫「文化防衛論 創造することと守ることの一致」より
181 :
名無しさん@3周年:2011/02/21(月) 11:17:13.87 ID:CBuiw7JY
さて、「菊と刀」を連続させ、もつとも崇高なものから卑近なものにまで及び、文化主義者のいはゆる「危険性」を
避けないところの文化概念の母胎は、何らかの共同体でなければならないが、日本の共同体原理は戦後バラバラに
されてしまつた。血族共同体と国家との類縁関係はむざんに絶たれた。しかしなほ共同体原理は、そこかしこで、
エモーショナルな政治反応をひきおこす最大の情動的要素になつてゐる。それが今日、民族主義と呼ばれる
ところのものである。よかれあしかれ、新しい共同体原理がこれを通して呼び求められてゐることは明らかであらう。
戦後の民族主義はほぼ四段階の経過を辿つたといふのが、私の大まかな観察である。
戦後しばらく、占領下の民族主義は国家観念の明らかな崩壊の状況下に社会革命なるものと癒着してゐるやうな
外見を呈した。(中略)吉田内閣は、国民総体の欺瞞へのよろこびを代表してゐた。占領に対する欺瞞的抵抗が、
民族主義のひそかな、語られざる満足になり、一方、大声の、公然たる民族主義は、革命の空想と癒着した。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
182 :
名無しさん@3周年:2011/02/21(月) 11:18:20.76 ID:CBuiw7JY
(中略)
池田内閣のあのやうなふしだらな消費政策がはからざる逆効果をもたらし、オリンピックにおいて、平和憲法と
民族主義との戦後最大の握手が国家の司祭によつて成功した。これは一つの国家による、そして国民による、
民族主義的達成のピークであつた。しかし安保条約下における民族主義といふ制約は、民族主義そのものの質の
変化を正にこのときひそかに要求してゐた。佐藤内閣は、いろんな面で、「正直な内閣」たらざるをえぬ宿命を
担つてゐた。国会の防衛論争が正に破綻に瀕せんとする寸前に、オリンピック選手円谷の自刃が起つたことは
象徴的である。国家権力は、再び、民族主義に、それのみが国家が民族主義に寄与することのできる贈物で
あるところの国家的栄冠を与へることに失敗しつつある。
第三次の民族主義は、エンタープライズ事件を一つの曲り角として、再び「ナショナリズムの糖衣をかぶつた
インターナショナリズム」の登場を許したと思はれる。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
183 :
名無しさん@3周年:2011/02/21(月) 11:19:25.29 ID:CBuiw7JY
エンタープライズ事件における三派全学連の行動は、日本におけるナショナリズムとインターナショナリズムの
「見る者」と「見られる者」の分離を明確にした注目すべきモメントを形成した。すなはち、米軍基地の存在が
過去の自民党政府の民族主義の昂揚によつて却つて、自立の感情を刺戟し、国民心理に無形の負担を感ぜしめ、
又、国会の防衛論争において、「自主防衛」の具体的方策を執拗に問はれた佐藤首相が、「自主防衛とは
すなはち三次防を行ふことだ」(十二月九日国会答弁)と答へた瞬間に、論争はその論理的発展を失つて単なる
政争の場面へ顛落し、国民の自主防衛意識は精神的支柱を失つて政治的プラグマティズムへ直結され、却つて
米軍基地の柵をのりこえた日本青年といふ象徴的事件が、国民のエモーショナルな欲求の一斑を満足させて、
民族主義を一つの曲り角へ導いたのである。このやうなターニング・ポイントは、実はヴィエトナム戦争によつて
長期間に養成されたものであつた。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
184 :
名無しさん@3周年:2011/02/21(月) 11:20:48.57 ID:CBuiw7JY
すなはち、ヴィエトナム戦争への感傷的人道主義的同情は、民族主義とインターナショナリズムの癒着を無意識の
うちに醸成し、反政府的感情とこれが結合して、一つの類推を成立させた。類推とは、他民族の自立感情に対する
感情移入を以て、自民族の自立感情のフラストレーションの解決をはかるといふ代償行為である。そこでは
厳密に言つて、近代国家の形成を経ぬヴィエトナムの民族主義とわが民族主義との歴史的諸条件の差異、
民族主義にとつての本質的な差異は看過されてをり、又、インターナショナリズムの連帯と同情や感傷による
連帯との本質的な弁別は、無視されるか、あるひはカヴァーされてゐる。(中略)
彼ら(三派全学連)は上陸した米軍兵士を殺すわけでもなく、基地内の米軍兵士に射たれたわけでもなかつた。
ただ強引に「見られる民族主義」を演じるといふその象徴行為は、彼らの「作られた民族主義」の側面を露呈した。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
185 :
名無しさん@3周年:2011/02/21(月) 11:22:08.26 ID:CBuiw7JY
インターナショナリズムによつて国家を否定し、ナショナリズムによつて民族を肯定しようといふその政治目的は、
その否定と肯定が同義語になるやうな決定的モメント、すなはち革命を暗示するには足りず、却つて、その分離の
様相を明確にしたのである。(中略)
「かれら」の文化は、民族主義とインターナショナリズムの国家超克との結合点としてとらへられるであらう。
これは文化主義のもつとも先鋭な政治的利用の方式であり、文化主義そのものが内包してゐる「人類の文化」概念の、
民族主義的下部構造からの再構成である。この種の動きは、小規模ではあるが、日本の新劇運動に深く浸潤してゐる。
その依つて立つ共同体理念である民族主義自体が、共同体の意味の移管を暗示するやうに「作られて」ゐるのである。
しかし、何はともあれ、共産主義にとつてもファシズムにとつても、もつとも利用しやすい民族主義が、目下の
ところ、国家に代つて共同体意識の基本単位と目されてゐるだけに、民族主義のみに依拠する危険は日ましに
募つてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
186 :
名無しさん@3周年:2011/02/22(火) 00:45:13.06 ID:m6zal5BW
民族主義とは、本来、一民族一国家、一個の文化伝統・言語伝統による政治的統一の熱情に他ならない。(中略)
では、日本にとつての民族主義とは何であらうか? 自主独立へのエモーショナルな熱望は、必ずしも民族主義と
完全に符合するわけではない。(中略)言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげて
をり、われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかつてゐる。そして皮肉なことには、敗戦によつて
現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける異民族問題をほとんど持たなくなり、アメリカのやうに一部民族と
国家の相反関係や、民族主義に対して国家が受け身に立たざるをえぬ状況といふものを持たないのである。
従つて異民族問題をことさら政治的に追及するやうな戦術は、作られた緊張の匂ひがするのみならず、国を
現実の政治権力の権力機構と同一し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買辧政権と規定することに
熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力めるのである。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
187 :
名無しさん@3周年:2011/02/22(火) 00:46:11.59 ID:m6zal5BW
しかし前にも言つたやうに、日本には、現在、シリアスな異民族問題はなく、又、一民族一文化伝統による
政治的統一への悲願もありえない。それは日本の歴史において、すでに成しとげられてゐるものだからである。
もしそれがあるとすれば、現在の日本を一民族一文化伝統の政治的統一を成就せぬところの、民族と国との
分離状況としてとらへてゐるのであり、民族主義の強調自体が、この分離状況の強調であり、終局的には、
国を否定して民族を肯定しようとする戦術的意図に他ならない。すなはち、それは非分離を分離へ導かうとする
ための「手段としての民族主義」なのである。
(中略)
前述したやうに、第三次の民族主義は、ヴィエトナム戦争によつて、論理的な継目をぼかされながら育成され、
最後に分離の様相を明らかにしたが、ポスト・ヴィエトナムの時代は、この分離を、沖縄問題と朝鮮人問題に
よつて、さらに明確にするであらう。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
188 :
名無しさん@3周年:2011/02/22(火) 00:48:44.89 ID:m6zal5BW
社会的な事件といふものは、古代の童話のやうに、次に来るべき時代を寓意的に象徴することがままあるが、
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。それは
三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する異民族」
といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。第一の問題は、
沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の平和憲法と
世論による足カセ手カセを、露骨に表象してゐた。そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに
変容させられる日本民族の相反するイメージ――外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふ
イメージと、異民族の歴史の罪障感によつて権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら
典型的に表現されたのである。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
189 :
名無しさん@3周年:2011/02/22(火) 00:49:40.04 ID:m6zal5BW
前者の被害者イメージは、朝鮮民族と同一化され、後者の加害者イメージは、ヴィエトナム戦争を遂行する
アメリカのイメージにだぶらされた。
しかし戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、
明らかに政治的意図があつて、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
そこには、しかし、日本の民族主義との矛盾が論理的に存在するにもかかはらず、ヴィエトナム戦争とアメリカの
黒人暴動とが、かかる「手段としての民族主義」を、ヒューマニズムの仮面の下に、正当化したのである。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
190 :
名無しさん@3周年:2011/02/22(火) 00:50:47.51 ID:m6zal5BW
手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、
民族主義を領略しようと企てるであらう。しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます
顕在化し、同時に、ポスト・ヴィエトナムの情勢は、保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の
左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
191 :
名無しさん@3周年:2011/02/22(火) 23:23:33.06 ID:m6zal5BW
叙上の如く、日本では戦後真の異民族問題はなく、左右いづれの側にとつても、同民族の合意の形成が目標で
あることはいふまでもないが、同民族の合意とは、少なくとも日本においては、日本がその本来の姿に目ざめ、
民族目的と国家目的が文化概念に包まれて一致することである。その鍵は文化にだけあるのである。又、その
文化の母胎としての共同体原理も、このやうな一致にしかない。
そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念であるが、ここには詩と政治との
もつとも古い対立がひそんでゐる。文化を全体的に容認する政体は可能かといふ問題は、ほとんど、エロティシズムを
全体的に容認する政体は可能かといふ問題に接近してゐる。
左右の全体主義の文化政策は、文化主義と民族主義の仮面を巧みにかぶりながら、文化それ自体の全体性を敵視し、
つねに全体性の削減へ向ふのである。言論自由の弾圧の心理的根拠は、あらゆる全体性に対する全体主義の
嫉妬に他ならない。全体主義は「全体」の独占を本質とするからである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
192 :
名無しさん@3周年:2011/02/22(火) 23:24:43.81 ID:m6zal5BW
文化の全体性には、時間的連続性と空間的連続性が不可欠であらう。前者は伝統と美と趣味を保障し、後者は
生の多様性を保障するのである。言論の自由は、前者についてはともかく、後者については、間然するところの
ない保護者である。
もちろん言論の自由は絶対的価値ではなく、それ自体が時には文化を腐敗させることは現下の日本に見るとほりで
あり、ともすると言論の自由が文化の創造的伝統的性格とヒエラルヒーを失はせ、文化の全体性の平面のみを
支持して、全体性の立体性を失はせる欠点があるけれども、相対的にはこれ以上よいものは見当らず、これ以上、
相手方に対する思想的寛容といふ精神的優越性を保たせるものはない。かくて言論の自由は文化の全体性を
支へる技術的要件であると共に、政治的要件である。言論の自由を保障する政体の選択が、プラクティカルな
選択として最善のものとなるのはこの理由からである。文化の第一の敵は、言論の自由を最終的に保障しない
政治体制に他ならない。
三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
193 :
名無しさん@3周年:2011/02/22(火) 23:25:42.25 ID:m6zal5BW
しかし、言論の自由は本質的に無倫理的であり、それ自体が相対主義の上に成立つた政治技術的概念であるから、
いはゆる自由陣営に属することの相対的選択を、国是と同一視する安保条約の思想は、薄弱な倫理的根拠をしか
持ちえぬのは当然であり、それは今後ますますその力を失ふであらう。
言論の自由と代議制民主主義とが折れ合ふのは、正にこの相対主義的理念に於てであり、いかなる汚ない言葉も
一度は言はれねばならない、といふところから精神の尊卑をおのづから弁別せしめるのであるが、その最終的
勝利にはいつも時間がかかり、過程においては、趣味の低下、美の平価切下を免れない。それは言論の自由が
本質的に、文化の全体性のうち、その垂直面、すなはち時間的連続性には関はらないからである。しかも自由の
非自由に対する優位は、非自由の速攻性と外面的権威に対してハンディキャップを負ふ一方、自由そのものが、
政治宣伝技術上イデオロギー化のきはめて困難な政治概念であるため、危機に臨んでは、無理なイデオロギー化に
よつて足をとられやすい。
三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
194 :
名無しさん@3周年:2011/02/22(火) 23:27:02.52 ID:m6zal5BW
そこで自由諸国といへども、内部から全体主義に蝕まれる惧れをなしとしないのは、幾多の実例に見るとほりである。
「民主政治の信者は……共産主義者よりも、自分の考えがちなことすべてについて無意識である」とパーキンソンは
その「政治法則」の中で言つてゐる。「たとへば、彼らの宗教はかならずしも一冊の聖なる書物による宗教ではない。
彼らは、あいまいな歴史知識にもとづいて議論しがちだ。(中略)政治の理論と実際を討議するどんな場合にも
君主政治もしくは寡頭政治にまったく長所がないと否定するのは、バカげたことであらう」
かくて言論の自由が本来保障すべき、精神の絶対的優位の見地からは、文化共同体理念の確立が必要とされ、
これのみがイデオロギーに対抗しうるのであるが、文化共同体理念は、その絶対的倫理的価値と同時に、文化の
無差別包括性を併せ持たねばならぬ。ここに文化概念としての天皇が登場するのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
195 :
名無しさん@3周年:2011/02/23(水) 00:06:22.05 ID:EUtDnBMw
三島由紀夫は要すれば「基地外」デス。
196 :
名無しさん@3周年:2011/02/23(水) 01:06:32.36 ID:EUtDnBMw
御意
197 :
名無しさん@3周年:2011/02/23(水) 16:27:33.52 ID:9FfeA5n/
国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇は、日本の
近代史においては、一度もその本質である「文化概念」としての形姿を如実に示されたことはなかつた。
このことは明治憲法国家の本質が、文化の全体性の侵蝕の上に成立ち、儒教道徳の残滓をとどめた官僚文化によつて
代表されてゐたことと関はりがある。私は先ごろ仙洞御所を拝観して、こののびやかな帝王の苑池に架せられた
明治官僚補綴の石橋の醜悪さに目をおほうた。
すなはち、文化の全体性、再帰性、主体性が、一見雑然たる包括的なその文化概念に、見合ふだけの価値自体
(ヴェルト・アン・ジッヒ)を見出すためには、その価値自体からの演繹によつて、日本文化のあらゆる末端の
特殊事実までが推論されなければならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な立憲君主政体へと
押しこめられて行き、政治的機構の醇化によつて文化的機能を捨象して行つたがために、つひにかかる演繹能力を
持たなくなつてゐたのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
198 :
名無しさん@3周年:2011/02/23(水) 16:29:02.58 ID:9FfeA5n/
雑多な、広汎な、包括的な文化の全体性に、正に見合ふだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の
真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない。
かつて建武中興が後醍醐天皇によつて実現したとき、それは政権の移動のみならず、王朝文化の復活を意味してゐた。
(中略)
このやうな文化概念としての天皇制は、文化の全体性の二要件を充たし、時間的連続性が祭祀につながると共に、
空間的連続性は時には政治的無秩序をさへ容認するにいたることは、あたかも最深のエロティシズムが、一方では
古来の神権政治に、他方ではアナーキズムに接着するのと照応してゐる。
「みやび」は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであつたが、非常の時には、「みやび」はテロリズムの
形態をさへとつた。すなはち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、
無秩序の側へも手をさしのべてゐたのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
199 :
名無しさん@3周年:2011/02/23(水) 16:29:59.57 ID:9FfeA5n/
もし国家権力や秩序が、国と民族を分離の状態に置いてゐるときは、「国と民族の非分離」を回復せしめようと
する変革の原理として、文化概念たる天皇が作用した。孝明天皇の大御心に応へて起つた桜田門の変の義士たちは、
「一筋のみやび」を実行したのであつて、天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきで
あつたが、西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪つてゐた。
明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによつて(明治元年十月「氷川神社を武蔵国の鎮守に為し
給へる詔」には、祭政一致の文字が歴然と見える。――西角井正慶氏著「古代祭祀と文学」)、時間的連続性を
充たしたが、政治的無秩序を招来する危険のある空間的連続性には関はらなかつた。すなはち言論の自由には
関はりなかつたのである。政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に
犠牲に供せざるをえなかつた。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
200 :
名無しさん@3周年:2011/02/23(水) 16:31:12.51 ID:9FfeA5n/
そして戦後のいはゆる「文化国家」日本が、米占領下に辛うじて維持した天皇制は、その二つの側面をいづれも
無力化して、俗流官僚や俗流文化人の大正的教養主義の帰結として、大衆社会化に追随せしめられ、いはゆる
「週刊誌天皇制」の域にまでそのディグニティーを失墜せしめられたのである。天皇と文化は相関はらなくなり、
左右の全体主義に対抗する唯一の理念としての「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」の
イメージの復活と定立は、つひに試みられることなくして終つた。かくて文化の尊貴が喪はれた一方、復古主義者は
単に政治概念たる天皇の復活のみを望んで来たのであつた。
とはいへ、保存された賢所の祭祀と御歌所の儀式の裡に、祭司かつ詩人である天皇のお姿は活きてゐる。御歌所の
伝承は、詩が帝王によつて主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかはりなく、民衆詩を
「みやび」を以て統括するといふ、万葉集以来の文化共同体の存在証明であり、独創は周辺へ追ひやられ、
月並は核心に輝いてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
201 :
名無しさん@3周年:2011/02/25(金) 00:37:49.89 ID:MXo0czwf
民衆詩はみやびに参与することにより、帝王の御製の山頂から一トつづきの裾野につらなることにより、国の
文化伝統をただ「見る」だけではなく、創ることによつて参加し、且つその文化的連続性から「見返」される
といふ栄光を与へられる。その主宰者たる現天皇は、あたかも伊勢神宮の式年造営のやうに、今上であらせられると
共に原初の天皇なのであつた。大嘗会と新嘗祭の秘儀は、このことをよく伝へてゐる。
文化の現存在と源泉、創造と伝承とが、このやうな形で関はり合つてゐる文化共同体としての天皇制は、
近代文化の担ひ手の意識からは一切払拭されてゐるやうに見えるけれど、われわれは宮廷風の優雅のほかには、
真に典例的な優雅の規範を持たず、文化の全体性は、自由と責任といふ平面的な対立概念の裡にではなく、
自由と優雅といふ立体的構造の裡にしかないのである。今もなほわれわれは、「菊と刀」をのこりなく内包する
詩形としては、和歌以外のものを持たない。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
202 :
名無しさん@3周年:2011/02/25(金) 00:38:42.27 ID:MXo0czwf
かつて物語が歌の詞書から発展して生れたやうに、歌は日本文学の元素のごときものであり、爾余のジャンルは
その敷衍であつて、ひびき合ふ言語の影像の聨想作用にもとづく流動的構成は、今にいたるも日本文学の、
ほとんど無意識の普遍的手法をなしてゐる。宮廷詩の「みやび」と、民衆詩の「みやびのまねび」との間に
はさまれて、あらゆる日本近代文化は、その細い根無し草の営為をつづけてきたのであつた。伝統との断絶は
一見月並風なみやびとの断絶に他ならず、しかも日本の近代は、「幽玄」「花」「わび」「さび」のやうな、
時代を真に表象する美的原理を何一つ生まなかつた。天皇といふ絶対的媒体なしには、詩と政治とは、完全な
対立状態に陥るか、政治による詩的領土の併呑に終るしかなかつた。
みやびの源流が天皇であるといふことは、美的価値の最高度を「みやび」に求める伝統を物語り、左翼の
民衆文化論の示唆するところとことなつて、日本の民衆文化は概ね「みやびのまねび」に発してゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
203 :
名無しさん@3周年:2011/02/25(金) 00:39:48.71 ID:MXo0czwf
そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、「幽玄」「花」「わび」「さび」などを
成立せしめたが、この独創的な新生な文化を生む母胎こそ、高貴で月並なみやびの文化であり、文化の反独創性の極、
古典主義の極致の秘庫が天皇なのであつた。しかもオーソドックスの美的円満性と倫理的起源が、美的激発と
倫理的激発をたえずインスパイアするところに天皇の意義があり、この「没我の王制」が、時代時代のエゴイズムの
掣肘力であると同時に包容概念であつた。天照大神はかくて、岩戸隠れによつて、美的倫理的批判を行ふが、
権力によつて行ふのではない。速須佐之男の命の美的倫理的逸脱は、このやうにして、天照大神の悲しみの
自己否定の形で批判されるが、つひに神の宴の、鳴滸業を演ずる天宇受売命に対する、
文化の哄笑(もつとも卑俗なるもの)によつて融和せしめられる。ここに日本文化の基本的な現象形態が語られて
ゐる。しかも、速須佐之男の命は、かつては黄泉の母を慕うて、「青山を枯山なす泣き枯す」男神であつた。
菊の笑ひと刀の悲しみはすでにこれらの神話に包摂されてゐた。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
204 :
名無しさん@3周年:2011/02/25(金) 00:40:33.66 ID:MXo0czwf
速須佐之男の命は、己れの罪によつて放逐されてのち、英雄となるのであるが、日本における反逆や革命の
倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にあることを、文化は教へられるのである。これこそは
八咫(やたの)鏡の秘義に他ならない。文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、つひに「みやび」の中に
包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、
といふのが、日本の文化史の大綱である。それは永久に、卑俗をも包括しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の
故郷であつた。
菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から
与へられなければならない。現行憲法下法理的に可能な方法だと思はれるが、天皇に栄誉大権の実質を回復し、
軍の儀仗を受けられることはもちろん、聨隊旗も直接下賜されなければならない。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
205 :
名無しさん@3周年:2011/02/25(金) 00:42:40.04 ID:MXo0czwf
(中略)
時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認するかも
しれない。そのときは、代議制民主主義を通じて平和裡に、「天皇制下の共産政体」さへ成立しかねないのである。
およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、全体性を毀損することは、
今さら言ふまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、もつとも狡猾な政治的象徴として
利用されるか、あるひは利用されたのちに捨て去られるか、その運命は決つてゐる。このやうな事態を防ぐためには、
天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない。もちろん、
かうした栄誉大権的内容の復活は、政治概念としての天皇をではなく、文化概念としての天皇の復活を促すもので
なくてはならぬ。文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体だからであり、天皇が否定され、
あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
206 :
名無しさん@3周年:2011/02/25(金) 16:40:51.61 ID:MXo0czwf
十年前の東京では、左翼と右翼の分れ目ははつきりしてゐた。平和憲法を守れ、といふスローガンを人生の
何ものよりも大切にし、政府のやることはすべて戦争へ一歩一歩国民を狩り立てることだと主張し、子供に戦車や
軍用機の玩具を買つてやることを拒否し、横文字の本をよく読みこなし、岩波書店と何らかの関係があり、
すこし甲高いなめらかな声で話し、にこやかで紳士的で、いささか植物的で、暴力には一ぺんで砕かれてしまふ
やうな肉体、ひどく肥つてゐるか、ひどく痩せてゐるかした肉体を持ち、眼鏡をかけ、ベレエ帽をかぶり、
その両わきから白髪が耳の上に垂れ、軽井沢に小さい別荘を持ち、決して冷静を失はないやうに見える紳士は、
みな左翼だつた。(中略)
右の如き左翼人は、多くは国立大学の教授たちで、一流新聞や一流出版社の論説欄を支配し、政府から月給を
もらひながら、一方ではその反政府的論説によつて、左派のジャーナリズムから稿料を支払はれ、しかも大学の
中では、封建的君主そのままで、権力主義を押し通してゐた。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
207 :
名無しさん@3周年:2011/02/25(金) 16:41:25.66 ID:MXo0czwf
これが新左翼の攻撃するところとなり、そのもつとも喜劇的な一例としては、次のやうなのがある。或る有名な
左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で人気を得てゐたが、
新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど暴虐でなかつた。
軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、他ならぬ彼の
学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
208 :
名無しさん@3周年:2011/02/25(金) 16:41:50.68 ID:MXo0czwf
(中略)
私は暴力の支配する大学に招かれて、ラジカル・レフティストの学生たちと論争したが、かれらは誇張した
言語表現では伝統的支那風であり、人民裁判方式の愛好者たる点では現代共産中国風であり、日本の伝統否定では
インターナショナリストであり、テロリズム肯定では日本のサムラヒ風右翼風であり、論理愛好癖では西欧風であり、
しかもすべて共産主義者を以て自認してゐた。
日本のヤクザ映画と称する特殊な映画は、伝統的アウトローの世界を描き、古い日本的メンタリティーを押し売りし、
感傷主義とヒロイズム、暴力肯定と非論理性において、もつとも右翼的日本的心情主義に愬(うつた)へるものとして、
左翼文化人が頭から軽蔑してきたものであるが、その日本型ジョン・ウェインは学生たちのアイドルになり、
左派の学生は暴力デモに出かける前夜、必ずこの種の映画を見に行つて、熱情を心に充填するのである。
次第次第に日本では、誰が右翼、誰が左翼と簡単にレッテルを貼ることがむづかしくなつてきた。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
209 :
名無しさん@3周年:2011/02/25(金) 16:42:22.14 ID:MXo0czwf
イデオロギーの相互循環作用が起り、極端な右と極端な左が近づくかと思ふと、現在穏健な議会主義的革命を
主張してゐる偽善的な日本共産党が、大学問題などで、政府自民党と利害を等しくするやうになつたりしてゐる。(中略)
かういふややこしいイデオロギーの循環作用は、日本で百数十年前に起つた現象とよく似てゐる。明治維新前の
日本には、四つのイデオロギーが、四つ巴になつてゐた。すなはち、佐幕、開国、尊皇、攘夷である。(中略)
尊皇開国、佐幕攘夷、尊皇佐幕、(さすがに開国攘夷だけはなかつたが)、などといふ各派があらはれ、しかも
この各派を、短期間に廻りあるく人間まであらはれた。そして明治維新の大変革によつて成立した新政府は、
はつきり「尊皇開国」のイデオロギーをかかげて、統一国家を形成したのである。
(中略)しかし日本の歴史が証明するところによると、日本といふ国は決して内発的な革命を敢行しない国であつて、
必ず日本に起るのは、外発的な革命、すなはち外国の軍事的政治的経済的思想的な衝撃力によつて、やむをえず
起された革命なのである。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
210 :
名無しさん@3周年:2011/02/26(土) 11:32:50.06 ID:j4scveS6
二・二六事件によつて青年将校に裏切られたことも、北一輝は初めから覚悟してゐたことかもしれない。日蓮宗の
予言による決行日時の決定や、さまざまな神秘主義のひらめきは、フランス革命当時のジャコバン党員が、
フリー・メーソンのご託宣を仰ぐためにスコットランドの本部に参詣したのと大した変りはない。革命には
神秘主義がつきものであり、人間の心情の中で、あるパッションを呼び起こす最も激しい内的衝動は、同時に
現実打破と現実拒否の冷厳な、ある場合には冷酷きはまる精神と同居してゐるのである。
(中略)
遠くチェ・ゲバラの姿を思ひ見るまでもなく、革命家は、北一輝のやうに青年将校に裏切られ、信頼する部下に
裏切られなければならない。裏切られるといふことは、何かを改革しようとすることの、ほとんど楯の両面である。
なぜならその革命の理想像を現実が絶えず裏切つていく過程に於て、人間の裏切りは、そのやうな現実の裏切りの
一つの態様にすぎないからである。
三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より
211 :
名無しさん@3周年:2011/02/26(土) 11:33:57.87 ID:j4scveS6
革命は厳しいビジョンと現実との争ひであるが、その争ひの過程に身を投じた人間は、ほんたうの意味の人間の
信頼と繋りといふものの夢からは、覚めてゐなければならないからである。一方では、信頼と同志的結合に
生きた人間は、論理的指導と戦術的指導とを退けて、自ら最も愚かな結果に陥ることをものともせず、銃を
持つて立上り、死刑場への道を真つ直ぐに歩むべきなのであつた。もし、北一輝に悲劇があるとすれば、覚めて
ゐたことであり、覚めてゐたことそのことが、場合によつては行動の原動力になるといふことであり、これこそ
歴史と人間精神の皮肉である。そしてもし、どこかに覚めてゐる者がゐなければ、人間の最も陶酔に充ちた行動、
人間の最も盲目的行動も行なはれないといふことは、文学と人間の問題について深い示唆を与へる。その覚めて
ゐる人間のゐる場所がどこかにあるのだ。もし、時代が嵐に包まれ、血が嵐を呼び、もし、世間全部が理性を
没却したと見えるならば、それはどこかに理性が存在してゐることの、これ以上はない確かな証明でしかないのである。
三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より
212 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 16:56:02.43 ID:aupg23ps
一、われわれはあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問はず、
共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企図、あらゆる行動に反対する者である。この連結の企図とは、
いはゆる民主連合政権(容共政権)の成立およびその企図を含むことはいふまでもない。国際主義的あるひは
民族主義的仮面にあざむかれず、直接民主主義方式あるひは人民戦線方式等の方法的欺瞞に惑はされず、
名目的たると実質的たるとを問はず、共産主義が行政権と連結するあらゆる態様にわれわれは反対する者である。
「共産党宣言」は次のごとく言ふ。
「共産主義者は、これまでの一切の社会秩序を強力的に顛覆することによつてのみ自己の目的が達成されることを
公然と宣言する」
われわれの護らんとするものは、わが日本の文化・歴史・伝統であるが、これらは唯物弁証法的解釈によれば、
かれらの「顛覆せんとする一切の社会秩序」に必然的に包含されるからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
213 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 16:56:30.62 ID:aupg23ps
二、われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその
精華であることを以て自ら任ずる。「よりよき未来社会」を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。
なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがへのない現在をして、すべて
革命への過程に化せしめるからである。自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の
美的形式を体現し、自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、特攻隊員は
「あとにつづく者あるを信ず」といふ遺書をのこした。「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき
未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを
最後の者と思ひ定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
214 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 16:56:56.49 ID:aupg23ps
三、われわれは戦後の革命思想が、すべて弱者の集団原理によつて動いてきたことを洞察した。いかに暴力的表現を
とらうとも、それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。不安、懐疑、嫌悪、嫉妬を撒きちらし、
これを恫喝の材料に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。
空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もつとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、以て
過半数(マジョリティ)を獲得し、各小集団小社会を「民主的に」支配し、以て少数者(マイノリティ)を圧迫し、
社会の各分野へ浸透して来たのがかれらの遣口である。
われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれの
ものである。再び、有効性は問題ではない。なぜならわれわれは、われわれの存在ならびに行動を、未来への
過程とは考へないからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
215 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 16:57:32.20 ID:aupg23ps
(中略)
われわれは天皇の真姿を開顕するために、現代日本の代議制民主主義がその長所とする言論の自由をよしとする
ものである。なぜなら、言論の自由によつて最大限に容認される日本文化の全体性と、文化概念としての天皇制との
接点にこそ、日本の発見すべき新らしく又古い「国体」が現はれるであらうからである。
さて、かれらは、言論の自由を手段的過程的戦術的に利用し、言論の自由自体に革命を論理的に推進する
進歩的価値が内在すると主張するが、これはあやまりである。言論の自由は、人間性と政治との相互妥協の
境界線にすぎぬが、同時に人間の本能的な最低限の要求を充たすものである。(拙論「自由と権力の状況」参照)
言論の自由を保障する政体として、現在、われわれは複数政党制による議会主義的民主主義より以上のものを
持つてゐない。
この「妥協」を旨とする純技術的政治制度は、理想主義と指導者を欠く欠点を有するが、言論の自由を守るには
最適であり、これのみが、言論統制・秘密警察・強制収容所を必然的に随伴する全体主義に対抗しうるからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
216 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 16:58:10.09 ID:aupg23ps
従つて、第二に、われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する。
われわれは日本共産党の民族主義的仮面、すなはち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保障する
人間主義的社会主義といふ幻影を破砕するであらう。この政治体制上の実験は、(もしそれが言葉どほりに
行はれるとしても)、成功すれば忽ち一党独裁の怖るべき本質をあらはすことは明らかだからである。
五、まづ言論闘争、経済闘争、政治闘争といふ方式はかれらの常套手段であり、「話し合ひ」の提示は、すでに
かれらの戦術にはまり込むことである。(中略)われわれの反革命は、水際に敵を邀撃することであり、その水際は、
日本の国土の水際ではなく、われわれ一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。千万人といへども我往かんとの
気概を以て、革命大衆の醜虜に当らなければならぬ。民衆の罵詈雑言、嘲弄、挑発、をものともせず、かれらの
蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに当らなければならぬ。
われわれは日本の美の伝統を体現する者である。
三島由紀夫「反革命宣言」より
217 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 23:16:54.66 ID:aupg23ps
(中略)
彼らの考へ方には、自分たちに都合の悪い、あるひは法則からズレた事柄が現はれると全てそれを自分の法則の例外、
あるひは除外例として一括して、法則の神聖と普遍妥当性を守ることに精力を傾けるのが常である。除外例と
例外のはうに、さらに妥当する論理の求め方をしていけば彼らの詐術はひと目で明らかになるのである。
チェコ問題一つをとつても、ソヴィエトは自由を求めるチェコ国民の動きを反革命と規定するが、チェコの側から
いへば、まさに自分たちの求めるものこそ真の革命の姿なのである。反革命といふ規定はファシズムといふ規定と
同様に、敵に投げられた戦術上の用語として、彼らの間ではおそれられてゐる。反革命の烙印を押されることは
死に等しい。しかし、われわれ外側の人間には反革命といふ言葉は何の悪罵をも意味しない。
われわれは除外例や例外少数者の問題その他のなかに、人間性の真理を発見する立場をとつてゐる。
三島由紀夫「反革命宣言」より
218 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 23:17:21.63 ID:aupg23ps
中共革命の過程では文化大革命がなかなか終熄を見なかつた間に、少数民族問題がガンをなしてゐることが
明らかになつた。ウィグル地方の少数民族地域は原爆実験地域としても戦略上重要な地域であるが、ここに
おける革命委員会の成立は最後まで危ぶまれてゐた。
異民族統治の経験のある大国では、少数民族の帰趨(きすう)が革命的要素になることが認識されてゐると同時に、
またその国自体が革命的な原理に成り立つ国である場合は、一転して反革命の危険を内在させた分子として
見られるのである。反革命とは、人種上は少数民族の原理であり、人間性の上では閑却されがちな人間性の
真実の救出の問題である。なぜなら、多数決原理による民主主義はいつも社会に少数の発言を許さなれない
政治的疎外分子を残し、この疎外分子が民主社会においては、ある場合にはアウトローとなり、ある場合には
政治的少数意見の漂泊者として満足し、ある一定の政治状況については革命分子になることはよく知られてゐる。
三島由紀夫「反革命宣言」より
219 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 23:17:53.15 ID:aupg23ps
(中略)
かつてプロレタリアは社会的疎外の代表であつた。戦争前には日本の経済政策の貧困から農村は疲弊し、飢餓状態は
蔓延し、人身売買は兵士の心を押へ毒してゐた。しかし、戦後は工業化の進展にともなつて取り残された農村は、
人工的な米価政策によつて救済された。のみならず、貧困は解決され、労働者は革命や政治闘争よりも、
経済闘争のはうがより有効であるやうな時代に生きてゐる。戦後の経過は労働者が政治闘争から経済闘争の
有効性に徐々に目ざめた経過をたどつたといつてもよからう。
(中略)
日本で行はれてゐる、体制対反体制、権力対反権力の論争は、お互ひに相手側の弱点をつかむ巧妙な論理を
発明してゐる。体制側は、いはゆる革命主体を自称する学生や、その他の人々に対して、お前たちは中共から
金を貰つてゐる、外国勢力から助けられてゐるといつでも揚言することができる。これに対していはゆる革命勢力は
みづからをナショナリストとして既定し、体制側を買辧勢力と規定し、かつ自分たちに反対するオピニオン・
リーダーを全て体制の代弁者ないし走狗と規定することができるやうになつた。
三島由紀夫「反革命宣言」より
220 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 23:18:15.31 ID:aupg23ps
彼らの論理はかうである。「もし、大学あるひは論壇あるひは文壇のやうな、マス・コミュニケーションのなかの
一つの小さな枠組の中では、たとへ反体制的言論が支配的であつても、そのなかにおける少数者の言論は実は
社会全体の体制的な感情へのおもねりにすぎない。すなはち一定の小集団のなかにおける少数意見は、集団外の
圧倒的な体制的言辞を背景としてそれを自分の後楯としてなされてゐるのだ」といふ主張である。
ここにおいて、さつき言つた社会的疎外と少数者の問題はパラドックスに当面する。すなはちわれわれは、
小さな閉鎖社会のなかで生きるときに、疎外者あるひは少数者になり、開放された社会のなかで生きるときは
体制側の代弁者となるといふやうに彼らから言はれるのである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
221 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 23:18:40.52 ID:aupg23ps
しかし、われわれの社会における生き方は、彼らの言ふほど単純なものではない。彼らのいはゆる体制的権力側の
オープン・ソサイエティといふものは、実は存在するかのごとくして存在せず、われわれのまはりに茫漠とした
アモルフな形をもつて漂つてゐる。大衆社会化は社会像のこのやうなアモルフ化アンフォルメル化に貢献した。
十九世紀的国家形態が崩壊した現在は、それにかはるべきゲゼルシャフトが強固な利益社会として屹立して
ゐるのではない。われわれはそれぞれの小集団のなかでのみ自分たちの存在の原点を確保することができると
感覚的に感ずる。これが日本独特の、企業体成員の、企業体に対する極端な感情移入の態様であるが、企業と
組合との関係は、大学のやうな集団内マジョリティの思想的圧迫といふ形をとる場合よりも、もつとも
マジョリティに訴へやすい経済闘争といふ形をとる場合のはうが多いことは前述のとほりである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
222 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 23:22:05.05 ID:aupg23ps
しかし、その外側の社会は、膨大な無定見の社会構造を呈示してゐるのである。すべてを唯物弁証法ないし
社会主義的思考をもつて分析して、自己の小集団に波及するアモルフな社会の圧力を、安保体制下の権力の
波及した状況と解釈することは、一見実に簡単でわかりやすい。しかし、もしこのやうなわかりやすい社会に
われわれが生きてきたと仮定するならば、疎外の問題も少数者集団の問題も、われわれと社会の間のアンビバレンツの
問題も起りやうがないのである。
つまりそのやうに、小集団と社会との間を論理的に直結させるといふ思考方法は、社会疎外から出発した思考方法を
自ら否定するものにほかならない。社会はわれわれに対して敵であるのか味方であるのか。社会を国家と同様に
直結させるのか。われわれの小集団に波及してくる社会的現象を、すべて国家権力のオートマティックな動きと
左右させて考へるか。そこにわれわれが社会といふものを考へるときの一番の困難がある。
三島由紀夫「反革命宣言」より
223 :
名無しさん@3周年:2011/02/27(日) 23:22:25.84 ID:aupg23ps
革命勢力は、まさにこのわれわれの持つてゐる困難を、ある単純化によつて、ある直結によつて一つの「解決の
示唆」へうながすものである。
ここには、戦後の社会の無限の責任遡及によつて、つひには責任の所在を融解させてしまふ「無責任の体系」の
影響が大いにあり、すべては社会がわるい、といふときに、人は自ら、社会のアモルフ化に手を貸してゐるのである。
彼らは最初、疎外をもつて出発したが、利用された疎外は小集団における多数者となり、小集団における
マジョリティを次々とつなげて連帯させることによつて、社会におけるマジョリティを確保し、そのマジョリティは
容易に暴力と行動に転換して現体制の転覆と破壊に到達するといふのは、革命のプランである。そして、責任原理の
喪失を逆用したそのやうな革命は現に着々と進行してゐる。
しかし、われわれ文化の側に立ち、人間の側に立つ人間は、疎外がそのやうな自己矛盾に陥つてゐるやうな
状況に対して、むしろ疎外や、少数者といふものを積極的に評価するところから出発しなければならない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
224 :
名無しさん@3周年:2011/02/28(月) 19:13:48.04 ID:PQezcmRJ
左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の
変化によつて、多くの韓国人をかかへてゐるが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも
歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすやうな
北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。
彼らはすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなつてゐる。そして
彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようとするほか考へない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、
不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、
その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。
三島由紀夫「反革命宣言」より
225 :
名無しさん@3周年:2011/02/28(月) 19:14:16.05 ID:PQezcmRJ
日本の社会問題はかつてこのやうではなかつた。戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいはないが、
純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによつて、左にあれ、右にあれ、
一種の社会改革といふ救済の方法を考へたのであつた。
しかし、戦後の革命はそのやうな道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、
偽善にすりかへてしまつた。われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。革命勢力から
その道義性と、ヒューマニズムの高さを失はせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。
われわれは疎外を固執し、少数者集団の権利を固執するものである。それのみが、革命勢力に対して反革命の
立場に立ち得るし、彼らの多数を頼んだ集団行動の倫理的矛盾に対して、最も強い、先鋭な敵手たり得るからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
226 :
名無しさん@3周年:2011/02/28(月) 19:14:47.30 ID:PQezcmRJ
人は疎外からみづから逃れたいといふ要求を持つてゐる。その要求の最もわかりやすいスローガンは「自由」で
あるが、自由を与へられると、エーリッヒ・フロムではないが、再び自由から逃避しようとし、逃避のメカニズムは
オートマティックに進行するのである。そして、逃避のメカニズムがオートマティックに進行するときに、
疎外された少数者はいつしか多数の集団者となり、多数の集団者はマジョリティとなり権力を求め、遂には
少数者を蹂躙し、自分のよつてもつて立つところの存在理由を自己否定せざるを得なくなるのである。
その革命の経過こそ、われわれが最も見張らなければならぬものであり、われわれに彼らの原点の感情に対する
安価な同情を許さないところのものである。
反革命は、革命行動の単なる防止ではない。反革命は革命に対して、ただ単なる暴力否定をもつて立ち向ふもの
ではない。なぜなら、暴力否定は容易に国家否定に傾くからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
227 :
名無しさん@3周年:2011/02/28(月) 19:15:28.66 ID:PQezcmRJ
反戦平和のスローガンが、ただちに暴力行動を意味するといふことを、三派全学連は新宿動乱で公衆の前に証明し、
それによつて公衆に、反戦平和といふ言葉の欺瞞を白日のもとにさらけ出すといふ大きな貢献を残した。
しかし、暴力は暴力自体が悪でもなく、善なのでもない。それは暴力を規定する見地によつて善にもなり、
悪にもなるのである。彼らは国家権力を暴力装置と規定し、機動隊を階級敵と規定し、彼らの規定によつて
権力自体は、すべて膨大な、革命を抑圧してゐる暴力機構と考へられる。そして、いはゆる無意識な、無関心な
一般大衆の目にとつては、三派全学連の無秩序な暴力だけが、あるひは暴力団の暴力だけが暴力とうつり、
自分たちを守りに出てゐる武装集団の自衛隊や警察は暴力とうつらないやうな心理構造を持つてゐると説明される。
(中略)そして暴力否定が終局的に革命を支持するものであることを最もよく知つてゐるのは革命勢力、特に
共産党なのである。共産党は最後の革命に手段としての暴力を十分容認するが、その暴力が民衆の支持を得るまでは
差し控へる、といふことを知つてゐる。
三島由紀夫「反革命宣言」より
228 :
名無しさん@3周年:2011/02/28(月) 19:15:55.48 ID:PQezcmRJ
われわれはもし、暴力といふものを本質的、原理的に否定するときには、これに立ち向ふことは決してできない。
大学問題はあたかも革命全体のミニアチュアであるが、暴力に対するに理性をもつてした大学教授連の考へは
十九世紀的迷蒙に侵されてゐる。暴力と素手で立ち向ふことができないのは理性の特質であり、そしてまた
理性を何らかの後楯にしない時は、自己の正当性をみづから確認できないといふことは暴力の特質である。
かくて、暴力と理性とは、お互ひにその正当性を奪ひ合ふ段階においてこそ同格であるが、暴力は一つの
理性的思想を背後に持つてゐると主張することによつて、すなはち理性だけよりも強く、相手を国家権力なる
「暴力」とつながつてゐるといふ論理へ追ひ込むことによつて、むりやり、自分の土俵へ相手を引きずり込む
戦術に長けてゐる。
暴力否定が国家否定につながることは、実に見やすい論理である。
三島由紀夫「反革命宣言」より
229 :
名無しさん@3周年:2011/03/01(火) 17:32:53.72 ID:1HRQuTBz
われわれは絶対的暴力否定の抵抗思想としてガンジーの思想の如きを知つてゐるが、ガンジーは少なくとも
抵抗の思想である。日本の非暴力主義には、抵抗の思想は稀薄であり、エゴイズムのみが先行してゐる。
絶対平和主義は、自分たちの集団に対する攻撃をも甘んじて容認するといふことにおいて、少なくとも集団に
対する攻撃を容認しない、といふ原理に立つ国家の不可侵性を否定するものだからである。
国家は力なくしては国家たり得ない。国家は一つの国境の中において存立の基礎を持ち、その国境の確保と、
自己が国家であることを証明する方法としては、その国家の領土の不可侵性と、主権の不可侵性のために
力を保持せざるを得ないことは、最近のチェコの例を見ても明らかであらう。
もちろん十九世紀的な主権国家の幻はすでに崩れ、国際的な集団保障の時代が来て、国家概念は、社会主義共同体と、
自由諸国の国々とに別れ、ヨーロッパですら、将来のイメージとしては、共同体的な同盟国家よりも、さらに
強固なつながりを持つた国家形態を求めてはゐる。
三島由紀夫「反革命宣言」より
230 :
名無しさん@3周年:2011/03/01(火) 17:33:27.48 ID:1HRQuTBz
しかしながら、現実に支配してゐるのは国家の原理であり、イデオロギーの終焉はまだ絵空事であつて、むしろ、
技術社会の進展が、技術の自己目的によるオートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、国家は
このやうな自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。
社会主義インターナショナルは単に多数民族、強力民族が少数民族をみづからの手中にをさめるための口実として
使はれてゐるにすぎない。
まだ国際政治を支配してゐるのは、姑息な力の法則であつて、その法則の上では力を否定するものは、最終的に
みづから国家を否定するほかはないのである。平和勢力と称されるものは、日本の国家観の曖昧模糊たる自信喪失を
ねらつて、日本自身の国家否定と、暴力否定とを次第次第につなげようと意図してゐる。そこで最終的に彼らが
意図するものは、国家としての日本の崩壊と、無力化と、そこに浸透して共産政権を樹立することにほかならない。
そして共産政権が樹立されたときにはどのやうな国家がはじまるかは自明のことである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
231 :
名無しさん@3周年:2011/03/01(火) 17:34:00.44 ID:1HRQuTBz
(中略)
一般大衆は、革命政権の樹立が、自分たちの現在守つてゐる生活に、将来どのような時間をかけてどのように
波及してくるかについてほとんど知るところがない。彼らは、現在の目前の問題としては、いつもイデオロギーよりも
秩序を維持することを欲し、ことに経済的繁栄の結果として得られた現状維持の思想は、一人一人の心の中に
浸み込んで、自分の家族、自分の家を守るためならば、どのようなイデオロギーも当面は容認する、といふ方向に
向つてゐる。そして、秩序自体の変質がどういふ変化を自分たちにおよぼすか、といふ未来図を彼らの心から
要求することは、ほとんど不可能である。人々はつねられなければ痛さを感じないものである。
もし革命勢力、ないし容共政権が成立した場合、たとへたつた一人の容共的な閣僚が入つても、もしこれが
警察権力に手をおよぼすことができれば、たちまち警察署長以下の中堅下級幹部の首のすげかへを徐々に始め、
あるひは若い警官の中に細胞をひそませ、警察を内部から崩壊させるであらう。
三島由紀夫「反革命宣言」より
232 :
名無しさん@3周年:2011/03/02(水) 10:01:31.31 ID:2xeyoMuN
(中略)彼らは政権の一端でも握れば、これをいつも共産政権へのワン・ステップとして利用することに全力を
あげるであらう。(中略)そして、全アジア諸国において容共政権が容共政権のままとどまつた例はないのである。
容共政権は共産党の一党独裁への準備段階として徹底的に利用され、むしろこのやうな緩慢な移行の方が、
急激な武力革命による移行よりも彼らの歓迎するところである。国家支配機構はこれを一朝一夕にくつがへすよりも、
一年、ないしは二年の時間をかけて下部から侵蝕し、国民生活表面上を何ら動かさないままに、徐々に行政機構の
下部から改めていくことが賢明なことは勿論である。
したがつて共産勢力と行政権とをほんのちよつと連結させれば、そこで何が起るかは、チェコの二千語宣言が
よく証明してゐる。さうなつたときには遅いのであり、さうなつたときには、イデオロギーよりも秩序を重んじた
一般大衆は初めて目ざめて、自分たちの考への誤りを悟るであらう。
しかし、われわれ反革命の立場は、現在の時点における民衆の支持や理解をあてにすることはできない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
233 :
名無しさん@3周年:2011/03/02(水) 10:02:10.56 ID:2xeyoMuN
われわれは先見し、予告し、先取りし、そして、民衆の非難、怨嗟、罵倒をすら浴びながら、彼らの未来を
守るほかはないのである。
さらに正確に言へば、われわれは彼らの未来を守るのではなく、彼らがなほ無自覚でありながら、実は彼らを
存在せしめてゐる根本のもの、すなはち、わが歴史・文化・伝統を守るほかはないのである。これこそは
前衛としての反革命であり、前衛としての反革命は世論、今や左も右も最もその顔色をうかがつてゐる世論の
支持によつて動くのではない。
われわれは先見によつて動くのであり、あくまで少数者の原理によつて動くのである。
したがつて反革命は外面的には華々しいものになり得ないかもしれないが、革命状況を厳密に見張つて、もし
革命勢力と行政権とが直結しさうに時点をねらつて、その瞬間に打破粉砕するものでなければならない。
このためには民衆の支持をあてにすることはできないであらう。いかなる民衆の罵詈雑言も浴びる覚悟をしなければ
ならない。その形は、場合によつては人民裁判的な攻撃によつて、民衆になぐり殺されることもあるかもしれない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
234 :
名無しさん@3周年:2011/03/02(水) 10:03:00.91 ID:2xeyoMuN
しかし、われわれは民衆の現在ただいまの状況における安価な感傷的盲目的な心理に阿諛追従して、それを背景にし、
あるひは後楯にして行動するのではないから、当然のことである。
われわれは新宿動乱で、モップ化がどのやうな働きをするかつぶさに見た。あのモップ化は日本の何物かを
象徴してゐる。あのモップ化こそは、日本の、自分の生活を大切にしながら刺戟を期待し、変化を期待する民衆の
何物かを象徴してゐる。
あのモップ化によつて反革命がどのやうな攻撃にあふかは目に見えてゐるけれども、それに立ち向ふには、
われわれは自分の中の少数者の誇りと、自信と、孤立感にめげないエリート意識を保持しなければいけない。
政府にすら期待してはならない。政府は、最後の場合には民衆に阿諛することしか考へないであらう。世論は
いつも民主社会における神だからである。われわれは民主社会における神である世論を否定し、最終的には
大衆社会の持つてゐるその非人間性を否定しようとするのである。
では、その少数者意識の行動の根拠は何であるか。それこそは、天皇である。
三島由紀夫「反革命宣言」より
235 :
名無しさん@3周年:2011/03/02(水) 10:03:34.18 ID:2xeyoMuN
われわれは天皇といふことをいふときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるといふやうな
時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。なぜなら、われわれの考へる天皇とは、
いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のやうに、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、
このやうな全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するやうな勢力に対しては、われわれの日本の
文化伝統を賭けて闘はなければならないと信じてゐるからである。
われわれは、自民党を守るために闘ふのでもなければ、民主主義社会を守るために闘ふのでもない。もちろん、
われわれの考へる文化的天皇制の政治的基礎としては、複数政党制による民主主義の政治形態が最適であると
信ずるから、形としてはこのやうな民主主義政体を守るために行動するといふ形をとるだらうが、終局目標は
天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するやうな政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
236 :
名無しさん@3周年:2011/03/02(水) 20:43:37.51 ID:2xeyoMuN
Q――五社英雄監督の印象は?
三島:ぼくは、非常にこの人物が好きになつた。会つたのは初めてですけど、いい人です。映画監督特有の、
もつて回つたやうな芸術家気取りがない。そして好きなものは好き、きらひなものはきらひとして、なんら
映画界の権威を認めてゐない。自分の好きにとつちやふんだ。映画界からみれば、こんなに腹の立つ男はゐないと思ふ。
Q――映画に出演するといふこと、三島さんがおつしやつてる「行動」とか、「肉体」とかを結びつけると……
三島:世間では、みんな結びつけたがるから、何もかも結びつけちやふんだけど、ぼくは人間を、さういふふうに
一元的に統一しようといふのは、現代の悪い傾向だと思ふ。なるべく、ワクからはづれることが、人間にとつて
大事だといふ考へをもつてゐる。
三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
237 :
名無しさん@3周年:2011/03/02(水) 20:44:10.50 ID:2xeyoMuN
たとへば、いちばん崇高でもあり、つぎの瞬間にいちばん下劣でもあるのが人間なんですよ。ぼくは、さういふ
人間を考へる。崇高なだけであつてもウソに決まつてゐる。また下劣なのが人間の本当の姿だ、といふ考へ方も
大きらひなんですよ。それは自然主義的な考へ方で、十九世紀に、ごく一部にできた迷信ですよ。人間は崇高であると
同時に下劣。だから、ぼくのことを下劣だと思ふ人があれば、それでもかまはない。ぼくの中にだつて、
「一寸の虫にも五分の魂」で、崇高なものもある。それを、ぼくは自分でぼくだと思ふ。
むりやりに結びつけて、論理的に統一しようつたつて、できるものではない。ただ思想的には節操は大切だと
思ひますけど、それと人間の行動の一つ一つ。つまり節操の正しい人は、どんなクソの仕方をするのか。いつも
まつすぐなクソがでてくるかといふと、そんなものぢやない。節操の正しい人でも、トグロを巻いちやふ。
節操の曲がつた人でも、まつすぐなクソが出るかもしれない。そんなこと関係ないですよ。
三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
238 :
名無しさん@3周年:2011/03/02(水) 20:44:38.23 ID:2xeyoMuN
Q――かなり全共闘に共鳴するところがあつたんぢやないですか。
三島:それは共鳴するところもあるし、反発するところもある。自民党の人間と会つたつて、それは同じことだ。
Q――全共闘の立ち場を幕末でいふと……。
三島:幕末にはないよ。幕末は一人でやれなければいけない。みんなからだを張つてゐますね。一人でやれると
いふことは、サムラヒの根本条件ですよ。一人でやれるやつは、全共闘に一人もゐないぢやないですか。みんな
集団の力を組まなければ、何もできない。一人で連れてきて胸ぐらをつかんだら、みんなペコペコするだけですよ。
そんなのサムラヒぢやない。したがつて、明治維新に類型を求めることはできませんね。
Q――サムラヒといふことについて、もう少し詳しく説明をしてください。
三島:要するにサムラヒといふのは、一人でやれるといふことですよ。その精神だね。それしかないと思ふ。
外人の中で、よく全共闘を幕末の志士にたとへるやつがゐるんだけれども、とてもぼくは怒るんですよ。
とんでもない。精神が違ひますよ。
三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
239 :
名無しさん@3周年:2011/03/02(水) 20:45:24.98 ID:2xeyoMuN
Q――文学者としての三島さんが、時務の文章を書くのは……。
三島:つまり文学といふものは、死んだものぢやない。生きて動いてゐるものだ。お茶器みたいに、きれいなものを
作つて、戸だなにしまつておくものぢやない。動いてゐるものだ。一方で、美しい文学を書くためには、喜んで
ドロ沼の中へ手を突つ込まなければダメだと思ふ。手を汚さないことばかり考へたんぢや、文学はダメになつちやふ。
たまたま病気でサナトリウムにはひつてゐる、といふなら、それはいいよ。運命だからね。
Q――その人にとつては、それがドロ沼の中に手をつつ込んだことになるわけですね。
三島:その人にとつてはさうだ。病気といふものはさうだらう。宿命だから……。だけど、からだが丈夫で、
生きて動いてゐる人間が、ドロ沼のそばを着物が汚れるからと、よけて通るのは作家ぢやない。ぼくはさう思ふ。
ドロ沼にはひつて、おぼれるかもしれないけれど、おぼれる危険を冒して、生きてゐなきや小説は書けない。
ドロ沼にはひつたとき、どういふふうに表現するか。人間だから考へますね。
三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
240 :
名無しさん@3周年:2011/03/02(水) 20:45:55.19 ID:2xeyoMuN
それは、濾過されて文学になる部分もあり、いくら濾過しても文学にならん部分もある。ドロ水を飲料水にするための
濾過装置があるでせう。濾過装置の中で、残つたドロと飲料水になる水とあるけど、残つたドロがいらないもので、
捨てちやつていいものかといふと、ぼくはさうぢやない。それが現実なんだ。現実を避けることはできないね。
現実を避けて自分が象牙の塔に閉ぢこもるときには、象牙の塔の純粋性が保たれなければ死んでしまふ。
ぼくは、文学を象牙の塔だと考へてゐる。水晶のお城だと考へてゐる。それを大事にしておくためには、作家が
ドロ沼へはひらなければ、といふパラドックスがある。ぼくはさうだと思ふ。
三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
241 :
名無しさん@3周年:2011/03/04(金) 20:07:18.13 ID:fSW30ZwN
ところで私はあらゆる楽観主義、楽天主義がきらひである。ファクトといふものは、悲観をも楽観をも蹂躙してゆく
戦車だといふのが私の考へで、ファクトに携はらぬ人は往々歴史を見誤まるのである。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 原始戦に有効な剣道の哲理」より
人間の目と心は、どちらが先なのか? この人たちの心が何かを見るのか? 目が先に見て、心がそれを解釈し
分析するのか? 瞬間でも狼の目が借りられたら、すべてを投げ出しても悔いない、と言つたのは、ポオル・
ヴァレリーだが、われわれは、ファクトをつかむには、そのとき、その人の見る世界を見ようと努めなければならない。
第一回は機動隊の目に映つた世界、あれは又明るく単純な戦闘行為の世界だつた。第二回は反戦青年委員会の目に
映つた世界、これは暗い現在と不可測の未来へひらかれた複雑な世界である。
ファクトはどちら側にあるのだらうか? 算術的にその中間にあるといふものではあるまい。反戦青年委員会の
いはゆる「未来の閉ざされた世界」に住む機動隊が明るく、一方、未来に明るい光りを見ようとする者の世界は暗い。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 地についた怖るべき相手」より
242 :
名無しさん@3周年:2011/03/04(金) 20:07:54.34 ID:fSW30ZwN
兜町――それは現在のこの一瞬だ。
現実といふのは、兜町のやうな姿をしてゐるのかもしれない。すなはち過去に対しても未来に対しても絶対に無責任な、
しかしものすごく確信のある、ものすごくいきいきとした現実。このかたはらに置いたら、ほかのいかなる現実も
色あせて、ニセモノめいてくるやうな本物の現実。
そこには、なるほど資本主義の枠はあるけれど、どんなイデオロギーにもゆがめられない、テコでも動かない
現在只今の生活感覚が充実してゐて、盲目でありながら透視力に充ち、どんな理窟もはねとばし、予想も論理も
役に立たない。よかれ、あしかれ、ありのままの素ッ裸。兜町を直視すれば、気取りも羞恥心も吹つ飛んでしまふ。
いかに壮大な革命理論をゑがいても、心のどこかに、「マイホームを建てる三十坪の土地がほしい」といふ気持が
あれば、その集積が、露骨に株式相場にあらはれてしまふ。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より
243 :
名無しさん@3周年:2011/03/04(金) 20:08:20.21 ID:fSW30ZwN
ひどく敏感で、ひどく鈍感。(中略)
時代に対して徹底的に受身で、自己一身の利益しか考へてゐないといふ「心」が、集積されると、時代を
動かしてゆく一つの重要な動因になるといふそのふしぎ。
一九七〇年の危機が叫ばれ、ゲバ学生の襲撃の危険がささやかれる兜町の第一線の人々と親しく話してみて、
そこに世代の差による考へ方のちがひは当然ありながら、「どんな観念論も空しい」といふ一点で、逞しい合意に
達してはたらいてゐる人々の、一種強烈な自信に圧倒された。
しかし果して、どんな観念論も空しいだらうか?
それは歴史が決定する問題であり、「現実」がまだ最後の勝利を占めたわけではないのである。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より
244 :
名無しさん@3周年:2011/03/04(金) 20:08:50.21 ID:fSW30ZwN
都市の問題を考へるとき、ゴミの問題を抜きにしては考へられない。パリの五月革命では、ゴミ処理のために軍隊が
出勤し、それが又いはゆる「後拠支援」の絶好の口実になつた。身に物理的危険が迫らなくても、ゴミの問題一つで、
大都市は力にすがらざるをえなくなるのである。都市の弱点とは、いはゆる重要施設ばかりではない。いかに
都市が近代化され機械化されても、その構成員が人間である以上、都市には動物的肉体的特徴が備はつてゐる。
それがすなはち、食物・飲料水と、排泄物の問題であり、この巨獣の排泄機能に故障が起れば、数日でダウンしてしまふ。
しかも消費経済の過剰な発達は、どんどん物を消費し廃品化して行かなければ、経済自体が成立たないといふ、
アメリカ経済的体質に変りつつある。もはや質素と倹約は、国家的見地からも美徳でなくなつたのである。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より
245 :
名無しさん@3周年:2011/03/04(金) 20:09:10.61 ID:fSW30ZwN
かくて大都市は、毎日毎夜、狂ほしくゴミを製造しつづける大工場になつた。私有の財貨は、ゴミと化すると共に、
公有の厄介物になる。それはあたかも、私有財産制が、たえざる自己否定と自己破壊をくりかへすことによつてしか、
自らの持つ意味をたしかめられない時代に入つたかのやうである。
ゴミをつくり、屎尿を排出することだけが、人間の生きてゐるしるしであり、人生は自分がゴミと化することに
よつて終る。
私の会つた東京都清掃局の古いヴェテラン職員の顔には、何か哲学者のやうな翳があつた。人間をさういふところで
キャッチしてゐるといふ並々ならぬ自信がうかがはれた。かういふ人たちの前へ出ると、われわれは実に弱い。
何だか自分がゴミと屎尿の製造機にすぎぬやうな気がしてくるからだ。夢の島を見て、その厖大さに、気の遠くなる
思ひをしたすぐあとのことであつた。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より
246 :
名無しさん@3周年:2011/03/06(日) 11:19:30.27 ID:0rTqlA/I
日米共同コミュニケによつて、現憲法の維持は、国際的国内的に新たなメリットを得たのである。すなはち国内的には、
今後も穏和な左翼勢力に平和現憲法の飴玉をしやぶらせつづけて面子を立ててやる一方、過激派には現憲法にも
これだけの危機収集能力のあることを思ひ知らせ、国際的には、無制限にアメリカの全アジア軍事戦略体制に
コミットさせられる危険に対して、平和憲法を格好の歯止めに使ひ、一方では安保体制堅持を謳いながら、一方では
平和憲法護持を受け身のナショナリズムの根拠にするといふメリットが生じたのである。これはいはば吉田茂方式の
継承であり、早急な改憲は、現憲法がアメリカによつて強ひられた憲法であるより以上に、さらにアメリカの
軍事的要請に沿うた憲法を招来するにすぎないといふ恫喝ほど、効き目のあるものはあるまい。改憲サボタージュは、
完全に自民党の体質になつた。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
247 :
名無しさん@3周年:2011/03/06(日) 11:19:55.50 ID:0rTqlA/I
空文化されればされるほど政治的利用価値が生じてきた、といふところに、新憲法のふしぎな魔力があり、
戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない。完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、
道義的退廃を惹き起こす。それは戦後のヤミ食糧取締法と同じことである。
(中略)
私が憲法を問題にするのは、そこに国家の問題が鮮明にあらはれてゐるからであり、しかも現憲法は、国家への
忠節に肩すかしを食わせて、未実現の人類共通の理想へのみ忠誠を誓はせるやうにできてをり、国家と忠誠とを
別次元に属する形で併記してゐる。
国家とは何ぞや、忠誠とは何ぞや、といふ問ひからはじめなければ、変革の論理は実質を欠くことにならう。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
248 :
名無しさん@3周年:2011/03/06(日) 11:20:26.33 ID:0rTqlA/I
私見によれば、祭政一致的な国家が二つに分離して、統治的国家(行政権の主体)と祭祀的国家(国民精神の主体)に
分れ、後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐるのが現代の日本である。近代政治学が問題にする国家とは、
前者にほかならない。ところで自由世界の未来の国家像は、ますます統治国家がその統治機能を、自治体、民間団体、
企業等へ移譲し、国家自体は管理国家としてのマネージメントのみに専念し、言論やセックスの自由は最大限に容認し、
いはばもつとも稀薄な国家がもつとも良い国家と呼ばれることにならう。そこでは時間的連続性は問題にされず、
通信連絡、情報、交易の世界化国際化による空間的ひろがりが重んじられる。スポーツや学術をはじめ、多くの
領域で世界国家的イメージが準備される。事実このやうな管理国家は世界連邦たるべきものの胎児なのである。
これを支配する原理は、ヒューマニズム、理性、人類愛などであり、非理性的ないし反理性的なものはきびしく
排除されるロゴスとしての国家である。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
249 :
名無しさん@3周年:2011/03/06(日) 11:20:50.92 ID:0rTqlA/I
一方、祭祀的国家はふだんは目に見えない。ここでは象徴行為としての祭祀が、国家の永遠の時間的連続性を保障し、
歴史・伝統・文化などが継承され、反理性的なもの、情感的情緒的なものの源泉が保持され、文化はここにのみ根を
見いだし、真のエロティシズムはここにのみ存在する。このエートスとパトスの国家の首長は天皇である。
ここでは濃厚な国家がもつとも良い国家なのである。
さて統治国家を遠心力とすれば祭祀国家は求心力であり、前者を空間的国家とすれば、後者は時間的国家であり、
私の理想とする国家はこのやうな二元性の調和、緊張をはらんだ生ける均衡にほかならない。
私はこの二種の国家をつきつけて、国民にどちらの国家に忠誠を誓ふか、決断を迫るべきであると思ふ。
いふまでもなく真にナショナルな自立の思想の根拠は、祭祀的国家のみにあり、統治的国家は国際協調主義と
世界連邦の方向の線上にあるものである。
そしてその忠誠の選択に基づいて、自衛隊を二分したらよいのである。このことは現憲法下でも法理的に可能である。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
250 :
名無しさん@3周年:2011/03/06(日) 11:21:14.73 ID:0rTqlA/I
現自衛隊に対する国民の最終的な疑惑は、表面上、最高指揮権は内閣総理大臣にあるけれども、最終的な指揮権は
アメリカ大統領にあるのではないかといふ疑惑であらう。航空自衛隊の編成装備、英語による指令等を見た者は、
一抹の不安を禁じえないであらう。
そこでまづ、航空自衛隊現勢力の九割、海上自衛隊の七割、陸上自衛隊の一割をもつて「国連警察予備軍」を
編成する。なぜ予備軍かといへば、現憲法下では海外派兵がむづかしいからである。日本国連警察予備軍は
統治国家としての日本に属し、安保条約によつて集団安全保障体制にリンクし、制服も独自の制服を持ち、主任務は
対直接侵略にあり、根本理念は国際主義的であり、将兵の身分は国連事務局における日本人職員に準ずる。
第二に、残余の兵力、すなはち陸上自衛隊現勢力の九割、海上自衛隊の三割、航空自衛隊の一割は「国土防衛軍」を
構成する。国土防衛軍の根本理念は、祭祀国家の長としての天皇への忠誠にあり、絶対自立の軍隊であつて、
いかなる外国とも軍事条約を結ばない。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
251 :
名無しさん@3周年:2011/03/06(日) 11:25:04.54 ID:0rTqlA/I
国連警察予備軍は状況に応じて、国連から核兵器の管理を委任されることもあるが、国土防衛軍の装備は在来兵器に
限られる。主任務は対間接侵略にあり、治安出勤も国土防衛軍の仕事である。なほ国土防衛軍は相当数の民兵を
包含し、わが「楯の会」はこのためのパイオニヤである。
国連警察予備軍は、高度の技術的軍隊で、新兵器の開発、技術の習得はここで行はれ、その成員は、軍人であると
同時に技師である。これに反して、国土防衛軍は、魂の軍隊といふ色彩が強く、そのモラルは徹頭徹尾武士的な
ものである。
そしてこの二つの軍隊を、共に指揮系統として内閣総理大臣が統括するが、その最終的忠誠の対象が異なるところから、
種々の礼式の相違があらはれるであらう。
(中略)私としては考へに考へた末であり、かつ、一場の夢物語であることも承知である。しかし日本の防衛の
あるべき姿を考へれば考へるほど、私にはほかの解決は思ひ当らない。もちろんこれには憲法の制約を考慮に
入れた上のことで、憲法を変へるとなれば、また話は別である。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
252 :
名無しさん@3周年:2011/03/06(日) 20:34:41.10 ID:0rTqlA/I
日本にとつてもつとも緊急に変革を要するものは防衛の問題であり、しかもそこにいかにして自立の思想を
盛り込むかといふ問題である。日本に変革の必須な問題は多々あらうが、これを除外して変革を考へることは
空論であり、共産党ですら、核兵器に一言も触れぬ狡猾さをもつて、武装中立を謳つてゐる。日本の防衛と自立の
永遠のジレンマのもとである核兵器が、国内戦に使へないといふ特質を持つてゐるところに目をつけて、この特質を
逆手にとつて、絶対自立の軍隊を健軍することがまづ急務であり、自衛隊をただあいまいに安保条約に接着させて
おくことは危険なのだ。中共はすでにIRBMの戦略配置を終つたと伝えられ、日本はその射程距離内に
はひるのである。
私の変革方式は、変革の雛型をまづ自分の力で自分の周辺に作ることだ。雛型であるから、まだ実用に役立た
なくても仕方ない。しかし自立の思想を肉体化し現実化して、これを通じて、何が正しいかを顕現することだ。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
253 :
名無しさん@3周年:2011/03/06(日) 20:35:02.96 ID:0rTqlA/I
(中略)現代社会では、一定の効果と一定のメリットが評価され、それが抽出されてしまふと、たちまちうしろへ
投げ捨てられてしまふ。政治は場当りの効果主義の集積である。
(中略)この「何事か」の積み重ねは、いくら積み重ねても同じ次元の積み重ねにすぎず、そこから別次元の
変革への飛躍は生れない。(中略)
私は文士としてまづ言葉を信ずる。しかし何らかの政治的有効性において信ずるのではない。私にとつての変革とは、
言葉と同じ高度の次元の、決して現象化され相対化されぬ現実を創り出すことでなければならない。そのための
行動とは、死を決した最終的な行動しかなく、それまでの行動類似のものはすべて訓練であり、世阿弥の言ふ
「稽古は強かれ」の「稽古」にほかならない。
変革とは一つのプランに向かつて着々と進むことではなく、一つの叫びを叫びつづけることだ、といふ考へが、
私の場合には牢固としてゐる。前述の自衛隊二分論は、相対的解決策としての変革にすぎぬが、その中にも私の
叫びの貫流してゐることを、聞く人は聞くであらう。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
254 :
名無しさん@3周年:2011/03/06(日) 20:35:33.61 ID:0rTqlA/I
かつてアメリカ占領軍は剣道を禁止し、竹刀競技の形で半ば復活したのちも、懸声をきびしく禁じた。この着眼は
卓抜なものである。あれはただの懸声ではなく、日本人の魂の叫びだつたからである。彼らはこれらをおそれ、
その叫びの伝播と、その叫びの触発するものをおそれた。しかしこの叫びを忌避して、日本人にとつての真の
変革の原理はありえない。近代日本知識人が剣道のあの裂帛の叫びを嫌悪するのは、あれによつて彼らの後生大事に
してゐる近代ヒューマニズムと理性の体系にひびのはひるのをおそれるからだ。あの叫びこそ、彼らの臆病な
安住の家をこはしにかかる斧の音をきくからだ。
変革とは、このやうな叫びを、死にいたるまで叫びつづけることである。その結果が死であつても構はぬ、
死は現象には属さないからだ。うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それを現象への融解から救ひ上げ、精神の
最終証明として後世にのこすことだ。言葉は形であり、行動も形でなければならぬ。文化とは形であり、形こそ
すべてなのだ、と信ずる点で私は古代ギリシア人と同じである。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
255 :
名無しさん@3周年:2011/03/07(月) 20:00:05.07 ID:HO+dpwVJ
もちろんわれわれは、いたづらに自己を拡張し、いたづらに古い軍国主義や、軍国主義の幻に惑はされて、
日本をそのうぬぼれの成し進めるままに、昔の誤りを繰り返へさせようとするものではありません。しかし、
私が言ひたいのは、元と末といふことであります。何よりも大事なのは、何を元と考へ、何を末と考へるかであり、
まづ元を固めてから末に及ぼすのが、政治のみならず人間精神の常道であります。元とは何か。
元とは、日本が自主自尊の念を持つて国防に邁進し、日本文化と伝統を守るのに人の力を借りず、その力を
侵さうとするものに対しては、一人一人、断固としてこれを排除する決意を持ち、少なくとも国民の一人一人に、
このやうな背すぢが一本通つたところで、はじめて堂々と面を上げて諸外国と交際し、産業・文化の交流はもちろん、
国益のために必要があれば軍事同盟もいとはず、あるひは国際連合への義務をも回避しないといふところに
あるのでなければなりません。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
256 :
名無しさん@3周年:2011/03/07(月) 20:00:34.82 ID:HO+dpwVJ
(中略)
私は、十月二十一日の新宿における反戦デモの見物に行きましたが、あのデモを見物したあとの私の感想は、
ただ一言「これで日本の憲法は変はらない」といふことでありました。(中略)
もし政府当局者が、この現場を見れば、もはや憲法を変へなくても、あらゆることが可能であるといふ判断を
持つたに違ひなく、しかも憲法を変へないといふことは、国際的、国内的に二つの極端なメリットを持つといふ
ことを認識したに違ひありません。
(中略)
われわれはもはや、根本的な改革の時代を生きてゐないと言はねばなりません。(中略)また憲法自らは、
相変はらず偽善的なただ乗り主義と、肩身の狭いやうにみえる防衛義務と相携へていかねばならんといふ跛行的状況の
永続を意味し、われわれが矛盾に耐へるのをおそれれば、みすみす外国の術中に陥り、われわれが矛盾を甘受すれば、
知らない間に精神の弛緩状態に陥つて、ますます現状維持の泥沼に沈むかもしれないからです。
われわれは狼にならうとすれば熊に食はれ、豚にならうとすれば人間に食はれるのかもしれないのです。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
257 :
名無しさん@3周年:2011/03/07(月) 20:00:59.57 ID:HO+dpwVJ
国際関係はいつも微妙な力のバランスの上に立ち、一国民のナショナリズムをもつてしても、なんともなるものでは
ありません。しかし一九七〇年を境に、われわれは個々に目をらんらんと光らせてわが身を振り返へり、世道人心の
奥に目を開いて、そこに底流するものを認識し、日本とは何か、真のナショナリズムなるものとは何か、それを
守るにはどうすればよいかを考へなくてはなりません。いまやナショナリズムは、新聞紙上や街頭で絶叫される
演説の叫びではなくて、われわれの一人一人に対する鋭い問ひかけになつたのであります。
ナショナリズムとは何か。ナショナリズムとは、軽々しく心に訴へるやうなものではなく、われわれの心の奥底に
あるものに対して、鋭い深いふれ方をし、われわれの最も美しい記憶とまた最もおそろしい記憶とも結びついて
ゐるやうなものであります。
それは、ヘルデルリンのハイムクンフト(帰郷)といふ詩にもあるやうに、ふるさとといふものは、われわれの
いちばん奥にあつて最もなつかしいものであると同時に、最もおそろしいものなのであります。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
258 :
名無しさん@3周年:2011/03/07(月) 20:01:23.87 ID:HO+dpwVJ
日本でいま、このやうなナショナリズムなものはあるでせうか。この民主主義の、言論自由の世の中で、
米軍基地撤廃も、沖縄の即時奪還も、いかやうな政治的な主張も、あるひは北方領土返還にしろ、言論として
声高に叫ばれ、また整然たるデモ行動にあらはされれば、自由にあらはされることができるものであります。
そのかはりそれは大衆社会の中で、不可能を、難業を、道理立てはするが、また再び忘れられるおそれのある、
いくつかの政治的主張の一つなのであります。
もはやわれわれのいちばん心の奥底で鋭い問ひを問ひかけ、外国のあらゆる力の干渉に対して、何千年の歴史・
伝統をもつて堂々と応へ得るものはただ一つ、天皇しかないといふのが、私の長年の主張であります。人は、
天皇と言ふと、たちまち戦前、明治憲法下における天皇制の弊害を思ひ出し、戦争からにがい経験を得た人ほど、
天皇制に対する疑惑を表明してきたのが常ですが、私は、天皇制とは、その歴史は、あくまでもその時代時代の
国民が、日本人の総力をあげて創造し復活させてきたものだと思ふのです。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
259 :
名無しさん@3周年:2011/03/07(月) 20:01:58.88 ID:HO+dpwVJ
いつも新しい天皇制があり、いつも現在の天皇制があり、その現在の天皇制の連続の上に永遠の天皇制があると
いふところに、天皇の本質がひそむのです。
これは一つの例をとつても、天皇ご自身にわれわれのやうな姓名ファミリーネームがなく、一つの非人称的な
方として伝承されてきたことをみてもわかります。新しい天皇制は、われわれがつくつていくものであり、そして
これを抜きにしては日本の今後の自立の精神の中心は見あたらず、また天皇をいたづらに政治権力に接着おさせ
することなく、あくまで無限受容の無我の本主体として、その日本独自の歴史・文化・伝統のみにかかはる君主制を
確立しなければなりません。
私は、七十年代におけるナショナリズムの探求が、必ずや天皇の問題にぶつからざるを得ないといふことを
信ずるものですが、左翼の民族主義が、その欺瞞を露呈するのは、彼らから天皇に対する態度徹底を、はつきりと
再び引き出すことにしかないでせう。共産党は、天皇制打倒のキャンペーンを、国民の反発をおそれてすでに
十数年前から引つ込めてゐるからであります。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
260 :
名無しさん@3周年:2011/03/09(水) 12:34:33.94 ID:WKpGYV+m
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、根底的にデラシネ
(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方ではその無用性に自立の根拠を置きながら、
一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。そこに知識人の複雑なコンプレックスがあり、こんなに
扱ひにくい人種はちよつと想像もできない。
知識人の自立を尊重するふりをしながら、その大衆操作の有用性をうまく利用し、かたがた彼らの有用性への
ひそかな憧れをみたしてやつた点では、政府よりも左翼のはうが何十倍も巧みであつた。戦後の知識人の役割が、
九割方、左翼の利用するところとなつたのは周知の事実であり、それなりに効果をあげたのである。
大学問題の勃発は、しかし、このやうな安定した進歩的知識人の天国に打撃を与へた。彼らの足もとに火がつき、
周章狼狽なすところを知らず、有用性の幻想は破壊されつつ、無用性の自立もすでに白昼夢となつた。進歩的知識人は
瓦礫と化した。
三島由紀夫「新知識人論」より
261 :
名無しさん@3周年:2011/03/09(水) 12:34:56.87 ID:WKpGYV+m
(中略)
私はここでまたしても日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はないと思つてゐる。知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらゐは
弁へてゐなくてはならぬからである。
大学問題は、命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しないといふ、人間と思想とのもつとも重要な
「関係」に目をひらかせた。これは戦後もつとも軽視されてゐた問題であつた。(中略)
知識人はもはや国家有用の材ではありえないし、いはんや反国家有用の材でもありえない、といふ悲惨な現状を
直視して、そこから出発しないことには何もはじまらない。あらゆる有用性有効性の幻想をきつぱり捨て、
「いや、君だつて役に立つんだよ」
といふ甘言に一切耳を貸さず、有用性へのノスタルジアも己惚れも捨てなければならない。と同時に、無用性の
永遠の嘆き節からも訣別せねばならない。
三島由紀夫「新知識人論」より
262 :
名無しさん@3周年:2011/03/09(水) 12:35:18.46 ID:WKpGYV+m
機動隊導入によつてやつと救はれながら、大学立法反対の面子を捨てかねてゐる、あの教授連の自己冒涜の轍を
踏んではならない。それはもう知識人としてでなく、人間としてダメになつた人たちなのだ。
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的もつとも根本的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。安保賛成や反対は足下に踏み破り、有用性と無用性を乗りこえた地点で、
ただ精神のもつとも純粋、正義のもつとも正しいものを開顕しようと日夜励んでゐればよいのである。権力も
反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐればよいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を
見詰めてゐればよいのである。断固として動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐれば
よいのである。私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。
三島由紀夫「新知識人論」より
263 :
名無しさん@3周年:2011/03/10(木) 12:11:32.35 ID:HNmF5Aly
文人の倖は、凡百の批評家の讃辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作者を死後に持つことである。
しかもその伝記作者が詩人であれば、倖はここに極まる。小高根二郎氏のこの好著を得て、蓮田善明氏は、
戦後二十年の不当な黙殺を償つて余りある、文人としての羨むべき幸運を担つた。(中略)このやうな作品を
小高根氏をして書かせたものこそ、蓮田氏の徳であり、又、その運命の力である。しかも蓮田氏の生前、
小高根氏との交遊が浅かつたことを考へれば、この作品に好い意味でも悪い意味でもみぢんも私心のないことが
首肯され、蓮田氏の文業とその謎の死が、この著作を内的な自然な衝動を以て促したことがすぐ見てとれるのである。
蓮田氏の文業とその壮烈な最期との間には、目のくらむやうな断絶があり、コントラストがある。終戦直後、
蓮田中尉がその聨隊長を通敵行為の故を以て射殺し、ただちに自決したといふ劇的な最期を遂げたとき、これを
伝へ聞いた蓮田氏の敵は、戦時中の右翼イデオローグのファナティシズムの当然の帰結だと思つたにちがひない。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
264 :
名無しさん@3周年:2011/03/10(木) 12:11:53.25 ID:HNmF5Aly
しかし少年時代氏に親炙した私にとつて、この死と私の知る蓮田氏のイメージとの間には、軽々に結び合はされぬ
断絶があつた。
ところで一個の肉体、一個の精神から出たものが、冥々の裡にも一本の糸として結ばれるといふ点については、
蓮田氏の敵もまちがつてはゐなかつた。ただ敵は、そのやうな激しい怒り、そのやうな果敢な行為が、或る非妥協の
やさしさの純粋な帰結であり、すべての源泉はこの「やさしさ」にあつたことを、知らうともせず、知りたいとも
思はなかつただけである。
少年時代に蓮田氏を知つた私の目からすれば、私は幸運にも蓮田氏のやさしさのみを享け、氏から激しい怒りを
向けられたことはなく、ただその怒りが目の前で発現して、私にもよくわからぬ別の方向へ迸つてゐる壮観を
見るばかりであつた。月に一度の「文芸文化」の同人会に、一少年寄稿家として出席を許され、そこで専ら
蓮田氏に接した私の印象は、薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家としての氏であつた。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
265 :
名無しさん@3周年:2011/03/10(木) 12:12:14.01 ID:HNmF5Aly
が、私は、詩人的国文学者としての氏を、古代から近代までの古典を潺湲(せんくわん)と流れる抒情を、何ら
偏見なく儒臭なく、直下にとらへて現代へ齎しうる人と考へてゐたから、氏の怒りの対象については関知する
ところでなかつた。
氏はそのやうな人として現はれ、そのやうな人として私の眼前から去つたのである。
「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の自分の
文化だと知つてゐる」(「大津皇子論」)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の
青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分が
そのやうにして「文化」を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾(うら)みに拠る。
氏が二度目の応召で、事実上、小高根氏のいはゆる「賜死」の旅へ旅立つたとき、のこる私に何か大事なものを
託して行つた筈だが、不明な私は永いこと何を託されたかがわからなかつた。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
266 :
名無しさん@3周年:2011/03/10(木) 12:12:32.85 ID:HNmF5Aly
(中略)
それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対して
あんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する
怒りだつた。
戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、
その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、
その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、
どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた
文化のために、憤りにかられてゐたのである。この騎士的な憤怒は当時の私には理解できなかつたが、戦後自ら
知識人の実態に触れるにつれ、徐々に蓮田氏の怒りは私のものになつた。そして氏の享年に近づくにつれ、
氏の死が、その死の形が何を意味したかが、突然啓示のやうに私の久しい迷蒙を照らし出したのである。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
267 :
名無しさん@3周年:2011/03/15(火) 11:37:49.60 ID:VyQqTfkP
西ドイツは、第二次大戦後連合軍占領下の占領基本法を憲法と見做(みな)さず、占領終了後自ら修正制定してゐる。
占領下に制定された憲法がそのまま維持されてゐる日本は、旧敗戦国中でも特殊例であり、これには、国際政治と
国内政治の双方の要因が複雑にからみ合つてゐることは周知の通りである。
憲法は国家の基本法であるから、法学者は逆に、国家を定義して、法体系の投影であると言ふ。現実の新憲法下の
日本を見る限り、正にその通りである。しかしながら、「逆モ亦真ナリ」は成立しない。憲法の法理念法体系が
国家の投影であるか、といふのに、新憲法はそのやうな確たる国家像を背後に持たず、国際連合憲章にすべてを
委任する形で成立してゐるからである。ここに現行憲法の最大の問題がひそんでゐる。
(中略)敗戦直後怱卒(そうそつ)に作られた現憲法は、直訳まがひの、日本語としてもつとも醜悪な文体を持ち、
木に竹を継いだやうな文字どほりの継受法として、何らの内発性なしに与へられ、教育によつて新世代に
浸透するやうに、いはばあとから内発性の擬制を作られたのである。
三島由紀夫「問題提起」より
268 :
名無しさん@3周年:2011/03/15(火) 11:39:01.00 ID:VyQqTfkP
国際政治の力関係によつて、きはめて政治的に押しつけられたこの憲法は、はじめからその国際政治の力学の上に
乗らざるをえぬ曲芸的性格を与へられてをり、それが又逆に、今日まで憲法を生き永らへさせてきた要因に
なつてゐる。ありていに言つて、現憲法と日米安保条約は合せて一セットになるやうに仕組まれてをり、又
同じ理由で、左派の護憲勢力の抵抗が、憲法改正の機運を挫折させ、これを逆手にとつた現政府の、護憲宣言と
なつて現はれたのであつた。左派は等しくアメリカから与へられた二つのものの内、一方の安保条約には反対し、
一方の平和憲法には賛成してきた。この態度の論理的矛盾を衝いた永井陽之助氏が、本来なら安保反対平和憲法反対が
自立価値中心の論理として、安保賛成平和憲法賛成が福祉価値中心の論理として、それぞれ一貫してゐるべきで
あるのに、それが現実の主張では、「安保反対・憲法護持」と云つた具合に紛糾してゐる、と論じてゐるのは
至当である。
三島由紀夫「問題提起」より
269 :
名無しさん@3周年:2011/03/15(火) 11:40:02.03 ID:VyQqTfkP
(中略)
国体は日本民族日本文化のアイデンティティーを意味し、政権交替に左右されない恒久性をその本質とする。
政体は、この国体維持といふ国家目的民族目的に最適の手段として、国民によつて選ばれるが、政体自体は
国家目的追求の手段であつて、それ自体、自己目的的なものではない。民主主義とは、継受された外国の
政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない。これがわれわれの思考の基本的な立場である。旧憲法は
国体と法体系の間の相互の投影を完璧にしたが、現憲法は、これを明らかにしてゐないことは前述の通りである。
けだし、国体の語を広義に解釈すれば、現憲法は二種の国体、二つの忠誠対象を、分裂させて持つてをり、且つ
国民の忠誠対象をこの二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐるからである。国体は本来、歴史・伝統・文化の
時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に成立するものであるが、革命政権における
国体とは、いふまでもなく、このやうなものではない。
三島由紀夫「問題提起」より
270 :
名無しさん@3周年:2011/03/15(火) 11:40:47.72 ID:VyQqTfkP
革命政権における国体は、未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の
理想主義をその本質とするであらう。ところが、奇妙なことに現行憲法は、この相反する二種の国体概念を、
(おそらく国論分裂による日本弱体化といふ政治的企図を含みつつ)、並記してゐるのである。これが憲法第一章と
第二章との、戦後の思想的対立の根本要因をなす異常なコントラストである。このやうな論理的矛盾を平然と
耐へ忍ぶことができるのは、正に世界に日本人の天才を措いて外にはあるまい。
第九条についてはあとで詳述するが、国際連合憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着したこの九条に
おいて、正に同一の条項が、一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを
正当化し、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなしたのであつた。
三島由紀夫「問題提起」より
271 :
名無しさん@3周年:2011/03/15(火) 11:41:40.61 ID:VyQqTfkP
しかしそれはあくまで戦略的戦術的見方であつて、教育と異を樹(た)てまいとする日本的右顧左眄と原爆
被爆国民としての心情と、その他さまざまなエモーショナルな基盤に支へられて、第九条が新らしい日本の
「国体」として成熟した半面、第一章「天皇」の各条は、旧世代のエモーショナルな支持にのみ支へられて、
「国体」としての権威を次第次第に失ひつつあるのが現状である。(中略)
しかしながら、国体と政体の別を明らかにし、本と末の別を立て、国にとつて犯すべからざる恒久不変の本質と、
盛衰を常とする政体との癒着を剥離することこそ、国の最大の要請でなければならない。
そのためには、憲法上、第一章と第二章とが到底民族的自立の見地から融和すべからざるものであり、この
民族性の理念と似而非(えせ)国際主義の理念との対立矛盾が、エモーショナルな国民の目前に、はつきり
露呈されることが何よりも緊要である。
三島由紀夫「問題提起」より
272 :
名無しさん@3周年:2011/03/15(火) 11:45:39.28 ID:VyQqTfkP
このことは、グロテスクな誇張を敢てすれば、侵略戦争の宣戦布告をする天皇と、絶対非武装平和の国際協調
主義との、対立矛盾を明示せよ、といふのではない。むしろその反対である。もし現憲法の部分的改正によつて、
第九条だけが改正されるならば、日本は楽々と米軍事体制の好餌になり、自立はさらに失はれ、日本の歴史・
伝統・文化は、さらに危殆に瀕するであらう。われわれは、第一章、第二章の対立矛盾に目を向け、この対立矛盾を
解消することによつて、日本の国防上の権利(第二章)を、民族目的(第一章)に限局させようと努め、その上で
真の自立の平和主義を、はじめて追求しうるのである。従つて、第一章の国体明示の改正なしに、第二章のみの
改正に手をつけることは、国家百年の大計を誤るものであり、第一章改正と第二章改正は、あくまで相互の
バランスの上にあることを忘れてはならない。
さて、何故に第一章の「国体」は、国民の忠誠対象として衰退したか? それはあくまで教育と政策の結果である。
三島由紀夫「問題提起」より
273 :
名無しさん@3周年:2011/03/15(火) 11:49:41.84 ID:VyQqTfkP
天皇制は戦後小泉信三的リベラリズムの下に風を除け、この風除けはいつしか天皇制の体質になつて、国民の
忠誠の対象視されることを避けよう避けようといふ一念で生き永らへてきた。古きノスタルジックな忠誠は、
天皇に対する個人的な信愛と敬愛のみにつながれた。国民の、無方向の忠誠の意慾が、その対象たることを
けんめいに避けようとしてゐる対象よりも、別種の対象へ誘導されることは自然である。微笑、友愛、やはらかな
好意、……さういふものなら、戦後天皇制が国民からもつとも歓迎するものであり、この歓迎に応へる装置も
さまざまに作られたが、「忠誠」だけは有難迷惑な贈物であり、これを拒絶する装置も隠密周到にさまざまに
作られた。しかし忠誠を拒絶することは、自ら国体たることを否定する態度に他ならないから、やむなく大衆は
無際限にその忠誠をうけ入れてくれる第九条のはうを現時の国体と考へるにいたつたのも無理はない。尤もこれらの
皇室政策が、天皇御自身の御意向に添うたものである、と私は言はうとしてゐるのではない。事勿れ主義の
官僚群が作つたものであることは明らかである。
三島由紀夫「問題提起」より
274 :
名無しさん@3周年:2011/03/15(火) 11:50:28.86 ID:VyQqTfkP
もしかりに、一定妥協して、不十分ながら第一章が日本の「国」とは何ぞやといふことを規定してゐるとしても、
第二章は明らかに、国家超克の人類的理想について述べてゐる。第一章が「国のため」といふ理念を一応掲げて
ゐると仮定しても、第二章が掲げてゐるのは「人類のため」といふ理念である。国民の側から云へば、忠誠対象の
不分明であり、国家の側から云へば、国家意志の不明確である。これらの茫獏たる規定から演繹される国家最高の
理念とは、人命尊重のヒューマニズムに尽き、平時はそれでよいが、ひとたび危機に際会すると、一九七〇年春の
ハイジャック事件のやうに、韓国、北鮮がそれぞれ明白に国家意志を表明したのに、ひとり日本は、人命尊重の
ヒューマニズム以上のものを表明することができず、しかもこのヒューマニズムには存分に偽善が塗り込められる
といふ醜態をさらしたのであつた。
三島由紀夫「問題提起」より
275 :
名無しさん@3周年:2011/03/17(木) 11:15:30.94 ID:MGsncPR2
――さて、逐条的に現憲法の批判に入ると、
第一条(天皇の地位・国民主権)天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、
主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条(皇位の継承)皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを
継承する。
とあるが、第一条と第二条の間には明らかな論理的矛盾がある。すなはち第一条には、「この地位は、主権の
存する日本国民の総意に基く」とあるが、第二条には、「皇位は、世襲のものであつて」とあり、もし「地位」と
「皇位」を同じものとすれば、「主権の存する日本国民の総意に基く」筈のものが、「世襲される」といふのは
可笑しい。世襲は生物学的条件以外の条件なき継承であり、「国民の総意に基く」も「基かぬ」もないのである。
三島由紀夫「問題提起」より
276 :
名無しさん@3周年:2011/03/17(木) 11:15:52.98 ID:MGsncPR2
又、もしかりに一歩ゆづつて、「主権の存する日本国民の総意」なるものを、一代限りでなく、各人累代世襲の
総意とみとめるときは、「世襲」の語との矛盾は大部分除かれるけれども、個人の自由意志を超越したそのやうな
意志に主権が存するならば、それはそもそも近代個人主義の上に成立つ民主主義と矛盾するであらう。又、もし、
「地位」と「皇位」を同じものとせず、「地位」は国民の総意に基づくが、「皇位」は世襲だとするならば、
「象徴としての地位」と「皇位」とを別の概念とせねばならぬ。それならば、世襲の「皇位」についた新らしい
天皇は、即位のたびに、主権者たる「国民の総意」の査察を受けて、その都度、「象徴としての地位」を
認められるか否か、再検討されなければならぬ。しかもその再検討は、そもそも天皇制自体の再検討と等しいから、
ここで新天皇が「象徴としての地位」を否定されれば、必然的に第二条の「世襲」は無意味になる。いはば天皇家は、
お花の師匠や能役者の家と同格になる危険に、たえずさらされてゐることになる。
三島由紀夫「問題提起」より
277 :
名無しさん@3周年:2011/03/17(木) 11:16:12.74 ID:MGsncPR2
私は非常識を承知しつつ、この矛盾の招来する論理的結果を描いてみせたのであるが、このやうな矛盾は明らかに、
第一条に於て、天皇といふ、超個人的、伝統的、歴史的存在の、時間的連続性(永遠)の保証者たる機能を、
「国民主権」といふ、個人的、非伝統的、非歴史的、空間的概念を以て裁いたといふ無理から生じたものである。これは、「一君万民」
といふごとき古い伝承観念を破壊して、むりやりに、西欧的民主主義理念と天皇制を接着させ、移入の、はるか
後世の制度によつて、根生の、昔からの制度を正当化しようとした、方法的誤謬から生れたものである。それは、
キリスト教に基づいた西欧の自然法理念を以て、日本の伝来の自然法を裁いたものであり、もつと端的に言へば、
西欧の神を以て日本の神を裁き、まつろはせた条項であつた。
三島由紀夫「問題提起」より
278 :
名無しさん@3周年:2011/03/20(日) 16:43:56.96 ID:1IAmD3O5
われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する権利を有する。天皇制を単なる慣習法と見るか、そこに
日本的自然法を見るかについては、議論の分れるところであらう。英国のやうに慣習法の強い国が、自然法理念の
圧力に抗して、憲法を不文のままに置き、慣習法の運用によつて、同等の法的効果と法的救済を実現してゆくが
如き手続は、日本では望みがたいが、すべてをフランス革命の理念とピューリタニズムの使命感で割り切つて、
巨大な抽象的な国家体制を作り上げたアメリカの法秩序が、日本の風土にもつとも不適合であることは言ふを俟たない。
現代はふしぎな時代で、信教の自由が先進諸国の共通の表看板になりながら、十八世紀以来の西欧人文主義の
諸理念は、各国の基本法にのしかかり、これを制圧して、これに対する自由を許してゐないのである。われわれが
もしあらゆる宗教を信ずることに自由であるなら、どうして近代的法理念のコンフォーミティーからだけは
自由でありえない、といふことがあらうか?
三島由紀夫「問題提起」より
279 :
名無しさん@3周年:2011/03/20(日) 16:44:25.34 ID:1IAmD3O5
又逆に、もしわれわれが近代的法理念のコンフォーミティーからは自由でありえないとするならば、習俗、伝習、
文化、歴史、宗教などの民族的固有性から、それほど自由でありうるのだらうか? それは又、明治憲法の
発祥に戻つて、東洋と西洋との対立融合の最大の難問に、ふたたび真剣にぶつかることであるが、敗戦の衝撃は、
一国の基本法を定めるのに、この最大の難問をやすやすと乗り超えさせ、しらぬ間に、日本を、そのもつとも
本質的なアイデンティティーを喪はせる方向へ、追ひやつて来たのではなかつたか? 天皇の問題は、かくて
憲法改正のもつとも重要な論点であつて、何人もこれを看過して、改憲を語ることはできない。
これについて幾多の問題点が考へられる。
天皇のいはゆる「人間宣言」は至当であつたか?
三島由紀夫「問題提起」より
280 :
名無しさん@3周年:2011/03/20(日) 16:45:42.36 ID:1IAmD3O5
新憲法によれば、「儀式を行ふこと」(第七条第十項)とニュートラルな表現で「国事行為」に辛うじて
のこされてゐるが、歴史・伝統・文化の連続性と、国の永遠性を祈念し保障する象徴行為である祭祀が、なほ
天皇のもつとも重要な仕事であり、存在理由であるのに、国事行為としての「儀式」は、神道の祭祀を意味せぬ
ものと解され、祭祀は天皇家の個人的行事になり、国と切り離されてゐる。しかし天皇が「神聖」と完全に
手を切つた世俗的君主であるならば、いかにして「象徴」となりえよう。「象徴」が現時点における日本国民
および日本国のみにかかはり、日本の時間的連続性と関はりがないならば、大統領で十分であつて、大統領とは
世襲の一点においてことなり、世俗的君主とは祭祀の一点においてことなる天皇は、正にその時間的連続性の
象徴、祖先崇拝の象徴たることにおいて、「象徴」たる特色を担つてゐるのである。
天皇が「神聖」と最終的につながつてゐることは、同時に、その政治的無答責性において、現実所与の変転する
政治的責任を免かれてゐればこそ、保障されるのである。
三島由紀夫「問題提起」より
281 :
名無しさん@3周年:2011/03/20(日) 16:46:08.84 ID:1IAmD3O5
これを逆に言へば、天皇の政治的無答責は、それ自体がすでに「神聖」を内包してゐると考へなければ論理的でない。
なぜなら、人間であることのもつとも明確な責任体系こそ、政治的責任の体系だからである。そのやうな天皇が、
一般人同様の名誉毀損の法的保護しか受けられないのは、一種の論理的詐術であつて、「栄典授与」(第七条
第七項)の源泉に対する国自体の自己冒涜である。
「神聖不可侵」の規定の復活は、おのづから第二十条「信教の自由」の規定から、神道の除外例を要求するだらう。
キリスト教文化をしか知らぬ西欧人は、この唯一神教の宗教的非寛容の先入主を以てしか、他の宗教を見ることが
できず、英国国教のイングランド教会の例を以て日本の国家神道を類推し、のみならずあらゆる侵略主義の
宗教的根拠を国家神道に妄想し、神道の非宗教的な特殊性、その習俗純化の機能等を無視し、はなはだ非宗教的な
神道を中心にした日本のシンクレティスム(諸神混淆)を理解しなかつた。
三島由紀夫「問題提起」より
282 :
名無しさん@3周年:2011/03/20(日) 16:46:32.97 ID:1IAmD3O5
敗戦国の宗教問題にまで、無智な大斧を揮つて、その文化的伝統の根本を絶たうとした占領軍の政治的意図は、
今や明らかであるのに、日本人はこの重要な魂の問題を放置して来たのである。天皇は、自らの神聖を恢復すべき
義務を、国民に対して負ふ、といふのが私の考へである。
一方、旧憲法の天皇大権は大幅に制約されて然るべく、天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならないが、
第二章への遠慮によつて、天皇の栄典授与の国事行為ですら、文官に対してのみ公然となされてゐる不均衡不自然は、
九条の変更によつて、直ちに改められるであらう。但し、事軍事に関しては、旧憲法の「統帥権独立」規定の
惨憺たる結果を見るにつけ、決して天皇にその最終指揮権を帰属せしむべきではない。
三島由紀夫「問題提起」より
283 :
名無しさん@3周年:2011/03/22(火) 11:36:32.49 ID:Ba+c+b3T
この条文(戦争の放棄)についてはさまざまな法解釈があとから行はれ、(中略)第九条第二項の「前項の目的を
達するため」を、「前項の目的を達するために限り」と強ひて限定的に解し、国際紛争を解決する手段としての
戦争を永久に放棄するために限り、戦力を保持しないが、それ以外の自衛の目的のためには保持しうるとして、
自衛隊の法的根拠とするすこぶる苦しい法解釈である。これが通常の日本文の語訳として奇怪きはまるもので
あることはいふまでもない。
ありていに言つて、第九条は敗戦国日本の戦勝国に対する詫証文であり、この詫証文の成立が、日本側の自発的
意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない。ただこの条文が、二重三重の念押しを
からめた誓約の性質を帯びるものであり、国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くものであることは
明らかである。論理的に解すれば、第九条に於ては、自衛権も明白に放棄されてをり、いかなる形においての
戦力の保有もゆるされず、自衛の戦ひにも交戦権を有しないのである。全く物理的に日本は丸腰でなければ
ならぬのである。
三島由紀夫「問題提起」より
284 :
名無しさん@3周年:2011/03/22(火) 11:37:06.69 ID:Ba+c+b3T
終戦後食糧管理法によりヤミ食糧の売買が禁じられてゐた時、一人の廉直な裁判官が、一点も国法に違背しまい
として、配給食糧のみで暮し、つひに栄養失調で死んだ。国家の定めた法に従へば死ななねばならぬとなれば、
緊急避難の理論によつてヤミ食糧を喰べることが正当化されるであらう。しかしこのことは国の定めた法の尊厳を
失はせ、実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大し、守りえぬ法の
存在そのものが、違法を人間性によつて正当化されるのであるから、道徳は法を離れて、人間性の是認に帰着し、
人命尊重を最高の道徳理念にするほかはない。しかも、一方、新憲法に於て、国家理念を剥奪された日本は、
その法の最後の正当性の根拠をも亦、「自ら定めた法を自ら破らざるをえぬ」といふ、人間性の要請、人命尊重の
緊急避難といふところへ設けざるをえない。
この裁判官の死は実に戦後の象徴的事件であつて、生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に
見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ることになつた。
三島由紀夫「問題提起」より
285 :
名無しさん@3周年:2011/03/22(火) 11:37:34.40 ID:Ba+c+b3T
第九条に対する日本政府の態度も正にこれである。第九条のそのままの字句通りの遵奉は、「国家として死ぬ」
以外にはない。しかし死ぬわけには行かないから、しやにむに、緊急避難の理論によつて正当化を企て、御用学者を
動員して、牽強附会の説を立てたのである。
自衛隊は明らかに違憲である。しかもその創設は、新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の
変化による要請に基づくものである。朝鮮戦争下のアメリカは、たしかに憲法改正を敢てしても、日本の自衛隊の
海外派兵を望んだであらう。しかるに吉田内閣は、ここにいたつて新憲法を抵抗のカセとして、経済的自立の
急務を説いて、防衛問題からアメリカの目を外らせたのである。(中略)
新憲法と安保が一セットであることは既述したが、一九七〇年の難関を突破した今、自民党は再び吉田内閣以来の
「新憲法と安保は一セット」主義に立ち戻つて、護憲を標榜してゐる。
三島由紀夫「問題提起」より
286 :
名無しさん@3周年:2011/03/22(火) 11:37:54.64 ID:Ba+c+b3T
その護憲のナショナリスティックな正当化は、あくまで第九条の固執により、片やアメリカのアジア軍事戦略体制に
乗りすぎないやうに身をつつしみ、片や諸外国の猜疑と非難を外らさうといふ、消極弥縫策にすぎず、国内的には、
片や「何もかもアメリカの言ひなりにはならぬぞ」といふナショナリスティックな抵抗を装ひ、片や「平和愛好」の
国民の偸安におもねり、大衆社会状況に迎合することなのである。しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ
押されて、自衛隊をただ「量的に」拡大し、兵器体系を改良し、もつとも厄介な核兵器問題への逢着を無限に
遷延させるために、平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆくことである。(中略)
核と自主防衛、国軍の設立と兵役義務、その他の政策上の各種の難問題は、九条の裏面に錯綜してゐる。しかし
ここでは、私は徴兵制度復活には反対であることだけを言明しておかう。
三島由紀夫「問題提起」より
287 :
名無しさん@3周年:2011/03/25(金) 11:30:04.62 ID:fpyrOLB/
第九条の改正乃至廃止は、国内では左派勢力の激発を、国内では米国のアジア軍事体制への歯留めなきかかり合ひを
意味し、且つ諸外国の警戒心恐怖心の再発を予見させるがために、「憲法改正」すなはち「九条改廃」が、
全国民をしておぞ気をふるはせるメドゥーサの首になつたのである。
私は九条の改憲を決して独立にそれ自体として考へてはならぬ、第一章「天皇」の問題と、第二十条「信教の
自由」に関する神道の問題と関連させて考へなくては、折角「憲法改正」を推進しても、却つてアメリカの
思ふ壷におちいり、日本が独立国家として、日本の本然の姿を開顕する結果にならぬ、と再々力説した。
たとへ憲法九条を改正して、安保条約を双務条約に書き変へても、それで日本が独立国としての体面を回復した
ことにはならぬ。韓国その他アジア反共国家と同列に並んだだけの結果に終ることは明らかであり、これらの国家は、
アメリカと軍事的双務条約を締結してゐるのである。
三島由紀夫「問題提起」より
288 :
名無しさん@3周年:2011/03/25(金) 11:30:25.63 ID:fpyrOLB/
第九条の改廃については、改憲論者にもいくつかの意見がある。
「第九条第一項の字句は、そもそも不戦条約以来の理想条項であり、これを残しても自衛のための戦力の保持は
十分可能である。しかし第二項は、明らかに、自衛権の放棄を意味するから削除すべきである」
といふ意見に、私はやや賛成であるが、そのためには、第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として
挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含してゐるといふのは、
不公平不調和を免かれぬ。その結果、わが憲法は、国際社会への対他的ジェスチュアを本質とし、国の歴史・
伝統・文化の自主性の表明を二次的副次的なものとするといふ、敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう。
むしろ第九条全部を削除するに如(し)くはない。
三島由紀夫「問題提起」より
289 :
名無しさん@3周年:2011/03/25(金) 11:30:45.61 ID:fpyrOLB/
その代りに、日本国軍の創立を謳ひ、健軍の本義を憲法に明記して、次の如く規定するべきである。
「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の
信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」
防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。物理的に言つても、一定の
領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることができないならば、その
一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、外国の軍事力(核兵器
その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではないことは、
赤化したカンボジア摂政政治をくつがへして、共和制を目ざす軍事政権を打ち樹てるといふことも敢てするのを
見ても自明である。
三島由紀夫「問題提起」より
290 :
名無しさん@3周年:2011/03/25(金) 11:31:07.07 ID:fpyrOLB/
自国の正しい健軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。
現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が
孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決を
はかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、
この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことに
なりかねないからである。
自衛隊は、警察予備隊から発足して、未だその警察的側面を色濃く残してをり、警察との次元の差を、装備の
物理的な次元の差にしか見出すことができない。国家の矜りを持つことなくして、いかにして軍隊が軍隊たりえようか。
この悲しむべき混迷を残したものが、すべて第九条、特にその第二項にあることは明らかであるから、われわれは
ここに論議の凡てを集中しなければならない。
三島由紀夫「問題提起」より
291 :
名無しさん@3周年:2011/03/26(土) 17:55:15.85 ID:fErBeaXr
私はごく最近、「諸君!」七月号で、貴兄と高坂正尭氏の対談「自民党ははたして政党なのか」を読みました。
そして、はたと、これは士道にもとるのではないかといふ印象が私を搏ちました。私は何も自民党の一員では
ありませんし、この政党には根本的疑問を抱いてゐます。しかし社会党だらうと、民社党だらうと、士道といふ
点では同じだといふのが私の考へです。
実はこの対談の内容、殊に貴兄の政治的意見については、自民党のあいまいな欺瞞的性格、フランス人の記者が
いみじくも言つたやうに「単独政権ではなくそれ自体が連立政権」に他ならない性格、又、核防条約に対する態度、
等、ほとんど同感の意を表せざるをえないことばかりです。
貴兄に言はせれば、三島が士道だなどと何を言ふか、士道がないからこそ多数を擁して存立してゐる自民党なのだ、
といふことになるかもしれません。しかし、「ウエスト・サイド・ストーリイ」の不良少年の歌ではないが、
すべてを社会の罪とし、自分らの非行をも社会学的病気だと定義するとき、個人の責任と決断は無限に融解してしまふ。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
292 :
名無しさん@3周年:2011/03/26(土) 17:55:38.66 ID:fErBeaXr
現代社会自体が、自民党のこの無性格と照応してゐることは、そこにこそ自民党の存立の条件があるといへるで
せうし、坂本二郎氏などはそんな意見のやうです。
しかし、貴兄が自民党に入られたのは、そのやうな性格を破砕するためだつた筈です。私はこの対談を二度読み
返してみて、貴兄がさういふ反党的(!)言辞を弄されること自体が、中共使節の古井氏のおどろくべき反党的
言辞までも、事もなげに併呑する自民党的体質のお蔭を蒙つてゐる、といふ喜劇的事実に気づかざるをえませんでした。
貴兄が自民党の参院議員でありながら、ここまで自民党をボロクソに仰言る、ああ石原も偉いものだ、一方それを
笑つて眺めてゐる佐藤総理も偉いものだ。いやはや。これこそ正に、貴兄が攻撃される自民党の、「政党といふ
ものの本体は、欺瞞でしかないといふことを、政党としての出発点から自分にいひ聞かせてゐるやうなところ」
そのものではありませんか。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
293 :
名無しさん@3周年:2011/03/26(土) 17:55:59.40 ID:fErBeaXr
私の言ひたいのは、内部批判といふことをする精神の姿勢の問題なのです。この点では磯田光一氏のいふやうに、
少々スターリニスト的側面を持つ私は、小うるさいことを言ひます。党派に属するといふことは、(それが
どんなに堕落した党派であらうと)、わが身に一つのケヂメをつけ、自分の自由の一部をはつきり放棄することだと
私は考へます。
なるほど言論は自由です。行動に移されない言論なら、無差別に容認され、しかも大衆社会化のおかげで、
赤も黒も等しなみにかきまぜられ、結局、あらゆる言論は、無害無効無益なものとなつてゐるのが現況です。
ジャーナリズムの舞台で颯爽たる発言をして、一夕の興を添へることは、何も政治家にならなくても、われわれで
十分できることです。もちろん貴兄が政治の実際面になかなか携はれぬ欲求不満から、言論の世界で憂さ晴らしを
されてゐるといふ心情もわからぬではありません。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
294 :
名無しさん@3周年:2011/03/26(土) 17:56:40.49 ID:fErBeaXr
では、何のために貴兄は政界へ入られたか? 貴兄を都知事候補にすることに、ほとんどの自民党議員が反対し、
年功序列が狂ふのを心配してゐる、と貴兄は言はれるが、もともと文壇のやうな陰湿な女性的世界をぬけ出して、
権力争奪と憎悪と復讐が露骨に横行する政界に足を踏み入れた貴兄にとつては、そんなことは覚悟の前であつた
筈です。
私は貴兄のみでなく、世間全般に漂ふ風潮、内部批判といふことをあたかも手柄のやうにのびやかにやる風潮に
怒つてゐるのです。貴兄の言葉にも苦渋がなさすぎます。男子の言としては軽すぎます。
昔の武士は、藩に不平があれば諫死しました。さもなければ黙つて耐へました。何ものかに属する、とはさういふ
ことです。もともと自由な人間が、何ものかに属して、美しくなるか醜くなるかの境目は、この危ない一点にしか
ありません。
私は政治のダイナミズムとは、政治的権威と道徳的権威の闘争だと考へる者です。これは力と道理の闘争だと
考へてもよいでせう。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
295 :
名無しさん@3周年:2011/03/26(土) 17:57:11.37 ID:fErBeaXr
この二つはめつたに一致することがないから相争ふのだし、争つた結果は後者の敗北に決つてゐますが、歴史が
永い歳月をかけてその勝敗を逆転させるのだ、と信ずる者です。もちろん楽天的な貴兄の理想は、この力と道理を
自らの手で一致させるところにあるのでせうし、悲観的な小生の行蔵は、道理の開顕にしかありません。しかし
今のところ貴兄の言説には、悲しいかな、その政治的権威も道徳的権威も、二つながら欠けてゐます。貴兄に
言はせれば、すべては自民党が悪いのでせうが、どうもこの欠如は、貴兄のケヂメを軽んずる姿勢に由来する
やうに思へてなりません。W・H・オーデンは、「第二の世界」の中で、「文学者が真実を言うために一身を
危険にさらしているという事実が、彼に道徳的権威を与える」と言つてゐますが、これは政治家でも同じことです。
「士道すでにみちたる上は、節によるこそよけれ」と、斎藤正謙が「士道要論」で言つてゐる「士節」とは、
この道徳的権威の裏附をなすものでもありませう。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
296 :
名無しさん@3周年:2011/03/28(月) 12:21:00.14 ID:lmft3Xqc
Q――石原(慎太郎)氏に向かつて「自民党にはひつたら党を批判するな」といふあなたの論法。これを
おし進めると、抵抗を否定することになる。従属といふか、非常に暗いものを要求する、抵抗を押へるのでは
ないか、と思ふのだが……。
三島:抵抗は死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。たとへば抵抗は楽しいもの
であるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。ベ平連式の“抵抗”は、大衆にアピールする。
抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないでフランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスをやることだ、これが
非常にいやなんです。抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきやできないのが本当である。
内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。共産党を内部批判すると
英雄になる。公明党を内部批判すると英雄になる。自分の属してゐるものの内部批判した男が英雄視される。
こんな間違つたことはない。抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
297 :
名無しさん@3周年:2011/03/28(月) 12:21:44.87 ID:lmft3Xqc
(中略)藩のきびしさは、いまの会社などとは、なるほど、くらべものにならないかもしれない。しかし、
そこに仕へるものの内面的なモラルといふものは同じだ。つまり、お前はこんな批判をしたから切腹ものだ、
首をはねる、なんて規則は外面的な規則でしよ。だけど自分は賊名を着せられてもあへてやるんだとか、あるひは
自分の中では内面的にそれを許さない、といふ場合に、人間はどういふ態度をとるべきか。その態度決定は文化や
伝統が規定すると思ふんです。(中略)
Q――「個人的なフラストレーションと公的な憤りを混同するな」といふことを書いてをられる。現代の抵抗には、
確かに、そんなのが多い。
三島:そろは抵抗側の政治組織の問題です。つまり個人的な怨恨を巻きこまなければ、大きな抵抗は組織できない。
さういふ組織がいけないといふのではない。(中略)
いまの日本は「公」と「私」の別がないやうな国、私益優先の国ですね。人命尊重以上の高い価値を持つたものは
なくなつた。それがいまの日本です。ですから「よど号」事件なんかでも、日本の政府は人命尊重以外には何も
いへない。日本には、それ以上の国是がないんだから。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
298 :
名無しさん@3周年:2011/03/28(月) 12:22:21.94 ID:lmft3Xqc
韓国でも北朝鮮でも国家意志といふものがあつたでせう。いまの日本には、国家意志などといふものはない。
石原君なんか、国家意志を持たうとするために政治家になつたのぢやないか。さういふ日本から脱却して――。
ぼくは、そのために彼を応援したのぢやないのか。だから石原君が私益優先みたいな社会の中で「私」と「公」を
混同するやうなものの考へ方だつたら、初めから矛盾ぢやないのか。あくまで公的なものだけを大切にするのが
彼の政治行為ではないのかと思ふのです。ぼくはむりやりにでも「公」と「私」を分けなきや政治行為なんて
できるものではないと思つてゐる。いまの若いもの、若い政治家が持つてゐる満たされないもやもやしたものを、
公的なものにすりかへてゐる。これは卑怯です。石原君だけでなく、日本人の多くが、いまさうですね。会社の
帰りに、いつぱい飲みながらやる上役の悪口が、いま日本中の世論といふものの原型になつちやつた。昔は、
あんなもの私的なもので、上役とのいさかひはその場で終はつた。翌日はケロッとしてゐたものだ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
299 :
名無しさん@3周年:2011/03/28(月) 12:27:48.72 ID:lmft3Xqc
Q――士道とは何か。
三島:山鹿素行の士道とか、吉田松陰のそれとか、士道にもいろいろあつてね。さう堅いことばかりいつてゐる
わけぢやない。「柔よく剛を制するの理(ことわり)をわきまふべし。しゐてつよからんと思へば、かへつて
よはきことあり。われつよければ、かれも又つよし」なんてのもある。こりや、ぼくのこといつてるのかも
わからんが……。
ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。内面的なモラルといつてもいい。内面的なモラル
といふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。
今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。ストイックなのは
損だと、だれもが考へてゐる。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
300 :
名無しさん@3周年:2011/03/28(月) 12:28:10.43 ID:lmft3Xqc
Q――「士道」といふもの、そもそもアナクロニズムではないのか。みんなが「士道」を実践してゐないのに、
一人だけサムラヒになつても効果がないんぢやないか。
三島:ぼくは「士道」を、みんなに向かつて鼓舞するつもりはない。ストイックなものだから、一人がさうで
あればいい。あるひは十人がなるかもしれないが、この巨大な社会の歯車の中で、一人がストイックになれば、
それがしだいに波及して順々に歯車が動いていくんぢやないか。さういふ気違ひみたいなヤツがゐないと、
日本、面白くないと思ひますね。
アナクロ? さうかもしれない。しかし、人間、どんな新しい身なりをしてゐても、一つだけ古いものを
持つてるのがダンディーぢやないのですか。精神的態度として。士道ていふのはダンディズムですよ。男の
“見伊達”といふか、さういふものですね。精神的な伊達ものですね。最新流行の服を着て、口に何十年か前の
古いパイプをくはへてゐるやうに、精神的にも一点、アナクロニズムが残つてゐるてのがダンディーなんですよ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
301 :
名無しさん@3周年:2011/03/28(月) 12:28:31.28 ID:lmft3Xqc
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。
三島:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで一滴の
しづくのやうにその人の心にしたたつたら、自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。「士道」といふ
ものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。われわれの心の中を探つてみると、心のなかに
持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。やましいものがあれば、士道に反してゐるのだ
と考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。なぜやましさを感じるか。それは士道にもとつてるからなんです。
士道つてそんなものではないか。一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
302 :
名無しさん@3周年:2011/03/31(木) 11:28:02.61 ID:CYB2tYli
どうもこの日本人といふのは、防衛といふ問題について、まだ戦争のアレルギーが残つてゐる。すぐ、徴兵制度の
恐怖といふのを考へる。私はこの機会にもはつきり申し上げておきますが、徴兵制度は反対であります。少なくとも
自分の意志に反して兵隊にするといふことは、これからの時代には、私は原理的に不可能なんぢやないかと思ふんです。
そんな兵隊が軍隊にゐたら反戦運動やるに決まつてるし、パンフレットを配るに決まつてるんです。そんな人間で
軍隊が内部崩壊することを恐れるのに比べれば、人数は少なくつてもいいから、やりたいつて奴だけ集めればいい。
それ以外の人間は、もし戦争でも起きたらどういふふうに国に協力できるか。それは各々の軍を持つてやればいい。
各々の軍といふのはどういふことか。その時になつて色んな人間が自衛隊の周りに群がつて来て、「私にも
手伝はせてくれ」つて言はれましても、御飯炊きをする奴がいつぱいゐても困る。普段の平時からそれぞれの
能力に応じて、一旦緩急ある時に協力できる体制を作ればいいぢやないか。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
303 :
名無しさん@3周年:2011/03/31(木) 11:28:31.01 ID:CYB2tYli
どんなことかと申しますと、例へば自動車の免許であります。(中略)とにかくレジャー時代で、(中略)
今では子供から自動車持つやうになつちやつた。(中略)
私はこのライセンスといふものをですね、全て一種の軍事的な条件付きのライセンスにしたらいいんぢやないかと。
もし日本で戦争が起きた場合には、お前の自動車召し上げるぞ。或ひは、お前、自動車の運転手として徴集するぞ。
さういふ形にして自動車の免許証を取らせることにいたしますと、まあ、中曾根さんのお話では、それは
憲法違反ぢやないか、職業上の自由を阻害することになるぢやないかと言はれましたけれども、プロの運転手に
なるのは別として、今白ナンバーでヨタヨタ走つてゐるのは皆アマチュアで、遊ぶために自動車が欲しいんですから、
「遊びたいと思つたら軍事的義務を負ふ」といふことを日本中あらゆる所にくつつけておけば、その技術が
役に立つ場合が来るんぢやないか。(中略)さうすると日本中に自動車が減つて公害が少なくなつて、非常に
日本はいい国になるんです。どつち転んでもいいことなら、やつた方がいいぢやないか。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
304 :
名無しさん@3周年:2011/03/31(木) 11:28:51.57 ID:CYB2tYli
また、この新宿なんかいらつしやると、西口に副都心といふものがありますね。あの下の方へずつと入つて
らつしやると、相当な地下街があるんです。あれをどうしてシェルター基準にしないんだ。シェルターといふものは、
一メートル、あるひは一メートル二十位のコンクリート壁がまづ必要条件です。ところが、どの壁も薄くつて
そんなシェルター基準に合ふわけがない。さうしますと、この建築基準の中にですね、シェルター基準をすつと
混じり込ませればいいんです。美濃部さんにも黙つてうまくやれるんです。美濃部さん反対するでせうけど。
さういふふうにちよつとしたことで、基準を設ければ、いくらでも軍事施設といふものに転用ができるんです。
平和時代には、そこでネグリジェだのパンティだの売つてる。そして、戦時になれば、忽ち転換して市民を
とにかく安全な場所へ避難させるシェルターができるんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
305 :
名無しさん@3周年:2011/03/31(木) 11:29:14.63 ID:CYB2tYli
それから、高速道路ですね。あんなねえ、まあ、仮小屋みたいなもの作つてですね、あれは世界銀行から慌てて
金を借りて、オリンピックに間に合はせた一号線なんてのはもうガタが来てる。あんなもの作るくらゐなら、
初めから戦車一個大隊通れるくらゐの建築基準作ればよろしい。今の高速道路では、戦車一個大隊が無事に通れるか
はなはだ危ない。また方々の高速道路でも、まあゲリラかなんかに爆弾しかけられますと、一ヶ所が途切れれば
もう忽ち輸送ができなくなつてしまふ。
さういふ所に平和の時代から軍事的な配慮を入れて、「治に居て乱を忘れず」といふやうなものも、自主防衛の
一つで、国民がレジャーを楽しむ為に何かを我慢する。もう税金取られてるんですから、どうせ。少しぐらゐ
我慢すること、何でもない。さういふ形でギブ・アンド・テイクをやつていかないと、これからの日本はダメだと。
遊びたかつたら、何かちよつと辛いことが一つある。でも、それでも遊びたいつてのは、人間の本性ですから
遊ぶでせう。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
306 :
名無しさん@3周年:2011/03/31(木) 11:33:02.58 ID:CYB2tYli
(中略)
防衛とちよつと話がはづれますが、ある機動隊へ私は話しに行つたことがある。(中略)私は、この機動隊へ行つて、
機動隊諸君の熱情に非常に打たれた。私は実はおまはりさんてあまり好きぢやないんですけれども、機動隊員は
実に好きだ。といふのは、機動隊員は真つ直ぐに自分の行動に挺身するために身体を張つてゐる。さういふ
行動集団である。かういふ連中は実に気持ちがいい。私は彼等と話して非常にいい気持ちになつた。
ところが、その最後にそこのキャプテンみたいな、ちよつと年輩の人でした、私ぐらゐでせう、それが、私が
あまり話が合ふんで心配になつたんでせう。最後にかういふことを言つた。「えー、ミスマ先生、今のおハナス、
大変結構でしたけれども、どうかこの国民ソクンに誤解されないやうにお願ひしたいと思つてをります」
「誤解されないつて、あなた何を言ひたいんですか」「我々は、ミンススギを、デモクラスィを守るためにやつて
ゐるんで、デモクラスィ、守るのが機動隊だつつうことを忘れないやうにお願ひしたい」
私はその話を聞いて、非常に情けなかつた。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
307 :
名無しさん@3周年:2011/03/31(木) 11:33:26.87 ID:CYB2tYli
我々はデモクラシー守るために機動隊をやつてるんぢやないんだ。デモクラシーつていふものを、さういふふうに
簡単に考へて使ふ、そして、さういふふうな形でもつて機動隊といふものを教育してる。機動隊諸君には可哀想だ
けれども、諸君、デモクラシー守るためにどうしてそんな血を流すんだと。デモクラシーは外国からやつてきて、
外国の占領軍が日本に押しつけて去つた、何かはかない根無し草ぢやないか。
それも日本ていふのは、デモクラシーの良いところを明治時代からうんと認めてですね、徐々に徐々に国民の力で、
普通選挙法の成立まで、国民同士が血を流しながら作つてきたんだ。その中で政治制度にいろんな欠点はあつた
けれども、日本なりに一番日本人に適した形の民主主義を作らうと思つて、営々として努力してきたんだ。
それが、戦争に負けて一時御破算になつたけれども、そこの上に接木されたやうな、全くのアメリカのデモクラシー、
日本の風土に何も根ざさないやうな外国から来たデモクラシーを、何で守らなきやならんのだ。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
308 :
名無しさん@3周年:2011/03/31(木) 11:33:50.26 ID:CYB2tYli
日本人は日本人に一番適した政治制度を、我々の力で作つていくのが本当ぢやないか。外国から押しつけられた
ものをただ守るために、その武装集団が居てくれたつてしやうがないんだ。我々は外国人のお陰で生きてゐるつて
いふよりも、日本人なんだといふやうな反感を、私は感じたことがあるんです。
それと同じやうなことで、自衛隊も、デモクラシーを守るといふやうぢや困る。自衛隊が国連憲章の精神に忠実で
あることはいいんです。しかし、それは結局デモクラシーの方向において国連に繋がるだけであつて、本当に
国民精神の自発的な要求によつて国連に繋がるんぢやなければ、本当は意味がないんです。
その自発的な国民の意志といふものは国民精神からしか生まれない。しかも、その国民精神といふものがですね、
今、目前の色んな政治的事象の中にある、単なる政治化、国際協調主義から生まれるものぢやなくて、日本といふ
ものに対する本当の自信から生まれるものである。その自信は何かといふと、あくまでも文化価値、精神的価値で
あつて、政治的価値ではない。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
309 :
名無しさん@3周年:2011/04/01(金) 17:01:35.96 ID:ZKPtjI2S
国民精神といふものは、歴史と伝統と文化との誇りから自然に生まれてくるものである。外国から押しつけられた
教育で、国民の誇りをなくすやうな方向へ日本を持つて行きながら、さうして国民精神を自ら崩壊させる方向へ
持つて行きながら、何をもつてさういふものを基盤にした防衛といふものが成り立ちうるか。
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の日本に
残した、この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。しかし、
我々がいくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正できないと
いふことは、何を意味するんだといふことを考へないできたんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
310 :
名無しさん@3周年:2011/04/01(金) 17:01:59.48 ID:ZKPtjI2S
それでは憲法改正すりや、ファッショになるだらうか。これが非常に問題なんですね。ナチスはワイマール憲法を
改正してないのは、皆さんご存知と思ふんです。ナチスはたうとう憲法改正事業つていふことを、やつてないんです。
そして、全権授権法つていふのを成立させたのは、ワイマール憲法下で成立させたんです。あくまで平和憲法下で
ナチズムといふものは出てきたんです。この事実、歴史的な事実をよく知らない人間は、憲法改正すれば
ファシズムになる、ナチズムになると言ふんです。
ところが、ファシズムやナチズムになりたかつたら、憲法を変へる必要がないんです。そして、国家の根本の
精神といふものを作り直すには、何もそんな難しいことをやらなくたつていいんだつてことを、だんだんと
分かつてきてるのかどうかといふことを、私は非常に疑問に思つてきたわけであります。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
311 :
名無しさん@3周年:2011/04/01(金) 17:02:41.26 ID:ZKPtjI2S
(中略)
今この危機感が全然ないといふやうな時代になつてきて、今、世界中で一番呑気なのは日本かもしれないんですが、
日本に果たして、かういふ危機がもし生じた場合、対処するやうな大きな精神的基盤があるだらうか。いや、
日本人は大丈夫だ、日本人といふのは放つておいても、いざといふ時にやるさ。ところが、放つておくうちにですね、
お腹の脂肪が一センチづつだんだんだんだん膨らんでくるのが、皆さんの体験的事実としてご存じだと思ふんです。
そして、人間といふのは豚になる傾向もつてゐるんです。
私は今日人間だと思つても、明日自分が豚になるかもしれないといふ恐怖でいつも生きてきた。やつぱり豚に
ならないためには、そして脂肪が蓄積しないためには、絶えず精神を研ぎすまし、例へば日本刀を毎日磨くやうに、
磨いていかなきや人間てのはダメになると。日本人はその一日一日ダメになつていくといふことに気がつかないんぢや
ないか。さう思つてまゐりますと、今の世界情勢といひますか、この国際戦略上の日本といふ国の難しさといふ
ものが、だんだんに分かつてくるのであります。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
312 :
名無しさん@3周年:2011/04/04(月) 21:44:27.77 ID:Q3QYOgHr
(中略)
我々は国際戦略といふものの、一番渦が渦巻いてゐる日本といふ国にゐるんです。日本ていふ国はあたかも
実験室のやうなものです。ベトナムのやうな激しい戦争は戦はれてはゐないけれども、国民の心の一つ一つの
中にですね、さういふ二つの大きな勢力の渦が、どつちが勝つかといふ形で忍び込んできてゐる。その忍び込み方は
非常に巧妙で、騙されやすい。
(中略)
そして、日本ていふ国はですね、天皇陛下を中心にして、まあ、千年以上、二千年近い歴史を、とにかく
日本人独特のやり方によつて生きてきたんです。これが、日本といふものの大事な点であつて、それをどつか
棚の上に上げておいて、ヒューマニズムだとか、国連中心主義だとか、やれ平和尊重だとか、やれ民主主義擁護だとか
言つてみたところで、私は共産戦略に勝つことは絶対にできないと固く信じてゐるんです。
その日本人てことが、防衛の問題になつてどう出てくるか。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
313 :
名無しさん@3周年:2011/04/04(月) 21:45:09.73 ID:Q3QYOgHr
これは、防衛問題で一番難しいところで、うつかり日本人、日本人て言ひ過ぎると、また、軍国主義復活なんて
外国の新聞で叩かれちやふ。だから、さうも言へない。お前、自分で防衛を論ずる場合、何が一番大事だと思ふんだ、
日本を守ることであるつて言ふと、今や多少モンロー主義的になりつつあるアメリカはどう言ふか。よしやつてくれ。
頼もしい。諸君、是非自分で自分の国を守つてくれつて言ふでせう。
(中略)まあ、左翼側に言はせれば、アジア人をしてアジア人と戦はしめよといふやうなのが、アメリカ側の
軍事政策であると言はれてゐる。(中略)
我々は何もそのアメリカのおかげでもつて、民族同士、よその民族主義と戦ふ気持ちは毛頭ない。我々はただ、
日本といふものを守り、せつかく日本といふ国があるのに、それを侵さうとする勢力から守らうとしてゐるに
過ぎない。ただ、その日本人の守らうとする自主防衛の努力と、向うが、よし自分たちでやつてくれといふ
気持ちとは、本当にすつきりと合ふ時があるかどうかは、私は非常に疑問に思ふんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
314 :
名無しさん@3周年:2011/04/04(月) 21:47:20.96 ID:Q3QYOgHr
日本はアメリカに反抗して生きることはできません、悲しいながら。しかしながら、アメリカの何も手下になつて、
ただかつかつと、まあ残り物をもらつて生きるといふのもプライドが許さない。(中略)自分たちの力でですね、
日本が日本を守るといふことがどういふことかと、その一番現実的であると同時に理念的精神的な問題を、
突つ込んで突つ込んで突つ込まなきやいかん。
で、その基盤になる国民精神とは何であるか、日本の国体とは何だ、国柄とは何だ、さういふものをよおく
突つ込んで考へることが、防衛といふものの一番の問題であつて、さういふことを抜きにしてですね、この次の
ファントムが一機幾らだから税金をどれくらゐ取られるとか、そんなことは何億円、何十億円かからうとも、
末の末の問題だと私は思つてゐる。何よりも、その精神の価値といふものを自分の中に認識したいと、これが
私の今日のお話で、結論になります。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
315 :
名無しさん@3周年:2011/04/04(月) 21:56:05.41 ID:o7z/M7g6
三島には、文学作品をまともに創造する才能(独創的な思想・ストーリー展開)といふものにかけていた。
そこで、右翼的衣装を引き出して、その陰にかくれて、恰好をつけようとした。
みっともねえのは仕方ないが、それを祭り上げるバカは救いようがない。
316 :
名無しさん@3周年:2011/04/08(金) 16:09:11.06 ID:nDDgeEam
乃木大将の死とともに終つた陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかつた。
過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなつた。といふのは、大正知識人が徐々に指導者となる時代、
昭和初年にいたつて、このやうに否定され忌避され抑圧された陽明学的潮流は、地下に潜流して、過激な右翼思潮の
温床となつたために、ますます大正知識人に嫌はれる対象となり、被害者意識から大正知識人が、後輩へあへて
伝へまいとした有害な「黒い秘教」になつたのである。
一方マルクシズムは、知識層の革命的関心の、ほとんど九十パーセントを奪ひ去つた。北一輝のやうな日本的
革命思想の追究者は、孤立した星であつた。マルクシズムが陽明学にとつて代り、大正教養主義・ヒューマニズムが
朱子学にとつて代つたといふこともできるであらう。朱子学の、なかんづく、荻生徂徠のやうな外来思想の心酔者は、
大正知識人にとつてもむしろ親しみやすかつた。しかし国学と陽明学はやりきれぬ代物だつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
317 :
名無しさん@3周年:2011/04/08(金) 16:09:45.89 ID:nDDgeEam
国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になつた。インテリは触れるべからざるものに
なつたのである。
今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒してゐるいくつかの思想的タブーがあり、武士道では「葉隠」、
国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがつて天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、
インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされてゐる。さういふものを何か「いまはしい」ものと
考へるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落としてゐる。西欧的合理主義の移入者であり代弁者で
あるところに、自己のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なほ日本知識層の気質の底に
ひそんでゐる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまはしいもの、
醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つで
あつたのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
318 :
名無しさん@3周年:2011/04/08(金) 16:10:11.24 ID:nDDgeEam
現代日本知識人は、かくて無意識のうちに朱子学的伝統を引いてゐる。すなはち、西欧化近代化の文明開化主義の
明治政府と、その劇画化としての第二次大戦後の政府との、基本方針を逸脱せぬところで、同じ次元で、これを
批判し、あるひは「教育」する立場に矜りを見つける。マルクシストさへ、近代化の方策の差といふのみで、
近代主義者には変りがないから、近代主義の先駆としての立場から、「保守的」政府を批判し、それ以上には
出ないのである。大内兵衛氏が、自民党内閣と社会党と双方に関係するのは、双方が近代主義の異腹の児で
あるといふ点で、矛盾はない。
現代日本知識人の身を置く立場や思想は、マルクシズムの神話の崩壊につれ、ますます朱子学の各分派といふ様相を
呈するであらう。私見によれば陽明学は、決してその分派に属さない。むしろ今こそそれは嘗てあつたよりも
激しい形で、提起され直さねばならない。あらゆる政治学が劇薬でありえなくなつた現在、菌にも耐性ができて、
大ていの薬では利かなくなつたのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
319 :
名無しさん@3周年:2011/04/08(金) 16:10:48.44 ID:nDDgeEam
さて今まではといへば、たとへば(中略)氏(丸山真男)はそのかなり大部の著書の中でわづかに一頁の
コメンタリーを陽明学に当ててゐるに過ぎない。氏は、陽明学をあくまで朱子学に依存する一セクトとして見、
これを簡略に説明して、朱子の「知先行後」に対して「知行合一」を主張するところの主観的、個人的哲学で
あるとなし、陽明学は朱子学の理の内包してゐた物理性をことごとく道理性のうちに解消せしめたが故に、
朱子学ほどの包括性をもたず、朱子学ほどの社会性を失つた、と説いてゐる。
しかしながら陽明学は、明治維新のやうな革命状況を準備した精神史的な諸事実の上に、強大な力を刻印してゐた。
陽明学を無視して明治維新を語ることはできない。
大体、革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの
二本の柱にあると思はれる。(中略)二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッカーの準備した
能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの「二十世紀の神話」が、
ナチスのミスティシズムを形成した。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
320 :
名無しさん@3周年:2011/04/10(日) 11:22:47.70 ID:+pjSjlFI
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に
入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは
人間性の自然である。
明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によつて準備された。
本居宣長のアポロン的な国学は、時代を経るにしたがつて平田篤胤、さらには林桜園のやうなミスティックな
神がかりの行動哲学に集約され、平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培つた。
また、これと並行して、中江藤樹以来の陽明学は明治維新的思想行動のはるか先駆といはれる大塩平八郎の乱の
背景をなし、大塩の著書「洗心洞箚記」は明治維新後の最後のナショナルな反乱ともいふべき西南戦争の首領
西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
321 :
名無しさん@3周年:2011/04/10(日) 11:23:12.73 ID:+pjSjlFI
また、吉田松陰の行動哲学の裏にも陽明学の思想は脈々と波打つてをり、一度アカデミックなくびきをはづされた
朱子学は、もとの朱子学が体制擁護の体系を完成するとともに、一方は異端のなまなましい血のざわめきの中へ
おりていき、まさに維新の志士の心情そのものの思想的形成にあづかるのである。
主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによつて善悪を超越する哲学であるこの陽明学といふ危険な思想は、
丸山氏のいふところの、まさに逆を行つて、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派といふ仮面に隠れながら、その実、
もつとも極端なラディカリズムと能動的ニヒリズムの極限へ向かつて進んでいつた。その「良知」とは、単に
認識の良知を意味するものではなく、「太虚」に入つて創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、
武士的な行動原理と思はれる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもつとも危険な消息を伝へるものであつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
322 :
名無しさん@3周年:2011/04/10(日) 11:23:35.16 ID:+pjSjlFI
(中略)
私はさつき、死に直面する行動がニヒリズムを養成するといふことを言つた。陽明学の時代にはニヒリズムと
いふ言葉はなかつたから、それは大塩平八郎(中斎)の中斎学派がとりわけ強調した「帰太虚」の説の中に
表はれてゐる。
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚といふものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを
良知によつて弁別し得る最後のものであり、ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると
主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚はそのまま
太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた
思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に
偏在する太虚に帰することができるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば能動的ニヒリズムの根元と
考へてよいだらう。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
323 :
名無しさん@3周年:2011/04/10(日) 11:24:28.92 ID:+pjSjlFI
ただ、この太虚が仏教の空観に、ともすると似てきてしまふことは、森鴎外も小説「大塩平八郎」の中でそれとなく
皮肉に指摘してゐる。仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の
創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達してまた現世へ
戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へにはこの仏教の空観と陽明学の太虚を
つなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、
また陽明学的な行動ともいふことができるのである。
陽明学をごく簡単に説明したものとしては、井上哲次郎博士の「王陽明の哲学の心髄骨子」といふ古い論文がある。
(中略)明代の哲学者王陽明は朱子哲学の反動としておこつた人であるが、朱子哲学が二元論であつたので、
これに対して一元論の哲学を唱導し、陸象山の思想を受けてこれに自由主義的あるひは平等主義的な傾向を与へて
陽明学を体系づけた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
324 :
名無しさん@3周年:2011/04/14(木) 11:08:16.50 ID:4HWe0aBo
(中略)
そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに
立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
もちろん、認識と行動との一致といふことを離れて考へてみても、われわれが認識ならぬ知に達する方法としては
古人がすでに二つの道を用意してゐた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、
一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいはゆる脱自、陶酔、
恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するといふ方法である。これは哲学の中の二つの潮流を
形づくると同時に、人間の行動様式、行動様式の表はれとしての倫理や文化などの、すべての分岐点として現はれた。
陽明学を革命の哲学だといふのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとした
ものだからである。私がかう言ふのは、学問によつてではなく行動によつて今日までもつとも有名になつてゐる
大塩平八郎のことをいま思ひうかべるからだ。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
325 :
名無しさん@3周年:2011/04/14(木) 11:08:58.00 ID:4HWe0aBo
(中略)
大塩が思ふには、われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、太虚の一つである。
この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも口や耳を通じてひそんでゐる。われわれが持つて
ゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に
帰すれば、天がすでにその心に宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていくほかはない。形の
あるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつてゆすぶられる。何故なら形があるからである。
しかし、地震は太虚を動かすことはできない。これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を
語ることができるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
326 :
名無しさん@3周年:2011/04/14(木) 11:09:20.70 ID:4HWe0aBo
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超脱して
真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。また、心の外にある虚は、
すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。この説は世界の実在はすなはちわれであると
いふ点で、ウパニシャッドのアートマンとはなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」といふことを
つねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと思はれるのである。心がすでに太虚に
帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。
心が本当に死なないことを知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
327 :
名無しさん@3周年:2011/04/16(土) 10:48:48.38 ID:kyXowahS
(中略)
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、平八郎とは
反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」といふ人が無数にふえていくことが想像される。
肉体の延命は精神の延命と同一に論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重の
ヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり
恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり平和である。しかし、そこに肉体の生死を
ものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が
底流することになるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
328 :
名無しさん@3周年:2011/04/16(土) 10:49:18.61 ID:kyXowahS
(中略)
大塩平八郎の死は、前にも言つたやうに天保八年三月のことであつたが、それから四十年を経た、西郷南洲の
西南の役における死に思ひ及びと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によつて貫かれて
ゐることにわれわれは気づく。西郷の「手抄言志録」によれば、その第二十一には、死を恐れるのは生まれてから
のちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の
性質であつて、肉体を離れるとき初めてこの死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ
気持のうちに死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである、
といふ意味のことをいつてゐる。
現にま西郷は幕吏に追はれた親友の僧月照と共に薩摩の海に舟を浮かべ、月照が示した和歌に同感して直ちに
彼と共に相擁して海に身を投じたことがある。そのときに死んだのは月照だけで、西郷は蘇ることになるのであるが、
彼はその後一生、月照と共に死ねなかつたことを憾みに思つてゐたやうである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
329 :
名無しさん@3周年:2011/04/16(土) 10:49:45.64 ID:kyXowahS
(中略)
この(「南洲遺訓」)文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に
同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させる
のである。聖人がわれわれの胸奥に住むならば、その聖人とわれわれとは同格でなければならない。甚だ傲慢な
哲学であるが、それはあたかも「葉隠」の、「われは日本一なりとの増上慢なくてはお役に立ち難し」といふやうな
自我哲学の絶頂と照応してゐる。
このやうな同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考へて
ゐるところからは、決して行動のエネルギーは湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と
同一視することであり、自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
330 :
名無しさん@3周年:2011/04/16(土) 10:51:57.91 ID:kyXowahS
そのやうな行動の、次元を絶した境地は、吉田松陰が獄中から品川弥二郎に送つた書簡の中にもうかがはれる。
松陰は一つの空虚を巨大な空虚に結びつけ、一つの小さな政治的考慮を最高の理想に結びつけて、小さな行動を
最終の理念に直結させるための跳躍の姿勢をさまざまにためした。そのとき狭い獄舎の中で松陰が試みた精神的
ジャンプは、たちまち日常生活の次元を超えて、空間と時間とを新しい次元へ飛躍させたのである。
松陰が入つていつたこのやうな心境を証明するもつとも恐ろしく、私の忘れがたい一句は、「天地の悠久に比せば
松柏も一時蠅なり」といふものだ。(中略)
そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた。われわれの生存がもつてゐる
種々の困難、われわれの日々の生が担つてゐるもろもろの条件を脱却して、直ちに最小のものから最大のものに、
もつとも短いものからもつとも長いものへ一ぺんに跳躍し、同一視する観点を把握してゐた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
331 :
名無しさん@3周年:2011/04/18(月) 10:26:42.53 ID:l0hq5FZV
(中略)
この陽明学はおそらく、乃木大将の死に至つて、日本の現代史の表面から消えていつたやうに思はれる。その後、
陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティーの基本を形づくることに
なつて、ひそかに潜流し始めたものであらう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、
西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれてゐる。そしてその日本人の政治行動
自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやつた行動のいくつかの
めざましい事例がみられるのである。
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、
その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、
これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは
予言してもよい。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
332 :
名無しさん@3周年:2011/04/18(月) 10:27:10.37 ID:l0hq5FZV
日本における革命運動は、日本的革命とは何ぞやといふ問題をひさしく閑却してきた。革命はすべて外来思想であり、
マルクシズムも亦西欧の近代化の一翼に乗つて日本に入つてきた一思想であつた。そして、日本といふアジアの
後進国家が物質文明による近代化に乗り出したときに、その近代化に随伴する一つのアンチテーゼの思想が
移入されたのは必然的であつた。そして、マルクシズムの思想の日本化のためには、苦しい血のにじむやうな
努力が要つた。
転向の問題は、一度、外来思想を人間の肉体と心情を通して濾過し、その心情の根底において思想とは何ものかを
問ふといふことによつて、日本の知識人に重要な歴史的転機を与へた。もし、あの転向の思想的体験が戦後の
革命思想に正当に貫かれてゐたならば、私は「日本的革命とは何ぞや」といふ問題が、真に展開されてゐたで
あらうと思ふ。
しかしながら、戦後のアメリカ民主主義による突如の解放によつて、革命思想の日本化肉体化といふ問題は一時
置きざりにされた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
333 :
名無しさん@3周年:2011/04/18(月) 10:27:31.41 ID:l0hq5FZV
即ち、それは再び啓蒙思想に復帰し、近代主義に立ち戻り、すべてを振り出しから始めるといふ新しい楽天的な、
再度の近代化西欧化の代表をつとめるやうになつたのだ。戦後、このやうな近代主義がたちまち破綻したのは
当然のなりゆきである。
その後の新左翼の勃興は、かうした混迷、矛盾を経て老朽化していつた共産党的革命思想に対するアンチテーゼで
あつたが、その後被ら自身が自分の思想の肉体化といふことについて、風土性の問題から離れざるを得ぬといふ
時代的環境に置かれていつた。すでに農地改革以後、ブルジョア革命が成就した日本で、極度の急激な工業化と共に
大衆社会化状況が生まれ、工業化、都市化の進展は農村人ロの減少をもたらし、その思想の風土性は、帰るべき
故郷を失つた状態にあつた。主に学生運動は都市から発生し、その都市化の極点における空白においてのみ、
一般の大衆の精神的空白と相わたつた。そのとき、もはや革命思想は日本的、風土的なものに還元されるべき
手がかりを失つてゐた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
334 :
名無しさん@3周年:2011/04/19(火) 17:01:16.78 ID:USb5/B2W
(中略)
七〇年は予想されたやうな波瀾も見せずに、再び占領体制下と同じやうな論理が復活するのに役立つた。いまや
自民党も共産党も同じやうな次元の議会主義政党に堕し、共に政治目標実現の最終的な不可能を知りながら、
目前の事態の処理によつて大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか、といふ術策に憂き身をやつすやうに
なつた。このやうな政治行動は、すみずみまでソロバンづくの有効性によつて計量され、有効性の判断が政治行動の
メリットの唯一の基準になつた。すでに自民党がさうである如く、共産党も政権獲得のための票数の増加と、
日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな
目的に対する有効性によつて判断してゐる。
それをジャーナリズムはまた、理想主義の終焉、あるひは脱イデオロギーの時代が来たとよんでゐる。そして
工業化社会の果てに、ポスト・インダストリアル・ジェネレーション、脱工業化社会が来るといふことは、つとに
予見されたことであつたが、その予見は半ば当り半ば当らなかつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
335 :
名無しさん@3周年:2011/04/19(火) 17:01:40.41 ID:USb5/B2W
工業化の果てにおける精神的空白は再びまた工業化によつて埋められ、精神の飢ゑが再び飽満した食欲によつて
満たされることになつた。そして先にも言つたやうに、人は心の死、魂の死を恐れないやうになつたのである。
陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいと
するかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、
もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつとも
きびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側に
ゐるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたやうに日本の行動家の魂の中で
いつたん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
336 :
名無しさん@3周年:2011/04/19(火) 17:02:06.91 ID:USb5/B2W
もし革命思想がよみがへるとすれば、このやうな日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から
出発するより他はない。一方、国学のファナティックなミスティシズムが現代に蘇ることがはなはだむづかしいと
するならば、陽明学がその中にもつてゐる論理性と思想的骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを
用意するかもしれない。
われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の陰に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬つてきた。われわれは西洋に
対して戦ふといふときに何をもとにして戦ふかを、つひに知らなかつた。そして西欧化に最終的に順応したもの
だけが、日本の近代における覇者となつたのである。明治政府自体が西欧化による西欧に対する勝利といふ理念を
掲げたときに、その実力による最終証明となつたものは日露戦争であつたから、その後の日本は西欧的な戦争を
戦ふことによつて西欧に打ち勝つといふ固定観念に向かつて進んで、第二次大戦の破局に際会した。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
337 :
名無しさん@3周年:2011/04/19(火) 17:02:27.92 ID:USb5/B2W
一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。
それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が
貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に
対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正することによつてしか、
最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその
政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの
陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の
闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
338 :
名無しさん@3周年:2011/04/19(火) 21:18:02.56 ID:fcvKX4IC
2006年に共産党の吉井英勝代議士が国会で「5メートルの津波が来たら、引き波で海水面が低下し、
原発の冷却水が取水出来なくなる」と指摘。
原子力保安院長は当時、日本の原発の8割にあたる四十三基で冷却水の取水が出来なくなると認めた。
この時、自民党の二階堂俊博経済相(当時)は、こういったのだ。
「安全確保のため、省をあげて真剣に取り組むことをお約束したい」
しかし、東電社員はこう証言する。
「緊急事故対応のマニュアルはあります。
しかし、津波や地震の被害が複合的に起きた際の対応は決められていませんでした」
地震と津波はセットのはず。非常用のディーゼル発電が、津波で冠水して使用不能と
いう事実は、あまりにもお粗末である。
「そもそも戦後、原発を米国から輸入したのは読売新聞の”中興の祖”である正力松太郎氏です。
(自民党議員の)国会議員でもあった彼の政治的な野心の現れでした。
1950年代半ば、東京電力は米ジェネラル・エレクトリック社の”沸騰水型”の原発を導入し、
その技術は東芝と日立に引き継がれました。」
以上週間文集3月31日号記事抜粋敬称加筆
私達は長年の間だ自民党に原発は安全だ安全だとだまされてきた!!安全なんてうそだった!!
原発が安全というのならば千年に一度の地震や津波にも耐えれる原発を造ってから原発は安全だといえ。
原発は一度放射能漏れを起こせばそれで終わり。東北全域、関東全域は放射能に汚染されているという現実。
原発を省をあげて安全確保のために真剣に取り組むと約束したのになにもしてこなかった自民党。
もう原発推進してきた自民党と原発は信用できない。
自民党が原発を推進してこなければ今回の福島第一原発の放射能漏れはなかった。
自民党が原発以外の発電方式を推進していれば今回の放射能漏れも計画停電も無かった。
すべては原発を推進してきた自民党の責任である。
自民党は福島第一原発の放射能漏れ事故の責任を取れ!!
339 :
名無しさん@3周年:2011/04/24(日) 17:20:49.90 ID:OVJHw8v/
日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、「日本人は民主主義のために
死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。
(中略)
そうすると何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ。本質的な問題は。
というのはね、やっぱりキリスト教対ヘレニズムというようなもんなんだよ。いまわれわれが当面している問題は。
結局ね、世界をよくしようとか、未来を見ようとかいう考えと、それから、未来はないんだけれども、
文化というものがわれわれのからだにあるんだという考えと、その二つの対立だよ。
「文化を守る」ということは、「おれを守る」ということだよ。
十年、五十年単位の考えは、絶対に必要なことだ。なぜかというと、十年、五十年と考えると、今日始めなきゃ
だめなんだよ。
だから一番緊急なことなんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
340 :
名無しさん@3周年:2011/04/24(日) 17:21:20.24 ID:OVJHw8v/
一番長い経過を要する仕事を今日始めて、そしてあしたはだね、三年先のことを始めるというのが、ぼくは一番
現実的な考えだと思うね。
ぼくは文化というものはね、変な比喩だが、金とおんなじことだと思う。とにかく、あぶないときにどっかに
置いておかなければ、いつもこわされちゃう。こんなもろい、こんなものはない。僕はいわば文化の金本位制論者だ。
日本では、昔から金について一番もろくて弱かった独占資本的財閥、戦前のそういう連中はね、どんなインテリよりも
ぼくは、実際に敏感だったと思いますよ。それは昭和の歴史を見てもよくわかりますがね。文化人というのは
いつものんきなんだが、資本家が金をこわがるように、どうして文化人は文化というものの、もろさ、弱さ、
はかなさ、というものを感じないんだろうかね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
341 :
名無しさん@3周年:2011/04/24(日) 17:21:49.65 ID:OVJHw8v/
戦後ずうっと考えてきたことは、文化というものは無力であるということ。これは確かに文学も無力だし、
何も無力だ。だけど無力だから、無力なりに役に立とうという「政治と芸術」的考え方というものに、ぼくは
いつも反対してきた。いまでもぼくは、文化というものは、ほんとにどんな弱い女よりもか弱く、どんな
破れやすい布よりも破れやすい、もう手にそうっと持ってにゃならんのだと思いますね。そっからすべてものの
危機感がくるんだし、それで、そのためには自分のからだを投げ出してもいいと思うしね。
文化がどんなに変様されて、歪曲されても、生きのびるほど強いもんだということは結果論です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
342 :
名無しさん@3周年:2011/04/24(日) 20:37:08.04 ID:OVJHw8v/
天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない。
それをいまから準備していなければならない。それはアンティエゴイズムであり、アンティ近代化であり、
アンティ工業化であるけど、決して古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない。(中略)天皇は一番
極限にいるべきだ、という考えなんですよ。ですから、近代化の過程のずっと向うに天皇があるという考えですよ。
その場合には、つまり天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところに
あるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、
とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。
これがぼくの天皇論の概略です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
343 :
名無しさん@3周年:2011/04/24(日) 20:37:32.60 ID:OVJHw8v/
エリザベスは、亭主が自分の部屋に電話を引いたり、テレビをつけたり、ボタンを押すと飛び上がる椅子を
つけたりするのに、自分は、まだ十八世紀のお茶の作法で、百メートル先から女官たちが手から手へつないだお茶を
持って来て、冷えたお茶を飲んでいる。自分の部屋には電話がない。ぼくは、そういうことが天皇制だろうと
思うんです。日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている。
つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、どこかでお茶を十八世紀の作法で飲んでいる人がいなければ、
世界は崩壊するんだよ。
世界の行く果てには、福祉国家の荒廃、社会主義国家の嘘しかないとなれば、何がほしいだろう。それは
カソリックならカソリックかもしれない。だけど、日本の天皇というのはいいですよ。頑張ってれば世界的な
モデルケースになれると思う。それが八紘一宇だと思うんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
344 :
名無しさん@3周年:2011/04/24(日) 20:50:15.06 ID:jwQjobLF
345 :
名無しさん@3周年:2011/04/26(火) 22:12:43.63 ID:jTlHo7cx
僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以降の日本の歴史で、あんなに日本人の欺瞞をうまく成功させたのは、
あの人だけでしょう。それはどこから学んだかというと、イギリスですね。日本の政治家は少なくとも正義、
真実あるいは誠実という顔をしていなければならなかったのに、吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に
味方をした。あんなにアメリカ人をもてあそんだ人はいないよ。それにまたみごとに乗せることができたのは、
イギリス的な教養が彼にあったからだけど、イギリス的な教養は日本の昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。
いつも国家主義者の怨嗟の的であり、日和見主義、無力の良識、不決断の象徴であった。 ところが吉田茂は、
そのイギリス的な教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
346 :
名無しさん@3周年:2011/04/26(火) 22:13:12.15 ID:jTlHo7cx
あんなに日本人のなかで、欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。政治家が
どんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。国民の考えていることと、欺瞞とがみごとに一致した時代は
もうこないでしょう。今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、国民はだれもが味方をしていない。あなたも、そして
僕も怒っているのは、それですよ。欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
347 :
名無しさん@3周年:2011/04/26(火) 22:13:37.13 ID:jTlHo7cx
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を仕掛けたんだね。
しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、汚れているといって使わない。熊本の鎮台に
対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。
なぜ日本刀だけで、負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだった
からだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり計算して、こうだからやると
いうのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたが
どっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
348 :
名無しさん@3周年:2011/04/26(火) 22:14:04.19 ID:jTlHo7cx
生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵でみるだろうね。神風連の
事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。(中略)
あなたがもし、もう一つ芸術家の立場を完全にもたなければならないということになったら、生活者の知恵だけでは
足りない何かが出てくる。そのときはバカなことでも、絶対に敗北するとわかってる戦いでもやらなければ
ならなくなってくる。
言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。腕力があり、剣があって、
初めて自分の思想が貫かれるのだろう。最後に人間の顔と顔とが、ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に
立たないと思う。やっぱりそのときには剣がものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを一所懸命、
言葉で考えてる人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら間違いだと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
349 :
名無しさん@3周年:2011/04/27(水) 12:30:21.63 ID:ZE5Y6OKh
あらゆる忠義によるラジカルな行動を認めなければ、天皇制の本質を逸すると僕は言っているわけです。
場合によっては共産革命だって、もし錦旗革命だったら天皇は認めなければならないでしょうね。天皇制の
本質なのかもしれませんよ。それをよく知らないで、右翼だとかファッショだといってバカにしきって戦後共産党が
やっていたのは共産党がバカだといいたいね。米のなかった時代に朕はたらふく食った、汝国民は飢えていろなどと
いう代りに、何で赤旗をもって宮城前で天皇陛下万歳をやらなかったかといいたい。あそこで陛下の帽子を
ふっているあとを追いかけていって革命を成功させなかったか、それをやらなかったからこそいまこういう目に
あっている。
彼らは天皇制護持を平気で言えるという時点まで踏み切れない。だから日本の共産党はダメなんだ。天皇制護持まで
できれば成功していたし、第一党になっていただろうと思うが。彼らに言わせれば、まあ惜しいことをした。
しかしもう遅い。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
350 :
名無しさん@3周年:2011/04/27(水) 12:31:04.76 ID:ZE5Y6OKh
安保賛成、新憲法賛成というのは福祉の原理だよ。つまり家にテレビ置いて、マイカー置いて、ピクニックやって
安心したいという。安保反対、新憲法反対というのは民族自立の原理だ、ロジックとしては。どうしてそういう風に
ならないであんな風(安保反対、新憲法守れ)になっているのかということを言っているのだけど、(中略)
守れ、守れだけじゃダメなんだ。一番汚らしいと思うね。大江健三郎は守れの犠牲になっていますよ。戦後を守れ、
民主主義を守れを文学でやるのは方法がまちがっている。なぜなら守るというのは剣の使命であって、言葉の
使命ではないからだ。言葉はただ刺すだけだ。守ろうと思ったら、剣を執らなきゃだめだ。(中略)
大江君も今度の「万延元年のフットボール」でも、右翼の劇団に属して渡米し、帰って来てマーケットを襲う弟に
憧れと愛情をつよく持っていますよ。大変なアフェクションだ。これは矛盾していますね。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
351 :
名無しさん@3周年:2011/04/30(土) 10:34:56.60 ID:tu8C2vtG
Q――生、虚構(フィクション)、事実(ファクト)について。
三島:あらゆるものがニセモノ。政治も芸術も、どこかで有効性にすがりついてゐる限りフィクションだ。
事実は死だけ。存在証明の最終的なものは死だ。焼身自殺などは事実の最高。かうした日常性=フィクションに
対して、一人の芸術家が抵抗しようとする時、死しかない。事実としての死。主義(イデオロギー)なんか
問題ぢやない。
Q――現代について。
三島:(中略)知識人が守りたがつてゐたものは何か? 守るためには何かしなきやならない、ことがわかつてきた。
“守る行為”を今まで何と思つてきたか? 暴力が平和を、平和が暴力を守る時もある。暴力の等価性、それが
紛争状態で証明された。デモクラシーは、他の国へ入つて他の国の人を殺すこともできるものだ。ベトナム戦で
はじめて現実を知つたんぢやおそいのだ。日本人は絶対性を好む。相対的、簡易主義に立脚してゐるデモクラシーを
絶対化したところに誤りがある。
三島由紀夫「壮麗なる“虚構”の展開」より
352 :
名無しさん@3周年:2011/05/02(月) 20:02:54.35 ID:7ARwCIlu
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたとしても、
その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、証言出来る
ことであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な行動の
精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた行為の
有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識するものに
とつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。
三島由紀夫「わが同志観」より
353 :
名無しさん@3周年:2011/05/02(月) 20:03:23.08 ID:7ARwCIlu
(中略)
「われわれ」といふ集団の感覚の次元で行動し、同志的結合を持続する時、個人はすでに、超個人的契機を
掴んでゐることが前提になる。その超個人的契機とは、神のやうな個人に直結した形である場合と同時に、神と
個人とを繋ぐコミュニティのイメージが必要となつてくるのである。そこには、もはやニュートラルな心情は
崩壊してゐるのである。
人間は、このやうなコミュニティを媒介としてしか、つまり伝統的共同体を形づくるところの超個人的なもの――
絶対的な存在に接近することが出来ないといふ、逆説的な精神構造を持つてゐる。その個人的契機は、多様であるが、
その内的原因を探れば、遠く、古い価値と、それに繋がるところのコミュニティの投影が必ずある。この投影こそが、
内側の人間を外側の人間へ弾き出す力になるのである。
さう考へてゆくと、「われわれ」は危険ではあるが、誘惑に導く美しさが見えてきはしないか。この危険な誘ひに
私の興味は募る。しかしそれは、悲壮な自己陶酔と紙一重でなくて果して何であらうか。
三島由紀夫「わが同志観」より
354 :
名無しさん@3周年:2011/05/02(月) 20:03:45.88 ID:7ARwCIlu
私は、いやしくも盟約を交はして事を起す同志であれば、動機の深浅、運動経歴のキャリア、性格の相違等を、
ことさら問題にしようとは思はない。男と男が誓ひ、行動を起さうとする集団が、栄辱をそれぞれ等分するのは
当然である。
つまり、日常的な同志愛から出発しながら、いかにして、最終目的のために、目前の甘美な同志愛に耐へ抜く心の
強さを得られるか。同志的決起へと至る極限状況は、ある面において、倫理的憤激の最終的な責任を、自己に負ふか、
他者に負はせるか、といふ方向へ引き裂かれて行かざるを得ない。究極的に、自己に負ふとすれば、自刃があり、
他者に負はせるとすれば、制度自体の破壊に行きつくしかない。
そのやうなクオリティを見分ける判断力は、人間の弱さと強さとの問題でもある。
三島由紀夫「わが同志観」より
355 :
名無しさん@3周年:2011/05/02(月) 22:19:49.90 ID:5vkncICH
どうでもいいけど三島って同性愛者だったんだよ
356 :
名無しさん@3周年:2011/05/02(月) 22:21:12.22 ID:5vkncICH
女役ね
自決後、解剖したら肛門から精子出てきたそうな
357 :
名無しさん@3周年:2011/05/02(月) 22:25:03.12 ID:5vkncICH
「同性愛者」というより「性同一性障害」だったのかも
自分の性を偽るため、男らしいことを求めた
親友に三輪明宏がいるけど
彼の偽らない行動が共感持てたのかもね
359 :
名無しさん@3周年:2011/05/04(水) 13:54:10.31 ID:aN+AJYii
「仮面の告白」って自伝小説だぞ
360 :
名無しさん@3周年:2011/05/04(水) 13:55:47.04 ID:aN+AJYii
三島の肛門から出てきた精子は
盾の会のNo. 2で三島を介錯した人
361 :
名無しさん@3周年:2011/05/07(土) 16:34:09.70 ID:cvHplhPx
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。先ごろハンブルクの
港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、船尾に日の丸の旗をひるがへして、威風堂々と
入つて来るのを見た。私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは別に応答もなく、
まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。
これは実に単純な感情で、とやかう分析できるものではない。もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を
満足させたのであつて、それがちつぽけな貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪に
なつたことであらう。また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な
明るい心情が、そこから光りを放つてゐるやうだつた。
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。私はひねくれ者のヘソ曲りであるし、
私の心情は時折明るさから程遠い。それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くしてゐるのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
362 :
名無しさん@3周年:2011/05/07(土) 16:34:57.77 ID:cvHplhPx
これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなにいつも「素朴で明るい」
人間であるわけには行かない。しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、
「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」
といふ安心感を持つことができる。いくらインテリぶつたつて、いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦
(ヴエルトシユメルツ)にさいなまれてゐるふりをしたつて、結局、いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ
帰ることができるんだな、と考へる。
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。しかしそんなことは
どうでもよいことだ。私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいた
ところで、小説家として私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。
「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。ここが大切なところだ。
帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ安心感があればこそ、一生帰らない日本人が
ゐるのもふしぎはない。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
363 :
名無しさん@3周年:2011/05/07(土) 16:35:18.52 ID:cvHplhPx
私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを大切にする。人に言はれて
帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。すべての「日本へ帰れ」と
いふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる文化政策的な見地を嫌悪する。日本人が「ドイツへ帰れ」と
言はれたつて、はじめから無理なのであつて、どうせ帰るところは日本しかないのである。
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。
それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を
誇りに思ふ。すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。この相反する
二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。……
しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、統一され、
押しつけられることを私は好まない。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
364 :
名無しさん@3周年:2011/05/07(土) 16:35:43.10 ID:cvHplhPx
実のところ、一国の文化の特質といふものは、最善の部分にも最悪の部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、
犯罪その他の暗黒面においてすら、この繊細な感受性と勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの構成要素と
同じなのである。きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間をヒステリックに往復するのは、
理由のないことではない。
だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。決して自己に満足しない
たえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。日本人がノイローゼにかかりにくいことを誇りに思ふ。
どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを誇りに思ふ。そして、たえず
劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。
そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
365 :
名無しさん@3周年:2011/05/13(金) 11:52:40.79 ID:/B2TIepM
七月十九日(火)
例のビキニ実験における補償問題でも感じたことであるが、その実験を非人間的といひ、反人道的といふときに、
われわれの人間なる概念は、すでに動揺を来してゐる。私は政治的偏見なしに言ふのであるが、水爆の実験を
した国の人間が、被害国の人間に補償を提供するといふこの行為には、国際間の問題とか、人種的偏見の問題とかを
超えて、人間の或る機能が、人間の別の機能に対して、慈悲を垂れてゐるといふ感を与へる。「知的」な概観的な
世界像に直面してゐる人間が、自分の一部分であるところの、さういふ世界像と無縁な部分に、慈悲を垂れるとは
何を意味するか。私は人間相互の問題といふよりも、人間一般の内部の出来事、といふふうに理解するのである。
たとへばわれわれは、水爆を企画する精神と無縁ではない。われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用する
ことと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。科学はさういふ風に発達して来て、精神の歴史にも関はつて
来たのであり、火薬の発明と活字の発明は、かつて手をたづさへて、封建制を打破したのであつた。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
366 :
名無しさん@3周年:2011/05/13(金) 11:53:12.50 ID:/B2TIepM
現代の人間概念には、おそるべきアンバランスが起つてゐる。広島の原爆の被災者におけるよりも、あの原爆を
投下した人間に、かうしたアンバランスはもつと強烈に意識された筈であつた。被災者は火と閃光と死を見た。
それを知的に概観的に理解する暇はなかつた。相手が原爆であらうと、大砲であらうと、小銃であらうと、被害者は
いつも原始的な個体に還元され、死がさらに彼を物質に還元してしまふ。しかし原爆投下者はどうだつたか?
彼は決して巨人の感受性にめぐまれてゐたわけではなかつた。彼の肉体は小刀にも血を流し、うすい皮膚の下には、
こはれやすい内蔵が動いてゐた。しかし彼には距離があり、はるか高みから日本の小さな地方都市を見下ろしてゐた。
人間の同一の条件についての意識は隠蔽された。むしろ彼はそれを押しかくした。おそらくいくばくの技術と
科学知識にめぐまれてゐた投下者は、巨大ならざる自分の感受性を、あの知的な概観的な世界像の下に押しつぶす
ことを知つてゐたのである。そしてかういふ小さな隠蔽、小さな抑圧が、十分あの酸鼻な結果をもたらすに足りた。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
367 :
名無しさん@3周年:2011/05/13(金) 11:53:41.17 ID:/B2TIepM
ところがかうした投下者の意識は、今日われわれの生活のどの片隅にも侵入してゐて、それが気づかれないのは、
習慣になつたからにすぎないのである。われわれは、新聞やラヂオのニュースに接したり、あるひは小さな
政治問題にひそむ世界的な関聯に触れたり、国際聯合を論じ世界国家を夢想したりするときのみならず、ほんの
日常の判断を下すときにも、知的な概観的な世界像と、人間の肉体的制約とのアンバランスに当面して、一瞬、
目をつぶつて、「小さな隠蔽」、「小さな抑圧」を犯すことに馴れてしまつた。瞬間、われわれは巨人の感受性を
持つてゐるやうな錯覚におそはれる。私が諷して巨人時代といふのは、このことを斥すのだ。
かくて例の水爆実験の補償は、私の脳裡でふしぎな図式を以て、浮んで来ざるをえない。いづれも人間の領域で
ありながら、一方には、水爆、宇宙旅行、国際聯合をふくめた知的概観的世界像があり、一方には肉体的制約に
包まれた人間の、白血病の減少があり、日常生活があり、家族があり、労働があるのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
368 :
名無しさん@3周年:2011/05/13(金) 11:54:13.12 ID:/B2TIepM
この二つのものをつなぐ橋が経済学だけで解決されようとは思はれぬ。この二つのものは、現代に住む人間の
条件であり、アメリカの富豪にあつても、焼津の漁夫にあつても、程度の差こそあれ、免れがたい同一の条件
なのである。(中略)
そして慈悲を垂れることが侮蔑を意味するなら、この現象は、人間が人間を侮蔑し、人間の或る価値が他の価値を
おとしめつつあることに他ならぬ。人間内部の問題だと云つたのはこのことである。
さて、かうした「巨人時代」が来てから、巨人的な精神といふものは、徐々に必要でなくなり、半ば衰減してをり、
政治の領域でさへ、四巨頭会議といふ用語は、首をかしげさせることになつた。世界の国々をめぐつて飛行機旅行を
した人には、実感のあることであるが、そのひどく無機的な旅の印象には、われわれの統一や綜合をめざす精神の
動きは入りこむ隙のない感を与へられる。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
369 :
名無しさん@3周年:2011/05/13(金) 11:54:41.89 ID:/B2TIepM
われわれはただ地上を地図のやうに考へ、与へられた概観に忠実であることによつてしか、世界を把握することが
できぬ。現代は、丁度かうして、常住飛行機に乗つてゐるやうなものである。諸現象は窓のかなたを飛び去り、
体験は無機的になり、科学的な嘔吐と目まひは、われわれの感覚を占領してしまふ。
精神はどこに位置するのか、とわれわれは改めて首をかしげる。巨人的な精神とは、一個の有機体であつて、
こんなものを容れる隙が世界にはなくなつた。巨人的な精神とは、精神それ自体の法則に従つて統一と綜合を
成就したものであるから、その肉体的制約と世界像の間には、小宇宙と大宇宙のやうな相互の反映があつて、
しかも堅固な有機的基礎に立つてゐた。さういふものが人間と称されてゐたのに、人間概念は崩壊したのである。
人間愛はかくて侮蔑的なものになつた。なぜならそれは、人間が人間を愛することではなくて、誰も信じなく
なつた人間概念を信じてゐるやうなふりをすることであり、ひいては人間の自己蔑視に他ならなくなつたからである。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
370 :
名無しさん@3周年:2011/05/14(土) 20:46:52.38 ID:JwwLg00n
それでもなほかつ、精神がどこに位置するか、といふ問は、さまざまな形で問はれてゐる。私がさつき挙げた
二つのもののその後者、その肉体的制約のうちに、精神をおしこめて、そこから出発しようといふ思考の形は、
二十世紀初頭からいろいろと試みられた。(中略)精神固有の形態は、かくてすでに十九世紀末に崩壊し、
ふたたびギリシア時代が再現して、肉体と精神の親密さが取り戻されたかのやうであつた。しかし根本的なちがひは、
ギリシアの精神が美しい肉体から羽搏き飛立つたのに引きかへて、二十世紀では、精神がおそれをののいて、
肉体の中へ逃げ込んだのである。
(中略)哲学の使命である世界把握は、普遍的な概観的世界像によつて追ひ抜かれた。今日、斬新な哲学は、
ニュースによる世界把握の上に組み立てられ、哲学のみが世界像の把握に到達する唯一の小径であつたやうな
嘗ての状態は消滅した。そしてこの世界像を更新し、拡張してゆく作業を、今では科学が受け持つてゐるのである。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
371 :
名無しさん@3周年:2011/05/14(土) 20:47:26.41 ID:JwwLg00n
精神はどこに位置するか? 精神は二十世紀後半においては、人間概念の分裂状態の、修繕工として現はれる
ほかはない。統一と綜合の代りに、あの二つのものの縫合の技術が、精神の職分になるだらう。それがどんなに
不可能に見え、時にはどんなに「非人間的」に見えても、精神はこの仕事のために招かれてゐるのである。その
縫合の結果が誰に予見できよう。もし再び、肉体的制約の中へ人間が確乎として立ち戻り、科学のあらゆる兇暴な
進歩を否定することにならうと、それが簡単に精神の勝利だと云へようか? また、万一、各人が肉体的制約を
離れて、まさしく、巨人の感受性をわがものにするやうにならうと、それな簡単に精神の敗北だと云へようか?
精神は縫合をすませれば、いづれは本来の動きに戻つて、しやにむに統一と綜合へ進むだらう。
さて、芸術は、もつとも頑なに有機的なもののなかに止まりながらも、もし精神がそれを命ずれば、どんな
怖ろしい身の毛のよだつやうな領域へも、子供じみた好奇心で、命ぜられたままに踏み込んでゆくにちがひない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
372 :
名無しさん@3周年:2011/05/20(金) 10:54:37.81 ID:qZjFXzpK
八月一日(月)
都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。或る作家たちが、小説のなかで、やすやすと
流行語をとり入れてゐるのを見ると、私はレオパルヂ伯の「流行と死との対話」といふ対話篇を思ひ出さずには
ゐられない。そこでは流行と死は姉妹分といふことになつてをり、この姉妹に共通な傾向、共通な作用は、
「たえず世界を新規にして行く」といふことなのである。
八月三日(水)
「葉隠」ほど、道徳的に自尊心を解放した本はあまり見当らぬ。精力を是認して、自尊心を否認するといふわけには
行かない。ここでは行き過ぎといふことはありえない。高慢ですら、(「葉隠」は尤も、抽象的な高慢といふ
ものは問題にしない)、道徳的なのである。「武勇と云ふ事は、我は日本一と大高慢にてなければならず」
「武士たる者は、武勇に大高慢をなし、死狂ひの覚悟が肝要なり」……正しい狂気、といふものがあるのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
373 :
名無しさん@3周年:2011/05/20(金) 10:57:53.05 ID:qZjFXzpK
八月四日(木)
日本文化の感受性は稀有のものである。これこそ独自の、どんな民族にも見当らぬほどに徹底したものである。
私にはふと、第二次大戦における敗戦は、日本文化の受容的特質の宿命でもあり、また、人が決して自分に
ふさはしからぬ不幸を選ばぬやうに、もつともこの特質にふさはしく、自ら選んだ運命ではないか、と思はれる
ことがある。なぜなら、敗北は受容的なものである。しかし勝利は、理念であり、統一的法則でなければならぬ。
日本文化は、このやうな勝利の、理念的責務に耐へ得たかどうか疑はしい。しかしそれと同時に日本の敗戦は、
理念が理念に敗れたのではなく、感受性そのものが典型的態度をとつて敗れたにすぎなかつた。そこへゆくと、
ナチス・ドイツの敗北は、完全に理念の敗北であつて、日本の敗戦とその意味はまるでちがつてゐる。ナチスの
敗北は、勝利の理念と法則から、敗北の感受性と無法則性への、日本では想像も及ばぬ、堕地獄的顛落であつた。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
374 :
名無しさん@3周年:2011/05/20(金) 10:58:13.38 ID:qZjFXzpK
さて日本文化の稀有な感受性のはたらきは、つねに、内への運動と、外への運動とを、交互に、あるひは同時に、
たゆみなくつづけて来たのである。内への運動は、その美的探究の、極度の求心性にあらはれた。この感受性は
かつて普遍的な方法論を知らず、また、必要とせず、感受性それ自らの不断の鍛錬によつて、文化の中核となるべき
一理念に匹敵する。まことに具体的な或るものに到達した。日本文化における美は、あたかも西欧文化の文化的
ヒエラルヒーの頂点に一理念が戴かれるやうに、理念に匹敵するほど極度に具体的な或るものとして存在してゐる。
そこでは、理念は不要なのである。なぜなら、抽象能力の助けを借りずに、むしろそれと反対な道を進んで、
個別から普遍へと向はず、むしろ普遍から個別へ向つて、方法論を作らずに体験的にのみ探究を重ねて、しかも
同じやうに絶対(この「絶対」といふ用語も、仮に比喩として使つたのだが)をめざして進む精神は、理念の
代りに、それの等価物たる或る具体的存在にぶつからざるをえない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
375 :
名無しさん@3周年:2011/05/20(金) 10:58:36.16 ID:qZjFXzpK
私がこれを美と呼ぶのは、あくまで西欧的概念にすぎず、他に名付けやうのないものに、仮にその名称を借りたに
すぎぬ。私は、このことについては他所でもたびたび書いたのだが、日本の美は最も具体的なものである。
世阿弥がこれを「花」と呼んだとき、われわれが花を一理念の比喩と解することは妥当ではない。それはまさに
目に見えるもの、手にふれられるもの、色彩も匂ひもあるもの、つまり「花」に他ならないのである。
一方、日本文化の外への運動については、政治的措置にすぎぬ鎖国のかけで、その感受性の受容能力は、日本および
支那の古典と、現実の風俗のみに向けられて、これが今日、あやまつて「日本的」と呼びなされる、偏頗な特質、
似て非な独自性を形づくつた。もともと感受性といふものの無道徳性は、あらゆる他民族の文化の異質性をも
融解してしまふ筈のものなのだ。それはどんな放恣な娼婦よりも放恣であるべき筈なのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
376 :
名無しさん@3周年:2011/05/20(金) 10:59:06.23 ID:qZjFXzpK
江戸文化は、かうした感受性の外への運動を制約されて、日本の内部で、遠心力と求心力を働らかさざるを
えなかつた。その前者は、西鶴、後者は、芭蕉に代表される。
今や、しかし日本文化がこれほど裸かの姿で、世界のさまざまな思潮のうちに、さらされたことはなく、現代日本の
文化的混乱は、私には、感受性の遠心力の極限的なあらはれと思はれる。
ローマ人テレンティウスの有名な一句「私は人間である。人間的なるものは何一つ私にとつて疎遠ではないと
思つてゐる」をもぢつて言へば、「私は感受性である。感じられるものは、何一つ私にとつて疎遠ではない」かの
やうに、ギリシア思想も、キリスト教も、仏教も、共産主義も、プラグマティズムも、実存主義も、……また、
シェイクスピアの戯曲も、ドストエフスキーの小説も、ヴァレリイの詩も、ラシーヌ劇も、ゲーテの抒情詩も、
李白や杜甫の詩も、バルザックの小説も、また、トオマス・マンの小説も、……どれ一つとして、この稀有な、
私心なき感受性にとつて疎遠ではないのである。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
377 :
名無しさん@3周年:2011/05/21(土) 11:37:26.20 ID:KTK4J0T8
一見混乱としか見えぬ無道徳な享受を、未曾有の実験と私が呼ぶのは、まさにこんな極限的な坩堝の中から、
日本文化の未来性が生れ出てくる、と思はれるからだ。なぜならかうした矛盾と混乱に平然と耐へる能力が、
無感覚とではなく、その反対の、無私にして鋭敏な感受性と結びついてゐる以上、この能力は何ものかである。
世界がせばめられ、しかも思想が対立してゐる現代で、世界精神の一つの試験的なモデルが日本文化の裡に作られ
つつある、と云つても誇張ではない。指導的な精神を性急に求めなければこの多様さそのものが、一つの広汎な
精神に造型されるかもしれないのだ。古きものを保存し、新らしいものを細大洩らさず包摂し、多くの矛盾に
平然と耐へ、誇張に陥らず、いかなる宗教的絶対性にも身を委ねず、かかる文化の多神教的状態に身を置いて、
平衡を失しない限り、それがそのまま、一個の世界精神を生み出すかもしれないのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
378 :
名無しさん@3周年:2011/05/21(土) 11:37:48.63 ID:KTK4J0T8
(中略)ここで私が、文化形式と呼ぶものは、内容を規定し、選択し、つひにはそれ自ら涸渇するところの、
死んだ形式ではなく、内容を富まし、無限に包摂するところの生きた形式である。日本文化の稀有な感受性こそは、
それだけが、多くの絶対主義を内に擁した世界精神によつて求められてゐる唯一の容器、唯一の形式であるかも
しれないのだ。なぜなら、西欧人がまさに現代の不吉な特質と考へて、その前に空しく手をつかねてゐる文化的混乱、
文化の歴史性の喪失、統一性の喪失、様式の喪失、生活との離反、等の諸現象は、日本文化にとつては、
明治維新以来、むしろ自明のものであつて、それ以前の、歴史性と統一性と様式をもち、生活と離反せぬ文化体験をも
持つ日本人は、この二つのものの歴史的断層をつなぐために、苦しい努力と同時に、楽天家の天分を駆使して
きたので、かういふ努力の果てに、なほ古い文化と新らしい文化との併存と混淆が可能であるやうな事情は、
新らしい世界精神といふものが考へられるときに、何らかの示唆を与へずには措かないからである。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
379 :
名無しさん@3周年:2011/05/28(土) 10:38:34.48 ID:QY3wt7um
想像力といふものは、多くは不満から生まれるものである。あるひは、退屈から生まれるものである。われわれが
危急に際して行動に熱中し、生きることにすべての力を注いでゐるときには、想像力の余地をほとんど持つことがない。
もし、想像力がノイローゼの原因になるとすれば、空襲にさらされた戦争中の日本は、最もノイローゼの出にくい
状況であつた。あの時代には、どろぼうも少なく、犯罪も少なく、人々の想像力のかては、すべて戦争といふ、
一民族のあらゆる精力をつぎ込まねば成功できない事業に、集中してゐたのである。
われわれは、人生の第一歩から、人生に満足して始めるわけではない。満足してゐる人はごく例外的である。
これは、どんな社会革命が成功しても、同じことであらう。芸術は、そこから始まるのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
380 :
名無しさん@3周年:2011/05/28(土) 10:39:04.45 ID:QY3wt7um
人生といふものは、死に身をすり寄せないと、そのほんたうの力も人間の生の粘り強さも、示すことができないと
いふ仕組になつてゐる。ちやうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、合成された硬いルビーかサファイアと
すり合さなければ、ダイヤモンドであることが証明されないやうに、生のかたさをためすには、死のかたさに
ぶつからなければ証明されないのかもしれない。死によつて、たちまち傷ついて割れてしまふのは、そのやうな生は
ただのガラスにすぎないのかもしれない。
二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、暗い工事場の陰で焼身自殺した。
そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があつた。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のやうな
政治行為であつて、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇つて
ゐることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは
芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
381 :
名無しさん@3周年:2011/05/28(土) 10:39:27.34 ID:QY3wt7um
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに男がどうあるべきかと
いふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、日本もいつかあのやうな事件の非常に
拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と同じ身の上になるかもしれないのである。
危機を考へたくないといふことは、非常に女性的な思考である。なぜならば、女は愛し、結婚し、子供を生み、
子供を育てるために平和な巣が必要だからである。平和でありたいといふ願いは、女の中では生活の必要なのであつて、
その生活の必要のためには、何ものも犠牲にされてよいのだ。
しかし、それは男の思考ではない。危機に備へるのが男であつて、女の平和を脅かす危機が来るときに必要なのは
男の力であるが、いまの女性は自分の力で自分の平和を守れるといふ自信を持つてしまつた。それは一つには、
男が頼りにならないといふことを、彼女たちがよく見きはめたためでもあり、彼女たちが勇者といふものに一人も
会はなくなつたためでもあらう。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
382 :
倭人:2011/05/28(土) 15:56:01.51 ID:WEaJvjLr
↑
この文書は見たことが無かったな。我がブログか何処かで書いたことと同じことを言っている。
我が書いた文書と見紛ううほどだった。大和臣とありたいと想い続けたいと言う男児の想念は皆同じものなのだ。
383 :
名無しさん@3周年:2011/06/01(水) 11:36:06.89 ID:ZH1Ur3nJ
剣道は礼に始まり礼に終ると言はれてゐるが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶつたたくことである。
男の世界をこれは良く象徴してゐる。戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。
男の作法は、ただ相手に従ひ、相手の意のままになることが目的ではない。しかし、作法こそどうしてもくぐら
なければならない第一前提であるにもかかはらず、現代に於ては人間の正直な、むき出しの姿がそのまま相手の心に
通用するといふ不思議な迷信がはびこつてゐる。アメリカ流のフランクネスが、どのやうなビジネス上の罠を
隠してゐるとも知らず、アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、につこりと美しくほほゑみかけるやり方に
だまされて、ついこちらもフランクになりすぎて、思はぬ仕事の上の損失をかうむつた例は枚挙にいとまがない。
何故なら、野心家こそ作法を守るべきなのであり、また、人との関係に於ても、普段、作法を守つてゐればこそ、
いつたん酒が入つて裸踊りのひとつもやつてのけたときには、いかにも胸襟を開いたやうに思はれて、相手の信用を
かち得ることができる。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
384 :
名無しさん@3周年:2011/06/01(水) 11:36:46.40 ID:ZH1Ur3nJ
作法をひとつの扉とすると、言葉の小さな使ひ方はその扉の蝶番にさされる油のやうなものである。そして、
いまでは油もささずにギーギー、ガーガー扉のあけたてがひどくなりすぎる。
男の世界はスポーツに似てゐる。ルールを守つた上で勝敗は争はれるので、根底にある争ひがそれだけカバーされる
わけである。しかし、女の世界はこの点で根底的な争ひといふもの、権力の争ひといふものが少ないために、
かへつてスポーツのルールが乱される場合が多い。スポーツのルールが乱されることが自分の生存を脅かさない
からであらう。
在外公館の夫人連の間の厳しさは、女がやはり政府の辞令を受けて、外交官夫人として外国に行くところから生れて、
男の世界の模倣をつくつてしまふからであらう。これは最近流行の大奥の生活を描いた小説や芝居にもよく
見えるとほりである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
385 :
名無しさん@3周年:2011/06/01(水) 11:37:13.02 ID:ZH1Ur3nJ
これからますますテレビジョンが発達し、人間像の伝達が目に見えるもので一瞬にしてキャッチされ、それによつて
価値が占はれるやうな時代になると、大統領でさへ整形手術をしたり、テレビのメーキャップにうき身をやつす
やうになる。これはアメリカの肉体主義の当然の帰結であるが、好むと好まざるとにかかはらず、目に見える印象で
そのすべての人間のバリューがきめられてゆくやうな社会は、当然に肉体主義におちいつていかざるを得ないのである。
私は、このやうな肉体主義はプラトニズムの堕落であると思ふ。
目に見えるものがたとへ美しくても、それが直ちに精神的な価値を約束するわけではない。ギリシャのことわざに
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といはれてゐるのはギリシャ語の誤訳であつて、「健全なる精神よ、
健全なる肉体に宿れかし」といふのが正しい訳のやうである。それといふのも、ギリシャ以来、肉体と精神との
齟齬矛盾についての観察が、いつも人々を悩ましてゐたことの証拠である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
386 :
名無しさん@3周年:2011/06/01(水) 11:38:07.19 ID:ZH1Ur3nJ
肉体主義は肉体を崇拝させると同時に、また肉体を侮蔑させ、売りものにさせるものである。肉体は崇拝の手続を
経ずに、美しいものは直ちに売られ、商業主義に泥だらけにされてしまふ。マリリン・モンローの悲劇は、
美しい肉体をそのやうに切り売りにされた一人の女性の生涯の悲劇であつた。
われわれは、いま二つの文化の極端な型のまん中に立つてゐる。われわれの心の中には、日本的な、肉体を
侮蔑する精神主義が残つてゐると同時に、一方では、アメリカから輸入されたあさはかな肉体主義が広がつてゐる。
そして、人間を判断するのに、そのどちらで判断していいか、人々はいつも迷つてゐる。私は、やはり男といへども
完全な肉体を持つことによつて精神を高め、精神の完全性を目ざすことによつて肉体も高めなければならないといふ
考へに到達するのが自然ではないかと思ふ。(中略)
そして、肉体が人に誤解されやすい最大の理由は、肉体美といふものはどうしても官能美と離れることができない
からであり、それこそは人間の宿命であるのみならず、人間が考へる美といふものの宿命だからであらう。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
387 :
名無しさん@3周年:2011/06/05(日) 23:06:51.08 ID:r+q7oKcT
同じ本を出すのにも、私どもと日本の出版社との約束は口約束で済むものが、アメリカでは何ページにもわたつて
アリのはふやうな細かい活字を連ねた煩瑣な契約書が、起りうるあらゆる危険、あらゆる裏切り、あらゆる背信行為を
予定して書きとめられてゐる。そもそも契約書がいらないやうな社会は天国なのである。契約書は人を疑ひ、
人間を悪人と規定するところから生れてくる。
そして相手の人間に考へられるところのあらゆる悪の可能性を初めから約束によつて封じて、しかしその約束の
範囲内ならば、どんな悪いことも許されるといふのは、契約や法律の本旨である。ところが別の考へ方もあるので、
ほんたうの近代的な契約社会は、何も紙をとりかはさなくても、お互ひの応諾の意思が発表された時期に契約が
成立するのだといふ学説もあるくらゐである。すなはち、契約社会の理想は、何も紙をとりかはさなくても
人間が契約を守るといふ根本精神が行きわたれば、それだけで安全に運行していくのであるが、そんなりつぱな
人間ばかりでないところからむづかしい問題が生ずるわけである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
388 :
名無しさん@3周年:2011/06/05(日) 23:07:17.35 ID:r+q7oKcT
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら快楽は鳥の影のやうなもので、
一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつてしまふからである。
しかし、快楽のための約束として、もつとも普通な形がすなはち異性とのデートである。デートは、快楽のための
約束にもかかはらず、その快楽を刺激し、じらせ、かへつて高めるための技巧として、お互ひにちよつと時間を
ずらして、わざと約束の時間に来なかつたり、あるひは約束におくれてみせたりするローマのオヴィディウス以来の
愛のさまざまなウソの技巧が使はれる。しかしそれでさへも信義の上にあるのが本当だといふのは、私の考へであつて、
私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、どんな快楽も
信儀の上に成り立つといふ考へだからである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
389 :
名無しさん@3周年:2011/06/09(木) 22:22:22.40 ID:e9K2pFbT
男性の羞恥心は、あくまでも男らしさとつながつてゐた。男と女がそれぞれの領域をきちんと守り、心がどんなに
ひかれてゐても、それをまつすぐにあらはさないといふことが、恋愛の不可欠の要素であつた。これは、古い気質の
人間のあらゆる感情表現に影響を及ぼし、わざと嫌ひなふりをすることが、愛することの最大の表現と思はれてゐた。
いまでは、これが見られるのは小学生の間だけで、自分でもわからぬながら、心をひかれる女の子にやたらに
いぢわるをする男の子は、満六、七歳にしてすでに明治百年の男となつてゐるわけである。
男女関係自体が、新しいアメリカ風の、お互ひに愛を最大限に表現する形によつて、わざとらしい公明正大さを
得てきた。そして女の羞恥心すら、男女同権を破壊するやうな封建的遺習と考へられ、その女の羞恥心が薄れるに
従つて、男の羞恥心も、ガラスの表にはきかけた息のやうに、たちまち消え去つてゆき、そしていつの間にか、
かくも露骨に表現し合つた男と女は、お互ひの大切な性的表象を失つて、いま言はれるやうな中性化の時代が
来たのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
390 :
名無しさん@3周年:2011/06/09(木) 22:22:53.28 ID:e9K2pFbT
伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻つてはこない。男は伝統の意味を知つてゐるから、
ある意味で主体的にいつも伝統を守る側に立ち、自らその伝統をよしとし、あるひは悪いと思つても伝統を
守らなければならないといふ、強い義務感を感じてゐた。それが日本の男性を必要以上に保守的に見せてきた原因で
あると思ふ。しかし、いつも女性はこの男性に対抗して、伝統を破壊するといふ方向にのみ、自分の自由と解放の
根拠を求めた。しかし、ここにはパラドックスがある。もし伝統破壊の行動を続けるならば、その女性は自分が
伝統によつて受身に縛られてきたときの態度を、伝統が破壊されたあとも、そのまま押し通すといふことに
なるのである。しかし、何もないところでは、何の行動の基準もあり得ないので、今度は女性は、西洋式な伝統の
サルマネを始め、それを男性に強要するやうになつた。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
391 :
名無しさん@3周年:2011/06/09(木) 22:23:26.21 ID:e9K2pFbT
女性の力ではなく、アメリカといふ男性の、占領軍の力によつて女性の自由と解放が成就されたとき、女性は
何によつて自分の力を証明しようとしたであらうか。それがいはゆる女性の平和運動である。その平和運動はすべて
感情を基盤にして、「二度と戦争はごめんだ」「愛するわが子を戦場へ送るな」といふ一連のヒステリックな叫びに
よつて貫かれ、それゆゑにどんな論理も寄せつけない力を持つた。しかし、女性が論理を寄せつけないことによつて
力を持つのは、実はパッシブな領域においてだけなのである。日本の平和運動の欠点は、感情によつて人に
訴へることがはなはだ強いのと同時に、論理によつて前へ進むことがはなはだ弱いといふ、女性的欠点を露呈した。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
392 :
名無しさん@3周年:2011/06/11(土) 10:05:49.25 ID:whoZVjJE
外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。インド航空でいつも驚くのは、
スチュワーデスがサリーを着てゐることである。もしあれで事故でも起きたときには、どうするつもりだらうか。
サリーは足にまとはりつき、死なないでもよいものを、死ぬことになるかもしれない。日本航空で、スチュワーデスが
振袖を着てゐるときに感ずる危惧以上のものを、われわれは、インド航空のサリーに感じなければならない。
しかし飛行機会社が乗客にそのやうな危機感を抱かせることをもつて、彼女たちの美しさをいよいよ引き立てて
ゐるとすれば、これまた憎い計算ではある。
日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。明治時代の西洋崇拝から、日本人は不便の故を以て伝統的な
服装を放棄することに、何らの躊躇を感じなかつた。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
393 :
名無しさん@3周年:2011/06/11(土) 10:08:55.99 ID:whoZVjJE
服装のほんたうの楽しみは、自由自在に勝手気ままなものを、好きな場合に着て歩くことではないといふことを、
人々は経済状態の落着きと社会の安定とともに、徐々に学んできたやうに思はれる。服装は強ひられるところに
喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。これを最も端的にあらはすのが、軍人の軍服であるが、
それと同時にタキシードひとつでも、それを着なければならないといふことから着るところに、まづその着方の巧拙、
あるひは着こなしの上手下手があらはれる。
タキシードを着なければならない人たちは、決してGパンをはくことができなかつた。また菜葉服を着てゐた人たちは、
決してタキシードを着ることができなかつた。それをわれわれは、無階級社会のおかげで、菜葉服からタキシードまで
自由自在に往来できる世の中に住んでゐる。(中略)
しかし悲しいかな、その周りにゐる人たちは、いづれも贋物の上流階級にすぎない。そしてタキシードとイブニングで
楽しんでゐる人たちは、本物の上流階級でないかはりに、上流階級が苦しんでゐた古い、わづらはしい、封建的
桎梏をも、完全に免れてゐるのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
394 :
名無しさん@3周年:2011/06/11(土) 10:10:21.85 ID:whoZVjJE
人間は、場合によつては、楽をすることのはうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、一たび努力の義務を
はづされると、とたんにキツネがおちたキツネつきのやうに、身の扱ひに困つてしまふ。何十年の間、会社や役所で
ぢみな努力を重ねてきて、そこにだけ自分の生き方のモラルを発見してゐた人は、定年退職となると同時に、
生ける屍になつてしまふ。われわれの社会は、さういふ残酷な悲劇を、毎日人に与へてゐるのである。(中略)
実は一番つらいのは努力することそのことにあるのではない。ある能力を持つた人間が、その能力を使はないやうに
制限されることに、人間として一番不自然な苦しさ、つらさがあることを知らなければならない。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
395 :
名無しさん@3周年:2011/06/11(土) 10:11:16.54 ID:whoZVjJE
人間の能力の百パーセントを出してゐるときに、むしろ、人間はいきいきとしてゐるといふ、不思議な性格を
持つてゐる。しかし、その能力を削減されて、自分でできるよりも、ずつと低いことしかやらされないといふ拷問には、
努力自体のつらさよりも、もつとおそろしいつらさがひそんでゐる。
われわれの社会は、努力にモラルを置いてゐる結果、能力のある人間をわざとのろく走らせることを強ひるといふ、
社会独特の拷問についてはほとんど触れるところはない。そして、われわれの知的能力のみならず、肉体的能力も
次々と進歩し、少年は十五歳で肉体的におとなになる。しかもわれわれの社会は青年をそのまま、ナマのまま
使へるやうな戦争といふ機会を持たず、社会には老人支配の鉄則ががつちりとはめられ、このやうな世界で、
十秒で走れる青年が、みな十七秒、十八秒で走るやうに強ひられてゐる。私は、ここらに、努力と建設といふ
ことだけをモラルにした、社会のうその反面、人間にもつとつらい、もつと苦しいものを強ひる、社会の力といふ
ものを見出すのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
396 :
名無しさん@3周年:2011/06/12(日) 23:47:01.82 ID:xG7DedPg
社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く走ることを要求して
ゐるのである。
これが現代日本の社会のひずみの、おそらく根本原因である。一方ではいくらでも長く走れるエネルギーが
あり余つてゐる。この連中は、若いがゆゑに軽視されてゐるだけだが、さうかといつて、彼らのすべてにすばらしい
才能があるとおだてるわけにはいかない。ただ、明治以来の日本の社会の特質に従つて、彼らも亦、「努力しろ、
努力しろ」と強ひられる。しかし、いくら努力しても、社会の壁が破られるわけではない。そこで実につらいことだが、
「百メートルを十五秒で駆けなければならぬ」といふ順応型モラルを身につけることになる。その瞬間に、
エネルギーはその真のフルな力の発揮の機会を、自ら放棄してしまつたのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
ところでネトウヨの聖書=三島由紀夫『花ざかりの森・憂国』に南京大虐殺が出てくるって知ってる?
新潮文庫137ページ。
> 「あの川又という老人は、もとの有名な川又大佐なんだよ。君も知ってるだろう。南京虐殺の首
> 謀者と目された男だ。
> あいつはとうとう身を隠して、戦犯裁判から逃げとおした。もう大丈夫となると、姿を現わし
> て、この牡丹園を買いとったんだ。
> 戦犯の罪状には、彼の責任をとるべき虐殺が、数万人に及んでいる。しかし本当のところ、大
> 佐がたのしみながら、手ずから念入りに殺したのは、五八○人にすぎなかった。
> しかも、君、それがみんな女だよ。大佐は女を殺すことにしか個人的な興味を持たなかったん
> だ。
> ここの持主になってから川又は牡丹の木を厳密に五八○本に限定した。手ずから花を育て事実
> 牡丹園はこれだけの成果をあげている。しかしこんな奇妙な道楽は何だと思う?
398 :
名無しさん@3周年:2011/06/16(木) 19:27:32.40 ID:FP6fq3tJ
大体卵が先か鶏が先かよくわからぬが、政治家がみんな腰抜けになつたので暗殺がなくなつたのと同時に、
暗殺がなくなつたから、政治家はますます腰抜けになつた。命の危険がなくて、金がフンダンに入つて、威張り放題に
威張れるといふのでは、こんな好い商売はないといふわけである。これでせめて、自分の政見に忠実に行動すれば、
暗殺されるといふスリルがあつたら、もう少し、嘘八百を並べられなくなるだらうと思ふ。イノチガケといふことが
なくなつたので、政治家といふ職業は、もう全然、男らしい仕事ではなくなつたと私は考へます。もしかしたら、
現在の日本で一等女性的な職業は、男性洋裁師や、男性美容師と共に、政治家かもしれない。それは、お客に
対する媚びを忘れないで、手先だけでコチョコチョと綺麗事を作成する仕事なのである。命の心配と云つたら、
脳溢血とガンぐらゐなものである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 暗殺について」より
399 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 10:14:16.33 ID:4+qmcf7d
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。共産主義の粛清のほうが
数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの昔から、殺されたのは一人で、六十万人が
一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。これは虐殺であります。
(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも
嘘がつける。やはり身辺が危険だと思うと、人間というものは多少は緊張して、(中略)真面目な話をするのです。
人間というものは刀を突きつけられると、よし、おれは死んでもいってやるのだ、「板垣死すとも自由は死せず」
という文句が残る。しかし口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない、痛くもないから、お互いに
遠吠えする。民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
400 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 10:15:07.36 ID:4+qmcf7d
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、相手のあらゆるものを
抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。それが言論を通じて徐々に徐々に
高められてきたのが政治の姿であります。しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論は
すぐ偽善と嘘に堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。
(中略)日本ではこうやって言論が自由自在に生きている。確かに美しい風景ではあるけれども、何か身を
賭けた言論、身体を賭けた言論というものが少ない。自分一人で、一千万人を相手にしても退かないという言論の
力が感じられない。何でも自分一人じゃ弱いと思うから、何万人でデモをやらなければならない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
401 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 10:15:42.25 ID:4+qmcf7d
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が入ってきたときに――私はそれを
実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除という
ような形になってしまって、大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、たちまち
殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。
一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という。つまり一人の
日本刀の言論だ。(中略)そして、日本で言論と称されているものは、あれは暴力。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
402 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 10:28:46.76 ID:ZKDMYwr2
>>399 共産主義や社会主義は、
たった一人の独裁者とかが政権を掌握すると、
スターリンや毛沢東のように何万人何十万人何百万人と、
粛清という名の虐殺をしてきたよね。
403 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 10:42:03.83 ID:nzd92kF0
>>401 陸軍幼年学校。
子供のころから正しいと教えられたことが崩壊すれば
まじめな人間ほど発狂するであろう。
404 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 11:31:20.92 ID:4+qmcf7d
>>403 へ〜、ロシア人の捕虜になったとたんに、魔法にかかったみたいに信念が崩壊したんだ。
そんなソ連共産党がなぜ自滅したんだか(笑)プッ
405 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 11:36:28.70 ID:nzd92kF0
>>404 神国日本・金甌無欠・世界最強が崩壊したからだよ。
信念と現実が異なるから発狂する。
信念が変わるなら発狂しないよ。
406 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 12:04:52.74 ID:wVGFIsAl
神国日本という設定自体が無理がありすぎだったな。
407 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 12:12:39.33 ID:4+qmcf7d
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。例えば戦争をしておっても、誰も
妥協を考えてやるのではないのです。勝つことが目的であって、最終目的に対して、十とれるところが八だとか、
八とれるつもりがまあ五だろうというのが妥協であります。初めから五を考えると、二しかとれません。そして
妥協ということは大人の知恵で、全然妥協しない戦いというものはないわけですが、ものの考え方というものは
私は順序があると思う。
民主主義は妥協が原則だといいますが、相対的な理論の闘争の中で、自分がそれをある程度本当に信じて
邁進する人間がいなければ、いまの自民党と社会党みたいなことになっちゃう。そして国会解散期には、あっちに
流れたり、こっちに流れたりという状態になっちゃう。それが一番妥協の醜い形だと私は思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
408 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 12:15:31.45 ID:wVGFIsAl
>>407 日本は、太平洋戦争のときは、
なぜか妥協できなかったね。
最初から、10を目指した割には、
敗北で0とか1とか2レベルになってしまった。
409 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 12:22:35.91 ID:nzd92kF0
莫大な国費と人命をかけて国家滅亡寸前。
しかも、相手が攻めてきたわけでもない。
これまた、発狂に近い。
410 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 12:33:19.42 ID:nzd92kF0
アメリカが日本向け石油の輸出を禁止したといわれているが、
それはタンカー輸出の禁止。
アメリカの業者はドラム缶につめて大量に運んできたらしい。
411 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 14:15:43.13 ID:4+qmcf7d
“らしい”で語られても意味ないし。
412 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 14:18:24.68 ID:wgbJLOpM
413 :
名無しさん@3周年:2011/06/18(土) 14:19:47.42 ID:4+qmcf7d
>>408 妥協したよ。0にもなってないし。なってたら現在の地位もないから。
414 :
倭人:2011/06/18(土) 17:46:43.83 ID:emwdPzUd
倭人【日本民族同盟】立ち上げ同志募集!
ぐだぐだ書き込んでいるだけじゃチョン族は殲滅できない!
415 :
名無しさん@3周年:2011/06/20(月) 10:36:46.81 ID:srvCd8iR
ところで私は、暗殺者が必ずあとですぐに自殺するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の道だと思っている。
本当はこれをやらなきゃいけない。(中略)
私は人間というものは全部平等だと思う。(中略)
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理があるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を許すか、許さないか、
ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは不幸なことではあるけれども、その政治原理の中に
そういうものが自ずから含まれている。もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の
意味がありますか。諸君が投ずる一票が一ト粒の砂粒だったら、何になりますか。あれは諸君がたとい無名で
あっても、あるいは社会的な地位がなくても、その一票があなたの全身的な政治的行為であって、その集積が
民主主義をなしている。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
416 :
名無しさん@3周年:2011/06/20(月) 10:37:19.51 ID:srvCd8iR
(政治家も、)一投票者も、政治的意見において本当に一対一で、人間的に一対一だという考えが含まれなければ、
民主主義は成立しない。だから暗殺というのはアクシデントではあるけれども、民主主義に暗殺はつきものだと
私がいったのは、そこなのです。
ところが、共産主義ないし全体主義というものはそういうことをやらん。彼らは権力を握って、邪魔なやつを
粛清すればいい。全体主義は人を粛清するのに、そんな暗殺のような自分の危ないことはやりません。ニュースを
隠して、秘密警察で守り、その中で一番憎いやつをそっと殺す。犯人もわからなければ、何もわからない。
民主主義というのは非常にペシミスティックな政治思想です。(中略)
民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、いつまでたっても
無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものをやろうというのが民主主義なんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
417 :
名無しさん@3周年:2011/06/20(月) 10:42:05.36 ID:srvCd8iR
アメリカの民主主義はフロンティアなんかの自警団的なものが基盤にある、(中略)どんな政治体制でも歴史的な
基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では日本の天皇制もまったく同じだと思います。
ですから民主主義が悪いとか、天皇制がいいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に
立った政治体制ができていくということは当然だと思います。
国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。(中略)資本主義国家も
国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の国家の時代という点では、国家の管理機能は
むしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、
そんなことは先のことである。我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんと
いうように私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、それに対する
防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
418 :
名無しさん@3周年:2011/06/21(火) 19:51:30.18 ID:IAH88wQc
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そして
この階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、
日本の例をとってみますと、日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識がある国です。というのは、
ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、
クラブというのがありますね。みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブを
ステイタス・シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段をするわけです。
(中略)そうすると自分の息子に来るお嫁さんが違ってくるのです。(中略)アメリカにはステイタス・シンボル
というものが非常にたくさんあります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
419 :
名無しさん@3周年:2011/06/21(火) 19:51:55.49 ID:IAH88wQc
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。(中略)一つの社会風俗的
現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金で
キャデラックに乗っている、それがブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けばそれがブルジョアなのか。
そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に別荘を持っている。(中略)私は階級差というものの
甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
そして富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を使ったってできるのだ。
(中略)権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、我々はむしろ
権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
420 :
名無しさん@3周年:2011/06/21(火) 19:53:07.50 ID:IAH88wQc
人間の考えは――全部の人間が同じ考えをするということができれば、本来民主主義なんていうものはこの地上に
成立する余地はないのです。そんなものは要らない。したがって戦争も要らないわけだ。ところがどうしても
人間というものは全部同じ考えを持ち得ない。しかも言語を共有しながら同じ言葉を持ち得ないというところで、
バベルの塔のような神話があるわけだ。これは人間観の根本的な問題です。
大体ソヴィエトへ行った人の話を聞きますと、非常にアメリカ人とよく似ているそうです。アメリカ人は別の方法で
あんなコンフォーミティな人間ができちゃった。誰に聞いても、同じような冷凍食品を食べていますから頭の中は
同じになっちゃう。しかし実に親切で、自分の身の周りのことについては気持よく話してくれる。ただ、国家・
社会の問題になると何もわからないという人間達ですね。それは確かにソヴィエトでもできつつあるでしょう。
けれども、人類全部がそうなることが人類の幸福であるかどうかというと問題はまた残りますし、本人が幸福なら
いいじゃないかということになりますと、これは人間観の相違としか思う他にない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
421 :
名無しさん@3周年:2011/06/23(木) 17:35:22.60 ID:W9X7PZbO
行動には必ずリアクションがある。そのリアクションはどこからくるかというと、自分の敵からくるわけですね。
敵がなければかなわん。(中略)
大体韓国の人達はいろいろな面で反共精神が強いのだけれども、これは実際に自分の親族が殺され、あるいは
自分の親兄弟が共産主義者から酷い目に遇ったりしている。(中略)
インドネシアでは役人の中にも共産党が入っていましたから、こいつらがみんな私腹を肥やしたり、宗教を
弾圧したりして農民に嫌われちゃった。農民も何年か我慢して、いまにあの野郎どもと思っていたから、いざ
共産クーデターを起そうとしたらば、逆に鋤、鍬で殺されちゃったわけだ。この恨みというのはすごいですね。
しかし、私は別に何ら危害を受けたわけではない。ただ敵として私が選んだ。これは私独特のものですね。私は
自分の行動を起すにはどうしても敵がなきゃならんから選んだ。そこで私は何ら矛盾を感じてないわけです。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
422 :
名無しさん@3周年:2011/06/23(木) 17:35:49.72 ID:W9X7PZbO
(日本では)惨状に対する異常なヒューマニスティックな同情から革命衝動が起るということは現在ではほとんどない。
(中略)被圧迫者が傍にいるという状況は、インドでホテルの二階で食事をとっていますと、窓から街路には
飢えた乞食がいっぱい見える。かわいそうな佝瘻(くる)病の少年が痩せこけた自分の弟を腕に抱いて、
もう一方の手を伸ばしています。それを見るとこっちは御飯が食べられなくなっちゃうですね。そういう国でこそ
共産革命ないし革命の情熱が涌き起るかというと、インドの共産主義者ってみんな金持ちなんです。なぜかというと、
共産主義の文献を読むにはお金がなければならない。金をかけて大学を出なければ……。みんなオックスフォード、
ケンブリッジへ行くのです。そういう上流階級が主に共産主義者の中心になって、しかも共産主義の知事のいる県は
他の県に米を移出しない。ですからその県に、米があっても、隣の県の飢え死にを放棄する。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
423 :
名無しさん@3周年:2011/06/24(金) 10:22:37.01 ID:lTpfpIHe
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に同情する人がなく
なっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン動物愛護協会というものなんです。
これは生活の余裕がなければできないことで、オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方は
わかりますが、犬を可愛がって、犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうに
なっちゃうものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中からどうやって
社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
ちょっと問題が大きくなりましたが、その中で自我というものは大きくなればなるほど本来今言ったようなものが
溢れているはずなんですが、その溢れる対象に使われない場合には、何かでそれが捩じ曲げられてぶつかって
いくことになるわけですな。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
424 :
名無しさん@3周年:2011/06/24(金) 10:23:04.55 ID:lTpfpIHe
天皇と国民を現代的感覚で結びつけようということは小泉信三がやろうとして間違っちゃったことだと思うのですよ。
小泉信三は結局天皇制を民主化しようとしてやり過ぎて週刊誌的天皇制にしちゃったわけですよ。そして結局
国民と天皇との関係を論理的につくらなかったと思うのです。というのは、ディグニティをなくすることによって
国民とつなぐという考えが間違っているということを小泉さんは死ぬまで気がつかなかった。それでアメリカから
変な女を呼んできて皇太子教育させたり、そういうふうな形でやってきたわけです。ですからその考えはまだ
宮内官僚に随分残っているから、当然天皇制というものがそういう形でうまく国民と結ばれるということについては、
私は悲観的ですね。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
425 :
名無しさん@3周年:2011/06/27(月) 15:48:28.53 ID:n7dMy6fT
人間は未来ということを考えると、必ず現在というものを犠牲にするか手段化するという不思議な動物だと私は
思います。未来社会がもし理想的な社会になる。その社会のために現在我々が動いているとすれば、我々は
その社会への橋であり、プロセスであり、道具なんですね。(中略)これがあらゆる未来というものに関する
思想の――私は左とか右とかいうのじゃない、未来というものを想定した思想にからむ一つの危険だと思います。
(中略)
私はいわゆる革命家、社会運動家、改良主義者、こんな人達と話します時に自分との一番の違いだと思いますものは、
私は「未来がない」という考えなんです。(中略)もちろん我々は一週間や十日のところは大体未来ということを
考えて暮しておりますが、それはもうすでに現在に繰り込まれた実務的な時間の問題で、私がいっているのは
そういうことではないことはおわかりだと思います。つまり自分の行動のモラルの根拠として、未来を置くのか、
あるいは現在ないし過去を置くのか、ここで人間の行動の様式とモラルが完全に変ってきちゃうのです。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
426 :
名無しさん@3周年:2011/06/27(月) 15:49:02.29 ID:n7dMy6fT
世間では進歩的、未来に向って、明るい未来に向って、人類の将来に向って、お手々をつないでというのが
大好きですな。(中略)ですが私はそういうミーハー受けのするスローガンにはいつも疑いの目を向ける。なぜ
私が未来がないかと申しますと、未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、
連綿たる過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、その一番ラストに
自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は日本というものの一番の精髄をになってここにいま
立って、そこで自分は終るのだ。そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な
誇りは持てないと思います。(中略)
文化というものはずっとうしろからつながってきて自分のところで途切れちゃう。そうするとこれから未来へ
つなぐには誰がやるだろうか。それは私より若い人がいるのだし、また自分がおしまいだと思っている若い人が
次々と出てくるからこそ、いつも文化というものはそうやってつながっていくのだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
427 :
名無しさん@3周年:2011/06/27(月) 15:49:31.86 ID:n7dMy6fT
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
自分がどうやって死ぬかということは大体五十、六十になってくると先が見えてきちゃう。それを未来を所有する
というのです。青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
(中略)青年が未来に対して野心を燃やし、幻影を持つのは当然のことであります。ただその場合に、最後に
自分というものが未来のためだけにいま生きて怠けているのではないのだ。明日死んでも十分な生き方をしなきゃ
ならんということが青年らしい考え方だとむしろ思うのです。「葉隠」なんかでも、日々死を心に当てて生きろと
いうことをいっておりますが、朝起きた時に今日死ぬかもしれないという気持だったらば、どれだけ人間は
全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない。そういう表現の中にしか人間の生死観も、文化というものの力も
自分を護る決意もないのじゃないか、こんなふうなのが私の未来観であります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
428 :
名無しさん@3周年:2011/06/27(月) 15:50:02.05 ID:n7dMy6fT
言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。(中略)もし美しき社会主義を夢見れば
醜き社会主義にやられてしまうんだ。
私が共産主義を嫌いなのは美名をもって人間をたぶらかすからです。そして私は偽善というものが嫌いなんです。
共産主義は自由な未来に向って人間を唆す毒薬だと思います。
第二次大戦後に(アジアで)民族自決主義がリバイブしたのはあくまでも大東亜戦争の直接の影響だと思います。
それによってアジアの諸民族が自信を持って民族独立の道を歩き出したのだと私は信じて疑いません。
文化というものは結局マルキシズムの階級史観では絶対に解明できない。あらゆる哲学者が文化論、芸術論になると
失敗するのです。
十九世紀の主権国家の理論で私は日本の国家を規定して、その国家を守れといっているのじゃないのです。国家は
さまざまなんです。国家は我々なんです。
私は未来がないのだ。しかし私の背後には長い長い文化伝統があって私で終るのだから、おれの身には指一本
触れさせないぞという覚悟で戦うのです。そして私は勝たなきゃならない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
429 :
倭人:2011/06/27(月) 20:23:38.06 ID:0NSuJNKR
「奔馬」だな。割腹に憧れたのは。
430 :
名無しさん@3周年:2011/06/29(水) 23:28:21.34 ID:L60vSEIA
三島:戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、ぼくは必ずしも信じない。
(中略)客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の客観的条件というのはないんだ、
それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。それを熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかが
かもしだされてくる。
三島:ぼくは、戦後の人間というのは、新左翼でもなんでも、西洋人になっちゃたんじゃないかと思うな。
西洋人はそんな行動(犬死)はとらないよ。必ずリミットがあるんだ。
けっきょく、人間の生命ほど尊いものはない、という考えだよね。その考えが、どっかで掣肘するんだ。
野坂:だから自分の生命ほど尊いものはないんであって、実際問題としては、人間なんて他人が何百人死のうと、
どういうことはないわけでしょ。彼らは、そういうことがはっきりわかっている人なんですね。
三島:ウン、そうなんだよ。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「剣か花か」より
431 :
名無しさん@3周年:2011/06/29(水) 23:28:52.25 ID:L60vSEIA
未来を信じないということはだね、つまり自分が終りだということだろう。自分が終りだということは、あとに
続くものを信ずるということなんだ。あとに続くものを信ずるということと、未来を信ずるということは、完全に
反対の思想なんだ。
未来を信ずるという思想は、自分をプロセスと規定するものだよ。高見順がああいう気の毒な一生を送ったのは、
そういうことなんだよ。
ただしね、自分が終りだということは、谷崎潤一郎もそうだったろうな。川端さんもそうなのかもしれない。
人のことをいっちゃ卑怯なら、おれもそうだ。(笑)あとに続くものを信ずるということは、絶対に未来に対して
自分をプロセスと規定しないことだよ。
滑稽だということは、客観的に滑稽ということなんだ。(中略)客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。
しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。
三島由紀夫
いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」より
432 :
名無しさん@3周年:2011/07/01(金) 11:47:06.62 ID:CvYoDLom
言論の自由も左翼の言論の自由と右翼の言論の自由がある。私も小説を書いていますときはさほどに感じない
けれども、文壇というところは、文学賞など審査する場合、私ははっきりいえますが、かりにも思想的偏向で
作品を選んだことはない。たとえそれが、共産党員であろうがなかろうが、自分と政治的意見がかわろうが、
文学作品としてよければいいという立場を通しております。しかしひとたび評論の世界に入ると、なるほど
むずかしいもんだなということを最近痛感したことがあります。
私事ですけれども(中略)「文化防衛論」というのを書きました。つまらんものですが、一所懸命書いたんで
七十枚ほどの長いものになった。そうすると、読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが
文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。見ようによっては親切すぎるわけですね。
ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
433 :
名無しさん@3周年:2011/07/01(金) 11:47:42.45 ID:CvYoDLom
三島:もう一つはテレビの場合、ぼくらは実にニュース取材というのは困るんです。うっかり映像を出すと、
映像にウソはつけない。私がカメラの前に立つ、何かをしゃべる。何かをやる、それをフィルムではどうにでも
なるということですね。しまいにちょっとしたコメントリィをつけて「……と三島は意気揚々、過激な言論を
吐いて高笑いをしていた」なんていわれたら、これはもうマンガになっちゃう(笑)
マンガにされるのも悲劇にされるのも、みんな向こう様の自由。ですから言論の自由にしろ、偏向にしろ、
われわれは実に微妙なところで生きているということです。
小汀:ほんとうにそうです。(中略)
無着成恭という寺の坊主の、あんまり日本語のできない人、(笑)それと対等で議論するというんだ。ぼくは
(中略)しゃべる機会がほとんどない。こららにしゃべる機会を司会が与えないようにしているんだ。(中略)
(無着は)発言したら最後、マイクをはなさないんだ。(中略)向こうが七分の土俵を使えて、こちらは三分しか
使えない。そういうたくみな戦術をつかうんだ。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
434 :
名無しさん@3周年:2011/07/01(金) 23:59:29.48 ID:CvYoDLom
三島:タクシーに乗っていたとき、ラジオで無着成恭が子供の質問に答えていたんです。子供が「先生、
スサノオノミコトとか、アマテラスオオミカミの話は本当にあったんですか」ときくと、その無着が「チミ、
それね、ぼくこれからハナスしるけどね。あのスンワ(神話)というのは、ほんとうのハナスと違うの。
ツガ(違)うけれども、あのネ(中略)アマテラスオオミカミ(天照大神)ツウ人がいだの。それがら
スサノオノミコト、ツウ人がいだの。これが悪い人でね、何したがどいうど、まんず、田んぼ荒らして米とれなぐ
したの。(中略)それがら機織りをこわして……(中略)あの岩戸ツウのはどう考えればいいがツウと、あれね、
お墓なんだね。(中略)」(笑)
これじゃ、ぼくは子供が可哀想になっちゃった。(笑)唯物史観の、つまり、やり方を教えて、まず基本的な
生産関係の生産手段の破壊とか、そういうところから教えていって、それがいかにいけないことかと。そして
神話的なことを全部リアリスティックに教えている。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
435 :
名無しさん@3周年:2011/07/01(金) 23:59:57.53 ID:CvYoDLom
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。
(中略)とにかく厚顔無恥というのが彼らの特質ですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
436 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 00:12:12.98 ID:UYqVfgul
(全般的に右寄りの人たちは)清らかなものはそっとしておきたいって気持ちがとても強いんだけれども、
清らかのまわりには濁流がうずまいている。われわれが清らかなものをもとうとすると、清らかなものだけ
もっていたら、どんどん押流されてしまう。エロティックというのは清らかなものの中にもあるんだということが
理解できないんですよ、彼らは……。むしろ左翼はそこらはうまいですよ。はじめから民青なんかのサークルでも
男女交際、(中略)きれいな女の子なんかがいっしょに手をつないでくれる。まあフォークダンスやりましょう、
そのうちに女の子のほうがアクティブだと、「こんどのなんとかの反戦デモに参加しない?」というと、
「きみにいわれたら……」ということになるでしょう。みんなエロティックからはいっていますよ。(中略)
これでは(右翼は)チャームという点がむずかしい。ユーモアも笑いもなくてはね。
いかに思想が正しくても欠点は欠点で自覚しなきゃいかんと思います。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
437 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 00:13:12.73 ID:UYqVfgul
核兵器というのは男で、世論というのは女という考えを非常に強くもっているんですよ。
(中略)それをさらに敷衍しますと、こういう世の中にしたのは、どうも核が原因じゃないかと思えるんです。
というのは国家権力でも何でも、権力というのは力ですから、「“力”イコール兵器」で、兵隊の数と強い兵器を
もっている方が強い。当然でしょう。それが世界歴史を支配してきた。いままでは兵器は使えるからこそ
強かったんです。ところが使えない兵器をついつくっちゃったんですね。広島で使ってあんな惨禍を起こして
使えなくしてしまった。使えない兵器というのは、あるいは力というのは恫喝にしか用をなさない。恫喝ないしは
心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。そうなると、片一方の方は使えぬ兵器に対する
ものとして人民戦争理論みたいに、ずっと下の方からしみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。それをみて
被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
438 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 00:13:43.31 ID:UYqVfgul
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、何より強い立場とする人間ができてくる。
そうすると、やられないやつまでも、やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。つまり女が
男にだまされたといって訴えるようなものです。とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、なぐられることだと。
そして痛くなくとも、「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。それで全学連がヘルメットの
下に赤チンを綿にしみこませていて、なぐられると赤チンがダラダラと垂れるようになっているという話も
ききますが、それも被害者ぶる者の強さの一例ですね。
被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。なぜなら向こうは力が使えないに決まって
いるんだから。それが世論であり、女の勝利だと思うんですね。女はあくまで「弱い女をどうしてこんなに
いじめるんだ」と、断然反対してくる。すると男はそれ以上、腕力をふるえないから負けちまうわけですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
439 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 00:15:12.85 ID:UYqVfgul
(中略)力対力という関係が、戦後の世界ではだんだん薄れてきつつあると思うんですよ。(中略)
われわれの主張は正しいのに、こんなに弱い、武器をもたない学生がやられているじゃないかと、頭から血が
流れているじゃないかと。全学連を非難する人たちも、やっぱりおしゃもじをもって、主婦連じゃないけれども、
弱いわれわれの生活を守るのにはどうすればいいのか、すべて「弱いわれわれ」が前提になっている。これは
世論のいちばん大きな要素で、われわれが世論に迎合するためには、自分が強者、あるいは加害者であったら
たいへんなことになっちゃう。
自衛隊があんなに悪口をいわれるのはもう、自衛隊が力だということがはっきりしているからですね。そして
警察の悪口がいわれるのは、警察が力だということがはっきりしているからですね。力をもっているやつは
かなわない世の中になっちゃっている。これは戦略をよほど考えないと、いまわれわれは左翼の言論を力だと
思って評価したらまちがいで、あれは弱さの力なんですね。それをいちばん象徴しているのは、ぼくは核と
世論というものの関係だと思います。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
440 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 17:34:19.24 ID:UYqVfgul
「ウエストサイド・ストーリィ」というミュージカルがありますが、実に皮肉な歌が出てきます。暴力団の
不良少年どもが、お巡りがやってくると、みんなで被害者意識を訴える歌を歌うんです。われわれは社会的な
病気だ、ソーシャル・ディジーズだ、すべて社会の被害者で、社会の矛盾がわれわれに集中されて、こういう
人間になっちまった、われわれに罪もなければ責任もない、教師が悪い、社会が悪い、政治が悪い、経済が悪いと
いうんです。お巡りは閉口してしっぽを巻いて逃げ出すんです。
ああいう逆手のとり方というのは、日本では一般的になっちゃった。いつも個人が責任をとらないからです。
それは現体制にも責任があるんで、誰も個人が責任をとらなければ、罪を人になすりつけるほかない。そうすると
金嬉老のような殺人犯の罪さえ、誰かに、あいまいモコたるものになすりつけることはできるんですね。これは
人間が、本当に自分個人の責任をとらなくなった時代のあらわれですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
441 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 22:57:14.71 ID:UYqVfgul
たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、(中略)何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという
気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。
たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。それは右にも共通するからですね。
ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。安保条約をやめて
双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない、そのときには君らの国に基地をくれと
いったんです。(笑)ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、基地を
ほしいと……。一坪でもいいんです。そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中にはいってきたら、
撃っちまえばいいんですからね。そのくらいのことをアメリカは考えなければだめだと。(中略)双務的で
あれば、国民は納得する。納得させるためには、アメリカの広いところで、一坪くらいの土地がなんだ、と
そういったんです。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
442 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 22:57:56.30 ID:UYqVfgul
向こうで基地反対闘争でも起これば大成功です。(笑)こっちもやっているし、向こうでもやっているから、
おあいこですね。
それで解放されますよ、こっちのアメリカの基地は、そのかわりにこっちで責任をもって守ってやる。
もうひとつは自立という問題に関係するんですが、自衛隊がどうもいざというときには、アメリカの指揮で
動くんじゃないかという心配をみんなもっているわけですよ。これは自衛隊によく聞いてみても、最終的な指揮権が
どこにあるかということになると、実にむずかしいですね。(中略)最終指揮権については、いろんなカバーが
あるわけですね。(中略)
私はどうしても日本人の軍隊をもたなければいかん、どんなに外国から要請があっても、条約がない限り動かんと、
あるいはこっちはこっちの判断でやっていく軍隊がなければならん、そうすると、どうすればいいんだということを
いろいろ考えた。どうしても二つに自衛隊を分けて、全くの国土防衛軍と、それから国連協力軍の二つに分ければいい。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
443 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 22:58:24.33 ID:UYqVfgul
ぼくは陸上自衛隊の九割までは国土防衛軍でいいと思う。そうすれば、その軍隊はどんなことがあっても日本を
まもるため以外は動かないんだから、国民の信頼を得ますよね。
(中略)
ところで自衛隊のことは、ぼくはあんまり細かいところまで知りすぎているんで、物をいいにくくなって
いるんですが、訓練の安全管理の問題を一つとってみても、予算がいろいろ響いている点があると思うんです。
はやい話が自衛隊には、はばかりの紙がないんです。紙の予算がないんです。だからみんな兵隊はPXで鼻紙を
買って、けつをふいているんですよ。
(中略)紙ならいいです。別に命にかかわりはないから。ところがレインジャー訓練のとき、末端の部隊には、
新しいロープが配給にならないんです。そうすると、何度も何度も耐久限度のすぎたやつを使っているところが
あるんですね。ちょっと危ないなと、思ってもやっちゃう。それでロープが切れて、現実に事故が起こっている。
これは予算ということもひとつの問題です。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
444 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 23:29:32.56 ID:UYqVfgul
こういうことをあまりいっちゃいかんかもしれないけれども、防衛大学の学生なんかに聞きますと、われわれの
軍隊はシビリアン・コントロールの軍隊であると。だから政権がかわれば、それに従うのは当然だと。日本に
共産政権ができれば、われわれは共産軍になるのは当然だという考え方をするのが、かなり多いらしいですね。
そういう考え方は間違いだということを世間はこわいから教える自信がないんです。これは軍隊の重大な問題で、
自衛隊というのは、もともとイデオロギッシュな軍隊であるということを、もっと周知徹底させないと……。
それを世間でたたき、国会でたたき、ぼくにいわせると、イデオロギー的な軍隊であるけれども、名誉の中心は
やはり天皇であるというところで、すこし極端ですが、そこまでいかなければだめだと思うんです。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
445 :
名無しさん@3周年:2011/07/05(火) 23:39:05.31 ID:NsTcn3jO
446 :
名無しさん@3周年:2011/07/06(水) 22:37:43.80 ID:iJuZVqfZ
三島由紀夫は、2.26事件の青年将校に感情移入をしていた。
小説家とかだから、感情移入はそれはそれでよかったのかもしれないが、
天皇や皇室のことを、感情で考えてしまうのが問題だろう。
多くの日本人が政治の話で、
冷静に理論的になれないという欠点があると思う。
その結果としての2009年の政権交代があったわけだし、
いまだに、あの政党を信頼している人が、
10パーセント以上の固定的層として存在しているということだ。
447 :
名無しさん@3周年:2011/07/07(木) 00:14:35.39 ID:cFKXq1gV
少なくとも自民党が危ないときになって国民投票をやったとします。そうしてウイかノンかというのを国民に
問うたとします。できることは、安保賛成(ウイ)か安保反対(ノン)かどっちかしかない。安保賛成というのは、
はっきりアメリカですね。安保反対というのはソビエトか中共でしょう。日本人に向かっておまえアメリカをとるか、
ソビエトをとるか中共をとるかといったら、僕はほんとうの日本人だったら態度を保留すると思うんですね。
日本はどこにいるんだ。日本は選びたいんだ、どうやったら選べるんだ。これはウイとノンの本質的意味を
なさんと思うんですよ。
(中略)まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況にいる。これで安保騒動を
とおり越しても、まだやれないんじゃないかという感じがしてしようがない。それで去年の夏、福田赳夫さんと
会ったときに、「自民党は安保条約と刺しちがえて下さいよ」と言ったんですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
448 :
名無しさん@3周年:2011/07/07(木) 00:15:00.16 ID:cFKXq1gV
私が大きなことを言うようですが、私の言う意味は、自民党はやはり歴史的にそういう役割を持っている、
自民党は西欧派だと思うんです。西欧派は西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい。
その次に日本か、あるいは日本でないかという選択を迫られるんであるというふうに言ったことがある。いま
右だ左だといいましても、安保賛成が右なのかということは、いえないと思うんです。安保賛成も一種の
西欧派ですよ。安保反対はもちろん外国派です。そうすると国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には
加担していないですよ。
ですからナショナリズムの問題が日本では非常にむずかしくなりまして、私が思うのに、いま右翼というものが
左翼に対して、ちょっと理論的に弱いところがあるのは、われわれ国粋派というのは、ナショナリズムというものが、
九割まで左翼に取られた。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
449 :
名無しさん@3周年:2011/07/07(木) 00:15:28.14 ID:cFKXq1gV
だって米軍基地反対といったって、イデオロギー抜きにすれば、だれだってあまりいい気持ちではない。それから
アメリカは沖縄を出て行け、沖縄は日本のものであったほうがいい、なにを言ったところで、左翼にとってみれば、
どこかで多少ナショナリズムにひっかかっているから広くアピールする。そうして私は、ナショナリズムは
左翼がどうしても取れないもの――九割まで取られちゃったけれども、どうしても取れないもの、それに
しがみつくほかないと信じている。だから天皇と言っているんです。もちろん天皇は尊敬するが、それだけが
理由じゃない。ナショナリズムの最後の拠点をぐっとにぎっていなければ取られちゃいますよ。そうして日本中が
右か左の西欧派(ナショナリズムの仮面をかぶった)になっちゃう。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
450 :
名無しさん@3周年:2011/07/07(木) 00:46:48.86 ID:O/tS4Mx+
>>445 のNTTエイズの件は、
真の愛国者であれば絶対に許し難い蛮行だと思うぞ!
国営通信企業が手っ取り早くカネ儲けするために、
同胞にHIVを乱交で大量感染させることを故意に行い、
それを一部の政治家らと謀って厚生労働省らに統計偽装で
かくさせたのだからな。20年もさ、現在まで!
451 :
名無しさん@3周年:2011/07/07(木) 00:57:43.71 ID:O/tS4Mx+
452 :
名無しさん@3周年:2011/07/09(土) 10:03:55.96 ID:Wv9Y6Wad
林:僕は今の左翼の“ナショナリズム”は発生が外国指令だと思う。いくら彼らに教えても反米はできるが
反ソ、反中共はできない。したがって尊王ということは、彼らにとっては、もってのほかです。いま愛国主義が
彼らに先取りされているようにみえるが、実際は取られていないんだな。われわれ右翼がうっかりしている間に
日本のナショナリズム、愛国主義とアメリカ帝国主義打倒をすり変えてしまったんですよ。
三島:この間も羽田で火炎ビンを投げたのは毛崇拝で、かつ愛国だというんでしょう。あれは明らかにおっしゃった
ような代表的なものですが、(中略)やつらは天皇、天皇といえばのむわけないです。のむわけないから、
やつらから天皇制打倒というのを、もっと引出したいですよ。(中略)
これをもっとやつらから引出さなければならない。やつらのいちばんの弱味を引き出してやるのが、私は手だと
思っているんですがね。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
453 :
名無しさん@3周年:2011/07/09(土) 10:04:25.79 ID:Wv9Y6Wad
三島:いま左翼のあとを追って理論化を急いでもなんにもならん。
私は三派の連中なんか、共闘派の連中と論争してみたけれども、(中略)連中は言葉使いは変だし、訳の
わからんことを言いますが、少なくともポレミッシュですよ。非常に論争にたけています。足をすくうのも平気だし、
こんなことは真似しようと思ったらむだな勉強です。僕は純粋な青年にこんな毒々しい技術を学ばせたくないですね。
もし理論武装といって、そういうことを意味するんならやめてほしい。
林:(中略)左翼学生たちが果たして頭がいいかどうかということには、私は疑問を持つ。彼らの理論は
鵜呑み理論であって、イデオロギー以上には出てこない。
三島:(中略)ただポレミッシュだ。ポレミックが非常にうまい。
林:(中略)訓練され学習させられていますからね。(中略)(右翼は)まず、たった一人の大川周明、たった一人の
北一輝が出ればいいんですよ。(中略)現在の右翼の理論武装のためには、新しい北、大川が出なければならない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
454 :
名無しさん@3周年:2011/07/10(日) 23:33:06.70 ID:oeayZEbt
三島:もう一つ大事なのは、ユーモアとウイットですね。左翼の連中は小憎らしいけれども、ユーモアが
あるんですよ、ときどき。(中略)右翼の理論というのは、儒教の悪影響だと思うんだけれども、とにかく衿を
正して聞かなければならないような理論ばっかりですね。とにかくユーモアとウイットで相手をこてんぱんに
のすような、おもしろい理論がない。そういう文章がない。
赤尾敏なんかユーモアがあるな。
林:それはちょっと皮肉な意味でね。
三島:あれは若いやつが喜んで聞いてますよ、おもしろいと言って。
林:赤尾さんがアメリカの旗を掲げているのは困る。僕は手紙を出したいくらいだ。あれをはずせば立派な
ものじゃないか。なぜアメリカの星条旗を掲げるんでしょうね。
三島:ある意味では日本の右翼の追いつめられた姿をいちばん正直に露呈しておる。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
455 :
名無しさん@3周年:2011/07/10(日) 23:34:04.94 ID:oeayZEbt
三島:僕は理論なんか根底的に必要じゃないと思うんです。根底的には誠だけでいいんですよ。誠以外になにが
いりますか。
林:その意見に賛成です。右翼にはユーモアはなくとも、誠がある。いちばん安心してつき合える。左翼のやつは
つき合えない。油断ができない。
三島:いちばん根底には誠だと思います。誠があるかないかですよ。
私もいま誠だなんて、きれいなことを言いましたけれども、実態の人間にぶつかってみると、そうもいえないな。
いまの青年でも右だから誠だ、左だから誠でないと思っていると、つい間違えることがある。自分で苦い目に
会ってみなければわからない。これは原則論であって、右翼は最終的には誠だけだ。それをはずしたら右翼じゃない。
左翼は誠がなくてもいいんだというところで左翼だと思うんですが、それだけの建前、もし建前をはずしたら
いろんな人間がいます。左翼もいっぱいいるし、右翼もうじゃうじゃいる。実態に触れると、いまの青年だからと
いっていちがいに純真だといえないでしょう。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
456 :
名無しさん@3周年:2011/07/10(日) 23:34:47.69 ID:oeayZEbt
三島:最近感心したのは、大東塾の靖国神社問題に対する対処の仕方ですね。これには感心している。つまり
靖国の霊を国が神道の祭祀にしたがって顕彰し、弔うべきだというだけのことです。彼の言いたいことは。
それを政治家だとか、いろんな圧力団体がそうさせない。遺族会すらそういう本旨を誤っているという場合に、
だれがその思想をとおすのか。その思想をとおすのに、言論だけでたりるのか。どの政治家のところへお百度詣り
したら、それをとおしてくれるのか。人間がそういうことを考えたら、それをとおす方法といったら、やっぱり
ぶんなぐるほかないでしょう。だからちょっとぶんなぐったでしょう。
政治家をぶんなぐることがいいかどうかわからない。ただ影山(正治)氏の塾の人がやったことは、ある一つの
思想をとおすには、どうしても法的にも、議会政治の上でも、どうしてもとおらない。しかしそれが日本にとって
本質的なものだと考えたら、あの方法しかないんじゃないですか。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
457 :
名無しさん@3周年:2011/07/10(日) 23:37:22.40 ID:oeayZEbt
その方法の良し悪しというよりも、あの方法しかないからやったんでしょう。そういうふうな、どうしても
やらなければならんことで、ほかに方法がないということをやるために右翼団体というものはあるんだと思うし、
塾というものがあると思うんだ。それはその姿勢は守らなければならない。それを捨てたらだめだと思うんですよね。
あの人はその観点からあの事件についてはちゃんとしていると思う。
林:右翼は長い歴史を持ち過ぎて、政治家、財界人と仲良くなり過ぎている傾きがある。政界財界から二歩も
三歩も距離をおいて、いざというときにその尻をひっぱたくのが頭山満、内田良平先生以来の右翼浪人の
生き方だった。対露軟弱論者の伊藤博文はずいぶんおどかされたり、はげまされたりしている。
政界と財界に対して常に一敵国を形成しているという根本態度だけは、僕は右翼人に忘れてもらいたくない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
458 :
名無しさん@3周年:2011/07/12(火) 10:02:15.16 ID:HaboYAfu
三島:日本人の心のなかには、日本人というのは自分の主義主張のためには体を張るものである、命を最終的に
惜しまないものであるという伝統的なメンタリティーがあるでしょう。そうして新左翼というものはそのすれすれのところへいって、
国民に期待を抱かせたわけです。あのとき(安田城攻防)期待したやつはずいぶんいる。ところがそうでなかった。
これから先右翼に対する期待はそれが残ってる。ほんとうに体を張るやつはどっちかなということを国民は
みていますよ。
私はここで右翼も左翼と同じ体質になって、体を張らないんだということになったら、これは絶対絶望だと
思うんですよ。左翼と違って体を張るんだということが右翼の最終的なもので、それが国民の心というものを
ほんとうにつかむ唯一の方法だと思う。これは言ってやさしいことではありません。軽々に言うべきでは
ないんだけれども、ほんとうにそこしかないんじゃないですか。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
459 :
名無しさん@3周年:2011/07/12(火) 10:03:07.00 ID:HaboYAfu
林:誠と命が右翼だ。左翼はどんなえらそうなことを言っても、それがない。(中略)彼らには戦略があるだけだ。
これはマルクスの生産力説と唯物史観から生まれている。人間というものをまるで認めてない。ちょっとした
不満は人間疎外というし、彼らの人間性回復とは実は動物になりたいということなんで、だから三島君は
“東大を動物園にしてしまえ”と言った――あんな学生動物がたくさんできてきたのだから。(笑)
三島:つまり義のために死ぬというのは人間の特徴で、動物にはない。義のために死なないのは、動物と人間の
境い目がつかないやつ。(中略)
林:(中略)いまの日本の左翼にもレーニン的なところがあり過ぎるんだ。(中略)裁判官が書いていたね。
安田講堂のそばの建物にたてこもった学生は、地方から出てきたばかりで、中央の闘争ぶりを見ろと、だまして
つれて行かれたんだそうですね。そういうことをやるんですよ。右翼ならそういうことはやらんなあ。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
460 :
名無しさん@3周年:2011/07/13(水) 19:49:00.08 ID:ntFPgTAf
三島:公明党はちょっと気味が悪いところがあるな。というのは僕は一九七五、六年には、ひょっとすると
連立政権ができるんじゃないかと思っています。(中略)
林:児玉誉士夫さんは、民社と公明党と自民の連立政権をつくれと言っている。
三島:しかしその場合、公明党のいちばんの持参金は自衛隊と警察ですよ。これはほかの野党はだれも持っていない。
林:そんなにたくさん入ってるんですか。
三島:非常なもんですよ、公明党の自衛隊と警察に対する手の打ち方は。十年たてば持参金になる。(中略)
林:武力という実力だな。これは噂だけれども、共産党が公明党になだれ込んでいるのと同じ比率で、右翼も
なだれ込んでるというんだが、ほんとうですか。
三島:そういうことも言いますがね。もう一つの可能性としては、公明党は分裂するでしょうね。
林:革命派と合法派と。
(中略)
共産党は人民戦線などというが、結局独力でやらなければならない。僕はあれは異教だと思ってるよ。マルクス主義は
キリスト教の裏返しだから、日本には土着しない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
461 :
名無しさん@3周年:2011/07/13(水) 19:51:23.46 ID:ntFPgTAf
林:池田大作という人物は聡明な男だから、なにを読んでみても、理路整然と逃げてる。大事なところは少しも
触れない。いま正面から公明党を攻撃しているのはやはり大東塾ですね。
三島:ですから連立政権ができたとき、そういう時代がくれば、ほんとうにそれに対抗する勢力は右翼しかない
でしょう。
(中略)
林:いろんな「文化人」が「潮」にも「赤旗」にも書くでしょう。自民党の出版物に書くと安い。知識階級とは
そんなもんですから、あてにしなくていい。(中略)
三島:辛辣なことだが、そうですね。講演料がたくさん出ているところへ行く。文化人なんというのは頼らない
ほうがいいですよ。
僕は反共というのは、実は嫌いなんですよ。共産主義だろうがなんであろうが外国思想はみんな反対というのが
国粋主義であって、共産党だから反対じゃなくて、日本の純粋性をくもらすものは、共産主義であろうが、
資本主義であろうが、民主主義であろうが、なんでもいかん。だから日本人でいいんです。そのためには右翼と
いわれたって、なにいわれたってそんなことかまわない。そこから出発してほしいと思いますね。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
462 :
名無しさん@3周年:2011/07/14(木) 11:26:18.99 ID:OfTPGpL/
これしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか身を投げることしかない。
それはもっとつきつめれば焼身自殺だよ。このあいだ、アメリカの国会議事堂で自殺した少年と同じだ。これは
ことばにかけると同じ重さを、からだにかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
嘘なんだけども効果はある。
アメリカ大使館の窓から旗を三つぐらい垂らせば世界中に報道され、これはたいへん象徴行為になって効果が
あるんだけれども、根底的に意味はない。意味がないんだけれども、意味があるかのごとくなっている。そして、
全学連は最終的に意味があるかのごときところで満足しているということが表現者として気に入らないんだ。
これは正義運動としての自己冒涜だよ。正義運動を正義運動たらしめる根底的なものは、最終的に自己破壊しかない。
それができないということは、もう一つの表現のところに頼っているんだ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
463 :
名無しさん@3周年:2011/07/14(木) 11:26:56.88 ID:OfTPGpL/
テロリズムといわれようとなんといわれようとかまわない、ことばを刻むように行為を刻むべきだよ。彼ら
(全学連)はことばを信じないから行為を刻めないじゃないか。もっとも、それを彼らに要求するのは無理かも
しれない。というのは、教育が彼らにことばというものの最終的な意味と重さを教えなかったから。そして
それは日本の文士、へっぽこ小説家どもの責任でもある。だから、彼らはことばの軽さに慣れて、テレビ的行為を
すばらしい政治行為だと思っちゃうんだよ。
(全学連は)ファクトを信じない時代の子で、自分らのやることはファクトだと思っていない。
一定の仕組まれた政治的プログラムのなかの一つのパブリシティだと思っている。パブリシティとファクトとを
厳密に分けなければわれわれの言語信仰は崩れるわけで、そこが気に入らない。全学連は、どこにファクトがあって、
どこがパブリシティなのかぜんぜんわからないでしょう、これはある意味ではいちばん気味が悪いよ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
464 :
名無しさん@3周年:2011/07/14(木) 11:28:24.24 ID:OfTPGpL/
去年、福田赳夫さんに「自民党は安保と刺しちがえてくださいよ」といったんだけど、これは自民党の歴史的
役割りだと思うんだ。戦後の国際協調主義みたいなものの最終的なもので、これを自民党がやってくれなければ
その後の日本は開けない。
中国人はものを変えることが好きでね、人間を壷の中に入れて首だけ出して育ててみたり、女の足を纏足
(てんそく)にしてみたり、デフォルメーションの趣味があるんだよ。これは伝統的なものだと思うんだ。
中国というのが非常に西洋人に近いと思うのは、自然にたいして人工というのを重んじるところね。中国人の
人間主義というのは非常に人工的なものを尊ぶ主義でしょう。作って、変えたという確信を持つことが権力意識の
獲得ですから。だから意識の変革というのをやりたくてしようがないんだよ。中国文学の専門家には悪いけど、
これは中国人の伝統的な趣味だと思うんだ。
変革といった瞬間にすぐ偽善に陥る、モラルといった瞬間にすぐ偽善が押し寄せてくる、それはほんとに怖いねえ。
全共闘諸君は若いかもしれないけど、若いなりにそういったものが垢として身についているかもしれない、怖いねえ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
465 :
名無しさん@3周年:2011/07/15(金) 23:07:54.28 ID:aCym+zHS
戦後のいまの世界を見ていますと、たいていのことはフィクションで片づいちゃう。(中略)思想的な激突を
やる代わりにテレビでもって討論会をやる。そんなふうに、だんだんだんだん影がうすまってくるわけですね。
そしてすべてがフィクションの世界にとけ込んでしまって、どこに生死を賭けた大事があるのかわからなくなってくる。
激突しても、これは本当に死ぬ気があるのかどうか、殺す気があるのか、あるいは殺される気があるのか
わからないところで対決する。それが現代ですね。「葉隠」は、そういうものを非常に嫌うわけですね。
そういうのは芸能に携わる人間のやることであって、(中略)武士というものはそういうものじゃなくて、
本当に死ぬということが武士なんだから、そういう点で、河原乞食なんかいくら軽蔑してもかまわないという
考えですね。現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、なにから、
やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
466 :
名無しさん@3周年:2011/07/15(金) 23:08:38.64 ID:aCym+zHS
全学連の運動というのはね、方向がどうあれ、根本は実感主義の復活ということだと思うのですね。これは
全学連のみならず、右の学生もそうなのであって、(中略)自分の成長期に、なんら実感にふれないで大人に
なっていったらどうなるだろう、すごい恐怖だと思うのですよ。われわれは、少なくとも空襲という実感が
ありましたね。それから死体がそこらにころがっているという実感がありました。中世の人間は、「方丈記」も
そうですが、そういう実感の中から初めてフィクションも出てきた。
私はインドに去年行きまして、ベナレスで、癩病の乞食がいっぱい並んでいるところを見て、なるほど弱法師と
いうのは、ここから出たんだと思ったのです。そして芸術の根源というのは、ああいうところにあって、ああいう
恐ろしい実感、あのファクトを一生懸命洗練したり、磨き上げたり、抽象化するから芸術が起こるのであって、
現代みたいにファクトがないところで、どうやって芸術をやっていくのかという危機感は、私どももっているわけです。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
467 :
名無しさん@3周年:2011/07/15(金) 23:09:19.18 ID:aCym+zHS
たとえば、私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。うそでかためれば安全、
謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、
不特定多数の人間の平均的な好みに自分を会わせれば成功だし、会わせれることができなきゃ失敗。これが
現代社会ですよ。
(中略)
現代的コミュニケーション、現代的対人態度というものの中にある毒を清めたいときに、「葉隠」を読めばいいと思う。
「葉隠」をサラリーマンの心得みたいに思うことは、ずいぶん間違いだと思うのです。
ぼくは、もうちょっと人間関係ががたぴししたらいいと思うのです。人間関係全部ががたぴししないから、
集団の衝突になっちゃうのがいまの世の中だと思いますし、いまの近代社会というものの宿命だと思います。
どうも人間関係ががたぴししないで、あまり円滑にすべりすぎるから、一方では衝突が起こるのだろうと思います。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
468 :
名無しさん@3周年:2011/07/16(土) 00:25:39.45 ID:Yb3S1yPc
>>451 445
>エイズ感染者の大部分がB型肝炎やC型肝炎を患うことは、
>昔から医学的に確認されていたことだからな。ホント薄汚いヤツらだ(蔑)
それはいえるね。
愛国とはなにか!?愛国者とは!?となったらば、
責任逃れやカネ儲けのために国内のエイズの性交渉汚染を隠蔽するような奴は
まず不適格であることは間違いないよ。
今の時代に三島のような男がいたらどうなっただろうね?
469 :
名無しさん@3周年:2011/07/16(土) 00:36:40.19 ID:Yb3S1yPc
>>445 451 468
米国や仏、英などは1980年代からすでに性交渉のHIV汚染が深刻な状況にあり、
それは現在も変わっていないとのこと。
事実、完治薬はウィルス変異の凄まじい速さが問題となり開発不可の状態。
今晩も偽りの安全論、過少に偽装されたHIV感染者発表数のせいで、
多くの国民が安全とだまされ、性感染していることは科学的、統計学的に
みてもまちがいない。はたして現代の三島は現れるか‥‥‥‥?
あるいはもはや手遅れ???
470 :
名無しさん@3周年:2011/07/17(日) 10:55:43.94 ID:W+ZWLqC7
三島:人間がさがして最後に到達するものは根だよ。そうだろ。
石原:いろんな意味での存在の根に対する回帰でしょうね。(中略)
三島:回帰だろう。回帰のなかには自由という問題をこえたものがあるはずだ。ぼくは簡単に言うと、こういう
ことだと思うんだ。つまりわれわれは何かによって規定されているでしょう。これは運命ですね。日本に生まれ
ちゃった。(中略)
自由を守るというのはあくまで二次的問題であって、これは人間の本質的問題ではない。自由を守る、ある政治体制を
守るということは、人間にとって本質的問題でも何でもない。ぼくは、おまえ民主主義を守るために死ぬか、と
言われたら、絶対に死ぬのはいやですよ(中略)われわれはある政治体制を守るために死ぬんじゃない。じゃ何を
守るために死ぬのか。バリューというものを追い詰めていけば、そのために死ねるものというのが、守るべき
最終的な価値になるわけだ。それはこの自由の選択のなかにないとぼくは思うんだね。自由の選択自体のなかにはない。
もっと規定しているもののなかにそれがあるんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」
471 :
名無しさん@3周年:2011/07/17(日) 10:56:41.43 ID:W+ZWLqC7
三島:ニーチェの「アモール・ファティ」じゃないけれども、自分の宿命を認めることが、人間にとって、
それしか自由の道はないというのがぼくの考えだ。
(中略)
石原:(中略)しかし宿命というものを忌避しようとすることは、人間にとっての自由です。そこに、神のでない
人間の意志がある。
三島:しかし宿命を忌避する人間は、またその忌避すること自体が運命だろう。そういう人間はそういうふうに
生まれついちゃったんだ、反逆者として。
石原:しかしそれはその人間の一つの存在の表現であって、ぼくはやはり人間の尊厳というのはそこにしか
ないと思うな。
三島:君はずいぶん西洋的だなあ。ぼくはそういう点では、つまり守るべき価値ということを考えるときには、
全部消去法で考えてしまうんだ。つまりこれを守ることが本質的であるか、じゃここまで守るか、ここまで守るかと、
自分で外堀から内堀へだんだん埋めていって考えるんだよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
472 :
名無しさん@3周年:2011/07/17(日) 10:57:53.47 ID:W+ZWLqC7
三島:(おれは)最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。
石原:三種の神器って何ですか。
三島:宮中三殿だよ。
石原:またそんなことを言う。
三島:またそんなこと言うなんていうんじゃないんだよ。なぜかというと、君、いま日本はナショナリズムが
どんどん侵食されていて、いまのままでいくとナショナリズムの九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ。
石原:そんなもの取られたっていいんです。三種の神器にいくまでに、三島由紀夫も消去されちゃうもの。
石原:やはりぼくは世界のなかに守るものはぼく自身しかないね。
三島:それは君の自我主義でね、いつか目がさめるでしょうよ。
石原:いや、そんなことはない。
三島:(中略)天皇制という真ん中にかなめがなければ、日本文化というのはどっちへいってしまうかわからない
ですよ。(中略)
ですから(全共闘)三派が直接民主主義なんてことを言うと、(中略)君らの求めるそういう地上にないような
政治形態を天皇に求めればいいじゃないかって言うんですよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」
473 :
名無しさん@3周年:2011/07/17(日) 10:59:02.05 ID:W+ZWLqC7
三島:伝統の多様性というものを守るためには闘う必要はないんだ。伝統なんかたった一つだけ守ればいいんだ。
絶対守らなきゃあぶないものを守ればいいんだ。守らなきゃたいへんなものを。そうすればほかのものは、
たいていだいじょうぶですよ。
(中略)
アイデンティティーというのは、最終的にアイデンティティーを一つ持っていればいいんだ。言わば指紋だよ。
君とおれとは別の指紋を持っている。ナショナリズムでもなんでもない。指紋が違う。それで文化を守るという
ことは、最終的にアイデンティティーを守ることなんだ。
石原:ぼくはやはり守るものはぼくしかないと思う。
三島: 身を守るということは卑しい思想だよ。
絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
石原:身を守ることが?……ぼくは違うと思う。
(中略)
三島:だけど君、人間が実際、決死の行動をするには、自分が一番大事にしているものを投げ捨てるという
ことでなきゃ、決死の行動はできないよ。君の行動原理からは決して行動は出てこないよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
474 :
名無しさん@3周年:2011/07/17(日) 11:03:19.71 ID:W+ZWLqC7
石原:そんなことはない。守るというのは「在らしめる」ということ。そのためには自ら死ぬ場合もある。
献身、奉仕だってある。自分に対する献身もあるでしょう。
三島:それは自己矛盾じゃアないか。自分に対する奉仕のために自己放棄するなんてばかなやつは世のなかで
聞いたことがない。
石原:いや、そうですよ。はっきりありますよ。他者というのはぼくの内にしかないんだもの。
(中略)ぼくのうちに在るもの、つまり友人があったり、家族があったり、民族があったり、国家があるわけ
でしょう。(中略)
三島:それじゃ君、同じことを言っているじゃないか。つまり君の内部にそういう他者を信じるか、外部に他者を
信じるかの差にすぎないでしょう。
石原:(中略)大体ぼくは人間が他人を信じるなんて信じられないな。
三島:君は絶対、単独行動以外できないでしょう。
石原:そう思います。だから派閥をつくれって言われても人間を信じては派閥なんかつくれない。
三島:絶対の単独行動でどうして政治をやるんですか。
(中略)
もうすでに君は何かの形で(中略)意識しないディボージョンをやっているんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
475 :
名無しさん@3周年:2011/07/17(日) 23:08:50.68 ID:W+ZWLqC7
石原:ぼくはときどき言うんだけれども、行きすがるときにいきなりつばをはきかけられて、とがめて顔をふいて
もらってもどうにもならんでしょう。やはりなぐるか、切るかしなければいけない。(中略)
三島:そりゃそうですよ。そのときはやる。
石原:現代の社会には名誉というものがないと思うな。
三島:それを守らなくちゃ名誉はないわけだが、しかしそれは自分を守るということと別じゃないかな。つまり
男を守るんだろう。
石原:結局、自分を守ることじゃないですか。
三島:それは、ある原則を守ることだろう。
石原:男の原理。現代では通用しなくなった男の原理。
三島:男というのは動物ではない、原理ですよ。普通男というと動物だと思っているんだ。女から言うと、男って
ぺニスですからね。あの人、大きいとか、小さいとか、それは女から見た男で、女から見た男を、いまの世間は
大体男だと思っているんだろうがね。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
476 :
名無しさん@3周年:2011/07/17(日) 23:10:34.10 ID:W+ZWLqC7
三島:ところが、男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう原理を
守らなくちゃならないでしょう。その原理というものは、石原さんが言うように自分だとはぼくは思わないですよ。
自分ならそんな辛い思いをして原理を守る必要はない。自分を大事にするんだったら、つばをはきかけられても、
なるたけけんかしないでそっとしておいて、かかわりあいにならないで、そばで人が殺されそうになっても、
警察に調書を取られるのはたいへんだから、そっと見ないで帰りましょうというほうが、よほど生きるのは楽ですよ。
だけどそこで原理を守らなければならないのが男でしょう。
三島:三種の神器です。ぼくは天皇というのをパーソナルにつくっちゅったことが一番いけないと思うんです。
戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、みんなが天皇をパーソナルな存在にしちゃったからです。
天皇というのはパーソナルじゃないんですよ。(中略)
それで天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、
天皇制廃止論者をつくっちゃった。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
477 :
名無しさん@3周年:2011/07/17(日) 23:15:10.09 ID:8VTy+uFG
男はふんどしを締めて、たとえ祖先は百姓でも、サムライになって、
天皇陛下ばんざいと叫んで、もーホーを趣味にせよ。そうすれば
良い飯が食える。日本の伝統とはそういうものだ。
478 :
名無しさん@3周年:2011/07/20(水) 23:51:07.30 ID:VnSD+GIS
(堤氏の父・堤康次郎氏の)家長というもののすご味を感じたな。冷酷なようだけれども、家を守るということは
ああいうことだね。いまのヒューマニズムじゃちょっと割り切れないが、あの当時、そんなヒューマニズムなんて
言っていたら、みんな三国人に取られちゃいますよ。(笑)
ルース・ベネディクトの「菊と刀」という本がありますが、これほど日本を馬鹿にした本はない。しかし
「菊」というのは文化で「刀」が武道という分け方は面白い。戦後は文化国家というので全部「武」に関するものは
抑圧されちゃった。みんな腰抜けを製造するのが文化みたいになっちゃう。もちろん戦争中のように軍人が威張ると、
軍人自体が腐敗して、頽廃していくんです。(中略)
ほくは、学生にアニマルプライドを持てといってるんだ。(中略)「千万人といえども吾往かん」というときに、
千万人のほうに自分を入れちゃうから、吾のほうがなくなっちゃう。(笑)「楯の会」でも百人が群なんじゃないんだ、
一人一人なんだということをしきりにいうんです。
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
479 :
名無しさん@3周年:2011/07/20(水) 23:52:37.16 ID:VnSD+GIS
三島:(二・二六と全学連を)くらべること自体、二・二六の将校への冒涜ですよ。二・二六の栗原中尉というのは、
火薬庫を守るのに将校が不寝番をやるんですが、栗原中尉だけは、いねむりしたところを見たことがない。
なぜだろうというと、従兵が言うには、いつも下着に血がついている、ナイフで突っついていたからというんです。
全学連の指導者はなにをやっていますか。安田講堂の攻防では指導者は前の日にみんな逃げちゃった。人間という
ものはそんなものじゃないんです。やれ世間にがまん出来ないとか、破壊か先だとか、表面的な類似で
二・二六事件をいっしょにすると、冗談言うなというんです。
堤:今の学生には純真さがない。(中略)
三島:人間が悪くなったんだと思いますよ。それは青年の責任でね。大人の教育が悪いという考えは、とても
嫌いなんです。「楯の会」の講義で、「君ら教育が悪いとか社会が悪いとか一言も言うな」とぼくは言うんだ。
(中略)どうして運命を自分で背負わないんですかね。運命はどんな時代だってあるでしょう。背負わない人は
嫌いなんです。
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
480 :
名無しさん@3周年:2011/07/23(土) 23:29:54.57 ID:/Qk/Irh4
村上:日本人というのはどうしてこう人がいいのですかね。だまされやすいというのか。
三島:ぼくはだまされやすい云々よりも、言葉が軽視されたということがすべての間違いのもとだというふうに
思うのですけれども、たとえば戦術的にいっても、政治の基本は、言葉で「おれはあした羽田から発つ」というと、
羽田から発たなければならないというのが政治のルールと基本であって、(中略)こっちも「あした首相官邸を
占領する」といったら、その言葉は文学の言葉と本質的に同じ重さを持つべきだ。
村上:武士に二言はないと言う。
三島:それでね。ぼくら小説を書くときはそういう言葉を書くつもりで書いているのだから、そうしたら
やらなければならない。そりゃ死んでもやらなければならない。だから「十一月に死ぬぞ」といったら絶対
死ななければいけない。政治の言葉が文学の言葉と拮抗するのはその一点を措いてないのですよ。ぼくはそう
思うのですね。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
481 :
名無しさん@3周年:2011/07/23(土) 23:31:22.25 ID:/Qk/Irh4
それを全部戦術である、あれはああいって敵をだまかしたのだ、実は死ぬ気はなかったので、ちゃんと戦力は
温存してある、首相官邸をどうせ占領できないことはわかっているが、敵の目をくらますためにそういったのである、
などと言う。これは戦術というものの一番最低の戦術ですね。欺騙行動というのですけれども、ぼくはそれは
もう言葉がばかにされている段階だと思うのです。一度言葉をばかにしたら、あと永遠にこれをばかにしなければ
ならない。
「言霊の幸ふ」というのは、紀貫之が「猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」ですか、「古今集」の序に
ありますね。言葉が現実というものを支配しているのだ、そうして現実の人間感情というのは結局その言葉から
出て来たものでできているのだという、現実に対するアンチテーゼを立てる立て方なんですね。(中略)あの言葉は、
言葉が先であって、現実が先なんだということは一言もいってない。(中略)
しかしぼくが一歩言葉の外に出ればそこじゃ責任は完全にかかってくるという考えですね。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
482 :
名無しさん@3周年:2011/07/26(火) 22:50:16.66 ID:rTZIjmFA
村上:祭りというのは天皇が中心になって米を斎き祭るというようなことですか、やはり米を食っていなければ
いけないわけですな。
三島:米は絶対食いますね。日本人はどこまでいっても食いますね。ここでパン食ってますけれど、米はとにかく
どこまでも食いますな。米が一つの象徴になったってぼくは構わないと思う。日本中に水田が全部なくなって、
宮中の陛下がおつくりになる一坪の水田になっちゃった――それでも構わない。
村上:そうすると三角寛さんの山窩の研究に出てくるような米を食わないやつがほんとうの日本人だというあれは
どうお考えですか。
三島:(中略)そういう民衆の中のちょっとした変ったものを見つけて来て、それを拡大する歴史観というのは
いろいろありますよ。八切止夫なんかそんなことばっかりいって暮している。(笑)そんなもの歯牙にかける
必要ないです。文化に関係ないです、そんなもの。そんな人間がいつ文化を創造したですか。いつ文化の高い洗練、
日本語の一番高いものをそんな人間が保証しましたか。山窩が日本語というものを保証しやしない。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
483 :
名無しさん@3周年:2011/07/26(火) 22:51:15.30 ID:rTZIjmFA
村上:米をつくるということと、米を斎き祭るということと、言霊の幸ふということが合致するわけですね。
三島:そうですね。
村上:それがほんとうのネーションであるとおっしゃる?
三島:三種の神器とぼくがいうのはそれですけれども、あなたもそれ、お書きになっている。この間、石原慎太郎に
笑われちゃった。小田実と二人で、私をあざ笑っていましたよ。三種の神器だって、三島にも困ったものだ――
石原が笑ったら、小田実が共感の笑いをもって……。(笑)
村上:その点自民党と社会党も近いわけですな。
三島:いや、石原と小田実って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな。
村上:ともかく非常にモダンな人が多いから、三種の神器なんていうと驚いちゃうのですね。われわれは心の上では
非常に身近なんだけれども。(笑)
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
484 :
名無しさん@3周年:2011/07/26(火) 22:52:03.93 ID:rTZIjmFA
三島:ですからぼくが皇居を守るというのは、一般のやつとちょっと違うのは、宮中三殿守ればいい、宮中三殿の
ことなんですよ。文化というのは、結局それ以外に文化を最終的に守るといったって、「源氏物語絵巻」とか
国立博物館にある文化財とか、文部省の文化財保護委員会の思想とか、そういう思想は戦う思想じゃないのです。
そういう思想は絶対にどんな政治形態ができようが、これからも、大丈夫です。そういう思想は官僚の思想ですね。
ぼくはひょっとすると言論の自由を守るという思想もそっちの方じゃないかと思うのですね。下手をすると、
というのは言論の自由の問題は非常に微妙なんだけれども、文化というものの発達に、言論の自由というものが
ほんとうに栄養分になるかどうか、ときどき疑問に思うのです。(中略)
村上:結局自分が美しいと思う生き方を生きて見せるというほかに手がない。
三島:それ以外に全くないですね。ところがそのチャンスすらなくなっちゃった。(中略)
村上:なかなか腹を切るチャンスもないですし、うまく切れるかどうかむずかしい。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
485 :
名無しさん@3周年:2011/07/31(日) 23:12:53.60 ID:EAyOANV2
三島:(小高根二郎の「果樹園」に)戦争中、丹羽文雄が「海戦」を書いたときに、ぼくを非常にかわいがって
くれた先輩の蓮田善明が丹羽を非難攻撃した話が出ている。丹羽という男はいかに頑冥固陋な男か、海戦の最中、
弾が飛んでくるなかでも一生懸命メモをとって海戦の描写をしている。これは報道班員として任務を遂行して
いるわけで、そのために丹羽は名誉の負傷までしている。ところが蓮田は丹羽を非難して、なぜそのときおまえ
弾運びを手伝わないかといっておこっている。(中略)そこにはかなり重要な思想が入っていて、ほんとうに
文学というのは客観主義に徹することができるか、文学者はそういうときにキャメラであるのか、単なる「もの」を
記録する技術者であるのか、あるいは文学とはそういうときにメモをとることをやめて弾を運ぶことであるのか、
という質問を蓮田がしているのじゃないかとぼくは思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
486 :
名無しさん@3周年:2011/07/31(日) 23:13:33.68 ID:EAyOANV2
三島:ぼくはそれは丹羽文雄が悪いとは決していってない。丹羽文雄は己れの信奉している文学の観念に
忠実だったと思う。ぼくは丹羽文雄のシンセリティーを微塵も疑わない。
(中略)総力戦というのは人間をあらゆるフィールドにおいて機能化してゆくものですね。大砲を撃つ人は大砲、
報道班員は文章によって記録あるいは報道し、あるいは軍宣伝のために利用される。そういう近代的な総力戦では
丹羽は正しい任務を果たしている。だけど文学というものは絶対そういう機能になり得ないものだということを
信じたい。
そうすると、文学が絶対に機能になり得ないということを証明するためにはどうすればいいかということになると、
そのとき弾を運べばいいじゃないかという結論になっちゃう。いかに邪魔でも、どいてくれといわれても。
(中略)
中村:それは戦時でなくいまの技術社会でもそうだね。
三島:いまおこっている問題なんだ。それは戦争の話と考えていない、いまおこっているものだ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
487 :
名無しさん@3周年:2011/07/31(日) 23:15:42.32 ID:EAyOANV2
三島:ぼくはその問題はそういうふうに現代の問題として考えるのだけれども、文学の機能化ということと
文学と行動との問題はいつもからみ合っているというふうに考える。なぜなら、現代技術社会における行動とは
その九九%までが、自分の機能によって縛られているもので、これは戦時中から「職域奉公」という思想で
はじまっていた。文学にしたって同じなので、(中略)文学文学と言っていればいいかというと、それこそ受身で、
しらずしらずのうちに機能化されてしまっているということが現代なんだと思うな。(中略)平和な時代だと、
実に複雑なヴァリエーションに富んでいて、のんびり芋掘りの話を書いていても、文学好きの実業家の消閑の具に
使われているかもしれないから、うかうかしていられぬわけだ。(中略)文学をこういう「しらずしらず」の
機能化から目ざめさせるには、文学外の行動の必要が起ってくるのじゃないか。その弾運びだけが文学だという
状況が来るかもしれないのではないか。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
488 :
名無しさん@3周年:2011/08/04(木) 14:10:38.68 ID:YwHeHf3z
三島:つまり、文学者が、言葉イコール行動、文学イコール行動と信じていることは、しらずしらずの機能化に
からめとられる危険があるので、あるとき自分の機能から絶対に離れたところで「何かのため」という行動を
やってみたらどうだ。(中略)
そこで、自分をそうやって文学からあるとき弾き出す力というものを、文学に本質的に具わった逆説的な
(ある意味で健康な)能力と考えるか、そういう力はもともと文学に存在しないと考えるか、で考えが完全に
二分されると思う。蓮田善明はその前者の考え方をした人だと思うし、僕は狭義の文学というよりも、どうしても
そういう広義の文学というものに魅力を感じる。そしてそれは、どちらがより強く文学を信じているか、という
信仰の形の論争にもなると思います。しかし、現実の例は、それほど高尚な話ではなくて、今起っている文学の
機能化というのは、簡単にいえば中間小説化ですよ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
489 :
名無しさん@3周年:2011/08/04(木) 14:11:35.56 ID:YwHeHf3z
三島:汚れてない思想というものはぼくは文学のなかにあるかどうかは疑問で、汚れてない思想というものは、
もしその思想を信奉すると文学を捨てなければならぬかもしれないという危険がいつもある。それが文学と行動との
問題にぶつかってくる。
(中略)
もし技術社会のなかにおける文学の機能ないし技術ということを考えれば、いまのテレビなどに毒されている
大衆が要求し、その大衆が人生の慰めあるいは疲れ休めとして要求する技術的によくできたおもしろい小説で
十分じゃないか。それ以上に現代読者ないし現代社会は何も要求していないと思う。一部の気ちがいじみた青年は
文学に哲学を求めたり文学に思想を求めたりするかもしれないが、社会はそんなものを全然要求していない。
ですからプロレタリア文学時代よりいまの時代のほうが文学が社会から要求されていないという意識は強かる
べきだと思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
490 :
名無しさん@3周年:2011/08/09(火) 12:00:05.11 ID:jw9wAb1l
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。そういうときに何が
あるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。
ぼくの考えをいうと、「わだつみの像」というのは、ある悲しい記念碑ではあるけれども、どこに根拠があるかと
いうんだ。テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか
出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる。「きけわだつみのこえ」なんていうセンチメンタルな本を誰かが
作為的に集めて、平和主義の逆の証明にして、ああいう像をおっ立てた。全学連は、何だかわからないんだけれども、
この野郎、大学の進歩教授と一つ穴のムジナだろうと、ひっくり返しちゃった。(中略)この次ひっくり返すのは、
広島の「過ちは繰り返しませぬから」の原爆碑、あれを爆破すべきだよ。これをぶっこわさなきゃ、日本は
よくならないぞ。
「きけわだつみのこえ」なんていうのは、一つの政治戦略だ。前からぼくは反発していた。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
491 :
名無しさん@3周年:2011/08/09(火) 12:00:46.94 ID:jw9wAb1l
三島:いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは
“正しい”という意味なんだから。(笑)
鶴田:ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。
人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。
三島:そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。
鶴田:昭和維新ですね、今は。
三島:うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。
鶴田:三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。
三島:ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
492 :
名無しさん@3周年:2011/08/21(日) 11:50:33.66 ID:O8tatfWF
真の東洋的なもの、東洋的神秘主義の最後の一線を、近代的立憲国家の形体に於て留保したものが日本の天皇制である。
天皇制は過去の凡ゆる東洋文化の枠であり、帝王学と人生哲学の最後の結論である。これが失はれるとき
東洋文化の現代文化へのかけはし、その最後の理解の橋も失はれるのである。
三島由紀夫「偶感」より
493 :
名無しさん@3周年:2011/08/28(日) 10:14:36.16 ID:eDM3fD83
現代の教育で絶対にまちがつてゐることが一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。古典の暗誦は、
決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、
古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
494 :
名無しさん@3周年:2011/08/28(日) 10:50:00.71 ID:gL0g2Iax
『三島由紀夫全集』新潮社にひと通り目を通したが〜〜〜
三島さんは、昭和30年代後半から各種トラブルで精神的に追い込まれます
無二の親友「澁澤龍彦」さんが心配しまして
なんども友人として忠告したが
ああいう無残な死に方を止める事能わず・・・
495 :
名無しさん@3周年:2011/08/28(日) 11:07:42.97 ID:7TFYJ2eT
今では古臭いな。
日本文化自体今の若い連中は歴史的に見るしね
資本主義なんだからホリエモンみたいに金がすべて!金があればどんな
オネェチャンともやれるぜ!みたいのがこの前まで普通で竹中平蔵なんて
なんて素敵な政治!とか叫んでいんだから
今の右翼に三島や北先生の魂なんてあるのだろうか?
在日を差別し反韓を叫ぶ右翼は右翼とは思えない
496 :
名無しさん@3周年:2011/08/28(日) 16:08:31.18 ID:gL0g2Iax
今はそういう慣習は無くなりましたが、当時、文壇デビューには、作家先生の後押しが必要
彼の師匠は、「川端康成」でした
川端が日本で最初に「ノーベル文学賞」を受賞しましたが
本来なら、三島が受賞する予定でした
まあ、師匠に推薦文を書いてくれと三島は頼まれまして、快諾
1970年11月25日にああいう悲惨な死に方をしたもんで
川端はかなりショックを受けたと聞き及んでいます
かれも三島の後を追うように逗子の別荘にてガス自殺
どうも愛人問題で本妻とトラブルを抱えていたことが原因のようです
この話は、「ノーベル賞」受賞者には相応しくないとして、マスコミが伏せました
大作家というのは、三島は「両刀使い」、川端は「愛人」を抱えるという
普通の人では、ヤリコナセない事を出来るんですね〜w
創価学会はフランス、オーストリア、チリ、ベルギーでカルト指定。
さらにアメリカ下院議会では、危険な組織として指定。
ドイツでは、なんとアルカイダ並みのテロカルト組織に指定されている。
集団ストーカー犯罪組織の創価信者達 を日本から追い出そう!
フジデモの次は信濃町デモだ!
498 :
名無しさん@3周年:2011/08/29(月) 23:31:00.74 ID:VINrxHow
愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で十分であり、
日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、
「大和魂」で十分ではないか。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本を
より的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、
恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。一つだけたしかなことは、
今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。
さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分を
いつはつた考へだと言へるであらう。
三島由紀夫「愛国心」より
みっしー…
500 :
名無しさん@3周年:2011/09/09(金) 11:18:00.53 ID:nNnQyaL5
感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである。
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの一個の古い徳目、
一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。この死を前に、戦死者たちは
生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも「絶対」に直面する。この美しさは
否定しえない。ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。
三島由紀夫「一読者として(吉田満著『戦艦大和の最期』)」より
501 :
名無しさん@3周年:2011/09/20(火) 15:23:42.23 ID:Mj7Uw4TB
。
502 :
名無しさん@3周年:2011/10/06(木) 10:00:04.77 ID:JNA+ODSg
!
503 :
名無しさん@3周年:2011/10/06(木) 10:06:21.64 ID:z3+p15Vi
日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。日本の胸には緑色の蛇が食いついている。この呪いから逃れる道はない。
三島由紀夫
ヘンリー・スコット=ストークス宅の食事会での発言より
504 :
名無しさん@3周年:2011/10/09(日) 18:59:43.77 ID:b+yFDWZz
>>495 いやその通り。
まだ韓国人のほうが右翼的だし中国人や北朝鮮人は言うまでもない。
でもそれは仕方ないかもしれない。
自由主義が「現実」となった世界に生き、大国から小国へと降下した
国民と言うのは意識や思想や軍事責任感もまったく違う別の国の住人だから。
三島はもう一度それを乗り越えて日本人による帝國を取り戻せと
説いてるんだろうけど、皮肉にもそれをやれるのは在日を差別し
反韓を叫ぶネトウヨに他ならないという。
彼らをうまく飼いならして誘導できる指導者が必要だ。
…
506 :
名無しさん@3周年:2011/11/06(日) 11:58:13.14 ID:MKrp9MjI
三島由紀夫氏追悼会「憂国忌」プログラムが内定しました。
11月25日 午後五時半に会場を開場
(総合司会 玉川祐紀子)
午後六時半 開会の辞 松本徹
黙祷
記念講演 新保祐司「三島由紀夫と崇高」
追悼挨拶 石平
午後八時十分 閉会の辞
午後八時二十分 「海ゆかば」合唱
場所 星陵会館二階ホール(地下鉄「永田町」「国会議事堂前」)
507 :
名無しさん@3周年:2011/12/02(金) 10:20:14.34 ID:55eLG7vo
記者クラブのバルコニーから、さまざまな政治的スローガンをかかげたプラカードを見まはしながら、私は、
日本語の極度の混乱を目のあたりに見る思ひがした。歴史的概念はゆがめられ、変形され、一つの言葉が正反対の
意味を含んでゐる。
三島由紀夫「一つの政治的意見」より
508 :
名無しさん@3周年:2011/12/09(金) 09:56:11.45 ID:FSLLVoJE
平成23年天長節 皇居一般参賀と靖國神社参拝のご案内
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
三島由紀夫研究会では、天長節 (天皇誕生日)の12月23日(金)に皇居一般参賀と靖國神社参拝を実施いたします。
予定は下記の通りです。
集合日時 平成23年12月23日(金) 10:00
集合場所 JR有楽町駅 国際フォーラム口を出て改札前信号を渡った東京国際フォーラム前広場 三島研スタッフが「三島由紀夫研究会」と書いた紙を提示しています。
予定 集合後、徒歩で皇居に向かいます。
正門から二重橋を渡って新宮殿前お庭へお出ましを待ち参賀。その後坂下門近くの記帳
所にて記帳。徒歩で、皇居東御苑に向かいます。旧本丸跡や売店にある今上天皇が大嘗祭をされた大嘗宮の模型を見学。北桔梗門より退出、
北の丸公園で旧近衛師団司令部(現国立近代美術館工芸館)の建物の外観を見学します(重要文化財)
北の丸公園、日本武道館を経由して田安門から退出。
靖國神社で昇殿参拝を行う予定です。
その後希望者で懇親会を兼ねたお祝いの昼食会を予定しています。
会費 靖國神社昇殿参拝玉串料としてお一人千円
懇親会 当日実費精算とさせていただきますが、三千円程度を予定しています。
お願い 靖國神社では昇殿参拝の予定ですので、ふさわしいお支度をお願いします。
参賀は雨天決行ですが、その後は天候により変更することがあります。
当日は相当な距離を歩くのでそれなりの靴と防寒対策でお出かけください。
連絡先 集合場所、新宮殿前、東御苑等で迷子になられた場合、幹事の小川まで。
小川携帯 090−4733−1167
事前のお申し込みは不要です。ご自由にご参加ください。会員以外の参加、同伴も歓迎です。ご不明な点は、
[email protected]までお問い合わせください。
509 :
名無しさん@3周年:2011/12/26(月) 15:03:08.84 ID:7pk8Mtkk
、
510 :
名無しさん@3周年:2012/01/03(火) 16:21:56.66 ID:aao3tIlr
むかしの殿様は、毒味を重ねて運ばれる冷え切つた料理に馴らされて、すつかり猫舌になつてしまつてゐた。
われわれの舌もさうなつてをり、いきなり熱い料理に接すると、火傷をする。さらでだに、あらゆる情熱が
人に不快を与へるやうな時代に、われわれは生きてきたのである。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
511 :
名無しさん@3周年:2012/01/27(金) 18:59:35.74 ID:VIZq87/A
、
〜
513 :
名無しさん@3周年:2012/02/19(日) 19:14:31.45 ID:0BuxZOE/
三島由紀夫が、
東大の全共闘と議論したように、
保守や右翼の人たちも、
左翼の人たちと議論する時代が来たのではないか?
514 :
名無しさん@3周年:2012/02/20(月) 13:58:19.34 ID:QV8W4nvN
三島由紀夫は、文学者なので、
政治的な人たちよりも、
柔軟だったのかもね?
515 :
名無しさん@3周年:2012/02/20(月) 19:20:42.96 ID:+DgXKzbB
>>468 きっと、全国民に性病エイズの乱交汚染を20年も隠しつづけてる厚生官僚や
それに与した政治家、さらには汚染隠蔽に協力したマスコミ幹部らのクビを
日本刀でスパーンッとブッた斬ったかな!?
なにせ自ら切腹して、自分の首の介錯まで頼んだ御仁だからなあ。
516 :
犯罪役人・首チョンパ!:2012/02/20(月) 20:09:55.25 ID:iZULLMFO
検索で 「厚生省のエイズ統計を信じるな!」 や 「NTTエイズ」 を見てみ。
全国民に不治の性病エイズの汚染を隠してまで、巨額な乱交電話通信ビジネス利権に
狂ったNTTと、行政的、政治的な不正のためにNTTらを庇うべくエイズ感染者の
統計を偽装、隠ぺいして20年もの年月を現在まで経過させてる厚労省と歴代内閣たち。
517 :
犯罪役人・首チョンパ!:2012/02/20(月) 20:19:06.36 ID:iZULLMFO
>516の続き
更には汚染告発者への冤罪も絡んで警察や検察までが不祥事隠し(冤罪隠し)のために、
マスコミをつかって 『国内のSEXエイズ汚染隠し』 を強行している始末だ。
そろそろ三島の魂が悪霊悪鬼となって暴れだすかも知れんな (-_-)
518 :
名無しさん@3周年:2012/03/08(木) 16:36:19.85 ID:PR435MJd
・
;
520 :
名無しさん@3周年:2012/05/13(日) 01:23:59.69 ID:GDsO5p0y
521 :
名無しさん@3周年:2012/06/20(水) 09:31:17.15 ID:xXk7ehPQ
@
522 :
名無しさん@3周年:2012/06/27(水) 03:34:22.21 ID:pcSr4lu+
【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】
523 :
名無しさん@3周年:2012/06/27(水) 18:22:54.29 ID:pcSr4lu+
アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。
【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。
524 :
名無しさん@3周年:2012/06/27(水) 19:22:57.28 ID:eJsxB1ox
>>334>>445 三島が生きていたら、当時から現在までエイズばらまき・乱交電話メディアビジネスで
巨額なカネをもうけて平然としているNTT幹部や政治家らをどうしただろうね‥‥‥?
天皇の親戚の細川護煕から始まった、
極めて悪質なNTTエイズについての政治的な隠ぺい工作。
小泉純一郎の際にはさらに隠ぺいはエスカレートしたと指摘されてる。
現在の総理の野田は、細川の日本新党時代の子飼で、しかも出身母体は、
NTTの下請け的な立場にある松下電気、現パナソニック系の松下政経塾。
なさけない国に落ちぶれたことは確かだ。
525 :
名無しさん@3周年:2012/06/29(金) 19:52:46.31 ID:XnmJTQbG
526 :
名無しさん@3周年:2012/07/05(木) 05:43:33.29 ID:BMn8C8yh
527 :
名無しさん@3周年:2012/08/11(土) 00:55:54.19 ID:fHfusxnj
、
528 :
名無しさん@3周年:2012/08/30(木) 09:39:08.42 ID:Wik++aBw
胃痛のときにはじめて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いてゐれば、
存在を意識されるはずのものではなく、まして食卓の話題なんかになるべきものではない。政治家が
ちやんと政治をしてゐれば、カヂ屋はちやんとカヂ屋の仕事に専念してゐられるのである。
民主主義といふ言葉は、いまや代議制議会制度そのものから共産主義革命までのすべてを
包含してゐる。平和とは時には革命のことであり、自由とは時には反動政治のことである。
長崎カステーラの本舗がいくつもあるやうなもので、これでは民衆の頭は混乱する。政治が今日ほど
日本語の混乱を有効に利用したことはない。私はものを書く人間の現代喫緊の任務は、言葉を
それぞれ本来の古典的歴史的概念へ連れ戻すことだと痛感せずにはゐられなかつた。
本当の現実主義者はみてくれのいい言葉などにとらはれない。たくましい現実主義者、夢想も
抱かず絶望もしない立派な実際家、といふやうな人物に私は投票したい。
三島由紀夫「一つの政治的意見」より
529 :
名無しさん@3周年:2012/09/16(日) 10:52:09.90 ID:UHTgrpZZ
三島先生の墓参 秋分の日、多磨霊園へお集まり下さい
*************************
恒例の秋の墓参です!
9月23日(日曜日) 午後二時
ところ 多磨霊園正門前「よしの家」に午後一時半集合
直接の方は霊園内10区1種13側の「平岡家墓地」へ
修了後、よしの家で直来を予定しております(会費千円ほど)。
お問い合わせ 090−3201−1740(担当 佐々木)
530 :
名無しさん@3周年:2012/09/16(日) 10:57:29.51 ID:GRO68TBk
荒唐無稽。
現実に戦地体験した人間には
そのようにしか見えないようだよ。
531 :
名無しさん@3周年:2012/10/10(水) 19:21:46.65 ID:9dmRO7eH
公開講座 寺尾克美閣下(退役陸将補)を招いて
**********************
日時: 10月22日(月)18:30〜 (18:00開場)
場所: アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師: 寺尾克美(退役陸将補)
演題: 三島由紀夫事件の真相
会費: 二千円(会員は千円)
<講師プロフィール>
昭和4年生。愛媛県出身。昭和28年早稲田大学卒業、保安隊(当時)幹部候補生学校入校、以後経理将校畑をあゆむ。三島事件当時は41歳の3等陸佐。旧陸軍では経理畑では主計中将が最高位でしたが、自衛隊では陸将補(少将相当)が最高位です。昭和59年退官。
532 :
名無しさん@3周年:2012/11/24(土) 14:34:54.15 ID:5NU40N9x
三島由紀夫氏没後四十二年『憂国忌』の御案内
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ことしの「憂国忌」は日曜日にですので、下記三本の講演を予定しております。万障お繰り合わせの上、ご出席いただければ幸いです。
謹白
記
とき 十一月二十五日(日曜) 午後二時(一時開場)
ところ 星陵会館ホール(東京メトロ「国会議事堂前」か「永田町」)
http://ticket-search.pia.jp/pia/venue/venue_access_map.do?venueCd=SRYO プログラム 総合司会 佐波優子
開会の辞 松本徹(三島文学館館長)
<記念講演第一部>
「三島由紀夫とワグナー 芸術と政治的思想、あるいは愛と死」
在独作家 川口・マーン惠美
「三島由紀夫が下田に来た夏」 横山郁代
(休憩十分)
<記念講演第二部>
「『三島は、日本です!』(モーリス・ベジャール)―世界に向けて発せられたその死と美のメッセージ」 竹本忠雄
「海ゆかば」 全員起立斉唱
「閉会の辞」 冨岡幸一郎(鎌倉文学館館長)
会場分担金 おひとり 二千円(学生千円)
代表発起人 井尻千男、入江隆則、遠藤浩一、桶谷秀昭、佐伯彰一
竹本忠雄、中村彰彦、西尾幹二、細江英公、松本徹、村松英子
○◎○◎○
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
三島由紀夫研究会 HP URL
http://mishima.xii.jp/ メール
[email protected]
533 :
名無しさん@3周年:2013/01/26(土) 14:13:15.89 ID:+TJYpzRK
紀元節奉祝式典のご案内
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日時 2月11日(祝日・月)16:00〜18:00(15:30開場)
会場 星陵会館
東京都千代田区永田町2−16−2
地下鉄有楽町線・半蔵門線永田町駅徒歩3分
同千代田線国会議事堂前駅徒歩5分
同南北線溜池山王駅徒歩5分
同銀座線・丸の内線赤坂見附駅徒歩7分
記念講演 ヴルピッタ・ロマノ氏(京都産業大学名誉教授)
「日本とローマ − 二つの紀元節」
参加費 千円 (学生無料)
主催 紀元節奉祝式典実行委員会
534 :
名無しさん@3周年:2013/01/30(水) 22:46:29.19 ID:kT+nXLlX
三島由紀夫って天才だったん?
535 :
名無しさん@3周年:2013/04/09(火) 22:12:01.47 ID:yMkPrJ2O
うん
>>524 この問題を提起しないわけにはいかないわなー
本当の日本国の愛国者であるならな。
↓
>>334>>445 三島が生きていたら、当時から現在までエイズばらまき・乱交電話メディアビジネスで
巨額なカネをもうけて平然としているNTT幹部や政治家らをどうしただろうね‥‥‥?
天皇の親戚の細川護煕から始まった、
極めて悪質なNTTエイズについての政治的な隠ぺい工作。
小泉純一郎の際にはさらに隠ぺいはエスカレートしたと指摘されてる。
現在の総理の野田は、細川の日本新党時代の子飼で、しかも出身母体は、
NTTの下請け的な立場にある松下電気、現パナソニック系の松下政経塾。
なさけない国に落ちぶれたことは確かだ。
537 :
名無しさん@3周年:2013/05/27(月) 11:33:40.00 ID:NxQw0LR7
538 :
名無しさん@3周年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:GeNbOJ3u
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の
日本に残した、この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。
しかし、我々がいくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正
できないといふことは、何を意味するんだといふことを考へないできたんです。
それでは憲法改正すりや、ファッショになるだらうか。これが非常に問題なんですね。ナチスはワイマール憲法を
改正してないのは、皆さんご存知と思ふんです。ナチスはたうとう憲法改正事業つていふことを、やつて
ないんです。そして、全権授権法つていふのを成立させたのは、ワイマール憲法下で成立させたんです。
あくまで平和憲法下でナチズムといふものは出てきたんです。この事実、歴史的な事実をよく知らない人間は、
憲法改正すればファシズムになる、ナチズムになると言ふんです。
ところが、ファシズムやナチズムになりたかつたら、憲法を変へる必要がないんです。そして、国家の根本の
精神といふものを作り直すには、何もそんな難しいことをやらなくたつていいんだつてことを、だんだんと
分かつてきてるのかどうかといふことを、私は非常に疑問に思つてきたわけであります。私はだいたいさういふ
やうな疑問を持ちました結果、どうしてもこの書斎にたてこもつてゐることができなくなつた。私は、その書斎から
飛び出して、何とかして自分のわづかな力でもつて、国民といふものがもうゐないとすれば、大衆といふもの
かもしれない、何か分からないが、どつかに自分の気持ちを分かつてくれる人がある、それに訴へかけようと
思つてやつてきたんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
539 :
名無しさん@3周年:2013/09/29(日) 07:09:11.65 ID:UfG82HNM
遺言の予言通り見事に薄っぺらい日本国になったわけですが…
自分は別にこのひとを崇めたことはない。
日本を感じる文化を大切にといいながら住んでた家はルーブル美術館みたいな建物で庭にはアポロ像。生半可に切腹なんてできないし武士の心はあったと思うけど、西洋どっぷり浸かってる人が日本についてのたまってもう〜ん…って
でも、予言通りの世の中になってそれに対して何もできない自分よりよほど武士だったんだと思いしらされたんだよね。好き嫌いをいえる立場じゃないなと
540 :
名無しさん@3周年:2014/02/11(火) 11:02:59.96 ID:mctNUvli
保守
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