1 :
名無しさん@3周年 :
2010/11/21(日) 18:59:03 ID:I8APy0Eh きも・・・
>>1 三輪さまの前で言ってみればいい
そんな度胸があればな
>>1 三島ファンには右翼も左翼も関係なくたくさんいるよ。
反日外国人にはわからないだろうけど。
>>三輪さまの前で言ってみればいい 美輪明宏?
俺の解釈では、三島由紀夫さんは右翼ではなく「硬派」!を目指した人。 結果的に右翼っぽくなったが、彼が探求したのは男の生存美学としての一種のバンカラ硬派。
7 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 10:50:26 ID:If+cY1xa
昭和四十三年の春、青梅市郊外、吉野梅郷近くにある愛宕神社に、見なれぬ軍服姿の男たちが集まった。 作家の三島由紀夫と論争ジャーナルのスタッフ、そして学生たちのグループ十二人である。 社殿を見上げる百尺ほどの石段は、今を盛りの桜の花でおおわれ、その下で一行は記念の写真撮影をした。 この一行こそが「楯の会」創設時のメンバーである。しかしこの時「楯の会」という名前はまだなかった。 楯の会を考える時、どうしても『論争ジャーナル』をぬきにしては語れない。この月刊誌は昭和四十二年一月に 創刊され、当時左翼一辺倒の論壇に、真正面から立ち向った保守派のオピニオン雑誌であった。そのスタッフの 一人、万代潔が昭和昭和四十一年春、三島由紀夫を訪ねたことから、三島と論争ジャーナルの関係は始った。 持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より
8 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 10:52:07 ID:If+cY1xa
この時、三島は既に「英霊の声」「憂国」を世に出し、この頃「奔馬」の執筆に取りかかっていた。 「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することも ある」(小島千加子「三島由紀夫と檀一雄」)と自ら語っているように、四十二年の初めから、三島と 論争ジャーナルグループとの急速・急激な接近が始った。編集長中辻和彦と万代、そして当時学生であった私は 頻繁に三島家を訪ねるようになり、「俺の生きている限りは君達の雑誌には原稿料無しで書く」と言わせるまでに 信頼を勝ち得ていた。実際この年の三月から四十四年の三月までの二年間、三島は十回以上にわたって 論争ジャーナル誌上に登場した。四十二年の十一月号では、その頃交際を断っていた福田恆存と対談し、論壇を 驚かせた。この時期、三島はあたかも論争ジャーナルの編集顧問のような熱の入れようであった。 持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より
9 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 10:53:01 ID:If+cY1xa
昭和四十二年四月から、三島は自衛隊に体験入隊し、四十五日間の訓練をした。これを機に「祖国防衛隊」構想が 計画され、論争ジャーナル編集部との間に、活発な議論が展開された。明けて四十三年一月、この構想は 「祖国防衛隊はなぜ必要か?」という表題でタイプ印刷され、限定で関係者に配られた。内容は、自衛隊を 補完する民兵の設立を想定したもので、その網領案によれば「市民による、市民のための、市民の軍隊」であり、 一朝事あれば「以て日本の文化と伝統を剣を以て死守せん」とする有志市民の「戦士共同体」であるとされた。 この「戦士共同体」の中核を作るために計画されたのが学生達の体験入隊である。「祖国防衛隊」の名は 外部には一切秘して、第一回体験入隊は昭和四十三年三月から一ヶ月間、私が学生長として御殿場の富士学校 滝ヶ原分屯地で実施された。以後四十五年三月まで五回にわたり、のべ約百二十人の体験学生を生んだ。 持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より
10 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 10:54:03 ID:If+cY1xa
「楯の会」の名前が出来たのは、第二回の体験入隊終了後、会員数が四十名余りとなった昭和四十三年九月の ことである。これから一年後の四十四年九月まで、会の事務局は論争ジャーナルの編集部内に置かれ、当時、 副編集長の私が会員の募集、選抜、事務手続き等実務に当って来た。しかし、楯の会とはいわば表裏一体として マスコミ界に新風を吹き込んできた論争ジャーナルは、昭和四十四年頃から経営がきわめて悪化し、時には 発行が遅れることもあった。この財政上の危機をのりきるために、責任者の中辻は大変な苦労をした。父親の 退職金を全てつぎ込んでも足りなかった。そこで右翼系のある財界人から資金援助を受けることになる。 それまでどこからも資金援助をうけずに楯の会を維持してきた三島にとって、論争ジャーナルに「黒い噂」が あることは、同時に楯の会の資金的な倫理性を損なうことになると考えた。それほど両者は密接に結びついていた。 持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より
11 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 10:55:37 ID:If+cY1xa
体験入隊を「純粋性の実験」といい、楯の会を「誇りある武士団」と見る三島は、これを看過できなかった。 こうして三年近く密接な関係にあった三島由紀夫と論争ジャーナルは訣別した。確かにこれは悲劇であった。 しかしこの二つの運命的な出会いがなければ、楯の会がこの世に生まれなかったこともまた確かであったろう。 ※ ここに一枚の誓紙がある。 〈誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ〉 三島は平岡公威の名で署名し、以下あの愛宕神社の撮影会に参加した中の十名の名前が続く。 今は伝説となった血判状である。今春、私は三十五年ぶりに愛宕神社を訪ねた。花の盛りには少し早かったが、 桜の木々は昔のまま立っていた。あの日満開の桜の中に立つ三島由紀夫の姿は、「我が生涯の師」として、 今なお私の心の中に、あの時、あのままの姿であざやかに生きている。 持丸博「楯の会と論争ジャーナル」より
なんで三島スレが立つとコピペ荒らしが湧いてくるの?
13 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 17:26:44 ID:If+cY1xa
正午だった 役人たちは書類に埋まり 財界人たちは金勘定に忙しく 政治家たちは泥沼であがいていた 正午だった 真昼の光を浴びた一人の男がバルコニーで叫んだ 誰も耳を貸さなかった 戦には負けたがサムライの誇りは捨てるなと叫んだ 集まった男たちは嘲笑した 正午だった 一つの窓は閉じられた ……男は切腹した 若い男が男の首を刎ね 自分も切腹した
14 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 17:27:52 ID:If+cY1xa
正午だった 男の体から溢れた血は世界中の街角へ流れ出した 鮮血は止まらず世界中の薔薇を染めた 世界中の窓は開かれ 世界中の鐘が鳴った 正午だった 日本刀は血に塗(まみ)れていた 腐った魚たちはまだ眠っていた 正午だった 世界はミシマの不在によって 満たされた 正午だった 昭和45年11月25日の正午だった その日の 午後1時は 永遠に来なかった 藤井巌喜「正午だった」より
15 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 17:35:24 ID:zBvrANhD
右翼=軍国=暴力右翼=三島由紀夫=、、、何でこの理論? 21世紀の今でも 左翼の頭の中は20世紀。 中国、朝鮮、平和、左翼のお好み。頭の中は20世紀=終わってる。 右翼が左翼を見る目=中国朝鮮?=日本嫌い=平和の為なら北朝鮮人に なってもいい。民主、社民崇拝、、、でも、、なんか、、21世紀でも現実的なイメージ。
16 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 17:45:57 ID:QY3GjpUa
左翼にも同性愛者はいるじゃない。自分達を正当化するのに理由が必要な左翼は自立できんのか?
ネトウヨと右翼は別に扱え あいつらはただの自民党支持者だ
18 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 19:40:32 ID:eQfmUhiW
>>15 そんなふうに捉えているのはバカウヨのほうだろw
三島はただのキチガイ。良くいえばロマンティスト
19 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 19:50:57 ID:eQfmUhiW
20 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 20:20:43 ID:If+cY1xa
吉田松陰が七世紀の壬申の乱のことを『講孟剳記』で語っています。そこで、たとえば弘文天皇が天武天皇に 三種の神器を奪われてしまったとき、レガリアがないとはたしてレジティマシーが天皇としてあるのかという 議論を、前期水戸学が問題にしている。これについて、吉田松陰はそんなことはどうでもいいと言うんです。 三種の神器を天武天皇から弘文天皇の臣下が奪い返せばいいんだと言うんです。つまり認識や理屈よりも行動だと。 実践的な行動が大事だと言っているんです。(中略) (私は)日本人を非常に信頼しています。特に一般大衆と言いますか、庶民を昔から信頼しています。たとえば 徳富蘇峰が『近世日本国民史』で元禄時代の忠臣蔵、赤穂義士の事件のことについて触れています。 杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
21 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 20:22:54 ID:If+cY1xa
あれはいつどういうときに勃発しているかと言いますと、元禄時代ですので、およそ享楽と歓楽の世です。 元禄の世の中は黄金万能主義で拝金万能主義の世の中だと。太平楽で一切戦争から離れて、元禄のデタラメかつ 狂乱の文化を謳歌していた時代に、突如として江戸に腹を斬らなければならない人たちが四十何人も出た 驚くべき事件が出来したと言っている。蘇峰はこれを大正時代の今日に東京丸の内へ虎が飛び出すよりも 驚くべき事件だと言っている。 つまり日本国民に潜在している尚武の気性は、歴史的にいよいよ危機になってくると必ず実践として噴出する というわけです。山路愛山も福本日南も、歴代の近代ヒストリアンは皆同じです。 まさにその伝で三島由紀夫さんが身を捨てて、戦後の昭和元禄みたいな世の中に警鐘を鳴らしてくれたわけです。 杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
22 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 20:24:00 ID:If+cY1xa
確かに表面上はどんどん悪くなっていると思います。たとえば北朝鮮の拉致問題とか、憲法改正問題を含め 何一つ手を付けられない。その背後には日本国民の国家意識の問題がありますね。 たとえば有事法制を作った。北朝鮮で不審船の侵入事件がありましたが、あのときに自衛隊法八十二条で 海上警備行動を発動しようとしましたが、最初は巡視船でやっていて自衛隊はなかなか出ない。私が教えを受けた 坂本多加雄先生に言わせると内閣がもたもたしていたからだと言う。ではなんでもたもたするのかと言うと、 一般国民のなかにそういう構えができていないからです。しかし日本国民は健全だから必ず目覚めると常に 一貫しておっしゃっていました。私もそう信じています。三島さんのような人が、まさに昭和元禄の頃に 突如としてああいう行動を噴出させたようにです。 杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
23 :
名無しさん@3周年 :2010/11/22(月) 20:24:53 ID:If+cY1xa
私はどんどん駄目になって遂に破滅に至る、日本が溶解するとは思っていません。近代以前もそうですけれども、 歴史を勉強しているうちに、そんなに捨てたものではないだろうと思うようになりました。 むしろこれから真の三島のような人がまた出てくるであろう。本当の危機のときに必ず日本人は英雄を生み出すと 山路愛山も徳富蘇峰も言っています。そちらのほうに私は賭けたいと思っています。 そもそも日本を溶解に導いているのは、むしろ政治家や知識人といったエリート層です。戦前も戦後も そのパターンで、大衆国家日本の庶民の常識こそ信じたいのです。そしてそこから英雄が出現するだろうと。 杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
24 :
名無しさん@3周年 :2010/11/23(火) 11:24:55 ID:w9mHpd17
戦後の日本人に大きな魂を残したのは、三島由紀夫と神風特攻です。これも実はフランス人がそう言っているんです。 ベルナール・ミローが『神風』という本を書いていまして、「特攻の精神は、千年のときを貫いて人間の 高貴さを示している」と1970年代に書いています。戦後の日本人に対して特攻隊と三島の死が非常に大きな 力と言いますか、日本精神の原点は何かということを教えてくれた気がします。 憲法の問題ですが、アメリカが作って翻訳された「たかが成文憲法」です。しかしこのたかが成文憲法を戦後 60年近く押し戴いている日本は一体なんなんだというのが私の今の正直な感想です。自民党がこうなったのも 当然だと思います。 富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
25 :
名無しさん@3周年 :2010/11/23(火) 11:25:49 ID:w9mHpd17
三島が45年の11月25日に、自民党政権はもはや火中の栗を拾わない、すなわち憲法改正をしなくても 政権は維持できる。このことにどうして自衛隊の諸君は気がついてくれなかったんだと言っています。 そういう意味で、政治論ですけれども、たかが成文憲法を変えられない我々の問題も感じます。 あと二年のうちにということがどういう意味かと考えると、三島没後の72年にあれほど対立していた米中が 手を結びました。つまりあの瞬間に日本の憲法改正も、自衛隊が国軍になる日もなくなった。あるいはその チャンスが失われかけた大きな危機だったのではないか。今はそれと同じ状況だと思います。スケールは違いますが、 同じ事態が出来している。アメリカと中国が経済同盟を結んで日本をスルーしていく。民主党政権の外交は全く 機能しておりません。 富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
26 :
名無しさん@3周年 :2010/11/23(火) 11:26:49 ID:w9mHpd17
何年も前から檄文のなかにあった二年後というのが気になっていて、一体なんなんだろうとずっと考えていました。 あるとき気づいたんですが、一つは米中接近がありますね。もう一つは沖縄返還です。昭和47年に沖縄返還が 行われることは決まっていて、そのときにどういうかたちで返還されるのか。それによって日本という国家が 相変わらず独立できないまま半独立国家として、アメリカの永久占領が限りなく続いていくことを三島は見抜いていた。 彼が45年の生涯で書いたものの全てが、今の21世紀の私たちに突き刺さってくる問題ばかりを書いている。 それが天才の所以なんでしょうけれども、認識と行動の問題もつくづく考えさせられます。二元論に自分を 追い込んでいって、ラディカリズムがニヒリズムを克服するという方法論をとったのではないかと私は解釈しています。 西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
27 :
名無しさん@3周年 :2010/11/23(火) 11:28:03 ID:w9mHpd17
(中略) 三島は現実的な問題も、十分捉えていたわけです。二年後に自衛隊はアメリカの傭兵になってしまうと 1970年の時点で言い切っていたのは、米中接近と沖縄返還のことを、すでに視野に入れていたということです。 (中略) 最近よく話題になる核のシェアリングの問題がありますけれども、そういったことも三島さんは考えていた。 それは日本の核戦略はどういうものになるのかと、40年前の時点で考えられ得る現実的なこともちゃんと 提起していた。国土を守るほうの自衛隊を、国軍として成立させることで、日米安保体制下のなかでの日本の 自主防衛をどうしていくかを、40年前のあの制約のなかで考えていたことは素晴らしい慧眼だと思います。 西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
28 :
名無しさん@3周年 :2010/11/24(水) 11:44:02 ID:37Ppf0JC
三島さんの檄文を読んでみますと、説明は少ないんですけれども、「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を 守ることを喜ばないのは自明である」という文章があります。最後の部分で「今こそわれわれは生命尊重以上の 価値の所在を諸君の目に見せてやる」という有名な科白ですね。「それは自由でも民主主義でもない」と書いている。 これは普遍化のし過ぎかもしれませんけれども、先ほど富岡さんが言った特攻隊問題とも関係ありますが、 あえて分かりやすく言えば、三島さんは特攻世代です。帰されましたけれども、三島さんの頭のなかに、はっきりと 日本の特攻はアメリカ軍と闘ったんだという、当たり前のことが当然のこととして残っている。別に反米とか なんかではないんです。三島さんの文学その他で、ほとんどアメリカのことなんて歯牙にもかけられていない。 逆読みをすると、アメリカなんかは、とてもではないけれども、文学者なり文学者の感性、美意識その他から言って、 自分たちがまともにそれを受け入れるべき存在ではないということが、三島さんにとってはおそらく自明のことだった。 したがって、アメリカが日本の自主独立を喜ぶわけがない。もっと言うとアメリカの自由民主主義は、まともに 受け取る必要のない価値観だと。僕自身が別の径路で誠にそのように思っているんです。 アメリカは元々文明の本質論として左翼国家だとしか思われない。左翼の定義はフランス革命に見られたように、 分かりやすく言えば、自由平等、博愛=友愛等々の、言わば理想主義的な綺麗事で、歴史に対して大破壊を 起こしていくことによって、そこから進歩がもたらされるんだと考える者が、十八世紀の末に左側に座ったと いうだけの理由で左翼と言われていた。 西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
29 :
名無しさん@3周年 :2010/11/24(水) 11:45:17 ID:37Ppf0JC
アメリカは元々歴史感覚が、ないとは申しませんが、乏しい国です。アメリカの場合は言ってみれば個人主義的な 方向において近代主義を実現しようという巨大な実験国家だくらいにしか思われない。歴史に巨大な実験を 仕掛けているという意味において左翼国家だと考えるのが、文明論の本道だと思う。冷戦構造の他方の雄である ソ連その他はなんであったかと言うと、近代主義的なものの考え方を、集団主義的、社会主義的に実現しようとした。 (中略)そう考えたら日本列島の戦後は、アメリカ的なものを保守と見なし、ソ連的なものを革新と見なす などという馬鹿げた思想の分類軸で、自分を位置づけたり他人を評したりすることが半世紀以上にわたって 行われれば、元は立派な国民、民族でも大概頭も痺れるし背骨も溶けるだろうとどうしても推測してしまう。 (中略) 平成に入って少しでも日本がよくなったかと言うと、構造改革論は簡単に言うとアメリカ的なやり方で日本社会を 抜本的に構造的に改革した。典型的人物で言えば小泉純一郎をクライマックスとして現れた構造改革論です。 それがぐちゃぐちゃになったら、今度は鳩山なる人物が出てきて、社会保障だ、弱者救済だとやる。 ソ連がないからアメリカしか残っていないのですが、アメリカのなかにある主流と反主流のシーソーゲームを 日本列島に映し直しているだけです。(中略) アメリカ文明は歴史が乏しいが故に、結局個人民主主義と社会民主主義の間のシーソーゲームを繰り返すしか ないのがアメリカ左翼国家の宿命です。もちろんアメリカを馬鹿にしているわけではないんです。 西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
30 :
名無しさん@3周年 :2010/11/24(水) 11:48:56 ID:37Ppf0JC
(中略) 日本人全体が仮に頭のてっぺんでアメリカ様、進歩主義と言っていたとしても、歴史の慣性がありますので、 戦前戦中を経験した世代はその進歩主義のやり方、自由民主主義のやり方のなかに否応もなく日本の国柄を半ば 無意識に引きずっていた。したがって戦後日本の自由民主党が作り出した平等福祉国家は、たとえば日本的経営を 見ればよく分かるように、日本的なやり方をなんとか組み込むことによって、アメリカに近い国を作ってきた。 ところが昭和が終わる頃から世代交代が起こった。お年寄りの大半はどんどん死んでいく。まだ生存中でも 年寄りよりも若い者のほうがいいという理由で世代交代が叫ばれ、政治だけではなく学界だろうが財界だろうが 全部戦後世代です。 こう見えて僕は昭和14年生まれです。小沢一郎は僕よりも年下です。大概自分を見れば あいつらろくでなしだろうなということは分かります。 戦後に生まれたからろくでなしと言っているのではないんです。戦後は次々と歴史を蒸発させてきた。 昭和世代がとうとう第一線から退くにつれて、ほとんど歴史が蒸発してしまうのが昭和64年までだったと 分かれば、平成の御代は所詮戦後体制の確立であり、憲法体制の一層の実現である。ある種段階的な変化が ありまして、それこそ日本の国柄を無意識にも引きずるという、昭和の時代の常識の、最後のかけらまでもが 砂漠に没してしまった。歴史なき、国民意識として言えば砂漠のようなところに、結局アメリカで行われてきた 自由民主主義と社会民主主義の間の極めて人工的なシーソーゲームを、この平成の21年間たっぷりやったし、 これからもやり続けるのであろう。 西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
31 :
名無しさん@3周年 :2010/11/24(水) 11:50:04 ID:37Ppf0JC
こんなことをやっていれば、結局のところわが民族は、アメリカの半ば無自覚の猿真似のうちにギッコンバッタンで 脳震盪を起こして、そのうちにぶっ倒れるのが落ちである。 三島礼賛をする気はないけれども、心持ちから言えば、三島さんの猿真似でもやって、いつ何時でも死ぬに やぶさかではないぞというくらいの感じでいるべきです。三島さんが最後どうして自死できたかと言いますと、 本当に絶望していたのではないか。何に絶望していたかと言うと、馬鹿な文学者たちは、三島さんのことを 自分の文学の能力の限界に絶望したなんてアホなことを言っていますが、そうではなくて、日本人に絶望して いたのではないか。あれからもう39年です。 全く希望がないとは言わないけれども、39年という凄まじい時間の持続を経て、我々がどれほど深々と砂漠の なかに足を突っ込んでいるかを考えたら、そこで尚かつものを言うとしたら、日本人にはほとんど一切希望を 持つことができない。要するにこの社会はいずれどうしようもなく大脳震盪を起こして、周章狼狽、茫然自失に 陥るであろう。皆さんを励ます意味で言うと、何かある程度の覚悟と認識を持って、ある程度責任ある行動を とろうとしたら、ほぼ負けを覚悟しないといけない。頑張ればいいことが起こるだろうなんていう生易しい 状況のなかにあるのではないと思います。逆に言うと、負けを覚悟しないとものを言う気がしません。 勝つだろうなんていう希望はどこを見渡したってないのに、「頑張れば勝ちますよ」と言うのは、最も人間を 疲れさせる励ましの言葉であって、高らかになんの希望もないのであるとにこやかに言うべきだし、本当に そこまできていると思っています。 西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
32 :
名無しさん@3周年 :2010/11/24(水) 12:05:07 ID:3Ly3ihY2
ネトウヨが三島思想に心酔してるとは考えにくいな。 思想はあくまでも思想であって、現実とは関係ない。
33 :
名無しさん@3周年 :2010/11/24(水) 21:27:47 ID:37Ppf0JC
三島由紀夫が「精神的クーデター」を狙うかのごとく憂国の諫死をとげてから、早や四十年の歳月が流れた。 あの驚天動地の衝撃は日本の思想界、言論界に強烈な影響を与えた。事件直後のテレビニュースにでた林房雄は、 「正気の狂気」と比喩した。藤田東湖の正気の歌を思い出す人も多かった。中曽根防衛長官が「狂ったのか」と 発言したことに対して「はじめから終わりまで正気だった」と林は二重の意味を込めたのだ。正気(せいき)を 正気(しょうき)と呼ぶのは戦後である。 新保祐司の比喩によれば、「美の世界から三島は或る日、『正気』に選択されて『義』に向かった」という。 正気とは領土とか人民の危機レベルではなく、磯部浅一は「正気の危機」だと言った。吉田松陰は大和魂と言ったが、 どれもこれも外国人には分からない。いまの日本は「日本人」の顔をした外国人が多いから吉田松陰も三島も 分からない。西郷さんも乃木将軍もわからない。 宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より
34 :
名無しさん@3周年 :2010/11/24(水) 21:29:18 ID:37Ppf0JC
三島事件直後に江藤淳は小林秀雄と『諸君』での対談で「(三島さんは)単に老衰しただけじゃありませんか」 と言い、小林が「それなら君は堺事件をどうおもうか」と、日本の歴史にはときに訳が分からないことがおきる のであり、それが歴史だという意味のことを言った。 戦争は悲劇であり、悲惨というレベルだけで戦争を総括するのは錯誤でしかなく、崇高という感覚が “狂気の正気”となる。石原慎太郎には、これが分からないらしい。なぜか、石原は三島となるとムキになって 矮小化したがるからだ。 戦後の日本は戦争を悲惨とだけ捉え、人間主義、自己実現だけとなって、他者実現、崇高さが失われた。 義と美との距離は前者がユダヤー欧英に強く、後者はギリシア、ローマなど南欧に流れた。デビュー直後は ギリシャに憧れた三島は明らかに美をもとめていた。そして歳月が流れ、正気が三島を選択した。 正気は50年、100年に一度、突発するのが日本の歴史であり、三島事件は乃木希典の殉死で日本中が わなわなと震えて感動した事件以来かもしれない。精神においては特攻隊以来であろう。 宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より
35 :
名無しさん@3周年 :2010/11/24(水) 21:31:47 ID:37Ppf0JC
さて筆者自身、学生運動を担っていた時代、三島由紀夫、林房雄、村松剛らの指導を仰いでいた。三島は筆者らが 出していた民族派理論誌「日本学生新聞」の創刊号に祝辞を寄せてくれ「天窓を開く快挙」と期待を表明し、 また全日本学生国防会議(森田必勝が議長)の結成大会に駆けつけて万歳三唱をしてくれた。その後、森田が 楯の会専従となり、あの事件へと突っ走ることになる。直後の追悼会は池袋の豊島公会堂に入りきれず、会場前の 公園に数万のファンが押し寄せた。しかし三島事件以後、日本の精神的堕落、知的頽廃はますます進行するばかりだ。 まさに「芭蕉も近松もいない昭和元禄」と三島が書いたが、その「三島もいない平成元禄」になった。 国益を考えない政治家がままごと政治をおこない、そのリーダーシップの劣化は官界におよび、ちっぽけな汚職が はびこり、財界には侍が不在となり左翼論壇は滅びたはずなのに失業互助組合のような媒体と支援団体でかろうじて 息をつなぎ、偏向マスコミの売国的言論を維持している。 宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より
36 :
名無しさん@3周年 :2010/11/24(水) 21:33:21 ID:37Ppf0JC
三島由紀夫は「生命より大事なものがある」と精神的クーデターを企て、日本の文化伝統の尊さを日本人に 覚醒させようとした。しかし「自分の行為は五十年後、百年後でしか理解されまい」とも言い残した。 こうした三島由紀夫の憂国の情念、祖国への愛を継承し、ともかく努力をして祖国の復権のためになにがしかの 努力をしようとする同士が集まって四十年前に「三島由紀夫研究会」が結成された。 毎年の三島の命日には追悼会を挙行し、日本に正気が戻るまで継続し、「三島由紀夫と通して日本を考えよう」 という標語で若者に訴えかけたのが「憂国忌」の始まりである。 やはり三島が予言したように日本に正気が回復するには百年(ということは差し引き半世紀前後)を要するのだろうか? 宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より
激情的感覚に酔いやすく人成り難し 三島を表す言葉
38 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 11:37:12 ID:5fW/lX3I
NHKの三島由起夫特集ニュースはあまりにも皮相、偏向している @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 今朝(25日)のNHKでは、三島由事件について若干の報道がなされていましたが、相も変わらず、事の本質を弁えない皮相な報道でした。 「武力を持っている自衛隊こそ自制しなければならない…」 「戦後教育を受けてきた我々は三島の話を受け入れなかった…」 「自衛隊が国民に銃を向けることがあってはならない…」 極めて皮相な理解であり、こうした人物が自衛隊の中枢を占めていたことを思うと、改めて戦後日本の卑劣に気付かされます。 三島の「精神的クーデタ」(黛敏郎)を如何に受け止めるのかは我々戦後日本を生きる者の責務だと考えます。
39 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 11:38:36 ID:5fW/lX3I
25日午前7時のNHKニュースで「三島由起夫 没後四十年」が八分間という、異例のながさでした。 弊会の『憂国忌の四十年』(並木書房)も、本屋さんの三島コーナーの映像で映し出され、若い人が「これから三島を読みたい」という談話も、挿入されていました。 しかし、NHKニュース全体の基調は三島の訴えは、さもアナクロといった情報操作的な編成でした。 ニュースの切り口は三島が防衛大学でおこなった「素人防衛論」という演題の講演テープが発見され、そのなかで三島はしきりと『治安出動』を期待したこと。 それは治安出動のまま居座ればクーデタにつながり撤兵条件は「改憲」だとするもので、じつはこのテープを「発見」というのはNHKのおこがましさ、実際には弊会の斡旋で五年前に「WILL」で独占掲載されております。 だからニュースではない。
40 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 11:40:24 ID:5fW/lX3I
NHKは「元自衛隊幹部から貴重な証言があった」と続けて、「自衛隊の仲間と一緒に立てこもり、自衛隊幹部を人質にとり、自衛艇の決起を促して失敗、自ら命を絶った」と解説していました。 最初の元自衛隊幹部のコメントは「改憲のための決起を促しても応じる隊員はいなかった」 コメントに登場したのは三名。 前川清(元陸将補)。前川氏は「三島は自衛隊を国土防衛隊と国連部隊に二分せよ」と素人ではなく、玄人もうなる講演で「治安出動を逆手にとればクーデターになりうる」としたと批判的コメントだった。 ついで冨沢輝(防衛大学、藤原岩市氏の女婿)は、「三島に食事に誘われ、数名の仲間と話を聞いたが、クーデタ論には誰も同意しなかった」とコメントした。 小池保治(当時23歳)は「決起という発言に衝撃を受けた」として、「自衛隊が国民に銃を向けることはあってはならない」とこれまた文脈上からはかなりの見当違いの発言。「三島のクーデタ発言はまったく不同意」ともコメントした。
41 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 11:44:18 ID:5fW/lX3I
総じて三島特集のNHKは「クーデタ」をあたかも三島が企図したかのように編成を巧妙に工夫したフレームアップ。 自衛隊OBも、なぜだか三島批判の箇所だけを意図的に撰んでコメントさせた気配がある。 おそらく台湾特集のでっち上げ編成のように、これら幹部の発言の一部分だけを都合良くピックアップしたのだろう。 三島は本気でクーデターを呼びかけて決起したのではなく、自衛隊の覚醒を促すための演出であり、諫死なのである。 それはあらかじめ用意された檄文を緻密に読めば、明らかであり、NHKに代表される日本のマスコミは、本質をごまかし、問題を矮小化しているのである。
ここまで大量に引用しちゃって大丈夫? スレ全体の書込みの相対比からして度を越えた引用は転載だよ。 それとも許可を得ているのか著作権の期限が切れているものかな?
43 :
巫山戯為奴 ◆X49...FUZA :2010/11/25(木) 12:27:07 ID:rH5lThzw
在日朝鮮人の街宣右翼がマンセーしてるので糞だ。 チョンはホモでキモくても普通。
44 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 12:28:36 ID:hTOWsrXX
45 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 21:06:42 ID:5fW/lX3I
その遺書をよんだ時、同志の青年に対する心遣ひの立派さに私は感動した。三島氏の思想行為については、 今のやうな状態でも、私はなほとかくのことをいふことが出来る。並んで自刃した森田必勝氏については、 この青年の心を思ふだけで、ただ泪があふれ出る。むかしからかういふ青年は数量上多数といへないが、無数に ゐたのである。かういふ見事さがあるといふことだけを示した。何も残さぬものが、永遠と変革と創造を、 流れにかたちづくつてきたのである。(中略) 三島氏は内外の人心の悲惨や荒廃のありさまを、優秀な文学者の直感で、我々の知らない不幸まで了知し、 人道滅亡の危機をひしひし感じてゐたのであらう。彼の近年の思想上の急激な上昇現象には、第一義の高尚な 原因がある。彼の政治論は、今日の時務論の次元でよめば全く無意味である。しかし彼は清醇な本質論を、 汚れたけふの時務論のことばでいひ、卑しい政治論の次元から説き起さうとした。私は身のつまる思ひがする。 保田與重郎「眼裏の太陽」より
46 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 21:07:42 ID:5fW/lX3I
三島氏の描いた両界曼荼羅の金剛界は華麗無変の美文学だつたが、胎蔵界の解では、最も低級なものや、 人でなしまでも相手にせねばならぬと自身思ひ定めた。一見この空しい努力は、世俗といふ誤解の中へ投げ だされてしまふ。しかし彼の思ひをこめたことばと振舞は、最も純粋に醇化された時の人の心の中で、人々の かなしみをかきたて、さらにおびただしい若者の心に、考へることの無用な光りを、明りをともした。 偽りのもの、汚れたもの、卑怯なもの、利己主義なものは、皮相的な恐怖から、ありきたりのことばの罵倒を しても、それによつて自己のいつはりと不安をうすめることは出来ない。無視するといふものは、沈黙して 無視しきれぬ卑怯な弱者である。正気の人はこの日民族の歴史をわが一身にくりたたんで、ものに怖れるべきである。 いつはりと卑怯に生きてきたものは、己の不安と恐怖の原因をしかと見つめることが出来ない。憎悪と猜疑しか 知らなかつたものは、明らかに最も怖れてゐる。 保田與重郎「眼裏の太陽」より
47 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 21:08:45 ID:5fW/lX3I
三島氏の心は、正実な者の間の戦ひを信じつづけてきたのであらう。しかし詩人のゆゑに英雄の心をやどした 稀有の文学者は、古来、詩人や英雄のうけた宿命の如く、最も低い戦ひにつかれ、いやしい下等な敵に破れた のである。その死の瞬間に、眼うらに太陽を宿すといつたことばの実現を、私はただちに信じる。私は真の文人の いのちをこめた言葉を、絶対に信じるのである。実証主義の人々は、死を如何ほどに描いても、死の瞬間は わかるものではない。甦つた者のことばはその瞬間の証ではない、死んだ者のことばはきくすべがないといふ。 しかし秒で数へられる時間の彼方の未知といふことの方を何故怖れないのか。 三島氏は自衛隊を外から見聞してゐたのでなく、内に入つて見てきたのである。まことに誠実の人である。彼の 旧来の不思議な奇矯の行為も、誠実の抵抗ないし反俗行為として解釈すべきところと私は思ふ。身丈を越える 程の著述を残した人の片言隻句をとり出せば、どんな愚かな低い形にも三島氏の像をつくることが出来る。 それはつくつた者のいやしさの証にすぎない。 保田與重郎「眼裏の太陽」より
48 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 21:09:53 ID:5fW/lX3I
最終の振舞ひについての、もつともらしい見解も同じ方法で示せるだらう。さういふ見解は自分自身の低い次元の 卑屈な処世観となつても、森田青年のやうに、先人を越えてゆくものの心とは何のかかはりもない。森田青年の 心は、日本の正気だつたから、無言にして日本の多くの若者の心に今や灯をともした。このことを疑へる程の 無知のものは、卑怯と欺瞞の中にはないだらう。卑怯と欺瞞はインテリを必要とし、世間の無知ではないからである。 森田青年の刃が、自他再度ともためらつたといふ検証は、心の美しさの証である。やさしいと思ふゆゑにさらに かなしい。私はその人を知らない。そして悲しい。二十五歳がかなしいのではない。このかなしさは、語り解く すべを知らないが、あたりまへの日本人ならばわかるかなしさである。かなしさにゐる時は、決して顧みて他を 語らないのである。三島氏が、自分よりも、森田氏の振舞ひはさらに高貴なものであつて、彼の心をこそ 恢弘せよと云つてゐるのは、尊いことばである。 保田與重郎「眼裏の太陽」より
49 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 21:10:57 ID:5fW/lX3I
恢弘とは神武天皇御紀にあらはれる大切なことばで、今あるものをひろめ明らかにせよといふ意である。 なくなつたものを復興せよといふのではない。時に当つて、細心の用語である。(中略) 彼の文化防衛論の根底にあるものは、所謂右翼的な利己的民族主義ではない、宗派神道的な世界統一の国際 宗教的な思想でもないのである。私はこれらの自覚を新しい世代に望み願ふより他の方法を知らないのである。 森田氏の行為の心は、右翼の心でもない。勿論左翼のどこにも見られない。師に殉ずといつた現象解釈など何の 意味もない。わが国六百年の武士道の歴史に於て、例を知らない純粋行為であつたと私は思ふのもかなしい。(中略) 三島氏は己の死後に、よつてたかつて云ふ人々の悪罵や、さかしらを見せるための批評、低俗そのものの証の やうな見解といつたもののすべてを知りつくしてゐた。(中略) マスコミが今度の自衛隊に関して口をとざしたのは、共通する政治性に原因があるのではなく、人性の世渡り 観念に於て、同一の腐泥のありさまゆゑであらう。これは不潔の妥協である。 保田與重郎「眼裏の太陽」より
50 :
名無しさん@3周年 :2010/11/25(木) 21:22:11 ID:xgjVHXNg
三島由紀夫ってあれだろw かっこつけてコスプレしてクーデター(笑)呼びかけたはいいが肝心の自衛官から総スカン食らって引くに引けなくなり勝手に切腹して死んだイタいおっさんだよなwww
51 :
名無しさん@3周年 :2010/11/26(金) 10:53:30 ID:j0z/l9Yh
森田青年は実に明るい笑顔を持った、礼儀正しい好青年で、寡黙ではあったが、内に秘めた何物かが、澄んだ 彼の瞳から輝き出ていた。初対面の時、彼と何を話したのかは覚えてないが彼の無邪気で、しかも落着いた物腰、 時折り真白い歯をみせて人なつっこく笑った顔のすがすがしさが印象に残っている。 当時、日学同は出来たばかりの頃で、学生運動といっても、二、三人を除いて、皆んな不馴れな活動家達だった。 (中略)パーティーでは、学生達から主に私の著作への質問があり、明治維新のことなどを話し合った。 森田青年は、真剣な眼つきで、聞き耳を立てていた。(中略) それから、左翼の学生運動が急激に活発になり、それと並行して民族派の学生運動も次第に成長していった。 この期間、日学同も急速に発展したので、彼らは忙しかったのだろう、しばらく森田君の顔を見なかった。 次に会ったのは、私の記憶が正しければ、翌四十三年五月の連休に、日学同が主催した理論合宿の席だった。 林房雄「森田必勝君の追想」より
52 :
名無しさん@3周年 :2010/11/26(金) 10:54:52 ID:j0z/l9Yh
(中略)話題は政治と文学、核、憲法問題から、ナショナリズム論へと発展し、楽しく緊張した時間であった。 学生諸君は、真剣にノートしながら、聞き入っていた。森田君は私たち講師席から見て、左端の一番前の席で 黙って聞いていた。 (中略)次に会ったのは、同じ年の八月下旬に伊豆多賀の旅館を借りて開催した日学同の幹部合宿に私が講師に 呼ばれて行った時だった。この時も、他の学生と違って森田君はほとんど質問もせず、何かを思いつめた表情で 一点を凝視していた。しかし、休憩時間には、一番はしゃいで大声で笑っていたのも森田青年であった。今、 手元にある記念写真を見ると、この合宿には、小川正洋君など、後で「楯の会」の会員となった学生が数人 まじっている。 そのあと、数回、森田君は日学同の諸君と、一緒に家に遊びに来た。彼が、日学同をやめて「楯の会」の幹部に なってから彼と会ったのは、国立劇場の屋上で開かれた「楯の会」パレードの時だけだった。 「君はこんど隊長になったそうだね」と私が言うと 「いやあ……」と頭をかいて、はずかしそうに笑った。本当に好青年であった。 林房雄「森田必勝君の追想」より
53 :
名無しさん@3周年 :2010/11/26(金) 10:56:09 ID:j0z/l9Yh
三島、森田の両君は、桜の花のように、満開の時を待つことなく自ら散った。まことに見事な最期だった。 三島君も森田君も、満開と同時に始まる日本の衰弱と頽廃に我慢できなかった。戦後日本のいつわりの平和と 繁栄――平和憲法、経済大国、福祉社会、非武装中立という、与野党合作の大きな嘘の上にあぐらをかきつつ、 破滅の淵に向って大きな地すべりを始めている日本の実状を敏感に予感し、予見して、怒り、憂いつづけてきたのだ。 二人の烈士の、やむにやまれぬ憂国の諫死は、失われゆく本来の日本、この美しい――美しくあるべき日本 という国を、「エコノミック・アニマル」と「フリー・ライダー」(ただ乗り屋)の醜悪な巣窟にかえて、祖国を 破滅の淵への地すべりさせている「精神的老人たち」の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものをくいとめる 最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信している。 林房雄「森田必勝君の追想」より
54 :
名無しさん@3周年 :2010/11/26(金) 10:57:51 ID:j0z/l9Yh
彼等の愛国の至情に発した留魂の行為――何の直接的効果を求めず、身を殺して魂と志を後世に残すという目的は 完全に達せられた。 あの事件は、全日本人の魂をゆり動かした。とりわけ若い世代は――彼らには敗戦の ショックが無いから、人生に於て最初の衝撃を受けた。(中略) 森田青年が、四十四年二月まで所属していた日学同は、「新民族主義」を掲げて、左翼学生運動と鋭く対立してきた。 憲法改正、自主防衛、失地回復による、日本本来の姿の回復をめざす彼らの運動は、左翼学生のふりまく俗悪化し、 反動化したマルクス主義の毒ガスにおかされた学園にひるがえる鮮烈で、鮮明な旗である。森田君の論文と演説は、 今日の民族派学生運動の、苦闘の体験からにじみ出てきたものである。彼の捨身と留魂の行動は新民族派学生運動を 大きく飛躍増大させた。その事実を、私はこの目で見ている。 森田君よ、安らかに眠れ。君の志をつぐ若者の数は老人たちの予想を越えて多い。君の童顔と微笑と澄んだ瞳を、 すでに老齢の私も決して忘れない。 林房雄「森田必勝君の追想」より
55 :
名無しさん@3周年 :2010/11/26(金) 18:31:03 ID:+v52Aw8N
三島由紀夫、クーデターにより民主主義をぶっ潰そうとした、 大馬鹿野郎というだけ。 結局誰も振り向きもしなかった。 死んでくれて良かった。
56 :
名無しさん@3周年 :2010/11/27(土) 12:26:07 ID:SE1UEwRb
>>55 三島は民主主義を潰せ、なんて一言も言ってないし。むしろ議会制民主主義は現在のもっとも最良の方式だと言ってますよ。
57 :
名無しさん@3周年 :2010/11/27(土) 12:29:08 ID:SE1UEwRb
私はこの三年にわたって折にふれ三島とあってきたが、私がいつも感じたのは、彼は現存の日本人のうちでは 最も重要な人物だったということだ。当然のことながら、私には彼がその生涯の終わりにどのようなコースを たどるかについては想像もつかなかったが、たとえその範囲は限られたものであるにせよ、彼はその ダイナミズムと懐疑主義と好奇心によって日本の歴史に永久にその名をとどめる地位を占めるにちがいないと 確信していた。(中略) 三島の行動は、今日の日本の右翼の大物たち――その名前をあげる必要はあるまい――を、道化役者のように 見えるようにした。私と議論した一部の人々は、三島はその行動によって、笑止千万なピエロの役割を演ずる ことになったと主張した。これに対し私は三島はピエロどころか、逆に他の人々をピエロとして浮かびあがらせた ――つまり、彼等をつまらない行動によって、金をもらいたがったりするようなピエロに仕立てあげたのだといいたい。 ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より
58 :
名無しさん@3周年 :2010/11/27(土) 12:30:04 ID:SE1UEwRb
三島を高く評価したい私の次の理由は、私の見るところでは、彼は日本の政治論争にこれまで見られなかった 深みをつけ加えた点である。(略)…三島を「右翼の国家主義者」といった言葉で片づけることはできない。 三島は「右翼」とか「国家主義者」とかいったレッテルを貼った箱に、絶対におさめることのできない人物である。 彼の思想の広さといい深さといい、そうした単純な分類に入れることを許さない。 三島が何をいわんとしていたか、それを一言にして説明するには、何か新しい言葉を見つけださなければなるまい。 三島について注目すべき理由はほかにもある。彼は今日の政治論争のすべてを公開の席に持ちだした――(略) …これらの問題については、自民党の幹部たちは私的な場所でのみしばしばその意見を表明してきたのである。 しかるに三島は敢然として、政治家たちがこれまでおっかなびっくりで、私的な場所だけで取りあげてきた 政策論争を、公けの席に持ちだした。職業政治家になぜこれができなかったのであろうか。 ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より
59 :
名無しさん@3周年 :2010/11/27(土) 12:31:27 ID:SE1UEwRb
…三島を西洋に「説明」できるだけの資格を持つ西洋の学者は、ほんの一にぎりしかいない。しかもこれらの 学者たちでさえ、今までのところでは、三島をもっぱら文学者としてだけ扱い、彼の政治活動は重視していない ようだ。私はそれはあやまっていると考えるし、三島自身がなくなる二週間前に、これらの学者について 語った言葉から推察すると、こうしたあやまりは彼自身予想していたようだ。彼は英語でこう言っていた。 「あの人たちは日本の文化の中のやさしいもの、美しいものばかりを取りあげる」したがって外国の批評家に 限っていえば、三島が全く誤解されてしまう可能性はきわめて大きい。この国の政情の非現実性――国防の 問題をトランプ遊びかポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である――を、認識できる人は ほとんどあるまい。(略)外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい 世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんでいる。 三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の特殊性について、 注意を喚起したのである。 ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より
憂国忌が先日だったから必死になってるのか?
61 :
名無しさん@3周年 :2010/11/28(日) 11:09:36 ID:GlwP1cPd
三島事件の直後、新聞記者たちの質問は、三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか、ということだったが、 私の反応は、ほとんど直感的に「ノー」と答えることだった。 たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい 国家意識の守護神と目されるだろう。 いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、 それを成し遂げたことを知ることができる。 エドワード・サイデンステッカー「時事評論」より
62 :
名無しさん@3周年 :2010/11/28(日) 17:58:01 ID:GlwP1cPd
岡潔:三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、天皇制が 大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやって みせているし、本当に偉い人だと思います。 Q(編集部):百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか? 岡潔:間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも 間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。 ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。 かなり影響はあったと思います 岡潔「蘆牙」より
63 :
名無しさん@3周年 :2010/11/29(月) 12:04:52 ID:+ps5E7C8
西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫と、この三者をつなぐものこそ、蓮田の歌碑にきざまれた三十一文字の 調べなのではないか。西郷の挙兵も、蓮田や三島の自裁も、みないくばくかは、「ふるさとの駅」の 「かの薄紅葉」のためだったのではないだろうか。 滅亡を知るものの調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。 それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。 なぜならそういう調べだけが、滅亡を知りつつ亡びて行くものたちのこころを歌いうるからだ。 江藤淳「南州残影」より
64 :
名無しさん@3周年 :2010/11/30(火) 07:58:37 ID:q1DXc8Fm
ウヨクはタコクのサヨク
逆だろ
66 :
金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :2010/12/01(水) 11:00:42 ID:ZGPN0eu/
67 :
巫山戯為奴 ◆X49...FUZA :2010/12/01(水) 11:32:18 ID:v4owi0Yy
>>1 チョン面で兵役逃れで非人で最後はふぁびょーんてお前ら地球市民の仲間ぢゃねえかよw
ホモは兵役にはつけません。残念。
69 :
名無しさん@3周年 :2010/12/01(水) 20:55:16 ID:RtXCn0/l
「先生は自分が弱かったから、強いものに憧れて、強い人間になりたいということで、鍛え上げたんでしょう」 のちに下士官から将校に昇進するための幹部候補生試験に合格して久留米の幹候生学校で教育を受けているとき、 山内は毎日の授業や実習をおさらいするつもりで、講義の要点をまとめ、その日一日を振り返った反省点などを、 日記を綴るようにノートに書きためていた。 …表紙がすっかり黄ばんだノートの冒頭には、自衛隊の将校になるにあたっての決意がしたためられている。 誰に見せるわけでもなく、自らに言い聞かせるただそれだけのために書いた一文の中で、山内は、三島から 「山内さんはこのような人に見える」と言われて、色紙に『純忠』という言葉を授かったことをしるし、 さらにこうつづけていた。 〈いまも私の宝として、好漢森田必勝君とともに終生先生との思い出を忘れない。忘れることができないであろう。 そして、純忠の言葉通り私も生きたいものだ。〉 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
70 :
名無しさん@3周年 :2010/12/01(水) 20:56:15 ID:RtXCn0/l
(中略)山内は、あの日、市ヶ谷のバルコニーで「諸君は武士だろう!」と絶叫の響きをにじませながら 訴える三島の声をかき消すように、嘲笑や罵声を浴びせた隊員たちにむしろ「腹が立ち」、「平岡先生を 悪者にしてはいけないということしか頭に浮かばなかった」という。三島への尊敬の念が強まることはあれ 薄まることはなかったのである。 そんな山内も、終生先生との思い出を忘れない、と書きとめたノートのなかで、〈私は先生に会う以前、 三島由紀夫とはつまらぬ小説家であろうと思っていた〉と明かしている。(中略) それが「尊敬」へと180度変わったのは、生身の三島に触れて、たとえ弱さがあっても、そんな自分から 決して逃げることはせず、むしろ真正面から立ち向かって、より強くなろうとする三島の真摯な姿を間近で みつめてからだった。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
71 :
名無しさん@3周年 :2010/12/01(水) 20:57:19 ID:RtXCn0/l
ひたむきな三島に心動かされたのは山内ひとりではなかった。体験入隊してきた三島を、時には「平岡ッ」と 本名で呼び捨てにしながら、手加減せず厳しく指導してきた教官や助教も、あるいはともに汗を流し、 隣り合わせのベッドで眠った訓練仲間の学生も、少なくとも私が話を聞いたすべての元兵士たちが口を揃えて、 鍛え上げられた上半身に比べて足腰の弱さが際立つ、三島の中のアンバランスを指摘しながら同時に、三島の 愚直なまでの一途さにすがすがしいものを覚えていた。 要するに彼ら全員が、兵士になろうとして、世界のミシマとは別人のように弱さも含めてすべてをさらけ出した 人間三島に惚れこんだのである。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
72 :
名無しさん@3周年 :2010/12/01(水) 20:58:20 ID:RtXCn0/l
学生を引き連れた滝ヶ原での最初の体験入隊で、山内や河面と同じく、助教をつとめた江河弘喜は、三島の 人となりについてこう語っている。 「紳士でした。まじめでした。もう真面目そのものでした」 …そして三島の真面目さは、律義と呼びかえてもよいものであることを、江河は自らの体験で知っている。 というより、三島の律義さを、江河は片時も忘れ得ぬしるしとして受け取っているのである。 体験入隊に臨んでいた三島に、江河は或る「お願い」をしていた。近々産まれてくる自分のはじめての子供に 名前をつけてもらえないかと頼んだのである。三島は二つ返事で快く引き受けてくれた。 (中略)いまも江河が大切に保存している三島からの手紙の日付は土曜日の二十五日になっているから、女児誕生の 報せを受けてすぐに筆をとったことになる。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
73 :
名無しさん@3周年 :2010/12/01(水) 20:59:16 ID:/8owVqe4
リ,;;;;;;:: ;;;;;:: ;;;;; ::;;;;;; \ 人 从 (彡ノり/リノ" ミ;;;;;;,,,.. ゝ ) あ ( );;; ヾ、;;;;...__,, );;;;;;;; ヾ ) お ( i:::) ` ;;ー--、` 〈;;;;;;;::;;; i ) お ( i i::/ ^:::::::.. i ,ll/ニi ;; l ) / ( i l ヾヽ'' ゚ ))ノ;; / ) っ ( i | | iにニ`i, (_/i;;; | ) !! ( | | ! `ー‐'" / ゞ:l つ (⌒ i l| ! " ̄ ,,,. /,; ミi |l | |i ヾ二--;‐' ,;; ,; ミ ||i il i| | ll _|彡" ,' ; /' ̄^ ̄''''\ || l ,..-'" 〈 ; / ヽ / 、, \) ,,.-/ `i ` ミー,;;' ,l l / ;; / .| | ヾ/ ,i' ト | 'i ' /゙` イ ! ,;;|o; i| / ヲ / ,;;人,,_ ハ / , / リ ‐''"⌒ヾ:;' /'゙ i / /ミ ミ! \ ,/ '';; / ゞ i ヽ , ,ノ _,,;:' ,i / Y \ ' ,;;/ _,.;:' l ;;' l :. \ / / i :: i ''::. \ / ,;;イ
74 :
名無しさん@3周年 :2010/12/01(水) 20:59:24 ID:RtXCn0/l
〈どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく〉と、やはり第一子に女の子を授かった 自身の経験を引きながら、三島は手紙の中で、〈人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が 驚きでありよろこびであり、……天の啓示の如きものを感じますね〉とその感動を素直に綴っていた。 候補としてあげた三通りの名前については、それぞれについて、…(略)〈一長一短〉があることを断った上で、 三つの中から〈御自由に〉選ぶように書き添え、さらに別便でいかにも愛らしい淡いピンクと水色の産着を 一着ずつ届けて寄越す、こまやかな心の砕きようであった。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
75 :
名無しさん@3周年 :2010/12/01(水) 23:35:58 ID:/8owVqe4
・チワワとは? 三島由紀夫に関連するスレに在住する信者・荒らし 無職40代のババアらしい ・チワワの特徴 三島由紀夫に関する資料をペタペタとコピペして 今日の三島由紀夫像の美化に徹している 三島由紀夫の作品や生き方に否定的な意見が出されると 半日以内に意見者を罵倒する内容のレスがある
76 :
名無しさん@3周年 :2010/12/02(木) 10:14:33 ID:aaqYi+sf
あの日、一九七〇年十一月二十五日、私は十八歳になった。高校三年生である。(中略) その日の昼下がりも、窓いっぱいにさしこんでくる柔らかな陽の光につつまれて、私はついついまどろみそうに なりながら、午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴ったのも気づかないほどだった。ほどなくして古文を 受け持っていた教師が教室に入ってきた。微かに東北訛りの残る、穏やかな語り口で、ふだんは授業以外の 余計なことはめったに口にしない人なのだが、この日に限って、教科書をひらく前にこう切り出したのである。 「つい先ほどのことですが、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺を遂げたそうです」 思いもよらないニュースを先生の口から知らされたとたん、教科書やノートをひらきかけていた生徒の動きが 一瞬止まり、次いで教室にどよめきが走った。(中略) しばらくは教室のあちこちでざわめきが尾を曳いていたが、それも教師が古(いにしえ)びとの歌を朗々と 詠じはじめるうちにしだいに静まっていった。しかし、私はひとり胸の動悸を収めることができずにいた。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
77 :
名無しさん@3周年 :2010/12/02(木) 10:15:34 ID:aaqYi+sf
こんなところで平安貴族が詠んだ歌について悠長に解釈をあれこれ考えている場合ではないだろう。ともかく 市ヶ谷に行かなければ……。と言って、駈けつけても、何をしようなどという考えがもとよりあったわけではない。 ただ、じっと教室の椅子に座って、授業を受けていることが、いまこの瞬間の過ごし方としてはひどく間が抜けて いるように思えてならなかった。居ても立ってもいられなかったのである。私は鞄に教科書など一式をしまいこむと、 腰を屈めたままの姿勢で席を離れ、教師が黒板に向かっている隙に教壇の横をすり抜けて出口に向かった。 (中略)私が通っていた都立日比谷高校から市ヶ谷は距離にして二キロ弱、(略)市ヶ谷の駅へと通じる下り坂を 下りるにつれて、上空を旋回するヘリの爆音が二重三重に輪をかけて大きくなっていく。外濠にかかる橋を渡り、 駐屯地の前に出ると、正面ゲートだけでなく、ヤジ馬が鈴なりになった周囲の歩道にも制服警官や機動隊員が 多数配置され、あたり一帯は異様な空気につつまれていた。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
78 :
名無しさん@3周年 :2010/12/02(木) 10:16:44 ID:aaqYi+sf
私はただその場から立ち去りがたいという思いに引きずられて小一時間ほど佇んでいたが、やがて、あの門の向こうで 三島が自決したんだと自らに言い聞かせるようにいま一度眼を見ひらき、駐屯地の奥を見据えて、脳裏にその情景を しっかりと刻みこんでから、相変わらず上空をヘリが舞い、(略)騒然とした雰囲気の中、歩いて市ヶ谷から 九段の坂を通り、神保町の自宅に帰った。(中略) 自宅の神棚には、鯛のお頭付きと三越の包装紙につつまれたケーキの箱が供えられていた。家族の誕生日の、 それが我が家の習わしであった。私は、その夜のささやかな祝宴の主賓であったにもかかわらず、鯛にもケーキにも 手をつける気には到底なれなかった。 その日からずっと、私の中で、「三島由紀夫」は生きつづけているような気がする。いまになって思えば、 自衛隊に兵士たちを訪ねて歩く取材をはじめたのも、三島由紀夫抜きには考えられないのだった。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
79 :
名無しさん@3周年 :2010/12/02(木) 10:17:37 ID:aaqYi+sf
私は生涯にただ一度きり、生身の三島を間近にしている。 …私が三島を眼にしたのは、他でもない自衛隊の観閲式においてであった。学校新聞の取材と称して式典への参加を 願い出た高校一年生、十五歳だった私に、防衛庁は各国の駐在式官が陣取った来賓席を用意してくれていた。 肩から金モールを下げ、礼装の軍服に身をつつんだ式官や華やいだ装いの夫人たちに囲まれて席についていると、 式官の一団が突然、「起立!」と号令をかけられたみたいに夫人ともどもいっせいに立ち上がった。私も、 傍らに座る、観閲式に無理矢理つきあわせた級友のTと一緒に思わず立ち上がっていた。式官たちは全員二時の 方向を向いて、手を制帽の眼庇にかざし挙手の礼をとっている。(略)彼らが敬礼を送っている相手は最初は 見えなかったが、相手の動きとともに、敬礼する式官たちの体の向きも変わってゆき、やがて彼らがほぼ真横を 向いたところで、ならび立つ軍服の間から三島が姿をあらわしたのである。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
80 :
名無しさん@3周年 :2010/12/02(木) 10:19:49 ID:aaqYi+sf
細身のスーツを着こなした三島は自らも右手をかざして式官たちの敬礼に応えながら、瑤子夫人を伴って、 私とTが立っている席のすぐ前の席に腰を下ろした。 私の視線は、傍らの駐在式官から挨拶を受け、にこやかに何ごとか語らっている三島に釘付けになっていた。 間近も間近、手を伸ばせば触れるようなすぐそこに、三島由紀夫がいることに私は興奮して、級友のTの肘を つつきながら、「ミシマだよ、ミシマがいるよ」と熱に浮かされたようにうわごとめいたつぶやきを繰り返していた。 音楽隊が奏でる勇壮なマーチに乗って、陸海空各部隊が一糸乱れず分列行進をしたり、(略)迫力あるシーンは どれもはじめてじかに眼にするものばかりだったはずなのに、どういうわけか、記憶に灼きついているのは 三島の姿だけなのである。 たった一度だけ三島を眼にした場が自衛隊の式典であり、それから二年あまりのうちに、自分の十八回目の誕生日に 三島が自衛隊で自決を遂げたことは、私の中で不思議な暗号として捉えられた。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
81 :
名無しさん@3周年 :2010/12/02(木) 10:22:33 ID:aaqYi+sf
いつしか私は、三島由紀夫と、自衛隊と、自分自身とを何か運命的なもののように重ね合わせて考えるようになっていた。 (中略)三島は、自衛隊に何を見、何を期待し、何に絶望していったのか。(略)答えがみつかるはずもない その問いかけを、鈴振るように胸に響かせながら、私もまた自衛隊のゲートをくぐったのであった。 当初私は、三島が丸三年半にわたる自衛隊体験の中では、自衛隊を第一線で支える、もの言わぬ隊員たちの素顔に 間近に接して、彼らの心情に分け入るまでには至らなかったのではないかと思っていた。(中略) しかし、三島が死に場所に選んだ自衛隊をこの眼で見、全身で感じてみたいと思い、はじめた平成の兵士たちを 訪ねる旅の第一歩からほぼ十五年の年月が流れ、その旅をいよいよ終えようといういまになって、私の眼には、 三島の眼差しの先にあったものがかつてとは違ったように見えてきたのである。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
82 :
名無しさん@3周年 :2010/12/02(木) 10:23:56 ID:aaqYi+sf
(中略) 〈…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう〉という三島の予言は、その死から四十年近くたったいま、 ますます説得力を帯びた切実な響きで聞こえてくる。そうなってみると、十五年前には迂闊にも気づかなかったことだが、 三島が知っていた自衛隊とは、決して〈武器庫〉や〈階級章〉だけではなかったように思われてきたのである。 死の二ヶ月前、三島は、「楯の会」の会員たちと体験入隊を繰り返し、彼が自衛隊でもっとも長い時間を過ごした 滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に一文を寄せている。その中で三島は、自分のことを、 〈二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみに馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について 「知りすぎた男」になつてしまつた〉と書いていた。じっさい「知りすぎた」三島は、『檄』にも書きとめた通り、 〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を 見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
83 :
名無しさん@3周年 :2010/12/02(木) 10:25:09 ID:aaqYi+sf
隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、 アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて 政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようが ないのである。 私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に 満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。 もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。 三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。 杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
84 :
名無しさん@3周年 :2010/12/03(金) 11:06:46 ID:XDH6NDx2
戦前の輝かしい日本の昭和3年に生を受けた私は、本土決戦が近い昭和19年に当時最高のエリート集団、 海軍機関学校の厳しい試験を突破。畳が血に染まっている激しい柔道場、プールの底に網を張り、力尽きて おぼれ沈むまで泳ぐ猛訓練、日本最高の頭脳を有する教授陣による徹底的な座学。入学した東京帝国大学は正門に 菊の御紋を頂き、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」のため必死に勉強し、身体を鍛えました。 全国民が国のために死ぬ覚悟の戦前の日本、玄関の鍵を開けていても泥棒の入らなかった戦前の日本の高い道徳。 戦後の日本は、玄関に鍵をかけていても泥棒が入る堕落国家。現在の政治は武士によって行われるのではなく、 士農工商の商、つまり、カネと利権により政治が行われています。日本の政治は、「武士道」により行なわれ なければなりません。「三島精神」で行わねばなりません。 ドクター中松 三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより
85 :
名無しさん@3周年 :2010/12/03(金) 11:09:51 ID:XDH6NDx2
「日本の真姿が変わって、生命尊重のみで魂は死んでいる。」と三島先生は言っておられます。今こそ三島先生の 遺志を継いで良き日本に造り変えましょう。 それには、まず東京から日本を変えましょう。私の家系は徳川幕府の直参旗本で、江戸で、300年、政治の 中枢に居りました。私は、来年4月初頭の東京都知事選に立候補し、三島先生の遺志を実現し、東京を創りかえます。 そのため、東京を民主党の菅政権と一線を画し、占領憲法を廃棄し、尖閣や北方領土の護りを固くし、 「世界最高の修身教育」と「強い男子」の育成、「減税」をして元気溌剌で活気ある愉快な東京にします。 ハーバード大学で「グレート・シンカー」(偉大な賢い人)に選ばれたドクター・中松のみが東京を賢く 指導できると自負しております。 11月25日の『憂国忌』には、米国で「ドクター・中松デー」の制定行事があったため、残念ながら参加でき ませんでしたが、三島由紀夫の行動哲学に共鳴している皆さまと共に、日本の現状を糾弾してまいりたく存じます。 ドクター中松 三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより
86 :
名無しさん@3周年 :2010/12/04(土) 18:59:04 ID:WdVa4qBf
古式に則り見事で、壮凄な割腹を行なった三島さんの最期はたとえようもないほど立派なものだったが、それよりも 驚嘆すべきは森田必勝さんのはかりしれない気力であろう。三島さんの介錯をした上で自分も切腹したという事実は まことに大変なことである。成程三島さんへの介錯は見事一太刀という訳にはいかなかったようであるが、(中略) 有名な首斬り浅右衛門のプロの腕をもってしても一太刀で快心に斬れたのは十人中、二、三人と聞いているし、 その日は全身の力がなえて何も出来ずウツウツとして酒をあふるばかりであったとのことである。それが目の前で 三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは 到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。 なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか。 中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より
87 :
名無しさん@3周年 :2010/12/04(土) 19:04:04 ID:WdVa4qBf
実にあの若さで相当の期間、この日あるを胸に秘めておくびにも出さず、いつもの明るさで友に交り、何の 衒気もなく知人に接し、いささかのたかぶりもなく冷静に常の如く空手の稽古に励んでいたことも特筆に価する。(中略) (空手稽古で森田さんは)元気一杯に動き廻り、小柄で、やや肥満体、温和な顔に似合わない闘志で拳を挙げ、 足を振り廻した。三島さんは約一年の先輩空手マンとして熱心に道場の床に汗を流し、形(カタ)も二つばかり 修得し油ののってきていたところである。(中略)森田さんはいつもその中心となり寒稽古、暑中稽古もいとわず、 キビしい練習に耐え抜いて一回も休んだことはなかった。武道の相性とでもいうのか、稽古時間外でもよく 三島、森田のコンビで約束組手、乱取に満々たる闘志をもやしてぶっつけあった。まるでお互い敵同士のように。 突は三島さんの方が鋭いものをもって居り、蹴は若い森田さんのもので柔軟な足を軽くとばして三島さんの胸部によく極めていた。 中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より
88 :
名無しさん@3周年 :2010/12/04(土) 19:06:16 ID:WdVa4qBf
森田さんの空手は考える、慎重な実技であり、無心に激しく肉体をぶつける荒稽古の三島空手とは対照的で なかなか面白い。森田さん始め若手の進境目ざましく三島先輩を凌駕せんばかりの勢いに三島隊長を大いに あわてさせた。 激しくキビしい練習と非常に礼儀正しい、節度ある立派な態度、三島さんと楯の会の若獅子との練習後のむつまじさ、 この楯の会の稽古は私にとっても大変楽しい、思い出の多いものであり、何日までも美しく心の奥底に残るものである。 森田さんはよく紺ガスリの着物に黒の剣道袴、人生劇場に出てくる早大生よろしく稽古に通って来た。私は彼とは 個人的なつき合いはなかったが空手の練習を通じて感じられるのは、天衣無縫の開けっぴろげで底ぬけに明るく、 朴トツで少し野暮天だが、特有の人なつこさでいつも笑顔をたやさず、なかなかの社交家でもあった。ちょっぴり 無口で孤独でさびしがりやであるが、活発で行動的で烈々たる闘志の持ち主であった。また温和な風貌だが 男らしくて意志も強かった。が何より非常に誠実な人柄であり、気力、精神力抜群の誇り高い日本男児であった。 中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より
89 :
名無しさん@3周年 :2010/12/04(土) 19:09:16 ID:WdVa4qBf
(中略)彼を識らないマスコミ、青白い文士連から聞くに堪えない侮辱的な批判、言辞が勝手気儘な推測だけで 弄されている(中略) この行動に出るためには――このことが楯の会としてふさわしいものであったか否かは別として――三島さんと 討議を重ね、幾多の迂余曲折を経たあとの結論と思われる。また世論、三島さんの文士としての余りにも高名な ところから、森田さんの死が何か刺身のツマのように片隅に押しやられているのはたとえようもなく残念である。 成程、森田さんは日頃、心から三島さんに私淑していたことは間違いないが、だからといって単に三島さんへの 同情的道連れとか殉死とか判断するのは早計である。男児一度やらなければならないと決断し、若い世代の 代表としてまた楯の会の尖兵として三島さんとともに起ち、吾れのなさんとして決めたことを敢然と行なった ものだと確信する。 中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より
90 :
名無しさん@3周年 :2010/12/05(日) 01:12:38 ID:KOZVX0Xi
先日、某出版社から、生前の三島由紀夫氏のプライベート写真を入手しました。 本来、写真集を出版を予定をしていたが、三島氏の割腹自害の後、写真家自身が、 急死してしまい、出版の予定が永遠に失われ、更にネガフイルムが紛失して仕舞 残存の写真集用の原本写真だけが残されてしまいました。 昨日、その某出版社の社長から、残された写真を託されました。権利者が移譲されたのを機会に オークションに出品する予定です。 その中の一枚は、彼が自衛隊に仮入隊した時に(45日間)撮影されたものです。 全ての写真の裏にシリアルbェ書かれています。 写真が写真だけに、心ある人に入札して頂きたいと思っていますが、反対の方も おいででしょうから、一応アップさせて頂きました。
三島は受けだったらしい。
92 :
名無しさん@3周年 :2010/12/05(日) 04:49:04 ID:RbvpcltG
キモッ!
93 :
名無しさん@3周年 :2010/12/05(日) 11:11:16 ID:kVxJRqlN
森田同志は、四十一年四月、紛争中の早稲田大学に入学し、(中略)日学同の前身母体「早学連」に馳せ参じてきた。 同年晩秋の「日学同結成大会」以後、万人を魅了してやまなかった彼の性格と、明るい統率力でたちまち指導者になり、 草創期の日学同運動を多くの同志たちとともに担った。 (中略)日学同運動のなつかしい先導的試行期の数々の活動を想いかえしてみると、必ず森田同志のあの 人なつっこい笑顔が私たちの胸中に浮かんでくる。 早大国防部が、当時、毎朝行なっていた早朝トレーニングに、徹夜アルバイトからかけつけて眠い眼をこすりながら 一緒に早大付近を走り、牛乳配達のおじさんや、新聞配達の青年、靴みがきのオジさん、食堂のオバさんなどに 大声で「おはよう」といっていた森田同志。 彼は早大商店街でも人気者だった。事件後直ちに早大正門を陣どって、私たちがつくった仮設の焼香台に噂を 聞いて実に多くの付近の人たちが馳けつけて下さった。 「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より
94 :
名無しさん@3周年 :2010/12/05(日) 11:12:21 ID:kVxJRqlN
明るかった森田同志。口舌の徒をにくみ、世の不正にいきどおり祖国の正しい発展のためには命を捨てると淡々と 語っていた彼。あの森田同志が、壮烈な割腹自決を遂げて現世にもはやいないとは、まだ私たちには信じられない ことである。 四十三年、楯の会第一期生として、故郷から骨折していた足をひきずって、富士学校の体験入隊へ加わった 森田同志は、たちまち三島先生に可愛がられるようになった。 四十三年四月、早大国防部二代目の部長となった彼は、自主憲法、自主防衛による日本の真の独立をよびかける 学生運動を全国的に燃えあがらせよう! と各大学へオルグに出掛け「全日本学生国防会議」の結成に尽力した。 森田同志の努力で、四十三年の一年間に、三島由紀夫先生は三回も、私どもの大きな行事に特別講師として 協力してくださった。(中略)このとき三島氏の協力が得られなかったとしたら、今日の民族派学生運動の興隆はありえなかっただろう。 「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より
95 :
名無しさん@3周年 :2010/12/05(日) 11:13:27 ID:kVxJRqlN
四十三年八月、森田同志が団長になった北方領土返還運動の日学同現地闘争団は、ノサップ岬へ赴いた。 「貝殻島」へ上陸して、北方領土返還の捨て石となると死を決していた森田同志。計画は挫折したが、それにも めげず、同年八月下旬のソ連軍のチェコ侵攻に憤激し、ソ連大使館へのデモを組織した彼。 (中略)当時、読売新聞の論壇時評を担当していた大島康正氏が、森田同志の論文に注目し、高い評価を与えた。 四十四年二月、青山学院、東大での日学同運動を最後に、彼は「楯の会」専従となっていった。(中略) 常に戦後の安易な情況をなげき占領憲法下の日本に憤り、そしてまた六月以後、力を失った左右の学生運動に 力を与えるために「改憲」への先覚として散った森田同志の死は、世俗的名声はともあれ、三島由紀夫先生の死と まったく等価である。(中略) 憂国烈士三島由紀夫先生、森田必勝同志の御霊よ安かれ 「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より
相変わらず政治板住民は長文レスが好きだな たまってんのか?
97 :
名無しさん@3周年 :2010/12/07(火) 10:32:12 ID:6dMdmxwL
三島由紀夫氏に初めて会ったのは昭和二十二年である。 三島氏の学習院時代の師であった豊川登氏の紹介によるものであった。当時、三島氏は渋谷に住んでいた。 初対面で心をうったのは彼の母倭文重さんの美貌だった。実に気高く美しい婦人だなあと思った。そして 三島氏が発した言葉で今もはっきり覚えているのは、「おかあさま、お客さまにお紅茶をお願いします」であった。 そしていろいろ語り合ううちに、「伊沢さんは保田与重郎さんが好きですか、嫌いですか?」との質問だった。 私は直ちに、「保田さんは私の尊敬する人物です。しかし、まだお目にかかったことはありません。御著書を 読んでいろいろ教えられている次第です。戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものが ありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています。保田さんは立派な日本人であり文豪です」と答えた。 伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より
98 :
名無しさん@3周年 :2010/12/07(火) 10:33:20 ID:6dMdmxwL
三島氏は嬉しそうな顔をして「私は保田さんをほめる人は大好きだし悪く言う人は大嫌いなのです。今、 伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言われたのである。これを御縁として、 しばしば面談するようになった。当時、三島氏は大蔵省の若手エリート官僚であった。そのため私は大蔵省へ 時おり三島氏に会うために通うようになった。 私は若手のエリート官僚に友人が何人か居たが、三島氏の立派な人格には心から惚れこんでしまったのである。 何しろ三島氏は天才的な作家であり東大法学部出身の最優秀の官僚であり乍ら、いささかも驕りたかぶるところがない 謙虚な人柄であった。そして義理と人情にあつい人であるということがわかったのである。 つき合えばつき合うほど尊敬の念が湧いてくるのであった。東大出の秀才というのは思い上った人間がよくいる ものだが、三島氏には全くそのようなところがなかったのである。 伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より
99 :
名無しさん@3周年 :2010/12/07(火) 10:34:31 ID:6dMdmxwL
この人は作家として偉大であるのは勿論だが、人格者として最高の人だと、つき合えばつき合うほど思うように なっていった。その後、毎月のように三島氏と私は食事を共にし語り合ったのだ。(中略)それと共に三島氏の 要望により私は歴史と教育に関する話をいろいろとするに至った。特に歴史では明治維新の志士について。 中でも吉田松陰や真木和泉守の精神思想を何度も望まれて話した。話と同時に松陰の漢詩と真木和泉守の辞世の和歌を 三島氏の強い頼みで私は朗吟したのである。三島氏は松陰や真木和泉守の話を私が始めると、和室であったため 座布団をのけて正座してしまうのだった。私も特に吉田松陰の最期の話をする時などは情熱をこめ、時には涙を 浮かべて語ったものである。三島氏は吉田松陰の弟子たちに贈った「僕は忠義をするつもり諸友は功業をなすつもり」 という言葉が大好きになったようだった。 伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より
100 :
名無しさん@3周年 :2010/12/07(火) 10:35:38 ID:6dMdmxwL
その外では西郷隆盛の西南の役の話や、また尊皇派の反対の佐幕派の人物である近藤勇や土方歳三の話も何度となく 望まれて語った次第である。特に近藤勇は三島氏の祖母の祖父である永井尚志が近藤勇とは心を許し合った 友人であったため、深く敬愛の情を寄せていた様である。ついで乍ら記せば、永井は幕府の若年寄という重要な 地位にいた人で、アメリカの外交官であるハリスが尊敬の念を抱いていた程の欧米の事情に通じていた人物であった。 そのため後に私が主宰して行った近藤勇死後百年祭に真っ先に参加してくれたのだった。 三島氏が私に語った言葉で今も忘れられないのは、「私が日本を愛したのは源氏物語の世界だった。それが 伊沢さんとつきあう様になり幕末の志士たちの精神を知り、今は吉田松陰をはじめとする志士の世界に心が 入るようになった」ということである。 伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より
101 :
名無しさん@3周年 :2010/12/07(火) 10:36:48 ID:6dMdmxwL
また或るとき私が、「三島さん、尊皇攘夷でなければならん。現代でも外国の思想によって、どれだけ日本人の 心が汚されているか計り知れないものがある。外国のいいところは進んで取り入れなければならないが、 功利主義の外国思想は打ち払わなければならないので、攘夷の精神を現代こそ日本人は堅持しなければならない」 と言うと三島氏は「その通りだ、あなたの意見に全く賛成だ」と言ってくれたのであった。 三島氏は死ぬ数年前から小説家三島由紀夫ではなく尊皇憂国の志士となっていたのである。三島氏の母の 倭文重さんは、この点をはっきり認めていた。三島氏が自決したことは日本だけでなく世界の文化にとっても 残念なことであるが、尊皇憂国の志を貫かんとしたので止むを得なかったのであろう。 偉大なる三島、高貴なる三島、この様な人は二度と現われてこないであろうと思う。 だが、悲しい、三島が死んだことは悲しい、今も生きていて呉れていたらいいなあと思う次第だ。 伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より
102 :
名無しさん@3周年 :2010/12/09(木) 11:45:43 ID:0ctX9gVq
森田必勝は私より一、二歳年長の同じ大学の学生であった。面識はなかったが、彼を見知っている友人もいて、 自分と同時代の人間の起こした事件という思いはある。(中略) その日の昼ごろ、電話が鳴った。受話器からは友人の少し緊張し少し興奮した声が聞こえてきた。 「三島由紀夫が自衛隊に立て籠ったぞ」。友人はニュースで知った事件のあらましを語った。私が当時は昼ごろ まで寝ており、テレビも全く見ないことを知っていたから、電話で教えてくれたのである。(中略) 私は大学に行った。大学では学生たちは既に事件を知っており、みんなこれを話題にしていた。(中略) 三島由紀夫は森田必勝とともにその日の昼すぎには割腹自殺を遂げていた。夜には事件の全容がほぼ明らかになり、 翌日からはマスコミがさまざまな人の意見を取り上げた。左翼側は、当然、事件に否定的、批判的であった。 中には三島を嘲弄する口調のものもあった。しかし、これには私は同感し得なかった。 呉智英「『本気』の時代の終焉」より
103 :
名無しさん@3周年 :2010/12/09(木) 11:46:49 ID:0ctX9gVq
当時の学生たちの中の少しアタマのよい連中は、旧来の左翼理論が行きづまりかけていると皆思っていた。 しかし、それに代わりうるものを創出するだけの知性も覚悟もなかった。人のことはいえない。私もただ惰性で 落第をくり返していた学生だったのだから。そういった学生たちを誘引したのは、ハッタリとヒネリだけの 突飛な言辞を弄する奇矯知識人だった。十数年の後に、私はこれらを「珍左翼」と名付けることになるのだが、 当時はそう断ずるだけの自信はなかった。 そんな奇矯知識人、奇矯青年に人気があったのが八切止夫という歴史家だった。歴史学の通説を打ち破る珍説を 次々に発表する在野の学者だという。判断力がないくせに新奇なものには跳びつきたがる学生がいかにも喜び そうな評価である。私も一、二冊読んでみたが、どれも三ページ以上は読めなかった。あまりにも奇怪な文章と 構成で、私がそれまで知る日本語とはちがうものが記されていたからである。その八切止夫が、どこかの新聞か 雑誌に切腹不可能説を書いているのを読んだことがあった。(中略) 呉智英「『本気』の時代の終焉」より
104 :
名無しさん@3周年 :2010/12/09(木) 11:47:55 ID:0ctX9gVq
しかし、三島由紀夫は見事に切腹した。しかも、介錯は一太刀ではすまなかった。恐らく、弟子である森田必勝には 師の首に刀を振り下ろすことに何かためらいでもあったのだろう。三島の首には幾筋もの刀傷がついていた。 それは逆に、三島が通常の切腹に倍する苦痛に克ったことを意味する。罪人の斬首の場合、どんな豪胆な 連中でも恐怖のあまり首をすくめるので、刀を首に打ち込むことはきわめて困難であると、山田朝右衛門 (首切朝右衛門)は語っている。しかし、三島は介錯の刀を二度三度受け止めたのである。このことは、 三島由紀夫の思想が「本気」であることを何よりも雄弁に語っていた。楯の会が小説家の道楽ではないことの 確実な証拠であった。だからこそ、「本気」ではなかった左翼的雰囲気知識人は、自らの怯えを隠すように 嘲笑的な態度を取ったのである。八切止夫が切腹不可能説を撤回したという話も聞かなかった。 呉智英「『本気』の時代の終焉」より
105 :
名無しさん@3周年 :2010/12/09(木) 11:49:09 ID:0ctX9gVq
しかし、「本気」とは何か。「本気」に一体どれだけの価値があるのだろうか。三島由紀夫は「本気」の価値を 証明しようとしたのではなく、「本気」の時代が終りつつあることを証明しようとしたのではないか。 「本気」の時代の弔鐘を鳴らし、「本気」の時代に殉じようとしたのではないか。(中略) 三島由紀夫は私財を擲(なげう)って楯の会を作った。共産主義革命を防ぎ、ソ連や支那や北鮮の侵略には 先頭に立って闘う民兵組織である。(中略)三島はこの行動について「本気」だった。小説家の気まぐれな 道楽ではなかった。しかし、現実に治安出勤や国防行動を最も効果的にするのは、税金で維持運営される 行政機関である自衛隊なのである。自衛隊員は、法に定められた義務のみを果たし、法に定められた権利を 認められる。まるでお役所である。いや、事実、お役所なのである。(中略) 「本気」の武士より、権利義務の関係の中でのみ仕事をする公務員の方が尊ばれ、価値がある時代が始まり かけていた。換言すれば、これは「実務」の時代の始まりであった。 呉智英「『本気』の時代の終焉」より
106 :
名無しさん@3周年 :2010/12/09(木) 11:50:27 ID:0ctX9gVq
私は実務の時代の価値を否定しない。(中略)英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や 純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた。 英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学、総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な 時代が到来した。(中略) だが、時代はそうなりきることはなかった。一九九五年、歪んだ醜怪な「本気」が出現した。オウム事件である。 (中略)本当に不気味で醜悪な恐怖の事件は、三島が「本気」に殉じた後の時代に出現したのであった。 呉智英「『本気』の時代の終焉」より
107 :
名無しさん@3周年 :2010/12/10(金) 23:40:50 ID:57fUPZoR
江藤淳は三島の自決は彼に早い老年が来たか、さもなければ病気じゃないかと言いましたが、トルストイの死に 「細君のヒステリイ」を見て悦に入る自然主義作家のリアリズム、いかにも分かったような、人生の真相は たかだかこんなものという「思想の型」によく似ているといってよいでしょう。 そういえば三島事件後、俗耳に入り易い江藤流の原因説が数限りなく出ました。(中略) 私はいっさい関心を持ちませんでした。「細君のヒステリイ」に原因を求めて安心する現代知識人に特有の 気質にいちいち付き合っている気にはなれなかったからです。(中略) 江藤さんは抽象的煩悶などにまったく無縁な人でした。生活実感を尊重する自然主義以来の文壇的リアリズムに どっぷり浸っていた人でした。 三島の悲劇は分からない人には分からないのです。縁なき衆生には縁なきことが世にはままあります。 西尾幹二「三島由紀夫の死と私」より
108 :
名無しさん@3周年 :2010/12/10(金) 23:42:28 ID:57fUPZoR
小林(秀雄)の「文学者の思想と実生活」の結びに近い個所に次のような言葉があります。 「思想の力は、現在あるものを、それが実生活であれ、理論であれ、ともかく現在在るものを超克し、これに 離別しようとするところにある」 その通りだと思います。「思想の力」は理想と言い替えてもよいでしょう。私は次にみる同文の結語を読んで、 昭和十一年にこれを書いた小林秀雄がさながら三島の自決を予見していたかのごとき思いにさえ襲われたほどです。 「エンペドクレスは、永年の思索の結果、肉体は滅びても精神は滅びないといふ結論に到達し、噴火口に身を 投じた。狂人の愚行と笑へるほどしつかりした生き物は残念ながら僕等人類の仲間にはゐないのである」 一九七〇年代の半ば頃に、私はギリシア哲学者の故齋藤忍随氏にお目にかかる機会がたびたびありました。 三島事件は氏の関心事で、開口一番、三島はエンペドクレスですね、と言いました。エトナの噴火口に身を 投じたこの古代の哲人は、ヘルダーリンが歌い、ニーチェが劇詩に仕立てた相手です。 歴史の中には「狂人の愚行」としか思えない完璧なまでの正気の行動があるのです。 西尾幹二「三島由紀夫の死と私」より
長文? 単なるコピペだろ しかしご苦労なこったな、本見ながら打ってんだろ?これって
110 :
名無しさん@3周年 :2010/12/11(土) 16:08:31 ID:33re4+pL
ある政治家が「狂気の沙汰」と呼び、これに迎合するかのようにある作家が「精神分裂症」と診断した。 病理学的な狂気は三島由紀夫君にはなかった。 狂気とかたづけてしまえば、その時点で政治家も作家も、一切の思考を停止し、責任を回避することができる。 ソ連のような国では、多くの健康な作家が精神病院に入れられている。独裁者と怠惰な思考喪失者にとっては、 人を狂人あつかいにすることほど簡易軽便な処理法はない。 「賊と呼び狂と呼ばんも、他評に任ぜん」という句は、維新志士たちの辞世の漢詩にときどき出てくる。 出典はシナにあるかもしれぬが、これが古今に通じる志士の心である。 三島君自身も狂人呼ばわりの「他評」はもとより覚悟していた。 林房雄「悲しみの琴」より
111 :
名無しさん@3周年 :2010/12/11(土) 16:09:26 ID:33re4+pL
だいぶ以前のことだが、三島君は私の家に遊びに来た時、デパートの売子たちの無知と無礼粗暴な態度を怒り罵倒し、 「こういうのが現代の若者だというなら、僕はできるだけ長生きして彼らが復讐を受けるのを自分の目で見てやりたい。 それ以外に対抗策はありませんね」と真顔で言って私を笑わせてたことがある。 彼にもこのような意味の長生きを考えていた一時期があった。 いわゆる「夭折の美学」を捨て、図太く生きて戦後の風潮と戦ってやろうと決意したのだ。 彼が週刊誌に荒っぽい雑文めいたものを書きはじめ、グラビアにも登場しはじめたとき、「いったいどうしたのだ」 とたずねたら、「戦後という世相と戦うためには、こんな戦術も必要でしょう」と笑って答えた。 だが、この「長生き戦術」または「毒をもって毒を制する戦略」はやがて捨てられた。 怒れる戦士は迂回作戦を軽蔑しはじめ、単刀直入を決意した。 『英霊の声』はこの視角から読まねばならぬ作品である。 林房雄「悲しみの琴」より
112 :
名無しさん@3周年 :2010/12/11(土) 16:10:20 ID:33re4+pL
三島君の熱望は決して政治概念としての天皇の復活、したがって明治憲法復元論でもなく、ただ左右の全体主義 (共産主義とファシズム)に対抗する唯一の理念としての「文化の全体性と統括者としての天皇」の復活と 定立であった。 このような定立が、「古代の夢」は別として、日本の歴史において実現された実例があったかどうかは 論争的として残るが、その試みが幾たびか行われて、多くの忠臣と志士がこの夢に命を捧げたことは事実である。 林房雄「悲しみの琴」より
113 :
名無しさん@3周年 :2010/12/13(月) 10:12:54 ID:uEHvRlgb
(2001年11月25日に)リンカーンセンターでアメリカペングラフ主催の「二十世紀の偉大な作家・ 三島由紀夫を顕彰する夕べ」が開かれた。(中略) 私は「薔薇刑」の基本的テーマは「生と死」「エロスとタナトス」であり、それは三島由紀夫を被写体とする ところの私の主観的ドキュメンタリー作品であることを語り、そこで理解してもらいことは、三島氏は自分を 「被写体」と呼び、最初から最後まで完全に「被写体」に徹してくれたこと、そのことを氏は『薔薇刑』の 序文「細江英公序説」の中ではっきり書いている。(略)だからハリウッドの映画監督がつくった映画 「MISHIMA」の中で私らしい写真家が登場するが、そこで画面上のMISHIMAがカメラをかまえる 写真家に向かってカメラの位置を変えるように手で指示するシーンがでてくるが、あんなことは絶対になかったし、 ありえないことだ。その映画のポール・シュレイダー監督が前もって私にアドバイスを求めてきたら教えて あげたのに残念だ、と語り、前記の三島さんの序文の一節を読み上げた。 細江英公「誠実なる警告」より
114 :
名無しさん@3周年 :2010/12/13(月) 10:14:26 ID:uEHvRlgb
(中略)三島さんは文字通り「誠実の人」であった。その点だけは、身近に彼を知り、そして生き残った自分の 責任として、きちんと後世に伝えておかなければならないことを信ずる。 その三島さんが、あえて選んだ死に様であるのなら、それは真摯に考え抜いた結果であったはずであり、 そこには止むに止まれぬ理由が存在したに違いないのである。であるから、私がまず強調しておきたいのは、 事件直後から多くのメディアによって宣伝されてきたような「スキャンダル」として三島さんの死を扱うような ことは、実にもって愚劣なことであるということである。 もちろん、一人の人間、ましてあれだけの人物が自ら死を選んだ真の理由を、簡単に特定できるはずもない。 が、あえていうならば、三島さんが言っていた「文武両道」の「武」とは「文」を守るためのものと位置付けて いたと考えたい。守るべき「文」とは、自身の「文学」だけに止まるものではないだろう。もっと広く、そして 深く「日本の文化」そのものとでも呼ぶべきものであったはずである。 細江英公「誠実なる警告」より
115 :
名無しさん@3周年 :2010/12/13(月) 10:15:36 ID:uEHvRlgb
思い起こせば、高度経済成長を達成したあの頃には、我々日本人は、豊かさと引き換えに自分たちの文化を ないがしろにするということを、なんら恐れなくなっていた。今の日本が抱える混迷も、根本的にはそこに問題が あったのだということを、私も含め日本人の多くが気づき始めているのではないだろうか。三島さんには、今の 日本の姿が見えていた。だからこそ、政治的な速攻性のないことがわかりきっている、あのような行動をあえて とることによって、我々に命懸けの「警告」を遺したのではなかったか。そして恐らく三島さんが意図した通り、 彼の行動は長く記憶され続け、その警告の意味は、時間がたつにつれてその重みを増してきているように思えて ならない。私は、既存の政治勢力が自らの主張のために三島さんの警告を都合よく利用するようなことがあっては ならないと考える。一方、彼の死後、文壇においては「あれは文学的な死であった」として、その多くが 三島さんの個人的な理由によるものであるとする見方が支配的だったように思われるが、それにも違和感を 感じてきた。なぜなら、三島さんが憂いていたのは、もっと根源的な、日本人の精神的な危機そのものだったはず なのだから。 細江英公「誠実なる警告」より
ここまでコピペしちゃうとヤバくね? 引用の範囲を余裕で越えている気がする。
117 :
名無しさん@3周年 :2010/12/15(水) 10:21:25 ID:OAoO9PBw
「二・二六事件」の時に自殺した青年将校は河野大尉と、陸相官邸でピストル自殺した最先任将校の野中大尉だけである。 私はてっきり(憂国の)作者の三島由紀夫が河野大尉をモデルに作品を書いたのだと思い、三島に問い合わせの 手紙を出した。熱海の病院で、夜、河野大尉らしき若い男(の霊)と会ったことや、当時、怪我をして担ぎ込まれた 河野大尉を担当した看護婦の話も漏らさず付記した。間もなく三島から返事がきた。 「(中略)河野大尉のことは知りませんでしたが、彼の実兄から同じような手紙が来て、河野大尉が熱海で 割腹自害していたことを初めて知りました。あなたがそこの病院で河野大尉らしい人物にお会いになったあたりは 興味津々たるものがあります。いつかゆっくりとお聞かせください。 敬具」 原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
118 :
名無しさん@3周年 :2010/12/15(水) 10:23:04 ID:OAoO9PBw
(中略)その後、三島と何度か手紙のやり取りをしたが、私が実際に三島本人と会ったのは都内のK警察署の 殺風景な道場であった。(中略) 二人の会話では、河野大尉ら青年将校たちのことがよく話題になった。 河野大尉の実兄とも『憂国』が取り持つ縁で、時々あっているとのことである。 私が河野大尉らしい人物と会ったり、夢で会見したことは誰も本気で聞いてくれなかったが、三島だけは違った。 彼は、私が夢の中で河野大尉と会ったときのことを根掘り葉掘り聞くのである。 「うーむ、やっぱりそうか、そうだったのか」などと一人でうなずいたりした。 原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
119 :
名無しさん@3周年 :2010/12/15(水) 10:24:06 ID:OAoO9PBw
(中略)「彼らが決起に失敗し、自刃を決意して天皇の勅使を賜りたいと願い出たときに、天皇は『死にたければ 勝手に死すべし』と冷たく突き放しているのはご承知の通りです。天皇に最も近く仕えていた侍従武官長の 本庄大将が日記に記していることなので、まず本当だったのでしょう。いかにも血も涙もないご返事で、 日本の将来を憂い、天皇を信じきって決起した青年将校たちの落胆ぶりが目に見えるようです」 日頃から青年将校たちの純粋さに憧れていた三島は本当に残念そうだった。 「しかし三島さん、日本は立憲国家なのです。信頼していた重臣たちを突然殺害された天皇がお怒りになるのは 当たり前でしょう。彼らの自刃に際して天皇が勅使を派遣されたとなると、決起を褒賞したことになります。 立憲国家の君主として当然の行為です」 常識的に別になんの疑問もないところだが、三島の考えはやや違っていた。 原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
120 :
名無しさん@3周年 :2010/12/15(水) 10:25:58 ID:OAoO9PBw
「総理大臣のような普通の人間ならそれでもいいかもしれませんが、日本のすべてを統括する天皇は神のごとき 存在であり、神のごとき立場で、常に冷静沈着な判断をされねばならなかったのです。 それが、『死にたければ勝手に死すべし』では、あまりにも人間の憎悪の感情丸出しで、一般の市民となんら 変わらないではありませんか。以前会った河野大尉の実兄は、そのとき天皇は、陛下の赤子が犯した罪を 死を以て償おうとしていると聞き、『そうか、よくわかってくれた。お前が行ってよく見届けてくれ』と なぜ侍従長に仰せられなかったのかと嘆いていました。 これはもう、人間の怒り、憎しみで、日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」 三島はそこまで一気に言うと、声を詰まらせた。 原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
121 :
名無しさん@3周年 :2010/12/15(水) 10:27:04 ID:OAoO9PBw
…私は三島の激しい口調に反論する言葉を失い沈黙した。 「それから、ひどいのはその後の軍部のとった処置です。青年将校たちは一旦は揃って自刃を決意しましたが、 裁判で自分たちの主張を世間に発表するために法廷闘争に切り替えます。しかし、青年将校たちが最後の望みを 託したその裁判は、弁護人なし、控訴なし、非公開という日本の裁判史上まれに見る暗黒裁判でした。その挙げ句、 首謀者の青年将校十五人を並べて一斉射撃で銃殺したというんですから、とても近代国家のすることではありません」 三島の悲憤慷慨は留まるところを知らず、事件後の裁判まで話が及んだ。作家らしく感情の起伏が激しく 「二・二六事件」当時の東北農村の貧窮ぶりを語るときなどはうっすらと涙さえ浮かべていた。 原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
122 :
エビちゃん親衛隊 :2010/12/15(水) 10:29:11 ID:YUccyK92
三島は現実政治に関わる人物ではないだろう。 小説を書いているのが無難であると思われる。 少なくとも死ぬ前に議員になって国会でアホ発言をするような 晩節を穢さなくて良かったのではないか。 多分、総理はムリであろう。
123 :
名無しさん@3周年 :2010/12/16(木) 20:45:31 ID:qmOvvGj9
(中略) 平成元年二月二十四日、昭和天皇の大葬の日は、朝から冷たい雨が降ったり止んだりする肌寒い日だった。 この日、自衛隊を定年退官する私は、天皇の御柩を見送るために三宅坂に出かけた。(中略) 天皇のお車が私の前にさしかかったときである。私は不思議な幻影を見た。道路の反対側にカーキ色の服を着た 男たちが並んでいる。よく見ると、なんと、懐かしい河野大尉を含む「二・二六事件」の青年将校たちではないか。 彼らは道路際に行儀よく並び、天皇の車の行列を無表情に見つめていた。(中略) 「二・二六事件」を解く最大のキーは、そのときの天皇のご決断にあると言われている。 …戦後、天皇が外遊した折、外国人の記者に囲まれて、「二・二六事件」に対する所見を聞かされた天皇は、 「遺憾に思います」と答えられている。政府の高官や皇族の人が「遺憾に思う」ということは「間違っていた」 「すまないことをした」という意味とされている。(中略)…マスコミではほとんど取り上げられなかった。 原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
124 :
名無しさん@3周年 :2010/12/16(木) 20:48:48 ID:qmOvvGj9
「原さん、青年将校に代わって天皇にお願いしてくれ。このままじゃ、あまりにも彼らが可哀そうだ。 頼むよ、原さん……」どこからか、甲高い三島の声が聞こえてきた。私はたまらず列をかき分けて前へ出ると、 天皇の御柩に向かって叫んだ。 「天皇よ。なぜたった一言、彼らにお声をかけてくださらないのですか。このままでは彼らは永遠に反逆の徒に なってしまいます。かつて彼らは、あなたを信じて決起したのです。賊徒のまま放っておかれるおつもりですか。 浮かばれぬ彼らの魂は、いったいどこへ行ったらいいのです……」 (中略)私はたちまち屈強な警察官たちに取り押さえられたが、その時、道路際の向こう側に立っていた 河野大尉がニッコリ笑うのが見えた。 原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
125 :
名無しさん@3周年 :2010/12/16(木) 20:49:48 ID:qmOvvGj9
三島は結局、自衛隊市ヶ谷駐屯地を己の死に場所とした。 …多くの自衛隊員の前で演説し、そして腹を切るという壮烈な死の花道として、士官学校、大本営、参謀本部など、 かつて日本陸軍のメッカといわれた市ヶ谷を選んだ。 …三島は隊員に決起を促すため方面総監室を占拠し、総監を人質にするという暴挙に出たが、そのために三島を 恨んだり、非難する声は今でも自衛隊内部では少ない。 事件の当日、会議中に総監室の異状を知った方面総監部三部の防衛班長中村菫正(のぶまさ)二佐は、隊員の通報で 総監室に駆けつけ、幕僚長室から総監室に通じるドアを体当たりで開けて中に飛び込み、振りかざした三島の刀で 右手を二回にわたり斬りつけられる。(中略) 思いもかけなかった刃傷事件の発生に、総監部の各事務室の片隅に警棒が常時置かれるようになったのは、 この事件以降のことである。 原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
126 :
名無しさん@3周年 :2010/12/16(木) 20:50:38 ID:qmOvvGj9
(中略)しかし、こんなとんだ災難にあった中村二佐だが、三島を恨もうとはしていない。 「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、 腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語っている。 斬られながらも相手の手加減を感じるなど、剣道を知らない者にはわからないところだが、中村二佐は旧軍の 軍人だから剣道の腕も相当なものがあったのだろう。 自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した中村二佐はその後、陸幕広報班長、 第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、昭和五十六年七月、陸将で定年退官するが、 最後の職場が、かつて三島を教育した久留米の幹部候補生学校だったとは、皮肉な巡り合わせである。 原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
127 :
名無しさん@3周年 :2010/12/19(日) 19:43:01 ID:GfMouNUU
わたしの考えでは、一九六六年に書かれた「英霊の声」は、日本の戦後にとってたぶんもっとも重要な作品の 一つである。 この作品には、作者の分身と目される語り手「私」とやはり作者の分身である霊媒の盲目の美少年が登場し、 帰神(かむがかり)の会で後者の語る死者の声を前者が聞くが、霊媒者となり、二・二六事件と特攻隊の死者の声を 口寄せする青年は、降霊が終わると落命する。見るとその顔はすっかり面変わりしている。 後に明らかにされる三島自身の証言では、青年は死んで昭和天皇の顔になるのである。この作品で三島が言うのは、 自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は神ではないというのは、(逆説的ながら) 「人間として」倫理にもとることで、昭和天皇は、断じて糾弾されるべきだということ、しかし、その糾弾の主体は、 もはやどこにもいないということである。戦争の死者を裏切ったまま、戦前とは宗旨替えした世界に身を置き、 そこで生活を営んでいる点、彼も同罪である。糾弾者自身の死とひきかえにしかその糾弾はなされない。 そういう直感が、この作品の終わりをこのようなものにしている。 加藤典洋「その世界普遍性」より
128 :
名無しさん@3周年 :2010/12/19(日) 19:44:01 ID:GfMouNUU
ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間がいてくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。 わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の 戦後の意味は、大違いである。 その考え方には、誰もが、もしどのような先入観からも自由なら、こう考えるだろうというような普遍的な みちすじが示されている。 三島は、日本の戦後のローカルな論理、いわばその「内面」に染まらず、普遍的な人間の考え方を示すことで、 はじめて日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるかを、告知している。 これは、旧ドイツにおけるアンセルム・キーファーなどとほぼ比較可能なあり方であり、もし三島がいなければ、 日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。 加藤典洋「その世界普遍性」より
129 :
名無しさん@3周年 :2010/12/19(日) 19:44:51 ID:GfMouNUU
たしかに彼の作品は、化粧タイルのような人工的な文体を駆使して書かれている。…でも、そのことが、 三島の小説を世界の文脈で見た場合の、「世界の戦後」性にたえる制作物にしている。(中略) 三島は戦前、レイモン・ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」に夢中になる。でもそのラディゲの作がすでに 第一次世界大戦の戦後文学だった。そのもっとも深い理解者は、あのジャン・コクトーである。 その心理小説に心理がなく心理の剥製があること、しかしそのことこそがその第一次世界大戦の戦後文学で めざされていること、そしてそのようなものとして、それが三島の戦前と戦後の指標たり続けること。つまり、 人工性はここでは、世界性、現代性の明らかな指標なのである。 「世界の戦後」とは第一次世界大戦の戦後のことであり、「日本の戦後」とは第二次世界大戦の戦後のことである。 この二つは同じではない。簡単に言うなら、前者の戦後で、人と世界は壊れ、後者の戦後で、人と世界は 自分を修復している。 加藤典洋「その世界普遍性」より
130 :
名無しさん@3周年 :2010/12/19(日) 19:45:58 ID:GfMouNUU
サルトルの「嘔吐」は第一次世界大戦の戦後文学であって、そこで彼は人が壊れたこと、そこからの回復には アヴァンチュール(芸術と犯罪)による特権的瞬間しかないことを述べている。 しかしその彼が、第二次世界大戦の戦後になると、アンガジュマンによる人間の回復を唱える。 三島は、戦前のサルトルに似ている。わたし達は、ここでは、そこに二つの戦後の重層(ズレ)があることに 自覚的であるべき、「遅れてきた青年」なのである。 〈ラディゲから影響を受けてゐた時代はほとんど終戦後まで続いてゐた。さうして戦争がすんで、日本にも ラディゲの味はつたやうな無秩序が来たといふ思ひは、私をますますラディゲの熱狂的な崇拝者にさせた。 事実、今になつて考へると、日本の今次大戦後の無秩序状態は、ヨーロッパにおける第二次大戦後の無秩序状態 よりも第一次大戦後の無秩序状態に似てゐたと思はれる。(「わが魅せられたるもの」一九五六年)〉 こういう洞察がなぜ当時、三島にだけ可能だったか。 そういうことをわたしとしてはいま、改めて、考えてみたいと思っている。 加藤典洋「その世界普遍性」より
131 :
名無しさん@3周年 :2010/12/21(火) 10:50:20 ID:p2jqhk7c
三島由紀夫の憂国による割腹自殺は、敗戦に際し国体護持を念じてピストル自殺をとげた蓮田善明の影響だろう ……とは、由紀夫の少年時代のシンパだった富士正晴氏をはじめ、大久保典夫氏その他の推量である。晩年の 由紀夫に、蓮田善明伝の序を頂戴するという特別のかかわりを持った私は、あながちその推量を否定しえない。 (中略)善明が由紀夫を「われわれ自身の年少者」という親愛な言葉で呼び「悠久な日本の歴史の請し子」と 仰望をしたのは、まだ由紀夫が学習院中等科五年生の昭和十六年九月だった。(中略) 「われわれ自身の年少者」という愛称と、正体をわざと明かさぬ思わせぶりな語韻のどこかには、まるで お稚児さんにでも寄せるような愛情がぬくぬくと感じられる。まことこの日頃、由紀夫を伴い、林富士馬氏と 一緒に善明を尋ねたことがある富士正晴氏は、帰りに善明がわざわざ駅まで見送ってくると、まるで恋人が 別れの際にするような別れたくないといった感情を、あらわに由紀夫に示したのを見ている。 小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
132 :
名無しさん@3周年 :2010/12/21(火) 10:51:29 ID:p2jqhk7c
又、由紀夫の方も、「花ざかりの森」を発表したのを契機に、たびたび寄稿を許され、あまつさえ同人の集まり にも出席を認められた。そして同人の(略)栗山理一氏に対しては大人のシニシズムを感応しているが、特に 善明には「烈火の如き談論風発ぶり」に、男らしさと頼もしさを感じたのだった。 当時、由紀夫は十七歳、善明は三十八歳だった。善明は由紀夫の十七歳に、己の十七歳を回想したであろう。 善明も人一倍に早熟だったからだ。彼は中学の学友丸山学と刊行した回覧誌『護謨樹』に、すでに次のような 老成した人生観を述べていた。(引用略) 敗戦で自決した覚悟の決然さの萌芽は、すでにこの少年の日にできていたのである。この善明の悟達は、 十五歳の歳一年間、肋膜炎で瀕死の床にあった経験から、死を凝視める習慣がついたものだった。 小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
133 :
名無しさん@3周年 :2010/12/21(火) 10:52:27 ID:p2jqhk7c
(中略)善明の「死から帰納した生涯」と由紀夫の「椿事待望」の早熟な資質は、やがて「死もて文化を描く」 という夭折憧憬につながるのだ。換言すれば、それは「大津皇子」と「聖セバスチャン」の邂逅――殉難の 讃仰なのである。 大津皇子は朱鳥元年(六八六)父天武天皇が崩御してから一ヶ月も経たぬうちに決起を思い立った。(中略) 「『予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の 自分の文化だと知つてゐる』(大津皇子論) この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る 時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができない…(略)」 (三島由紀夫「蓮田善明とその死」序) 由紀夫の決起への啓示は、ここに発していたのかもしれない。 小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
134 :
名無しさん@3周年 :2010/12/21(火) 10:53:26 ID:p2jqhk7c
(中略) 元旦の夜、楯の会と浪漫劇場のごく親しい人々が三島邸に集まったとのことだ。(略)談たまたま亡霊談義に なるや、(略)由紀夫の左肩のあたり、顎紐を掛け刀を差した濃緑の影が佇んでいるのを、丸山明宏氏が 発見したということだ。「あッ!誰か貴方に憑いてます」と丸山氏が注意すると、由紀夫は真顔になって、 「甘粕か?」と問い、たて続けに二三の姓名を上げ、最後に二・二六事件の磯部の名をあげた由である。 同席の村松英子さんは丸山氏に亡霊を追払ってくれと要請した。すると由紀夫は笑って、『豊饒の海』が 書けなくなるから止めてくれといったという。 私はこの記事を読んで冷水を浴びたように慄然とした。丸山氏の記憶せぬ二三の姓名の中に、間違いなく善明の 名も入っていたはずだからだ。と、いうのは、その日頃、由紀夫は拙著『蓮田善明とその死』の序を執筆して いたか、執筆すべく構想をしていたからだ。 小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
135 :
名無しさん@3周年 :2010/12/21(火) 10:54:30 ID:p2jqhk7c
執筆にあたって彼は、当然シンガポール近くのゴム林に眠っている善明を想起し、その霊を呼んだろう。(略) そういえば善明は前にも海を渡って帰ってきた。昭和二十年八月十九日、敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の 前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた職業軍人・上條大佐をピストルで射殺し、かえす筒先で己がコメカミを 射抜いて果てた善明は、その時の完全軍装の姿で熊本県は植木町の留守宅に帰ってきた。明け近く、青蚊帳を 透かし、縁の外に佇んでいる夫をみつけた敏子さんは、「おかえりなさい」と挨拶した。善明は佇んだままだった。 「どうなさいました。お入りなさいまし」というと、前にくずおれるように姿はかき消えた。 その善明が、由紀夫の決起を知って帰ってこぬはずはない。 二人の合言葉は、『英霊』の「などてすめろぎは人間となりたまひし」であったはずだ。そう、私が夢想し 思量するのも、或いは絶作『豊饒の海』の輪廻転生の示唆なのかもしれない。 小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
136 :
名無しさん@3周年 :2010/12/23(木) 23:56:58 ID:/nB5f4i7
あの市ヶ谷での事件は、政治的なニヒリズムにもとづくパフォーマンスでも、非現実的なクーデタでもない。 三島は大塩平八郎と同様に、それが必ず失敗する事は識っていただろう。にもかかわらずそれを試みることは、 自滅ではなく、そのような大義を信じるものが日本に一人はいるということを示すための言挙げであり、 その言葉が、必ず、たとえば後世に対してであっても、聞く耳を持った者に伝わるという確信の表明だ。 故にそれはニヒリズムに似ており、ニヒリズムに発しているのだが、その大いなる否定なのである。 福田和也「保田與重郎と昭和の御代」より
137 :
名無しさん@3周年 :2010/12/25(土) 15:48:37 ID:UG/lz53Y
ブヒブヒうるせえよ。福田。 何が大義だ?お前が言うなっての。
138 :
名無しさん@3周年 :2010/12/27(月) 12:03:17 ID:lSBrMi4z
発起人を代表して一言申し上げます。本日はこれだけ多くの方々にご参集頂きまして慎にありがとうございます。 シンポジウムを聴きながら思い出していたのは、江戸時代の文化人が頭の中で考えた「くだん」という動物のことで あります。「くだん」というのは人偏に牛という字です。一件、二件、“依って件の如し”というときの件です。 江戸の文化人がなぜ「件」という動物を空想したのかというと、この件という字から思いついたと考えるのです。 人偏、人間ですね、それと牛。「件」という空想上の動物は、体が牛で頭が人間、体が人間で頭が牛、そういう 想像で描かれております。 そして「件」という一種の怪物の特徴は何かというと、天変地異が迫った時、あるいは国家の危機が迫った時、 いち早くそれを予知して、一声悲痛に啼いて死ぬ動物であるということです。 中村彰彦「第40回憂国忌 閉会の辞」より
139 :
名無しさん@3周年 :2010/12/27(月) 12:04:39 ID:lSBrMi4z
そういう研究を最近読みまして、『憂国忌』にあたり、悪い意味ではなく、三島由紀夫という人は現代日本にとって、 「件」のような一聲を放った予言する存在だったのではないかと思いました。 日本は中国、ロシアから馬鹿にされて何もできない状況になった。これは三島が「檄」で予言していたことです。 没後40年の間にそれがますますリアルになり、酷いことになっている。そして三島の予知能力をますます 痛切に感じるようになりました。これを以って閉会の辞と致しますが、こういうことを“依って件の如し” (「件」の予言が外れない様に嘘偽りがない)と謂うのです。 中村彰彦「第40回憂国忌 閉会の辞」より
140 :
名無しさん@3周年 :2010/12/30(木) 11:21:54 ID:GNomxK3P
天文台で働く若い観測員よ、暗い天空に新しい彗星を一つ発見するたび、きみが地上で喪失するものは、一体何か? すべての書物を書きつくしてしまった、一人の詩人が切腹して果てたあとで、その暗い天空が獲得する星は、一体何か? 寺山修司 憂国忌パンフレットに寄稿された追悼の辞より
141 :
名無しさん@3周年 :2010/12/31(金) 23:51:47 ID:pwVlodgF
オカマで人生を終わらしたかったので、将来ある人たちと心中しました。 最低な人でした。
142 :
名無しさん@3周年 :2011/01/02(日) 15:19:30 ID:SEDlM5x+
国のため いのち幸くと願ひたる 畏きひとや 国の為に 死にたまひたり わがこころ なおもすべなし をさな貌 まなかひに顕つを いかにかもせむ 夜半すぎて 雨はひさめに ふりしきり み祖の神の すさび泣くがに 保田與重郎 昭和45年11月某日、哀悼の句
143 :
名無しさん@3周年 :2011/01/04(火) 19:58:13 ID:IazBvEkW
大正十四年(一九二五年)一月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く 生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて 取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも 明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征った はずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような 悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。 (中略) しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、 ――当時は何だか居心地が悪かったが、今となっては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。 (略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかった。――と述懐している。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
144 :
名無しさん@3周年 :2011/01/04(火) 19:58:38 ID:IazBvEkW
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、(中略)三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。 これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に 傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。 死の二ヶ月前に行われたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、 三島はこうまで言い切っている。――僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、 自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、 もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。――さすがの武田泰淳も、――いや、それだけは言っちゃ いけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう――と、たしなめるほかない様子だったが、 三島はさらに、――でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった―― と追い打ちをかけている。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
145 :
名無しさん@3周年 :2011/01/04(火) 19:59:03 ID:IazBvEkW
(中略) われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに 生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。 林尹夫(海軍出陣学徒)の表現によれば、――おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の 王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとっての過去と未来に一貫せる生き方を 学ばせるものが、そこにあるのだ――と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な 戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない 世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
146 :
名無しさん@3周年 :2011/01/04(火) 19:59:20 ID:IazBvEkW
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。――いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。 世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして 意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるか どうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わなければ ならない。―― (中略) 彼(三島)が大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い 切ったことがある。――なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、 燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場で あるとは到底思えない。(略)――こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、 その歩みを止めなかったのであろう。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
147 :
名無しさん@3周年 :2011/01/04(火) 19:59:43 ID:IazBvEkW
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、 どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命に たおれた彼らの不幸を、償いうるものはない。三島も、そのことを知り抜いていたにちがいない。そして彼は みずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。 (中略) 死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったで あろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。 一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を 死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
148 :
名無しさん@3周年 :2011/01/06(木) 00:06:33 ID:qoEpmCco
「三島由紀夫」をきわめて高く評価している。 その理由は拙著『戦後的思考』(1999年)に記した通りで、規定の枚数ではちょっと書けない。 できれば読んでいただきたいが、彼こそが、昭和天皇と戦争の死者の間の「約束違反」と、またそれと自分の関係に 目を向けた、そしてモラルということの初原の感覚を失わなかった、例外的な戦後日本人だったからである。 三島は、戦後の小説家のうち、もっとも「戦後的」な作家だったといってよい。 戦後の天皇制から、一個人として、もっとも外に出ていた。 三島一人がいたお陰で、日本の戦後は道義的に、大いなる茶番の時代となることからかろうじて免れた、 といえるのではないかと思っている。 加藤典洋「アンケート 三島由紀夫と私」より
149 :
名無しさん@3周年 :2011/01/08(土) 10:15:23 ID:E0qAkyCk
最後の試験も済み、学生生活が実質的になにもかも終わった夏休みのある晩であった。 …何かの拍子に三島は「アメリカって癪だなあ、君本当に憎らしいね」と心の底から繰り返しいった。 そしてかのレースのカーテンを指さし「もしあそこにアメリカ兵が隠れていたら、竹槍で突き殺してやる」 と銃剣術の動作をして真剣にいった。 当時の彼は学術優秀であり、品行も方正であったが、教練武術の方はまるで駄目であった。 …そういう彼が竹槍で云々といった時、彼には悪いが、突くといっても逆にやられるだろうがとひそかに思った。 けれども、彼のその気迫の烈しさには本当に胸を突かれた。 彼は当時、日本の、ことに雅やかな王朝文化に心酔していた(当時といわず、或は生涯そうであったかもしれぬ)。 そしてその意味で敬虔な尊皇家であった。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
150 :
名無しさん@3周年 :2011/01/08(土) 10:15:49 ID:E0qAkyCk
今、卒業式の時の彼を思い出す。 戦前の学習院の卒業式には、何年かに一度陛下が御臨幸になった。我々の卒業式の時もそうであった。 全員息づまる様に緊張し静まる中で式は進み、やがて教官が「文科総代 平岡公威」と彼の名を呼びあげた。 彼は我等卒業式一同と共にスッと起立し、落ち着いた足どりで恭々しく陛下の御前に出て行った。 彼が小柄なことなど微塵も感じさせなかった。瞳涼しく進み出て、拝し、退く。その動きは真に堂堂としていた。 心ひきしまり、すがすがしい動作であった。あの時は彼の人生の一つの頂点であったろう。 そういう彼ゆえ、古来の日本の心を壊そうとするものを心の底から許さなかった。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
151 :
名無しさん@3周年 :2011/01/08(土) 10:16:12 ID:E0qAkyCk
彼の感性は非凡なだけでなく時に大変ユニークで、常人の追随しかねる点があったけれども、人間としての 器量は大きかった。思えば、不良少年の親分を夢みるだけのことはあった。 …初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に 「おいアオジロ―彼の綽名―お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。 三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、 「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。 また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
152 :
名無しさん@3周年 :2011/01/08(土) 10:16:40 ID:E0qAkyCk
初等科一年の時、休み時間になると、半ズボン姿の我々は、籠から放たれた小鳥の様に夢中で騒ぎ回った。 …そういう餓鬼どもの中で、三島は「フクロウ、貴方は森の女王です」という作文を書いた。 彼は意識が始まった時から、すでに恐ろしい孤独の中に否応なしに閉じこもり、覚めていた。 …彼は幼時、友達に、自分の生まれた日のことを覚えていると語った。彼はそのことを確信していた。そして おそらく、外にもその記憶をもつ人が何人かあると素直に考えていたのであろう。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
153 :
名無しさん@3周年 :2011/01/08(土) 10:17:03 ID:E0qAkyCk
初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは 知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。 あの時も、すでに彼はそれなりに成熟していたのであろう。彼と周囲との断絶、これは象徴的であり、悲劇的である。 三島は生涯の始めから、終始悲劇的に完成した孤独の日々を送ったと思う。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
154 :
名無しさん@3周年 :2011/01/08(土) 10:20:08 ID:E0qAkyCk
高等科上級生の時のことである。 戦争中で銃剣術の時間のことだった。体格の大きい銃剣術が強い友人と、彼とが試合をさせられた。教官が どうしてそういうアンバランスな試合をさせたのか解らない。しかし平岡に対する意地悪からでは無いと思う。 さて華奢で軟体動物のようにクネクネした動作の平岡は、当然ジタバタと苦戦していたが、そのうちにヒョイと 勝ってしまった。相手の心臓のところを確かに突いたのである。皆は驚き笑いながら、見物の輪をといた。 彼はその時までに何度か壁にぶつかり、それを切り開いてきた人らしく、困惑しつつも、冷静であったので 勝ったのだろう。 中等科か高等科の英語の授業の時、老教師が「日本には叙事詩は無かった」といった。 平岡は、「平家物語などがあるじゃありませんか」といった。 これは日本の古典に通じぬ英語教師の弱味を突いたらしく、彼は感情的になって平岡を、おさえつけた。 休み時間になり、平岡は憤慨していた。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
155 :
名無しさん@3周年 :2011/01/08(土) 10:20:31 ID:E0qAkyCk
天皇が人間宣言をなさり、背広姿の御写真が新聞に掲載された時、彼は非常な不満、むしろ忿懣を抱いていた。 なぜ衣冠束帯の御写真にしないのかというのである。 又、焼跡だらけのハチ公前の広場を一緒に歩いていた時、彼は天皇制攻撃のジャーナリズムを心底から怒り、 “ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い”と断言した。 そういう彼の言葉には理屈抜きの烈しさがあった。だから、彼は自分が敗戦後、日本の伝統から離れて楽しむうちに、 混乱の方が、いつか多数派になったのに驚いたのではないか。 美酒の瓶が倒れたように、日本の美質がどんどん流失しているのに気付き慄然としたのではないか。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
156 :
名無しさん@3周年 :2011/01/08(土) 15:10:07 ID:b7TTbqjx
三島が人並みはずれた愛国者だとは特に思わないが、時代を見抜く目とアピール上手なところは注目に値する。
157 :
名無しさん@3周年 :2011/01/09(日) 10:28:39 ID:XUVm5R6Q
彼は、敗戦で束縛から解放された時まっしぐらに芸術の世界へ突進した。 …しかしその世界から出てみると、日本はすでに大きく伝統から離れていた。 彼にとり、日本の伝統は荒涼としたものになりかけていた。 彼が自分の好きな国々を思いきり歩いて故郷に戻って来た時、心の拠り処の日本の古典は滅びかけていた。 …彼が戦争直後、学習院を訪ねて校庭を歩いていたら、某教官に呼びとめられ、 「これからは共産主義の勉強をするのも面白かろう」といわれたといって、しきりに憤慨していた。 「何で今頃するのか、戦争中にやるのなら解るが」というのである。この先取りの心、少数派に身をおく 積極さ、これが晩年彼の日本についての心痛を一層深くし、嘆きを重くしたのであろう。 又、この予感、この嘆きこそ芸術家のものであろう。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
158 :
名無しさん@3周年 :2011/01/09(日) 10:29:03 ID:XUVm5R6Q
彼は一時の思いつきで死んだのではない。 おそらく三十年、あるいはそれ以上、死を自分のすぐ背後に感じ続けて生きたと思う。死を背負い続けたと思う。 …彼が死なねばならぬとはっきり考え始めたのはいつか。東大紛争時における日本の文化的指導者(体制側だけ でなく、学生騒動に便乗して売名を図った人々まで含めて)の醜さを痛感したからではないか。 …勿論ずっと以前から、日本の崩れてゆくのを、彼はじっと忍耐しながら見ていたのであろうが、殊にあの 事件の時に絶望的な暗黒をつくづく見たのではないか。 鋭敏な彼は、日本、否日本人の心の荒廃をまざまざと観たのであろう。 この闇に一瞬なりとも光を放ち得るものがあるとすれば、それは自分の命の提供しか無いと観たのであろう。 彼はそれだけ自分の才能が稀有なものであり、又自分がそれを十分に開花させたのを知っていたのであろう。 だから、自分の死の持つ力を考えたのであろう。当面は罵詈雑言が自分の自殺を覆うであろう、しかしなお、 自分の名声と才能を死なすことによる衝撃に、多少の自信はあったろう。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
159 :
名無しさん@3周年 :2011/01/09(日) 10:29:35 ID:XUVm5R6Q
彼は無限の敵、即ち日本文化、いや日本を腐敗させつつあるものへ、自分の命、絶対の価値ある自分の命を投げつけた。 彼は敵に向い最後迄断然逃げなかった。 …彼は自分の愛するもの(これには自分の家族も入る)に、自分の最上のものを捧げたかった。 それは自分の命、これである。 …世人は彼の死を嘲笑した。これは彼の敵の正体を、世人が未だ理解していない時に死んだからか? 多くの人、中には名声にあっては一流人が、まるで見当違いのことをいって、彼の死を手軽に料理している。 しかしいつでも彼の死は早すぎるのだろう。“死”は誰でも逃げたいものだから。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
160 :
名無しさん@3周年 :2011/01/09(日) 10:30:03 ID:XUVm5R6Q
彼は稀なる作家、思想家、そして文化人であった。 自分の思想のために、生涯の頂点で、世人の軽蔑は覚悟の上で死ねる者が何人居るか。 彼と思想を異にするのは全く自由であるが、嘲笑するには先ず自分の考えに殉じて死ねる者でなければなるまい。 なぜなら、彼の死は冷静な死であったから。 …彼は少年時代に戻って死んだ。少年時代、彼は日本文化に殉ずる心で生きて居た。その心で死んだ。 純粋という点では、学習院高等科学生の頃の姿で死んだ。 所詮作家からはみ出した男、言葉で適当に金を儲けることを、出来るがやらぬ男であった。 三谷信「級友 三島由紀夫」より
161 :
星を読め ◆K0cmPDyMeQ :2011/01/09(日) 20:34:00 ID:TljFJWUK
三島さんは凄いよね。 でも政治的な発言に関しては少々妄想に捕らわれていると思うんだよな。 日本人独特の美意識ってのは戦後(敗戦)ではなく、もちろん軍部台頭からではなく明治維新の頃から少しずつ崩壊していったのではないのかなあ。 薩長政治の頃から、な。 「富国強兵」を掲げたころから何かが変わった。 日本人は本来、武士から農民まで「家を護る」ということにのみ精力を注いだ。 その為に、時には兄弟同士の争いを演出してまでな。 これが徐々に壊されていくのが明治維新以降。 「お家のため」がいつの間にか「お国のため」に変えられていった。 その「お国」の中身を深く考えもしないまま、な。 ちなみに明治維新以前の「お国」とは「藩」のことであり「藩のため=お家のため」が直結しやすい環境だったことは言うまでもないでしょう。 では明治維新以降における「お国」とは何なのか? これ薩長を主とする政府であり官僚である。 当たり前だが「官僚のため=お家のため」なんて公式は成立する訳がない。(笑) ここから国民のモラルが崩壊していく。 そのうち古来以来の「天皇(皇室、天子)」という国民に残された標も昭和初期に官僚(軍部も省だったから軍部も含む)に「完全に」呑み込まれていく。 「富国」という題目を唱えて口開けて餌を待っていた国民が悪い訳ではない。そもそも餌なんて貰ってないのだから。 当たり前だがアメリカが悪い訳でもない。 「はいはい」と言うことを聞いていた皇室が悪い訳でもない。
162 :
星を読め ◆K0cmPDyMeQ :2011/01/09(日) 20:54:16 ID:TljFJWUK
※少しだけ続きです 三島は勘違いしていると思う。 いまだ戦争の総括が済んでいない時代、戦争の全貌が見えていない時代だったから仕方ないことだが、な。 昭和初期の官僚が「何を」してきたのか、「何に」執着したのか、どれくらい腐敗してたのかは昭和末期もしくは昭和天皇が崩御した後まで文献が出なかったのだから仕方ないが。 全ての戦争責任を陸軍と天皇に負わせられたのも官僚制度の力による。(海軍はスルーされたんだよ) 昭和天皇は生きることで官僚も受けなければならないはずの戦争責任まで負わせられた。 確かに戦後復興、経済発展は為してきた。 しかし、それは田原総一郎が言うところの「開発独裁」により国民の生命安全を犠牲にして。 詳述は避けるが、これがバブル崩壊後まで続く。 いわゆるグローバルスタンダードを志向し始めるまで。 ちょうど小泉の頃かな。 さて三島だ。 そもそも三島が言うように「戦後」を契機に日本人が変質させられた(!)とするなら、この体制はあと50〜200年は続きます。(笑) 確立された体制と言うのは最低でも三代続くのが普通ですから。(日本の歴史を参照のこと) そんなん嫌です。 絶対に嫌です。 三島が勘違いしていたと思うしかないです。 体制確立を明治維新の頃からとするならバブル崩壊の頃が制度の疲労が現出してくる時期に一致します。
163 :
名無しさん@3周年 :2011/01/09(日) 21:09:16 ID:XUVm5R6Q
>>162 日本がすでに明治から大正、昭和にかけて、あなたの言ってるように、腐敗の芽があったことは三島由紀夫も言ってますよ。
164 :
星を読め ◆K0cmPDyMeQ :2011/01/09(日) 21:10:31 ID:TljFJWUK
※も少し続き(スマン) いまは江戸末期の混乱に似ている状況だと思いますよ。 ちなみに社会変革における第三の波を「情報」だと信じてる人間がいます。(岡田斗志夫を読みましょう。奇書ですが「ぼくたちの情報革命」とか何とか言う本です) まさしく「今」でしょう。 「今」でこそ明治維新以降に失われていった日本人の心、本質を理解出来るはずです。 さて三島です。 勘違いしていたとは言え、浮かれる国民に「日本人とは何か」を問い、「日本人の喪失したもの」さらに「日本人の心を奪った制度」を問うてくれた。 しかも国民が豊かになり享楽的になった時期を見計らったように、ベストなタイミングで。ベストとしか思えない衝撃的なパフォーマンスで。 これが戦後すぐの混乱の最中であれば国民はそれどころではなくスルーしただろう。 三島に感謝である。
165 :
名無しさん@3周年 :2011/01/09(日) 21:21:32 ID:TljFJWUK
>>163 ごめんなさい。
説明不足でした。
三島は「明治維新以降の腐敗の目」を確かに指摘してました。三島は天才ですから。
しかし彼が(読者ではなく)国民相手に表現するときは、やはり「戦後」というキーワードを重視していたと思います。
これは「官僚制度」と結託したメディアしかない時代だったから仕方ないことですがね。
さらに言えば出版(取次)が東京(中央官僚)に摺り寄らなければならなくなってきた時代でしたから仕方ないことですが。
私のレスは、一般国民に与えた三島の語る「戦後」に関するコメントだと思って下さい。
166 :
名無しさん@3周年 :2011/01/09(日) 21:39:03 ID:XUVm5R6Q
>>165 あやまらなくて大丈夫ですよ。あなたの言っていることと三島の考えは似ている感じがしました。
167 :
名無しさん@3周年 :2011/01/09(日) 22:28:15 ID:TljFJWUK
>>166 いえいえ。三島さんの凄みは新時代に突入しないと体感出来ないのかも知れません。
そういえば、それほど熱心な三島の愛読者でない(難しいから)僕と三島に近い部分があるとする一文に、三島の精神はあらゆる部分で受け継がれてるんだと再認識させて貰いました。
僕の論なんて、いろんなところから寄せ集めた受け売りに近いものですから。
ともあれ三島が嫌悪した時代から脱しようとしている今を生きられるのは幸せなことだし、幾ばくかの使命感をも覚えます。
個人的には三島に新たなアイコンが付加される時代を想像するだけでワクワクします。
それは薔薇色の未来ではないでしょうが、いまの時代よりも人間が品性を取り戻した時代になるでしょう。
ま、妄想かも知れませんがワクワクドキドキです。
168 :
名無しさん@3周年 :2011/01/12(水) 13:35:55 ID:sRwdw/61
「日本語の堪能な留学生が入ってくる」というので、室の者全員が待機していると、 「平岡です。よろしくお願いします」といって現れたのが、何と三島氏だった。昭和四十二年四月十九日のことだった。 彼は、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校で、その春防衛大や一般大学を卒業して入校したばかりの候補生を 視察した後、我々が教育を受けている富士学校普通科上級課程に「戦術の勉強をしたい」との目的で途中から 加わってきたのだった。 …誰もが三島氏の研修目的を詮索したり、文学や芸術の話を持ち出したりすることもなく、ひとりの友人として 自然に接したせいか、すぐに打ち解け、室の雰囲気は一段と明るくなり、女性談義に花を咲かせたりした。 私はこの室の室長兼班長だったが、これに加え三島氏の対番学生(学友として寝食を共にしてお世話する係)を 命ぜられた。 菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
169 :
名無しさん@3周年 :2011/01/12(水) 13:36:42 ID:sRwdw/61
教場では平岡学生と私は一番後方の長机に並んで座り、教官から出される問題を一緒に考えた。 …三島氏は問題の意味するところや私が作る案の内容の細部を真剣に聞き、自分でも「連隊長の作戦命令の方針」を 起案して発表したこともあった。彼の案は、自衛隊の専門用語や文書の形式にとらわれていない実に力強い 雅びな表現で、固定観念に固まっている我々には、はっとさせられるものがあり、教室の雰囲気を和らげてくれた。 …夜は室で談笑したり、腹筋運動にエキスパンダーを使用したトレーニングをしたり、ある夜は自演の映画 「憂国」をクラスの全員に見せてくれたり、私といっしょに洗濯をしたりした。当時の洗濯はまだ洗濯板に 固形石鹸の時代だったので、固形石鹸をシャツにつけていた三島氏の子供っぽい仕草が今でも目に見えるようだ。 菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
170 :
名無しさん@3周年 :2011/01/12(水) 13:37:06 ID:sRwdw/61
入校後一週間ぐらい過ぎた日に、私と話がしたいというので、彼が原稿を書いたり、東京から来る客と応対したり するために充てられていた個室で、真剣な話を三時間以上も続けた。 「私は日本男子として国防に参加する名誉ある権利を有する。従って貴方たちは私に教える責任がある」 と彼は切り出し、次々と質問してきた。 その主な質問は、「クーデター」「憲法」「治安出勤」「徴兵制度」「シビリアンコントロール」についてだった。 その真剣さに私は、彼の入隊の本当の目的は、七十年安保に向かって騒然としつつある国内情勢に鑑み、特に 防衛大出身の幹部クラスの考え方や心意気、精密度などを肌で確認することにあったのではなかろうかと思った。 菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
171 :
名無しさん@3周年 :2011/01/12(水) 13:37:27 ID:sRwdw/61
彼はその後、同じ富士学校で教育中の幹部レンジャー課程の学生として自衛隊で最も厳しい訓練を体験し、 爽やかな印象を残して去っていった。 以後、三島氏は「檄」文に表現されたような感激を自衛隊で体験していくことになる。 三島氏は民間防衛を荷う祖国防衛隊を組織する夢を抱き、四十三年春、まず厳選された学生三十名を連れて 富士教導連隊で一ヶ月間の訓練を受けることからはじめた。 自衛隊にとっては三島氏のような知識人に自衛隊を理解してもらうことは歓迎すべきことであり、さらに、将来、 国の広い分野でリーダーとして活躍するであろう大学生の体験入隊は、特に当時の状況から願ってもないことであって、 マスコミによって潰されないように配慮して受け入れたものである。 菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
172 :
名無しさん@3周年 :2011/01/12(水) 13:37:47 ID:sRwdw/61
しかし、全国組織を目指した祖国防衛隊の構想は、政財界の協力が得られずに挫折し、自分の力で世話のできる 少数精鋭の「縦の会」へと展開していく。そして彼は彼なりの情勢分析により、自衛隊が治安出勤する事態が 来ると信じるようになる。「縦の会」は自衛隊の尖兵としてデモ隊に突入し、あるいは皇居に乱入する暴徒に 体当たりで斬り死にするという考えに変わっていったものと思われる。 だが、四十四年の一〇・二一反戦デーの騒乱で、自衛隊の治安出勤は起こりえないと見てとった時、ほんとうの 挫折を味わい、三島氏は自衛隊にとって象徴的な場所で、自衛官たちに心の叫びで訴え、武士の最期を遂げたのだった。 菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
173 :
名無しさん@3周年 :2011/01/12(水) 13:48:47 ID:IBi2JceD
三島は単に美しい死に場所を探していたんだよ。 自分が永遠に美しい存在でいれる死に場所を。 もちろん、愛国者であったことは間違いないが、それよりも上位にあったのはナルシシズムだ。 目論見は半ば成功し半ば失敗。
174 :
名無しさん@3周年 :2011/01/12(水) 14:04:33 ID:nKvPhSJS
愛国者としての三島は評価しないが、 ナルシストとしては賞賛に値する。
175 :
名無しさん@3周年 :2011/01/12(水) 14:07:54 ID:sRwdw/61
176 :
名無しさん@3周年 :2011/01/12(水) 14:12:24 ID:sRwdw/61
「最初はご自宅に伺ったんです。『論争ジャーナル』発刊の主旨、論調は当時反主流でした。先生(三島由紀夫)は、 その当時から一つの輝く北斗の星でしたよ。思想的な評論など出していましたからね。例えば、『対話・日本人論』とか、 思想的な評論関係の著作を出していましたから。文学者としてではなく、思想家として見ていましたよ。 小説家三島由紀夫と我々は見てなかったですよ。おそらく誰も。 (中略) あの頃は、慶応で最初の学園紛争がありまして、それから早稲田、日大、明治、東大ってどんどん広がって いったわけです。当時の思想風景というのは、左翼でなければ人にあらずという……。想像できないでしょうが、 そうだったんです。で、やっぱり、そのうちとんでもないことが起きる、と。今見れば漫画みたいになっちゃう かもしれないけど、革命というのを、我々は真剣に危機的に感じていました。そういう時代風潮を押さえて見ないと、 あの頃の行動というのはわからないんですよ。今の、この社会状況から見てたんじゃ」 持丸博(元楯の会初代学生長) 鈴木亜繪美「火群のゆくへ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
177 :
名無しさん@3周年 :2011/01/13(木) 12:01:12 ID:YJ0cz/AL
「あの頃は、全共闘全盛の時代だった。俺は九州生まれで、全共闘の考え方に馴染めなかった。ああ、俺の考えは 世の中に合わないのかな、と思ったよ。 (中略) 学校へ行ってもどうも自分と考えてることが違うなという連中が、我が物顔で歩いている。肉体的には負けないけど、 論争して負けたくないから理論武装したいと思った。 先生の人柄とかに興味津々だったから、たぶん、先生が辟易するくらい質問したよ。根ほり葉ほり訊いたね。 先生は、目が非常に純粋で、僕らのようなひよっこにも丁寧な言葉を使ったし、時間を守る、威張らないし、 そういうことからも魅力を感じた。文豪なんていうそぶりは全然見せなかった。礼儀正しさとか非常に親切心が あるとか、何回かのお付き合いの中で敬意を持つようになった」 仲山徳隆(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
178 :
名無しさん@3周年 :2011/01/13(木) 12:01:51 ID:YJ0cz/AL
「当時、新左翼の運動が広まっていて危機感があった。(中略) 三島先生は、『君が田村君か、さあ座りなさい』とおっしゃり、これが最初の言葉だった。じっと見られた大きな目が キラキラ輝いていて、印象に強く残った。実にあっけない最初だった。 (中略) 体験入隊終了直前、緊張の連続と疲労の極みで胃液を吐きダウンしてしまった。薬を飲まされ、隊舎のベッドで 横になっていると、三島先生がいらしたんです。ベッド脇に座られて『大丈夫か』と声を掛けてくださった。 『幾つになった』と訊かれ、『十八です』と答えると、『そうか、俺は君の親の世代なんだなあ。無理するなよ、 行けるか?』と。先生のあの声は忘れられないですよ」 田村司(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
179 :
名無しさん@3周年 :2011/01/13(木) 12:02:11 ID:YJ0cz/AL
「とにかく入学した前後って、大学紛争が一番大変だった時、最初に入試を受けた時はバリケードがあって 機動隊が出てましたよ。早稲田の文学部は革マル派の本拠地だった。圧倒的に、革命論争だとか新左翼系の話が 主流でした。でも、いわゆる左翼系の議論には違和感があった。どうもちょっとおかしいと。それでいろんなものを 読んでる中で、一番明解に論を展開していたのが三島先生だった。そういう意味じゃ、『論争ジャーナル』に 出て来て論陣を張ったというのは画期的だった。 自衛隊に行こうと思ったのは、当時はマイナーな存在で、どちらかというとマイナスの評価だった。それと規律で 全部縛られている所では自分がないと言われていましたから、本当に徹底してがんじがらめの規制の中で人間が どうであるか、自由でありうるか、それを一回やってみたいと思ったんです」 佐原文東(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
ネトウヨは三島のような人間と正反対の人種
181 :
名無しさん@3周年 :2011/01/15(土) 11:54:33 ID:alz2xBlz
「三島先生の『楯の会』は、思想的に自由な所だったというのが大きかったと思います。思想的束縛がありません でした。会自体すごく幅広い人が入って来ていました。僕なんか、従来型の右翼系の人とは随分違ったと思います。 僕は、三島先生といろいろ話していて、今まで会ってきた人の中であれ程頭のいい人はいなかったですね。 非常に明晰で、クリア。透明なんですよ、透明。なんていうかクリスタルガラスのような、水晶のような、 そんな印象でした。 森田さんは、ともかく明るい人でした。話していて非常に気分のいい人。裏表がない人。そういう意味で 翳のない人だよね。生き方にも翳がないし」 佐原文東(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
182 :
名無しさん@3周年 :2011/01/15(土) 16:06:44 ID:IGAwUijE
>173続き 三島について回るある種の胡散臭さ、軽薄な感じは、何も彼が同性愛だったからではなく、愛国心だけとはいえない、自決の動機の不純さに由来してると思うな。
183 :
名無しさん@3周年 :2011/01/15(土) 16:17:28 ID:JWLmSTa5
芸術・美学のために命を捨てる人間がいる。 というのを、ドイツのテレビで見たことがあるが、 三島もこういう人間じゃないかと思う。
184 :
名無しさん@3周年 :2011/01/15(土) 16:22:28 ID:alz2xBlz
都政を私物化、税金無駄遣い、息子の選挙第一、家族第一の、口だけ威張ってる不純な政治屋石原慎太郎よりは、 何百万倍も三島の日本への思いの方が純粋です。
185 :
名無しさん@3周年 :2011/01/15(土) 16:27:06 ID:alz2xBlz
>>183 三島の芸術・美学は日本の古典と伝統と関連してるから、別のものじゃないし。
186 :
名無しさん@3周年 :2011/01/15(土) 16:31:29 ID:JWLmSTa5
太宰治に負けたくなかった? 川端・三島は太宰治が大嫌い、はっきりと本人に告げた。 だが、死せる太宰の作品が自分たちより人気がある。 二人とも対抗して自殺したかな。
187 :
名無しさん@3周年 :2011/01/15(土) 16:43:17 ID:alz2xBlz
>>186 三島は太宰治を天才だと評価してますよ。
表では嫌いだと公言してたようですが、あんたが思い込んでるような対立はないし。
ホモ・体育会系・女性恐怖・2ちゃんねる これらに接点がある
189 :
名無しさん@3周年 :2011/01/16(日) 00:11:47 ID:19k8WZGF
>>185 三島の美学は、日本の古典の影響もあるが、
何よりも、ギリシャ文学の影響が強い。
というか、表面的だが。
三島は、ギリシャ文学のナルシシズムを学び、
のめりこんだ。
女性と間違えられるほどの美少年だった若き三島。
それはそれで自らのナルシシズムを満足させたが、
後年、ホモに目覚め、そういう女々しい自分に嫌気が差し、
男らしい肉体を求め、ボディービルに励むようになった。
それと相前後して、華族出身で、その精神構造を持った自分にも嫌気が差し、
貴族とは反対の武士に傾倒していった。
本来、武士とは、三島が持つナルシシズムとは別の精神構造を持つものである。
ナルシシズムとは芸能人そのものの感覚だが、三島はそれに気づかず、
最後は、観客が見守るなか、立派な“舞台”で華々しく好演し果てた。
美しいナルシシズムだった。
いくらネトウヨが嫌いだからって、亡くなった方に鞭を打つのはよくないよ。 それでは空気も読まず人の死を天罰とか言う彼等と同じだ。
191 :
名無しさん@3周年 :2011/01/16(日) 00:15:44 ID:19k8WZGF
>>189 接点というより、三島は、ネトウヨが持っていないものを持つ憧れそのもの。
三島と同化することにより、三島と同じ能力・容姿を得たことを夢想する。
そして、その興奮で射精することもあるだろう。
ネトウヨは弱い、魅力がない。
だからこそ、国家・民族という強いものと右翼的に同化し、
セクシーな三島と合体するのだ。
192 :
名無しさん@3周年 :2011/01/16(日) 00:17:27 ID:19k8WZGF
>>190 三島に鞭打っているという言い方自体、三島への偏見。
彼のナルシシズム的な魅力はホモを抜きにしては語れない。
ホモ嫌いなら、三島先生に近づくな。
193 :
名無しさん@3周年 :2011/01/16(日) 00:20:06 ID:19k8WZGF
でも、大体、このスレタイ、三島先生を侮辱している。 まあ、間違いではないけど、ネトウヨと同一視しているニュアンスも感じられる。 あくまでも、ネトウヨが自分に無いものを持っておられる三島先生にあこがれているだけで、 先生とネトウヨは全く違う世界にいる。
195 :
名無しさん@3周年 :2011/01/16(日) 00:22:03 ID:19k8WZGF
ホモという偏見に晒される危険を冒しながら、 自分に忠実だった先生は尊敬されるべきだ。
196 :
名無しさん@3周年 :2011/01/16(日) 00:25:45 ID:19k8WZGF
三島先生の作品は、政治を離れて、純粋にその芸術性を楽しもう。 右翼的という部分も、だれでも、本能は右翼。 右翼は、他者を大切にしようという発想で、 自分に余裕がある状況でないと無理だし、 自分を抑え付けている部分がある。 それはそれでいいんだけど・・・・・・ でも、芸術は本能に結びついているからこそ、 美しい。 三島先生の本能の美しさを味わおう。
197 :
nl :2011/01/16(日) 00:32:05 ID:afL/PJI9
bungakusya syoosetu-ka ga takaku hyooka sarete ir. koko ni nihon no seizi teki koosinsei wo mono gatatte ir. Sugureta sakka dewa kono yo no seizi wa sukosi mo yokunar-anai noga genzyoo da.@@@
198 :
名無しさん@3周年 :2011/01/16(日) 00:33:02 ID:VjtfhSa1
いくら非武装、戦争放棄、平和主義ときれいなことをいっても それを現実化しているのは米軍なのであって、米軍によって支え られた平和主義という欺瞞が戦後日本の姿だ。 つまり憲法九条と日米安保はワンセットになっている。
>>191 私はネットウヨクの一人です。
一応、レス入れておきます。
三島由紀夫氏に対する知識は学校の授業で習った程度です。
なので
>三島は、ネトウヨが持っていないものを持つ憧れそのもの。
三島氏が何を持ってるか知りません。
>ネトウヨは弱い、魅力がない。
ネットウヨクとは要は普段は普通の学生やサラリーマンで政治や思想の話を一切せず
ネット上だけで保守的傾向の強い討論を行う者と考えるべきでしょう。ネットウヨク
の考える魅力や強さの対象は小説家ではありません。
成功した実業家やトップセールスマンなどではないかと。
別に思想にドップリと浸かって生きているわけではなく、要はもっと世俗的ですからな。
200 :
名無しさん@3周年 :2011/01/16(日) 00:47:14 ID:4moxL3md
>>189 半可通の上っ面な感想お疲れさまでした。
ギリシャ文学じゃなくてギリシャ神話。それからギリシャ神話やローマの美意識と、日本古来の美意識は共通してます。
それに三島がホモ傾向だったのは学習院のときで、別に中年から目覚めたわけじゃないし。
ナルシシズムと武士道も無縁じゃないしね。そもそもナルシシズムのない英雄はいませんから。
201 :
nl :2011/01/16(日) 00:48:08 ID:afL/PJI9
ara soo. Kono sekininwa maeno dai Nippon Teikoku no nokosita kekka de atte, are kara 66 nen tatu ga toobun henka wa nozom-enai. Make-ikusa wa suru mono dewa nai. Hukusui bon ni kaerazu. Sekai rekisi de itido makeru to hotondo tati-naoreta kuni wa nai .
202 :
名無しさん@3周年 :2011/01/16(日) 00:55:38 ID:wtAwGQgV
個性の無い子供たちが、個性の塊の三島由紀夫を批判して個性を求める。 電気羊の夢は見れたか?
203 :
名無しさん@3周年 :2011/01/17(月) 01:49:27 ID:IjCHldfW
「三島先生は先駆的な考えをお持ちで、当時、『論争ジャーナル』という雑誌で民兵構想というのを出されて いました。こういうのは、これから面白いなと思った。つまり自衛隊だけではなくて、民間人が防衛組織の一翼を 担うという構想を出されていた。アメリカでもヨーロッパでもそういう民兵というのはあるわけで、日本だけが そのような民兵組織がなかった。自衛隊自体が、むしろほとんど否定されていたような世の中だったから、 ああいう考え方は非常に新鮮でした。 今でもよく覚えているのは、訓練の時に小銃を持って走るわけですよ。あの時、三島先生は『銃の重さを知ることが 非常に大切なことなんだよ』と語っておられた。よく記憶しています。国を守るということは、銃の重さを身体で 感じることなんだと、理屈ではないんだと。全くその通りだなと思いました。ほとんどの話は忘れてしまったけれど、 これはよく記憶していますね、銃の重さのことは」 イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
204 :
名無しさん@3周年 :2011/01/17(月) 01:49:55 ID:IjCHldfW
「高校一年の時に、文化大革命が起きて、新聞は『文化大革命』礼賛一色ですよ。『毛沢東万歳!』ってすごかった。 ものすごい理想国家のように持ち上げていた。ところが、新聞にちっちゃく記事があって、大陸から香港に逃げて フカに食われて死んじゃう人が何百人もいるのを目撃したって。そんな素晴らしい国ならなんで亡命して逃げて 来るんだ。変じゃないかって、子供心に思っていたわけです。 (中略) 右でも左でもなかった。ところが、昭和四十五年一月頃、早大キャンパスに確か『三島由紀夫と自衛隊に 体験入隊しよう』というタテ看板を見て、俺が求めていたものはこれだと、決心。楯の会という意識はなかった。 自衛隊に行くことが主で入会はついでだった。」 村田春樹(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
205 :
名無しさん@3周年 :2011/01/17(月) 01:50:23 ID:IjCHldfW
「そのあと、サロン・ド・クレールで三島先生に会いました。非常にさっぱりした感じだった。どんな本を 読んでいるかと訊かれて、大江健三郎と。その時、先生は大江健三郎の絶版になった本の話をしたんだよ。 『政治少年死す』ていうやつを。読んでないから答えられなかったんだよね。 先生は、なんでこんなヤツが来たんだみたいな顔して、森田さんの方を見た。森田さんは『いやいや、なかなか 元気がいいですから』と言ってくれました。森田さんの一言で、私は救われたようなもんです。そうでなければ、 こんな軟弱な学生が入れるわけないじゃないですか。森田さんて人は、知れば知る程素晴らしい人でしたね。 快活という言葉、一言。」 村田春樹(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
206 :
名無しさん@3周年 :2011/01/17(月) 20:13:37 ID:IjCHldfW
「三島由紀夫先生と楯の会のことは、田舎にいる時は全然知らなかった。興味もなかったし。父親が靖国会を やっていて、その関係で森田必勝さんに会ったんです。 確か、森田さんが橘孝三郎(祖父)のことを知って、靖国会の事務所を訪ねて来たんです。その後、私も 紹介されました。親父は森田さんのことをこう言ってました。 『森田必勝という、なかなかいい男が俺を訪ねて来たぞ。凄く気骨のある人間だ。凄くいい青年だぞ』って。 くりくりっとした坊主頭の人で、本当にね、少年みたいにね、本当に裏のない人でした。森田さんは兄と同じ 二十年生まれ、ずっと兄のように思っていました。 (中略) 西新宿のルノアールで、三島先生にお会いしました。ほとんど何も言えなかったけどね。『橘先生、お元気ですか?』と、 祖父の橘孝三郎のことを訊かれたことを覚えています」 塙徹二(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
207 :
名無しさん@3周年 :2011/01/17(月) 20:14:03 ID:IjCHldfW
「森田とは同じ年だった。ある時、先生が俺をからかって、『森田には命預けますっていう学生がいっぱい いるんだよ』と言ったんだ。そうしたら、森田は顔を真っ赤にして、『いやあ、僕の命は先生に』って言った。 僕は自分の日記に書いても先生に直接そんなふうに言ったことないよ。 (中略) 自分ではちゃんとしていたつもりだったけど、先生に怒られたことがある。『お前ら女みたいだな。ころころ 変わって』って。 俺たち、時間前から行ってバリバリやる気でいるかと思ったら、だらだら遅刻したり、自分では変わってないつもりが、 変わっていたんだ」 川戸志津夫(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
208 :
名無しさん@3周年 :2011/01/17(月) 20:14:55 ID:IjCHldfW
「私は、正式な会員じゃないんです。もともと大学が早稲田だったから、楯の会のことはよく知っていたんですよ。 でも、その当時は入ろうという意識はなかったですね。(中略) 国学院の友人に、三島先生に心酔しているものがいて、仲間と一緒に先生に会いに行くことになったんです。 それにも、たまたま行かなかった。友人は、念願の先生にお会いして、頭の中が真っ白になって『先生は、 いつ死ぬんですか?』と訊いたそうですよ。 先生は、『わっはっはっ』と大笑いされて、『まあ、お茶でも飲め』と、紅茶をご馳走になった。何も聞け なかったけど、気さくな人だったと。夏の暑い日だった。社交辞令だろうけど、募集してるから、また来い、 ともおっしゃってくれたそうです」 須賀清(元楯の会幻の六期生) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
209 :
名無しさん@3周年 :2011/01/17(月) 20:15:19 ID:IjCHldfW
「森田必勝とは同じ二十五歳だった。当時、森田たち十二社のメンバーはすぐにテロだとか言っていた。 できるわけねえじゃないかこいつら、と思っていた。でも、事件が終わってから、森田の見方が変わった。 あの男に対する見方は変わったよ。先生に対しては変わらない。もともと凄いなと思っていたからね。 (中略) 何かの折に触れ思い出すと、『あいつは凄かったな』と思う。要するに、腹を切る切らないの前に、あの状況に 立てるかどうか考えた。それから介錯して、短刀を取って……。あの状況に立った古賀、小賀、小川、森田は 凄いと思う。 三期で一緒だった牧野隆彦が、先生が亡くなった四十五歳を越えた時、『先生に、すまない』と言った。そして、 翌年四十六歳、くも膜下出血で死んでしまった。その時は、ショックだったね」 川戸志津夫(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
210 :
名無しさん@3周年 :2011/01/18(火) 20:06:35 ID:e+mjrcem
「たぶん、先生は最初一人で死ぬつもりだった。森田さんも死ぬ覚悟を決めていたんですよ。『森田の精神を 恢弘せよ』とは、その森田さんの純粋な行為、行動、信条を後の人に伝えろというのがあるのだと思います」 佐原文東(元楯の会会員) 「三島先生という存在自体は亡くなられても、文学者としての三島由紀夫、社会的な立場にある人としての 三島由紀夫は残ると思います。しかし、森田についてはおそらく何も残らない。森田について言いたいことは 政治的な森田。日本には『自決』という政治的表現があるんです。諭したい相手がダメだと思ったら、自らの命を 捧げて訴えるという政治的な表現法です。行動主義の森田だったから、西洋的にしゃべり尽して相手に伝える事を せず、『自決』という行動で、『日本の真の姿を見よ』と訴えたかったんだろうと思います」 伊藤好雄(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
211 :
名無しさん@3周年 :2011/01/18(火) 20:07:28 ID:e+mjrcem
「先生はもうそれなりに著名で確立されている方です。でも、森田さんは無名でした。三島先生は、ものすごく 森田さんの身の上を案じ、今後、森田さんの精神がそのまま埋もれてしまうことに対して危機感があったんだと 思います。(中略) 僕の進んできた道を――商社に入ってずっと普通に生活してきたことを、申し訳ないという気持ちがあります。(中略) 僕は、大学で中国語を学び、中国という共産主義の国が隣にあって、日本がどう思われているのか、最近の反日の 運動を見るにつけ、その前から中国はずっと日本に対して辛く当たっていることを経験してきました。みなさんは 日本の中で日本を見てきたと思うけれど、僕は中国というフィルターを通して日本を見てきたんです。 預言者としての三島由紀夫というのは、ものすごく的確だと思います。今の日本の政治はぶれている。外交上、 中国にしてやられています。そういういたたまれない状況にあるだけに、非常に的確に予言していたな、と思います。 それだけに、三島先生や森田さんのやった行動が余計光ってくると思います。一条の光というか、僕は、やがて もっともっと輝いてくると思います」 古屋明(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
212 :
名無しさん@3周年 :2011/01/18(火) 20:08:14 ID:e+mjrcem
「フルコガ君(古賀浩靖)とは事件後、品川だったか、電車の中で偶然会ったことがあります。その時、彼は 『すみませんでした』と言ったので、僕は『そんなことないよ。君がそんなことを思うことはサラサラないね』と 答えた記憶があります。(中略) 先生は、残すべき人間は残したんだと思いますよ。おそらく。だから、残った人間は、重い荷物を背負って いるんですよ。 私以外に、楯の会の会員で二人、自衛隊で定年を迎えた人がいます。彼らと違うのは、私は事件が起きる前に 自衛隊に入隊していたことです。二人は事件が起きたあとに入ったから。まあ、どちらが大変という比較は 難しいですが、それぞれ大変だったと思いますね。ずっとマークもされてましたから。多分、三人とも定年まで マークされていたと思います。(中略) 事件当日に市ヶ谷で斬られた人と会ったこともあります。腕を斬られて、背中を何針か縫った人を知っています。 でも、三島先生のことを悪く言う人はいません。先生の心情はわかるということを、随分言われました」 イニシャルK、元明治大学生(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
213 :
名無しさん@3周年 :2011/01/21(金) 12:23:33 ID:KI5Du3Xl
「僕が、どうしてしゃべる気になったかというと、結局、あの事件は、『三島由紀夫』だけが前面に出ているから。 だから、世間の評価というのは、いわゆる作家が起こした結末だというのがほとんどでしょ。もし、三島先生一人 だけだったら、僕はそれは認めるわ。だけど、森田さんが一緒だった。まるで森田さんなんて、さしみの ツマみたいなもんや。だから、僕はそれが我慢できへんかった。ずっと、今でも、そう思う。 三島先生は、もの凄い追い詰められたと思うの、森田さんに。本当に。もし森田さんがいなかったら、三島先生、 絶対せえへんよ。ああいうことは。思い切れなかったと思う。違った形でしたかもしれへんけど。自分で腹切って 死ぬことはあったかわからへんけどね。ああいうことはしなかったと思う。うん、すべて森田さんの影響よ、あれは。 森田さんの言動でもわかっていたし」 野田隆史(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
214 :
名無しさん@3周年 :2011/01/21(金) 12:23:58 ID:KI5Du3Xl
「(中略)森田さんは『自分でテロするなら、必ず自分の命を絶たなきゃいけない。生き残ったらいけないんだぞ。 そんなヤツいるか? 今の日本で、自分の命を賭けてもいい奴がいるか?』そう言った。森田さんは、その時、 もう覚悟できてたし、三島先生について行ったらいいと、自分の命を捨てる覚悟だったんやろうね。 三島先生は、すべて規定済みやった。たぶん野次で、自分の声がかき消されるのもわかってた。それを上回るような マイク使ったら、値打ちもない。演説と違うんだから。やっぱし、最後は肉声よ。 明治維新から百年たって、高杉晋作や坂本竜馬がどうだったか、今では我々もわかる。五十年、百年たって、 わかる人がわかればいいのよ。 当時、二十歳前後だった我々は、他のみんながこれからどうして生きようという学生時代に、どうして死のうか 考えてた。それだけの覚悟をしてしまった。それは、森田さんも、我々も一緒だった」 野田隆史(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
215 :
名無しさん@3周年 :2011/01/21(金) 12:24:17 ID:KI5Du3Xl
「森田さんは、非常に純粋な方でした。だから、すべてを賭けておられたんでしょう。それは、言葉の片言隻句に 森田さんの純粋な気持を私なりに感じました。楯の会に対して、大切にしようという思いをつくづく感じました。 森田さんは、三島先生だけを行かすわけにはいかない、という学生長としての立場もあって、十分考えられたんじゃ ないですかね。 すべてを森田さんが引き受けてしまったのだという思いはずっとしています。非常に、それは、辛い……。 若い、純粋な人が……。(中略) 今の日本には、遺憾極まりない気持です。靖国神社にしても、日中問題にしても、全部本質的なことを飛ばして、 表面的なことだけでやり過ごしている。そういうことを、森田さんは我慢ならなかったんだと思います。私は 今でもそうだから、二十代の純粋な考え方だったら、本当に我慢できなかったと思いますよ。 私は、今、学生にも言うんです。『こんないい加減な世の中に対して、君たちはなぜ憤りを持たないのか?』と。 イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
216 :
名無しさん@3周年 :2011/01/21(金) 12:24:43 ID:KI5Du3Xl
楯の会にいたことを、特に学生には言っていません。三島由紀夫の本を読んだ学生はあまりいません。読めない でしょう。あらゆる面で学力低下がひどいから、日本語がどんどんおかしくなっています。 僕らは、あの当時、それなりに自分の国のあり方を真剣に考えていました。右であろうが左であろうが。やっぱり もっと国に対して真剣だった。今は、みんな本当にそういうものがまったく感じられない。(中略) 平和というのは、戦わないこと。今の日本では、それが平和だと言われています。不戦の誓いだとか。 本当にそうなのかなと思います。むしろ逆ですよ。平和というのは、自国の防衛をきちっとやって相手から 侮られないというのが平和であって、戦わないというのが平和ではないんです。それは奴隷の平和です。攻めて くればやるぞ、という覚悟があって初めて平和というものは維持されるわけですから。 森田さんの志を恢弘せよというのは、やっぱりそれぞれ自分たちの現在の場所においてその当時の気持を実現せよ、 という意味で私は理解しています」 イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
>>202 あれれ、お前ら右翼って「個性」はニッキョーソキョーイクだから
嫌いなんじゃなかったんだっけ?
>>191 いい得て妙だな。
ただ三島はまさにそういうネット右翼の心性そのものを体現していた
人物だったのではないか?
初代ネトウヨといってもいい。その脆弱な心身が。
219 :
名無しさん@3周年 :2011/01/21(金) 20:05:00 ID:KI5Du3Xl
三島は自身の弱さも強さもすべて晒して見つめて、自身を分析して行動できた人。 脆弱なのはこんなとこで三島の悪口言ってるバカの方だよ。
220 :
名無しさん@3周年 :2011/01/24(月) 20:47:28 ID:bRlllnED
「三島先生と一緒に行動を起こし、残った三人のうちの二人古賀浩靖と小賀正義は、自分が楯の会に誘ったんです。 警察に留置されている二人のことをずっと考えました。(中略) フルコガ(古賀)とチビコガ(小賀)が出てくるまでは、東京にいるのが義務だと思いました。 彼らが出てきたので、その年の秋、秋田に帰ることになりました。お金がなかったので、トラックをレンタルして、 運転手を古賀と友人が手伝ってくれました。一日かかって秋田に着き、夜に三人で酒を飲みました。その時、 古賀に訊いたんです。 『古賀(ヒロヤン)、ひとつだけ訊きたいことがある、いいか?』 『何だ?』 『十一月二十五日、あすこの現場を出る時、投降して捕まって出る時、どういう気持だったんだ?』 今考えると、バカな質問をしてしまった。自分でさえ頭がまっ白になったのに、彼らがその時のことを言葉に 表現できるはずかない……。気付かなかった」 伊藤邦典(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
221 :
名無しさん@3周年 :2011/01/24(月) 20:48:07 ID:bRlllnED
「なかなか答えてくれないから、『あの事件は、何があなたに残ったんだ?』と訊いた。 すると、古賀は、カウンターの上で、ゆっくり右の手のひらをただ上に向け、何かを持つようにした。古賀は その手をじっと見つめたまま、一言もなかった……。 それが何を意味しているのか理解したのは、一ヶ月か二ヶ月たってからだった。もう声も出なかった。それは、 三島先生と森田さんの、首の重さ……。それを知った時、ふーっと血の気の引くような衝撃に襲われた。あの人が 首を落とし、安置した。古賀だけが首の重さを知っている……。 彼らに事件のことを訊いたのはそれだけ。あとはもう訊けない。今でも時々会うが、一切そういう話はしない。 失礼に当たると思っています。(中略) あの行動を凌駕する言葉とか文章、表現はない。それを残された会員みんな、漠然と確実に持ってしまっているんです」 伊藤邦典(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
222 :
名無しさん@3周年 :2011/01/26(水) 15:46:53 ID:ahQMH7mN
「拘置所にいる時、記録として残しておこうと思った。日記のような形にしようと思って、それを看守に言ったら、 あかんと言われた。ノートは手に入ったので、洗面所にあった釘で書いた。結局、検閲で見つかって没収されて しまった。(中略) 三島先生は、日本は文化概念として天皇陛下がいらっしゃると言われてきた。『我々の一番の根幹は、天皇を 守るか守らないか。これから稲を植えて収穫するのは、天皇家しかやらないんじゃないか、そういう未来が来るよ、 工業化のあげくに……』先生はずっとそう言っていた。 森田さんに対して……忸怩たるものがある……何もできていない……。しかし、僕をはじめ、みんなも表に 出なくていいと思う。本来埋もれていくべきだと思う」 小賀正義、三島由紀夫と共に決起(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
223 :
名無しさん@3周年 :2011/01/26(水) 15:47:12 ID:ahQMH7mN
「森田さんのことを語り合うのは価値があるが、自分たちのことを話すのは間違っていると思う。先生は 偉大な人だから、それは置いて、我々は埋もれていげばいい。埋もれなければならない。活動したことは 価値あることで、先生が『楯の会』という、今までにない団体で行動したのは、時代に夢があったからだと思う。 今後とも出て来ないだろうし、価値があった。でも、我々が、楯の会の会員だったということを口にするのは、 違うと思う。 森田さん自身、そんなに言ってほしくないと思っているのではないか……。僕は黙って死んで行く……という人だから。 (中略) 『森田の精神を後世に恢弘せよ』とは、三島先生と森田さんの、感性を持てということだと思う。先生があそこまで できたのだから、僕もできるだろうと。それがずっとある……。自分はそれだけのことをやっている自信はある」 小賀正義、三島由紀夫と共に決起(元楯の会会員) 鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
224 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 10:16:42 ID:+mRFX9ak
三島は殺傷の目的でやったとは思わぬ。これは覚悟の事件でおそらく自分の考えていることを完結させる必要上、 三島から言わせれば義挙の正当防衛として妨害を排除したのであろうと私は想像する。彼は非常な愛国者であって、 日本文学の声価を国際的にも高めているし、ともかく非常に天才的な作家であるということを考えて、三島君のものは 出来るだけ読むようにしている。私が三回会ったときの印象では文武両道の達人だという印象をもったが、特に 愛情の厚い人だということを非常に感じた。 中曽根康弘 三島裁判の証言より
225 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 10:16:56 ID:+mRFX9ak
実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言も しなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず 自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。 誤解のため鳴りつづけの電話その他で、随分ひどい目に会った。 三島君が死を賭してもやらなければならんという問題については、私自身もかなり政治家としてショックを受け、 率直に申してその晩は実は一睡もしなかった状態であった。(中略) もし実際に運動を起して蠢動するような部隊が出てきたら大変なことになると思い、断固としてあえて強い 語調の言明をしたというのが私の心境だ。 中曽根康弘 三島裁判の証言より
226 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 10:17:20 ID:+mRFX9ak
訴えんとするところは理解できるが、その行動は容認できない。三島君らの死の行為の重みに対しては、我々が言葉で とやかくいってもとても相対しうるものではないと私は思う。やはり死ということは非常に深刻厳粛なることと思う。 これに対し口舌を尽すことは好まない。しかし他面死を以て行なった行為に対して、彼はなにかを我々に 言わせようと思って死んだのかもしれない。それを黙っているということは、死という重い行為に相対するに 適当なりやという煩悶も実はあるわけで、あれこれ私は熟慮の末、この法廷に出てきたのだ。 死は精神の最終証明である。たましいの最終証明は死である。精神というものは死ぬまで叫びつづけて いなければならない。たとえ少数であろうとも。むなしいことかも知れないが、すぐはききめがないにしても、 歴史の過程において聞いてくれる人は出るだろう――そういう期待でやったのではないかと私は把握した。 中曽根康弘 三島裁判の証言より
227 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 10:17:43 ID:+mRFX9ak
三島事件とは美学的な事件、芸術上の事件ではなく、一個の思想上の事件であって、日本の思想史の上からみても あとをひく問題になる。我々はやはり正直にそれを受けとめて、おのおのこの問題を自分で精神的に解決して いかなければならない問題である。やった人間個人をにくむ気持はない。三青年(楯の会の)も別に情状酌量や 刑期の短縮を考えている人間ではないだろうと思う。私も情状酌量してくれとかなんとかいうことは申しません。 ただ彼らがなんでやったかということだけは十分に調べて正確に判断し、後世に示していただきたい。 檄の内容については、彼自身の祖国愛、一種の理想主義というか不易な精神、歴史的理想主義をここで鮮明にして 世を覚醒しようとした気持はわかる。我々も、これを十分にかみしめ消化すべきで、我々はこのことを回避したり ごまかしたりしてはいけない。三島君は吉田松陰の 『かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』、そういう気持でやったのだと思う。 私は彼と考えは違うけれどもその行動自体を憎む気持よりも、むしろいたわりたい気持だ。 中曽根康弘 三島裁判の証言より
228 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 18:56:53 ID:HdRXzP1O
崇拝してないよ。かまほりたいだけ。やらないか? ちなみにホモは圧倒的に自民党が多いらしい。 昔は左翼が多かったんだけどな・・・
229 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 19:01:09 ID:qPiOK/Vg
三島が自宅をビクトリア調に立て直したというのは どういうことなんだ。 三島の思想と矛盾しないか。
230 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 19:25:45 ID:+mRFX9ak
>>229 三島邸は南欧風、スペイン風やギリシャ風ですから、三島の思想や美学と矛盾してませんよ。
231 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 19:37:32 ID:qPiOK/Vg
アメリカナイズされた若者を否定する一方、 アメリカの成金の家をマネするのは、納得がいかない。 ビクトリア調コロニアル風というのは、要するに イギリス移民の成金の家ということでしょう。
232 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 22:26:24 ID:p2kLyMCy
お前ら、まず吉村昭の『蚤と爆弾』に対して反論してみろよ
233 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 23:23:00 ID:+mRFX9ak
>>231 別に三島はアメリカ文化を全否定してませんよ。ニューヨークもディズニーも好きだと言ってますからね。
それから、ビクトリア調コロニアル風はアメリカ文化じゃないよ。
234 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 23:30:26 ID:qPiOK/Vg
>>233 コロニアルは植民地風という意味だ。
アメリカで成功したイギリス移民が、祖国の領主の館にならってつくったのがそれだよ。
さすがに石造りは無理だから、木造になってる。
三島はアメリカで見た家を参考にしたんだろ。
235 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 23:41:51 ID:qPiOK/Vg
>>233 三島はアメリカ文化の否定じゃなく、安易にアメリカ文化に浸る若者の行為を
否定してるわけで、論点がずれてるよ。
三島の場合、自分だけは安易じゃないということなのかw
236 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 23:44:51 ID:+mRFX9ak
>>234 だからアメリカ文化じゃないでしょうよ、もともとは。バカじゃないの、あんたは。
三島はスペインやフランス、イタリア、ギリシャに行って見てんだよ。
237 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 23:47:45 ID:qPiOK/Vg
>>236 南欧にコロニアルなんてないよ。
アメリカの家を見て、田舎ものの自分には、良いものに見えたと
本人がおっしゃってる。
238 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 23:55:38 ID:+mRFX9ak
>>235 三島は別にアメリカ文化に浸る若者を全否定してないし。洋楽聴こうが、ハンバーガー食べようが、そんなことは非難するような偏屈バカじゃないし。
あんたは何か勘違いしてんじゃないの?
239 :
名無しさん@3周年 :2011/01/29(土) 23:57:36 ID:+mRFX9ak
>>237 だからもともとはヨーロッパ文化でしょう。
240 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 00:06:30 ID:BcvFXqlx
>>239 それをいったら日本文化などは存在しないことになる。
>>238 を早くいうべきですね。
できれば、もっとわかりやすく。
241 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 00:15:44 ID:7wefeS4M
>>240 じゃあアメリカ文化も存在しないことになるでしょう。
知りたけりゃ、自分自身で三島の著書を読んで調べてください。
242 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 00:22:43 ID:BcvFXqlx
自国の文化を否定してまで、自説を通すのかw 三島は若者批判の小説なんぞ書かないでしょう。お客様なんだから。 講演会やインタビューにはそういうものがある。
243 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 00:34:44 ID:7wefeS4M
>>242 洋館に住んだら、自国の文化を否定したことになるとか、この近代時代にバカじゃないの? あんた。
244 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 01:08:42 ID:BcvFXqlx
>>243 ヨーロッパが元だからアメリカ文化じゃないといったら、
明治以前の日本文化はほとんどが中国文化になってしまう。
明治以降はほとんどが元は西洋文化だということだ。
少しは頭使ってくれ。
245 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 01:10:35 ID:BcvFXqlx
ところで、三島はこういう意見を持ってる。 日本の伝統文化を守ることは、日本を守ることだ。
246 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 10:20:37 ID:7wefeS4M
三島の真意や遺志を伝える仕事に取り組んでみると、彼がいかにこの国の将来を憂え、真剣にかつ周到に、 国家防衛をあるべき姿に戻す計画を練っていたかということに驚かされる。また、物事のすべてから国家の危機を 敏感に感じ取っていた彼が、状況の変化の中で計画の可能性を狭められ、追いつめられ、最後の選択をし、身を 処するに至る過程の悲痛さ、雄々しさは改めて私の胸を締め付けたものだ。ある作家が導き出した結論のように、 三島は単純な狂気に駆られていたわけではない。(中略) われわれが祖国防衛のために苦労して築いてきた、自衛隊にとってなくてはならぬ機能、部門は無思慮にも 捨て去られてしまったのである。私が胸に秘めていたその情報はもう秘匿する必要がなくなった。むしろ 自衛隊のためにこそ、三島の真実を明らかにしなければならない。(略)三島との出会いがなかったら、 私の人生は砂漠であった。三島と語り合い、訓練をともにした日々は私に、もう一度、祖国防衛の実現に 取り組もうとする意欲と希望を与えてくれた。…私は三島を復活させたいと望んでいる。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
247 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 10:20:59 ID:7wefeS4M
自衛隊の中でもある特殊な教育・訓練を行う立場にあって、やがて私は三島の教官となった。もちろん彼は 平凡な生徒ではなかった。私は何度か彼の深い洞察力に触れて舌を巻いたものだし、鋭く切り込んでくる質問に たじたじになったこともあった。私にとっても実に得るところの多い共同作業であった。 われわれがそうした特殊な訓練と研究を行っていたことについては、多少の説明が必要だろう。たとえ戦争を 放棄したと宣言しても、万が一外からの攻撃にさらされれば、われわれは座して祖国を蹂躙されるに任せている わけにはいかない。そのとき、自衛隊は祖国を守らなければならない。戦争にはつねに表に見えている部分と 陰で動いている部分があり、表の部分だけでは勝つことはできない。わかりやすい例で言えば、国際政治の 世界では日本の政治力、交渉力、情報力はかなり弱いと言われており、現実に外交交渉などではいつもして やられている感がある。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
248 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 10:21:18 ID:7wefeS4M
陰で動いているというと、何か姑息な卑怯なことのように感じられるかもしれないが、こちらから戦争を 仕掛けることがないわが国としては、むしろ水面下での動き、ネットワーク、情報力などは、不幸な状況を招く 危機を未然に防ぐ有力な方法として欠くべからざるものなのである。 三島由紀夫はそのことに気づいていた。彼の行動が一般の人々にわかりにくかったとすれば、その大きな原因の 一つは、彼の考えと行動がこうした陰の部分に踏み込んでいたことだろう。 私たち二人は志を同じくする者として、訓練をともにし、真剣に祖国防衛を語り合った。しかし私たちは、 最後まで行動をともにすることはなかった。私は、三島の決起を正確に予測することができなかった。 そして悲劇は起こった。(略)私たちがなぜともに最後まで志を遂げることができなかったのか。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
249 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 10:21:34 ID:7wefeS4M
(中略) 情報勤務全般の概念を理解してもらうため、日本で現実に起こったスパイ事件を例に、講義した。 取り上げたのは、昭和38年4月1日朝、秋田県能代市の浜浅内に、二人の男の漂流死体が打ち上げられたこと から発覚した「能代事件」である。(中略) むろん、外国人登録証はなく、装備から見てかなり大物の北朝鮮工作員と推測された。そして地図などから、 目的地は秋田ではなく、東京、大阪でのスパイ活動が目的と思われた。しかしこの事件は、何らかの陰の力が 働いたのか、結局憶測の域を出ないまま、うやむやのうちに迷宮入りとなってしまったのである。(中略) 講義の中で、二人の溺死体の写真を示したとき、三島は写真を手にしたまま五分間ほども見入っていた。 そして、この事件が単なる密入国事件として処理され、スパイ事件としては迷宮入りになってしまったことに 私が言及すると、三島は激昂した調子で言った。「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
250 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 10:21:54 ID:7wefeS4M
(中略) 三島の「祖国防衛隊」構想は、きわめてスケールの大きい国家的防衛試案である。民間からの志願によって 構成することになる防衛組織の実現のためには、国民の広い層からの支持を得なければならない。そして、 それに先行して、膨大な経費のかかるこの企てには資金的裏付けが必要だった。(略) 『祖国防衛隊はなぜ必要か』には、「…純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他なく」と記されている。 『J・N・G(ジャパン・ナショナル・ガード=祖国防衛隊)仮案』の中で、三島は、企業体経営者の賛同を 得て、J・N・Gの横の組織を創り出したいと念ずるものだと述べ、次のような構想を提示している。(略) 資金的裏付けを産業界に求めるのは自然であり、現実に三島が、産業界に大きな期待を寄せていたことは、 この仮案からも明らかである。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
251 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 10:25:36 ID:7wefeS4M
三島は緻密な情勢判断に立って、己の半生を賭して祖国の真の防衛に身を捧げようとしていた。(略) 最終的には国家の制度までしていくためには、私的な同志の集まりでは間に合わない。民間防衛軍として十分に 機能するためにも、ある程度の規模が必要である。そこで彼は計画への援助を財界に求めたのである。それが J・N・Gの「横の組織」を創り出すことの意味でもあった。(中略) ある晩、三島が前触れもなく拙宅を訪れた。(略)やがて話は、三島が藤原(元陸上自衛隊第一師団長)の 案内で、日経連会長の桜田武のところへ相談に行った時のことに移っていった。三島の声の調子が変わっていた。 一瞬空気が張り付くような緊張が走り、三島は吐き捨てるように言った。「彼は私に三百万円の援助を切り出し、 『君、私兵なぞつくってはいかんよ』と言ったんです!」(中略) この構想を明確にしていくうえで必要なことは金銭面にとどまらず、産業界に広く働きかけてもらうこと だった。日経連会長である桜田武との会談の意味はきわめて大きかったのである。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
252 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 10:25:52 ID:7wefeS4M
(略)問題は、桜田が拒否以上の、悪意に満ちた応えをもって報いたことにあったと言わねばならない。桜田が 三島の考えを理解しなかったといっても、何ら責めるには当たらないだろう。だが彼は、三島の提案を頭から 否定する以上のこと、つまり馬鹿にすること、揶揄することによって三島を否定し、侮辱したのであった。 桜田は三島の構想に理解を示さなかったばかりでなく、わずかな金を投げ与え、皮肉でしかない忠告を添えた のであった。当然三島は、その投げ銭を拒否した。そして、それ以降、財界への接触をいっさい断つことになった。 (略)この事件は三島に、重大な路線変更を決意させることになったのである。 「祖国防衛隊」から「楯の会」への名称変更の真の意味を私が知ったのは、三島の自刃後であった。遺された 資料をもう一度徹底的に洗い直した私は、三島が、『J・N・G仮案』で一般公募による隊員グループを 「横の組織」と位置づけていることに気づいた。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
253 :
名無しさん@3周年 :2011/01/30(日) 10:26:21 ID:7wefeS4M
(略)三島の文脈からすれば、「志操堅固な者」のみによる中核体要員養成については、すべて三島に委ね られる形で行われるが、それは一般公募に至る準備段階として位置づけられ、財界からの資金援助の枠内に入る。 そして、中核体の結成が完了し、これを核として公募組織が結成される段階から、徐々に三島の手を離して いって、すべてを組織の執行機関に委せることにする、というのが彼の構想のあらましだったのではないかと思う。 (中略) 桜田は、事実上この上ない拒否によって、「祖国防衛隊」を国民的な横への広がりをもった民間防衛組織にする、 という三島の構想を粉々に砕いた。三島は、独自の準備段階へ独力で突入することを決意せざるを得なかった。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
自衛隊って守秘義務無いのか?山本の記述はどうも嘘くさい。 自衛隊はどうか知らないが公安関係の資料を民間人に見せる事は少なくとも警察だと処罰の対象になる。 退職後、その事実が発覚された場合でも訴追を受ける。 自分の自慢話のために三島を利用しているだけなんじゃないのか。
255 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 01:05:33 ID:otdRhGRy
>>254 本当のことだよ。他にも同席してる人がいるから。
何そんなにいちいち過剰反応しての? ブサヨ丸出しお疲れさま。
256 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 14:04:23 ID:uRTj4H5U
301+1 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 05:24:00 ID:MTi/WKRz0 (2/2) [PC]
岩田君の論文再掲載その1: 保守論壇の仮面舞踏会を斬る!!!
http://anti-cult.seesaa.net/article/20591678.html 岩田論文の思想的分析その1〜生長の家の異常なまでの天皇崇拝について〜: 保守論壇の仮面舞踏会を斬る!!!
http://anti-cult.seesaa.net/article/20598333.html ネトウヨの正体がだんだん分かってきたよ〜w
302 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 05:36:30 ID:jhZ7BPOW0 (1/6) [PC]
前々から、ネトウヨとチャンネル桜にカルトっぽい臭いを感じてたんだが、
なるほどな〜という感じ。チャンネル桜のあのヤクザ顔の社長、、、、そういうことね。
304 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 05:43:07 ID:jhZ7BPOW0 (2/6) [PC]
あの人、やっぱり早稲田卒ですな、、、
313 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:17:47 ID:jhZ7BPOW0 (3/6) [PC]
ネトウヨって、全国学生自治体連絡協議会、日本青年協議会、日本会議の関係者なのか〜w
なるほどな〜wそういえば、チャンネル桜の社長も青山先生も早稲田卒だな〜
そういうことだったのね。洗脳が解けたわ。
315+1 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:34:54 ID:jhZ7BPOW0 (4/6) [PC]
この話めちゃくちゃ面白いな。小山孝雄さんも生長の家の幹部だったのか〜www
教科書を作る会ってそういう団体だったのねw
317 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:40:15 ID:jhZ7BPOW0 (5/6) [PC]
鈴木 邦男さんも、なんと生長の家と関係あるようだよwもちろん早稲田、、、、、、w
http://www.mammo.tv/interview/archives/no032.html 318 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:46:50 ID:jhZ7BPOW0 (6/6) [PC]
ネトウヨ、および保守系言論人をつなぐキーワード、、、、それは、
生長の家 と 早稲田。これって、周知のことなのかな?
長年の謎が解けた気がする。西尾先生もびっくりじゃないかな。
257 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 14:04:38 ID:uRTj4H5U
321 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 08:38:05 ID:OBaF7l1j0 [PC] ネトウヨの実体、背後関係がおぼろげながら見えてきたわけじゃん おもしろくね? あと、生長の家の二代目、谷口セイチョウさんがお亡くなりになったのが2005年で、 その年に、右翼傾向からの路線転換、親中的(中国での布教をしたい)な三代目に移ったわけだけど、 教科書を作る会の内紛2005年と一致するよ 偶然なのかな? あと、三代目教祖さんは女系天皇支持を表明したわけだけど、 その時期と、小林よしのりが女系天皇支持に回ったのと符合するんだよな。 偶然かな? 生長の家が資金的スポンサーだったってことじゃないのかな? 教科書と桜と日本青年協議会とゴーマニズムの。 で、小林は三代目の軍門に下って、庇護を受けよう(本を買ってもらう&資金援助)と政治的取引したわけでしょ? で、早稲田時代から初代の教え(国家神道天皇絶対主義)に染まってきた 日本青年協議会系の人々(教科書、桜)は、小林を死ねと連呼してるわけね。 鈴木は根っからの生長の家の信者なんだろう。 だから、まさに三代目の意向を受けて、 穏やかな民族運動に転向したってことかな。 全部謎が氷解するよ。
>>255 おい。同席している奴がいるってのがどうして山本の記述の真偽を計る理由になるんだよ?
お前、その同席している奴ってのに会ったのか?
どこのどいつだそれは?
まさか山本の本に書いてあったとかいうのが根拠じゃないいんだろうな?
お前、隊員か警察に知り合いがいるなら、事件事故資料を部外者に見せたらどうなるか聞いてみろよ。
ヒキオタニートのお前が三島に憧れるのもわからんでもないがよ。
もっと勉強せんと三島にすらなれねえぞ。
>>258 何そんなにムキになってバカじゃないの? 北朝鮮ブサヨが必死にお疲れさまでした。
>>258 それから、あんたの言ってることこそ、ことの真偽とは、別の問題で、真偽を計る理由にならないよ。
誰かが実際に通報、起訴しなきゃ関係ないことだから。
>>258 三島由紀夫が山本の諜報訓練の授業受けて、いろいろ教えを受けてたのは事実だよ。一緒に訓練してた人の証言もあるから。
262 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 19:31:09 ID:otdRhGRy
三島の真意や遺志を伝える仕事に取り組んでみると、彼がいかにこの国の将来を憂え、真剣にかつ周到に、 国家防衛をあるべき姿に戻す計画を練っていたかということに驚かされる。また、物事のすべてから国家の危機を 敏感に感じ取っていた彼が、状況の変化の中で計画の可能性を狭められ、追いつめられ、最後の選択をし、身を 処するに至る過程の悲痛さ、雄々しさは改めて私の胸を締め付けたものだ。ある作家が導き出した結論のように、 三島は単純な狂気に駆られていたわけではない。(中略) われわれが祖国防衛のために苦労して築いてきた、自衛隊にとってなくてはならぬ機能、部門は無思慮にも 捨て去られてしまったのである。私が胸に秘めていたその情報はもう秘匿する必要がなくなった。むしろ 自衛隊のためにこそ、三島の真実を明らかにしなければならない。(略)三島との出会いがなかったら、 私の人生は砂漠であった。三島と語り合い、訓練をともにした日々は私に、もう一度、祖国防衛の実現に 取り組もうとする意欲と希望を与えてくれた。…私は三島を復活させたいと望んでいる。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
263 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 19:31:23 ID:otdRhGRy
自衛隊の中でもある特殊な教育・訓練を行う立場にあって、やがて私は三島の教官となった。もちろん彼は 平凡な生徒ではなかった。私は何度か彼の深い洞察力に触れて舌を巻いたものだし、鋭く切り込んでくる質問に たじたじになったこともあった。私にとっても実に得るところの多い共同作業であった。 われわれがそうした特殊な訓練と研究を行っていたことについては、多少の説明が必要だろう。たとえ戦争を 放棄したと宣言しても、万が一外からの攻撃にさらされれば、われわれは座して祖国を蹂躙されるに任せている わけにはいかない。そのとき、自衛隊は祖国を守らなければならない。戦争にはつねに表に見えている部分と 陰で動いている部分があり、表の部分だけでは勝つことはできない。わかりやすい例で言えば、国際政治の 世界では日本の政治力、交渉力、情報力はかなり弱いと言われており、現実に外交交渉などではいつもして やられている感がある。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
264 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 19:31:37 ID:otdRhGRy
陰で動いているというと、何か姑息な卑怯なことのように感じられるかもしれないが、こちらから戦争を 仕掛けることがないわが国としては、むしろ水面下での動き、ネットワーク、情報力などは、不幸な状況を招く 危機を未然に防ぐ有力な方法として欠くべからざるものなのである。 三島由紀夫はそのことに気づいていた。彼の行動が一般の人々にわかりにくかったとすれば、その大きな原因の 一つは、彼の考えと行動がこうした陰の部分に踏み込んでいたことだろう。 私たち二人は志を同じくする者として、訓練をともにし、真剣に祖国防衛を語り合った。しかし私たちは、 最後まで行動をともにすることはなかった。私は、三島の決起を正確に予測することができなかった。 そして悲劇は起こった。(略)私たちがなぜともに最後まで志を遂げることができなかったのか。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
265 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 19:31:52 ID:otdRhGRy
(中略) 情報勤務全般の概念を理解してもらうため、日本で現実に起こったスパイ事件を例に、講義した。 取り上げたのは、昭和38年4月1日朝、秋田県能代市の浜浅内に、二人の男の漂流死体が打ち上げられたこと から発覚した「能代事件」である。(中略) むろん、外国人登録証はなく、装備から見てかなり大物の北朝鮮工作員と推測された。そして地図などから、 目的地は秋田ではなく、東京、大阪でのスパイ活動が目的と思われた。しかしこの事件は、何らかの陰の力が 働いたのか、結局憶測の域を出ないまま、うやむやのうちに迷宮入りとなってしまったのである。(中略) 講義の中で、二人の溺死体の写真を示したとき、三島は写真を手にしたまま五分間ほども見入っていた。 そして、この事件が単なる密入国事件として処理され、スパイ事件としては迷宮入りになってしまったことに 私が言及すると、三島は激昂した調子で言った。「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
266 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 19:32:31 ID:otdRhGRy
(中略) 三島の「祖国防衛隊」構想は、きわめてスケールの大きい国家的防衛試案である。民間からの志願によって 構成することになる防衛組織の実現のためには、国民の広い層からの支持を得なければならない。そして、 それに先行して、膨大な経費のかかるこの企てには資金的裏付けが必要だった。(略) 『祖国防衛隊はなぜ必要か』には、「…純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他なく」と記されている。 『J・N・G(ジャパン・ナショナル・ガード=祖国防衛隊)仮案』の中で、三島は、企業体経営者の賛同を 得て、J・N・Gの横の組織を創り出したいと念ずるものだと述べ、次のような構想を提示している。(略) 資金的裏付けを産業界に求めるのは自然であり、現実に三島が、産業界に大きな期待を寄せていたことは、 この仮案からも明らかである。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
267 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 19:35:44 ID:otdRhGRy
三島は緻密な情勢判断に立って、己の半生を賭して祖国の真の防衛に身を捧げようとしていた。(略) 最終的には国家の制度までしていくためには、私的な同志の集まりでは間に合わない。民間防衛軍として十分に 機能するためにも、ある程度の規模が必要である。そこで彼は計画への援助を財界に求めたのである。それが J・N・Gの「横の組織」を創り出すことの意味でもあった。(中略) ある晩、三島が前触れもなく拙宅を訪れた。(略)やがて話は、三島が藤原(元陸上自衛隊第一師団長)の 案内で、日経連会長の桜田武のところへ相談に行った時のことに移っていった。三島の声の調子が変わっていた。 一瞬空気が張り付くような緊張が走り、三島は吐き捨てるように言った。「彼は私に三百万円の援助を切り出し、 『君、私兵なぞつくってはいかんよ』と言ったんです!」(中略) この構想を明確にしていくうえで必要なことは金銭面にとどまらず、産業界に広く働きかけてもらうこと だった。日経連会長である桜田武との会談の意味はきわめて大きかったのである。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
268 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 19:36:07 ID:otdRhGRy
(略)問題は、桜田が拒否以上の、悪意に満ちた応えをもって報いたことにあったと言わねばならない。桜田が 三島の考えを理解しなかったといっても、何ら責めるには当たらないだろう。だが彼は、三島の提案を頭から 否定する以上のこと、つまり馬鹿にすること、揶揄することによって三島を否定し、侮辱したのであった。 桜田は三島の構想に理解を示さなかったばかりでなく、わずかな金を投げ与え、皮肉でしかない忠告を添えた のであった。当然三島は、その投げ銭を拒否した。そして、それ以降、財界への接触をいっさい断つことになった。 (略)この事件は三島に、重大な路線変更を決意させることになったのである。 「祖国防衛隊」から「楯の会」への名称変更の真の意味を私が知ったのは、三島の自刃後であった。遺された 資料をもう一度徹底的に洗い直した私は、三島が、『J・N・G仮案』で一般公募による隊員グループを 「横の組織」と位置づけていることに気づいた。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
269 :
名無しさん@3周年 :2011/01/31(月) 19:36:37 ID:otdRhGRy
(略)三島の文脈からすれば、「志操堅固な者」のみによる中核体要員養成については、すべて三島に委ね られる形で行われるが、それは一般公募に至る準備段階として位置づけられ、財界からの資金援助の枠内に入る。 そして、中核体の結成が完了し、これを核として公募組織が結成される段階から、徐々に三島の手を離して いって、すべてを組織の執行機関に委せることにする、というのが彼の構想のあらましだったのではないかと思う。 (中略) 桜田は、事実上この上ない拒否によって、「祖国防衛隊」を国民的な横への広がりをもった民間防衛組織にする、 という三島の構想を粉々に砕いた。三島は、独自の準備段階へ独力で突入することを決意せざるを得なかった。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
270 :
名無しさん@3周年 :2011/02/02(水) 12:52:03 ID:inYoCWz5
(中略) 私は、決して明かしてはならない最後の部分に触れずとも、そのぎりぎりのところに踏みとどまることによって、 三島に対する誤解を解き、その真意を伝え、名誉回復を図ることは可能であり、また日本の国家防衛のあり方に ついての論議に一石を投じることもできるだろうと考えていた。だが、本稿を書き進めるうち、三島の真実を 明らかにするためには、その最後の部分に触れずにすますわけにはいかないという思いが募ってきた。 そのことを語らなくては三島にすまない。その霊を鎮めることはできないと思い始めたのである。(略) クーデターは行われるはずだった。 前章で少し触れたが、かつて私は戦後唯一のクーデター未遂事件と言われる「三無事件」の内部調査を命じられた。 その際、計画が直前に発覚し、首謀者たちが一網打尽になる前夜、神楽坂でH陸将らがこの首謀者たちと 密会し、酒を酌み交わしていたことを部下の報告で知った。さらに調査を命じたSも一味とは旧知の仲であった。 私はジェネラルたちが、自衛隊によるクーデターの機会をもとめ、事件の陰で暗躍したことを知った。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
271 :
名無しさん@3周年 :2011/02/02(水) 12:52:18 ID:inYoCWz5
こうした中、三島由紀夫が自衛隊で訓練を受け、自衛隊と連携した行動をとるようになった。その道を開いたのは 調査学校校長であった藤原岩市である。(略)自衛隊幹部が三島の要請を受け入れ、異例の関係をもつように なった背景には、自衛隊誕生とともにその実権を握ることになった旧陸軍将官、将校たちの悲願が隠されていた。 (中略)この(三無事件の)痛恨の失敗は新たなクーデターの機会を求める彼らの思いを強くしていた。 それから六年後、彼らの前に現れた三島由紀夫は、彼らの悲願を実行に移す機会を開く絶好の人物であった。 (中略)国内における全国的な新左翼運動の高まりと、世界各地で多発した新たな都市闘争のうねりは、 これまでにない革命的状況の到来を予感させた。それは一方で、わが自衛隊が本来あるべき姿で認められる チャンスであり、われわれ情報勤務の人間が、真に求められる存在となる絶好のチャンスでもあった。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
272 :
名無しさん@3周年 :2011/02/02(水) 12:52:32 ID:inYoCWz5
(略)三島は、藤原らとの接触で知った治安出勤に関する情報と、私との交流で得たものから一つの構想を 描いたに違いない。すなわち、10月21日(昭和44年)、新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出勤が 必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私の同志が率いる東部方面の 特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出勤し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、 デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、 断固阻止する。このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。 「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。 三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを 成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
273 :
名無しさん@3周年 :2011/02/02(水) 12:52:47 ID:inYoCWz5
そこでは当然、私も切腹をしなければならないし、出勤の責任者としてのHと藤原も同様であろう。三島も それを求めていたはずである。(中略) Hらはこの三島の構想について米側とも話し合ったに違いないと思っている。 もう一度言う。クーデターは行われるはずだった。(中略) 三島は絶えず私にともに決起するよう促した。しかし私は拒否し続け、そうしたクーデター計画に突き進まない よう、その話題を避け、もっと長期的展望に立った民間防衛構想に立ち帰るよう、新たなプランを提案した。 (略)武士道、自己犠牲、潔い死という、彼の美学に結びついた理念、概念に正面切って立ち向かうことが、 私にはできなかった。たしかに私は死が恐ろしかった。(略)そして私の死だけではない。何よりも私が 認めがたく思ったのは、三島を失うということだった。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
274 :
名無しさん@3周年 :2011/02/02(水) 12:53:02 ID:inYoCWz5
H陸将は、まだ私が三島に会っていなかった頃、このようなことを漏らしたことがある。 「おい、カモがネギをしょってきたぞ」 文学界の頂点に立つ人気作家三島由紀夫の存在は、自衛隊にとって願ってもない知的な広告塔であり、 利用価値は十分あった。その彼が広告塔どころか、自らを犠牲にして、自衛隊の自立という永年の悲願を 成就しようとしている。ジェネラルたちは、三島の提案した計画に実現の可能性を見たのだ。 三島が単なる文人などではなく、しっかりとした理念と現実認識に基づく理論の持ち主であり、戦略家、 将校としての資質と実行能力をもったりっぱな同志であることを知り、その人間的魅力に触れた私は、 陸将たちの不遜な見方に反発を感じるようになった。彼らにとって三島は、自分たちの目的を遂げるための 手駒に過ぎなかった。そして、彼らにとっては私もいつでも捨てられる手駒の一つであった。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
275 :
名無しさん@3周年 :2011/02/02(水) 12:56:05 ID:inYoCWz5
しかし三島は、彼らの言いなりになる手駒ではなかった。藤原らジェネラルたちは、「三島が自衛隊の地位を 引き上げるために、何も言わずにおとなしく死んでくれる」というだけではすまなくなりそうだということに 気づき始めた。三島のクーデター計画が結局闇に葬られることになったのは、初夏に入った頃だった。私はその 経緯を詳しくは知らない。藤原らは場合によっては自分たちも、死に誘い込まれる危険を察知したのかもしれない。 藤原は三島の構想に耳を傾けながら、参議院議員選挙立候補の準備を進めていた。(略)仮にクーデター計画が 実行されたとしても、その責を免れる立場に逃げ込んだとも言えるのではないか。いずれにせよ二人の ジェネラルは、自らの立場を危うくされることを恐れ、一度は認めた構想を握りつぶしてしまったのであろう。 三島はむろんひどく落胆したが、自衛隊との関わりで行われていた訓練を禁止されるには至らなかったため、 決起の機会がまったく失われたものとは考えていなかった。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
276 :
名無しさん@3周年 :2011/02/03(木) 11:46:40 ID:isqX84od
むしろその頃から、三島の私に対する働きかけはより切迫したものになっていた。訓練に参加し、三島の考えに 共鳴する自衛官も増えている。逆境に立ちながら三島は、同志との結束を固め、クーデター実行の可能性を つねに探っていた。(略)私が逃げるはずはない、三島はそう信じていた。(中略) それは三ヶ条からなる新たなクーデター計画であった。その一ヶ条は、「楯の会」が皇居に突撃して、そこを 死守するというものだった。(略)五名の将校は三島の計画に深くうなずいた。(略)私は真っ向から反対した。 (略)「臆病者!」「あなたはわれわれを裏切るのか!」いきり立つ将校たちを、三島は手を振って制した。 (中略)この日切り出した問いの背後には、私がこれまでの態度を少しでも変えて、目標に転じる可能性が あるかどうかを確かめようとする気持ちがあったに違いない。(略)彼は私を見限らなければならなくなった。 (略)しかし、三島は私を斬り捨てることができなかった。(略)私がいなければ不正規軍の戦いに勝つことが できないとわかっていたからだ。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
277 :
名無しさん@3周年 :2011/02/03(木) 11:47:03 ID:isqX84od
(中略) 10月21日に向けて、新左翼各派はそれぞれにキャンペーンを繰り広げていた。学生だけでなく、反戦派と 呼ばれる労働者集団も戦闘的な街頭デモを展開して、革命前夜の状況を作り出すべく、10月から11月に かけての闘争に全力を傾けよ、と呼びかけていた。(中略) 三島はその日をどういう気持ちで迎えただろうか。彼の構想を一度は受け入れたジェネラルたちは、その実行を うやむやにする形で自分たちの身の安全を図ったが、断固とした態度で全面否定したわけではないらしかった。 三島は逃げ腰の彼らとの話し合いを続けるなかで、それでも状況次第では、自衛隊の治安出勤もあり得ると 考えていたらしい。(中略) 警視庁の当該部署に確かな情報源をもっていた三島は、当日の警備状況とともに、その日の街頭闘争が どのような展開になり得るか、詳細な情報分析を事前に知っていた。(中略) 直前までマスコミによって盛んに報じられていた自衛隊治安出勤の可能性は、完全に断たれたのである。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
278 :
名無しさん@3周年 :2011/02/03(木) 11:47:32 ID:isqX84od
(中略)彼は、どのような形であれ、米軍占領による国の歪みを正し、民族の志を復活するためのクーデター 計画を実行することを決意していた。計画実行の当日になって、実現の可能性はほとんど残されていなかったが、 それが完全にゼロとなるまであきらめなかった。それは、最後まで力を尽くす誠でもあったが、あきらめの色を 見せて、部下たる「楯の会」会員の士気を損なうことの愚を知っていたからであろう。彼は真の武士であった。 (略)彼がその可能性を求め続けた「クーデター計画」を阻んだ者がいる。(略)一人は私である。(略) 第二に挙げられるのは、H陸将と藤原岩市である。(略)二階へ上げておいて梯子を外したといわれても 仕方ないと思う。(略) さらに国際情勢も三島に味方しなかった。(略)キッシンジャーが密かに訪中の準備を始めていた。もともと アメリカと関係の深かった陸将たちだけが、いち早くこの変化に気づいたのかもしれない。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
279 :
名無しさん@3周年 :2011/02/03(木) 11:48:10 ID:isqX84od
もっとも、自衛隊の部隊と私たち情報勤務者が一体となって、心底からクーデター計画実行に取り組んだとする なら、三島の期待は実現したであろう。三島はその辺のところをはっきりと理解していた。彼が、私抜きでの 決起を想定した演習を独自に進めながら、絶えず私を計画に引き込もうとしていた理由の大半はここにある。 (略)根本的には同じ理想を抱く同志であった。いつも控えめに示す彼の情のほとばしりに、私は最後まで 温かい好意のようなものを感じなかったことがない。 (中略)自衛隊を本来あるべき姿、国軍として憲法上の認知を得させ、情報技術とシステム確立の下に、 不正規軍としての民間防衛軍を結成して機能させること。それは理想であり、これを長期的戦略を立て、広く 国民に浸透させることによって実現するという理想論が、現実にきわめて困難であることを、私は長い体験の 中で実感していた。(略)その意味では、10・21は、多少の無理はあっても、三島が主張したように、 二度と訪れないかもしれない千載一遇のチャンスだったかもしれない。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
280 :
名無しさん@3周年 :2011/02/03(木) 11:55:31 ID:isqX84od
――永遠に訪れてこない望ましい機会を待つよりは、不十分でも限られた機会に力を集中させ、知力をふり しぼって、実現に力を尽くすべきではないか。あるいは悲劇的な、あるいは無様な結末を迎えることになったと しても、座して様子をうかがうだけで、何事もなし得ないまま一生を終えるよりどんなにかましであるか。 三島の死に接したとき、私は過去に何十回、何百回となく自問してきたこの問いを、改めて自分に問いかけた。 (中略)――三島の真の決起は昭和44年10月21日に、果たせないまま終わっていた。(中略) 私は三島の行動の行く末と三島の身を案じる一方で、私自身の身の危険を感じていた。それを恐れていたことで、 私は三島に詫びたいと思う。三島は個人的なうらみで行動するような人間ではなかった。(中略) 最後の決起は、この国の行く末を案じるがための、捨て石としての死であった。自己の保身をのみ考えて 立とうとしない将官たちと、自らの運命に鈍感なすべての自衛隊員に対して糾弾し、反省を促したのである。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
281 :
名無しさん@3周年 :2011/02/03(木) 11:55:56 ID:isqX84od
昭和46年秋、三島の一周忌が近づいてきていた。せめて思い出につながる部下たちを集め、われわれだけでも 密かに三島を供養したいと思った。 11月24日、陽が落ち人の顔の判別がつかなくなる頃を待って、私は三島家の門前に独りで立った。(略) 私は、ただ合掌して唇を噛んだ。 翌25日夜、仮の祭壇を設け、私の手許に残った三島の遺品を供えた。部下の持ち寄りの供物をそなえ、 懐かしい三島からの手紙を朗読して読経に代えた。部下たちからすすり泣く声が洩れ、私も泣いた。 それが、私にできる本当に精一杯の供養であった。 そして、私の誕生日が来た。(中略) 私はその日、自衛隊調査学校の校庭の壇上に立って、学生や部下たちに別離の挨拶をしようとしていた。 「晩秋の巨雷とともに、私の夢も消えた」私は挨拶をこのように結んだ。 10代半ばの陸軍士官学校入学で始まった私の軍隊人生は、この日を以って終わった。(略) 三島由紀夫はもっとも雄々しく、優れた「魂」 であった。 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より
282 :
名無しさん@3周年 :2011/02/08(火) 15:31:45 ID:Vaj+5Naq
大正十四年(一九二五年)一月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く 生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて 取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも 明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征った はずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような 悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。 (中略) しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、 ――当時は何だか居心地が悪かったが、今となっては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。 (略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかった。――と述懐している。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
283 :
名無しさん@3周年 :2011/02/08(火) 15:32:41 ID:Vaj+5Naq
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、(中略)三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。 これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に 傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。 死の二ヶ月前に行われたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、 三島はこうまで言い切っている。――僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、 自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、 もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。――さすがの武田泰淳も、――いや、それだけは言っちゃ いけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう――と、たしなめるほかない様子だったが、 三島はさらに、――でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった―― と追い打ちをかけている。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
284 :
名無しさん@3周年 :2011/02/08(火) 15:34:41 ID:Vaj+5Naq
(中略) われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに 生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。 林尹夫(海軍出陣学徒)の表現によれば、――おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の 王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとっての過去と未来に一貫せる生き方を 学ばせるものが、そこにあるのだ――と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な 戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない 世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
285 :
名無しさん@3周年 :2011/02/08(火) 15:35:31 ID:Vaj+5Naq
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。――いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。 世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして 意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるか どうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わなければ ならない。―― (中略) 彼(三島)が大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い 切ったことがある。――なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、 燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場で あるとは到底思えない。(略)――こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、 その歩みを止めなかったのであろう。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
286 :
名無しさん@3周年 :2011/02/08(火) 15:36:38 ID:Vaj+5Naq
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、 どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命に たおれた彼らの不幸を、償いうるものはない。三島も、そのことを知り抜いていたにちがいない。そして彼は みずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。 (中略) 死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったで あろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。 一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を 死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。 吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
287 :
名無しさん@3周年 :2011/02/15(火) 11:56:49 ID:E2dO7RlK
(三島事件のあと)あるポーランド人の団体から招待されたときのことが想いだされてくる。 きっかけをつくったのはソルボンヌにおける私の学友、ポニアトスキー(仮名)だった。(略)長身で赤ら顔の ポーランド人で、つねに微笑をもって語り、その人柄は善意にあふれていた。いつも詰襟に丸首のカラーをしていた。 カトリック神父だったのである。 (中略)事件後ちょうど一ヶ月、クリスマス・イヴのことだった。その数日前まえに思いがけず、この友から 電話があった。 「きみのテレビ放送を見たよ。われわれの仲間は、みんな、ミシマのことを知りたがっている。ぜひ来て、 話してくれないか……」 「仲間」とは、誰だろう? その夜、パリ某所の指定された建物に出向いてみると、そこはむしろ、ささやかな 宗教的共同体といった感じの場だった。自分は出版社で働いているとかねがねポニアトスキーは言っていたが、 じっさいは、その家は、出版社兼宗教結社だったのである。(中略) 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
288 :
名無しさん@3周年 :2011/02/15(火) 11:57:50 ID:E2dO7RlK
晩餐の部屋に降り立つと、すでに十数人の人々がテーブルについて待ちうけていた。思いがけなく、私が主賓だった。 (略)…うすぼんやりとした光のせいで、地下の窖にも似たその部屋の光景は、どこか抑圧された秘密の影を秘め、 カタコンベの一部といった感じさえした。この印象があながち間違っていなかったことを程なく私は知らされ ようとしていた。ひととおりの会話のあと――その席上で私は先に国営テレビの文芸討論会で発言したことを 敷衍してしゃべったのであったが――長老格の人物が立って、こう述べたからである。 「国の従属の縄目(いましめ)を断ち切って立たんとした人の死が、いや、日本独自の、あの儀式的意志的死が、 イエスの十字架の思想より見たとき《受肉の完成》としての意義を顕わにするであろう、とのご高説には、 われわれ一同ふかく心を打たれております。(中略)貴国の偉大な作家ミシマの驚嘆すべき行為は、まさしく この微行性(アノニマ)につうずるものであったと、いまや私どもには信じられるのです。……」 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
289 :
名無しさん@3周年 :2011/02/15(火) 11:59:20 ID:E2dO7RlK
と、白髯を垂らしたその老神父は、左手で、黒のスータンの胸にかけた金色の十字架にそっと触れながら、 いったん句切りを置いた。 「……イエスにとって《受肉の完成》とは、十字架とともに復活をもって成しとげられるものでした。 ミシマにとっては……なんと言いましょうか……彼の復活の思想はなかったのですか?」 「彼の、ではなく、日本人の、とと申しあげましょうか……」と私は答えた。 「われわれが《七生報国》と呼ぶ思想こそはそれに当たるのです……」 じっとわれわれの会話に耳を傾けていた周囲のポーランド人たちから、「ほほう!」といった嘆声が洩れた。 枝付燭台の向こうで、長老の頬は紅潮していた。(中略)ポニアトスキーは大きな手をさしのべながら私に こう言った。 「私どもの祖国の政治的状況は、きみも知つてのとおりだ。同胞の読みたがっている本も、そこでは自由に 出版することができない。こうして、パリ経由でわれわれがやっているわけなんだよ……」 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
290 :
名無しさん@3周年 :2011/02/15(火) 12:00:18 ID:E2dO7RlK
いまや私には彼の言葉の意味するところは明瞭だった。私を招きいれた人々は、要するにポーランド独立の 地下抵抗運動の同志たちだったのだ。カトリックという精神領域を武器としての。 そしてこれらポーランド人たちにとって、世界の果ての国日本の一作家の信じがたき決起と死は、あの 第二次大戦末期、(中略)…いまにいたるソ連支配の屈従の運命に抗する勇気をあたえてくれるものだったのだ。 日本で、われわれのヒーローが「右翼」とレッテルを貼られ、「グロテスク」、「時代錯誤」と譏(そし)られ、 「恥さらし」―対外的に……――と罵られている、まさにそのときに。あるいは、現代日本のタイラント、 偏向したマスコミ中心の世論を怖れて、大半の知識人が、いっそ沈黙することを選びつつあるそのときに。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
291 :
名無しさん@3周年 :2011/02/15(火) 12:01:12 ID:E2dO7RlK
(中略) 他者への殺害ではなく自害によって決着するその行為が、いかに深く西欧のもっとも高貴なる魂を振起し、 その魂の屈折をとおしていかに深く日本の名誉を購わんとしたものであるか、その夜、このうえなくはっきりと、 私はその名証を見たのだった。(中略) しかも、氏の自刃が西欧人の心に掘りおこした感情は、ひとりキリスト教にとどまるものではなかった。 キリスト教と対立する古代精神の領域にまで広がるものであることを、やがて私は知らされようとしていたのである。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
292 :
名無しさん@3周年 :2011/02/18(金) 15:39:07 ID:M4qulfsV
明けて一九七一年となった。その年の六月にパリで開かれた《憂国忌》について、ここで語らなければなるまい。(中略) この企画(映画「憂国」特別鑑賞会)が伝わるや、見たいという有志がぞくぞくと名乗りでてきた。 スポンサーは、詩人エマニュエル・ローテンがひきうけてくれた。惜しくもすでに故人となったが、小背で 容貌怪異、みずから好んで「フランドルの土百姓の出で……」と冗談をいうのがつねであった。(中略) エマニュエル・ローテンと私とのあいだで初めて三島由紀夫が話題になったのは、氏の邸内においてであった。 事件後まもなくだったと記憶する。それというのも、そのときローテンは、例の「文芸フィガロ」誌の三島特集号を 手にして私のまえに現れるなり、朱の色をバックに抜刀したヒーローの大写しの表紙をこつこつと拳で叩きながら、 野獣の咆哮のごとく、こう言ったからである――「私は、あらゆる暴力に反対だよ!」と。 しかし、まもなく、この詩人の意見は一変してしまうのである。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
293 :
名無しさん@3周年 :2011/02/18(金) 15:41:07 ID:M4qulfsV
一つの偶然が、私のもくろんだ集いを大いに盛りあげることを助けてくれた。作曲家、黛敏郎氏の参加を得た ことである。黛氏は三島由紀夫の『金閣寺』のオペラ化の打合わせでベルリンに見えていたが、パリにはいって 私と会い、企画を聞くや、言下に参加を快諾してくれた。われわれはそれが初対面の間柄であったけれども。(中略) (参加者に)ガブリエル・マズネフ氏がいたことを、真先に挙げたいと思う。(中略) ガブリエル・マズネフが当夜われわれあいだにいたということの意義は小さなものではあるまい。彼は 『挑戦』の一冊を手に会場に駆けつけてくれたが、あとで私はその扉につぎのような献辞を見いだした。 「タケオ・タケモトに、この私の処女作をささぐ。本日、貴君のはからいで見たミシマの忘れがたきフィルムが まさにその開花であるところの、美と死とのこの出会い、自殺のストイックなる理想を、本書のうちにまさに 貴君が再見されるであろうがゆえに。 ガブリエル・マズネフ」 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
294 :
名無しさん@3周年 :2011/02/18(金) 15:46:00 ID:M4qulfsV
(中略)ほかに、《パリ憂国忌》出席者についていちいち詳述するいとまをもたない。ただ、全体に、右の ガブリエル・マズネフ、ミシェル・ランドム(作家、映画監督)、バマット(ユネスコ文化局長)の三氏がその 代表例であるように、集まった碧眼の知識人たちはきわめて精神的傾向が強く、一様に「日本のミシマ」の 果断の行為に心を奪われ、現代において――つまり日本においてのみならず――それがいかなる意味をもちうるか ということを真剣に問う人々であった事実を記せば足りるであろう。(中略) 黛敏郎氏は次のように回顧している。 〈…映写が終り、客席が明るくなってからも、暫くのあいだ誰も声を発する者はいなかった。隣席のローテン氏は、 ポロポロと涙を流しながら、私の手を強く握りしめたままだった……〉 そうだ、エマニュエル・ローテンの、この変化こそは、観客全体の感銘を代表して余りあるものだったのである。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
295 :
名無しさん@3周年 :2011/02/18(金) 15:47:04 ID:M4qulfsV
黛氏はつづいて書いている。 〈ややあって、立ち上ったローテン氏は、声涙ともに下る短い演説をした。「いま皆さんが、スクリーンで 観られた三島氏は、この映画さながらの古式に則った武士道の作法通りに切腹して果てた。このような天才的な 芸術家が、何故、このような行為に出たのだろうか?」〉 あとはもう言葉ならなかった。 私は、胸を打たれて、いかつい顔のこの人物が頬鬚を涙でぐしょぐしょに濡らしながら嗚咽を抑えるさまを、 ただまじまじと視つめるのみだった。「私はあらゆる暴力に反対だ!」と、最初、事件を知って叫んだローテンの 意見をかくも急旋回せしめた力は、いったいなんであったか? ここでわれわれは、事件の本質に関する甚だ重要な一点に立つのである。 観客のすべてが別室に引きあげてからも、ローテンだけは、場内にただひとり佇んでいた。そして私の姿を 見かけると、なおも涕泣しつつこういうのだった――「《愛と死の儀式》――私がここに見たものは、まさしく 神ということなのです……」 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
296 :
名無しさん@3周年 :2011/02/24(木) 10:54:24.49 ID:rPNF3fFh
エマニュエル・ローテンといっしょに私が映写室を出ると、小さなサロンに一同は頬を紅潮させて集まっていた。 一言でいえば、それは、打ちのめされた光景だった。(中略)黛敏郎氏はこう書いている。 〈当然、私は質問攻めにあうことになった。私は、私に考えられる限りの、三島氏の自刃に対する見解を述べた。 要するに三島氏は、大東亜戦争敗戦後の虚脱状態から一転して今日の経済的繁栄を手にした現代の日本人たちが、 芸術的にも、精神的にも、日本古来の伝統を軽視し、それが天皇ご自身をも含めた日本人一般の風潮となって、 日本がその文化のすべてのよりどころとしてきた天皇制の危機を、誰よりも強く感じ始めたこと。(中略)あの 事件が世の中に与えるショックの性質と限界とは、氏にとっては計算済みのことであって、氏の目指したのは、 「精神的クーデター」の火をつけることであり、それは見事に成功して、あのショック以来、日本の知識人の多くは、 深刻に自己を見つめ始めたこと。以上のような説明が、私の口からなされると、讃同の意を表わしてくれる フランス人たちが多かった。(中略)〉 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
297 :
名無しさん@3周年 :2011/02/24(木) 10:55:35.14 ID:rPNF3fFh
「《ユウコク(憂国)》とはどういう意味ですか?」と真先に私に尋ねてきたフランス人があった。批評家 クリスチャン・シャバニ氏である。(中略) 「それは、国の運命を憂うる、ということです」と私は答えた。 そう聞くと相手は、「ああ、なんという美しいイデー(思い)だろう!」と叫んだ。 「つまり、単なる《愛国(パトリオチズム)》とは異なるんですね。…(略)そこには、深く民族の帰趨を案じ、 精神的にこれを指導する予言者の役を果たし、時いたらば人柱となって死するをも辞さじという、苦悩と殉教の 精神が、より脈々とあふれでている……ヒーローよりも、予言者の心情というべきではなかろうか。バビロンの流れ、 ケバル河のほとりで、幽囚の民族の運命を嘆いた旧約の《レ・グラン・プロフェット(大予言者たち)》のように」 どんなにか私は彼の手を握りしめたかったことであろう! この打てば響くような素早い理解、深い共感性……。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
298 :
名無しさん@3周年 :2011/02/24(木) 10:56:09.04 ID:rPNF3fFh
地球の反対側で、ほかならぬ同胞のあいだで、犯罪者・精神錯乱者・エグジビショニスト、等々、ありとあらゆる 罵声が浴びせられつつあるあいだに、ここではその「元凶」は、「予言者」の名をもって語られつつあったのだ。 「ぼくは、はっきりとローマ派の人間だが……」と、ここでガブリエル・マズネフが口ゆ切った。…「つまり、 高徳のストイシャンだった古代ローマ人の生きざまを全幅に肯定する人間だが、しかし、このぼくにしてからが、 このフィルムを観て、まったく『シャッポー(脱帽)!』と叫ばざるをえなかったよ」(中略) 「…ローマの偉人たちはストア派の哲学に勇気の糧をもとめたのだ。もっとも、なかには、その勇猛をもって 鳴る武将、小カトーのように、プラトンの『パイドン』を読んだあとで自殺したという変わり種もあるけれどもね。 …(略)ところで、この小カトーの自殺が割腹によるものだったことは、ごぞんじでしょう?」マズネフの 問いは私に向けられていた。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
299 :
名無しさん@3周年 :2011/02/24(木) 10:57:13.14 ID:rPNF3fFh
「ええ『ブルタルコ英雄伝』の、ぼくは熟読者ですからね」 「ぼくも同様……要するに、剣は、ローマ共和国の武人たる以上、もっとも尋常の自殺の具だったんですよ。(略)」 「ちょっと待ちたまえ……」と、ここで初めてアフガニスタン人の剣豪バマットが口を開いた。…さながら 「面!」の掛け声を掛けるかのごとく繰りかえしていう――「待ちたまえ! しかし、それら顕然たるローマの 歴史的武将たちは、自決するときに、なんらかの儀式(リット)にもとづいてそうしたかね? …(略) 日本のサムライの死は、勇気のあらわれというだけのものではないよ。プラスなにかが、そこにはある。 それゆえの切腹の儀というべきではなかろうか?」 「そうだとも!」 と、バマットのうしろから、そのソファの背にもたれて話に聞きいっていたエマニュエル・ローテンが叫んだ。 「それこそはミシマの言いたかったことのはずだよ」と。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
300 :
名無しさん@3周年 :2011/02/24(木) 11:00:34.16 ID:rPNF3fFh
同時に、「セ・ジェスト(そのとおり)!」「ヴォアラ(しかり)!」「アプソリューマン(まったくそうだ)!」 という声々が、あちこちから興った。(中略) しかし、間髪を置かず、一座の声々に呼応して、マズネフもこう言っいた。 「だから…だから…ぼくも、さっき、こう言いかけていたんだよ。『シャッポー』とね!」(中略) バマットがまたも切りこみをかける「つまり、ローマ的自殺には、なんというか、《フォルム》がない。 フォルム――カタ(型)ですね……」と私のほうを向いて刀の柄を両手で握りしめるそぶりを見せる。 「つまり、文明全体のありかたにかかわるかどうかということだと思うな……」とミシェル・ランドムが静かに 言葉を挟んだ。「いいかね、すこし告白をしていいかね……」細い銀縁眼鏡の奥で、不適な彼の顔の表情と 不釣合な優しい目が、一、二度、しばたたいた。この人物もまた、疑いもなく、私がヨーロッパで知った第一級 知識人の一人である。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
301 :
名無しさん@3周年 :2011/02/25(金) 23:23:49.58 ID:MXo0czwf
「日本で武士道といわれるものが、もし単に勇気と武技の結合したものであるだけなら、ローマと日本のあいだに なんの差異もないことになるだろう…… こういうことをぼくに教えてくれたのは、弓道のハンザワ(半沢)先生だった。ハンザワ先生といえば、 『弓と禅』を書いたあのドイツのオイデン・ヘリーゲルの師範――有名な東北の阿波研造名人の弟子にあたる 人だけれどもね。…このハンザワ先生の全人格から放射してくるもの、これは、断じてヨーロッパには 見当たらないなにかだった。つまり、そこに浸っているかぎりは死は存在しないといった……ハンザワ先生の 弓を見ていて、ぼくはそれが単なる武技ではないと悟った。先生は、射るとき、目をつぶっておられたのだから…」 私は、その光景を知っていた。ランドム氏のフィルム、『武道』のなかで、それはもっとも美しいシーンであったから。 また私は、半沢師範の訃報に接して彼が子供のように泣いたということも聞かされていた。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
302 :
名無しさん@3周年 :2011/02/25(金) 23:24:10.64 ID:MXo0czwf
(中略)会話は、こうして、いつのまにやら日本とローマの自決比較論のようになってしまった。 「問題は、しかし、二千年まえのそうした超越的死が、その後も脈々とわれわれの文明の頂点の一形式として 伝えられてきたかどうかということだよ……」声の主は、ふたたびミシェル・ランドムだった。 「日本にはそれがある。それがル・ブシドー(武士道)というものだ……」ぴしりと決まった一言だった。 日本人自身がその持てる最上の伝統を擲ってかえりみないときに、西洋人の側からこうした信念の吐露が なされるということも、考えてみれば奇妙なことではあった。(中略) たった一つ、その夕べ、会合者のあいだから洩れた「政治的」発言はミシェル・ランドムが発したつぎの質問だった。 「さきほどのムッシュウ・マユズミの言葉によると、ミシマは、天皇ご自身までが日本の伝統的精神の否定者で あったと見ておられたとのことだが、それはどういうことなのですか?」と。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
303 :
名無しさん@3周年 :2011/02/25(金) 23:24:32.64 ID:MXo0czwf
(中略)日本的神聖の持続の問題は彼にとって重大関心事だったのだ。「日本はまさにカミ(神)の国だよ…」 ぽつりと彼の口を洩れたこの言葉の意味を、その後しばしば私は想いだしたものである…… 「天皇は飽くまで神であらせられるべきだった、というのが三島の考えだったのです」と、そこで私は 『英霊の声』を想起しながらランドムの問いに答えた。「しかし、それにもかかわらず、自衛隊バルコニーで、 『天皇陛下萬歳!』を三唱して三島は死んでいったわけですが……」 「それはじつに重要なことだ! それはじつに重要なことだ!」ランドムは、驚いたようにこちらをじっと見て、 そう繰りかえし叫んだ。頃あいやよしと見て、エマニュエル・ローテンが、立ちあがって声をかける。 「メッシュー(みなさん)、今宵は、われわれの精神の通夜です。談論風発のつづきは、このあと、ぜひ拙宅で やってください。亡き日本の天才をしのんで、心ゆくまで語りあおうではありませんか!」 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
304 :
名無しさん@3周年 :2011/02/25(金) 23:24:59.81 ID:MXo0czwf
(中略)ここでまた何人かの新規の参加者があり、そのなかに美術批評家ミシェル・タピエ氏の姿もあった。(中略) 「私は、ここに、なによりもシントー(神道)を感ずるよ……」 これが、サロンに足を入れるや、ミシェル・タピエがわれわれに放った第一声であった。「ここに」とは、 問題の自刃の行為をさして言ったものであることは、いうまでもない。 「ヨーロッパでは、《混沌(カオス)》といえば、それまでだ。しかし日本のそれは、コントロール(制御) された混沌なのだよ……」警句めいた一言である。(中略) ふたたび黛敏郎氏の記録にゆずろう。 〈…最後に、みんなの希望で、たまたまローテン氏が愛蔵していた拙作で、三島氏も生前好きだといってくれた 『涅槃交響曲』のレコードをかけながら、思い思いの瞑想にふけり、三島氏の魂を慰めようということになった。 『涅槃交響曲』のコーラスの響きが長く尾を引いて静まったとき、ローテン氏は静かに立ち上り、目に涙を 一杯たたえながら即興の詩を朗誦した……〉 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
305 :
名無しさん@3周年 :2011/02/25(金) 23:25:21.89 ID:MXo0czwf
世にも気高い《愛の物語》…… 愛、おお かくばかりの愛! かくばかりの高貴な生! 絶大の荘厳、《意志》の頌歌…… 服喪の空は その暑いしずくを哭き ゆるやかな血流は落日を崇高ならしめる。 九腸よりほとばしる斑点の飛沫! 一体となった双生の命 一心となった二つの手の古代壺(アンス) そして求める《彼岸》への絶対の供物。 入念に死を決意して三島は 意志の典礼を一点にむすぶ―― すなわち森厳の盛儀、切腹の行為を 超越的《放棄》の聖なる戦慄へと。 エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)――三島にささげる詩」
306 :
名無しさん@3周年 :2011/02/25(金) 23:32:08.90 ID:MXo0czwf
千古脈々たる誇らかな儀式(リット)、 この久遠の神話(ミット)よ、 愛まったくして 死かくも辛く潔し。 剣はこのししむらを刺し、鞭打した。 恐るべき死の創傷を深めよと…… だが深められるのは夜ではなく《生の彼岸》なのだ。 介錯がこの供献を成就する。 だが成就されるのは自殺ではなく この讃歌なのだ。 融化した存在、密かなる聖体拝受(コミュニオン)よ! 淋漓たる鮮血にこそ美の高潔があり、 淋漓たる《至誠》の書にこそ 精神の解脱の場がある。 かくてこそ絶対の恩沢へと いま 精神は飛翔する、 大死一番の狂える寛容もて かの無限へと―― 《Kami(神)》の一語もて 名づけられた無限へと…… エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)――三島にささげる詩」
307 :
名無しさん@3周年 :2011/02/26(土) 01:53:56.79 ID:oJz369SE
>>1 三島を叩きまくって
日本民族を滅ぼそうぜ!
在日!やる気!元気!反日!
308 :
名無しさん@3周年 :2011/02/26(土) 11:14:40.96 ID:j4scveS6
偉大な芸術作品はすべてある意味で作者の遺書である、とマルローが三島をめぐって言った言葉が想いだされてくる。 その意味で、たしかに『憂国』ほどぴったりと「遺書」と呼ばるべき作品も稀であろう。 (中略)かつて――一九五八年――ド・ゴール大統領のもとにフランス第五共和国が成立したとき、フランスは アンドレ・マルローを特使として日本に派遣し、国交を樹立したことがあった。そのとき、偉大なる使者は、 満堂の聴衆を集めた講演席上において次のように提唱した。「西欧全体にたいして フランスは日本の精髄の《受託者》たらんとするものであります」と。(中略) 日本の精髄の受託者……この精髄のいかなるかについて、そのときマルローはなんと言ったか? 日本民族によって永遠に記憶され感謝されてしかるべきその言葉を、ここで石碑に文字を刻むがごとく 繰りかえしておくことは無意味ではあるまい。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
309 :
名無しさん@3周年 :2011/02/26(土) 11:15:10.00 ID:j4scveS6
マルローはこう言ったのだ。 〈この日本の精髄について全世界が甚だしい無知のなかにいるということを、どうか、しっかりと肝に銘じて いただきたい。全世界にとって日本とは、依然としてエキゾチズムか絵葉書風景の国、目もあやな、あの版画に 描かれたかぎりの国にすぎないのであります。さればフランスは、なによりさきに、こう表明しなければ なりません―― 日本は中国の一遺産ではない、なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切りはなされて いるから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるように つとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の十二世紀の偉大な画家たちであり、 隆信(藤原)であり、この国の音楽であって、断じてその版画に属する世界ではない、と。〉 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
310 :
名無しさん@3周年 :2011/02/26(土) 11:15:36.05 ID:j4scveS6
〈そして冀(ねが)わくば、日本とフランスとの接近が、フランスをして、その言葉に耳を傾けようとする人々 すべてにたいし、かく言わしめんことを。すなわち―― 諸君が、かくも長いあいだ、目もあやなピトレスクの国民であると思いこんできた人々は、じつは英雄の民だったのだ。 もしこの民族の魂を知らんと欲すれば、彼らの絵画のなかではなく、むしろ音楽のなかにそれを求めよ。 鉄の琴に合わせて歌われたその歌は、死者の歌、英雄の歌、深淵なるアジアのもっとも深淵なる象徴の一つに ほかならない! と。〉 (中略)マルローの講演を聞いて、時の宰相以下の日本の貴顕の士の全代表は、これに熱烈な感動の拍手を送った。 武士道の礼讃――たしかにこれは言うべくして美しい。つまり、遠来の賓客の讃辞としては。だが、その後、 いったい、誰が、教授なりジャーナリストなり批評家なりの誰が、投げられたこのテーマの発展をはかっただろうか? 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
311 :
名無しさん@3周年 :2011/02/26(土) 11:16:03.99 ID:j4scveS6
とんでもない。大半の人々の耳に、フランス文化大臣のあの言葉は、いわば過去の甲冑に対する礼讃として 響いたにすぎないのだ。「武士道と騎士道の対話」ということをマルローが暗示したとき、本気で彼がそれを われわれの文明の死活の問題として呈したのだということに気づいた人士は、まずほとんど皆無だったのである。 そして、おそらく天皇ご自身でさえも……(中略) われわれにとって「武士道」とは、葬りさられたもの、断罪されたものにすぎなかったからだ。(中略) いっぽう、フランスの側から見れば、そんな日本は軽蔑と無視の種でしかなかった。ド・ゴール大統領と 「対話」した日本の政治家にしても皆無である。…池田勇人首相にしても、むなしく相手から「トランジスター 商人」との寸評を得たにすぎない。彼我の観点の相違は、じつに歴然たるものがあったと言わなければならない。 われわれにとって「平和憲法」の名で正当化されるものは、フランスの目にとって隷属の条件にほかならなかった からである。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
312 :
名無しさん@3周年 :2011/02/26(土) 11:16:32.87 ID:j4scveS6
現代の予言者とは、なによりも、「収容所列島」の現実を知り、これにたいして精神と歴史の両面にわたって 絶対的「ノン」のアクションを取りうる人々である。(中略) それはまた、「文武両道」と彼が呼んだものの、現代的発露の方向でもあった。自己の身命を擲(なげう)っても 自由を守ろうとする文化の原理と、自由を擲っても生命以上のものを守らんとする武士道との統合は、がんらい 至高の矛盾の統合であって、およそ「文民統制(シヴィリアン・コントロール)」などという考えをもって 量りきれるレベルの問題ではない。(中略) なぜなら、ここにいう「文武両道」とは、(略)…自衛隊バルコニーから絶叫した次の瞬間には古式に則って 自分の腹を掻きさばいていたという超越的抗議形式によって、ヨーロッパ知識人の目に、「人間の条件」と 「日本の条件」を同時に乗りこえる意志を示した壮絶無比の行為として映ったところのものにほかならないからである。 彼らの目に、この場合、文学的死、政治的死の区別はなかった。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
313 :
名無しさん@3周年 :2011/02/26(土) 11:43:04.04 ID:STiApJR1
大半のネトウヨは、三島にほとんど興味がないか、名前も知らないんじゃないかね。
三島のビジュアルそのまんままねてるのが在日がやってる街宣右翼だったりする
315 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 11:27:38.03 ID:PQezcmRJ
(中略)日本は、他の諸文明が宗教によって「人間の条件」をこえる超越軸を求めてきたときに、ただひとり、 武士道によってそれを求めてきた点において、たしかにユニークだったのである。ここのあたりの実相を もっとも適格に見据えていた人ありとすれば、それが、日本においては三島由紀夫その人であったと言わなければ ならない。(中略) 「一つの墓をも寺をも建てえなかったわれわれの文明……」という、マルローの議会演説中の言葉が、さながら 応答のように、静かに、同時にここでわが胸によみがえらずにはいない。「日本人の死の衝動」と言ったとき、 期せずして三島は、日本のみならず、《彼岸》なき現代文明の運命そのものについて語っていたからである。 「ル・カ・ミシマ」をヨーロッパが、政治に始まり人間に終る、ないし日本に始まり西欧に終る文明の問題として 受けとった理由はここにあるといえるであろう。無理もあるまい。文明の没落の意識において、彼らはわれわれに 半世紀余も先んじた地点に立っているのだ。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
316 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 11:28:04.95 ID:PQezcmRJ
そのようなヨーロッパ的反応の興味ぶかい一例を示そう。巣鴨教誨師として東条英機以下「A級戦犯」七士の 処刑に立ち会った花山信勝師に、そのかけがえのない体験を記録した『平和の発見』なる名著がある。同書の 見事なフランス語版ならびにイタリア語版の翻訳者であるピエール・パスカル氏なる人物が、われわれにとって まことに胸打つばかりの反応を示しているのである。パスカル氏は、一九四九年、『平和の発見』が日本で 刊行された年に、いちはやくこれを入手し、かつ翻訳していたという。しかし、その後二十年間というもの、 訳稿を筐底に秘めておかざるをえなかった。〈過去百年にもわたる進歩主義者たちの放埒のただなかにあっては〉 これほどの本を出版したところで、ただ無理解をうけるのみ、と判断したからである。ところが、三島事件を 聞いてパスカル氏は愕然として目覚めた。そして、時こそ至れと、感嘆すべき克明な注解と研究を付して堂々の 訳書刊行にいたったのであった。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
317 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 11:28:37.57 ID:PQezcmRJ
およそ日本では考え得ざるほどの、自由かつ雄弁なる訳書の体裁であって、じつに内容は、東京裁判に始まって 三島礼讃に終っているのであった! 本文そのものは「東京裁判」にちがいないが、付録の一つになんと 「ユキオ・ミシマの壮絶無比の選択」なる一文が添えられ、さらに巻末には訳者による手向けの歌まで加えられて いるのである。「一九七〇年十一月二十六日、日本の宮中のお歌所の伝統にならいて詠める」と詞書きして、 フランス語による「俳句十二句ならびに短歌三首」が披露されているのだ。題して「ミシマ・ユキオの墓」という。 その情熱、炯眼、大胆に、ほとほと私は感ぜずにはいられなかった。なにより驚いたことは、東京裁判から 三島決起にいたる因縁の糸を見事に読みとき、これを手繰りよせたことであった。日本人が行なってしかるべき ことを、この未知のフランス人がやってのけたのである。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
318 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 11:29:02.29 ID:PQezcmRJ
(中略)これだけの炯眼ぶりを氏が発揮したことの裏には、「東京裁判」そのものにたいするその仮借なき 批評眼があった。いかにしてここから三島礼讃の挙にまで行きついたかを知るために、その主張するところを 瞥見してみよう。 〈…「東京裁判」は、実際には、何人かの被告を見せしめに裁き、全員、愛国心のゆえに有罪なりと宣言したに すぎない。(中略)民主主義思想の愚鈍ぶりは、東条英機をして「ファッシスト的」独裁者たらしめた。これは 歴史的真実に反するのみならず、当時の君主制日本の神制政治上の概念にも相反するものである。諸政党解党に つぐ大政翼賛会の唯一党結成は近衛公の意志によるものであって、東条英機将軍は、公に代って帝国政府の 総帥となるに及び、連合国にたいする政府の決断躊躇をすべて引きつぐ結果となったのである。連合国側こそ、 「経済制裁」に名をかりて、宣戦布告もなく日本を窒息死せしめんとしていた事実を忘れてはならない……〉 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
319 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 11:30:01.62 ID:PQezcmRJ
〈…捕虜収容所の日本人指揮官のなかには、無数の捕虜にたいする扱いが穏当でなかった者も、それは多々 あったであろう。しかし、「捕虜虐待」で絞首刑にされた人々の運命たるや、シベリアへの「死の行進」や カティンの大虐殺をやってのけた連中、またケニヤ・エジプト・北アフリカ・インドなどの収容所の警護者どもの 思いもおよばないようなものだったのだ。 …リチャード・ストリーがその著『近代日本史』のなかで記しているごとく、日露戦争時において、ロシア兵の 捕虜ならびに支那の民間人にたいする日本軍のふるまいは「世界中の尊敬と感嘆を勝ちえた」事実を思うがよい。 でなくして、旅順開城ののち、露軍司令官ステッセルは、なぜ乃木将軍にその白馬を献じようと欲したであろうか?〉 (中略)一冊の極東軍事裁判記録も刊行されなかったフランス、いやヨーロッパにあって、このような発言は 貴重と言わねばならない。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
320 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 23:53:46.72 ID:PQezcmRJ
(中略)パスカル氏はいうのだ。 〈正義の審判の名のもとに《不正義》によって刑死せしめられた人々の想い出が、いまや、裁いた者たちの 想い出よりも日一日と荘厳となっていく。裁いた者たちのほうが、早くも使い捨てという忘却の闇へと沈んで ゆくのだ…(中略) キリスト再臨を待つまでもなく、正義はすでになされたのだ。…あの日、一九七〇年十一月二十五日、… 《夷狄の君臨》にたいして相変らず不感症のまま日本が、黙々として世界第三位の産業大国となりつつあったとき、 ユキオ・ミシマは、その儀式的死によって、みずからの祖国と世界とにたいして喚起したのである。この世には まだ精神の一種族が存し、生者と死者のあいだの千古脈々たる契りが、いまなお不朽不敗を誇りうるということを。 おのれの存在を擲ち、祖国に殉ずることによって、もって護国の鬼 le remords de cette patrie と化さんと、 生の易きに就くよりも、かかる魂に帰一することのほうを、ミシマは望んだのであった。…〉 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
321 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 23:54:22.72 ID:PQezcmRJ
〈個人的絶望によってではなく超越的《愛他主義(アルトルイズム)》によって、かつ、愛のかなたの愛によって 決行されたユキオ・ミシマの聖なる自殺は、《共和国擁護》を叫ぶ古蛙どもの、いつ果てるとも知れぬ金切声の 大合唱を西欧世界に喚起するにいたった……畢竟、それらは、遠い昔にとっくに地に堕ちた名誉なるものに たいする、一種の畏怖心にすぎない。…まるで、もうちょっとで、あちこちに、《反ファッシズム監視委員会》の どさ廻り小屋でも造られかねない勢いだった。〉 (中略)一息入れてパスカル氏は、またも筆を取りなおす。〈このユキオ・ミシマが自己犠牲をあえてした場所が、 「愛国心の囚人」にたいして米軍があえて有罪宣告を下した旧日本帝国大本営の跡地、市ヶ谷台上であったのだ。〉と。 (中略)ミシマに触れたヨーロッパならびに海外の無数の記事のなかで、ずばぬけて出色の出来であったとして 同氏は、一九七〇年十二月一日付のローマ紙「イル・テンポ」に掲載された「東京のハラキリ」なる一文を挙げている。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
322 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 23:55:22.22 ID:PQezcmRJ
尊敬すべき洞察力をもって、その執筆者マギナルド・バヴィエラ氏は書いているのだ。しかも、三島自刃の 直接目的――改憲と防衛の問題にまで突っ込んで。…まず、アメリカの対日政策の変化が語られる。 〈…アメリカ人は、自分たちが精を出した毒草除去の作業が完全すぎたという結果を、恐怖心をもって視つめてきた。 (中略)(ドイツ、日本、イタリア)の野心をあまりにも徹底して摘みとりすぎたために、これら蛇蝎のごとき 三国が歴史のつんぼ桟敷に追いやられて商人国家へと変貌していくさまを、「アンクル・トム」はただ呆然と 見守るほかはなかった……われわれヨーロッパ人が、自国侵略の危険をはらんだロシア赤軍用のトラックを 競争さわぎで製造しつつあるあいだに、もはやどこからも侵略の恐れなしと信じきった日本は、アジアの警備役は アメリカにまかせっぱなしで――日本株式会社は二度と軍事大国になるつもりはないと公言しつづけてきたのである。〉 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
323 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 23:56:36.71 ID:PQezcmRJ
〈なんとかして日本人にもういちど尚武の気概と世界政治の巨視観を持ってもらいたいと、アメリカ人の側で 躍起になってきたのも、むべなるかなというべきである。(中略)全アジアの骨組がひっくりかえってしまったいま、 太平洋の防人の役は徐々に日本に肩代りしてもらいたいというのが、彼らの本音にほかならないからである。 (中略)(日本の)首相は、にんまりと、憲法第九条があるじゃありませんかと応じたものだった。(中略) 恒久武装放棄を声高に誓わされた、あの屈辱の憲法である。(中略)「残酷な戦争をもって日本を敗北せしめたあと、 その憲法をわれわれに押しつけたのは、あなたがたのほうではありませんか。こんどは、こっちのほうでそれを 大事にする番ですよ…」かくて日本は、豪華けんらんとしてかつ陰鬱なるヴァカンスを享受しつづける安楽へと 兎跳びに跳びあがり、富裕にして怡悦なき一億の日本人は、熱狂の空虚を、国家的目標と集団的希望の欠如を、 時とともにはっきりと認識するにいたった。〉 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
324 :
名無しさん@3周年 :2011/02/28(月) 23:57:13.52 ID:PQezcmRJ
〈日本――だが、誰がその真実の姿を知ろう? (中略) 再度日本を訪れたおりに、私自身、ここにはきっと秘密の国が隠れているにちがいないとの直感を持った。 それは、たまたま私が、防衛庁の位置する市ヶ谷の丘を昇っているときのことだった。(中略)訪う人なきこの丘、 いまなお一軍が身を隠しつづける丘から、だが、一つの叫びが、いま、われわれの耳に届いたのだ。沈黙は破られた。 ヴェールは、一瞬、かなぐり捨てられた。ユキオ・ミシマ――この世界的名声の作家が、万人の面前で短刀を 自分の腹に突き立てたのだ。いまはなき特権階級(カスト)、サムライの儀式的自殺である。(中略) 祖国はもはや自分が夢みた国ならずというのでスペインのファランへ党員が自分の心臓に弾丸をぶちこむ。 盟主ロシアが共産党員としての自分の夢を打ち砕いたといってプラハの学生が火だるま自殺する。祖国日本が 非武装に甘んじ、もはや歴史舞台への回帰を放念したという理由で、一人の作家が東京で自刃して果てる。…〉 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
>>1 お前は糞スレ立てる前に三島ぐらい読めw
お前が批評できるようなものじゃないのがすぐ分かるだろw
あるヨーロッパの研究者は『三島を読まない日本人は馬鹿だ』って言ってたけど、本当にそんな奴がいる事に驚いた
326 :
名無しさん@3周年 :2011/03/01(火) 22:49:57.10 ID:1HRQuTBz
〈これら自殺者たちは何を信じ、何を得ようと望んだのか? 世界中の良識の徒は、一様にただ、せせら笑いを 浮かべるのみである。 しかし私としては、この問題を考えるとき、あまたの自殺のイメージをとおして古代ローマがわれわれの心に なお生きつづけているという真実を思わずにはいられないのだ。生を厭うがゆえにではなく愛するがゆえに、 古代ローマ人は自ら生命を断った。これは、この方面の研究の第一人者、ガブリエル・マズネフも書いたとおりである。 たしかに、そこからして彼らは解放者ジュピターを自殺の守護神として選びさえもしたのだった。ジュピターとは、 愛する者のため自己犠牲という至高の自由を選ぶ寸前に彼らが熱祷をささげたところの、最高神だったからに ほかならない。 その後、ミシマに負けじと、事もあろうにゼンガクレンの、しかしミシマを崇拝してやまない一学生が、 「われはよりよき世界に生きたし」という言葉を遺して自殺している。いったい、なにがどうなっているのであろうか?〉 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
327 :
名無しさん@3周年 :2011/03/01(火) 22:51:00.05 ID:1HRQuTBz
〈(中略)ともあれ、私は、ここに告白する。これらの恐るべき秘密をもってわれわれ諸外国の人間のみならず 自分たち自身をもいまなお驚嘆せしめる能力を持った一民族にたいして、そぞろ自分は羨望の念を禁じえない、と。…〉 (中略)三島をめぐる論争は、パリからローマへと飛び火した。「高度経済成長」の奇蹟として世界中の人々を 驚かせてきた日本――は、じつは「政治的には両手を断ち切られた国」(アンドレ・マルロー)であったと、 白刃によって切裂かれたヴェールごしに人々はその実像を初めて直視したのである。(中略)これはわれわれの 問題であるとともに現代史の問題そのものであることを、「イル・テンポ」紙の記事は喚起している。(中略) 現代の日本人がいかに眉をひそめようと、現実に彼らがユキオ・ミシマにおけるこの《日本的流儀》によって 魂を震撼せしめられたという事実だけは、いかんとも覆いがたいのである。 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
328 :
名無しさん@3周年 :2011/03/01(火) 22:52:01.58 ID:1HRQuTBz
ピエール・パスカル氏も、その無数の紅毛人のなかの一人であった。だれから頼まれるでもなく、この人物は、 前述のごとく『永遠の道』一巻の最後に自作のフランス語「ハイク」と「タンカ」を添えて日本の英雄の霊を 弔っている。(中略)全ヨーロッパに向かって敗者日本の声なき慟哭を伝え、その魂魄いまだ死せずと叫んだ、 花も実もあるこの人物の義挙――どうして義挙でないことがあろうか?――を深く徳とし、その二、三首を 拙訳をもって、ここに日本人の感謝のあらわれとしたい。士道の華――それは見事にヨーロッパで咲いたのだ。 ユキオ・ミシマの墓 ピエール・パスカル いましわれいのち消ゆとも火箭(ひや)となり神の扉に刺さりてぞあらむ 獣(けだもの)の栄ゆるときは汝(な)が首を斬りてぞ擲げよ友らつづかむ この血もて龍よ目覚めよその魂魄(たま)は吠えやつづけむわが名朽つとも 竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
329 :
名無しさん@3周年 :2011/03/02(水) 22:39:07.52 ID:zJWcJNNl
330 :
名無しさん@3周年 :2011/03/03(木) 23:15:32.34 ID:Az2Hb9jw
Q――日本は異常な死によって先に三島由紀夫を失い、いままた川端康成を失いました。 (中略)このような死はどう映りますか? アンドレ・マルロー:現在までに、たしかに相当数の日本人作家が自決してきています(se sont tues)。 西欧では、これらの人々をさして自殺した(se sont suicides)と言っているがね。しかし、彼らは、ぜったいに 自殺したなどというものではない。自殺ではなしに自害した、すなわち武士道たけなわなりしころの死とおなじく、 意志の力によって、一死よく生をまっとうしたと見るべきだと思うのです。 アンドレ・マルロー 1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより
331 :
名無しさん@3周年 :2011/03/03(木) 23:15:56.59 ID:Az2Hb9jw
三島については、これは、あまりにも偉大な現実的証というほかはありません。そこには偉大な伝統が息づき、 儀式(リット)がものをいっている。気合もろとも…(左から右へぎりぎりと腹を掻き切る身振りをして) この行為の意義は甚大と言わなければならない!(中略) 日本的自決ということには、はかり知れない大問題が秘められている。いかなる文明も、死なるものをエリートの 与件として問題化したことは他にないからです。ある流儀によってこれを問題化したものこそは、日本の 武士道であった。しかし、武士道と私はいうのであって、日本そのものとは言いません。それにしても、 なにゆえ、ある流儀と、あえていうのか? アンドレ・マルロー 1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより
332 :
名無しさん@3周年 :2011/03/03(木) 23:16:25.50 ID:Az2Hb9jw
ああ、もし人が、《死》なるものがまったく存在しないような一文明と遭遇したとしても、なんとそれは 当然の(自然的な)ことだろう! だれもが、そこでは、子供のころから、自分の自害すべき瞬間を選ばねば ならないと知っているような文明と遭遇することは……。 こういって正しいのか間違っているのか、私自身にもはっきりとは言いがたいのだが……私はね、ガス管で 自殺するよりは三島のやりかたで死ぬほうが、ずっと自分自身にふさわしい気がするんだよ。いま、「自殺」 という言葉を使ったが、これがけっきょく西欧流の自殺と同じでないことは、さっきも言ったとおりだがね…… そう言ったからといって、しかし、どっちの立場を私が擁護するわけでもないが……私には、ただ、川端の死より 三島の死のほうが身近に感じられるというだけのことです。 アンドレ・マルロー 1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより
333 :
名無しさん@3周年 :2011/03/03(木) 23:16:58.53 ID:Az2Hb9jw
そんなことを言ったって、おまえたちの国ではハラキリなどしないではないか、という人もあるかもしれないが、 しかし、われわれにだって拳銃というものがあるからね。そして私の場合だったら、(ガス管やストリキニーネ よりも)やはり拳銃のほうがぴったりする。(中略) 東西の自殺の違いの問題にもどると、このような死の意味を西欧の人間――ということは、つまりヨーロッパと アメリカの両方をひっくるめた人々――が説明しようとすると、かならずキリスト教的観念から割りだしてくるので、 そうなるといっさいが自殺という言葉で処理されてしまうことになって、結局のところ、なにもわからなくなって しまうのが落ちなのです。それは、ちょうど、ヨーロッパの騎士道――これもなかなかに立派なものだったが―― について、騎士たちは自殺したというのと同じことで、的はずれと言わざるをえません。 アンドレ・マルロー 1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより
335 :
名無しさん@3周年 :2011/03/04(金) 19:32:26.51 ID:fSW30ZwN
神風特攻隊のメンバーは、ほとんど例外なくその先祖が武士だったのだよ。 ミシマの本はすべて必読だ。 切腹とは、死ぬことではない。死を行なうことである。 アンドレ・マルロー 竹本忠雄との談話より 私は、どんな日本に関心があるかといえば、それはけっして政治的日本といったものではありません。それは、 永遠の日本(le Japon eternel)なのです。 …この日本は、死の意味においても愛の意味においても音階(ガム)においても、中国とはまったく異なっている。 …日本という国は「日本それ自体」の国であって、そっくりそれを受け入れるか拒否するか以外にありえません。 私自身はこの日本をどう見るかといえば、日本が意味するものはじつに測り知れないものがあると思っています。 アンドレ・マルロー 1969年11月25日、マルロー邸でのインタビューより
336 :
名無しさん@3周年 :2011/03/04(金) 19:34:28.14 ID:fSW30ZwN
覚えておいてくださいよ。切腹は自殺にあらずということを。 切腹とは、祖廟をまえにした犠牲(いけにえ)であるということを。 この庭園も、これまた一個の祖廟ならずしてなんであるか。 アンドレ・マルロー「日本の挑戦」より
337 :
名無しさん@3周年 :2011/03/04(金) 19:35:17.34 ID:fSW30ZwN
一条の滝をまえにしてこのような感銘をうけたのは、私にはまさに空前絶後の経験だった……私は思った―― これはアマテラスだ、と。日本の女神にして、水と、杉の列柱と、日輪との神霊。そしてそこから天帝が降臨してくる。 この垂直の水は、二百メートルの高さから落下しつつ、しかも不動なのだ。 (伊勢・熊野、那智滝を見て) アンドレ・マルロー「非時間の世界」より そそりたつ列柱、そそりたつ飛瀑、光に溶けいる白刃。日本 アンドレ・マルロー「反回想録」より 日本の歴史には《聖なるもの》が洞窟より顕れでる瞬間というものがある。 見よ、日本の夜明けは来る。きっとやってくる。 アンドレ・マルロー 1974年、来日時の在日外人記者団との会見より
338 :
名無しさん@3周年 :2011/03/05(土) 06:29:28.33 ID:AxNHjhEz
スレタイが自分たちに都合が悪いと乗っ取って無理やりでも都合がよい風情に改変する。と
339 :
名無しさん@3周年 :2011/03/05(土) 10:54:08.58 ID:pce4Lzm6
それにしても私は、三島について、いつも心にこう思っているんですよ。なぜ彼は、結局のところ消えさらねば ならなかったのか、と……。あのとき以来、私が自分の胸に問うていることは、こうなのです――あれは、 はたしてなにものかの、つまりほんとうに偉大で価値あるものの始まりだったのか、それともそうしたすべての 終りだったのか、と……。私自身の考えはどうかといえば、それは、なにものかの終りだったのだと思う。 しかし、それがなければ始まりが不可能であるような、そうした終りだったと思うのだよ。さまざまな偉大な 文化の歴史を例にとれば、じつにしばしばその最後はかくのごとしといった例があるものなのだ。 この点について、ロジェ・カイヨウが面白い意見をもっていてね。カイヨウによれば、日本における三島の ケースは、ヨーロッパにおけるピカソのケースと同じだというんだ。カイヨウはピカソを、ヨーロッパ絵画の 《決算者》le Liquidateur と考えていたからね。 アンドレ・マルロー 1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
340 :
名無しさん@3周年 :2011/03/05(土) 10:54:54.92 ID:pce4Lzm6
この決算者とは、大文字でLを書く意味のそれだけれども。つまり、カイヨウは、ピカソの作品を一種の 自殺として考えていたということで、そのようにいえば、きみも、同様にしていかに三島を解釈しうるか、 わかるというものだろう。三島は必要ななにものかだった。そのことは、はっきりしている。 では、いまやそれがいかなる色合いをおびるかということになると、つぎのようにいうのがおそらく賢明であろう。 それは、日本そのものがいかなる色合いをおびるかということいかんにかかっている、と。今後、日本が、その 精神力のある種の化身に、しかもまったく思いがけない化身に行きつくということは、大いにありうることなのだ。 しかし、これについて私の考えるところはこうだ――いまから百年後に日本的精神性の与件は、現在われわれが 持っている与件のすべてをひっくるめたものとまったく似ても似つかないものとなるであろう。すなわちそれは、 まったく別の与件となることだろう、と。 アンドレ・マルロー 1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
341 :
名無しさん@3周年 :2011/03/05(土) 10:55:23.07 ID:pce4Lzm6
「なんぴとかが別の生のもとに生まれかわったとしても、その人間は、自分の過去世においてどういうことが 起こったかということにもはや気づかないであろう」(『豊饒の海』) ……しかし、にもかかわらず、過去世は存する。《業》によってそれが存するゆえに。いや、業と言ったのでは 日本固有の考えではないから、たとえば《ヒロイズム》と言おう。このヒロイズムこそは、別の生における あなたがた日本人のありかたというものを一変せしめたものなのだ。諸聖人の《通功(コミユニオン)》のように。 このようなヒロイズムこそは人類をある程度一変せしめたものであって、幾千年もの他の事象とともに 《輪廻転生》les reincarnations と呼ぶにふさわしいものだ。なぜなら、彼らはすべて、こう考えているからだ ――すなわち、いわゆる法燈伝なるものは、〈覚者(ブッダ)〉の群れを外にしてはこれ迷信にすぎない、と。 一個の人物が別の一人物に転生するにあらず、ただ普遍的輪廻転生があるのみ、と……。この点『マスの法典』の 意味は了然 formel といわねばならない。 アンドレ・マルロー 1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
342 :
名無しさん@3周年 :2011/03/05(土) 11:00:08.19 ID:pce4Lzm6
いいかね、英雄的日本は、いまに、かならずや(不可避的に inevitablement)現われてくるであろう。 一個の国なるものはその魂の上に横たわっているのだから。 ところで、現在の日本は、かつて遭遇したことのない最悪の状況下に置かれている。それというのも、第二次 世界大戦の結果、貴国は、どうみてもアブノーマルとしか見えない諸々の生活条件のなかで世界最強の国の一つと なってきたからだ……。このような状態のままで、なにもかもがつづいていいというはずがない! ……アメリカ人は、話し相手は中国だと信じこんでいるが、そんな話合いは書割(デコール)にしかすぎない。 太平洋の問題とは日本なのだから。 いつの日か、いまわれわれがここで話しあっている事柄は、きっとドラマチックな形をとって現れることとなろう。 そしてそうなれば日本は、フランスがド・ゴール将軍のもとに再統合されたように、あるべき日本の真の姿の もとに再統合されることとなるだろう。 アンドレ・マルロー 1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
343 :
名無しさん@3周年 :2011/03/05(土) 11:00:35.47 ID:pce4Lzm6
一個の国民は、みずからのもっとも深い魂がはたしてこれでいいのかとなったあかつきには、いやおうもなく この魂の上に自己を再発見することを迫られていくものだと、私は信じている。しかるに、現在の日本が 置かれた条件が、繰りかえしていうが、根本から非道 deraisonnable なものであるというのに、どうして この日本がこのままでいいというはずがあろうか、いや、とうていそんなはずはありえないと私は思うのだ! いや、私ばかりではない、私が会ったアメリカの大統領たちをはじめ国家要人は、すべて、私とおなじ目で 問題を見ていることに変りはない。 アンドレ・マルロー 1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
344 :
名無しさん@3周年 :2011/03/05(土) 11:02:39.74 ID:pce4Lzm6
日本は、中国が原爆を持っていなかったあいだは、ずっとアメリカと友好関係を保つことができた。しかし、 中国が原爆を持ってからというものは、あなたがたは、いままでの現実を敷き写しにして生きていくわけには いかなくなっている。そこで、どうしてもつぎのいずれかの解決を必要とする段階に立ちいたるであろう。 すなわち、この原子爆弾をアメリカからもらうか、またはその自力製造権をどこからか獲得するか、あるいはまた ソ連から原爆を入手するか、そのいずれかを必要とする岐路に立たされるだろう。 日本のような国柄の国家が、人口八億もの人間を擁し、しかも原爆によってあたながたを破壊する能力を有する 中共をまえにして、手をこまねいていることははたして可能か……。 中共が原爆を持った以上、日本もそれを持たずにはいられなくなる。持つべきか否かと自問した結果、持たない ということが不可能になってくる……。 いずれにせよ、なにがどうなろうとも、日本という国は『このままでけっこう』というような国ではあるまいと 私は見ています。 アンドレ・マルロー 1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
345 :
名無しさん@3周年 :2011/03/08(火) 23:43:03.70 ID:uJ9Erl0z
三島由紀夫が他界してから、彼の死を中心にして実に多くの本が出版された。この現象は今後も続くと思うのだが、 僕が読んで納得がいく三島由紀夫論、三島由紀夫評は、全部に目を通した訳ではないものの、意外に少ないようだ。 僕は、三島由紀夫が死をもって問いかけたのは、手続き民主主義とも呼ばれる今の体制の中で、本当のナショナリズムを 形にすることは可能なのか、という問題だったのではないかと思う。そのように視点を定めてみると、見えて くることがいくつかある。僕は、ナショナリズムを国粋主義、排外主義と同一視するのは、伝統尊重を保守反動と 同じと見る考えと共に、いわゆる進歩主義の大きな誤りだと思っている。 (中略)戦後のわが国の議会主義が政策を中心としたものではなく、手続きを中心にした民主主義を本質として いたことが現れているように僕には思われる。 辻井喬「叙情と闘争」より
346 :
名無しさん@3周年 :2011/03/08(火) 23:43:34.19 ID:uJ9Erl0z
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や 行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。彼の目に、それは思想的頽廃としか 映らなかったのである。確かに、このような社会構造の中にあっては芸術は死滅するに違いない。 しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか 見なかった。もしかすると戦後の社会は、1970年の時点ですでに烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、 その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失っていたのかもしれない。 辻井喬「叙情と闘争」より
三島とネトウヨって明らかに方向性違うと思う ネトウヨってただ単に嫌韓親米の保守派気取り(実際は左翼的)だが、三島は違うでしょ。 三島は“真の保守とは何かを体現しようとした”男。口先・ご都合主義のネトウヨとは全く違う
348 :
名無しさん@3周年 :2011/03/09(水) 18:09:54.97 ID:oH4Bfvmc
>>347 全面的に同意。
考え方に賛否はあると思うが、自らの命を賭した三島と
ネットで引きこもってアメリカの国益を求め
日本国民を罵倒し、多民族を差別するネトウヨなんかでは
天と地ほどの違いがある。
349 :
名無しさん@3周年 :2011/03/09(水) 18:14:06.24 ID:bTs5lyO0
350 :
名無しさん@3周年 :2011/03/10(木) 16:19:09.94 ID:1QpiLyDS
>>348 日本国の歴史や伝統を貶め
支那や朝鮮に媚びる年金乞食のネットサヨより
ネットウヨの方が遥かにマシだよ。
351 :
名無しさん@3周年 :2011/03/10(木) 16:27:22.70 ID:eCr+pwTM
占領軍を進駐軍と呼び、 マッカーサーに本気で敬礼した旧日本兵。 イラク人のようにだらけた敬礼をするのが普通なんだよ。 そういう意味では不安だな。
352 :
名無しさん@3周年 :2011/03/10(木) 17:15:19.96 ID:HNmF5Aly
この機会を逃すと永遠に埋もれてしまうので、三島由紀夫という人間の誠実さについて述べておきたいと思います。 三島さんは、自刃のちょうど一ヶ月前の昭和45年(1970)10月25日に、『東文彦作品集』の序文を 書いています。この東文彦氏は学習院時代に親しくしていた文芸部の先輩で、同人誌『赤絵』はこの東氏の 父君である季彦氏の援助で創刊しています。三島由紀夫は、事件の数ヶ月前に講談社の野間社長に自分が序文を 書くので、東氏の作品集をぜひ出版してくれと頼み、承諾を取ったわけです。このことは、自刃するにあたり、 世話になった方への恩返しをし、後顧の憂いなく事を起こすという事だったのではないかと思われます。 三島由紀夫と東文彦氏は学習院時代手紙を数多くやりとりしていました。お互いに信頼しあった文学上の先輩・ 後輩関係だったのですが、東氏は昭和18年に23歳で亡くなり、三島由紀夫は告別式で弔辞を読んだそうです。 そこには堀辰雄も列席していたといわれています。 佐藤松男 持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
353 :
名無しさん@3周年 :2011/03/10(木) 17:15:37.36 ID:HNmF5Aly
(中略) じつは、この東文彦氏の父君の東季彦という方は学長職も歴任していた私の大学時代の恩師なのです。(中略) その東先生から伺ったことですが、三島さんは息子の命日には今も家にお参りに来てくれると言っていました。 (中略)世界的作家になったあとも、命日にはみえていたということです。凄いのはそれにもましてそのことを 三島はだれにも語っていなかったということです。 これは三島由紀夫の年譜などを見ても、そのことについては書かれていません。あれほど自己顕示欲の強かった 三島由紀夫が、お参りに行ったというのを誰にも語らなかったのですね。普通の人だったら、俺は昔世話に なった人のことはいつまでも忘れない、だから俺はいまもってお参りに行っているんだとすぐ言いそうなものですが、 それをひと言も言わなかった。(中略)ここに私は三島由紀夫の律義さと誠実さを見るのです。この律義さと 誠実さが結局はあの事件の要因の一つになったのかとも考えてしまいます。 佐藤松男 持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
354 :
名無しさん@3周年 :2011/03/10(木) 18:06:07.89 ID:J/5UMOjj
俺は自民党の党友だったが、いまの自民党にはもううんざりじゃねーの 自民党に投票したくても、石原幹事長とかジュニア小泉を見ると ガキに見えてきて、まだ民主党のがましに見える。 多少は経済とか法律がわかるスキルを身にてつけてほしい。 自民党だってパチンコ献金が多いのだから政権とっても1ヶ月持たないよ。
355 :
名無しさん@3周年 :2011/03/13(日) 17:45:49.23 ID:vN1R9lnf
ところで、三島は尻に入れたのか、入れられたのか。大事な質問じゃあ。
未曾有の大地震から早くも2日が過ぎようとしているが、入ってくるのは悲惨な知らせばかりである。文字通り、数十年に一度の国難といってよいだろう。 被害に遭われた方々、そのご家族の方々には、改めて心からお見舞いの言葉を申し上げる次第だ。 また、被災地で懸命の救援活動に当たっている警察、災害救助隊、自衛隊、その他の方々の働きには、ただただ頭の下がる思いである。 自身の無力さを嘆きつつも、現時点では義援金などの形で少しでもお役に立ちたいと考えている。 地震被害にあわれた方には、心からお悔やみを申し上げたい。 奇しくも、11日(金)菅総理の外国人献金がばれ、自民党の大島副総裁が「驚天動地!」といわれたその数時間後の出来事である。 カルト的思考といわれるかもしれないが、どうもこの国が売国政権に牛耳られているときに限って、天変地異が多いような気がしてならない。 思えば、95年の阪神大震災も、村山政権という未曾有の暗黒内閣が日本を支配しているときに起こった。果たして、これらは偶然なのだろうか。 とはいえ、今回の大地震が菅政権にとって有利に働くか、不利に働くかは現時点では分からない。 無論、狡猾な菅総理のことだ。地震を理由(いいわけ)にして、自信の政権延命を図る可能性は高いだろう。 「未曾有の地震という大災害を前にして、野党の皆様にも党派を超えた危機時代の挙国一致体制を・・・」などと言い出すことは目に見えている。 しかしながら、売国と権力維持にしか興味のない民主党政権が、自然災害に対処することは不可能である。村山内閣の二の舞になることは確実だろう。
357 :
名無しさん@3周年 :2011/03/14(月) 17:33:57.77 ID:alu8JCCJ
>>350 そもそも「よりマシ」って考えがネトウヨのおかしいところ。
「よりマシ」って事は
>>347 の言う
>ネトウヨってただ単に嫌韓親米の保守派気取り
これは認めてる事になる。
愛国者を自称するなら自国に干渉してくる国は例外なく排他的なもの。
本来なら、「嫌韓親米」なんていわれたらそれを否定する。
なのに、それをしないで認めちゃってる。
358 :
名無しさん@3周年 :2011/03/14(月) 17:37:24.44 ID:alu8JCCJ
更に言うなら
>>348 の言っている
>ネットで引きこもってアメリカの国益を求め
>日本国民を罵倒し、多民族を差別する
これさえも否定しない始末。
ネトウヨが親米の名の下にアメリカの国益求めるだけでなく
自国民を貶める発言繰り返したりしているのは認めてる。
これが愛国者のする事かね。
359 :
名無しさん@3周年 :2011/03/14(月) 19:48:36.22 ID:YTiD3jfn
支那ポチもアメポチもどっちもどっちだからお互い喧嘩はやめなさい。 日本人なら今それどころじゃない筈、と三島由紀夫なら言うでしょう。
360 :
名無しさん@3周年 :2011/03/16(水) 11:40:48.45 ID:uH7Ibw7e
日本の安全保障について、疑問点を二つほど提起しておきたいと思います。第一の疑問点は、安保条約第五条の 共同防衛条項です。(中略)第五条に共同防衛として日本国の施政下にある領域において、いずれか一方に対する 武力攻撃があった場合に、共通の危険に対処することが明記されています。が、問題なのは、その中に「自国の 憲法の規定及び手続に従って行動する」と謳われているところです。それは、福田先生がフジテレビの番組 「世相を斬る」海外版で、エドワード・ケネディ上院議員と対談した際に台湾を守る米華条約は「台湾に危機が 迫つたとき、アメリカはそれを助けるかどうか、議会で審議する義務があるといふ程度のものだ」とケネディ議員が 明言していたからです。米華相互防衛条約(1979年失効)を調べてみると安保条約のこの条文とほとんど同じ文言に なっています。ということは日本も台湾と同様の扱いを受けることになるのは間違いないでしょう。 佐藤松男 持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
361 :
名無しさん@3周年 :2011/03/16(水) 11:41:51.47 ID:uH7Ibw7e
(中略)台湾は「タダ乗り」の日本と違って、アメリカの要求に対してお釣りが来るほど防衛努力を行っていた 国ですが、その台湾に対して、ケネディ上院議員のこの発言です。(中略)このケネディ発言を通してアメリカの 相互防衛条約に対する本音が垣間見えてくるようです。 二つ目の疑問点は、アメリカの「核の傘」の信憑性です。このことについては、キッシンジャーの『核兵器と 外交政策』(1957)を取り上げ考えていくべきかと思います。(中略)キッシンジャーはその中で注目すぺきことを 述べています。(中略)そのキッシンジャーが全面戦争に際し、西ヨーロッパを守るにあたって、合衆国の 大都市を犠牲にすることを躊躇しており、西半球以外のあらゆる地域、当然日本もそれに含まれていますが、 それに対しては、守る価値がないように見えるであろう、と書いているのです。この発言は「核の傘」を考えるに あたって、見逃すことのできない重要な意味を含んでいると思われます。 佐藤松男 持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
362 :
名無しさん@3周年 :2011/03/16(水) 11:42:23.33 ID:uH7Ibw7e
要するにアメリカは、ロシアや中国を相手に最終的にはアメリカ本土を犠牲にしてまで、同盟国を守れないと いう事であり、このことは、茶化すようですが、「己のごとく汝の隣人を愛せ」というクリスト教の愛の思想は イエスとその弟子たちのみが実践できたに過ぎないので、格別驚くことではないのかもしれません。が、保守派の 知識人で安全保障問題に口出しする人達は、これらの問題について、きちんと論じるべきだと思います。また、 ここ三十年位完全に精彩を欠いている左翼知識人ももう一度勉強し直して、我々国民の「知る権利」に是非応じて もらいたいものです。要はアメリカが助けに来てくれる保証などどこにもないということを肝に銘じ、同盟を 結びつつも対米依存から抜け出し、自国の防衛はできるだけ自国で当たるという「人類普遍の原理」に一日も早く 立ち還るべきものと思います。 佐藤松男 持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
363 :
名無しさん@3周年 :2011/03/16(水) 11:42:47.53 ID:uH7Ibw7e
それから、小泉、安倍政権下の改憲論では、憲法第二十条の信教の自由について、全く触れられていません。しかし、 三島由紀夫も晩年主張していたように、占領軍は、自分達が唯一神のクリスト教徒ですから、宗教というのは 排他的な非寛容的なものだという先入観で被占領国の習俗的なものまで宗教として裁いて、神社はだめだとやった 訳です。ですから改憲する場合には必ず第九条だけでなく、天皇条項、第二十条の信教の自由も全部セットで、 行うべきで、一部分だけの改正というのは、本質が解っていないという事と、なにかアメリカとの関係からとしか 思えない。戦後レジームからの脱却だとか言っていたけれども、結局はアメリカからの要請による憲法改正なの でしょう。だからけっこう罪は重い。一見、戦後体制を脱却するような標語を掲げながら、実際にはアメリカに 一方的にますます組み込まれていくような内容での改正でしかないのですから。 佐藤松男 持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
364 :
名無しさん@3周年 :2011/03/16(水) 11:44:09.70 ID:uH7Ibw7e
(中略) もし三島由紀夫がいま生きているとしたら核武装についてどう考えるかというと、これは条件次第だと私は思います。 先ほどの憲法問題ともリンクすることですが、憲法の改正あるいは憲法を廃止するにしても、いまの憲法に対する 明確な基準ができること。これが一つ。もう一つは日米安保条約に対する明確な双務性を盛り込むこと。この二つの 条件がクリアできれば、核武装については少なくともいつでも核を持ちうるように技術開発は進めるべきである、 おそらくそう考えるだろうと思いますね。 いまの北朝鮮の問題を見てもわかる通り、あんな小さな国がアメリカあるいは五ヶ国を相手に五分の外交的 駆け引きをしているのですから、やはり核は外交上のそれなりの力になっていると思います。ですから三島先生が いま生きていれば、おそらく核武装に対するアプローチをかなり積極的にしていただろう。ただし、そのためには 憲法と安保条約に対する条件を検討した上でのことですけれどもね。 持丸博 持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
365 :
名無しさん@3周年 :2011/03/19(土) 12:36:45.45 ID:gq+e1QxB
人は、自分で自分を制するのが、一番難しい。 他人の欠点は、よく見えるが自分には甘い。他人にやさしく、自分に厳しいという人はなかなかいませんが、 先生は、そのどちらでもないです。 全ての事において他人にも厳しいが、自分にも厳しかった。 時間の使い方も、普通の人とは違っていました。これ程までに時間を大切にして生きてきた人にこれまで会った事が ありません。 当時、四十を過ぎていた先生は、「楯の会」の二十代の若者に囲まれて、いつも元気でうれしそうでした。 大きな口を開けて、大きな声で笑い、瞳はつねにキラキラ輝いていました。筋肉いっぱいの腕を大きく広げ、 ついでに自慢の胸毛を見せながら、身体全体で、おしゃべりしていました。 それは、それは、いつでも、とても楽しそうに……。 ところが、どんなに騒いでいても、どんなに楽しそうであっても、自分で決めた時間になると、まるで今までの ことが無かったかのように、ぴたっと人が変わって別人になる。 松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
366 :
名無しさん@3周年 :2011/03/19(土) 12:37:00.52 ID:gq+e1QxB
やさしい瞳から、すべてを射るような厳しい目に一瞬にして変わる。時間をスパッと切ってしまう。 もう、そこには、誰も入れない。誰も寄せ付けない。 多くの人は時間に引きずられて、もう少し……などと時間に負けてしまうのに、先生は刀で竹を割るように 時間を切る。 何と、まぶしく男らしく映ったことか。 あの澄んだ瞳、遥か遠くに焦点があるような力強い不思議な瞳を持つ人に、私は、その後、今もって出会ったことが ありません。 先生は、真剣に生きていらした。純粋に。ひたむきに。 まさに一瞬、一瞬を生きることを楽しんでいるかのようでした。 先生にとっては、一時、一時が美しい文学であり、人生そのものが一編の小説であったのかもしれません。 松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
367 :
名無しさん@3周年 :2011/03/19(土) 12:37:16.17 ID:gq+e1QxB
(中略) 昭和44年8月の暑い夏の日、持丸との婚約のご挨拶のため、馬込の三島先生のお宅を訪問しました。 先生はにこにこされて、とても上機嫌で、溢れるような笑顔で迎えて下さいました。 先生の机の上には、いつも紺色に白鳩のデザインの、お洒落なピース缶が置かれていました。缶の蓋を開け、 指に挟んでたばこを吸うポーズをとってはいますが、先生が実際にタバコを吸って、煙を出している姿は記憶に ありません。お洒落な紳士は、女性の前ではたばこは吸わないのかもしれません。(中略) しばらくすると、お手伝いの方が、お茶とお菓子を運んで下さいました。 「どうぞ」 と言われて、茶器の蓋をとって、びっくり! 茶碗いっぱいに大きな櫻の花が一つ。ひらひらと花びらが揺れています。 「わあ! 綺麗!」 感激して思わず叫んでしまった私に、先生は満足そうに、にこにこと笑みをうかべてくれました。先生は、 どんなことにも真剣でしたが、この時も全身で喜んで下さいました。 私は、あの時の先生の笑顔を一生忘れる事はないでしょう。 松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
368 :
名無しさん@3周年 :2011/03/19(土) 12:49:39.81 ID:gq+e1QxB
(中略) 私が、三島先生と最後にお目にかかったのは、昭和45年11月26日の夜でした。 先生が割腹されたのが、その前日、11月25日ですから不思議に思われるかもしれません。が、確かに私は この日先生と最後の言葉を交わしました。 (中略)今でもあの日の先生の表情、声、すべて鮮明に浮かんで来ます。 衝撃の25日が過ぎた翌日、私は疲れきって、ぐっすり眠っていたのでしょうか。 その夜は、夫は研修か夜勤で留守でした。 トントンとドアを叩く音に目を覚まし、扉を開けると、そこに三島先生が立っておられました。 突然の訪問で驚きましたが、いつもの先生ではない、ただならぬ気配が伝わって来ます。 「先生どうなさったのですか?」 先生の後ろに誰かの姿があるようだ……が、誰かはわからない。 「とにかくおあがり下さい」 (中略)ともかくも座っていただいた。先生の後ろにたしかに人影があるのだが、ぼおっとして判らない。 あわててお茶の準備をしようとすると、 「すぐに遠くに出かけなければならないから、お茶はいいよ」 と言われました。 松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
369 :
名無しさん@3周年 :2011/03/19(土) 12:50:16.23 ID:gq+e1QxB
とてもお急ぎの様子で、どこかに行かれる途中立ち寄った感じである。 「持丸君は?」 と聞かれましたが、夫はいない。 「今夜は、夜勤で泊りです」 と答える私に、少しがっかりされた様子でした。 「そうか……残念だなあ……じゃ芳子さんから、持丸君に伝えて欲しい。後の事はたのむと……。とにかく 後のことはたのむと、それだけは、伝えて欲しい。くれぐれもよろしく伝えて欲しい。」 「はい、わかりました。必ず伝えます」 先生は、何度も念をおされて、ほっとした様子で席を立って行かれようとする。 何故か、どうしても止めなきゃ! 不安になり 「先生! これから何処にいかれるのですか?」 とお聞きすると、振り返り、静かに深くうなずいて行ってしまわれました。 夜が明けてから、私は、ただ茫然とするばかりでした。 先生がいらっしゃったのは、夢だったのだろうか? 夢にしてはあまりにもリアル過ぎる。 確かに夫は夜勤でしたし、夢の訳がない。先生は、あの世へ旅立つ途中に寄ってくださったのだ。 とすれば先生の後ろの人影は、森田必勝であったかもしれない。 先生は、旅立ちの前に、最後の言葉を下さったと、私は今でも信じている。 松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より
370 :
名無しさん@3周年 :2011/04/02(土) 11:59:53.67 ID:lmQADJX1
私が初めて三島由紀夫を町で見かけたのは中学三年生の夏。(中略) 友達と三人でアイスクリームを食べながら歩いていたら、前方から絶対に見覚えのある人が歩いてきた。 「あっ、ほらあの人、三島由紀夫だよ!」と友だちが興奮気味に叫んだ。シーっと人差し指を唇に当てたものの、 私の胸はドキドキと高鳴った。私たちが興奮した理由は三島由紀夫の大ファンだったからというわけではなく、 この年の四月に封切られたセンセーショナルな映画『憂国』をすでに観ていたせいだった。(中略) 忘れようにも忘れられない顔の三島由紀夫が、なんとこの下田に突然現れて前方から歩いてくる、なんて。 興奮を抑え切れない私たちに、黒いサングラスの三島氏は唇の片側の端を少し上げるようなスマイルを浮かべながら、 私たちの横を通りすぎた。あのときの胸のときめきを私はずっと覚えている。 当時はマスコミをにぎわす有名な作家として中学生にもよく知られていたので、その姿をまざまざと見た感激も あったけれど、それとは別の、なにか宇宙人的な、硬い静かなオーラが一瞬放たれて私の中にスッと入ってきた ような感覚があった。 横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
371 :
名無しさん@3周年 :2011/04/02(土) 12:01:01.33 ID:lmQADJX1
私たちは、サインしてくださいと言いそびれたし、それを言うには映画の印象が強烈すぎたのだ。誰かが 「後つけちゃおうか」と言い出した。キュッとしまったお尻、なんとなく親近感をおぼえる小柄な後ろ姿は 後をつけるには最適の口実だった。 あの日の三島さんは、ちょっとメッシュがかった黒いシャツに細身の白のトラウザーと白い靴を履いていた。 強い日差しの中でその白さが目にしみるようだった。(中略) 三島さんは宇宙人的オーラを発散させながら一メートル四方に入れない近づきがたい雰囲気を漂わせていて、 だからこそ私たち中学生に、もっと近づきたい、追っかけてみたいという気にさせたのかもしれない。『憂国』の 主人公を追っかけたいし、何より私たちはヒマをもて余していたのだった。(中略)三島さんは脇見もせずに、 機械的にカツカツとした足どりでまっすぐに背を伸ばして歩いている。 大工町のゆるい坂を上り大浦の切り通しと呼ばれる、江戸期に船を取り調べるお番所があった方角に向かってゆく。 その先は海だ。 横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
372 :
名無しさん@3周年 :2011/04/02(土) 12:01:30.18 ID:lmQADJX1
(中略)「そういえば前に見た写真もスゴかったよね。ロープでぐるぐる巻きにされてすごい形相してるやつ」… (中略)(写真集『薔薇刑』を)私たちは図書館で見ていた。その表情から、痛めつけられながらもどこか それが好きというオーラを私たち中学生は感じ取ったのだろう。 「よし、三島由紀夫をおそっちゃおう!」という突拍子もないアイディアが生まれてしまった。 (中略)私たちは忍者のように追っていった。でもいったいどこまでゆくのだろう。 鍋田浜手前のトンネルに入ったので少し距離をあけた、見つかったら大変。ドキドキしてきた。私たちがトンネルに 入ったとき、三島さんはちょうど東急ホテルのプールへの上り道を登ろうとしていた。 そのときだった。急に三島さんが私たちの方を振り向いた。そして黒めがねを上に上げてアッカンベーをしたのだ! キャッと声を上げて私たちは後ずさりした。要するに、ずっとお見通しだったわけだ。中学生は簡単に遊ばれて しまった。 三島さんの目はやさしく笑っていた。 横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
373 :
名無しさん@3周年 :2011/04/02(土) 12:03:27.01 ID:lmQADJX1
(中略) 昭和45年7月7日のサンケイ新聞に掲載された「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」は三島さんの 遺書としてたびたび引用される。 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまう のではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、 ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」 1980年代の経済バブルを見事に三島さんは言い当てた。現在の日本はというと、コロコロと世界に類を 見ない早さで首相がかわる不安定な「自信のない国」になっている。デモもクーデターも若者の反抗もなし、 平和ボケは極まっている。 私は、いまこそ、三島由紀夫の死の意味を考えるべきだと思う。その死は美とエロティシズムに導かれたもので あったとしても、大局的には、アメリカに支配された「日本という恋人」に向かっての死を懸けたメッセージ だったのだ。 横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
374 :
名無しさん@3周年 :2011/04/02(土) 12:06:33.77 ID:lmQADJX1
切腹はあの日の日本人の意識を変えさせるくらいの衝撃であり、あれくらいの憤怒を示さなければ、私たちは、 本来、日本人のもっている魂に気づかない、と思ったことだろう。実際その効力はジワジワと年月を超えて 私たちの脳内に浸透している。日本を愛する心について真剣に考えたい。 犬死にと笑われてもいい。五十年後の日本人が理解してくれれば……。 私は、市ヶ谷での「檄文」を三島由紀夫の最後の叫びとして素直に評価したい。ヤジと怒号の中で「男一匹が 命を懸けて訴えているんだぞ」とバルコニーから叫んだ言葉を信じる。三島由紀夫の「本気」を信じる。なぜなら、 私がある鑑識の方から見せてもらった事件直後の写真には、「本気」以外の何物も写っていなかったからだ。 凄惨な場面ではあったけれどそこにはなんともいえない清潔感があった。三島さんの顔は少年のように白く 清らかで安らかだった。 横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
375 :
名無しさん@3周年 :2011/04/02(土) 12:06:52.95 ID:lmQADJX1
三島さんはやりきった! そう思うと不思議なことに晴れ晴れとした気持ちが湧いてきた。これが「大きな仕事を するので来年は来られません」という意味だったのだ。 今年も三島由紀夫の来た夏が巡ってきた。 私はいつも思い出す。三島さんの愛した下田の夏のさらっとした風を。どこかやさしげな直射日光を。手を挙げて 「また来ましたよぉ」と呼びかけながらお店に入ってくるまぶしい笑顔を。肉体が発していた不思議なオーラを。 「あなたは、なーんにも心配することはないんですよ。のびのびとおやりなさい」「遊びにいらっしゃいね」 という声のトーンを。 四十年以上も私の中に住みつづける三島さんは、私の父のようであり、兄のようであり、演劇部の先生であり、 とびっきりステキな人であった。でも、いまの私の気持ちを言おう。 長い年月を過ぎて三島さんの姉貴のような年になった私にとって、彼は、私にアッカンベーをするかわいい弟に なったのだ。永遠に頭の上がらない弟に。 横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
376 :
名無しさん@3周年 :2011/04/02(土) 12:08:43.10 ID:XyluNLgY
これって、著作権侵害とちゃう? 著者の許可を得てやっているの?
377 :
名無しさん@3周年 :2011/04/03(日) 20:29:40.98 ID:ETErN+cC
「それにしも、小泉首相はこれまで見たことも型の指導者だ。「郵便局は公務 員でなければできないのか」「民間でできることは民間に」。単純だが響きの いいフレーズの繰り返しは、音楽のように、聴く人の気分を高揚させる。」 2005年(平成17年)9月11日(日曜日)朝日新聞社説 ( ´,_ゝ`)プッ >マスコミが小泉を持ち上げたのは就任当時だけだったろ。 マキコを切ってからは、もう総出で叩きまくってたぞ。何見てたんだお前? 朝日新聞はマスコミじゃないのか? ( ´,_ゝ`)プッ
378 :
名無しさん@3周年 :2011/04/07(木) 16:18:05.86 ID:L0znolnm
三島自身にとって、その行動は、謎でもなんでもなく、思うところを果断に行なった結果にすぎない。それにも かかわらず、われわれは、いまだに謎を見つづけている。いや、さらに謎を膨らませるのに精を出しているような 気配である。なぜなのか? もしかしたら、謎を見つづけることによって、三島がわれわれに突きつけている問題を 直視するのを避けているのかもしれない。正面切って取り組むよりも、謎の領域へ押しやって置くほうが、 われわれには好都合なのであろう。 松本徹「三島由紀夫の最後」より
379 :
名無しさん@3周年 :2011/04/12(火) 11:04:33.29 ID:UdvjlPCN
三島の、非常にドストエフスキー的でロシア的な情念の力は、彼の文学の全て、行為の全てから感じ取れる ものである。自らの信念と理想に忠実に生き、割腹という終末へと向かった作家は、彼がいかに異文化的な側面を 持っていようとも、ロシア人の愛の包容から逃れられるとは思えない。三島の最初の本がロシアで出版されてから 二十年が過ぎたが、それ以来、多くの三島作品が何回再版されてきたのかもう私は知らない、いつか数えるのを やめてしまったから。劇場では三島のドラマが上演され、ロシアのブログでは、三島の名が愛情を込めて ロシア化され、“ミシンカ”とか“ミシミッチ”と呼ばれており、彼の写真はゲイクラブやジムなどを飾り、 Tシャツにもプリントされている。それどころか、ロシアには三島の生まれ変わりがいるのである。エドワルド・ リモノフという、有名な作家でマッチョ、過激な若者達の英雄、そして三島の「楯の会」を思い起こさせる、 国粋的なボルシェビキ党のリーダーである。そのリモノフは、メディアからたびたび“ロシアの三島”と呼ばれている。 ボリス・アクーニン「ロシアの作家ミシンカ」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
380 :
名無しさん@3周年 :2011/04/12(火) 11:09:49.78 ID:HzkY/Rsj
ネトウヨが三島を知っている分けない。ネトウヨは漫画は読むが 小説、特に純文学なんて読まないし、そんな知性があったら、ネトウヨ にならない。
381 :
名無しさん@3周年 :2011/04/12(火) 11:11:58.64 ID:UdvjlPCN
三島がその文学の出発点においてすでにテロの美に惹かれていたことはあらためて言うまでもない。(中略) 『十五歳詩集』の冒頭に置かれた詩「凶ごと」の第一連に「わたしは夕な夕な/窓に立ち椿事を待つた、/ 凶変のだう悪な砂塵が/夜の虹のやうに町並みの/むかうからおしよせてくるのを」とある。椿事すなわちテロを、 そして美を待つ心は、多かれ少なかれ誰にでもある。だが、三島は幼くしてそれが言語の事象であることを 熟知していたように思われる。というより、三島は、言語の事象の極北に、テロとその美を見出したのだと思われる。 むろん、三島にとってだけではない。テロも美も言語の事象にほかならない。 問答無用はテロリストの常套、したがってテロは言語を拒否するように思えるが、逆だ。テロがたんなる殺人以上の 意味を持つのは、人間が身体であるとともに役割すなわち意味であるからだ。人間においては意味とは言語である。 テロは身体である人間を殺すことによって、意味としての人間を消す、人命は地球よりも重いというその人命の 意味を消し、修辞の欺瞞を嘲笑う。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
382 :
名無しさん@3周年 :2011/04/12(火) 11:12:19.95 ID:UdvjlPCN
テロは、人間の二重性、人間が身体の次元と意味の次元に同時にかかわるという二重性を前提にしている。むろん この二重性はパラドックスとともにある。自殺のパラドックスと同じだ。自殺は自己否定だが、それは自己否定の 自己否定であるほかなく、論理的には成立不可能なのだ。自殺する自分を否定することは自殺の不可能性を 意味する。ここにはエピメニデスのパラドックス、ゲーデルがその不完全性定理によって形式化した自己言及の パラドックスが潜んでいる。にもかかわらず多くの人間が自殺するのは、人間がもともと二つの次元にわたる 存在であることを示している。自分を殺す自分は、生きている自分を超えた次元に立っていなければならない。 これが言語の次元であることは三島には自明のことだった。言語はこの世にあってこの世を超えている。 これを精神の次元と言っても、超越論的次元と言っても同じだ。彼岸と言っても、神と言ってもいい。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
383 :
名無しさん@3周年 :2011/04/12(火) 11:12:43.04 ID:UdvjlPCN
十九世紀以降は、神の代わりに、民族や、歴史という名目で語ることが流行した。人は、民族のため、歴史のために 命を捧げるようになったが、論理的に違いはない。神も民族も歴史も、個人の上位にある次元、個人の生命に 比べれば永遠と言っていい次元を意味している。人間は言語がある限り自殺するだろうし、テロをつづけるだろう。 自爆テロは人間の条件の極限を示す。三島は自刃することによって、人間の二重性を強烈に示したことになるが、 それは身体についても物質についてもひたすら言語の側からのみ眺めていたからである。 三島は出発の当初からこの二重性を鋭く意識していた。(中略)人生が作品を包み込むというより、作品が人生を 包み込んでいる。『憂国』『英霊の声』『十日の菊』という、いわゆる二・二六事件三部作はむろんのこと、 初期の『花ざかりの森』や『中世』から、中期の『鏡子の家』を経て、『豊饒の海』へといたる過程の全体が、 三島の人生の最期を包み込んでいる。 三島由紀夫のこのような在り方は二十世紀の文芸批評の在り方とは決定的に対立すると思える。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
384 :
名無しさん@3周年 :2011/04/12(火) 11:13:09.76 ID:UdvjlPCN
作家と作品は別であり、テクストはテクストとして自立的な世界を作り上げるというのが、アメリカのニュー・ クリティシズムからフランスのヌーヴェル・クリティックにいたるまでの基本的な姿勢である。テクストは自立し、 作家の実人生とは何の関係もないというこの思想はしかし、人間存在そのものがテクストとしてある、いや、 テクストとして以外にありえないという簡単な事実を無視している。 自己という現象は、テクストとしてしか現象しえない。三島は、ルソーと同じ『告白』という表題、『仮面の告白』 という表題の小説で、戦後の文壇に華々しく登場した。この事実は、自己がテクストとしてあること、その テクストに対する解釈であるほかないもうひとつのテクストすなわち文学作品は、結果的に無限遡及――謎――に 陥らざるをえないことを、三島自身、熟知していたことを示す。三島の文学は一般には私小説とは名指されないが、 むしろ極限的なかたちで私小説という形式を示していると言っていい。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
385 :
名無しさん@3周年 :2011/04/12(火) 11:15:48.30 ID:UdvjlPCN
(中略) 安部(公房)は、その初期から自己言及のパラドックスに人間の条件を見ているが、三島も同じだ。たとえば 『美しい星』は、自己言及のパラドックスそのものを主題にした作品である。(中略)三島は人間のこの パラドックスをひとつのメランコリーとして描いている。『仮面の告白』の印象的な言葉を用いれば、「罪に 先立つ悔恨」として。これは『仮面の告白』のヒロイン・園子との恋愛にともなう感情を表わしたものだが、 三島はすぐに「私の存在そのものの悔恨」という言葉を用いて、それが全存在にかかわるものであることを 示している。悔恨には多くの訳語が当てられうるだろうが、三島自身がそれを深い悲しみと形容している以上、 メランコリーと訳すべきだろう。 三島の主人公の多くは終わってしまった人生を生きているように描かれている。みな既視感のもとで行為している。 この既視感はどこから来るのか。(中略)言ってみれば、自分で自分を死後の眼で見ているのである。世界が すべて終わったように感じられるのは必然である。この感覚が三島の主人公たちを苦しめているのだ。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
386 :
名無しさん@3周年 :2011/04/12(火) 11:16:13.47 ID:UdvjlPCN
これは言語の病、言語という病である。 テロも美も、はじめは、この非現実感から逃れる手段として要請されたように見える、たとえば『金閣寺』がそうだ。 テロと美による陶酔が疎隔感を忘れさせるという論理がそこにある。だが、テロだけではない、美もまた二重性の もとにあるのだ。(中略) 白川静は、古代中国の甲骨文の研究によって漢字の起源を解明した現代のもっともすぐれた漢字学者のひとりだが、 「美」に含まれる「大」は羊の後ろ足であって、美はすなわち羊であると述べている。だが、その「羊」は神への 生贄の羊であって、ただの羊ではない。それが美しいのは、神への生贄だからである、というのだ。つまり、 美には、はじめから神のために死ぬもの、という意味が含まれているのである。美しさの内実は、犠牲と畏怖なのだ。 美もまた彼岸と此岸を結ぶからこそ美なのである。 この事実は、「美は恐るべきもののはじめ」という、リルケの『ドゥイノの悲歌』の有名な一行を思い起こさせる。 三島が全存在的に惹かれた美もまたこのようなものであったことは指摘するまでもない。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
387 :
名無しさん@3周年 :2011/04/13(水) 11:35:31.65 ID:bhFQQ/PF
三島の全文学、いや全人生を貫いて「サン・セバスチャンの殉教」というルネサンス絵画の主題があるが、 それはドストエフスキーにとってのホルバインの「キリストの遺骸」に匹敵する。(中略) 美はこの世にあってあの世を、つまり永遠を暗示する。救済とはそういうことだ。したがってテロと美が似て いるのは必然と言わなければならない。ともに、現在の自分を超える何かに犠牲的にかかわることである。 テロも美も永遠と現在を含んでいる。とすれば、それもまた人間の条件――言語という条件――を極限的に示して いるにすぎない。 人間は自身のなかに人間的ならざるものを含んでいる。人間的ならざるものを含んでいるところに人間の本質がある。 あの世という観念は、その人間的ならざるものの中心にある。だがこれは、言語という現象をたんに二重に 対象化したにすぎないのではないか。三島が逢着したのもまた同じアポリアであったように見える。政治の前に 文学は取るに足りない。だが、政治こそ文学、言語の技なのだ。歴史という文学がそれを証明している。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
388 :
名無しさん@3周年 :2011/04/13(水) 11:36:02.92 ID:bhFQQ/PF
(中略) 三島があの世とこの世という思想に親しんでいたことは、十代から早熟な天才として日本ロマン派の人々と深い 親交があったことからも疑いない。(中略)三島が保田(与重郎)のロマンティック・アイロニーという概念を 自分なりに吸収し、それによって自分のメランコリーを基礎づけたことは否定できない。 (中略)このアイロニーすなわち逆説がいまも重大な問題としてあるのは、ほぼ同じ心情がイスラム原理主義の テロリズムのなかにも感じられるからだ。 (中略) 神も虚無も、宙吊りのままでその力を発揮するのではないか。これがおそらく、三島が保田から必死の思いで 引き出したアイロニーの技法であったように思える。橋川(文三)ならばまさに頽廃と呼ぶだろうが、とすれば 頽廃は言語そのものに潜むのである。 むろん、三島が全身で摂取したのはアイロニーだけではない。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤と流れる日本の 近世国学の思想をも、保田とその周辺の文学者たちから吸収していたのである。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
389 :
名無しさん@3周年 :2011/04/13(水) 11:36:31.96 ID:bhFQQ/PF
(中略) 不合理ゆえに我信ず、と言ったのはテルトゥリアヌスである。神の存在は疑わしいからこそ、日々、信仰を 決断しなければならないのであって、疑いもしないものは信仰が薄いのだ。(中略) 人間はすべて半信半疑の世界に住んでいる。言語を所有したということはそういうことだ。言語によって人は 解釈の世界に住むことになった。人は、自分が何ものであるか、自分自身に向かって解釈しなければならなくなった。 自己とは自己を解釈し、しかるのち自己にふさわしい行動をするということだ。とすれば、人間の行動とは すなわち装うことではないか。人間はまず、他人に対してではなく、自分自身に対して自分は自分だと言い聞かせ なければならない。安部公房が最後まで繰り返した主題だが、これが同じように三島の主題でもあったことは 『美しい星』が、また『豊饒の海』が証明している。 紙幣はたんなる紙切れにすぎない。犬や猫に通用しないのは、それがたんなる紙切れだからである。しかし、 人間には通用する。これを、全員が通用するように装っているからだと解釈してもまったく不都合ではない。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
390 :
名無しさん@3周年 :2011/04/13(水) 11:37:15.64 ID:bhFQQ/PF
現に通用しているという事実から、通用させている力を想定し、それを神と考えるところに形而上学が生じる。 人間はおそらく、すべては装っているだけだと考えるのは不安なのだ。貨幣を価値づけているのは人間の労働で あるとマルクスは考えたが、人間の労働という概念も、神という概念も、さかのぼって見出された根拠すなわち 幻影であることに変わりはない。ニーチェが言ったのは、そういうことである。ニーチェは、宗教や社会のみならず、 経済こそ無根拠だ、つまり恐慌こそが自然なのだと宣言したのである。 貨幣が通用するのとまったく同じ仕組みで、言語も通用している。ひとつの語を、自分が感じているように他人も 感じているという保証は、どこにもない。そしてその言語の上に、あの世が築かれているのだ。三島の生と死が 浮き彫りにするのはこの問題である。 日本文学には三島の死後、村上龍が登場し、村上春樹が登場する。(中略)これらの若い作家たちは、興味深い ことに、みな、あの世のことを、あからさまに、あるいはそれとなく、書いている。あたかも、文学がそれを 要求しているのだというように、書いている。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
391 :
名無しさん@3周年 :2011/04/13(水) 11:50:35.21 ID:bhFQQ/PF
(中略) 半信半疑こそが、言語を持った人間の常態なのではないか。そしてこの半信半疑こそ、人をテロへと、美へと 駆り立て、さらにそこから逃げ帰らせるものなのではないか。 イスラム原理主義のテロリストの多くが、中流以上の裕福な家庭に育った高学歴者であることは広く知られている。 ある意味で、9・11以後の世界は明治維新後の日本に似ている。古来のコスモロジーのもとにあの世を中心と する世界を復興させようとする勢力、いわば反動的な勢力が、明治維新の力になったのである。しかしその運動の 先端に立って新政府を樹立した人々はやがて彼らの母体を裏切り、結果的に、西洋文明を全面的に受容することに してしまった。この矛盾の軋みが、近代日本の度重なるテロを惹き起こしたと言っていい。昭和維新はその最後の ひとつと言っていいが、その担い手たちは、資本主義はむろんのこと、共産主義も社会主義も知らなかったわけ ではない。並みの人間よりははるかによく知っていたのだ。イスラム原理主義の人々にしても同じことだ。思想と 行動は数式のように等号で一致するわけではない。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
392 :
名無しさん@3周年 :2011/04/13(水) 11:51:00.99 ID:bhFQQ/PF
平田篤胤は、戦後、ファシズムを惹き起こした危険な思想家と見なされた。だが、近世日本におけるきわめて 興味深い思想家であることに変わりはない。篤胤は、日本神話のコスモロジーすなわち神道を、世界宗教にまで 高めようとしていた。彼は、キリスト教をも含めて、世界さまざまな宗教に関心を持ち、研究していた。篤胤以後、 何人かの思想家、とりわけ右翼の思想家が、イスラムに関心を持ったのは自然なことだと言っていい。彼らの 多くは、神道とイスラムには似ているところがあると考えた。たとえば、イスラムには神の代理人が存在せず、 誰もが神と直接つながるところに、自分たちが理想とする天皇制と同じものを見出したのである。 三島と、日本の若い作家たちと、イスラム原理主義のテロリストたち。およそ結びつかないように思われるが、 そうではない。すべて最終的には言語の問題に帰着するからだ。三島の生と死は、言語のこの不思議な仕組みを 浮かび上がらせる巨大な閃光としてあったと思われる。 三浦雅士「テロは美か――三島由紀夫の現在」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
393 :
名無しさん@3周年 :2011/04/13(水) 16:38:29.88 ID:vYl5Jan0
三島由紀夫「花ざかりの森・憂国」には南京大虐殺が出てくる。新潮文庫P137 > 私は愕然として、顔をあげて草田を見た。何でも知っている友は言葉を継いだ。 >「あの川又という老人は、もとの有名な川又大佐なんだよ。君も知ってるだろう。南京虐殺の首 >謀者と目された男だ。 > あいつはとうとう身を隠して、戦犯裁判から逃げとおした。もう大丈夫となると、姿を現わし >て、この牡丹園を買いとったんだ。 > 戦犯の罪状には、彼の責任をとるべき虐殺が、数万人に及んでいる。しかし本当のところ、大 >佐がたのしみながら、手ずから念入りに殺したのは、五八○人にすぎなかった。 > しかも、君、それがみんな女だよ。大佐は女を殺すことにしか個人的な興味を持たなかったん >だ。
394 :
名無しさん@3周年 :2011/04/18(月) 01:10:04.69 ID:7Z4l1hGb
2006年に共産党の吉井英勝代議士が国会で「5メートルの津波が来たら、引き波で海水面が低下し、 原発の冷却水が取水出来なくなる」と指摘。 原子力保安院長は当時、日本の原発の8割にあたる四十三基で冷却水の取水が出来なくなると認めた。 この時、自民党の二階堂俊博経済相(当時)は、こういったのだ。 「安全確保のため、省をあげて真剣に取り組むことをお約束したい」 しかし、東電社員はこう証言する。 「緊急事故対応のマニュアルはあります。 しかし、津波や地震の被害が複合的に起きた際の対応は決められていませんでした」 地震と津波はセットのはず。非常用のディーゼル発電が、津波で冠水して使用不能と いう事実は、あまりにもお粗末である。 「そもそも戦後、原発を米国から輸入したのは読売新聞の”中興の祖”である正力松太郎氏です。 (自民党議員の)国会議員でもあった彼の政治的な野心の現れでした。 1950年代半ば、東京電力は米ジェネラル・エレクトリック社の”沸騰水型”の原発を導入し、 その技術は東芝と日立に引き継がれました。」 以上週間文集3月31日号記事抜粋敬称加筆 私達は長年の間だ自民党に原発は安全だ安全だとだまされてきた!!安全なんてうそだった!! 原発が安全というのならば千年に一度の地震や津波にも耐えれる原発を造ってから原発は安全だといえ。 原発は一度放射能漏れを起こせばそれで終わり。東北全域、関東全域は放射能に汚染されているという現実。 原発を省をあげて安全確保のために真剣に取り組むと約束したのになにもしてこなかった自民党。 もう原発推進してきた自民党と原発は信用できない。 自民党が原発を推進してこなければ今回の福島第一原発の放射能漏れはなかった。 自民党が原発以外の発電方式を推進していれば今回の放射能漏れも計画停電も無かった。 すべては原発を推進してきた自民党の責任である。 自民党は福島第一原発の放射能漏れ事故の責任を取れ!!
395 :
名無しさん@3周年 :2011/04/20(水) 16:35:07.88 ID:IEBEQ6en
政治的、イデオロギー的含みを持たせた、三島の暴力的行為と自己破壊によって、日本のなかに生じた衝撃と 当惑は、かなり長い間続いたように思われる。その結果として、ある種の麻酔と沈黙がもたらされたようだ。 ここ何十年か多くの外国人は、三島について質問するとき、相手の日本人の態度からそう感じとってきた。 ピヴェンは、次のように言っている。「日本人の多くは、まるで三島が鬼っ子であり、彼の読者は倒錯的な 狂信者であるかのごとく、ぎこちなく口を閉ざそうとする」と。恐らくこうした日本人の反応は、この出来事が 一種のトラウマとして受け取られていることを証し立てている。(中略)さまざまな方法で三島に触れ、三島を 扱っている多くの作品においては、主に三島の死が中心的モチーフとなっており、そのような傾向がこの質問に 正当性を与えているように思える。この四十年間、日本の文学界において、高度に知的で抽象的な小説から風刺や 魔術的リアリズムに到るまで、三島と直接関わる、あるいは少なくとも彼を間接的に参照している数多くの詩や 小説や物語を目にすることができる。 イルメラ日地谷=キルシュネライト「世界の文学と三島」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
396 :
名無しさん@3周年 :2011/04/20(水) 16:36:04.82 ID:IEBEQ6en
(中略) 村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』でも三島事件は、やはり軽い調子で取り扱われている。(中略)この作品の キーとなる第一章には、三島事件が起きた日付である「1970/11/25」がタイトルとして付けられている。(中略) 三島事件は、この場面においてだけではなく、作品全体の文脈においてもハイライトとして機能すべきものなのだ。 また、青海健が指摘しているのは、三島の死を「日本の死」あるいは「日本文化の終焉」の象徴として受け取り がちな一般的傾向に対する、カタカナの横文字をふんだんに使ったこのシーンが持つアイロニーである。(中略) 若い女がやがて自らの夭逝を予言するこのシーンは、物語を前に進めるための仕掛けとなっている。(中略) この小説のなかでは、ひとつの歴史的出来事と交差させ、主人公の人生のある瞬間を際立たせるために三島事件が 使われているのだが、同時にこの作品は、主人公の生と死に対する姿勢が、三島のそれとは著しく異なって いることをもはっきりと示している。 イルメラ日地谷=キルシュネライト「世界の文学と三島」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
397 :
名無しさん@3周年 :2011/04/20(水) 16:36:26.90 ID:IEBEQ6en
(中略) 私が知る限り、三島由紀夫というテーマに最も強くコミットしてきた作家は、大江健三郎である。大江はこれまで、 それこそあらゆる機会を利用して、三島の文学から、人間三島から、三島のあらゆるものから距離をおこうと 試みてきた。それにもかかわらず、あるいは、まさにそのために、大江健三郎は、亡き三島由紀夫に祟られて いるかのように見えてしまう。(中略)最近英語で出版された大江文学を分析した本においても、やはりこの作家の 多くの作品における、三島に取り憑かれたかのような現象“enduring obsession with Mishima”が確認されており、 それらの作品が書かれた時点において、三島はとっくに死んでしまっていたにもかかわらず、相も変わらず 三島に焦点を合わせずにはいられない大江健三郎という文学者の名は、将来政治的な層において、常に三島の名に 連なるかたちで連想されることになるかもしれない、そうこの本の著者は予測していた。 イルメラ日地谷=キルシュネライト「世界の文学と三島」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
398 :
名無しさん@3周年 :2011/04/22(金) 11:16:55.04 ID:i6tQE8i8
メタファーに満ちた物語である『英霊の声』を舞台にすることの最大の困難は、一見したところ、プロットの 描写がまばらにしかないという点にあるように見える。その上、降霊の儀式に参加した者たちは、英雄達の死の声を 聞くだけで、ほとんど動くことがない。だが実際のところ、この事実は、この作品を能楽として演出することの 可能性を広げているのである。(中略)『英霊の声』を舞台にするためには、死霊の描写をその強度を殺がずかつ 単純化しすぎることのないように、言葉によらない演技に移す必要がある。このような試みは最初はほとんど 実現不可能に思えるかもしれないが、能楽がつねに象徴的で複雑な話を扱ってきたことを考えれば、実行可能で あるように思われる。最もありふれた「カタ」を見てみれば、能楽における定められた規則や一連の動作によって、 嘆き、悲しみ、誇りといった『英霊の声』を構成する全ての感情だけでなく、風や雨なども表現することが 出来るだろう。能は儀式的で様式的であるが、これらを制限的なものと考えるよりも、既存の規則は出来事を 美学的に詩的な強度を備えた形で舞台で表現する機会を与えてくれるものと考えることができる。 レベッカ・マック「三島由紀夫の『英霊の声』――近代の能楽として」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
399 :
名無しさん@3周年 :2011/04/22(金) 11:17:23.13 ID:i6tQE8i8
(中略) 劇場の持つ形式的な条件も、舞台に仕立てることの困難もともにクリアできる。というのは、この小説の様々な 細部は、能楽の標準的な形式と一致しているからである。このテクストが様々な媒体によって演出されうることを 認識するのは、『英霊の声』を能楽として読むことで二通りに作品を読解し全体を理解するために重要である だけではなく、構造というのは内容のレベルにも遡及するという点からも重要である。戦後の退廃に対する英霊の 不満は、したがって、形式のレベルにおいて、日本の美である古典劇の伝統という最良の例に対比されるのである。 作品が初めて出版されて以来、三島自身がこの作品が二つの媒体において演出できるような構造になっていることを 明言してきたにもかかわらず、『英霊の声』が今まで決して劇として読解されることがなかったのは悲しむべき ことである。(中略)近代の物語を能楽のように構成することで、三島は伝統的な日本文化は創作に応用できるし、 また応用されるべきだということを示したのである。 レベッカ・マック「三島由紀夫の『英霊の声』――近代の能楽として」 イルメラ日地谷=キルシュネライト編「三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト」より
400 :
名無しさん@3周年 :2011/04/25(月) 16:49:47.68 ID:AAkbwK+p
(和歌には)作者名が表記してなくても、「読み人知らず」の歌は、日本人の心に広く支持されている。 「三島由紀夫」というペンネームは、ある意味での「読み人知らず」である。(中略) 『花ざかりの森』が掲載された『文芸文化』昭和十六年九月号は、文学者「三島由紀夫」の誕生した記念号であるが、 その号で蓮田善明は、新人作家・三島由紀夫の可能性を信じ、「悠久な日本の歴史の請し子」と絶賛している。 「請し子」は、通常は「申し子」と書く。「申し子」は「授かり子」とも言い、神仏の化身として、人間界に 出現した貴種のことである。三島由紀夫は、「日本の歴史」と「日本の文化」のスピリットが、仮に人間の姿をして 生まれてきた天才、とされたのである。これを私の問題意識に引き付ければ、三島の書く文章や三島の語る言葉が、 日本の歴史と文化の普遍性を体現した「読み人知らず」の言葉である、ということになる。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
401 :
名無しさん@3周年 :2011/04/25(月) 16:50:23.13 ID:AAkbwK+p
(中略) 三島は平安文学のエッセンスである『古今和歌集』と『源氏物語』の森の奥へと分け入ってゆく。三島にとって、 和歌や物語は、単に優雅な文化ではなかった。醜悪な現実と戦い、勝利するための最強の武器が、和歌だった のである。つまり、和歌は「文武両道」のシンボルだった。(中略) 和歌には、天の神や地の神を動かし、歌人の願いを実現するだけの力がある。和歌には、どんな強敵でも退散させ、 歌人の大切な世界を守るだけの力がある。和歌には、好きな人の心を引き付け、歌人の恋愛を成就させるだけの 力がある。和歌には、優雅な「もののあはれ」とは別次元の、「切った張った」の命のやり取りをしている武士の 心を和ませるだけの力がある。 この和歌の道のヒエラルキーの頂点に立つのが、天皇である。天皇は、『古今和歌集』から始まる「勅撰和歌集」の 撰者を命じる立場にある。日本が「和国」と呼ばれるのは、「和歌」の精神に支えられているからだという説がある。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
402 :
名無しさん@3周年 :2011/04/25(月) 16:50:42.53 ID:AAkbwK+p
(中略) 国難に遭遇するたびに、南北朝期の南朝方や、幕末期の勤王の志士たちは、「愛国歌」を高唱した。三島由紀夫も また、そのような愛国的な和歌を好んでいた。ところが太平洋戦争の末期、日本文化が欧米文化との戦いで劣勢に なった時、日本人は『愛国百人一首』の和歌を必死に唱えたが、「神風」は吹かなかった。日本は敗れ、 昭和二十年八月十五日に無条件降伏した。 これは、「和歌の敗北」であった。日本文化が敗北したのであり、日本文化の申し子である三島由紀夫の世界観も また、一敗地に塗れた。 なぜ、神風は吹かなかったのか。それは、和歌が無力だからなのか。あるいは、紀貫之が「力をも入れずして 天神地祇を動かし」と宣言した意味を、その後の日本人が読み間違えて、和歌の力を過大に錯覚したからなのか。 それとも、和歌文化の頂点に立つ天皇の資質の問題なのか。ここに、三島が戦後日本にとっての「天皇」の意味を 問い続けた根本的な理由がある。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
403 :
名無しさん@3周年 :2011/04/25(月) 20:53:22.90 ID:DN9ezCgq
尻に入れてから抜くとうんちがくっついてくるのかよ?臭いなあ、ホモって。
404 :
名無しさん@3周年 :2011/04/26(火) 06:26:45.55 ID:GiaGjHJs
あ? ケツにシャワーのホース突っ込んで洗浄してからやるに決まってんだろ これだからバカサヨわw
405 :
名無しさん@3周年 :2011/04/26(火) 06:55:12.01 ID:PuRGzZMF
忘れていたよ過去に居たね 時代遅れの割腹自殺した親父が居た居た。 其れもサラリマン自衛隊幹部が居る所で アホ右翼だよね 何も成らずじまいで終わり.惨め
406 :
名無しさん@3周年 :2011/04/26(火) 10:31:35.99 ID:jTlHo7cx
「(三島由紀夫の)絶えず真剣に生きることを望み、『にせものの平和、にせものの安息』(「白蟻の巣」)を 軽視する姿勢は、今となってみれば、だらだらと生きるわれわれへの痛烈な批判となっている。現代の日本人の ありようを予見していた天才だったと思う。」 なかにし礼 「三島さんのあの『行動』を基準点として、そこからの距離をはかりながら考へるのが習ひ性となつてゐます。」 長谷川三千子 「戦後教育で『人の生き方』だけを教わり、『死に方』を教わらなかった。衝撃でした。 身の処し方、諫死の是非、日本人の責任のとり方、等々あれこれ考えさせられました。今は当時以上に、強く 考えます。」 出久根達郎 「七〇年までは、激しいものこそが美しかった。音楽、絵画、文学、演劇、映画、そして人間の生き方も。 三島由紀夫氏の死は過激が美しかった時代の最後の花だったな、と今になって思います。」 佐佐木幸綱 雑誌「諸君!」三島由紀夫特集アンケートより
407 :
名無しさん@3周年 :2011/04/26(火) 10:33:17.43 ID:jTlHo7cx
あかい一本の道のはて 君のなかのふかい歎きが 君のなかのふかい悲しみが その肉体を一挙に運び去った けはしく光る雲のした あかい一本の道のはて われらはみな愛した 責務と永訣の時を 歴史の不如意に足摺した君よ 装いをあらためて君は 虹の門から過ぎていった 君の英霊は鶴となって 故国の秋の天を翔ける 浅野晃「哭三島由紀夫」より
408 :
名無しさん@3周年 :2011/04/26(火) 19:03:34.65 ID:B36cTQzj
そっかあ、ケツの穴にホース突っ込んで洗ってからチンポコ入れるのかあ。 だからウンチはくっついて来ないのだ。いやあ、さすがに日本浪漫派、 ロマンチックだなあ。宝塚みたい。
409 :
名無しさん@3周年 :2011/05/01(日) 12:46:00.76 ID:+O40hytE
>>402 続き
(中略)
ところで(兵庫県)印南郡の平岡家には、かつて「しおや」(塩屋)という屋号があった。松本健一は、
「塩焼き人夫」「漁夫」としての出目を三島が持っていた事実に着目している。(中略)
三島には、漁師や魚売りを主人公とする作品がいくつかある。『潮騒』の新治、そして『鰯売恋曳網』の
鰯売である猿源氏。彼らは、「魚」だけでなく、「理想の恋」をも釣り上げようとする。新治は富裕な船主の娘を、
猿源氏は都で一番の傾城(遊女)を。「卑賎の男が高嶺の花に恋をする」という発想の形式は、漁師という身分を
離れると、三島の『近代能楽集』の一編『綾鼓』のようなストーリーになる。
世間に多いのは、貧しい女性が高貴な男性の奥方に収まる「玉の輿」のストーリーである。三島が描いたのは、
「逆・玉の輿」のパターンである。『午後の曳航』などの「船員」という職業も、「漁師」の現代的な変型だと言える。
島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
410 :
名無しさん@3周年 :2011/05/01(日) 12:46:55.71 ID:+O40hytE
三島は、男の「成り上がり」という通俗文学のストーリーを踏襲することで、何を描きたかったのか。おそらく、 人間が神という存在に、少しでも近づきたいと憧れる気持ちを、「身分違いの恋に苦しむ男性」に託したのでは なかったか。 その一方で、上流社会から賎しい職業として低く見られがちな「人夫」や「汚穢屋(糞尿汲取人)」への特別の 関心が、三島にはあった。(中略) 人間が、神の高みにまで昇ろうとする憧れ。それは、不可能であるがゆえに、いっそう強く掻き立てられる。 不可能への挑戦。大きな壁があるから、それに挑戦しようとする情念が高まる。絶対の不如意に直面した絶望感と、 その壁に挑む不退転の覚悟。これがロマン主義者の信条である。 そして、自分の持って生まれた「賎しい身分」という実存状況を変えることのできなかった人間たちのあがき、 苦しみ、絶望にも、三島は強い関心を抱く。神という至高の視点から見下ろせば、華族も富豪も、所詮は汚穢屋と 似たり寄ったりである。高みから見下ろされている喜び。見られていることの快楽。それが、三島に「人生を 演じる」ことの恍惚を教えてくれた。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
411 :
名無しさん@3周年 :2011/05/01(日) 12:47:22.38 ID:+O40hytE
(中略) 永井尚志(1816〜91)は、三河奥殿藩主の子で、旗本の永井家を継いだ。勝海舟と並ぶ江戸幕府の海軍の創設者の 一人で、長崎海軍伝習所の初代長官も勤めた。(中略) つまり、三島の祖母の祖父である永井尚志は、「海の男」だった。三島由紀夫は、生涯「カナヅチ」で、まったく 泳げなかったと言われる。にもかかわらず「海」に憧れる男たちを描き上げた。「船」や「帆」は、三島文学の キーワードである。泳げないという「壁=不如意」があるから、かえって「海」が輝かしく理想化されるのだ。 (中略) 『潮騒』のクライマックスで、新治は台風の中、大荒れの海に飛び込み、船の命綱を浮標につなぐことに成功する。 この迫真の水泳シーンを、カナヅチの三島がなぜ描くことができたか。そこに、三島文学の本質がある。現在の 自分が泳げないからこそ、そして永遠に自分が泳げないであろうことが確実だからこそ、「泳ぐ」という行為を 激しく理想化し、恋しているのだ。それが、三島のロマンティシズムであり、創造力の源泉である。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
412 :
名無しさん@3周年 :2011/05/01(日) 12:51:14.72 ID:+O40hytE
(中略) お伽噺を読む三島少年の膨張する「想像力」が、突然に創作熱という「創造力」へと変容する一瞬の奇跡が、 『仮面の告白』では語られている。(中略) 三島少年の夢を育み、後年の小説家としての創造力の基盤となったのが、これらのお伽噺の数々だった。中でも、 『黒い騎士』だった。死んでも死んでも、魔法のダイヤモンドの力で生きかえる王子様。それを独自の読書方法の 発明と実践によって殺すことに成功した三島少年。三島文学を愛読している読者ならば、はっと気づくだろう。 三島のライフワークとなった「豊饒の海」シリーズのテーマである「輪廻転生」は、この「七度死んで生まれ 変わる王子」を母胎としているという、まぎれもない事実に。 (中略) 驚くべきことに三島少年は、七回も「輪廻転生」を繰り返す「不死の若者」に、自ら「創造力」を武器として 切りかかり、彼に見事な「死」を与えることに成功した。それが、「省略」という読書法の発明だった。この時、 三島は後に小説家になるのに必要な「創造力」という刀を、手に入れた。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
413 :
名無しさん@3周年 :2011/05/02(月) 11:50:48.47 ID:7ARwCIlu
(中略) 『仮面の告白』の結末は、「私」と園子の別離だった。この結果を残念に思うのは、私だけだろうか。(中略) それにしても彼女は、なぜ「草野」であり、「園子」なのだろう。まず気づくのは、三島が好んだ和歌の世界では、 「草」と「園」が「縁語」であるという事実である。なおかつ、三島が好んだ『源氏物語』には末摘花という女性が 登場し、異彩を放っていることである。末摘花は、亡き父親を心から崇拝し、草が茫々に生い茂る蓬生の宿で、 心静かに暮らしている。「園子」は、三島にとって末摘花であり、彼女の亡父(常陸の宮)が「三谷隆正」なの だろう。むろん、三島の分身である「私」は、光源氏である。(中略) もう一つ、考えられるのは、『旧約聖書』の「雅歌」である。(中略) 三谷隆正がキリスト教精神の体現者だから、その姪である女性には、『旧約聖書』の「雅歌」を思わせるような 名前(草野園子)が与えられたのではなかったか。 ちなみに、「鹿」と「園(苑)」が組み合わさっているものに、釈迦が悟りを開いた「鹿野園(鹿野苑)」がある。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
414 :
名無しさん@3周年 :2011/05/02(月) 11:51:13.59 ID:7ARwCIlu
(中略) 「私」は園子の純粋さを前にして、「自分がその美しい魂を抱きしめる資格のない人間であること」に苦悩する。 これは、園子の背後に、三谷隆正、さらにはキリスト教が存在しているからである。「私」は、「この年になって、 あやめもわかぬ十九の少女との初恋に手こづつてゐる」ありさまである。 「あやめもわかぬ」は、『古今和歌集』読み人知らずの、 ほととぎす鳴くや皐月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな という和歌を踏まえた表現である。三島は、『古今和歌集』を心の底から愛していた。「力をも入れずして 天神地祇を動かし」という有名な仮名序だけでなく、和歌の一首一首を暗記するほどに愛誦していた。すなわち、 三島の分身である「私」は、和歌に代表される「日本精神」の申し子である。理性ではなく、情念の世界に 生きている。「私」と「園子」の愛がもし成立すれば、生ける三島由紀夫と死せる三谷隆正の師弟関係が取り結ばれ、 日本文化と西欧文化とが一つに繋ぎ合わされたはずだ。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
415 :
名無しさん@3周年 :2011/05/02(月) 11:51:36.87 ID:7ARwCIlu
(中略) 三島由紀夫は、昭和四十二年以来、何度も自衛隊に体験入隊した。(中略)三島の短編小説『蘭陵王』には、 兵舎での暮らしぶりが、次のように書かれている。 部屋におちつくと、私はここへ来てはじめてきく虫の音が、窓外の闇に起るのを知つた。何一つ装飾のない この部屋が私の気に入つてゐた。 一つの机、一つの鉄のベッド、壁に掛けられてゐるのは、雨衣と、迷彩服と、鉄帽と、水筒と、……余計なものは 何一つなかつた。開け放たれた窓のむかうには、営庭の闇の彼方に、富士の裾野がひろがつてゐるのが感じられる。 存在は密度を以て、息をひそめて、真黒に、この兵舎の灯を取り囲んでゐる。永年欲してゐた荒々しくて 簡素な生活は、今私の物である。 (中略)それにしても、この自衛隊での暮らしぶりは、中世の遁世者たちや芭蕉が求めた「草庵」での心静かな 生活そのものではないか。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
416 :
名無しさん@3周年 :2011/05/02(月) 11:51:59.97 ID:7ARwCIlu
文壇で忙しく活躍する三島にとって、「体験入隊」は、一種の「出家」だったのだろう。体験入隊が終わると、 再び三島は都会と文壇の喧操の中へ戻ってくる。言わば、「還俗」である。 三島由紀夫は、擬似的な出家と還俗を繰り返しているうちに、少しずつ現実生活を出家生活へ近づけようと し始める。正式な出家をしたわけではないが、仏教に心を深く染めている男を、「優婆塞」という。三島は、 自衛隊での「草庵」暮らしに憧れるあまりに、優婆塞としての生活を自分に課すようになる。それが、楯の会での 活動となった。 自衛隊にせよ、楯の会にせよ、集団の規律を重んじるだけの団体ではなかった。三島にとっては、「理性の草庵」を 求める精神活動の一環だったのである。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
417 :
名無しさん@3周年 :2011/05/04(水) 10:41:56.70 ID:Q1foRjZZ
(中略) 天皇を恋し、天皇を信じて決起し、裏切られて死んだ(あるいは死んだ後で裏切られたことを知った)英霊たちの 鎮まらぬ怒りを、三島由紀夫は綿々と語る。下賎な男が高貴な姫君を愛して跪くように、あるいは、女が絶世の 美男子を愛するように、「武士=兵士」たちは「天皇」という存在に恋い焦がれた。 謡曲『葵上』と対応させながら説明すると、「光源氏=天皇」は、人間を越えた存在であり、「六条の御息所= 兵士たち」からは、自分の救済者であってほしいと期待された。だが、光源氏が所詮は「観音の化身」ではなく 「凡夫」だったように、天皇もまた「現人神」たりえなかった。 『英霊の声』の結末は、何とも衝撃的である。二・二六事件と神風特攻隊の英霊たちに、長時間打ち据えられた 「川崎君」は命を失う。その死顔は、「川崎君の顔ではない、何物とも知れぬと云はうか、何物かのあいまいな 顔に変容」していた。三島の『英霊の声』創作ノートには、「霊媒死す。天皇の化身」とある。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
418 :
名無しさん@3周年 :2011/05/04(水) 10:42:21.23 ID:Q1foRjZZ
この創作意図を、どう解釈すべきだろうか。六条の御息所は、光源氏に裏切られた。だが彼女は光源氏を憎みつつも、 それ以上に深く愛しているので、その憎しみの発散は光源氏本人へと向かわない。それは、彼女が絶対に なしえないことである。そこで六条の御息所の怒りは、葵上へと向かい、激しい「後妻打ち」となった。 英霊たちは、生前にあまりにも深く、天皇に恋い焦がれていた。いわゆる「恋闕の情」(「闕」は皇居の門と いう意味)である。だから、たとえ自分たちの真心が天皇に届いていなかったことがわかり、天皇に裏切られたと 頭でわかっていても、そして「などてすめろぎは人間となりたまひし」という恨みを口にしても、天皇に対し 奉りて、何らかの抗議行動を起こすことはありえない。そんな行動に走れば、かつて天皇を恋し、心から天皇を 信じた(今も信じたいと思っている)自分自身を否定することになるからだ。だから「川崎君」という「天皇の 身代わり」が、どうしても必要だった。 ここに、三島由紀夫の創設した会が「楯の会」と命名された真の理由があるのではないか。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
419 :
名無しさん@3周年 :2011/05/04(水) 10:42:53.42 ID:Q1foRjZZ
「醜の御楯」は、天皇のために楯となって天皇を守り、朝敵(外敵)と戦う勇敢な兵士、という意味だけではない。 「楯の会」は、非業の死を遂げた、無数の英霊たちの鎮まらぬ天皇御自身への怒りを、天皇の身代わりとなって 一身に引き受けるために作られた組織なのかもしれない。 戦後日本は、昭和元禄という偽りの繁栄にうつつを抜かし、精神性よりも「金銭」と「物質的幸福」だけが 物を言う世の中に成り下がった。そうなると、「神国」を護るために尊い命を捨てた無数の英霊たちの憤怒は、 行き場を失う。このまま放置すれば、その怒りが天皇本人へと向かいかねない。 だから『英霊の声』では、「川崎君」が天皇の代わりに死んでいった。『朱雀家の滅亡』では、天皇の代わりに、 朱雀家の人々がいち早く滅びた。天皇の滅亡を少しでも遅らせる「楯」として、朱雀侯爵は自らの一族の滅亡を 受け容れた。朱雀侯爵の魂が、既に滅びているにもかかわらず、肉体が延命すればするほど、彼の存在が 「防波堤=醜の御楯」となって、天皇が護られる。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
420 :
名無しさん@3周年 :2011/05/04(水) 10:43:17.23 ID:Q1foRjZZ
そのように三島由紀夫は、「天皇」あるいは「天皇制」の「醜の御楯」として、英霊たちの怒りを引き受ける 役割を果たそうとした。英霊の怒りが理解できるから、その怒りを我が身に引き受けようというのだ。 「川崎君」の死顔が天皇の顔に近づいたように、「天皇のために死ぬ」ことは「天皇として死ぬ」ことと同じである。 三島が「天皇陛下万歳」を三唱して自決した瞬間、彼は願った通りに、「天皇」の心を我がものとすることに 成功しただろうか。 三島由紀夫は、自決後も怒れる「英霊」とはならない。そうではなく、天皇と一体化し天皇と共に戦い、恍惚として 死を迎えたに違いない。朱雀侯爵が、従容として生きながら滅んでいったのと同じように。三島は「英霊」ではなく、 「神」となることを目指したのだ。三島の霊は、祟らない。 自決直後の新聞や写真誌の中には、三島の頭部の写真を掲載したものがあった。それを見た日本人の衝撃は、 一生消えないだろう。(中略)「(三島の顔ではない)何物とも知れぬと云はうか、何物かのあいまいな顔」に 変容していたかどうか。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
422 :
名無しさん@3周年 :2011/05/04(水) 11:15:47.24 ID:hvu6Wm4p
388 名前:名無しさん@ゴーゴーゴーゴー![] 投稿日:2011/01/29(土) 16:59:07 ID:1T2tqOE20
自称専門家も自称学者も自称ジャーナリストも
>>387 を見ろwwwwww
さっさと責任を取れwwwwww
394 名前:名無しさん@ゴーゴーゴーゴー![] 投稿日:2011/01/29(土) 17:08:32 ID:1T2tqOE20
されたいっていうか萌えたこと
18(DKじゃないよ)のコとハメハメしてたんだが、正常位で挿入中に、「チューして♪」て甘えられた
「気持ちいい〜 もっと、もっと」って。
でも正直興奮しすぎて既に中出ししちゃってて、中折れしたんだよね
上目遣いで手こきしてくれて「おっきくなんないや・・・」ってスネるから
指マンしながらフェラしたが、なかなか行かない。
もう一度挿入したいのに元気にならない愚息www
指二本入れてグリグリして、バキュームフェラしてなんとかご放精w
すごく良かったけどめちゃくちゃ疲れた。
そろそろバイアグラか?と思うオサーンのオレであった。
400 名前:名無しさん@ゴーゴーゴーゴー![sage] 投稿日:2011/01/29(土) 18:09:13 ID:1T2tqOE20
>>394 は偶然IDが一緒なだけで他人
http://hissi.org/read.php/net/20110129/MVQydHFPRTIw.html
>>347 自衛隊員に飯の時間を邪魔すんなカス
と罵られて終了だったけどな。在特会みたいなのと一緒。
424 :
名無しさん@3周年 :2011/05/06(金) 12:06:42.49 ID:8Rl24bXS
(中略) 『文芸文化』の同人の筆頭格は、蓮田善明。彼は終戦直後の昭和二十年八月十九日、マレー半島の最南端 ジョホールバルでピストル自殺した。翌昭和二十一年の十一月十七日に、成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」が 催され、出席した三島は一編の「詩」を献じた。(中略) 古代の雲を愛でし 君はその身に古代 を現じて雲隠れ玉 ひしに われ近代 に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす 三島由紀夫 この「詩」を読んで、しみじみ思う。「古代」を「近代」に復活させるのが、三島の「天命」であったことを。 現代人でありながら、蓮田善明は古代精神を具現していた。だから終戦直後、スサノオの「荒魂」そのままに、 天皇に対して不敬な発言を口にした上官を射殺して、自殺した。手には、辞世の和歌を書いた一枚の葉書を握り しめていたという。(中略) 三島は、蓮田善明の信じた日本浪漫派の精神世界を、自分自身の魂の土壌とした。それが、三島文学の原点である。 島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より
425 :
名無しさん@3周年 :2011/05/06(金) 12:22:44.01 ID:2Ck6l1gU
ネトウヨは三島は知らない、読んでも理解できない。
426 :
名無しさん@3周年 :2011/05/07(土) 10:13:05.34 ID:VG5RfLT/
427 :
名無しさん@3周年 :2011/05/11(水) 21:50:44.77 ID:SJbJpT7e
だからさ、三島は尻に入れたのか?入れられたのか?
429 :
名無しさん@3周年 :2011/05/12(木) 10:46:02.06 ID:ud0gO96O
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」などの映画でも知られる歌手のビョークが来日した際に、「ミシマの作品 くらいは読まなくてはね」と述べたと伝えられていた。アイスランド出身のビョークが作品を何語で読んだのか わからないが、アイスランド語では1974年に「午後の曳航」が出版されている。「午後の曳航」は「金閣寺」 「近代能楽集」「潮騒」などと並んで翻訳数の多い作品であるが、(略)アイスランドの人々が読む「午後の曳航」が どのようなものか、想像してみるのも楽しい。 (中略)現時点(2003年)で把握しているところでは、小説・戯曲・評論等を含めると、110点以上の 作品が30種類の言語に翻訳され、二回以上訳されているものを含めると、翻訳作品の総数は延べ700点を 超えている。(中略) 三島は近代の日本の作家の中でも芥川龍之介、川端康成、谷崎潤一郎、安部公房などと並んで翻訳作品の数が 多く、海外で知られているとはよく指摘されるところである。ただ海外における日本の作家の受容の状況は、 国によってそれぞれ異なっている。(中略) 久保田裕子「三島由紀夫の海外における翻訳作品」より
430 :
名無しさん@3周年 :2011/05/12(木) 10:46:31.22 ID:ud0gO96O
三島の作品の翻訳はアメリカにおいて1950年代から始まったが、英語の翻訳がされた後に、フランス、 ドイツなどのヨーロッパの言語に広がっていくという経過をたどることが多かった。 近年の翻訳状況としては、2000年にオランダやルーマニアで「金閣寺」が、2002年にノルウェイで 「春の雪」が再版されるなど、いくつか挙げただけでも根強い読者層の存在をうかがわせる。また2001年に ポルトガルで「禁色」が刊行され、長編小説を中心に翻訳される言語にも広がりを見せている。ヘブライ語、 ラトヴィア語やセルビア語の「金閣寺」、バスク語の「午後の曳航」も登場するなど、三島作品が受容される 言語圏は拡大しつつある。(中略) 以上のことはあくまで日本にあって知ることができる出版状況の一端であり、実際にはそれぞれの国で作品が どのように読まれ、読者に受容されているかを知ることは難しい。 久保田裕子「三島由紀夫の海外における翻訳作品」より
431 :
名無しさん@3周年 :2011/05/12(木) 10:47:01.93 ID:ud0gO96O
ただ先に挙げたビョークの話は、「ミシマ」が今なお世界において一種の文化的なイコンであり、日本の文化や 文学を象徴するような存在であることをうかがわせる。 ところで三島自身は1965年4月6日付のドナルド・キーン氏宛の書簡において、〈むりに日本語からの 直接訳をするより、結果として、重訳のはうがいいのではないか〉と述べていて、重訳であっても作品が海外で 広く翻訳されることを望んでいたことがわかる。(中略) 実際のところ三島の翻訳作品の中には未だに英訳からの重訳も多く、日本語という表現を通して世界で認められる ことの困難を示唆している。そのことに最も自覚的であったのはおそらく三島自身であろう。日本語による 表現を世界的な普遍性へとつなげようとする試みは、彼のライフワークの一つであった。亡くなる前に彼は 〈世界のどこかから、きつと小生といふものをわかつてくれる読者が現はれると信じます〉(1970年11月付) とキーン氏に書き送っていた。この遺言通り、今でも翻訳を通して三島の言葉は世界のさまざまな場所に波紋を 広げ続けている。 久保田裕子「三島由紀夫の海外における翻訳作品」より
432 :
名無しさん@3周年 :2011/05/17(火) 04:55:28.68 ID:2cnoP1uB
尻に入れたのか入れられたのか知らないが、変質者が書いた『文学」なんて、 読めるのか?キモクないかい?
話題をそっちにもっていくしか能のないのやつのほうがきもい
434 :
名無しさん@3周年 :2011/05/17(火) 05:11:31.09 ID:2mUQ6fgq
キムチの書き込みを読んでいると、バカになるわ
うんこはまともな神経の持ち主じゃ食えないだろ
436 :
名無しさん@3周年 :2011/05/17(火) 10:55:27.88 ID:uwq+jg34
多くの人が多くのことを書いたりしゃべったりさせられた。なかには弔辞とは思えない発言も多かったが、当節、 葬式に出かけてまで自分の宣伝をやりかねない人間がいることにあまり驚いてもいられない。たとえば、 「そうですね、彼の死は結局……」などと、終始目尻を下げて薄笑いを浮かべながらテレビでしゃべったりする 人間や、死者に唾を吐くようなことを書く人間がいても、これを抹殺することはできない以上、私たちは 我慢して生きるほかない。(中略) これは、三島氏の場合のように死にかたが異常であった場合、生き残った人間の側の自己防衛の努力ともみられる。 斬られたのが比喩のうえのことであるにしろ現実のことであるにしろ、とりあえず傷口をふさぐことに専念 しなければならないのである。(中略)恥も外聞も忘れて言葉をそういう自己防衛のために使わなければ ならない人間も何人かはいて、その人たちが三島氏の行動を非難したり否定したりするのに懸命になっている 正直さは許されなければならない。恐怖が大きすぎて沈黙を守っていられないとき、弱い犬には吠えることしか できない。 倉橋由美子「英雄の死」より
437 :
名無しさん@3周年 :2011/05/17(火) 10:56:13.54 ID:uwq+jg34
(中略)言論、表現、思想の自由なども、主としてふまじめに言葉を使う人間にその権利を保障してやるための ものであるかのように考えられている。そういう人間は、日本国憲法はあなたがどんなことをいおうとそれを ただいうだけならあなたの生命を保障していますよ、といわれても格別侮辱を感じないのかもしれない。これに 対して三島由紀夫氏は言葉をまじめに使い、思想を組み立ててその頂点に死しかなければ死ねる人間だった。 その死も、自分の言葉に酔ってのことであるとか、自分で築いた言葉の楼閣のうえでの演技にすぎないといった 説明ですませてしまう人間がいて、この連中にはもはや救いがない。この種の人間はつねに、自分にはそれを する気も能力もないが、という条件法で自分の思想と称するもの、というより叶わぬ願望や愚痴や恨みを語って いるのであって、ここでこの種の人間に絶対できない「それ」というのが割腹して死ぬということなのである。 三島氏は単純に定言命令だけで自分の思想を組み立てていた。その頂点には汝死すべしという命令があって、 その言葉が行動になった。 倉橋由美子「英雄の死」より
438 :
名無しさん@3周年 :2011/05/17(火) 10:56:39.40 ID:uwq+jg34
(中略)凡人を超える大きさをもった人間があらわれて凡人にはできぬことをして死んだとき、それが天才で あったことを認めると同時に自分たちがどの程度の人間であるかを悟ることが、凡人に望みうる唯一の美徳である。 そして情けないことではあるが、ともかく生き残り、長く生きることで夭折した天才を凌ぐことが凡人に許された 唯一の特権でもある。できるかぎり長く生きること、その量の問題が重要だとカミュがいったのはどんな文脈の なかでだったかおぼえていないが、私たちがいまこの言葉を楯にとって、死ぬことではなく生きることが 問題なのだと三島氏にいってみたところで、自分が欲するように死ぬことのできた天才にとってそれはほとんど 耳を藉すに足らぬ言葉である。まして、三島氏の才能を作家としての仕事の枠内でしか見ることができない 同業の人間たちが、三島氏の死によって物を書く才能がひとつ消滅したことを惜しみ、生きていてさらによい 仕事をしてもらいたかったなどというのをきくと、三島氏が同業者たちとのおつきあいにつくづく嫌気がさして いた気持もよくわかる気がする。 倉橋由美子「英雄の死」より
439 :
名無しさん@3周年 :2011/05/17(火) 10:57:07.96 ID:uwq+jg34
三島氏が文学の仕事に行き詰まってあのような行動に走ったという説にいたっては論外である。こういう人たちは 自分が作家であるということを何か人間であることを超えた特別の資格であると考えているのであろうか。 おそらく人間も国家もすべて文学のためにあるということであるらしい。三島由紀夫氏というひとりの天才がいて、 常人を超える生活をして、そのひとつにすぎなかった文学の仕事に関してはもうなすべきことがなくなったと 感じたとき、私たちはこの天才の壮烈な死を黙って見ているほかなくて、またそれが弱くて凡庸な人間の側の 最高の礼節というものである。ひとつの稀有な文才を消滅を惜しむのはよいが、生きていればまだよい作品が 書けたのにといういいかたには、金の卵を生む鶏の死を惜しむのに似たけち臭さがある。 三島氏の作品がもっと多ければそれだけ日本の文化遺産だか何だかの量がふえるのに、というのがそもそも 俗悪な考えかたなので、三島氏がその行動によって示したのが、文化とはどういうものであるかということなのだった。 倉橋由美子「英雄の死」より
440 :
名無しさん@3周年 :2011/05/17(火) 10:57:33.13 ID:uwq+jg34
英雄や天才が卑小な人間に愛想をつかすのは当然の特権であって、これは病める人間が陥りやすい人間嫌いなど とは全然別物である。私たちの敬愛は、三島氏が「おまへたちは阿呆ばかりだ」と思っていたことで損われる 性質のものではないので、三島氏は大声でその思っていることをいえばよかった。阿呆は自分以外の人間を すべて阿呆だと思っている、などと歯切れの悪いことをいった芥川龍之介(鬼才とか秀才といった言葉はむしろ この人にふさわしい)の場合とは違うのである。とにかく、そういう境地に達していた天才ならば、あとは 阿呆に対しても礼儀正しくふるまい、晴朗な顔をして憤死するだけだった。 昔から日本では三島由紀夫氏のような人があんなふうに憤死すれば神になることになっていた。ここで 神というのは英霊のもうひとつ先を考えているのであって、ユダヤ人が発明した神などとは無論関係ない。 (中略)日本人は昔から三島由紀夫氏のような人間の霊を祀り、それにつながってその先にあるはずのものを 拝んできた。三島氏はみずから死んでそういう神と化す以外になかったのである。 倉橋由美子「英雄の死」より
441 :
名無しさん@3周年 :2011/05/18(水) 02:36:26.37 ID:zivNQs7z
三島にしても倉橋にしてもどうしてこうまで自分だけが特権的な視座に立てると無邪気に思いこめるのか不思議でならない。 二人といい大人だというのにな。少しでも日本の宗教史の知識があれば上のような事はとても書けない。 只自分たちが天才だと強弁するだけの文章など中学生で卒業して欲しいものだがな。
442 :
名無しさん@3周年 :2011/05/18(水) 10:52:02.09 ID:cb7VEexf
三島由紀夫の仏教理解が、いかに徹底したものか。 三島は決して、そこらへんの日本人がやりたがるように、『般若心経』の解説なんぞはしない。宗教音痴の 日本人に仏教の神髄を理解せしむるために、『ミリンダ王の問い』を(「暁の寺」で)引用し解説する。 これのみにて三島の仏教理解の深さ、はるかに日本人を超えていると評せずんばなるまい。(中略) 阿頼耶識も、実体として存在するのではなく、つねに変化のなかにある。刹那に生じ刹那に滅する。 実体として存在するものは何もない。「万物流転」である。 このありさまを、(中略)三島由紀夫は、(「天人五衰」で)海の波で表現している。 …仏教における因縁のダイナミズムを、これほど見事に表現した文章をほかに知らない。 唯識論の視点から見るならば、阿頼耶識は水、その他の識を波、縁を風だとすればよいであろう。 小室直樹「三島由紀夫と天皇」より
443 :
名無しさん@3周年 :2011/05/18(水) 10:52:51.69 ID:cb7VEexf
唯識論入門として、(「暁の寺」は)これほど簡にして要を得たものを知らない。 難解なことで有名な仏教哲学の最高峰が、われわれの足下に横たわっているのだ。 仏教を研究しようとする学徒のあいだでは、よく、倶舎三年、唯識八年、といわれる。『倶舎論』を理解するのには 三年かかり、唯識論を理解するのには八年はたっぷりかかるというのだ。それが僅か三島由紀夫の作品では 十二頁にまとめられている。エッセンスはここにつきている。くりかえし精読する価値は十分にある。 小室直樹「三島由紀夫と天皇」より
444 :
名無しさん@3周年 :2011/05/18(水) 10:53:46.61 ID:cb7VEexf
(中略) 「五十になったら、定家を書こうと思います」三島由紀夫は、友人の坊城俊民氏にそう言った。 「…定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから神になったのです」 神になった定家。それは三島由紀夫にほかならない。(中略) 三島由紀夫は「定家はみずから神になったのです」と話している。 これは何を暗示しているのだろうか。 仮面劇の能だが、仮面をつけるのがシテ(主役)である。シテは、神もしくは亡霊である。 亡霊をシテにして、いわば恋を回想させる夢幻能は、能の理想だといわれる。死から、生をみるのである。 時間や空間を超えたものだ。 三島由紀夫が、定家を書こうと考えたとき、やはり能の「定家」が頭にあったに違いない。 小室直樹「三島由紀夫と天皇」より
445 :
名無しさん@3周年 :2011/05/18(水) 10:54:33.62 ID:cb7VEexf
現代では、生の世界と死の世界は、隔絶したものにとらえられている。だが、かつて(中世)は、死者は 生の世界にも立ち入っていた。 定家は神になって、生の世界に立ち入ろうとした。そう考えた三島由紀夫ではないだろうか。 生の世界にあっては成就できない事柄を、死の世界に往くことによって可能たらしめようとしたのが、三島由紀夫だった。 …死の世界で「生きる」三島なのだ。 (中略)あえて死の世界へ往き、守ろうとした存在があったのだ。 小室直樹「三島由紀夫と天皇」より
446 :
名無しさん@3周年 :2011/05/18(水) 10:55:12.41 ID:cb7VEexf
(中略)近代西欧文明がもたらした物質万能への傾倒が、いまや極点に達していることは言うまでもない。 人間としての存在が、どうあらねばならないのか。それを問う時はきている。 三島由紀夫は、究極のところ、そのことを人々に問いかけたのだ。 作品によって問いつづけ、さらには自決によって問うた。いや、問うたというよりも、死の世界に生きることを選び、 この世への「見返し」を選んだ。 五年後、十年後、いや百年後のことかもしれない。だか、そのとき三島由紀夫は、復活などというアイマイな ものでなく、さらに確実な形……存在として、この世に生きるであろう。 小室直樹「三島由紀夫と天皇」より
三島はホモかつサドの変態右翼だけど、小説は本当に素晴らしい。 人格と作品は関係ない。
448 :
名無しさん@3周年 :2011/05/20(金) 04:38:48.35 ID:GLeEnZ/C
人格と作品は関係ないというが、尻に入れたり、入れられたりしている奴が 書いた小説かと思うと、キモイよな。ああ、キモイ、キモイ。文学をとうとう と語る奴はキモイ。
449 :
名無しさん@3周年 :2011/05/20(金) 04:39:54.24 ID:GLeEnZ/C
切腹した時、射精していたというぜ。
ブサヨらしい品性下劣な書き込みだな
453 :
名無しさん@3周年 :2011/05/21(土) 10:42:11.26 ID:KTK4J0T8
新聞や週刊誌の中には、しごく単純に三島を異常性格者ときめつけ、最初から彼が自分の文学の主要テーマとして 選び貫いた同性愛をも風俗の眼で眺めたあげく、ホモだオカマだと立ち騒ぐ向きまであるのには一驚した。 死んだのは流行歌手でも映画スターでもない、戦後にもっとも豊かな、香り高い果実をもたらした作家である。 彼の内部に眼玉ばかり大きい腺病質の少年が棲み、あとからその従者として筋肉逞しい兵士が寄り添ったとしても、 それをただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか。 異常というなら、わけ知りの、ありきたりの、手垢まみれな説の援用でなしに、その淵に息をつめて身を潜め、 自身の眼でその深みの神秘をさぐろうとはしないものか。この一九七〇年代に、異常というレッテルを小抽出しに 張って、もうそっぽを向いていられる“正常人”がこれほど多いというなら、それこそが異常の証しであろう。 中井英夫「ケンタウロスの嘆き」より
454 :
名無しさん@3周年 :2011/05/21(土) 10:42:33.36 ID:KTK4J0T8
(中略) ただ、あれほど感性すぐれた彼に、いま一言、突っこんで話をしたかったと思うのは、ぷよぷよとした肉体、 指で押すとちょっとの間はへこむが、またすぐ元に戻って知らん顔をする、さながら腐肉そのままの感触を、 何よりも徹底して憎悪していたのではないか。なぜそれを最後まで、ありのまま憎みとおさなかったかという 点である。「世の中すべて気に入らぬことばかり」にしろ、われわれを包んでいる情況の本質がそこにあり、 一番の敵がそれであることは三島も当然知りぬいていたので、この気持もまた、彼の死後にも変わらない。(中略) 芥川や太宰が、なぜ志賀直哉と長生き競争をしなかったのか、私には不思議でならない、というより、無理にも そう思いたいのだ。三島にも、また。 中井英夫「ケンタウロスの嘆き」より
>>452 お前のことを有能と思ってるのはお前だけ。
456 :
名無しさん@3周年 :2011/05/21(土) 21:07:45.37 ID:yCmfUAGI
457 :
名無しさん@3周年 :2011/05/21(土) 22:02:17.21 ID:+aHTLXMe
変態権力欲:左翼、宗教 お前ら似たもの同士じゃねーか 近親憎悪か?
はいはい、
>>456 のお子ちゃまを馬鹿にする奴はみんな無能ですねw
460 :
名無しさん@3周年 :2011/05/22(日) 08:30:00.47 ID:YQGs0Jv/
尻に入れたらウンコが竿にくついてくるのか?高尚な文学ファンよ、 おせーて。
>>459 無能一人の文盲レスは皆とは言わないけど、
文盲だから理解できないだろうな
462 :
名無しさん@3周年 :2011/05/24(火) 06:18:23.99 ID:TMI9DrrI
463 :
名無しさん@3周年 :2011/05/24(火) 11:12:55.30 ID:FYmIegBO
三島由紀夫は勤勉な作家だった。たとえばそれは、敗戦後の日本が焼け跡から回復して高度成長を実現し、 「東洋の奇跡」と呼ばれる戦後復興をなしとげたことを思わせるようなきまじめでひたむきな勤勉さだった。 (中略)戦後日本の復興期にそのまま重なっている。その意味で三島由紀夫は、作品に見られる反戦後的な 美学や日本の欺瞞に対する批判的な視線にもかかわらず、きわめて戦後日本的な作家である。 そのことにまつわる伝説も多い。 なにより作品を書く時間を大切にしていた三島由紀夫は、知人との会食や宴席などでどんなにお酒が入って 楽しく談笑していたとしても、かならず夜11時までには切りあげて帰宅し、執筆の時間をつくったという。 田中和生「愛すべき三島由紀夫の避難場所」より
464 :
名無しさん@3周年 :2011/05/24(火) 11:13:20.60 ID:FYmIegBO
私小説作家のように怠惰であることをひそかに誇ったり、サラリーマン社会のあわただしさに反感をもったり している日本の文壇の雰囲気から見て、その態度はひときわ異彩を放っている。昼間は官僚として軍医総監という 激務をつとめながら深夜に執筆していた明治期の森鴎外のように、敗戦後の日本に生きた三島由紀夫はおそらく 自分が原稿用紙に記す一字一字が戦後日本をつくりあげていくという使命感をもっていたのである。(中略) そして敗戦から60年以上がすぎて、戦後日本のあり方が風化しつつある21世紀において、次に新しい読み方を 待っているのは三島由紀夫の勤勉さが惜しげもなく注がれた純文学としての短編や長編ではなく、むしろ その余白に生まれて気軽に書かれた娯楽小説ではないだろうか。たとえば1967年に刊行された『夜会服』も、 その一冊である。 田中和生「愛すべき三島由紀夫の避難場所」より
465 :
名無しさん@3周年 :2011/05/24(火) 11:13:43.77 ID:FYmIegBO
(中略) 「俊男」という、どこか虚無的でありながら近代社会における万能の力をもっているように見える男性の魅力は、 日本の近代化の矛盾を体現するかたちで造形されているところにある。(中略) こうした「俊男」の造形に、三島由紀夫の自己イメージが投影されているのは間違いないだろう。(中略) あるいは「俊男」を描きながら、三島由紀夫は戦後日本という「夜会服」の世界から出ることができず、本音を 隠して建前をなぞるかのように生きざるをえない自らの存在の悲哀を深く感じていたかもしれない。 注意深く読めば、そうした現実的すぎる悲哀を和らげる場面が『夜会服』にいくつかあることに気づく。 一つは日本が模倣しなければならないはずのヨーロッパやアメリカの人々が、醜悪で滑稽なものとして描かれて いることである。(中略)日本人が日本語で読むかぎりは気がつきにくいが、世界性をもつ作品ではありえない 書き方だろう。 田中和生「愛すべき三島由紀夫の避難場所」より
466 :
名無しさん@3周年 :2011/05/24(火) 11:14:13.52 ID:FYmIegBO
もう一つは日本の天皇家につらなる「宮様」が出てくる場面である。(中略)「俊男」の本音を聞き届けてくれる 「宮様」の存在である。そこにはおそらく、戦前の二・二六事件と敗戦後の人間宣言によって昭和天皇に対して 生涯屈折した感情を抱きつづけた三島由紀夫が夢想した、戦前から戦後へと変わらずにつづく近代化という建前を 強いられる世界において日本人の本音を守ってくれる天皇という、理想的なイメージが投影されている。 こうして本音をさらけ出した心の避難場所を愛すべき娯楽小説のなかにつくりながら、現実に三島由紀夫が 辿りついたのは1970年の割腹自殺だった。「俊男」とその孤独を理解する「絢子」の「愛」が成就される 『夜会服』の甘すぎる末尾がわたしたちに突きつけるのは、そうしてひとりのすぐれた作家を自死させてしまった 日本の現実に欠けていたものはなにかという問いである。 田中和生「愛すべき三島由紀夫の避難場所」より
467 :
名無しさん@3周年 :2011/05/25(水) 07:19:03.89 ID:dUxcTzHl
ウンコは当然くっついてくる。くちゃい。
468 :
名無しさん@3周年 :2011/05/26(木) 15:48:38.89 ID:eUtKEux3
彼の小説もそんなに読んでいない。僕が三島由紀夫を「あ、こいつすごいな」と認知したのは、ロンドンです。 ロンドンにいたときに、BBCが没後何年かで特集を組んだ。そのときに彼がインタビューアーにきちんと 英語で答えているのを見て、聞いたら、内容的にはしっかりしていた。つまり、日本の文化をあれほどきちっと しゃべれるやつはいないな、と僕が思ったくらいだった。それはすごく印象的だった。 彼の英語はうまかった。うまいというか、要するに、発音がいいとかではなくて、非常に適確な英語をきちっと 選んで答えていた。日本人のインタビューには、よく画面の下にテロップ、つまり英語の字幕が流れるのだが、 三島由紀夫のインタビューには付いていなかった。それくらいに彼の英語はわかるのだ。まあ、イギリス人は (植民地を持っていたから)外国人のしゃべる英語を理解するのは得意だけれども。それにしてもテロップが 流れていなかったから、へーっと思ったし、なるほど、そういうことについては、こういう風に言うのだなと 感心した。 遠山稿二郎「日本の大学と基礎科学の危機」より
469 :
名無しさん@3周年 :2011/05/27(金) 13:56:50.74 ID:gO/s4jV5
左翼思想の輩に告ぐ! 左翼思想の原点は、僻み妬みの心だ、 お前たちが経済的に恵まれないのは、社会が悪いからではない、 お前たちの努力が足りないのだ、 お前たちが出世出来ないのは、会社が悪いわけではない、 お前たちは不平を言うだけで、何の役にも立たないからだ、 お前たちがもてないのは、世の中が悪いわけではない、 お前たちは与えられることだけを期待し、相手に対する思いやりに欠けるからだ、 お前たちに友達が出来ないのは、お前たち以外の人間全部が悪いわけではない、 お前たちの性格がいびつだからだ、 しかし、お前たちが、外見が不細工で、脳味噌が乏しく生まれついたことに関しては、 同情はする、それが私の心だ!
470 :
名無しさん@3周年 :2011/05/27(金) 16:00:36.10 ID:LG2kJBWO
ウンコは当然くっついてくる。クチャイを英訳してくれー。
471 :
名無しさん@3周年 :2011/05/27(金) 22:21:08.20 ID:ARokHIBm
i;;;;;i´,.r-,-´-、-―-,--`ニ=、ヽ ヾ;;;;ミ;;;i
.|;;ゞi i .、'iユ=|r==;i´ r'iユ=、_ゝ-_、i;;;;;;;;;i
.i i ! ´ ̄`/ .i `"´.::i´ i;;' l`i
. !ソ `'ー一彡 .::::. `ヽ、_. / .:: .ir-,/
! , ,r'´ゝ=、__rュ,.ソヾ、 : /r.i
!_ i { _,. - 、, ...、_ ,,) i i r'
.i `ヽヽエエニヲ,ソ" ´ ./゙
/ ヽ二二ン /
| .| | 、_tッ、,゙ ' r|
| .| .| `ー 'ノ !
.| | | . ,イ 'ヽ.
| .| | ゚ ´...:^ー'`'
| |. .| r ζ竺
| ( ^ ^ヽ `二(
___| uuuU |
,r'" ,_.__,__ . ==ュヽ
/___ _,,, ‐""~~"゙ ィ'≡;;;, . 、_tッ、,゙ ' ,
, ィ ーj 'ーー ,.ィ'(ツヽ / ___ . `ー 'ノ ヽ
,r' / ノL ヽ. ` ´ ヽィ゙(ツヽ . ,イ \
>>1 ノ ,イ ∀ ノ ヽ` ´ ゚ ´...:^ー \ _ ヽ○/
// ,' ..::'"⌒ヽ、 /ヽ━v・)ヽ r ζ竺=\ \ _ |
/ / !:. ゙、. ,______、 `二.; ヘ__, ノ ノ ゝ
472 :
`゚`:.;"゚` :2011/05/28(土) 15:10:31.44 ID:54/l4cLZ
ブサヨは聡を知れ
473 :
`゚`:.;"゚` :2011/05/28(土) 15:16:07.49 ID:3hvMlNUb
/ _⌒ヽ⌒ヽ
/ ` ゚` :.;"゚`ヽ
/ ,_!.!、 ヽ
/ --- ,, ヽ
/ 八 ヽ
( __//. ヽ ,, , )
丶1,,,,;;::::::::::: 八., ''''''!
| " ==ュ r== j
| 、_ tッ、,゙ ' r' rtッ_ァ'| /⌒ヽ⌒ヽ
|::: `ー 'ノ !、`ー' | / ー-- ヽ
| . ,イ 'ヽ | パンパン / ー=、 ゚ ,=- ヽ
|ノ ゚ ´...:^ー^:':... ゚│ / -=・> ;<・= ヽ
( r ζ竺=ァ‐、 │\ ( . ノ、__λ )
│ \ `二´ 丶 |_,, -−─‐,r' ` ̄ ̄,,,,,,,,,,,, ̄ ̄ \
| \ \ ,r'" ''' ∈∋ ''' ==ュヽ
| \ \ / 、_tッ、,゙ ' ,
=≡| ∴∴\ \ ィ `ー 'ノ ヽ
=≡|; ∴∴\ \ //// . ,イ \
=≡\ ,`( ^ ^ ⊃ ゚ ´...:^ー \
‐=≡ ) //'uuuu ⌒ヽ、 r ζ竺=\ \
|; / / _!:. ゙、 `二.; ヘ__, ノ
|; ( ( / |:::.. i::. ` '
|; ヽ、) !::::... !::::... ゙、::.. ゙
) / 人:::::::.. ゙、::::::::.......___,,ゝ、:::.. ヽ
/ | /::::...\::::::.... ヾ ̄ ̄ /::::..ヽ、:::.. \
/ ヽ'::::::::::::....ヽ、:::::.... ゙、 ノ::::::::::::::...\::::... ヽ ― ヽ○/
>>1 ( ___ ) :::::::::::::/`ヽ、:::::..... 〉 〈:::::::::::::::::::::...人:::::::::..... 〉 ― |
`ー─一'" `ー─一'゙ `ー−一'" `ー── ― ノ ゝ
474 :
名無しさん@3周年 :2011/06/03(金) 05:15:19.58 ID:UHGW1jpb
尻に入れたか、入れられたか、知らないが、どちらにしろ キモイ。変態だよ、三島は。変態が切腹したのだよ。射精 していたというじゃないか。
475 :
名無しさん@3周年 :2011/06/07(火) 20:43:18.39 ID:VcV19g43
小男、虚弱、だけど胸毛が濃い。青白くキモイ変質者。宝塚ファン。
476 :
名無しさん@3周年 :2011/06/10(金) 20:08:56.43 ID:juKeLT4l
いわゆる現人神(現御神)の思想は、キリスト教などの一神的なGodではない。日本人の神観念は、本居宣長の 「何にまれ 尋常ならずすぐれたる徳ありて、可畏き物を迦微(カミ)とは云なり」という八百万の神々であり、 「唯一神教的命題」とはかけはなれている。日本の神観念は多義的であり、そこでは人間的な要素も入ってくる。 超越者としての「神」とはあきらかにちがう。そもそも昭和二十一年元旦の昭和天皇のいわゆる「人間宣言」も、 〈神〉にして〈人〉であるという伝統観念からすれば、「神から人へ」ということを特別に強調したとはいえない かもしれない。しかし、占領下において、GHQ指導のもとでこの「詔書」があらわされたのは、人でありながらも 神聖をもって君臨される天皇(スメラミコト)の民族的、精神的支柱としての意味を否定しようとしたもので あることには変わりはない。 富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
477 :
名無しさん@3周年 :2011/06/10(金) 20:09:58.05 ID:juKeLT4l
『英霊の声』の、あの英霊たちの声々は、「陛下はずっと人間であらせられた」ことを百も承知で、だからこそ 「陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、そのお言葉にいつはりのあらう筈はない」と語る。 しかし、その〈人〉であられる陛下は、国家存亡の危機のときに、生命を賭して死んでいった者たちのために、 国破れし後にあってこそ、「現御神」としてあってもらいたかった。それはまた天皇のために立ちあがりながらも 「反乱」軍として処罰された二・二六事件の青年将校たちの、「天皇」の神聖に希望を託した思いとも重なる。 敗戦の時に二十歳であった三島は、この「神の死」を自己の存在の最も深部において体験したのだ。 三島のダリの「磔刑の基督」の評をそのまま借りていうならば、その初期作品(『盗賊』や『岬にての物語』 あるいは十代作品まで含めてもよい)の言葉の地平には、「いつもその地平の果てから、聖性が顕現せずには おかない予感のやうなものがあつた」といえよう。 富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
478 :
名無しさん@3周年 :2011/06/10(金) 20:17:49.16 ID:juKeLT4l
(中略)ジョルジュ・バタイユの『聖なる神』という作品集の鮮烈な読後感を三島は(『小説とは何か』のなかで) 印象深く記している。(中略)所収の『マダム・エドワルダ』『わが母』の二作にふれながら、三島が一貫して 関心を示し注目するのは「神の出現の瞬間」である。 バタイユは「自己を超越する」こと、「わが意に反して自己を超越するなにものか」の「存在」を求める。 近代的な自我意識と、「神の死」という虚無を現実認識とする他はない人間にとっては(例外なく現代の人間に とってではあるが)、それは「不合理な瞬間」であり、そこには何か異常で過剰なものが介在しなければならない。 (中略) 三島は、この言葉によっては到達不可能な事柄を、作家が言葉によって表現していることに瞠目しつつ、次のような 説明を加えている。 富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
479 :
名無しさん@3周年 :2011/06/10(金) 20:18:17.05 ID:juKeLT4l
〈この「不合理な時間」とは、いふまでもなく、おぞましい「神の出現の瞬間」である。 「けだし戦慄と充実と歓喜のそれとが一致するとき、私たちのうちの存在は、もはや過剰の形でしか残らぬからだ。 (中略)過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?」 つまり、われわれの存在が、形を伴つた過不足のないものでありつづけるとき(ギリシア的存在)、神は出現せず、 われわれの存在が、現世からはみ出して、現世にはただ、広島の原爆投下のあと石段の上に印された人影の やうなものとして残るとき、神が出現するといふバタイユの考へ方には、キリスト教の典型的な考へ方がよく あらはれてをり、ただそれへの到達の方法として「エロティシズムと苦痛」を極度にまで利用したのがバタイユの 独自性なのだ。(『小説とは何か』)〉 (中略)しかし、バタイユのこの「独自性」もまた言語の領域(ぎりぎりの限界への冒険であるとはいえ)に あったのはいうまでもない。 三島が明晰にそして最終的に自覚していたのは、この言葉の限界性であった。 富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
480 :
名無しさん@3周年 :2011/06/10(金) 20:20:10.25 ID:juKeLT4l
『太陽と鉄』は、自裁のプロセスと心理的構造を余すところなく分析したまことに戦慄的なエッセイであるが、 そのなかで次のように明言しているのだ。 〈私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。 いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終るともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。 (中略)言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によつて、生の連続性の 一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。少くとも、「絶対」の医者の待つ間の待合室の白い 巨大な壁の、圧倒的な恐怖をいくらか軽減する。(『太陽と鉄』)〉 この「絶対」を、「神」といいかえてもいい。いや、ここではあきらかに神の顕現のことがいわれているのであるが、 三島が明瞭に認識していたのは、「言葉」によってその存在を暗示(バタイユ的手法)することは十分に可能で あっても、それは「現在進行形の虚無」にたいしては一場の役割しか果たしえないということである。 富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
481 :
名無しさん@3周年 :2011/06/10(金) 20:20:47.98 ID:juKeLT4l
自裁という行為が決定的な意味を持ちだしたのは、ここにおいてであろう。「神の死」の現実の虚無のなかに おいては、バタイユのいう通り「過剰のすがた以外」に真理を把握し、神の出現に立ち合うことはできない。 「自決」とは自由のマイナス極限で、自己の存在を破壊することであり、その決定的、一回的な欠損の過剰さの なかにこそ「絶対」は到来するだろう。そして遺作『豊饒の海』は、仏教的な相対主義に呑み込まれてゆく。 あらゆる歴史と存在を描ききって完結する。 三島の自決が四十年の歳月を経て、今日に至るまで深くおおきな影響を与えつづけているのは、三島が自己の 存在そのものを、戦後日本社会という虚無の時空のうちに磔刑とし吊し、供養としてささげてみせたからである。 そして、われわれは未だにその「死」の深い本質的な宗教性を知らずに(あるいは知ろうともせずに)いるからだ。 富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
482 :
名無しさん@3周年 :2011/06/10(金) 20:21:23.47 ID:juKeLT4l
三島の死後七年目、『サド侯爵夫人』のフランス語訳とパリでの上演に関わった作家ピエール・ド・マンディアルグは、 戦後の仏作家のなかでの最もすぐれた才気ある書き手の一人であるが、仏文学者の三浦信孝氏のインタビューに 答えてこう語った。 〈現在では、三島はジョルジュ・バタイユに強く惹かれていたとよく言われますが、私には確信はありません。 (中略)しかし私の見るところでは、三島はバタイユとはだいぶ違います。彼らの類似点は、彼らに共通する 絶対に対する情念であり、生と生の哲学を極限まで、絶対まで追究しようとする情熱ですが、三島は、自分の観念を 真の極限にまで、血と死にまで追いつめる実例をわれわれに残した唯一の存在であって、残念ながらバタイユは そうした実例を残したとは到底言えません。(『海』一九七七年五月号)〉 三島の文学と行動の総体を一言で射抜くマンディアルグのこの見解は、一神教にたいしてほとんど理解を 拒もうとするこの国では、残念ながら聞くことができなかったものなのである。 富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
483 :
名無しさん@3周年 :2011/06/11(土) 02:35:21.25 ID:Q8Jc2xPL
今頃バタイユかよ。それでバタイユも肛門派かね。
484 :
名無しさん@3周年 :2011/06/17(金) 00:15:28.51 ID:vz+LUXaY
三島由紀夫が透徹した認識の目を持っていたことは、彼を知る人ならば誰もが認めるだろう。例えば動物に 対する描写を取ってみても、その異様に鋭い認識能力が垣間見れる。(引用略) 言葉を喋らぬ一個の生命に対して、これほどその根源に迫れるほどの認識能力を持っているなら、人間を洞察し、 その自意識を具体的に纏め上げた安永透という人間を作り上げることくらい造作もなかっただろう。(中略) 三島文学ほど明確に人間の個人的精神と結び付けて涅槃を説いている作品は他にないだろう。悟り……、そして 悟りへ至るための道である八正道とはつまり、自意識の塊りである安永透という存在の否定なのだ。 天人五衰や「安永透の手記」には、悟りへの道である八正道に、見事に反する精神状態が描かれているのである。 安永透の自意識こそ、仏教が説く人間の捨て去らねばならない“我”そのものだからだ。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
485 :
名無しさん@3周年 :2011/06/17(金) 00:16:38.03 ID:vz+LUXaY
三島由紀夫の重要性、そして特殊性は、その並外れた認識の能力にある。(中略) なぜ三島由紀夫にだけ、これほど高度な認識能力があり、一般の人はそうではないのか。それが私には大きな 疑問となり、三島文学への好奇心を駆り立てた。(中略) どちらかというと私は三島の小説よりも日記やエッセイなどを好んだ。(中略)概念の捉え方が行間からより 鮮明に表れていて、その明晰さに私は驚嘆した。(中略) 三島由紀夫は単なる小説家という存在を超えている人間なのかもしれない、と私はうっすらと理解し始めた。 多くの人は『ミシマ文学』と言っているくらいで、どうも彼の使う表現の卓越さ、認識の正確さのすべてを、 三島由紀夫の文才と考えているようだった。 しかし私にはそうは思えなかった。言葉使いが巧みなだけなのではない。確かに十代までの三島はそうだった。 しかし「仮面の告白」以降は違う。正確に現実を認識しているのだ。あまりに正確すぎるほど正確に……。 つまり、何かをきっかけに三島由紀夫は、その正確無比な認識に覚醒したのだと私は思った。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
486 :
名無しさん@3周年 :2011/06/17(金) 00:18:06.84 ID:vz+LUXaY
…『一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあった。欲望を 抱かない限り、この目の透徹と燈明はあやまつことがなかった』(天人五衰)(中略) 三島は自分の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚を、若いときは自分の文学的素養として芸術の領域で 捉えていて、仏教的な意味での仏性だとか悟性だとかいう風には捉えていない。或いは最後までそのスタンスは 変わらなかったかもしれない。(中略) 三島由紀夫が行っていた無我の認識とは、この阿頼耶識を認識することだ。(中略) 古来から悟りを開いた者は神通力を得ると言われている。(中略)阿頼耶識による無我の認識は、原理は単純だが、 或る意味そういった超能力に近いものだ。(中略)三島の表現力を神技に近いと評した評論家もいたようだ。 超能力とまでいかなくても、第一章でも記したように、その認識の正確さは燈明を極めていた。(中略) 無我の認識という正確な認識の方法を理解している三島由紀夫という存在は、私には途轍もなく重要に思えて きたのだった。三島由紀夫が理解されれば、人間同士の完全な相互理解が可能になるからだ。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
487 :
名無しさん@3周年 :2011/06/17(金) 00:18:53.35 ID:vz+LUXaY
…三島由紀夫について研究していて、ひとつ不思議に思った事があった。なぜ三島が自分への理解を求める 方法として、小説という形を選んだのかということだ。彼はそこいらの哲学者や心理学者よりよほど頭が良く、 人間精神に精通していたから、自分を理解して欲しいなら、自分の認識の体系を分かりやすく論文のような形で まとめて発表すればよかったのにと思った。なぜそうしなかったのか。実際に三島由紀夫について書いてみて 分かった。それは不可能だからだ。近代自我哲学や精神分析学は三島本人も言っているように、些か暴論で、 妄味を生み出している気がする。精神という性質を詩的幻想と規定することは出来ても、その精神が生み出す 幻想世界を分割したり、現実世界に対する精神の認識構造を解析することは不可能だ。(中略) 唯識的に言うと、欲望を捨てて第七識を超えたところにある阿頼耶識という存在の究極の片鱗を読み取った ということになるだろうが、では、どのようにして読み取ったのかとなると、それ以上の詳しい説明は出来ない。 それ以上は、もう“ありのまま、ただ見た”としか言いようがない。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
488 :
名無しさん@3周年 :2011/06/22(水) 23:29:58.11 ID:d0DmW6sx
…プラトンのイデア論にしても、ニーチェのパースペクティブ主義にしても、デカルトの良識論にしても、 実念論にしても唯名論にしても、フーコーのエピステーメーにしても、フランシス・ベーコンが「ノーヴム・ オルガヌム」で言うイドラにしても、実存主義にしても、ライプニッツのモナドの概念にしても、そして 唯識さえも、認識に至るまでの経緯の仮定的な説明なのだ。(中略) 過程を明確に示す方法がないから結果から示すしかなかった。小説という物語の形を借りた方法で、自分が 認識した安永透という人間の自意識を正確に記すしか、つまり、感覚的に、自分の認識能力とその認識能力を 持っているということが何を意味しているのかを理解できる人間を探すしかなかったように、私には思える。 無我に至るまでのその過程を説明しなくても、天人五衰を読んだら分かる人間に向けて三島は天人五衰を書いている。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
489 :
名無しさん@3周年 :2011/06/22(水) 23:30:35.19 ID:d0DmW6sx
(中略) 三島由紀夫が天人五衰に書いているような、人間世界を裁定する漁師の目、それは神仏の目だ。無我による 正確な認識は、最終的に神の目に近づく。人間を監督し、その行いに応じて命運を決定する存在との視点の同一化。 それが一種の予言性を帯びてくる究極の認識であり、人間が最終的に至るべき境地なのだろう。そしてそれは、 いわゆる宿命通・天耳通・死生智にあたるのだろう。 『狐はすべて狐の道を歩いていた。漁師はその道の薮かげに身を潜めていれば、難なくつかまえることができた。 狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることが分かっていながら狐の道を歩いているのが、今の自分だと 本多は思った』(天人五衰)(中略) 精神という願望的幻想性を利用したこの現実の都合のいい変容を、人を化かす『狐』に例えているのである。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
490 :
名無しさん@3周年 :2011/06/30(木) 12:38:46.14 ID:S0l1pR7U
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に) 美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。 貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』 相談者『(憤然として)読んでますよ』 美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』 相談者『秋元康とか』 美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……?(ピンと来て)オホホホホホwwwww』 相談者『?』
491 :
名無しさん@3周年 :2011/07/10(日) 17:48:41.93 ID:oeayZEbt
(中略) そもそも彼のあの異常な明晰さは、人間の領域を遥かに超えている。彼は人間でありながら神仏の目を得、 しかも人間として生きたのだ。(中略)三島は晩年、生涯を通じてあれほど批判してきた太宰治と自分は同じ なんだと言ったそうだ。太宰がそうであったように、三島にも人間の世界が理解しがたかったのではないか。 理解できすぎたが故に。 その無意識。その認識の欠如。すべてが彼には奇妙に思えただろう。 三島にとって人間は、運命の自己表現のようなものだった。(中略) 三島は確かに誰よりも正確に物事を認識することができたわけだが、単純にその能力を喜んでいたわけでは なかったようだ。(中略) 三島由紀夫は確かに稀に見る認識の天才で、完璧に近いほど人間存在、そしてその命運を裏側から管理している 神仏の神秘まで理解していた。しかし、求道者ではなかった。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
492 :
名無しさん@3周年 :2011/07/10(日) 17:49:15.76 ID:oeayZEbt
三島は悟達に至ろうと思って悟達に至ったわけではない。セキュリティー・システムを打破するはずのハッカーが、 逆にセキュリティー・システムに詳しくなるように、犯罪を犯すはずの犯罪者が、逆に刑法に詳しくなるように、 あまりにも夢想的であったために、逆に真実に目覚めてしまったのだ。 そして三島はその欣求の欠如ゆえ完全なる悟りには至っていなかった。いや、至ろうとしなかった。(中略) ここに三島由紀夫という人間の独自性がある。彼は悟りの構造を知っていながら詩を求め続け、仏教には帰依せず 天皇に帰依したのだ。奇跡は到来しないと理解してからも、つまり詩が現実ではないとはっきり理解してからも、 生来の気質から詩的椿事を待望し続けることをやめられず、また神仏に帰依する気もなかった三島由紀夫は、 自分の意志の不毛に気付いていた。紙の上の現実と実際の現実、その二種の現実のどちらもいつでも選べるという 自由が三島由紀夫という人間の意志だった。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
493 :
名無しさん@3周年 :2011/07/18(月) 23:20:01.98 ID:on9rPy9J
(中略) どんな奇跡への待望であれ、それが絶対に到来しないと分かっているなら、そしてそれでも猶、奇跡を待望し 続けるとするなら、いったい精神はどこへ向うのだろう。三島にとって至福と言うものが、少年時代に感じたように、 願望と現実の一致にあるなら、詩から覚醒した三島の唯一の至福は、自らが絶対的存在と融和することだった。 それが「憂国」であり、天人五衰の末尾において本多繁邦に語らせている『聖性』だった。(中略) ああいう最期を遂げたことには、批判的な意見の方が多かったようだが、バルコニーに立って演説する三島の 姿を見るたびに、私は何か心を動かされる。別に憲法を改正して自衛隊を国軍にして欲しいわけではないけれど、 命を賭けて訴えるその姿に素晴らしい何かを見るのは確かだ。(中略) 天人五衰における本多の涅槃への到達の仕方は、一見したところ幸福からは遠く、それはまるで神への挑戦のようだ。 恒久平和の不可能を自明のものとして死んでいった彼の存在が、実は精神という幻想を打ち破り、人間の相互 理解を可能にする唯一の鍵だったというのはなんと皮肉だろう。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
494 :
名無しさん@3周年 :2011/07/18(月) 23:20:38.09 ID:on9rPy9J
(中略) 私には三島由紀夫が、自分がロボットだと気付いてしまったロボットのように思えてしまう時がある。自分の 内部構造、背負わされた宿命、世界の実相……、その仕組みを、それを創造した者と同じくらい完全に理解 できる能力を持っていた三島由紀夫は、結局、自分が何者であるかを知ってしまった。三島由紀夫は自分が 【人間】であることを理解してしまったのだ。 精神の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚という性質。告白は不可能であり、真の自己は規定し得ないということ。 人間は自由意志を持ってはいないということ。見えない誰かに何かを強いられて生きているということ。 人間であるということそれ自体がひとつの罠にかかってしまっているということ。そして、自分が誰からも 理解されてはいないということ……。 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
495 :
名無しさん@3周年 :2011/07/18(月) 23:21:26.21 ID:on9rPy9J
世界についても理解した。 それは涅槃の文学である三島文学の最終的な主題「奇跡自体よりもふしぎな不思議」だ。 即ち古代存在論にはじまり、中世スコラ哲学へと続き、デカルトやウィトゲンシュタイン、ライプニッツらも 問うた『神秘的なのは、世界が如何にあるかではなく世界があるということ』という命題。数多くの哲学者が 求めたこの命題に対する三島由紀夫の答えは、「仮面の告白」における素面の不在と同じように、世界存在 そのものの実体の不在だった。 『「海と夕焼け」は、奇跡の到来を信じながらそれがこなかったという不思議、いや、奇跡自体よりもさらに ふしぎな不思議という主題を凝縮して示そうと思ったものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題に なるものだ』(花ざかりの森・憂国 あとがき) …つまり、世界が存在しているということ自体が奇跡よりもふしぎなことなのであって、それは唯識論哲学に おける存在の実体の無さ、一切諸法がただに『識』に帰すという思想によって表されている。 『本多は夢の生に対する優位を認識した』(天人五衰) 三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
本当の天才とは、簡単には説明することのできない能力の持ち主のことだ。 シェイクスピアは天才だった。モーツァルトも、レオナルド・ダヴィンチも、紫式部も天才だった。 私がこれまでに出会ったすべての人々のなかで、「この人は天才だ」と思った人は二人しかいない。 一人は中国文学および日本文学の偉大な翻訳家であったアーサー・ウェイリーである。(中略) そして、私の出会ったもう一人の天才が三島由紀夫である。 ドナルド・キーン「二つの祖国に生きて」より
497 :
名無しさん@3周年 :2011/08/06(土) 06:16:03.58 ID:lR5FFKkF
三島がホモとしか語れない奴ってアホ丸出し
498 :
名無しさん@3周年 :2011/08/06(土) 09:16:43.53 ID:npY7i3tA
499 :
名無しさん@3周年 :2011/08/08(月) 10:54:54.71 ID:mc8a90+o
司会(松本徹):三島さんは、どんな印象でしたか。 本野:非常に頭のいい人でした。特に文学に関しては並ぶ者がいない。 六條:それは、誰もが認めてましたね。 (中略) 司会:三島さんは、戦争中でありながら一種の文化言論活動のようなことをやっていますねえ。 本野:それは彼が反抗的気質だったとか、周りの者に動かされてということではなかったと思いますよ、文化とか 言論とかに対して純粋な気持ちがあって、それを学校の中で実現しようとしたら、ストップがかかったという ことだと思います。(中略) 司会(佐藤秀明):この一連の出来事に関連してだと思いますが、この時期の平岡公威はだいぶ感情が高ぶっていて、 総務部総務幹事を辞めたいと清水先生に手紙でぶちまけています。 六條:そういう手紙が残っているんですか。清水先生とはツーカーでしたからね。僕らには見せない顔を見せて いたんですかねえ。 本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
500 :
名無しさん@3周年 :2011/08/08(月) 10:56:35.42 ID:mc8a90+o
司会:(三島は初恋の園子と)学習院の友人の妹として知り合って、手紙のやりとりをするようになり、彼女の 一家は軽井沢に疎開するんです。(中略)そこへ三島が、主人公がですね、訪ねて行くんです。それで旧軽井沢の ゴルフ場で接吻をすると書かれています。だけど、この恋愛は実らずに終わってしまって、三島はずいぶん 苦しんだようです。だから戦後は、辛い出発をしなければならなかった。 本野:まあ、あの当時でもそういうことはあったでしょうね。これは僕個人のことなのだけれども、一学年下に 黒田っていうのがいたでしょ、黒田一夫。その妹と僕が恋仲になって、だけど彼女が亡くなってしまったんだ。 それはショックでね。昭和二十年頃だったんだけれども。そのとき平岡に話したのかな、よく覚えていないけれども、 彼からお悔やみの手紙をもらったんですよ。なくしてしまったんだけどね、残念なことに。それがことのほか よい文章でね。自分のことがあったあとだから、ああいう手紙が書けたのかなっていまちょっと思いましたね。 本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
501 :
名無しさん@3周年 :2011/08/08(月) 10:58:35.83 ID:mc8a90+o
司会:(三島は)高等科では総務部総務幹事になっていますでしょ。四人の幹事のうちの一人です。集会などで 号令をかけたり、挨拶したり、そういう点では目立っていたのではないですか。 本野:いや、そんな記憶はないですね。目立つということは、彼の場合はほとんどない。 司会:高等科で、さっき話の出たお芝居を書いてますね。それで演出もしている。そういう点では、ある面の 中心的な存在だったのではないですか。 六條:それはね、小説や演劇のこととなれば、彼の右に出る者なんかいないんですよ。その点ではもう別格。 それだけはみんなが一目置いていた。 本野:成績もね、僕らがどんなに勉強しても絶対に一番にはなれなかった。全然違うんですよ、彼の一番は。 記憶力とか理解力とか群を抜いていた。二番を引き離した一番だったんです。ましてや文学に関しては全く 次元が違う。 司会:ということは、性格的にリーダーになるとかいうのではなくて、お芝居となれば、身につけたものや才能で 平岡を据えるのが当然だということになっていたと、こういうことなんですね。 六條:ええ。 本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
502 :
名無しさん@3周年 :2011/08/08(月) 10:59:58.64 ID:mc8a90+o
本野:彼は優れすぎているというか、異なりすぎているということですよ。それで彼は優越感をもつとか そういうのでなくて、自然に優れていたということでしょうね。 司会:三島の側から言いますと、外務省なり文部省なり社会に出て仕事をしている人たちがいて、自分はもの書き という特殊な立場にいて、何というかコンプレックスのようなものをもったのではないか。文学者というのは、 本当の意味での一人前の社会人ではないんじゃないかという意識ですね、そういうものがあったのではないか。 本野:彼とは割と簡単に話もできたし、間に垣根があるという感じでもなかったんですよ。でも、彼は自分の 世界を持っていたんですね。 司会:いや、石原慎太郎との違いということにもなるかもしれませんが、実社会の中で何かをするという意識を ずっともっていたのではないかと思うんです。(中略) (そして、その)行動が象徴性のレベルになってしまう。芸術家の行動というのは象徴性というところへ 行かざるをえないんじゃないかな。 本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
503 :
名無しさん@3周年 :2011/08/08(月) 11:01:14.44 ID:mc8a90+o
司会:これは僕自身の気持ちが入っているのですけれども、少年のときから文学の世界を目指して、それで 文学の中でやってきたんですが、いまの歳になると一種の空しさみたいなものを感じるんですよ。実業の世界で 生きている人は、何か世の中に痕跡を残していて、小説家がやってきたことと言えば言葉をただ並べただけだと いう空しさですね。そんなものが三島にはあったのではないか。空しさをあえて突き抜けてみせるという意志が あったように思います。 本野:空しいという感じは超越していたと思うなあ。(中略)あれが彼にとって自然な姿だったんじゃないだろうか。 昔彼と話をしていても、全く偉ぶった感じがしない。そのまま別の世界にいるという感じだった。あなたもそうでしょ。 六條:うん、そう。平岡は平岡でしたよ。それでいて我々とは全然違うんだ。それがすごいことだとみんな 感じているんだけれども、学校ではね、そういうことは小さなことだったんです。頭がいいとか、文学をよく 知っているとかは。 本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
504 :
名無しさん@3周年 :2011/08/09(火) 20:34:55.46 ID:jw9wAb1l
司会:この間、演劇で三島と関わった和久田誠男さんの話を聞いたんですが、宇宙人じゃないかと思ったと 言ってました。会っているときはそうは思わないけれども、家に帰って三島さんのことを思うと宇宙人としか 思えないと言うんです。いまのお話は、そういうところと関係しますね。三島さんのそういう面が現れるのは、 高等科からですか。 六條:そうねえ、中学のときはたわいもない子どもでしたよ。むしろ北条浩の方がずっと弁が立ったし、 理屈っぽかった。 司会:北条さんというのは、創価学会の会長になった人ですね。 六條:ええ、学習院を終えて海兵に行って。北条はよく平岡に食ってかかって、口論というか口喧嘩をしていましたよ。 司会:三島というのは、やっぱり天才と言うしかない人だったと思うのですが、それがどういうところで 形成されたのか、そこが知りたいですね。 六條:それはね、清水先生の感化ですよ、清水先生にもそういうところがあったんです。 本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
505 :
名無しさん@3周年 :2011/08/09(火) 20:36:39.82 ID:jw9wAb1l
六條:岩田先生も(三島に)目をかけたでしょうが、岩田先生や佐藤文四郎先生は、清水先生とは違いましたね。 (中略)「輔仁会雑誌」に書いて清水先生に認められ、「文芸文化」に小説を発表することになるのですけれども、 あの清水先生に認められ可愛がられたというのが、大きかったんだと思いますよ。 司会:なるほどねえ。三島由紀夫がいたから清水文雄がいたんじゃなくて、清水先生がいたから三島由紀夫が いたということですね。 六條:「輔仁会雑誌」に平岡の書いたものが載るでしょ。われわれからすれば平岡のが載るのは当たり前だと 思っていましたよ、平岡もそんなふうでしたよ。だけど、僕らには、彼の書くものが分からないんだ、難しくて(笑)。 司会:清水先生を読者だと思って書いていたんでしょうね。 六條:だから、僕らの前ではひょうひょうとしていましたよ。体が弱かったけれども、コンプレックスなんか もっていなかったみたいですよ。驕らないし見下しもしないし、卑下している様子もなかった。ひょうひょうとして 当たり前の顔をしていました。 本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
506 :
名無しさん@3周年 :2011/08/09(火) 20:48:20.61 ID:jw9wAb1l
司会:中等科から高等科にかけて、四歳年上の東文彦と三島は親しくなります。(中略)(三島は)自分の作品が くだらないものに思えたとか、そういうことも書いています。だから、自己評価も素直で、また思うように ならないことにはどんどん愚痴を言うといったタイプだと思っていましたが。 本野:そういう相手もいたんでしょうね。僕らにも愚痴を言ったのかもしれない。でも、愚痴に聞こえなかったんだね。 六條:彼は意志が強かったからねえ。(中略) 本野:それとね、家柄というんでしょうか、彼は普通の家でしょ。やはり華族の子弟との違いというのが あったように思いますね。彼が優秀な人間だったということを関連づけてみると、そう思います。(中略) あなた(六條さん)のように京都の古い家柄の華族とはやはり違う。(中略)反面、だけど俺の方ができるぞ といった気持ちですね、そういうのが三島にもあったんじゃないかと推察します。 司会:それは確かにあっただろうと思います。あったから『春の雪』といった小説が書けたんですね。 本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
507 :
名無しさん@3周年 :2011/08/11(木) 09:41:09.49 ID:baiHCRzB
司会(松本徹):(三島は)最初は着物姿で現れたとか。終戦間もなくのあの時期、若い人で着物着ているひとなんか いなかったでしょうね。 川島:そうですよ、あの時代、講談社の社屋は焼夷弾でね、黒こげになっているんですよ。(中略)そういう時代に 彼は紺絣に袴をはいて来ました。それはちょっと印象的でしたね。 司会:太宰治に会う時、着物を着て懐に匕首を呑んだような気持ちだったと三島は書いてますけど、講談社へ 行くのにもそういう気持ちだったんじゃないですか。 川島:どうですかね。相当緊張してました。 会ったのは僕だけでした。(中略)今日はこういう新人が来るから、頼むよ、と言われて。 司会:(中略)今後いけそうかどうか、見極めようと。 川島:ええまあ、やっぱり違いましたよ、普通の作家とは。僕たち池袋あたりでカストリ焼酎飲んで、檀一雄を はじめとして、まあ無頼の連中とばかりつき合ってました。ところが、そういう文壇とは関係がない。なんか スッとした、まあ貴公子っていう言い方はあんまり正確でないけど、何かスカッとした、よそ者が入ってきた。 川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
508 :
名無しさん@3周年 :2011/08/11(木) 09:43:22.12 ID:baiHCRzB
川島:プライベートなことになるけど、三島由紀夫の妹美津子さんっていうのがね、家内の同級生なんですよ。 三輪田高女のね。同級生で親しくしていた。そこでね、三島のお母さんの倭文重さんもまた三輪田出で、遊びに 来るようにって言われてね、何回も遊びに行ったことがある。三島家へですね。三島由紀夫を訪ねるのとは別です。 家内について何回も行ったことがある。 司会(井上隆史):講談社で三島由紀夫の来訪を受けた後ですね。 川島:ええ。そんなことから親近感持つようになった。そして家族ぐるみの付き合いになった。だから僕がね、 馬込の三島家を訪ねると、玄関左手に日本家屋があったんですよ。そこに親爺さんと倭文重さんがいて、僕に 気づくとね、あ、川島、こっちだよって必ず呼ぶの。(中略)今ね、うまい焼酎があるよって。その頃の 焼酎ってのはね、芋焼酎でね(笑)。(中略) 司会:三島が焼酎を飲んだとは聞きませんが。 川島:ええ、息子の方はね、全然ダメ。銀座のエスポワールってとこへ一緒に行ったことあるんです。でもね、 水割り一杯飲んで、真っ赤になってね、大変だった(笑)。写真ありますよ、探せば。 川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
509 :
名無しさん@3周年 :2011/08/11(木) 09:44:40.91 ID:baiHCRzB
司会:林房雄なんかと、早くから会ってましたね、三島は。 川島:ええ。 司会:川島さんも勿論……。 川島:ええ、会ってます。(中略)林房雄がね、山の中腹に書斎を作ったんですよ。その書斎びらきをするって いうんでね。三島さんと呼ばれたの。そしたらね、その頃ちょっと忙しかったのかな、途中で帰ってしまった。 そしたらね、三島が帰ったら、花がなくなったよってね、林房雄は酔っぱらって言い出したんだ。じゃああれ呼ぼう、 熊谷久虎という映画監督がいるが、その義理の妹のあれを呼ぼうって。あれは誰だろうと思ってたら、原節子なの(笑) 君ィ迎えにいってこいよっていうからね、地図書いてもらって、(中略)湯上がりの彼女連れて僕は林房雄の 家へ行った。 司会:じゃあ三島は会ってないわけですね、原節子と。 川島:会ってたら、いやあ、どうだったか。 司会:何年頃のことでしたかご記憶ありますか? 『仮面の告白』は出版されていました? 川島:もう出ていた。林房雄は三島をかわいがってますよ。 川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
510 :
名無しさん@3周年 :2011/08/11(木) 09:46:29.73 ID:baiHCRzB
司会(山中剛史):川島さんのお仕事では講談社インターナショナルでのものがありますね(英訳版『太陽と鉄』を 見せる)。 司会(佐藤秀明):ああ、インターナショナルに移られたんですね。 川島:これはねえ、(社で)反対が多くてね。カバーの裸の写真はやめてくれっていうんだ。 司会:三島さんは是非ともこれでって……。 川島:ええ。アメリカじゃね、裸の写真こういうふうにするとね、ゲイのね、一つのシンボルになるから、 それだけはやめてくれっ言われたんだけどねえ、「いや、是非ここにこれやってくれ」って(笑)。 司会:いい本ですよ。いい本だ。 中は二色刷りで、お金かかってますよね。 川島:かかってんだよこれ。それで、裏に署名。それが効いてるんだ。 (中略) 司会:帯をするとちょうど褌が隠れるようになってるんですね。 川島:そうそう。隠したんだよ(笑)。 司会:英語の題字も三島の筆ですか。 川島:そうですよ。そちらもどっかにあるんだけど。 川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
511 :
名無しさん@3周年 :2011/08/11(木) 09:49:27.36 ID:baiHCRzB
川島:ある時ね、三島家を訪ねて、一緒に出たら、「川島さん今日はあいてる」っていわれてね、僕は会議が あるので社に帰らなくちゃといったら、「それじゃいいや、この次にしよう」って。パレスホテルへ送って行くと、 「出来たらあなたと一緒に行きたいんた」って、楯の会だね。 司会:決起の予行演習とか。 川島:いや、一緒に飲むんだって。「川島さんがいると盛り上がるから」って(笑)。僕酒飲みだからね。 彼あまり飲めないから、「代わりに飲んでくれないか」っていうふうに話してたね(笑)。(中略)ああいう時はね、 惜しいんだよな。会社のことなんか別にしてね、三島がそんなこと言うのはあんまりないからね、あの時期にね。 どうして一緒にいかなかったかと悔やまれますけど。まあ人生ってそういうもんだよね(笑)。 司会:最後の別れみたいな、そういうことはありましたか。 川島:いや、別にないですねえ。あれが実はそうだったのかなあ。うん。ただ凄く忙しかったからね、例会とか なんとかでね。 川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
512 :
名無しさん@3周年 :2011/08/11(木) 19:17:57.53 ID:baiHCRzB
司会:映画「トラ・トラ・トラ!」を見にいこうと誘われたというお話ですが、それも晩年ですか。 川島:そうです。 司会:三島が好きだった戦争映画ですね。 川島:「トラ・トラ・トラ!」はね、楯の会の推薦映画だったの。隊員と一緒に何回もみてるらしいよ。志気を 鼓舞するために。まあ、あの事件も真珠湾攻撃みたいなところがあるからね(笑)。でも、今ねえ、三島由紀夫 みたいのいないもんな。もう全部フラットになっちゃってね。人間ね。 司会:数世紀の間に一人出るかどうかの人ですね。 (中略) 司会:川島さんが親爺さんと意気投合したってのは(笑)。 川島:いやあ、あの親爺とはホントによくつき合った(笑)。 司会:テレビ局や編集の人なんかが来ると、親爺さん見ているわけですよね。親爺さんと言葉を交わして帰る人は そんなにいなかった。 (中略) 司会:お母さんが、あれだけ早熟な才能を育てたと思うんですが。 川島:やっぱり、原因はお袋じゃないかな、あの親爺よりも。「年取ると段々親爺に似てくるからやだよ」とかって いってたけど(笑)。 川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
513 :
名無しさん@3周年 :2011/08/11(木) 19:19:50.12 ID:baiHCRzB
司会:ジョン・ネイスンが評伝で、家庭の中のことを結構書いてしまいましたね。あれは、ちょっと平岡家に とっては、喜ばしくないような……。 川島:喜ばしくない。 ネイスンってのはね、あれ変わった奴だ(笑)。僕は非常に親しくしてて、渋谷の恋文横丁かなにかに連れてったんだ。(中略) 面白い男ですよ。ただ、まあねえ、聞き書きによる取材だから、よく分かってないですよ。 司会:彼は、日本語はよく出来るの? 川島:出来ますよ。僕は会ったときに、落語を一席なんて言うんだあいつ(笑)。その落語がね、なんだかね 「火焔太鼓」じゃなくて、なんか、聞きかじりのやつやって、日本語これだけ出来るんだって誇示してた。 まあよく出来る男ですけどね。でかくて、オートバイ専門で、ホントにアメリカンスタイルね。いい意味でも 悪い意味でも。どうしてんだろうなあ、今。 司会:カリフォルニアのサンタ・バーバラにいるんじゃないですか。 一時映画界に入ってたみたいですけどね。 川島:撃たれ役じゃないんですか(笑)。 川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
514 :
名無しさん@3周年 :2011/08/15(月) 16:22:50.11 ID:Y0zDt5fk
秋山:(昔から)三島由紀夫の存在は知っていた。早稲田に入る前なんかでも本屋に行けば、「花ざかりの森」を 売っていたからね。これがあの早熟の才能ある者が書いたのかと、あちらこちらの本屋を見てまわった。読みは しなかった。翻訳本をやらなくちゃいけなかったから、そんなものは読んでいられなかった。 井上(司会):秋山さんはいつ頃から、三島由紀夫に同時代の感覚や接点を感じるようになったのですか? 秋山:言いにくいけど、それはないよ。ないというより、「花ざかりの森」という早熟のタイトル。題が題じゃないか。 そんなかっこいいもの、関係ないと思っていた。 (中略)どこが違うのかと、後になっても感じたことだが、やはり階層が違うということだよ。(はじめて三島と 会ったきっかけは)村松剛や佐伯彰一がいた「批評」という雑誌に、村松に誘われて加わった、その時にね……。 松本(司会):昭和四十年一月ですね。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
515 :
名無しさん@3周年 :2011/08/15(月) 16:24:38.74 ID:Y0zDt5fk
秋山:そう。なぜか遠藤周作が三島さんの家に連れていってくれた。その時、初めて社会的なことにちょっと 目覚めたんだよ。一月だったし、何か持って行かなくてはと、奮発して煙草の「ケント」をワンカートン買い、 持って行った。ところが遠藤周作と一緒に行ったら、三島さんが玄関で出迎えてくれて。まるで舞台だよ。 遠藤周作は三島に花束を持って来ていて、渡しながらご挨拶なんかしている姿を見て……。 井上:ちょっと違うなと。 秋山:ちょっとどころじゃないよ。持参した煙草は持って帰ってきちゃったよ。はっきりとこれは階層が違うなと。 井上:その時、階層というものをリアルにお感じになったのですか? 秋山:はっきり感じましたよ。西洋の何かを模したような立派な家だしね。特にやってることがさ。遠藤周作も こんなことやるんだなと。 井上:遠藤周作についての見方も変わったのでは? 秋山:かなり変わりました(笑)。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
516 :
名無しさん@3周年 :2011/08/15(月) 16:26:02.23 ID:Y0zDt5fk
松本:外野席から見ていたわたしたちにとって、秋山さんの登場は非常に鮮やかでした。(中略) 「内部の人間」「想像する自由」(昭和三十八年)を発表されてからの秋山さんの存在感は凄かった。三島も 即座に認めた。 (中略)秋山さんから、三島はかなりの衝撃を受けたのではないかと思います。 秋山:未だによくわからないが、三島由紀夫は私に非常に親切でした。それはなぜだったか、現在でもよくわからない。 松本:なぜ親切だったのか色々と考えたいのですが、一つは、三島由紀夫の「太陽と鉄」(昭和四十年十一月 連載開始)は、秋山さんの仕事の影響があるのではないかと思うのです。(中略)評論かエッセイか小説か、 わからない新しい仕事というのは、秋山さんのほうが先ですよ。秋山さんがすでにやっておられる。そのとき 三島は、「なるほど、これだ」と思ったのではないかと私は思います。 秋山:あそこで文章の波長が共鳴したのかね。そう考えるといいけど、未だにわからない。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
517 :
名無しさん@3周年 :2011/08/15(月) 16:28:07.85 ID:Y0zDt5fk
秋山:私がある時から思っていたのは、もしかすると先ほどの階層の話に繋がるが、階層や絶対的な教養の違いが あるからね。こちらは正反対の何もわからない奴、というふうに(笑)。 井上:しかし、明らかに三島由紀夫は、人間的な好感を秋山さんに対して持っていたと思うんですね。存在に 対する好感とでもいうものを。 (中略) 秋山:三島さんは最初の頃から、しかるべき外国の作家、作品に手を掛け、自分のものにして進んでゆく。一方、 こちらは何もなく、敗戦を契機に今まで読んできたものを捨てなければならないと思っていた。ただ一つ私が 大切に持っていたのは、志賀直哉だけです。 井上:しかし、三島はそういう秋山さんのことを、なんて言うのかな、セクシーだと思ったんじゃないでしょうか(笑)。 山中(司会):ストイシズムというか、ギリギリのところから出てくる魅力というか……。 秋山:私が考える対象としたのは、道端の石ころ。三島さんはそうじゃないからね。 井上:三島にとってそれが魅力的なんですね。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
518 :
名無しさん@3周年 :2011/08/15(月) 16:32:16.58 ID:Y0zDt5fk
秋山:私だけの考えですが、「仮面の告白」は、三島さん自身も説明し難い色々な意味があると思います。つまり、 私も後に、〈私〉という主格を中心にしての連作をやる。(中略)〈私〉という主格が行う人形劇のようなものに すぎない。そこが「仮面の告白」に似ているのかもしれない。(中略)私は、三島さんの「仮面の告白」を (「昭和文学ベストテン(小説篇)」)に挙げましたが、私が三島を挙げたことに、他の人は意外だったらしい。 三島さんは凄い人です。物を書くといってもただ書くのではなく、細部の密度、明晰さ、集中力を持って書く。(中略) 松本:「仮面の告白」にも書かれていますが、人間として生きていく資格のない人間だという認識がまず 前提としてある。そして、そこから、どうにかして生きていきたいという時点で、書くという行為が始まる。 これは秋山さんと同じなんですよ。(中略)しかし、お二人の行き先が全く違う。しかし、間違いなくここで クロスしている。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
519 :
名無しさん@3周年 :2011/08/15(月) 16:35:15.09 ID:Y0zDt5fk
秋山:私は、あのときから今に至るまで、道端の石ころですよ。今だってそうです。すべてそこに還元される。 三島由紀夫は、やはり特別な人です。つまり、三島由紀夫は主人公なんです。日本の文学者にはあまりいない。 井上:(中略)それぞれ違う道を歩んだ。そのところについてどうお考えになりますか? 秋山:物の考え方ですね。根本の波長が違うのです。三島さんは特別な人だということで、私は時折、中原中也と 比較することがあります。中原中也は、毎日毎日、昼起きて、散歩して、夜に詩を少し書く生活を七、八年続ける。 あの生活の時間の在り方というものは大変なもので、普通の人がそのような生活を送ったら、二、三年で気が 狂ってしまう。それを持ち堪えた中原中也の強さというものは凄い。私は中原中也の詩が心に食い入っているほど 好きですが、一瞬一瞬の生き方が違うと思いました。一瞬一瞬が前後に繋がるのではなく、完結しながらの 一分一時間の密度になっている。そこが三島と重なる。こういう人は、長生きしようとかそういうことではなく、 その都度、完結し、その連続を生きる。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
520 :
名無しさん@3周年 :2011/08/16(火) 10:37:26.21 ID:u4AXceHR
秋山:三島や中也、そして信長も、その都度完結する。だから戦争ができる。完結するということは、死と 裏合わせですよ。いつ死んでもいいと思っている。だから奇妙な戦争の仕方ができてしまう。あとは運ですね。 そういったことから考えると、多くの人が言っている信長と違った信長像が立ち上がってくる。 井上:中原中也と信長との繋がりなど普通は連想しませんが、秋山さんのおかげで一点繋がるなと考えさせられます。 中也と三島にしても本質的に相当違うと思いますが、密度の濃さという共通項が挙げられる……。 秋山:本質的には違うでしょうけれど、中原中也も主人公でありたいと思った人です。 (中略)中也と三島を考える上で、間に小林秀雄を入れて考えてもいい。やはり重要なのは出発点です。 中也は(中略)いわゆるランボオなんですよ。 いわゆるランボオに傾倒したら、社会の中の主人公にはなれない。しかし三島の文学はそうではない。ラディゲの 「ドルヂェル伯の舞踏会」などの方面ですから。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
521 :
名無しさん@3周年 :2011/08/16(火) 10:38:24.31 ID:u4AXceHR
秋山:ランボオはいわゆる西洋を変えようということや、不可解なものに手で触るようなところがある。 そういったものを、実は三島も持っている。しかし、そちらへは進まなかった。 井上:どうしてでしょう。ラディゲに触れるのが早過ぎたからでしょうか? 秋山:いやいや。触れる段階の早さではなく、文学に取り組む姿勢の違いでしょう。文学のモデルの違いです。 中原中也の場合、文学のモデルは詩です。ランボオやヴェルレーヌです。三島の場合は小説です。小説は社会、 むろん政治も含んでいる。 あれほど一々のことを管理し決定して小説を書いていた人はいません。実際わかっていて、故意にそのプロセスを 飛ばしたと言えます。だから、所々で恐ろしいことを言っている。それは小説に対する疑いです。中村光夫との 「対談 人間と文学」の中で、小説に登場する〈彼〉という存在の、その〈彼〉に対して、どのような責任を 持つのかと言っていますが、これはそもそも小説の否定です。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
522 :
名無しさん@3周年 :2011/08/16(火) 10:39:48.40 ID:u4AXceHR
井上:小説を考えていく上で、それを言ったらおしまいということがあるのですね。なぜ三島は、そういったことを 言ってしまうのでしょう? (中略) 秋山:やはり三島さんは、主人公であることを生きた人だからね。たいへんな主人公になろうとしたのではないか というのが私の考えです。織田信長と一緒です。(中略) 山中湖の文学館にある原稿などを見ましたが、あのような原稿の書き方をする人はいない。あれはすべて遺品ですよ。 いつ終わってもいいような、完結した原稿になっています。主人公の話に戻りますが、三島は日本あるいは 日本文化の中の主人公になろうとしたのでしょう。 松本:最後のところは、条件付きで賛成してもいい。例えば「日本文学小史」などは、いま秋山さんがおっしゃった ような意図があったでしょう。日本文学の歴史と自分の文学を一体化させ、さらに先へ進もうとした。(中略) 一番肝心なのは、日本文学全体を考え、それを提示しようとして、三島は死んだんだと捉えることでしょう。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
523 :
名無しさん@3周年 :2011/08/16(火) 10:41:00.86 ID:u4AXceHR
山中:ご自身の仕事に注目していた、そして親切であったという三島の死に直面し、秋山さんは会社をお辞めに なるほどショックだったとお聞きしましたが。 秋山:ショックどころではなかった。なぜ三島由紀夫が、あれほどまでに私に親切にしてくれたのかわからず、 それに対してきちんと対応していませんでした。今にして思えば、私の「簡単な生活」をペンギンブックスに 収録してくれたことは、たいへん大きなことです。しかし、その時は全く関心がなかった。(中略)外で泥酔して いたとき、わが家に三島さんが電話をくれた。その電話に家内が出ると、「私は小説家の三島由紀夫です」と 名乗られた。まずそのことに感銘を受けましたね。(中略)電話をすると、「ペンギンブックスの件はちゃんと 済ませてあります」と。三島さんが死ぬ一ヶ月前くらいだったと思います。(中略)同時に収録される埴谷雄高は、 「秋山君、ペンギンブックスの件はどうなったかな?」などと言っていました。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
524 :
名無しさん@3周年 :2011/08/16(火) 10:41:50.77 ID:u4AXceHR
井上:三島と埴谷の関係というのは微妙なんですね。 秋山:それが意外ね。 井上:本音がよくわからない。たぶん三島由紀夫は埴谷の考えていることは理解できるが、存在として感覚的に 好きではなかったのではないかという気がします。 しかし、もう少し接点があってもいいと思うのですが。 秋山:いや。対談や批評でも接点はかなりある。三島さんは埴谷のこともよくわかっている。 山中:(中略)同族嫌悪といったような、ある種埴谷に似たところを感じて、わざと避けたということも あったのではないですかね。 秋山:たしかに似たところも感じていたでしょう。ドストエフスキーの小説でいうならば、埴谷雄高はどこかしら、 地下組織の秘密委員会の委員長のようなところがありますからね。(中略)一方、三島さんも楯の会を組織するしね。 松本:「豊饒の海」のような作品を構想するのには、やはり「死霊」のような小説が前提にあるでしょうね。 あれに対抗する輪廻転生の小説世界を作ってやろうという思いはあったかもしれない。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
525 :
名無しさん@3周年 :2011/08/16(火) 23:48:09.24 ID:u4AXceHR
秋山:これは空想の話になりますが、「死霊」の中にはもう一つの流れがあって、現実に対して悪いことを 考える首猛夫、あれなんか三島さんは好きだったんじゃないかな(笑)。社会の中で悪いことを起こそうなんてね。 しかし、そのようなやり方ではなく、自ら実行しようと思ったのでしょう。三島さんは行動力があったからね。 ただ、今でもわからないが、長篇小説などを書く場合、主人公の意味が二つになる。一つは作品の主人公。 ところが三島さんの場合、現実の自分が主人公。これが素直に繋がるのか、打ち消し合うのか……。 井上:原理的には打ち消し合うはずなんですよね。 秋山:私小説というのは、作者が主人公になっては駄目。ところが三島さんの場合は、作品の主人公ではなく、 現実の中の主人公が強いから。 井上:作品と現実が重なってしまうのは、一つの幻想ですね。しかし、あえてそうした幻想を恐れなかったと いうところもあるのではないでしょうか。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
526 :
名無しさん@3周年 :2011/08/16(火) 23:49:29.07 ID:u4AXceHR
井上:変な喩えですが、デカルトと三島は似ているところがありまして(笑)。つまり、原理的にそれを言っては おしまいだというところまで相対化し、思考実験でゼロからスタートする。そして自明性というものを棚上げする。 現象学で言うところのエポケーというものを、ある意味でデカルトは徹底的に行うわけですが、三島由紀夫にも そういうところがあって……。 (中略) 秋山:デカルトを文学として置き換えるならば、あれは宇宙の主人公ですよ。 井上:そうですね。そして、自分ですべてを構成してしまう。 秋山:よく冗談で言われているように、デカルトは宇宙の運動が神の一突きによるとするから、何もしなくても よいのであれば、神は不在で済ませたかもしれないと。これも主人公です。物を考えるということはどういうことか? それは驚くということが第一だとも言う。まったくその通りですね。 山中:すべて疑ったのちに、考えている自己を見出す。コギトですか。 秋山:そして、精神指導の規則や情念論などすべて集約されている。大主人公ですよ。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
527 :
名無しさん@3周年 :2011/08/16(火) 23:50:53.56 ID:u4AXceHR
松本:三島の場合、現実の行動によって自分が主人公になれる、とは絶対に思っていなかったと思う。石原慎太郎と 違うところです。石原慎太郎は自分が主人公になり、少なくとも東京都を自分の意図するように整えようという 気持ちがあるけれど、三島は自分にはそれはできないという認識はあったでしょう。それが芸術家であると いうことなのです。 山中:しかし、芸術家として自分自身が出てくる部分もあるのではないですか?(中略) 井上:石原慎太郎と比較するとよくわかります。慎太郎はアイロニーがなく、三島にはあったという話では ないですか(笑)。 秋山:そう言われるとそうだけどね。とても言いにくいことだが、三島さんは石原慎太郎なんて小さいと 思ってるんじゃないの(笑)。東京都では、志が小さいからね。 あれくらいじゃな(笑)。(中略)例えば、日本文化というものを背負って歴史小説などを書いていた森鴎外と いう人はどうだったのでしょう。 松本:鴎外の場合は、「古今集」までは遡りませんね。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
528 :
名無しさん@3周年 :2011/08/16(火) 23:53:10.09 ID:u4AXceHR
秋山:喩えとしてはかけ離れていますが、信長はある程度天皇と仲良くやっていこうと思った人です。 松本:信長が天皇とどれだけ向き合ったか知りませんが、三島の場合、天皇を問題にしたのは、あくまで文化の 次元において、日本全体を長大な時間と空間の両面から考えてですね。 秋山:三島さんはそれよりも上に行こうと思ってたのでは? 山中:同一化ではなく、さらに上ですか? 井上:三島は幻想において、源為朝、もっと遡って日本武尊などにも自己同一化しようとしたので、三島にとって 文化的天皇というのは日本武尊の系譜になりますね。そうすることによって、自分の理想の天皇になろうとしたと いうことはあるのではないでしょうか。現実の天皇よりはるかに上になりますね。 松本:天皇というものは、なろうと思ってなれるものではないし、三島はそのようなことはまったく考えて いませんね。(中略)普通の人間は絶対に神になれない。三島にしてもそうです。だから、人であり神でもあり得る 希有な存在、天皇に対して、厳しく要求したのです。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
529 :
名無しさん@3周年 :2011/08/17(水) 10:22:38.47 ID:hE/Rohwu
松本:三島にとって小説は、基本的に少し合わないところがあると思います。(中略)ぴたりと合うのは、 やはり芝居の世界ですね。 井上:しかしどうでしょう。三島はニヒリズムや疎外感といった主題を抱えていたと思うのですが、芝居の世界に 行ってしまえば、そういったテーマを充分に追究できなかったのでは? (中略) 秋山:三島由紀夫と小説の問題はかなり厄介ですよ。(中略)三島さんは小説に対して非常に難しい考えを 持っているね。 井上:テーマという言い方は適さないかもしれませんが、つまり風船を作れば結び目があり、三島由紀夫という人は、 風船の結び目がどうしても見えてくる人だと思うんですね。その結び目をどう名付けるか。私はニヒリズムと 名付けていますが。(中略)三島が、本気で書いた小説は、この結び目は何なんだ? ということをずっと 考えていたはずで、それはデカルトの主人公の問題と繋がると思うのです。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
530 :
名無しさん@3周年 :2011/08/17(水) 10:30:15.25 ID:hE/Rohwu
秋山:ニヒリズムねえ。 松本:三島にとって小説を書くということは、初期においては自分をどう変えていくかという問題であり、後半は 言語というものをどのように整えるかという問題だった。(中略) ニヒリズムなんて、今の時代、皆持っていますよ。 井上:人間である以上、皆持っているでしょうね。しかしそれに気づかないふりをしている。だが、三島の場合 「鏡子の家」の中で、青木ヶ原樹海で物が見えなくなるというシーンがありますね。あれは比喩ではなく、 リアリティーだと思うのです。実際の感覚として、あのようなことがあるだろう。あるいは物の意味が解体して いくというような。 松本:それは、秋山さんが書いておられることでもありますね。意味が失われるというリアリティーね。 井上:人間として我々はニヒリズムを持っていると言っても、意味が解体していくことを、はたして朝から晩まで 感じていられるかどうか。三島という人は感じていただろう。また、例えば、中原中也のような一瞬一瞬完結した 生き方を我々は普通しないと思います。しかし三島は中也とは違う形で、そういった生き方を強いられている。 連続性がその都度途切れるという感覚です。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
531 :
名無しさん@3周年 :2011/08/17(水) 12:43:40.64 ID:hE/Rohwu
秋山:三島さんが私に親切だったというもう一つのエピソードとして、日生劇場の「恋の帆影」の切符をくれた ことがある。とにかく行かなくちゃと思って行ったら、私の周りは皆、有名な人ばかり。幕間になったら 三島さんが来て、その人たちにいちいちご挨拶なんかやってる。先ほどお話した、三島邸を訊ねたときの遠藤周作と 三島じゃないけどさ(笑)。私はそういうこと、全く向かないと思っているから、これはいけないと思い、 トイレに行くふりをして逃げちゃった(笑)。 そういうことばっかりしてたから、もう少し三島由紀夫という人に向かい合って、何かやるべきだったと思ってね。 三島由紀夫に死なれてみたら、それが負い目になっていた。それから親切心の一つとして私にサービスしてくれたのか、 「三田文学」のインタビューの途中、篠田一士へ電話を掛け、問い合わせをした。すると篠田一士は、迅速に 詳細に教えてくれる。三島さんは「篠田一士はこういうときに便利な人なんだ」とか言ってね。この人、言うなあ 思ったよ(笑)。あとはドナルド・キーンにも電話をしていたような気がする。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
532 :
名無しさん@3周年 :2011/08/17(水) 12:45:35.00 ID:hE/Rohwu
秋山:対談後、帰る際に三島さんと一緒に歩き出したら、意外と小柄でね。でも身体は立派。対談は上半身裸で やったんですよ。見事な身体。ただし意外と足は小さい。そして、「喜びの琴」で揉めていることを私に 訴えかけるように話すんですよ。 松本:杉村春子の悪口を言っていましたか? 秋山:いやいや。私はその頃、そちらのことは関心がなかったけど。対談の最中は、豪快に高笑いするなどして いたが、なぜこんなに抒情的なんだろうと。意外な面も持っている人だなあと思ったよ。ただし「恋の帆影」を 見に行ったとき、(中略)階段を駆け上がったところで女性にぶつかりそうになり、ふとその女性をみると 清宮だった。やはり階層の問題ですね。 松本:華やかな空間には、秋山さんは合わない。(中略)その点では恐ろしくかけ離れた、対照的な存在でした。 それでいて、通低するものがあり、かつ、そこでは三島が受け取るものの方が大きかった。年齢の差はありながら、 同時代を生きた文学者同士の係わりようを如実に伺い知ることができたと思います。 秋山駿「『内部の人間』から始まった」より
533 :
名無しさん@3周年 :2011/08/17(水) 18:21:50.64 ID:gI2FU90v
病的で変な人だったけど、きっとあの時代から日本潰れちゃうのわかってたんだよ。 司馬遼太郎?もヤバいよ〜ってずっと投げかけてたんだよね。
534 :
名無しさん@3周年 :2011/08/17(水) 18:52:35.61 ID:cqnf+da0
脳味噌破壊状態で毒舌は居ていたアホな右翼か 三島のお坊ちゃま
535 :
名無しさん@3周年 :2011/08/18(木) 22:50:30.79 ID:IjSma7NX
松本(司会):(憂国の)音楽はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」でしたね? 藤井:はい。 音楽の打ち合せをした時、レコードを聞きながら三島さんがストップウォッチで計るわけですよ。で、「音楽を どこから流すんだ」、「ここから流しちゃおう」ということになりまして、(中略)麗子はこういう姿勢でいて、 こういうふうに動く……、ってありますね。そこへ音楽を同時に流すわけですよ。するとピタッと合うわけです。 井上(司会):偶然、象徴的に合うわけですね。 藤井:例えば麗子が夫の帰宅の気配に気がついて振り向いたところで、牧笛が軍隊のラッパのように聞こえるんです。 シーン15です。皆びっくりしてね。神がかりだって。「ええっ!」って素直に子供みたいに喜んだ。あれは 三島さんな芝居したんじゃないかと思ったほどでしたよ。 井上:う〜ん、可能性としてあるかもしれませんねぇ。 藤井:いや、やっぱり芝居じゃないんですよ。ある種のフロックだと思います。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
536 :
名無しさん@3周年 :2011/08/18(木) 22:51:39.56 ID:IjSma7NX
井上:能舞台のようなセットに、「トリスタンとイゾルデ」という組み合わせが独特ですね。 藤井:ワーグナーは三島さんが最初から使いたかった。 井上:外国で上演するということを意識して? 藤井:いや、そうじゃないと思いますね。あの人はね、もともと外国人に見せようなんて思っていなかった。 はじめ「16ミリでやる」と言っていたので、僕は「やるんだったら35ミリでやりましょう。一般の劇場で上映できるし、 外国の映画祭にも出せるじゃないですか」と言った。それまで三島さんはそういうことを考えてなかった。 いわゆる短いプライベートフィルムを作るのが、小説家とかいろんな人たちのあいだで当時流行っていたんです。 それがベースにあったかもしれませんが、しかし、道楽でやるんじゃないと、三島さんは最初から言っていましたね。 そこで、「あなたの原作、脚本、製作、監督、主演でなきゃ商売になりません」と言ったんですよ。三島さんも 納得してくれました。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
537 :
名無しさん@3周年 :2011/08/18(木) 22:53:10.40 ID:IjSma7NX
藤井:(憂国は)最初はブニュエルの『小間使の日記』と二本立てでしたからね。これもいい映画でした。 (中略) 山中(司会):ブニュエルと一緒にカップリングしてやるということに対して、三島が何か言っていたことは ありますか? 藤井:いや、特にないですよ。(中略) 三島さんはね、例えば市川雷蔵の『眠狂四郎』とか勝新太郎の『座頭市』とか、高倉健の任侠ものとかとの 二本立てが出来ないか、というのが第一希望だったんですよ。「俺は芸術映画と一緒にやるというのは嫌いだ」 って言ってた。 井上:それは面白い話ですね(笑)。 藤井:この組み合わせは三島さんの意図に反しているんです。だから三島さんはATGでやりたくなかったんです。 だけど当時は二本立てが普通で、例えば『眠狂四郎』と『座頭市』をやる時に、どっちかを外して『憂国』では、 劇場が買わないんです。(中略)そうしたら、川喜多かしこさんが「洋画と組んだ方が良いんじゃないですか」と 言って下さった。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
538 :
名無しさん@3周年 :2011/08/18(木) 22:54:33.82 ID:IjSma7NX
藤井:話は前後しますが映画が出来た時に、三島さんが「内緒で一般のお客さんに見せてくれ」と言うんですよ。 「飲み屋のおばさんとかそこらにいるあんちゃんとかそういう人たちを集めて」って。 それでね、(中略)新宿に「十和田」という、有名な飲み屋がありましてね。(中略)女将さんと、ごく普通の 町の人たちに見せたんです。十五、六人いたかな。終わったら、女将が言うんですよ、「どうして日本の音楽を 使わなかったの?」って。(中略)そしたら、バーンスタインが東京に来た時、東宝の試写会でこっそり『憂国』を 見せたら、同じことを彼が聞くんです。「一つだけ君に質問がある」って、三島さんがいないところで私に聞いた。 「なぜワーグナーを使ったの? どうして日本の音楽を使わなかったの?」って。僕は新宿の飲み屋のおばさんを 思い出した。映画もわからないし、音楽もわからないんだけれども、巨匠と同じことを奇しくも言ったのは 不思議だなぁと。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
539 :
名無しさん@3周年 :2011/08/18(木) 22:56:09.77 ID:IjSma7NX
佐藤(司会):『憂国』という映画は、最初は漠然としたプランから始まって、ATGで大成功するまで大きく 膨らみましたね。 藤井:僕もプロとして真剣にやった。単に嬉しがって一緒になって道楽映画をやってたら、「お前何やっているんだ」 ということになって、会社を首になってますよ(笑)。スタッフも内緒で呼んだわけですからね。会社の誰も 知らなかったですよ。 (中略) 松本:(大映社長の)永田さんに叱られませんでした? 藤井:言われましたよ。「お前が今度やる時は俺にちゃんと言ってからにしろ」って。 松本:それだけで済んで良かったですね。 藤井:永田雅一は三島由紀夫の大ファンなんですよ。永田さんは学校もちゃんと出てないし、田中角栄とか ああいうタイプなんです。(中略)二十八歳くらいで第一映画というのを作ってますが、今じゃ想像できないくらい、 才能というんですかね、それがあったんですよ。(中略)そういう永田雅一にしてみれば三島由紀夫は凄い存在。 若くしてデビューしてあれだけ売れまくった小説家というのは永田雅一にしてみれば天才だ。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
540 :
名無しさん@3周年 :2011/08/18(木) 22:59:49.78 ID:IjSma7NX
藤井:だから、別の時ですけど、市川崑さんと僕がフランスへ合作の仕事で行くことになりましてね。三島さんが 講談社の榎本昌治さんと一緒に送りに来てくれたんですよ。その時永田雅一も羽田に来ていました。僕を送りに 来たんじゃないですよ。たまたま国内線で飛ぶために羽田へ来たんです。そうしたら三島さんがいるんで、僕に 向かって、「お前のために天下の三島由紀夫が来るわけがないだろう」って言って、「三島由紀夫が何故ここへ 来てくれたか、わかっているか?」って訊ねるんですよ。「社長、送りに来てくれたんです」って答えたら、 「お前を送りに来たんじゃなくて、お前が大映の人間だから来たんだ」って。 山中:嫉妬しているわけですね(笑)。 藤井:猛烈にやきもち焼いてる。「お前、誰に月給貰っているんだ」、「あなたに貰っている」、「俺が社長を やっている大映にいるから、三島がお前を送りに来た。だから俺に感謝しろ」って。しょうがないから、 「どうもありがとうございました」って言った(笑)。三島さんは、よく永田雅一の真似をしては、まわりを 笑わせていました。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
541 :
名無しさん@3周年 :2011/08/19(金) 16:10:51.03 ID:2x6Ue2kT
井上:『からっ風野郎』の時はいかがでしたか。 藤井:『からっ風野郎』の時は、講談社の榎本昌治さんが、僕に「三島の映画やらないか」と言ったんですよ。 「監督? 主演?」って訊ねたら、「馬鹿。主演だ」って言うから、「あ、そう? で、何やるの?」。そうしたら、 「何でも良い」って。(中略) 松本:映画は榎本さんの発想なんですか? 藤井:いやいや、三島さん。 松本:三島さんがそんなに望んでいたんですか? 藤井:ええ。 松本:日活の『不道徳教育講座』にちょっと出てますね。あれがきっかけですか? 藤井:いや、その前からですよ。 松本:何で三島さんは、そんなに望んでいたんでしょうね? 藤井:やっぱり映画に出たかったんじゃないですか(笑)。自分が監督するんじゃなくて、要するに、役者とか 俳優としてですね。 佐藤:その前に『鏡子の家』の映画化の話がありましたでしょう? 大映で。それがいつの間にか『からっ風野郎』の 主演の話になってきますね? 藤井浩明「映画製作の現場から」より
542 :
名無しさん@3周年 :2011/08/19(金) 16:12:07.49 ID:2x6Ue2kT
井上:『鏡子の家』を市川崑監督でやると、「スポーツニッポン」が報じてますね。 藤井:市川崑さんが『炎上』をやりましたでしょう。傑作だと思うんですけど、市川さんもあれから三島由紀夫に 注目するようになったんです。『鏡子の家』は、雑誌「声」に冒頭部分が載った時から目をつけていて、本に なると同時に、市川さんに話しました。やる、と言ってくれたんで、永田雅一に、三島さんが書き下ろしの大作を 出したので、市川監督でどうですかと言ったら、それ以上何んにも聞かなくて、「乗った!」って言うんですよ。 会議できめなきゃいけないのに、もうそれで決まっちゃった。そんな時に、主演の話を榎本が持ってきたんですよ。 『鏡子の家』とは関係なく。つまり、三島由紀夫原作の映画化と、三島由紀夫というスターの主演映画が、運悪く バッティングしてしまった。それで『鏡子の家』のほうが後回しになっちゃったんです。 井上:そういうシチュエーションがあったのですか。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
543 :
名無しさん@3周年 :2011/08/19(金) 16:13:35.53 ID:2x6Ue2kT
松本:脚本はどうでした? 藤井:最初はね、「白坂依志夫でやろう」って言っていた。白坂は、『永すぎた春』でも脚本を書いたし、 三島さんともお互いとてもよく知っているんですよ。(中略)二人は話していて、「インテリをやりたくないん だったら、じゃあ競馬の騎手をやろう」ってことになった。三島さんの体型って割と小柄だし、良かったんですよね。 それでね、「凄い名馬に乗る競馬の騎手が、八百長をやる話」に、三島さんも乗ったわけなんです。それで脚本を 作って、(中略)この時は重役も皆参加して本読みをやった。脚本を読むと、割とよく出来ていたんですよ。 八百長やって最後にカムバックするんですけど、ゴールインした時に死んでしまう話で三島さんにぴったり。 そしたら、永田雅一がですね、「お前何考えているんだ!」って怒り出したんですね。「俺を何だと思っているんだ。 俺は中央競馬の馬主会の会長だっ!」って。「中央競馬が八百長だって、そんなのは絶対できない!」って(笑)。 佐藤:でも、これ実現していたら良かったでしょうね。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
544 :
名無しさん@3周年 :2011/08/19(金) 16:16:38.11 ID:2x6Ue2kT
井上:しかし、大映の他に日活とか松竹に話は? 藤井:三島さんは、仁義のかたい人だから、そんな軽々しいことはしませんよ。だけど、三島さんは映画のために 二ヶ月もスケジュールを空けているわけですからね。それで「弱かったなぁ」と思った。「とにかく考え直そう」と いうことになって、フッと思いついたのが、菊島隆三さんが石原裕次郎に当てて書いた脚本があったんですよ。 僕は菊島隆三と親しかったから、すぐに電話して、(中略)「どこにも売ってないですね」って念をおしたら、 「売ってない」って。(中略)そして、菊島さんのところに三島さんとすっ飛んで行って、その場で読んだんですよ、 脚本を。三島さんは「やる! これでいきましょう。」って言った。これが原型なんですよ。それをまた 増村(監督)が直したわけです。三島さんは増村が言う通りにやって良かったわけですよ。(中略)二代目だけど、 気が弱くて、腕力がなくて、組の存続も危ぶまれる、気がいい男。そういう風に全部変えちゃったわけ。あれは、 やっぱり増村の凄いところですね。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
545 :
名無しさん@3周年 :2011/08/20(土) 14:25:52.02 ID:XX1OpbdX
松本:だけど、『からっ風』の三島には、どこか借りてきた猫のようなところがありますね。 藤井:その点、『人斬り』は文句のつけようかないでしょう。 松本:そうですそうです。あの存在感は見事ですね。 藤井:もうぴったりです。一本やっているからキャリアが違うっていうかな(笑)。 山中:『人斬り』の時は藤井さんがマネージャーみたいなことをなさってたんですか? 藤井:勝新太郎がまだ大映にいて、(中略)僕はその頃企画部長やっていた。勝が僕にね、「ちょっと頼みが あるんだけどさ、三島さんに出て貰えない?」とか言うんですよ。 松本:五社監督からじゃなかったんですね。 藤井:ええ。それで「何やるの?」って聞いたら、「人斬り新兵衛だ」って言った。僕はね、一発で出ると思った、 三島さんは。だけど、少し勿体つけなきゃいけない、マネージャーとしては。そこで「勝さん、それはわかんないよ」 と言った(笑)。(中略)で、三島さんに「こういう話が来ているんですけどね」と言ったら、「俺やるよ」って、 やっぱり一発で決まった。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
546 :
名無しさん@3周年 :2011/08/20(土) 14:26:20.18 ID:XX1OpbdX
藤井:三島さんは、「この田中新兵衛なら絶対にやる!」って言うんですよ。で、勝さんに、「この間、話したら、 三島さんは、やっても良いと言っているけど」と伝えたら、「会わせてくれ」って。勝もとっても喜んで くれました。(中略) 松本:三島さんは勝さんの演技に全面的に支えられている感じですね。それが見ていて、気持ちよかった。 藤井:そうですね。それで、(中略)京都の撮影所まで行く。そうしたらね、勝新太郎がね。京都駅のホームまで 迎えに来ているんですよ。で、自分の車で、自分の運転で、都ホテルへ送ってくれて、「それじゃ、三島さん 明朝何時に撮影所で」って言う。その時、「テープにもう入れてある」って言うんですよ。三島さんの台詞と 勝の受けの台詞と両方を。次の日に行って、僕がテープを聴きますとね、勝が一々全部フォローしてくれて いるんですよ。「ここはこう言った方が良い」とか。 佐藤:三島は、勝新太郎に随分世話になったとか、面倒見てもらったとか書いていますけど、そういうこと だったんですね。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
547 :
名無しさん@3周年 :2011/08/20(土) 14:29:53.13 ID:XX1OpbdX
藤井:それで、セットに入って、宣伝用の撮影にかかったら、当時日本で一番有名なキャメラマンの宮川一夫さんがね、 ふらっと入ってきたんですよ。「あれ宮川さんどうしたの?」って言ったら、「三島さんと君が来ているというから、 俺、応援に来たんだ」って。それで天下の宮川さんが、三島さんのメイクをチェックしてくれるんです。すると、 スタッフの気持ちが全然違ってくるんですよ。宮川さんが三島由紀夫のためにここへ来てくれている。それは 異例のことです。それでいてね、三島さんっていう人は勉強家ですから、都ホテルに戻って「明日は撮影所に 十時」とか予定を確認するでしょ。そうするとね、荷物をポンと机の上に置く。原稿用紙と『椿説弓張月』の本です。 (中略)もう撮影所へ来たんだからそっちの方へ頭が行くのかと思うと、そうじゃないんですね。夜の何時頃からに なると、『椿説弓張月』に取りかかる。その時は『人斬り』じゃないんですよ。そして、朝起きると、また 大スターになっているんです。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
548 :
名無しさん@3周年 :2011/08/20(土) 14:31:52.98 ID:XX1OpbdX
井上:たとえば昭和四十四年の六月七日は京都で『人斬り』のラッシュを見てから、帝劇に駆けつけて 『癩王のテラス』の稽古はじめをして、翌日は楯の会の六月例会です。次の九日は楯の会の活動をやって、十日は 『椿説弓張月』のスタッフ会議、こういう感じですね。動き回っている。 佐藤:切り替えと集中力が凄いですね。 藤井:凄いですね。ちょっと真似できないですよ。 佐藤:それでどうなんですか、実物は。色んな人が書いてますけど、やっぱりあたりを払うような存在感がある? 藤井:それはあるんじゃないですか。 佐藤:そういうのと、映画の銀幕に乗るのとは関係があるんでしょうか? つまり、スターと呼ばれる人は、 もうそこにいるだけで、何かオーラを発していて、それが銀幕に自然に現われるものなんですかね? 藤井:やっぱりね、三島さんは大スターなんですよ。 佐藤:『人斬り』の宣伝写真で、仲代達矢、勝新太郎、石原裕次郎と四人で並ぶけど、負けてないですね。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
549 :
名無しさん@3周年 :2011/08/20(土) 16:03:24.41 ID:9Aglusc6
難しいことを言わずして簡潔に言えばさ、 三島は脱米で独立自存で自力救済の共存共栄、ネトウヨは媚米で米国依存の他力本願の弱者は氏ね。 これでしょ。
550 :
倭人 ◆eKPWkfPmuI :2011/08/20(土) 16:07:59.76 ID:vZl/A10D
チョンって寄生虫で、強姦殺人マニアなの?
551 :
日本義士 :2011/08/21(日) 00:47:55.35 ID:c64rfBhm
フジTVが絶対に触れない韓国人犯罪者リスト。(北朝鮮人は除く) 李昇一 「フジテレビ社員成りすまし少女140名強姦事件」2000年 宋治悦 職業不詳 「目白 ナイフで一人宅侵入19人強姦事件」2000年 織原城二(金聖鐘) 「ルーシーブラックマン事件」 2004年 金保(通名:永田保) 「聖神中央教会連続少女強姦事件」2005年 金山昇一 「カナヤマン少女連続強姦事件」 2005年 金允植 「大阪で200人強姦」 2007年 張今朝 「小学4年生を強姦」 2007年 李桐昊 留学生 「新宿、オートロックマンション尾行強姦 他3人」2007年 李正遠 「静岡浜松市、民家侵入し強盗強姦、5か月で8件」 2008年 文相勲 「愛媛マンダリンレイパーツ外野手が強姦」 2009年 ぺ・ソンテ 「女子小学生14人を強姦」 2009年 卞在昌 「国際福音キリスト教会連続強姦事件」 牧師 2009年逮捕 韓東翰(ハン・ドンハン)「韓国男が女性の顔を蹴り強盗」2009年 金平和 「大阪市女性2人キャリーバッグで拉致強姦」 2010年逮捕 呉紘希 「北区 路上ナイフ女子高生連続強盗強姦+パンツ窃盗事件」2011年6月 李泰成(通名:角岡,西本) 「MMEレコード韓国人経営者少女強姦事件」 2011年7月 竹田直季(通名) 「東灘区 女子大生 ナイフで公園で強姦2か月で2名」 2011年7月 (まだ公判がされてない韓国人犯罪者は、通名報道のままです。) さらに2011年8月だけで次の韓国人が捕まった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・ソウ・ヨンソック24無職「女性を車で数百m引きずり殺そうとした在日韓国人逮捕」 ・丹羽雄治(通名)「女子大生モデル強姦殺人事件」←フジはテコンドー看板をモザイク ・米田吉誉(通名)「被災地で偽医者。過去にはパイロット詐欺」 ←医師免許は韓国で偽造 ・田村智(44無職)「RV車運転し、妊婦暴行し逮捕」北海道朝鮮初小中高級学校卒という情報(未確定) ・まだあるよね。8月だけでも。もう行数たりません >< ↑ フジTVだけ、韓国人であることを隠して報道。その後の扱いも小さすぎる。
もしご存命なら防衛省あたりとケンカしてたかな。80代の今なら三宅氏みたいな感じだろーか( ̄◇ ̄*)
553 :
名無しさん@3周年 :2011/08/21(日) 20:22:05.70 ID:O8tatfWF
中曽根氏がまだ生きてるのを知ったらびっくりすると思う。
554 :
名無しさん@3周年 :2011/08/22(月) 12:00:41.42 ID:Iv+VP7B3
松本:『からっ風野郎』の時と全然違うんじゃないですか?(中略) 藤井:全然違いますね。やっぱり一本通して主役をやると、違ってきます。それに『人斬り』のようにゲストとして 出る場合は、気が楽なんです。おまけに五社英雄さんは、増村みたいにがんがん言わない、まっしぐらには 来ないんですよ。おだてあげておいて、「はい、じゃあこのシーン行きましょう!」と。三島さんがとっても ハッピーになったところで、バーンとやる。切腹するところでもね、三島さんはね、ボディビルで鍛えてるから、 腹筋が動くんですよ。三島さんがこう動かすでしょ。すると、スタッフが「三島さん、もういっぺんやって!」 とか言うとね、喜んじゃって、また見せてくれるんです。もうリラックスしていて、それで撮影するわけですよ。 外へ出ると、今度は「三島さん、居合いをやってよ!」と勝が言うんです。すると本気でやるんですよ。うまいんです。 そうすると勝がね、「でも、あんまり強そうじゃないな」とか「手を切らなきゃいいけどな」なんて、からかう。 僕は心配して見ているんですけど、本当にうまいんですよ。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
555 :
名無しさん@3周年 :2011/08/22(月) 12:01:10.61 ID:Iv+VP7B3
井上:三島は非常にご機嫌でしたね、『人斬り』のロケの時は。 藤井:それでね、五社さんが何かに書いてましたけど、名古屋かどこかにキャンペーンに行くんですよ、京都から。 佐藤:帰る時ですね。 藤井:三島さんは仕事で東京へ帰らなきゃいけない。五社さんや勝新太郎は名古屋でキャンペーンがある。で、 名古屋駅で三島さん一人を残して、「じゃあ」って別れて新幹線を降りた途端に、三島さんはこうスチールを 取り出して見るんですよ、嬉しそうな顔して。それをね、新幹線の窓の外から勝や五社が見ている。そういうところは、 何て言うんですかね、やっぱり大物なんですよ。僕らだったら、「あいつらがちょろちょろしていて見られたら 沽券にかかわるから、名古屋を発車して五分くらい経ってから見よう」なんて思いますよね。しかし三島さんは すぐに見る。 井上:見たくなって、もう我慢できなくなって見ちゃう。 藤井:それが子供のように可愛く映ると、五社さんが書いている。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
556 :
名無しさん@3周年 :2011/08/22(月) 12:01:43.08 ID:Iv+VP7B3
松本:三島さんとは映画についてどんな話をなさいましたか。例えば過去の良い映画として、三島さんは どんなものを挙げてました? 藤井:あの人はね、限りなくひどい映画ばっかり話題にするんですよ。『大アマゾンの半魚人』だとかね。 山中:新東宝とかそういうのが好きでしたからね。 松本:晩年は東映のヤクザ映画。 井上:まあ、映画は趣味娯楽として面白いものに徹していたところがありますね。 藤井:でも、本当は『大アマゾンの半魚人』で満足しているような人じゃないです。 佐藤:映画の心理描写が嫌だっていうようなことを言いますよね。カメラワークや技術で人間の心理を見せようと するのは嫌だとか、そんなことを言ってましたね。心理ではなくて、物として見せられるかどうかが勝負だって。 三島の『潮騒』のロケ随行記がありますでしょ。あれを見ると、こういうところから三島は始まっているんだ、 (中略)一本筋が通っているのは、映画は物としての人間を見せなければ駄目だというところですね。これは 変わらないなと思いましたね。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
557 :
名無しさん@3周年 :2011/08/22(月) 12:02:26.09 ID:Iv+VP7B3
藤井:やっぱり基本的に言えば「映画は心理を語れない」っていうのが、よくわかっていたから。増村も同じことを 言ってますよ。 山中:増村監督もそう言いますか。勘所は通底しているんですね。 佐藤:やっぱり活字文化で育ってきた人の心理ってね、違うと思うんですよね。(中略) 井上:「映画は心理を語れない」という見方では、三島と増村には接点があったことになるでしょうか。さっき 佐藤さんが触れた藤井さんの文章で、増村の論文「原作小説とその映画化」から引用しています。「具象的な 音と画で表現できない主観的なものは、徹底的に客観的なものに転換しなければならない」。こうなんですね。 (中略) 佐藤:増村は大正十三年生れでしたね。 松本:三島と数ヶ月しか違わないわけか。だけど、『からっ風野郎』の撮影の現場では、時には刺々しいことが あったようですね……。 藤井:刺々しいなんてものじゃないですよ。もう、罵詈雑言、凄いですよ。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
558 :
名無しさん@3周年 :2011/08/22(月) 12:07:51.66 ID:Iv+VP7B3
井上:凄い罵詈雑言? 藤井:ええ。それで、増村は撮影が終わった時に言うんですけどね。僕は半分本当で半分嘘だと思うのですけど、 要するに、「俺は三島さんでやろうとお前が言うからやったんじゃないか。俺は三島と東大法学部の同級生だ。 やる以上は彼に迷惑をかけちゃいけない。世間から三島由紀夫が映画の主役をやったって笑われちゃいけない。 だから、叩かなきゃいけないんだ。その叩き方も、なまじじゃとても駄目だ。芝居にならない。同じことを何回も 何回もやらせて、その良いところだけを取って、それをつないでいかなきゃならない」って言うんですよ。(中略) そうじゃなくても増村はかなりうるさいんですからね。「三島さん、何ですか! その芝居は!」って感じで。 「三島さん、あなたのその目はなんですか? 魚の腐ったような目をしないでください!」って酷いことを言う。 スターに言っちゃいけないようなことを、バンバン言う。皆、ハラハラするんですよ。 井上:若尾文子も、気の毒でとても三島由紀夫の顔を見ることができなかった。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
559 :
名無しさん@3周年 :2011/08/22(月) 12:08:19.17 ID:Iv+VP7B3
藤井:若尾文子は、自分の出番がない時は、セットの隅で祈っていた。「このシーンが無事にいきますように」って。 だけど、やっぱり三島さんは偉かった。あれ、普通だったら喧嘩しますよ。 井上:そういう感じですね。 藤井:それくらいボロくそに言うんですから。「だったら俺はもう辞めた。勝手にやってくれよ」って言って 辞めればいい。だけど、三島さんは最後までやり通した。 佐藤:そうなると、三島由紀夫は『からっ風野郎』に出て、本当に良かったんですか? 藤井:いや、映画っていうのが良くわかったんじゃないですか? 凄い経験になったと思いますよ。 (中略) 佐藤:あれに出なかったら『憂国』はなかったとは思うのですよ。仮に藤井さんが話を持っていったとしても。 井上:そうですね。 藤井:やっぱり自分の好きなようにもういっぺんやってみたかったんですよ。それはわかりましたね、僕は。 三島さんも言わないけれども、『からっ風野郎』で味わおうと思って味わえなかったことを、『憂国』で自分の 好きなようにやろうとしたと思うんですよ。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
560 :
名無しさん@3周年 :2011/08/23(火) 14:31:09.41 ID:sSHayI5d
松本:『からっ風』のロケで頭を打って病院に入った時、「増村を殴って来てくれ!」って言っていたとか? 藤井:それはね、半分本気半分ふざけてそう言ったんですよ。そこらへんはもうゆとりが出て来ていたんです、 最後のシーンですから。 佐藤:でも、あれだって一週間ぐらい入院してましたでしょう? 一週間目くらいには結果がわかっているから いいようなものの、一日目、二日目って、もう頭の中どうなっちゃっているんだろうって不安だったでしょうね。 これにはムカッともするし、とんでもないことになっちゃったみたいなことにもなったでしょう。(中略) 藤井:(中略)もろに頭を打ったわけですからね、バーンと。 井上:その瞬間は? 藤井:見ましたよ。あれは神山繁っていう文学座の役者が殺し屋で出ているんですが、「三島さんね、もっと バーンと派手に倒れなきゃ駄目だよ」とか余計なことを言うものだから、三島さんも、「そうかな」なんて思って バーンと倒れた。 松本:三島ってひとは素直だなあ。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
561 :
名無しさん@3周年 :2011/08/23(火) 14:31:48.01 ID:sSHayI5d
藤井:それで神山にね、僕は大分後に言ったことがあるんですよ。「あんたが余計なことを言うから」、「いや、 俺はあそこまでやるとは思わなかったから」って。 井上:実際はどのような感じだったんですか? 藤井:神山が三島さんを拳銃で、ダンと撃つ。 井上:それでエスカレーターへ倒れたんですね。 藤井:ええ。当然バーンと倒れました。エスカレーターが上がっていくから、三島さんは逆さまになって上へ 運ばれていく。本当は撮影ももっとうまくやれば良かったんですけれども。でも、あんなに派手にバーンといくとは 思わなかった。エスカレーターの段の角のぎざぎざがあるでしょ。それにバーンと頭を打ちつけた。よくあれで 済んだものですよ。僕は病院へ行ってね、「三島さんすみませんでした」とかなんとか言ったけど、黙ってましたよ。 割とムスッとしてました。 井上:不安だったんじゃないんですか? 佐藤:不安だったろうと思いますよ。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
562 :
名無しさん@3周年 :2011/08/23(火) 14:32:30.03 ID:sSHayI5d
藤井:でもまぁ、冗談も出たんでもう大丈夫と思いましたが……。 山中:撮り直しの時は怖かったでしょうね。 藤井:その時は万全な体制。で、永田雅一がそれはもう、三島さんのために現場に来たわけですから。スタッフも ピリピリしていましたよ。二度とやっちゃいけないから。神山ももう何も言わない。三島さんも真剣っていうか 真面目なんですね。そうじゃなきゃ普通二度とやらないですよ。 松本:そういうところまで責任を貫くんですね。 藤井:映画が完成してから、三島邸に増村や僕たちが招待されたんです。その時、三島さんのお父さんが増村に お礼を言ったんです。「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」って。増村は驚いてました。けがを させて申し訳ないと思っていたのに。帰り道、「明治生まれの男は偉い」と、お父さんをほめていましたよ。 お父さんは増村の一高の先輩なんです。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
563 :
名無しさん@3周年 :2011/08/23(火) 14:33:17.49 ID:sSHayI5d
松本:最後に、(中略)十一月二十五日をどういうふうに受け取られたか、そこをお聞きしておかないと。 藤井:(中略)十一月二十一日、夜中に帰宅したら、三島さんから「今夜どうしても電話欲しい」っていう伝言が あった。「いくら遅くてもいいからかけてくれ」って。僕は、あの人は夜中から朝まで仕事をするって聞いて ましたから、余程大事な用があるんじゃないかと思って電話入れたんですよ。『憂国』の話をまた始めたんです。 この間トリノでやった日本映画のシンポジウムで『憂国』が凄く評判が良かったらしいって前に僕が言って いたものですから。そしたら、その話をもうちょっと聞かせてくれって。僕もあんまり詳しく聞いていないので、 「映画評論家で立ち会った人がいるから、その人にもうちょっと詳しく聞いておきます」て言ったんですよ。 「悪いけどそうしてくれ」って言うんです。「連休明けにその人に聞いてまた連絡します」って答えたら、 「そうして欲しい。じゃあ」って。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
564 :
名無しさん@3周年 :2011/08/23(火) 14:34:10.21 ID:sSHayI5d
藤井:でね、あの人は話が終われば「じゃあお願いしますねっ!」ってすぐ切る方です。忙しいですから。 でも、その時に限って電話を切らないんですよ。僕は勘がいいほうじゃないから、「じゃあ調べときます」って また言って、切ろうとしたら三島さんが切らない。それで一時の間ができてね。それで、「じゃあ」って もういっぺん言うわけですよ。そうしたら「さようなら」と言うんです。二回くらい言いましたかね。で、 電話切ってから「今夜はおかしいな」って思った。あんなに歯切れのよい人が今夜に限って、電話をなかなか 切らなくて。でも一瞬ですからね。不思議な気が直感的にしただけで、何にもわからなかったです。どうして 「さようなら」って言ったんだろう。それはおかしいなって思うけれども、疑いもしませんでしたよ。 三島さんとわたしは、映画を通じて結びつき、長くお付き合いをして頂いたのですが、映画『憂国』が最後の 会話となってしまいました。 藤井浩明「映画製作の現場から」より
565 :
名無しさん@3周年 :2011/08/23(火) 14:36:46.89 ID:4+wsAGZ1
つまらんかった。低学歴には読み切れない
566 :
名無しさん@3周年 :2011/08/31(水) 23:53:20.49 ID:fYFQbL9b
徳岡:ここに三島さんに貸した本があります。バンコックでね。 山中(司会):『和漢朗詠集』ですね。 (中略) 井上(司会):三島さんにお会いになったのは、偶然なんですか。 徳岡:いやあ、バンコックに来るなんて知りませんでしたから。 井上:その『和漢朗詠集』を貸したのは……。 徳岡:三島さん退屈してましたから。三島さんもインドからの帰り道で、インドについては私と全く意見が 違いまして(笑)。僕はあんなとこ地上最低の国だと。(中略)三島さんはそんなことはないって。 (中略)インド人が古いものを守っているということは何事かだって言うんです。インドに向かって、早く 日本のようになれと言うのは全く見当違いだと言うんです。 井上:ガンジーのことなんかしきりに言っている時期がありましたね。 徳岡:あのガンジーの話もしたでしょうけれども、インディラ・ガンジー、あの当時の首相とも会っているんですよ、 三島さんは。だから『暁の寺』にはやっぱり、インドが入ってきて……。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
567 :
名無しさん@3周年 :2011/08/31(水) 23:54:44.38 ID:fYFQbL9b
徳岡:(三島全集に)僕と三島さんとのバンコックでの対談というかインタビューが入ってます。三島さんは おそらくノーベル賞とるだろうから、取ったらこれ載せたろ、思ってね、「三島さん、暇でしょ? インタビュー でもしましょ」って言うたら、「やろう」って、ホテルの庭でやったんですよ。 山中:「インドの印象」ですね。(中略) 徳岡さんがインドをお嫌いだから、話が盛り上がっていて。 徳岡:そうそう。三島さんを挑発した(笑)。エラワンホテルの庭でやったんですよね。あれは可笑しかった。 三島さんもう真面目になってね、そういう考えの人はダメだって言うんですよ。 松本(司会):その姿勢が切腹にまで貫いててる……。 徳岡:そう。 井上:徳岡さんは、エラワンホテルに泊まってらしたんですか。 徳岡:いや、そうじゃない。私はまだ家族が来てませんでしたので、単身赴任の日本人が何人か泊まってるとこに いました。 井上:バンコックで初めて三島を見かけたのもそのホテルのテラスで……。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
568 :
名無しさん@3周年 :2011/08/31(水) 23:56:07.32 ID:fYFQbL9b
徳岡:テラスじゃなくて、ステーキ・ハウス。三島さんはアメリカ人のデッかい男と話していた。 井上:それはもうかなり真面目に……。 徳岡:アホかと思うた、三島さん一生懸命。相手はね野球帽被ってね、Tシャツや。こんな太ったアメリカ人。 ちょっと知ってたんですね、三島という名前を。そうだ、その頃「ライフ」に載ったんですもん。「ライフ」の 影響力って今じゃちょっと想像出来ないでしょう。だからね、日本の自衛隊のこと言ったんでしょう。ほんなら 三島さん、一生懸命に説明する。英語はうまかった。 井上:うまかったですか。 徳岡:うまかったよね。それで一生懸命説明する。アホかと思うて、アメリカ人の後に寄って、三島さん行こ行こと 言うたんですけどね、三島さん、ステーキ食ってる相手に、演説するんですよ。過剰なほど真面目なところがある。 観光客やからいい加減にごまかしておくという態度じゃあなかった。 井上:テンションが凄かったんでしょうか? 徳岡:テンションというんじゃない。静かではあったけど、生真面目。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
569 :
名無しさん@3周年 :2011/08/31(水) 23:58:22.80 ID:fYFQbL9b
松本:徳岡さんはベトナム戦線へ取材に行かれていますが、三島とのかかわりにおいても大きかったんじゃ ないですか。 徳岡:だったんじゃないかと思います。(中略)当時、共産党が善で、アメリカ帝国主義は悪だというような 傾向があったんじゃないですか。それが六七年の五月頃の香港取材でちょっと崩れました。文化大革命……それから 六八年のテト攻勢で、こりゃ、僕ら忘れられないです。ユエ市民がずーっと長蛇の列をなして、解放されたユエから 逃げて来るんですよ。そういう解放とか平和とか民主って信用できますか。いわゆるね、人民解放軍なんていう 言葉なんかね、ふざけるなといいたいですね。 松本:だけど、それが結局勝っちゃったんですからねえ。 徳岡:いやあ一九七九年には、ベトナム解放しようとした中国人民解放軍がコテンパンにやられるんですよ。 それを誰も思い出さないんだ、日本の新聞は。 松本:だから、日本のジャーナリストの中でも特異な存在にならざるをえない。 山中:その分だけ、やっぱり三島も信をおいていたという……。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
570 :
名無しさん@3周年 :2011/09/01(木) 00:00:11.49 ID:UErYQ/IK
井上:バンコックで薔薇宮の三島の取材ぶりには、その徳岡さんがびっくりなさったとか。 徳岡:そう。あれはねえ、三島夫人にアンタよくねえ殺されなかったね、もし二人とも撃ち殺されたって文句 言えないよって。日本政府が大使館通して抗議したってさ、有名な小説家かどうかなんか知ったことじゃない。 共産党鎮圧本部CSOC、(中略)今でも覚えてる。その司令官よく知ってて僕はよく遊びに行きましたけどね。 ブーゲンビリアの生垣から夫婦揃って覗いてたらアンタ、そりゃ撃ち殺されますよと、私は三島夫人に言った。 井上:(中略)(三島は)もう一度行きたかったんだけど、行けなかった。この薔薇宮の創作ノート、ここに 取材の様子が……。 (中略) 徳岡:凄いなあ。だから真面目にやってはったんですよ。文学を真面目に考えていはったんですよ。三島が 死んでからそういう人いない。こっちも真面目に読んでやらないとっていう気になりますよ。遊び心ってな言葉 流行ってさ、遊び心で書かれたような文学、金出して読まれへんもん。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
571 :
名無しさん@3周年 :2011/09/01(木) 10:57:30.64 ID:UErYQ/IK
松本:そろそろ昭和四十五年十一月二十五日の話へ……。僕が一番気になるのは、最初の目標は三十二連隊でしたよね、 あれが変更になった。 徳岡:直前に変わったでしょ。 松本:ホントに直前に変わったんですかね。 徳岡:そうらしいですねえ。やはりわからない。 松本:だけど、意味が違うと思うんですよ。三十二連隊の隊長を拘束するのと、総監を拘束するのと、随分違うと思う。 徳岡:場所が違うしね。三十二連隊なら、決起して国会へ行ったかもしれないよ。 松本:楯の会の会員が集まっているわけですね。三十二連隊が標的なら、それがものをいうことになる。そして、 徳岡さんが車の中におられるわけですね。だからおっしゃるように違った展開になった。 徳岡:だからね、三十二連隊の隊長が不在とわかったんで、三島さんの行動がより象徴的なものに筋書きが 変わっていったんじゃないですかね。 松本:それは成り行きであって、もしかしたら、三島さん、本来は別のことを考えていたんじゃないかなって。 徳岡:わかんない。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
572 :
名無しさん@3周年 :2011/09/01(木) 10:58:36.22 ID:UErYQ/IK
井上:裁判の記録からすると、三十二連隊長が当日不在であることが、十一月二十一日にわかり、その日、 中華第一楼へ五名が集まったところで森田が連隊長がいないことを報告、それから計画を練り直したと。 松本:だからね、僕ね信じられないの。 徳岡:ほんとねえ。 山中:そうなると、徳岡さんも書いていらっしゃいますが、あのバルコニーでの演説にしても、たまたまそうなって しまったという。 徳岡:みんながね、三島が最期の劇を演出したとか何とかいうけどもね、ほんまかいなーって僕は思うんですよ。 早い話が、雨降るかもわからんし。何もね、三島さん、演出とかね、そんな筈じゃなかったと思うんですよ。 結果的にああいうふうになっただけであってね。 井上:十月の二日の会議の時点で、連隊長を拘束し、それが報道されるように、信頼出来る人二人を、つまり 徳岡さんとNHKの伊達宗克さんですけれども、呼ぶ、と。でも、拘束してどうするかっていう具体的なことは あまりハッキリしないですね、十月二日の時点では。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
573 :
名無しさん@3周年 :2011/09/01(木) 10:59:54.41 ID:UErYQ/IK
山中:(三島からの手紙の)封筒の中からいきなり写真が出てきたりして、えっと思いますよね。 徳岡:封筒開けてこうやると、一番重たいものが一番先に出てくる。で、写真が。しかし、写真よりは、手紙を まず読みました。それから、檄を読んで、写真を見て。で、写真、あの本(五衰の人)に書きましたように、 森田の署名の筆圧に驚いたんですよ。グッグッグッグッって書いてあるんですよね。明日死ぬ若者が書いたんだ、 パレスホテルの一室で。 (中略) 松本:これ、相当激しい筆圧だね。 徳岡:もの凄いでしょ。ガッガッガッって書いてるでしょ。表にも出てるんですよ、その字が。それを見て、 こりゃ何かあると思いましたね。必勝君が心を込めて書いた字でしょうね。 井上:いい顔ですね。 徳岡:そうや。うん。この時二十五? 山中:そうです。森田だけ、なぜ二枚入れたのかな。 松本:こちら、笑ってると感じが違うね。 山中:夏服というのが珍しいですね。 徳岡:これや、これ一番印象がある。表情があるでしょう。僕としては貴重なもんです。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
574 :
名無しさん@3周年 :2011/09/01(木) 11:03:57.54 ID:UErYQ/IK
井上:しかし、ホントに当日連隊長がいたとしたらどういう……。 松本:変わってたねえ。あの部隊じゃ、同じ建物の中に東京裁判の会場があるという、象徴的な意味が消えちゃう からねえ。 徳岡:三島さん、要するに、死ぬのにさ、無為に死ぬかもわからんと、それでいいんだと思ったんでしょうね。 高倉健とか池部良が猛烈にいいと言っていたからね。 松本:より無駄死の印象が強くなる。 徳岡:そうだろうねえ。無駄死するつもりやったんだろうけどねえ。 (中略) 山中:もしちょっとした齟齬によって、これだけ変わったんだったら、偶然なのか、偶然とは言い難い何か あったのか、やっぱり謎だと思うんですけど。 松本:偶然とは思えないけどなあ。 山中:どの程度用意したか、ですよね。その垂れ幕の長さは……。 井上:二十一日に連隊長がいないことがわかってから、準備した。パレスホテルでの準備もその後だからさ。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
575 :
名無しさん@3周年 :2011/09/01(木) 11:05:10.02 ID:UErYQ/IK
松本:三十二連隊長といえば、実際に軍備を持っているのはあすこだけですね? 徳岡:ああそう、そうらしいですね。あとは司令部ですか。 松本:それから通信、補給関係。 徳岡:実践能力のある、連隊のあそこを制圧できたらね、火薬庫やって自殺できた筈だからね。 井上:最初はそういうプランもあったみたいですね。弾薬庫を爆破させるとか。 徳岡:まあ、僕よりももっといろいろ、三島さん考えたでしょうね。 (中略) 松本:多分、三十二連隊を標的にしたのは森田の主張で、三島は一旦、譲ったんでしょうね。 徳岡:あのね、無駄死と言うたけど、無駄死という観念が全く三島さんにはなかったと思うな。何故かというとね、 神風連がそうだ。あれを無駄死といえばあんな無駄死はない。 井上:それでよしとする……。 徳岡:そう、それでよしとする。熊本行きましたか。神風連の墓……。 熊本のあの神社。あれと、忠臣蔵の泉岳寺とは全然違う。一本の線香も立ってないんだ。何日も何ヶ月も人が 来てないってことがわかる墓地や。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
576 :
名無しさん@3周年 :2011/09/02(金) 23:50:35.01 ID:vcPU65lQ
井上:ところで、森田必勝の持ってる影響力ってのは非常に大きかったでしょうね。 徳岡:いや、どっちが決起へ引っ張っていったかわからないと思いますよ。(中略) 松本:中村彰彦さんが『烈士と呼ばれる男―森田必勝の物語』に書いています。彼も、森田必勝が引きずって いったんだっていう考え方ですね。(中略) 井上:森田の文章なんか、独特の何かを感じさせますね。 徳岡:文章は稚拙ですね。しかし、体から発散するものは凄かったでしょうねえ。それがアンタ、二十五で 死ぬんだもん。死ぬしかないって思ったんだもん。 山中:どちらかというと、三島の方が、青年達のそういった命がけの、何かもの凄いものに巻き込まれていく というような感じで、結局、具体的な死の予定というかスケジュールを組んで行ったんじゃないと思われるんですけどね。 徳岡:お互いに励まし励まされて行ったんじゃないかな。わかりませんがね。いずれの結論にも達するような 原稿書こうと思えば書けると思いますよ。指導権はどっちだと。しかし、それは意味がないですよ。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
577 :
名無しさん@3周年 :2011/09/02(金) 23:52:39.08 ID:vcPU65lQ
井上:死ぬ覚悟ってのは、昭和四十四年の10・21とか、ああいうときに、巻き込まれて命落とせばそれはそれで いいって思ったんだろうという、そんな感触があるんですけど、その辺は如何ですか。 徳岡:僕はその時日本にいなかったから。 (中略) 井上:三島はその時自衛隊の治安出勤があったり楯の会の出番があるんじゃないかとホントに思っていたような節が あって、昭和四十四年のその頃は、ある程度死を意識していたような気もするんですが、しかし、国際反戦デーが 思ったほど激しくならず、四十五年になってしまい、その時点で藤原定家について小説を書きたいと言う。また 『天人五衰』のごく初期の創作ノートなんですけれども、(中略)四十五年の初めの頃だと、その年の十一月に 死ぬっていう感じはないんですね。だけど、三月頃になったらやっぱり、決起するっていう形になってくる。(中略) 徳岡:私は(中略)三月に(ベトナムから)帰ってきたんですよ。そして、六月、帰国して三ヶ月後に会いに 行ったんですね。 松本:決心を固めた後に、お会いになったんでしょうね。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
578 :
名無しさん@3周年 :2011/09/02(金) 23:53:53.85 ID:vcPU65lQ
井上:楯の会の運動も袋小路になって、一種追いつめられた状況にいた時に、徳岡さんが近くにいらっしゃらなかった。 徳岡:いやあ、僕そんな存在じゃないですよ(笑)。あの当時はね、三億円事件の犯人が三島じゃないかって 言われてたの。 井上:顔がちょっと似てる……。 徳岡:顔が似てるよ。あんな複雑な筋書き考えられるのは三島由紀夫だけで、しかも楯の会で金を必要として いましたからね。 井上:あの頃の週刊誌を見ると、新年の時点で、「平凡パンチ」の一九七〇年の予想特集というようなページで、 防衛大学の学生が反乱を起こして、それを鎮圧するために自衛隊を使うのはよくないので楯の会が出勤、その功績で 三島が防衛大臣になる。しかし、大御心を悩ます悪書追放リストに「悪徳のよろめき」が入っていることがわかり、 天皇に申し訳ないことをしたといって、切腹をしたら失敗し、三島はその後左翼に転向したっていう(笑)。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
579 :
名無しさん@3周年 :2011/09/02(金) 23:57:45.76 ID:vcPU65lQ
松本:『和漢朗詠集』については、お貸しになっただけで、なにもお話しなさらなかったのですか。 徳岡:返してもらった時、「ありがとうございます、楽しかったね、面白かった」ってねえ、三島さん言っただけ。 (中略) 山中:このページを三島が見たんですね。 徳岡:漢詩三篇と、沙彌満誓の歌ね、「世の中をなにゝたとへむ(中略) 山中:天人五衰の言葉が出てくるのは、これですね。「生ある者は必ず滅す(中略)天人なほ五衰の日に逢へり」。 徳岡:それと、「朝に紅顔あつて世路に誇れども 暮に白骨となつて」ちゅうのと、同じ頁だ。(中略)後で これを見て、あっこれだなって思ったんですよ。 井上:バンコックの時点ではまだ『天人五衰』ってタイトルは考えてないですね。 四十五年になってから、小島さんに『天人五衰』にするって言うんですね。ただ天人五衰って言葉自体、確か、 戦争中の文章で使ったと思う。知らない言葉じゃなかった。 山中:しかし、この本を開いて見ると……。 徳岡:三篇並んでるからね、パンチが凄いんだ。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
580 :
名無しさん@3周年 :2011/09/02(金) 23:59:43.27 ID:vcPU65lQ
山中:徳岡さんはストークスの翻訳を出されていますね。新版も。 徳岡:本人が一生懸命やっているから翻訳してやらないわけにはいかないからやってるんですけどね。ある意味では、 東京にいた新聞記者で、日本人を含めて、三島さんがやってること、これはなにかあるぞ、と思ってたの、 ストークスだけなんですよ。自衛隊の演習だって付いていったんだから。(中略)一流の作家がね一生懸命 やってるんだ。新入社員鍛えるのに自衛隊体験入隊したり、これ昭和元禄の発想や。そんなんじゃなしに、 何かあると思ったら、ね。日本の新聞はそういうふうにはなってない。日本の新聞は、よそに抜かれないように、 デフェンスの取材しかやってないんですよ。 (中略) 松本:あれから後、市ヶ谷へ行かれたことありますか。 徳岡:何十年か経って正門から坂道を登ってみたけど、うわーこの坂走って登ったんかーって驚いた。もの凄い 坂なんですよ。こう曲がって、左手にバルコニーが……。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
581 :
名無しさん@3周年 :2011/09/03(土) 00:03:58.15 ID:uPs5NZDk
松本:あの時、よく誰何されませんでしたね。 徳岡:いや、あの時はそれどころじゃなかったんや。僕は、走りながら腕章してね。それからここへこれ…… (檄文や写真を指さし)。(中略) 松本:走りながら、足のどこに。 徳岡:ここ。靴下の後ろ側。(中略)ソックスの中に隠して……。だからねえ、『五衰の人』をどうしてもね、 書かないかんと思った。だけど、三島はおもろい奴やったなあってことしか書けないんですよねえ。頭は良いし、 原稿書いてもうまいし、そいでアンタ思い切ったことやる。自分の思ったことやり遂げるっていうねえ、こんな奴 ほかにおらへん。 松本:僕は、(中略)いいようのないショックを受けて、数日間もの凄く憂鬱でしたね。(中略)この世は 生きるに値しない、と三島に宣告されたような気がしたんですね。だけど、そうじゃない。逆なんだ、生命を 投げ出してもよいだけのものが、この世にはあるんだ。また、そうでなければいけないんだ、と三島は主張したと いうことが、だんだん分かって来た。時間がかかりましたけれどね。 徳岡孝夫「バンコックから市ヶ谷まで」より
582 :
名無しさん@3周年 :2011/09/11(日) 20:33:26.99 ID:ebVw4h19
アメリカの大神殿というべきWTCに旅客機が突っこみ、赤い炎に包まれながら超高層ビルが崩れ落ちていった日、 あの9・11を忘れる人はどこにもいないだろう。もう一つ、同じような分岐点がある。 作家・三島由紀夫が割腹自殺したとき、自分がどこで何をしていたか、たちどころに思いだせるはずだ。 …一九七〇年、長距離バスでイランの砂漠をよぎっていたときのことだ。 まわりの乗客たちはモスリムの人々ばかりだった。(中略) モスリムは一日に五回の礼拝を欠かさない。その時間がやってくると、屋根を踏みならす音が響いてくる。 …運転手がしぶしぶエンジンを止めると、乗客たちは屋根や窓から飛びだし、いっせいに砂漠へ走っていく。 そして四つん這いになり、焼けついた砂に額を押しつけながらアッラーの神に祈る。車内に残っているのは、 運転手と、ぼくと、イギリス人だけだった。礼拝が延々とつづいているとき、 「ユキオ・ミシマのハラキリについてどう思うか?」唐突に、若いイギリス人が語りかけてきた。 宮内勝典「混成化する世界へ」より
583 :
名無しさん@3周年 :2011/09/11(日) 20:34:27.73 ID:ebVw4h19
ぼくはしばらく考えてから答えた。 「ああ、映画の話だろう」 「いや、ほんとうにハラキリしたんだよ」と読みかけのNewsweekを差しだしてきた。(中略) 窓の外ではモスリムの人々が真昼の砂漠にひれ伏しながらアッラーの神に祈っている。 そして、ふるさとの日本では「天皇陛下万歳!」と叫びつつ、三島由紀夫が切腹したのだという。茫然となった。 (中略)アフガニスタン、パキスタンを過ぎてインドに入り、カルカッタの日本領事館の新聞でついに 確かめることができた。切断された首が床に据えられていた。 金とセックスと食い物しかない日本で、一つの精神がらんらんと燃える虎のような眼でこちらを見すえていた。 宮内勝典「混成化する世界へ」より
584 :
名無しさん@3周年 :2011/09/11(日) 20:35:44.06 ID:ebVw4h19
それから二十数年が過ぎて、かれが切腹した市ヶ谷駐屯地の総監室を訪ねることができた。(中略) 三島由紀夫が日本刀をふりおろしたときの刀傷が、飴色のドアの上に残っていた。 …モスリムの人々が礼拝する砂漠で三島由紀夫の自決を知ったのだが、偶然とはいえ、イスラム原理主義者たちと、 かれの思想には、通低するものがあると思われてならない。 …アッラーの神のような超越性のない日本で、かれは天皇に固執した。文化を防衛しようとした。 むろん肯定できないが、三島由紀夫の文学そのものをぼくは畏敬している。恥ずかしいがあえて洩らせば、 十代の頃、かれの文章をノートに筆写していた。 …紙数が尽きたから結語を述べよう。ぼくもまた西欧近代に追随したくはない。 だがそれを拒むナショナリストにもなりたくない。ぼくは混成化していく世界を生きたいと思う。 宮内勝典「混成化する世界へ」より
585 :
名無しさん@3周年 :2011/09/12(月) 23:53:11.80 ID:uaU6Ul2M
三島由紀夫て世間の事まるで判って居ないお坊ちゃまで終わったね。 誰もお前の言葉に付いて行かなかった無能な奴で割腹自殺アホな奴
,
587 :
名無しさん@3周年 :2011/10/07(金) 11:12:46.53 ID:GSCbcrz/
589 :
名無しさん@3周年 :2011/10/15(土) 09:41:52.55 ID:yfMrEAPQ
たしかに三島君には、絶望するだけの根拠も資格もあった。彼は言葉のなかに生きていた。あるいは、言葉を 生きていた。(中略)言葉によって存在するためには、まず対話の真の意味を理解し、その姿勢を身につける ことから始めるべきなのである。(中略) それにしても三島君は、まさに対話の名手だった。もちろん対話は相手を選ぶ。すくなくともぼくにとっては、 得がたい対話の相手だった。真の対話には、論破することも、されることもない。論争とは違うのだから、 勝敗は問題にならないのだ。また、社交でもないのだから、譲歩しあう必要もない。なんの妥協もなしに 対立し合い、しかも言葉のゲームにたっぷり堪能するという、いわば対話の極致を体験できたのも、三島君との 出会いのおかげだったと思う。(中略)三島君にはつねに他者に対する深い認識と洞察があった。絶望はいわば その避けがたい帰結だったのだ。 安部公房「周辺飛行19」より
590 :
ふ :2011/10/15(土) 09:58:03.48 ID:Uvf9Siyo
この酷い成り済ましをみんなで削除依頼出そうぜ! 三島 由紀夫 大阪府大阪市 AB型 ガテン系 mixi id=36697458
591 :
名無しさん@3周年 :2011/10/27(木) 10:16:22.72 ID:gTRDoi8Q
11 25 今年は期待している 今や大義はあるのかもしれない。
593 :
名無しさん@3周年 :2011/11/07(月) 02:06:47.76 ID:5daCe7OC
594 :
名無しさん@3周年 :2011/11/09(水) 17:01:54.08 ID:lr3rje+A
映画『人斬り』にはもう一つの隠されたエピソードがある。田中新兵衛が少将姉小路公知暗殺の嫌疑で捕縛された時の 京都町奉行は、三島の父方の祖母なつの祖父にあたる永井主水正(もんどのしょう)尚志(なおむね)〔なおゆき、 などの説も〕だったのである。しかし映画では尚志は登場せず、新兵衛を呼び出して吟味するのは京都所司代の 与力という設定になっている。残念ながら、三島は曾々祖父の面前で切腹ということにはならなかったが、 その役のめぐり合わせを楽しんだ。『人斬り』の撮影中に林房雄に送った手紙には次のようにある。 〈(中略)明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の 曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう。〉 (昭和四十四年六月十三日付) 三島と幕末との結びつきは、その家系に根ざしていたのである。 山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
595 :
名無しさん@3周年 :2011/11/09(水) 17:02:36.26 ID:lr3rje+A
(中略) 私はここでさらに幕末の水戸藩についてふれておきたいと思う。三島の祖母のなつの母親は高といい、水戸の 支藩である宍戸藩の八代藩主松平頼位の側室の娘であったからだ。頼位の長男頼徳、次男頼安の妹である。 九代藩主となった大炊頭頼徳は水戸天狗党による筑波挙兵の鎮圧にあたったが天狗党に同情し、非業の死をとげている。 なつの父方の祖父である永井尚志は直参の旗本であり、母方の祖父である松平頼位は徳川家の嫡流という血筋である。 (中略) 三島のなかに流れていた「水戸の血」は、その生涯にもわずかな翳りを落としている。それはなつの言うところの 「宿命」であったかもしれない。それには二つのことを語らねばならない。一つは幕末の水戸藩が尊皇攘夷思想の 中心的存在として、その指導的立場にあったこと。二代藩主徳川光圀によって始められた『大日本史』の編纂は、 光圀の死後も藩の事業として継続され、明治三十九年に十代藩主徳川慶篤の孫である圀順によって完成をみた。 それがいわゆる水戸史学、通称水戸学と呼ばれる尊皇論であり、幕末になって攘夷論と結びつき尊攘思想が生まれた。 山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
596 :
名無しさん@3周年 :2011/11/09(水) 17:03:03.19 ID:lr3rje+A
九代藩主斉昭は過激な尊攘家として知られ、後期水戸学を推し進めた。そこから相沢正志斎、豊田天功、藤田東湖ら すぐれた学者を輩出した。若き日の吉田松陰、西郷隆盛もまた水戸を聖地として訪れ、彼らと面談している。 水戸学による尊攘思想は、三島が『革命哲学としての陽明学』で語る行動哲学に密接に結びついている。 もう一つは、水戸学につよい影響を受けた尊攘派の藩士たちが蹶起した天狗党の乱である。この乱は大きく二つに 分けられ、最初の蹶起は元治元年(一八六四)、藤田東湖の四男である小四郎が幕府の外国政策に不満を抱き、 攘夷をつよく主張。水戸藩町奉行の田丸稲之衛門と筑波山で蜂起し、幕府と水戸藩の追討軍と北関東を中心に 転戦したものである。この時、小四郎は二十三歳の若さであった。(中略) 次の行動は、同年十月水戸藩家老の武田耕雲斎が、小四郎らとともに那珂湊の戦いを終えたあと、総大将となって 一橋慶喜を擁立するために京に向かって行軍したもの。 山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
597 :
名無しさん@3周年 :2011/11/09(水) 17:03:32.99 ID:lr3rje+A
(中略)背景には、藩内で権力を握っていた門閥派(諸生党)との対立があった。小四郎、耕雲斎らは改革派 (天狗党)と呼ばれている。(中略)藩主慶篤は、天狗党の蹶起を理由に耕雲斎を罷免し、門閥派の中心人物で ある市川三左衛門を要職に復帰させた。市川は尊攘派を徹底的に弾圧し、耕雲斎の殺害をも命じた。耕雲斎は 身の危険を感じ、一族郎党をしたがえて藩を脱出した。 一方、幕府は関東諸藩に天狗党追討を命じた。それに呼応して、水戸藩も市川を中心に追討軍を編成した。天狗党は 賊徒とされたのである。(中略)(藩主慶篤は)支藩の宍戸藩藩主松平頼徳を水戸に赴かせ、藩内の統制を はかろうとした。しかし頼徳もまた尊攘思想の信奉者であった。父の頼位は斉昭の心酔者であり、その影響を つよく受けていた。藩主慶篤の名代として江戸を出発した頼徳には、江戸にいた尊攘派も随行した。これを 知った耕雲斎が途中から合流し、さらには元目付の山国兵部らも加わり、頼徳の一団は尊攘派の一大勢力と なってしまった。 山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
598 :
名無しさん@3周年 :2011/11/09(水) 17:04:01.06 ID:lr3rje+A
当然、市川ら門閥派は危険を感じ、頼徳を阻止しようとする。(中略)頼徳は戦闘になるとは夢にも思わず、 和議を申し入れるが聞き入れられず、ついに応戦に出る。その戦闘を知った小四郎らは筑波山を降り、頼徳に 共闘を願い出る。頼徳は困難な選択を迫られるが、軍議の末、耕雲斎の助言に従い、天狗党との一時共闘を決断する。 門閥派には頼徳を討つ好都合の大義名分ができてしまったのである。こうして那珂湊の戦いが始まる。(中略) 門閥派は頼徳を天狗党と同じ賊徒とし、追討のために幕府に画策した。(中略)これ以上人命が失われることを 憂いた頼徳は釈明によって疑いを晴らすことができると考え、降伏。しかしその機会は与えられず、「賊魁」という 汚名を着せられたまま、切腹。元治元年十月五日、享年三十五歳。父の頼位もこれに連座、官位を剥奪され、 羽前新庄藩預りの身となった。藩は改易され、江戸藩邸も幕府没収となった。三島の「水戸の血」には、 切腹した大名がいたのである。祖母なつの伯父であった。 山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
599 :
名無しさん@3周年 :2011/11/11(金) 17:23:43.50 ID:QRIRIxWD
この天狗党の乱は、昭和十一年に起きた二・二六事件と思想的に共通点がある。日本陸軍の皇道派の二十一人の 青年将校たちは、(中略)政治の腐敗と農村の困窮の元凶である元老や重臣を武力をもって排除することによって、 大義を正し、天皇親政の実現を断行しようとした。一君万民の天皇制による国家改造計画は、明治維新の原点へ 帰ることだった。幕末期に大政奉還によって、天皇は親政をもって近代日本の建国を決意し、国民国家を実現させた。 青年将校たちにとって、時代は幕末の混乱期と同じだった。(中略)首謀者の一人であり、陸軍一等主計だった 磯部浅一は、その「獄中手記」において藤田小四郎の父である藤田東湖の言葉を引用して、次のように書いている。 〈藤田東湖の「大義を明かにし人心を正さば、皇道爰んぞ興起せざるを憂へん」これが維新の真精神でありまして、 青年将校蹶起の真精神があるのです。〉 藤田東湖は天狗党の思想的師父といってよかった。天狗党が目ざしたのも「尊皇」であった。 山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
600 :
名無しさん@3周年 :2011/11/11(金) 17:24:59.76 ID:QRIRIxWD
(中略) しかしこうした青年将校たちの天皇に対する至純の恋は報われることななかった。(中略) 「賊徒」となった天狗党、「反乱軍」となった青年将校たちの、帰順後の運命は同じである。三島は『英霊の聲』で (中略)終戦の勅許による天皇の「人間宣言」を批判した。しかし「人間宣言」そのものを否定したわけではなく、 英霊の声として「それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう」と前置きして、次のように書いたのである。 〈だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての 義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度の きはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。それを二度とも陛下は逸したまうた。もつとも神で あらせられるべき時に、人間にましましたのだ。 一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。〉 これは三島自身の恋闕といっていい。 山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
601 :
名無しさん@3周年 :2011/11/11(金) 17:25:30.45 ID:QRIRIxWD
(中略)三島にとって、十一歳の少年の時に際会した二・二六事件は「挫折」という観念と「英雄崇拝」の 原点となった。(中略) 三島は、磯部の遺稿をもとに、「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」を書き、二・二六事件の 思想的背景を考察している。蹶起によって天皇に「昭和維新」を直訴しようとした磯部らの心情につよく共感し、 それは「蹶起ののちも『大御心に待つ』ことに重きを置いた革命である」としている。だからこそ三島の天皇の 「人間宣言」に対する批判が深い意味をもつのである。(中略) 三島のなかに流れている「水戸の血」は、一方に二・二六事件の思想的源流ともいうべき天狗党の乱をもち、 一方にその天狗党の乱によって詰腹を切らされた徳川直系の大名をもつのである。 司馬に天狗党と二・二六事件について書かれた作品はない。天狗党については、『竜馬がゆく』の「希望」の章の なかで、その悲惨な結末を一つのエピソードとして紹介している。 山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
602 :
名無しさん@3周年 :2011/11/11(金) 17:25:58.32 ID:QRIRIxWD
司馬は、水戸から京に向かった武田耕雲斎の率いる行軍の惨憺たる様子にふれている。さらに武田耕雲斎以下幹部 二十四人が斬首され、つづいて三百五十二人もの同志が斬首されたことを述べ、「史上まれな大虐殺」であったと 言っている。竜馬には「残虐きわまる徳川幕府」と言わせている。天狗党の乱は、幕末史上稀にみる大虐殺によって 終結したのである。 三島と司馬は共に幕末維新の精神を重んじる。三島はそれを肉体化した思想とすることで、自己の美学的な存在の 根本条件としている。それに対し司馬は歴史小説家という立場から、そうした精神とは距離を置き、自己の内面的な 思想に執着せず、フィクショナルな物語を創作していった。つまり司馬は三島のように、生きるように書き、 書くように生きるというタイプの作家ではなかった。三島は幕末の平田国学に始まり、神風連、二・二六事件へと 連なる精神の系譜に、存在証明を見出そうとしたのである。私はそこに天狗党の乱を加えることによって、 三島の思想的帰結の宿命をみたいのである。 山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
603 :
名無しさん@3周年 :2011/11/25(金) 10:06:03.73 ID:Li3e7No0
本日です
11月25日は三島由紀夫氏追悼の「憂国忌」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
記
とき 11月25日(金) 午後六時半(六時開場)
ところ 星陵会館二階ホール
http://www.sfseminar.org/arc2004/map.html 会場分担金 おひとり2000円(賛助会員のかたはご招待)
<< プログラム >>
1830 開会、黙祷。「開会の辞」松本徹(三島文学館館長、文藝評論家)
1840 記念講演 新保祐司(文藝評論家)「三島由紀夫と崇高」
1950 発言 石平ほか
2010 「海ゆかば」合唱。閉会
特記(1)三島森田両烈士の祭壇は、二階ホールの入り口付近に設営されます。(2)御参加される皆さんには記念小冊子を謹呈します。(3)どなたでも予約なく参加できます。
主催 憂国忌実行委員会(090)3201―1740(担当佐々木)
三島由紀夫研究会(FAX)03―3260−9633
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | | | /  ̄ ̄ ̄ ̄ /_____ / お断りします / // / ハ,,ハ / / / / ( ゚ω゚ ) / / / / ____ / / / / / / / / / / /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ / /
605 :
名無しさん@3周年 :2011/12/10(土) 10:17:19.06 ID:Dg0Bw2K0
あげ
606 :
名無しさん@3周年 :2011/12/30(金) 16:28:18.87 ID:lQ+Z3cjQ
。
ネトウヨの脳内:嫌韓、嫌中、アニメ、エロゲー、2ch 三島:20世紀最高の頭脳の持ち主(ただし、ホモかつサド)
608 :
名無しさん@3周年 :2012/01/20(金) 11:22:24.89 ID:Tl1dNklB
と朝鮮人が↑
609 :
名無しさん@3周年 :2012/02/04(土) 23:55:47.47 ID:pdGYIo09
誰もが平岡家を語るが、橋家に言及する者はほとんどいない。平岡定太郎と夏子ばかりが論じられて、橋健三と トミは等閑視されてきた。あたかも三島由紀夫には、定太郎・夏子という父方の祖父母しか存在しなかったかの ようであり、「一世紀ぐらい時代ずれのした男」と「或る狂ほしい詩的な魂」の女だけが三島文学の形成に 影響を与えたかのような印象を受ける。しかし、それは事実だろうか。三島は、母方の橋家からは大して影響を 受けなかったのだろうか。 健三は、万延2年(1861年)1月2日に金沢に生を享けた。加賀藩士の瀬川朝治とソトの間に次男として生まれ、 武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。明治6年(12歳)、学才を見込まれて健堂の三女・こうの 婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり講義を行うほどの秀才だったという。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
610 :
名無しさん@3周年 :2012/02/04(土) 23:57:05.86 ID:pdGYIo09
やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。(中略)明治21年(27歳)、共立学校に招かれて漢文と 倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミを後妻とした。明治27年(33歳)、 学校の共同設立者に加わる。明治43年(49歳)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、 健三は開成中学校の第五代校長に就任した。 開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかで、(中略)顔写真を見ると、健三は白い 長髯を蓄えて、眼光炯々とした異相である。生徒は、「青幹」「漸々」「岩石」と渾名をつけたという。 (中略) 漢文の授業では、教科書として四書五経ではなく、『蒙求』を使用した。(中略)『蒙求』は、清少納言から 漱石に至るわが国の文学者に影響を与えた故事集である。テキストの選択から健三の教育観の一端を窺うことができる。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
611 :
名無しさん@3周年 :2012/02/04(土) 23:58:09.67 ID:pdGYIo09
(中略) (開成の)初代校長は、高橋是清。(中略)第四代校長の田辺新之助は、(中略)英学者にして漢詩人として 令名を馳せた。長男が哲学者の田辺元で、三島は学習院時代から『歴史的現実』など元の著書に親しんでいる。 第九代校長の東季彦は、(中略)一人息子が、夭折した東文彦である。三島と文彦との親交は『三島由紀夫 十代書簡集』に詳しく、晩年の三島は『東文彦作品集』の刊行に尽力した。二・二六事件、田辺元、東文彦……、 健三をめぐる歴代校長の人脈と三島との関わりは以外に深い。 (中略) 健三は雇われ校長ではなく、学校経営者であった。学校の移転拡張を図るため、大正4年に組織を財団法人とし、 校主は理事となる。当時の寄付行為第五条には、三校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び 不動産の全部を寄付し之を財団法人の財産とすることが謳われており、「この三校主の勇気決断は、この学校の 出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
左翼の恋人は永田洋子だからな。 もう死んだか
613 :
名無しさん@3周年 :2012/02/04(土) 23:59:25.16 ID:pdGYIo09
建物は老朽化・狭隘化が著しく、教室の床や廊下は波打ち、机は穴だらけで、生徒は「豚小屋」と呼んだという。 校舎の移転整備が課題であるが、学校側には土地も資金の当てもなかった。そこで健三たちは、窮状を詩文に託して 早大教授の桂湖邨に訴えた。桂はこの話を前田利為侯爵に伝え、大正10年に前田家の所有地を格安で払い下げて 貰うことになった。場所は、現在の新宿文化センター一帯である。詩文で土地を手に入れるとは、三島の祖父に 相応しいエピソードである。漢学者の桂は『王詩臆見』など王陽明に関する論文を著し、『奔馬』の藍本の一つ 『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった。(中略) ところが、この土地に目をつけた東京市長・後藤新平が、電車車庫の整備を計画して、学校側に譲渡を申し入れてきた。 健三は直ちに突っぱねた。是清からも譲渡を勧められるが、硬骨漢の健三は拒絶する。やがて関係者と相談した結果、 市民のために東大久保の土地を譲る。紆余曲折の後、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手した。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
614 :
名無しさん@3周年 :2012/02/05(日) 00:01:46.72 ID:9TxCZE5a
(中略) 永年にわたり健三は、赤字と襤褸校舎を抱えた開成中学の校長・理事として奮闘した。校舎の移転用地を確保し、 建設資金を集め、震災を乗り越えて新校舎を竣工させた。また、校長就任時に六百名であった生徒定員を文部省との 粘り強い交渉の結果、一千人に拡充している。開成学園の今日の隆盛の礎は、健三が築いたといっても過言ではない。 こうした多年の功績により、大正12年2月、健三は勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与された。 (中略)(平岡)夏子が一人息子・梓の嫁に迎えたのが、健三の次女・倭文重(三島の母)であった。健三は、 開成中学校校長を辞職後、昌平中学(夜間)の校長として、勤労青少年の教育に尽瘁した。昭和19年、四男の 行蔵にその職を譲り、故郷の金沢に帰った。同年12月5日、健三は永眠する。享年84歳であった。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
615 :
名無しさん@3周年 :2012/02/08(水) 12:58:13.52 ID:fnOOl1gY
(中略) トミは、明治7年に金沢で生を享けた。父は橋健堂、祖父は橋一巴で、いずれも加賀藩の漢学者である。トミは 六人姉妹の五番目で、(中略)姉・こうの死去により(中略)明治23年に健三の後妻となる。健三は29歳、 トミは16歳であった。二人の間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女が生まれた。(中略) 昭和13年、中等科二年の公威(三島)はトミに連れられて能を観る。初めて目にした能が『三輪』であったことは、 三島の生涯を思うと極めて暗示的である。『三輪』は、世阿弥の作と伝えられる四番目物であり、三輪明神が 顕現する。『奔馬』で本多繁邦と飯沼勲が邂逅する場所は、わが国最古の神社で、謡曲の『三輪』の舞台となった 大神神社である。 昭和20年2月、三島は兵庫県で入隊検査を受け、即日帰郷となる。金沢のトミから三島に宛てた2月17日付けの 書簡には「心の亂れといふものが千々の思ひに幾日かを過ごす」とあって、孫の身を気遣うトミの温かい人柄が 偲ばれる。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
616 :
名無しさん@3周年 :2012/02/08(水) 12:59:39.01 ID:fnOOl1gY
(中略) 兄弟について、倭文重は「私なんか娘のころ、男はやさしいものと思い込んでいました。実家の兄たちを 見なれてましたからね」と証言している。 昭和5年1月、公威は自家中毒に罹り、死の直前までゆく。 〈経帷子や遺愛の玩具がそろへられ一族が集まつた。それから一時期ほどして小水が出た。 母の兄の博士が、「助かるぞ」と言つた。心臓の働らきかけた証拠だといふのである。 ややあつて小水が出た。徐々に、おぼろげな生命の明るみが私の頬によみがへつた。〉 (『仮面の告白』三島由紀夫) 『仮面の告白』に登場する「母の兄の博士」が、健行である。橋健行は、明治17年2月6日に健三・こうの間に 生まれた。生母・こうの死去により、明治23年からトミに育てられる。 健行は、ブリリアントな秀才であった。明治34年に開成中学を卒業し、一高、東大医科に進んで精神病学を 専攻するが、常に首席であったという。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
617 :
名無しさん@3周年 :2012/02/08(水) 13:00:48.91 ID:fnOOl1gY
斎藤茂吉は、『回顧』に「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に 入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も 大望をいだいて進まれた」と記している。茂吉は、開成中学の同級生・健行に二年遅れて医師となった。(中略) 健行は、早熟な文学少年であった。開成中学三年(14歳)頃から文学グループを結成した。村岡典嗣(日本思想史)を リーダー格として、吹田順助(独文学)、健行、(中略)九名で、「桂蔭会」と称して廻覧雑誌を作った。 弁舌爽やかな少年たちで、住居が本郷を中心としていたことから「山手グループ」と呼ばれた。また「桂蔭会」は、 「竹林の七賢」とも称されて、周囲に大きな刺激と影響を与えた。触発された生徒のなかに茂吉や辻潤がいた。 当時の「桂蔭会」メンバー写真を見ると、健行は帽子をあみだに被り、自負心の強そうな面構えをしている。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
618 :
名無しさん@3周年 :2012/02/08(水) 13:02:16.00 ID:fnOOl1gY
(中略) 開成中学の『校友会雑誌』は投稿を建前としていたが、実態は課題作文の優秀作を掲載することが多かった。 この度、開成高等学校の松本英治教諭(校史編纂委員会委員長)の御協力を得て、『校友会雑誌』に掲載された 健行の文章が明らかになった。(中略) 〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の 転々たるがごとく、高尚なる思、優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを 文士の筆となす。〉(『筆』五年生 橋健行) 蒼古たる文章である。(中略)しかし〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく……〉という一文は、 三島由紀夫という作家を予見したような感がある。そして『校友会雑誌』の常連であった開成中学の文学少年・ 健行は、40年後に『輔仁会雑誌』のスタアとなる学習院中等科の文学少年・公威(三島)を髣髴とさせる。 「桂蔭会」で村岡や吹田に伍した健行の文才は、なまなかなものではなかった。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
619 :
名無しさん@3周年 :2012/02/10(金) 15:07:41.38 ID:ifUSo7SN
東大精神科の付属病院は、東京府巣鴨病院(後の松沢病院)であった。大正期、院長は呉秀三教授、副院長は 三宅紘一助教授、医長は黒沢良臣講師と橋健行講師の体制をとっていた。(中略) 〈明治四十三年十二月のすゑに卒業試問が済むと、直ぐ小石川駕籠町の東京府巣鴨病院に行き、 橋健行君に導かれて先生に御目にかかつた。その時三宅先生やその他の先輩にも紹介して もらつた。〉(『呉秀三先生』斎藤茂吉) 健行と茂吉の「先生」とは、呉秀三である。箕作阮甫の流れを汲む秀三は、日本の精神医学の先駆者で、鴎外に 親灸し『シーボルト先生』や『華岡青洲先生及其外科』を上梓するなど名文家としても知られた。そして秀三の 長男が、ギリシア・ラテン文学の権威・呉茂一である。三島は、昭和30年頃に「呉(茂一)先生」からギリシア語を 学ぶ。秀三――健行、茂一――三島の二組の子弟関係は、奇しき因縁である。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
620 :
名無しさん@3周年 :2012/02/10(金) 15:08:43.43 ID:ifUSo7SN
大正14年6月、秀三が松沢病院を退任し、院長に三宅、副院長に健行が就任する。昭和2年8月、健行は松沢病院 副院長から千葉医科大学(現在の千葉大医学部)助教授に転出する。6年7月から8年9月まで二年余り欧米に留学。 帰国した年の11月に教授となり、10年3月から付属医院長を兼ねた。しかし翌11年4月17日、健行は危篤に陥る。 川釣りで風邪をひきながら、医院長として無理をした結果、肺炎をこじらせたのである。報せを受けて、茂吉は 急遽千葉に向かう。(中略) 昭和11年4月18日、健行は52歳の男盛りで急逝する。「ルンゲンガングレン」とは、肺化膿症のことであろうか。 (中略)後に茂吉は健行の挽歌を詠み、これを歌集『暁紅』に収めた。 〈弔橋健行君 うつせみのわが身も老いてまぼろしに立ちくる君と手携はらむ〉 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
621 :
名無しさん@3周年 :2012/02/10(金) 15:09:50.81 ID:ifUSo7SN
昭和16年5月、健行の死から五年ほど後、一人の客が茂吉の家を訪ねる。客は、80歳を越えた健三であった。 (中略) 健三は、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した。律義な茂吉は、恩師・健三の頼みを引き受ける。 5月23日から30日にかけての日記には、友の生涯を文に編むために呻吟する茂吉の姿が記録されている。 〈七月一日 火曜 クモリ 蒸暑 客、橋健三先生、墓碑銘改ム、(中略)墓碑銘改作、汗流ル。〉(『日記』斎藤茂吉) 最も期待した長子に先立たれて、老いた健三の悲しみは深かった。茂吉が撰した墓碑銘によって、健三の心は 幾分か慰められたように思われる。三島が北杜夫に好意を寄せて『楡家の人びと』を高く評価したのは、 トーマス・マンを範とする文学観の共通性の故ばかりでなく、健行と茂吉との深い絆を知っていたからでは あるまいか。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
622 :
名無しさん@3周年 :2012/02/10(金) 15:12:03.45 ID:2XgZB7Ki
ネトウヨは三島由紀夫って何の人か知らないと思う
戦後最高の日本語学者で、政治的には真逆の美輪明宏とか五島勉にまで 勲董を及ぼした人物。
624 :
名無しさん@3周年 :2012/02/11(土) 10:00:18.24 ID:QtP/NNFH
(中略) 昭和19年、昌平中学の校長を(四男の)行蔵に譲って、健三は金沢に帰ってゆく。健三は、苦学生教育を ライフワークと考えていた。明治36年、健三たちの尽力によって、開成中学にわが国初の夜間中学・開成予備学校が 併設される。第一期入学生は僅か22人でしかなかったが、唯一の夜間中学であったことから、生徒数は年々増加し、 大正10年には1,355人という大所帯となった。生徒の職業は、銀行や会社の給仕から商店の小僧、印刷屋の職工、 玄関番など千差万別で、年齢は15、6から30位までであったという。震災で校舎が消失したため、大正15年、 神田駿河台に新校舎を建設する。昭和11年に校名を昌平中学と改称した。 昌平中学の経営は常に赤字であった。健三は、勤労学生から高い月謝をとろうとせず、赤字が累積し、遂には 身売り話まで出るようになった。昭和16年、四男の行蔵がマニラから帰国する。行蔵の実像は、昌平高校の 米山安一教諭の手記『夜学こそ我等が誇り』に描かれている。(中略) 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
625 :
名無しさん@3周年 :2012/02/11(土) 10:00:51.70 ID:QtP/NNFH
橋行蔵は、明治34年に東京で生まれた。慶応大学を卒業後、横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)に入行し、 上海やマニラで海外駐在員として活躍する。帰国した行蔵が目にしたのは、80歳の健三が杖をつき、電車の人混みに 揉まれながら赤字の昌平中学に通う姿であった。これをみかねて、行蔵は父の仕事を手伝う決意をする。 銀行業務を終えると、急いで立ち食い鮨で夕食をすませ、昌平中学に駆けつける毎日が始まった。やがて学校の 理事たちは、「本気で父君の跡を継いでやる気があるのかどうか」と行蔵に詰め寄る。行蔵は、横浜正金銀行の 会計課長として月給250円であった。昌平中学に転職すれば、これが一気に70円に下がる。話を聞いた銀行の幹部は 猛反対する。重役の椅子が待っている有能な社員を、万年赤字学校に行かせる訳にはいかない。しかし行蔵にとって、 大切なのはキミ夫人の意見だけだった。キミは、静かにこう言った。「貴方さえよろしかったら」 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
626 :
名無しさん@3周年 :2012/02/11(土) 10:01:23.24 ID:QtP/NNFH
横浜正金銀行の退職金は五万円であった。五万円あれば、当時十年は楽に暮らせた。行蔵は、退職金を学校の 赤字の穴埋めにつぎ込む。こうした努力にも関わらず、終戦の混乱期には生徒数が2、30人にまで減少した。 この危機を乗り越えるため、行蔵は奇抜なアイデアを捻り出す。一つは、英文タイプである。行蔵は、共同通信の 記者・中屋健一を説き伏せて、会社の地下室で埃を被っていた英文タイプを借り出した。学校に英文タイプ部や 英会話部を結成して、タイプ仕事を請け負ったのである。(中略) もう一つのアイデアは、予備校である。戦後の学制改革によって、昌平中学は昌平高校となった。行蔵は、 学制改革で大学の受験競争が激化すると予測し、理事たちの反対を押し切って予備校「正修英語学校」を設立する。 建物は、昼間の空き教室を利用した。(中略)結果的に行蔵の予測が見事に的中し、予備校収入のお陰で夜間学校は 存続することができた。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
627 :
名無しさん@3周年 :2012/02/11(土) 10:01:55.27 ID:QtP/NNFH
校長としての行蔵の初仕事は、職員便所の撤廃であった。「先生がションベンしているところを、生徒に 見られたって、別に恥ずかしいこたあ、ねえだろう」行蔵は、生徒たちの悩みや相談ごとにも気軽に応じた。 夜間の授業が終わり、残っている生徒の面倒をみると、行蔵は一人で校舎のなかを見廻った。戸締りを確認し、 火の用心をしてから世田谷の自宅に帰り着くと、午後11時であった。 (中略) 顔写真を見ると、行蔵はげじげじ眉毛が印象的な面長で、笑顔が三島と似ている。ただし、六尺豊かな偉丈夫で あったという。健三の衣鉢を継いで夜学に後半生を捧げた行蔵は、昭和37年に逝去する。享年62歳であった。 平岡家は官僚・法律家の家系であり、永井家は経済人の家系であって、橋家は学者・教育者の家系である。 この三家の人々のうち、学生時代の印象が三島と似ているのは健行である。理系と文系と進む道は違ったが、 二人とも秀才で早熟な文学少年として認められていた。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
628 :
2月22日大阪心斎橋大丸、2月23日銀座松屋カメラ市中止しろ! :2012/02/11(土) 10:05:52.16 ID:lWo7WC0V
629 :
名無しさん@3周年 :2012/02/23(木) 22:17:51.82 ID:DMTZJAWF
三島の曾祖父は、橋健堂である。(中略)父は一巴(幸右衛門)、母は石川家の出で、金沢に生を享けた。 健堂は書を善くした。長町四番丁(城下西部)に「弘義塾」を開くとともに、石浦町(城下中央部)に「正善閣」を 開いて習字を教えるが、後者の対象は女子である。健堂は、多数の子弟を教育し、「生徒常に門に満つ」と称された。 安政元年(1854年)、加賀藩による「壮猶館」の開設に伴い、漢学教授となる。 (中略) 明治3年、藩の文学訓導、筆翰教師となる。廃藩置県後の明治6年、小学校三等出仕に補され、8年、二等出仕に 進み、12年、木盃をもって顕彰された。健堂は、夜学や女子教育の充実など、教育者として先駆的であった。 そして「壮猶館」「集学所」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動していた。 (中略)(子が)いずれも娘であったため、瀬川健三を三女・こうの婿養子とした。健堂の『蒙求』中心の漢学や 庶民教育にかける熱意は、養子の健三に継承される。明治14年12月2日、健堂は59歳で没し、野田山に葬られた。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
630 :
名無しさん@3周年 :2012/02/23(木) 22:18:35.33 ID:DMTZJAWF
(中略) 健堂が出仕した「壮猶館」は、儒学を修める藩校ではない。「壮猶館」とは、加賀藩が命運を賭して創設した 軍事機関なのである。嘉永6年(1853年)、ペリー率いる黒船の来航は、人々に大きな衝撃を与えた。二百余年に 及ぶ幕府の鎖国体制を崩壊させる外圧の始まりである。以後、幕府はもとより、各藩において海防政策が 最重要課題となった。「日本全体が主戦状態にある」という現状認識からである。加賀藩も財政難に苦しみながら、 海防強化に乗り出してゆく。安政元年(1854年)、上柿木畠の火術方役所所管地(現在の知事公舎横)に 「壮猶館」が整備される。施設は、加賀藩の軍制改革の中核的な存在として明治初年まで存続した。 「壮猶館」では、砲術、馬術、洋学、医学、洋算、航海、測量学などが研究され、訓練や武器の製造を行った。 さらに加賀藩では、西洋流砲術の本格的な導入と軍制改革を図るため、洋式兵学者の招聘を検討する。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
631 :
名無しさん@3周年 :2012/02/23(木) 22:19:16.93 ID:DMTZJAWF
村田蔵六、佐野鼎、斎藤弥九郎の三人が候補に上がり、安政4年(1857年)、西洋流砲術として名高い佐野鼎が 出仕する。佐野は、西洋砲術師範棟取役に就任した。この経緯は、前掲の松本英治教諭の「加賀藩における 洋式兵学者の招聘と佐野鼎の出仕』に詳しい。「壮猶館」では、佐野を中心に海防が議論され、軍事研究の深化が 図られた。健堂と佐野は、親しかったという。佐野は、万延元年(1860年)の遣米使節、文久元年(1861年)の 遣欧使節に随行し、海外知識を生かして加賀藩の軍事科学の近代化に貢献する。七尾に黒船が来航した際には、 アーネスト・サトウと会見した。佐野は、明治新政府の兵部省造兵正に任官する。明治21年に健堂が、佐野の 創設した共立学校に招かれるのは、「壮猶館」における健堂と佐野の親交の遺産ともいえよう。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
632 :
名無しさん@3周年 :2012/02/23(木) 22:20:05.29 ID:DMTZJAWF
三島の軍事への傾斜については、永井玄蕃頭尚志に淵源を求める声が多い。しかしルーツは、尚志よりむしろ 健堂であろう。健堂は市井の漢学者ではなかった。何より平時の人ではなかった。幕末の動乱の時代、「壮猶館」 関係者の危機意識は強かった。さらに「壮猶館」は単なる研究機関ではなかった。敷地内には、砲術のための 棚場や調練場が設けられるとともに、弾薬所や焔硝製造所、軍艦所が付設されるなど、一大軍事拠点を形成していた。 こうした軍事拠点の中枢にあって、健堂は海防論を戦わせ、佐野から洋式兵学を吸収する立場にあった人である。 「壮猶館」の資料として『歩兵稽古法』『稽古方留』『砲術稽古書』が残されている。これらは、三島が 陸上自衛隊富士学校で学んだテキストの先駆をなすものといえよう。健堂の血は、トミ、倭文重を通じて三島の 体内に色濃く流れていた。晩年の三島が、西郷隆盛を語り、吉田松陰を語り、久坂玄瑞を語ったのは、健堂の 血ではなかったか。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
634 :
名無しさん@3周年 :2012/03/04(日) 21:41:21.17 ID:zdLYum7E
『春の雪』には、「終南別業」が登場する。王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」は、鎌倉の一万坪に あまる一つの谷をそっくり占める松枝侯爵家の別邸である。モデルは、前田侯爵家の広壮な別邸だという。 「終南別業」を描きながら、徳川末期に橋家三代が仕えて、大正期に祖父の願いを容れて土地を提供した前田家の ことを、果たして三島は意識していたのであろうか。 金沢が舞台となった小説は、『美しい星』である。「金星人」の美少女・暁子は、「金星人」の美青年・竹宮に 会うため金沢を訪れる。金沢駅、香林坊、犀川、武家屋敷、尾山神社、兼六公園、浅野川、卯辰山、隣接する 内灘などが描かれている。卯辰山には、かつて健堂が教鞭をとった「集学所」が設けられていたが、『美しい星』では 遠景として登場する。(中略)三島は取材のため金沢の街を歩いている。二日間という限られた時間のなかで、 果たして三島は橋家由縁の場所を訪れたのであろうか。 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
635 :
名無しさん@3周年 :2012/03/04(日) 21:42:11.89 ID:zdLYum7E
金沢では、人々の生活に謡曲が深く浸透している。小説では、金沢のこの風習が巧みに生かされている。竹宮は、 暁子に奇怪な話を語る。自分が「金星人」であることの端緒をつかんだのは、この春の『道成寺』の披キでからで ある、と。 〈どこで竹宮が星を予感してゐたかといふと、この笛の音をきいた時からだつたと思はれる。 細い笛の音は、宇宙の闇を伝はつてくる一條の星の光りのやうで、しかも竹宮には、 その音がときどきかすれるさまが、星のあきらかな光りが曙の光りに薄れるやうに 聴きなされた。それならその笛の音は、暁の明星の光りにちがひない。 彼は少しづつ、彼の紛ふ方ない故郷の眺めに近づいてゐた。つひにそこに到達した。 能面の目からのぞかれた世界は、燦然としてゐた。そこは金星の世界だつたのである。〉 (『美しい星』三島由紀夫) 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
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名無しさん@3周年 :
2012/03/04(日) 21:43:03.67 ID:zdLYum7E 三島は、能舞台が金星の世界に変貌する様を鮮やかに描いている。初めて能にふれた日から、この時までに ほぼ四半世紀の歳月が流れていた。13歳の公威が、祖母のトミと観たのは『三輪』であった。杉の木陰から声がして、 玄賓僧都の前に女人の姿の三輪明神が現れる。三輪明神は、神も衆生を救う方便としてしばらく迷いの深い人の心を 持つことがあるので、罪業を助けて欲しいと訴える。三輪の妻問いの神話を語り、天照大神の 天の岩戸隠れを物語って、夜明けとともに消えてゆく。謡曲『三輪』は、「夢の告、覚むるや名残なるらん、 覚むるや名残なるらん」という美しい詞章で終わる。 この詞章は、三島の遺作『豊饒の海』の大団円に通じる。現代語訳をすれば、次のようになろうか。 「夢のお告げが、覚めてしまうのは、実に名残惜しい、まことに名残惜しいことだ」 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より