官僚によるマインドコントロール()捕鯨問題-10’
次のように言う越えた普遍性を持っているからではなく、生息地の狭隘化や人間数の増加など生態系のバランスが変化したからなのであって、少なくともかつては野獣を適度に狩る生活はいささかも自然環境をないがしろにするものではなかったのである。藤原のあとがきに戻ろ
う。彼は先の引用に続いて、最新の動物学の知識に基づいてジョージの動物観の「誤り」を指摘し、《かれら〔白人狩猟監視官〕の自然観、又は生命観は非常に問題の多い一時代前のものであり、それが”狂って”いることに気づかないまま、かれらはアフリカの自然に介入し、
アフリカの自然保護の旗手として自らを位置づけた》38)と批判する。そして最新の研究に基づいた制度が必要だとして次のように述べる。今までの白人狩猟監視官は、ただ自分の勘と、人並みの道徳観だけに頼って動物を判断し、自然保護的な行動をとろうとしてきた。それが
多くの問題をひきおこし、これからのアフリカでは、もっと違う角度から動物を見る新しい監視官、あるいは新しい監視官教育が必要だと考えられている。いわばかつての”英雄”見直しが始まり、アフリカの白人狩猟監視官は、今や自然保護の立場からは”落ちた偶像”と化し
つつある。非常に気の毒な言い方になるが、その意味では〔ジョージ・〕アダムソンのこの回想録は、一昔前の英雄が自己の置かれた立場が変わりつつあることに気づくことなく、思いのたけを述べたものともいえる。39) 一見するとポストコロニアル的な言い方のように映る。
白人の狩猟監視官は実は自然保護の本当のやり方が分かっていなかった、新しい時代の監視官や監視官教育が必要だ、というのだから。だが実はそこには二つの陥穽が敷かれている。一つはすでに指摘したように、「自然保護」という考え方自体が現地人のためになるのか、とい
う問題。もう一つは、新しい現地人の監視官はでは具体的にどのように職務を果たすのか、という問題である。 藤原は、しかしこの二つの問題に答えないままに解説を終えている。彼は批判するだけでなく、ジョージが動物に繊細な心遣いを示す箇所やライオンの美しさに感動
する場面については評価している。40) しかし肝心要の問題は放置されたままなのである。I. さて、ジョージ最初の自伝を収録している『世界動物文学全集第15巻』には、『神象の最期』という短篇小説が一緒に収められている。パキスタンの作家アブール・F・シディッキ