三島はあっけにとられる。「明治時代の小説に出てくるお巡りさんはよくこんな口調で話」すなと思ったからである。しかし三島が答えようとすると、別のアメリカ人が何事か話しかけてくる。総長はたちまちそちらへ向き直ると、『オー・イエス』と「世にも謙譲な態度
で、満面に笑みをたたえて」答えるのだった。このエピソードの意味は言うまでもなかろうが、三島はこの後でこう書いている。 「日本人には威張り、外国人にはヘイコラするというのが、明治初年の通訳から、戦後占領時代の一部日本人にいたる伝統的な精神態度であり
ました。これが一ぺん裏返しになると、外国人を野獣視し、米鬼撃滅のごとき、ヒステリックな症状を呈し、日本を世界の中心、絶対不敗の神の国と考える妄想に発展します。外国人と自然な態度で付き合うということが、日本人にはもっともむつかしいものらしい。これ
が都市のインテリほどむつかしいので、農村や漁村では、かえって気楽にめづらしがって、外国人を迎え入れます。」
三島の名に偏見を抱く人は、この文章を文字通りには読もうとしないかもしれない。最晩年を除けば三島が卓抜なエッセイストであったのは読書人なら誰でも知るところだが、念のため別の著作家からも引用をしておこう。
中村光夫は、『言葉の芸術』(1965年)で高田博厚とロマン・ロランを批判している。発端は高田が岩波書店の雑誌「図書」に載せたエッセイで、そこで高田は昔ロランを訪れた時のエピソードを紹介しているのだ。そのエピソードとはこうである。
高田はロランに日本語の難しさについて語り、「自分」を表現する場合でも私、僕、我輩、手前など十以上もあり、話す相手によって変えねばならずやっかいだと教える。するとロランは「そんなばかなことがあるか、どこへ行ったって自分は一つじゃないか、なぜ相手次
第で変わらなければならないのだ?」と怒りだした。高田はその思い出を枕に、現代日本人には封建根性が根強く残っていて、ロランはそこに立腹したのだと「思いあたった」と書く。
中村はこのエッセイを紹介した後で、高田とロランの両者を痛烈に批判する。