「接ぎ木民主主義」を認識すべき時 2008年4月25日
「ねじれ」国会の惨状に悲憤慷慨して、「政治を見るのも嫌」になったり、「一面的な政治報道に
嫌気」をさす人が増えているという。
メディアが毎度伝えているのは「まるで指導力の無い総理と何でも政局に絡めて政治を停滞さ
せる野党党首という図式」だから、そういう目で見れば「政治を見るのも嫌」になって絶望するの
は当然である。
しかし「誰が総理になっても指動力を発揮できず」、「誰が野党党首でも政治は停滞する」とした
ら、国民の政治に対する見方も変わるのではないか。「一面的な政治報道に嫌気」をさす人も増
えているというから、メディアとは異なる政治の見方を提示して絶望から救う必要がある。
これまで与党が衆参両院で多数を占めてきたために表面化しなかったこの国の奇妙な政治制
度が「ねじれ」によって顕在化してきたというのが、昨年の7月29日以来私がコラムで書き続け
てきたことである。福田総理や小沢民主党代表が特別に駄目な政治家であるわけがなく、この
国の奇妙な政治制度から「国民が嫌になる」政治が導き出されている。その意味で「ねじれ」は
わが国の政治制度を再度認識し直してみる絶好のチャンスなのである。
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http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20080425-01-1301.html