http://pastor.txt-nifty.com/shoei/2007/04/index.html 愛するための体
ではなぜ、「体のよみがえり」であることがそれほど重要なことなのでしょう。
それを理解するためには、そもそも「体」は何のためにあるのかを考えてみる必要があります。
世の人と一緒になって「我は霊魂の不滅を信ず」と言って、それで良いような気になってしまうのです。
するとどうなりますか。この目に見える世界はどうせ滅びるんだ。
この目に見える体も、どうせ滅びるんだし、むしろ滅びたほうがいいんだ。
だからこの世界において、この体が生きた人生も、それは本質的に意味などないんだ。
…死を打ち破ったイエス様は、そんな姿を私たちに見せてくださったのではないよ。
そうではなくて、《神を愛し人を愛したその体が》復活した姿を見せてくださったのですよ。
そのように教会は語り続けてきたのです。実際、復活したイエス様は「わたしの手や足を見なさい」と言われたではありませんか。
釘の跡があるからでしょう。それはまさに《十字架にかかって死んだあの体が復活したのだ》ということです。
神を愛して、人を愛して生きて、最後には十字架にまでおかかりになった、まさにその体が復活したのです。それが神の国の姿だったのです。
その姿を弟子たちは見たのです。そのことを教会は伝えてきたのです。