大日本帝国の実在よりも戦後民主主義の虚妄に賭ける

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1名無しさん@3周年
1996年に82歳で亡くなられた丸山真男氏という、戦後民主主義
を代表する思想家がおられます。
 かつて丸山は「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」
と書いた。かれは、いったい戦後という時代のはじまりに、その時代の終わりとして
何を見たのか。いったい何を守ろうとしてその身を「賭け」たのか。
 丸山は「『である』ことと『する』こと」(『日本の思想』)に、こう書いて
いる。「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化ー物神化ーを不断に
警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きた
ものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。
つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうる
ような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりも
プロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。」
 丸山は「八・一五」に革命があったと考えた。丸山にとって守るべきものは、実在の
「戦後民主主義」ではなく、本来虚構的な「民主主義」という理念そのものだった。そのこと
 「八・一五」に対する丸山の意味づけは、流動的である。敗戦直後は「民主革命」として
とらえ、六十年安保闘争の後では「平和主義」として意味づけるようになる。これは思想に
一貫性がないのではなく、不断に「戦後民主主義」の規定が更新され続けた結果であるだろう。
丸山は『現代政治の思想と行動』に、「『永久革命』とはまさに民主主義にこそふさわしい
名辞である」と書いている。丸山にとって「戦後民主主義」はひとつのプロセスにすぎなかった。
丸山氏がなぜ「民主主義の永久革命」者であろうとしたのか?

日本の民主主義はこれからなのではないでしょうか?
2名無しさん@3周年:2007/09/02(日) 17:36:41 ID:C+x+KuDU
丸山真男を引っ叩きたい
3名無しさん@3周年:2007/09/05(水) 11:06:02 ID:NfTRvTi9
日本の戦前の超国家主義 無責任の体系
「まず第一に、明治以降の近代国家の成立にさいして、日本は国家を技術的・中立的
なものとすることに失敗し、国家が倫理的実体の体現者となってしまった。これは
典型的には天皇主権にほかならず、それを側面から支えたのは、例えば教育勅語の
ような国家的教育、倫理の公式化であった。つまり国家は、政治権力と精神的権威の
両方を独占したわけである。
 第二に、その結果、主権者はただの力の表象であるだけではなく、倫理的絶対性
の表象ともなる。日本という国家は「大義」を背負った国家ということになる。
こうして、日本においては固有の意味での権力意識は成立せず、権力は絶えず倫理に
寄りかかり、支配はつねに外的な(国家が体現する)倫理によって正当化される。
 そして第三に、こうしたことが個人においては、みずから責任をとろうとする
態度を育てることなく、天皇という価値の究極的実体に責任を転嫁することとなる。
個人を動かすものは合法性の意識ではなく、あくまでも『究極的実体』への距離の
近さということになる。この『天皇への距離』が、軍人や官僚に権力を与えるのだが
しかし、この権力は個人の資質や合法性に裏付けられたものではないので、本質的に
より上の権威に寄り掛かった無責任なものにすぎない。こうして、誰もが責任をとら
ない、いわゆる『無責任の体系』が成立する」
4名無しさん@3周年:2007/09/05(水) 11:15:26 ID:NfTRvTi9
「無限責任」も「無責任」も、政治的な重大事件から学問のスタイルにいたる
まであらゆるところに出現した。そして、それは日本の社会の変革をつねに妨げ
国際社会の動きから取り残させる結果を生んだ。その日本の国際社会への不適応
の終着点が「大東亜戦争」だったのだ――
というのが丸山氏の仮説ではなかったろうか。
丸山氏にとっていちばん恐ろしかったことは、「大東亜戦争」イデオロギーの破綻後
「開国」のやり直しによってようやく手にした「民主主義」が、かつての進化論や
啓蒙思想のように、日本的共同体のブラックホールのなかに吸い込まれて解体されて
しまうことだったのではないだろうか。「民主主義」が日本のムラ的共同体を粉飾する
ための論理にすりかえられ、ひいてはそれが日本を国際社会への不適応に導き、そして
日本を戦争に導くこと――それが丸山氏にとってもっとも恐ろしい悪夢ではなかったの
だろうか?

丸山氏が「民主主義」者として認めたのは、「民主主義」をつねに問い直し、それを道具
として用いて社会的な現実と対抗することをつづけている者のみである。自分が「民主主義者
である」という自惚れに安住し、自分の(丸山氏のいうような)「ムラ的共同体」的な行動に
対して無反省な者に「民主主義の永久革命」者である丸山真男の同伴者たる資格はない。
5名無しさん@3周年:2007/09/05(水) 11:48:32 ID:cMwyERxh
       、z=ニ三三ニヽ、
      ,,{{彡ニ三ニ三ニミヽ
     }仆ソ'`´''ーー'''""`ヾミi
     lミ{   ニ == 二   lミ|     ようこそ「オタクの国」へ
.      {ミ| , =、、 ,.=-、 ljハ       私がメイデン閣下こと、次期首相の麻生太郎です。
     {t! ィ・=  r・=,  !3l              
       `!、 , イ_ _ヘ    l‐'       今吹き荒れてる我が「辞任党」へのバッシングは
       Y { r=、__ ` j ハ─       私が首相になろうと止めるのは無理ですな。
.  r‐、 /)へ、`ニニ´ .イ /ヽ       
  } i/ //) `ー‐´‐rく  |ヽ      ここはお坊ちゃまに首相を続けていただいて、膿を全部出してしまいましょう。
  l / / /〉、_\_ト、」ヽ!       愛する2chネラー諸君、しばらくは安倍続投支持でよろしくね。      
  /|   ' /)   | \ | \              
6名無しさん@3周年:2007/09/09(日) 13:24:25 ID:HinmcEJm
丸山真男の全体主義の図式
日本のファシズムの特徴
1.家族主義
福沢諭吉「一身独立して、一国独立する」
しかし伊藤博文など大日本帝国憲法の制作者たちはヨーロッパのキリスト教に
代わって天皇制によって日本を一体化させようとした
よって【国家(天皇)→ 中間共同体 → 個人】が結びつく
天皇の赤子としての国民/その雛形としての中間共同体
・教育勅語のような道徳を重視する→中性国家ではない
・ヨーロッパ的な公領域/私領域という区別がない
2.農本主義
反中央集権的・田園賛美的
ファシズム運動が起こったもっとも大きな動機は昭和恐慌以降の農村の窮乏化
ナチスが労働者を重視したのとは対照的
・ 日本でのファシズム運動を担ったのはインテリ層(ヨーロッパ的教養を持つ人間)
  ではなく亜インテリ層(土着の権力者)
  →日本におけるインテリ層の大衆からの孤立
3.無責任の体系(無限責任=無責任)
「明治憲法において『殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない』大権中心主義や
皇室自立主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など
超憲法的存在の媒介によらないでは国会意思が一元化されないような体制が
つくられたことも、決断主体(責任の所属)を明確化することを避け、
『もちつもたれつ』の曖昧な行為関連(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が
冥々に作用している」
「『神輿』はしばしば単なるロボットであり、『無為にして化する』。『神輿』を
直接『擁』して実権を振るうのは文武の役人であり、彼らは『神輿』から下降する
正当性を権力の基礎として無力な人民を支配するが、他方無法者に対してはどこか
尻尾をつかまえられて引きまわされる」
・日本ファシズムの矮小性/指導者の指導意識の希薄
・ナチスやイタリアファシズムが大衆運動から出発した(下からのファシズム)
のに対して日本のファシズムは上からのファシズムである
7名無しさん@3周年:2007/09/09(日) 14:08:05 ID:HinmcEJm
丸山の日本国憲法「理解」

第1に、憲法の国民主権、民主主義に関して、丸山は、憲法に規定された民主制度
を「硬直化」、「形骸化」させないために、主権者となり、自由な決定の主体と
なった国民が、デモクラシーの理念に照らして、絶えず、その制度の働きを監視、
批判しなければならない。つまり、国民の下からの「革命」運動は、憲法体制化した
民主主義のもとで「永続」させなければならないと解した。

第2に、「国体」の呪縛から解放された個々の国民の自由に関して、国民は「日々自由に
なろうとすることによって、はじめて自由でありうる」こと、その自由は「政治秩序に
絶えず立ち向かおうとする精神」であって、「個人の内面的な規制力」に依拠するもの
でなくてはならぬと解した。

第3に、憲法第九条について、それは現実の国家の政策を不断に方向づける「理念」
として理解すべきであり、「武装しない国家」という理念は、従来の国家概念の
再定義を迫るものだと説いた。

政治のシロウトが政治の関心をもたなければ真の民主主義はなりたたないと丸山真男はいう。
民主主義を現実的に機能させるためには、民衆の日常生活のなかで、政治的、社会的
な問題が討議されるような場があたえられねばならない。
自由権とか抵抗権とかいう考え方というものは、政治的集団と全く独立な自主的集団
というものの考え方が根づかないと成長しない。(政治の支配に抵抗できる非政治的
で自由な自主的集団)
大衆の自己訓練能力、つまり経験から学んで、自己自身のやり方を修正していく
大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱を十分認める。
しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。
これが、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色という。
8名無しさん@3周年:2007/09/11(火) 01:54:39 ID:esdalYKr
丸山は『現代政治の思想と行動』の中で、
日本のナショナリズム・愛国心の価値の源泉であった天皇制が、何より尚武に価値をおいており、
従って敗戦と共にその価値が地に墜ち、
ナショナリズム・愛国心を支えた共同体心情に基づいた郷土愛が本来の場所へ帰っていった、つまり地域的共同体に帰っていったと述べてましたよね。

しかし今日言われる道徳心の退廃などは、地域的共同体への一体感、郷土愛すら消えつつあるという事の証左だと思います。
確か神島二郎だったか、日本は近代以来地域的共同体に依拠した国家作りをしていく一方、
都市化による地域的共同体の解体も同時に進み、それが都市への羨望とコンプレックスにつながり、
結果、地域的共同体を執拗に保持しよう(他の共同体への排他性と都市への憎悪)としながらも、
都市の人間となる(出世して郷土から都市へ移る)チャンスがあればそれに飛びつくという複雑な様相を呈していたという事を書いてました。
9名無しさん@3周年
現代は都市化がいよいよ進み、逆に共同体心情も消滅しつつありますが、
これと同じで、大衆の(かつてで言えば都市的なという形容詞がつく)知識人への感情的な拒否は強くなっている気がします。

丸山は共同体心情による自我の埋没は、主体性の欠如を肯定するとしながらも、
共同体を全て解体して裸の個人を曝すのは危険だとしていますよね。
これはつまり原子化された個人が大量に存在するだけだと、
まさに自由からの逃走的な意味での主体性の欠如が訪れるという事かと思います。

従って、今の、小さな声で現状の改善を唱える、
つまり民主主義云々という様な大衆にとって説教臭い事をいう人、グループに対して非常に冷淡な一方、
一度大きな声で改革的な事が唱えられれば一気にそれになびき、
それでいてそこには熟慮も主体的判断の意識もなく、
それが上手く行かなければ結局他者へ責任を負わせる。


こういう状態で丸山の言う不断の民主化による民主主義は実現できるのでしょうか…
丸山が西欧にあって日本にないとされた主体性は(西欧の主体性が十分だとか西欧が全て理想というのではない)、
なにが差なんでしょうね………?
西欧にあって日本にない主体性を生む土壌とは……?