嘘で固めた、南京虐殺5

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143名無しさん@3周年
〓撫順戦犯管理所で収容生活を送った元陸軍将校の手記 (1/2)〓

 認罪者が自らの残虐性を、心からさらけ出して絶叫するたびに、
その残虐行為の餌食となった中国人の悲鳴と怒号が、最高潮に達し我
々の前で炸裂した。すでに今までの学習で認識を深め、被害者の苦し
みに対する我々の「感度」は敏感になっており、そのうめき声が、耳
元に聞こえてくるようになっていたのだが、その声は今や、地鳴りの
ように膨らんできて大きくなり、ついに厚い幕を引き裂いて、悲鳴と
阿鼻叫喚を、耳をつんざくように轟ろかせた。あまりの凄まじさに、
我々は打ちのめされ震えた。それは津波のようにやって来て、我々を
何回もさらった。しばらくして津波が引いた後も、我々の魂は被害者
の深い悲しみの海の中に漂っていた。悲しみの深さは、一度これを知
ったら、もう永遠に忘れることの出来ない、底知れぬ深淵の様な深さ
を持っていた。

 この時から、殺した方の人間と殺された人間の心が、深く結びつい
たのである。我々は、被害者の血まみれの恨みの手で、魂を掴まれて
しまった。被害者が味わった、地獄の底を見てしまったのである。し
かし不思議なことに、そこに恐怖心も嫌悪感も浮んでこない。深い共
感があるだけだ。我々は被害者に向かって、頭を垂れてこう言ってい
たのである。

「そうとも、アンタ方はもっと怒っていいんだよ。怒る権利があるとも」
144名無しさん@3周年:2007/01/05(金) 19:20:50 ID:3jpOuB9g

〓撫順戦犯管理所で収容生活を送った元陸軍将校の手記 (2/2)〓

 1200万人の人間を殺戮するということは、こういうことだった
のである。建国2年目の中国、戦争中に殺された人々の阿鼻叫喚は、
まだ全国各地に生々しく余韻を残している。その悲しみと恨みの大海
は、この管理所のすぐそばまで、追ってきて渦巻いていたのだ。これ
に対し加害者である我々は、冷酷で不感症の姿勢のままで「俺たちは
大した罪は犯していない」「何時帰れるのか」などとウソぶいていた
のである。

 この認罪運動の、台風一過した後の我々の姿、そこには、官位も肩
書もハギとられた素の人間、もう日本人でも中国人でもない、「人間
そのもの」が残されていた。その位置から、初めて振り返って見る昔
の自分の姿は、残酷で哀れなものであった。

 一片の召集令状で軍国主義に乗せられ中国への侵略。時代の狭間に
翻弄され、流されたあげくに、たどり着いたこの戦犯管理所。最後に
残された自分の唯一の過去の遺産が、中国の農村に襲いかかって犯し
た「非人道行為」であったとは、これは情けないというより、歯ぎし
りしたいほど悔しいことであった。ここにいる1000人は昔、軍隊
の強行軍にも、マラリヤにも負けず、シペリアの極寒にも、重労働に
も耐えてきたしたたかな「生き残り組」であったはずである。だが、
この認罪の衝撃には参っていた。これは人間の根本の問題であった。
一度あの被害者の深い「悲しみ」がわかったら、その後再びこれを振
り捨てて行くことは出来ない。まともに処理しなければ、もう人間の
資格から脱落してしまう様な問題、「最後の砦」のようなものが此処
にはある。
145名無しさん@3周年:2007/01/05(金) 19:21:52 ID:3jpOuB9g
〓赦しの花〓

敗戦後、旧ソ連によってシベリアに5年間抑留された捕虜のうち、約
1000人の元日本軍将兵が戦犯として中国に引き渡され、「撫順戦犯管
理所」に6年間収容されました。

彼らはソ連とはまったく対照的な厚遇に驚くとともに、しだいに人間
性を取り戻し、自分たちの罪を認めるようになりました。そしてごく
一部を除き、大半の人が「起訴免除」として赦されて帰国しました。

その別れの時に、ある戦犯が看守の1人から「もう武器を持って2度
と大陸に来ないで下さい。日本へ帰ったら、きれいな花を咲かせて幸
せな家庭を築いて下さい」、と数粒の朝顔の種を手渡されました。

その朝顔が、今「平和と友好」のシンボルとして全国に広まっています。

http://www.janjan.jp/area/0612/0612247003/1.php