明治維新後、外務省から朝鮮視察に派遣された佐田白茅は「朝鮮国
交際始末内探書」で「松島は竹島の隣島・・・これまで掲載した書類は
ない」と書いている(1870年)。この松島が竹島なら、種々の文献が残っ
ているので、辻褄が合わない。佐田白茅自身が残した「朝鮮全図」にも
鬱陵島とそれに隣接する于山島(チュクト)があるだけで、竹島は描か
れていない。
地籍編纂方伺の三ヶ月前、1876年外務省で「松島開拓之議」が建議
されている。これは鬱陵島、松島、リャンコという島があり、松島
は未開拓の地であるとの認識から出されたもので、同様の開拓案は、
貿易事務次官からも外務省へ出願されている。
しかしこれらの計画は、1880年の天城による実地調査で、鬱陵島と
松島が同一の島であると確認されたことで中止された。「竹島考証」
には「明治十三年天城艦の・・・始めて松島は鬱陵島にして、その他
竹島(チュクト)なるものは、一個の岩石たるにすぎざるを知り」と
記載されている。
天城の調査によって、それまでの混乱が収束した結果、松島(鬱陵)、
竹島(チュクト)、アルゴノート島は存在せず、リャンコ(竹島)と、
事実関係が確定したわけだよ。
以上のように、明治の初め頃は情報が混乱していて、資料の記述にも
矛盾がたくさんある。朝鮮人はその中から自分達に都合のいい部分
だけを取り出して、自分達に都合よく解釈して強弁しているだけなん
だよ。
エナリが本当にホロン部でないなら、広い視野で資料全体を見渡して、
事実判断をするべきじゃないのかい。