「外一島」について、もう少し詳しく解説すると、
島根県が「松島」と言ってるものを、わざわざ太政官が「外一島」
と代名詞で呼んだのは、「松島」の存在があやふやだったからだよ。
この「松島」は、白人の伝えた架空の島(アルゴノート)か鬱陵島、
もしくはチュクトである。
日本ではそれまで、鬱陵島と竹島の存在は知られていたが、白人の
言うアルゴノート島は知らなかった。日本人はそれを、明治維新前後
の白人文明に対する畏怖から、間違いであると断定できずに混乱して
しまった。その結果として、鬱陵島と竹島の他に島があるものとして、
それまでの知識をむりやり当てはめて、竹島(鬱陵)、松島(アルゴ
ノート)、リャンコ島と呼ぶようになったんだよ。
1867年の勝海舟識「大日本沿海略図」にも、竹島・松島・リャンコ島
の三島が描かれている。
島根県は「次に一島あり 松島と呼ふ・・・樹竹稀なり 亦魚獣を産す
永禄中 伯耆國 會見郡 米子町商 大屋(大谷)甚吉 越後より歸り 颶風に
遇ふて 此地に漂流す」と表現している。これは「竹島渡海由来記
抜書控」からの引用だが、原書では「越後国より帰帆之砌与風竹島江
漂流」と、島名が「竹島」になっている。甚吉が漂流したのは元和三年
(1617年)だから、これは鬱陵島のことである。
しかし島の様子を表した「樹竹稀なり・・・」は現在の竹島に類似し
ている。この様に島根県も知識が混乱しているわけだ。