”ぶれない”について、もう少し考えてみたい
「いつから《ぶれる・ぶれない》が人間の評価の基準になったのかしら」
「私の知る一番古いものは、2003年の『Voice』12月号で岡崎久彦が次のようにいった言葉。安倍晋三という政治家の第一の価値は政治的信念が「ぶれない」ことである。」
だって
http://pokoapokotom.blog79.fc2.com/blog-entry-229.html とむ丸の夢生活の中で感じた疑問や思いをあれこれ
・セレブ幻想 ぶれる・ぶれない
(略)
浅野さんの「ぶれ」が響いた、という新聞評ですが、いつから《ぶれる・ぶれない》が人間の評価の基準になったのかしら。
9.11選挙の時に大写しになったミドル世代の女性が、顎をカメラに突き出して「コイズミさんはぶれないのよぉ」とインタビューに応じたのがテレビ画面に映し出されて以来、「ぶれる・ぶれない」人間評は、すっかり私のトラウマになってしまいました。
「ぶれない」のが分かりやすい、なんていつから人は思うようになったのかしら。
私の知る一番古いものは、2003年の『Voice』12月号で岡崎久彦が次のようにいった言葉。
安倍晋三という政治家の第一の価値は政治的信念が「ぶれない」ことである。拉致問題がその例である。政治家が「ぶれない」のは難しい。私心があればぶれもする。私心のない人はぶれない。
「ぶれない → 私心がない」。ずいぶん乱暴な論理だ。
ぶれなければ、なんでもいいのか!
アベ疑惑の数々をみれば、私心がない、なんて誰が言える?!
おまけにこのところ、ぶれっぱなし。
多分、この「ぶれる・ぶれない」という言葉は、戦略語です。
戦略として使われてきたのです。
メディアはそのことを知ってか知らずか、多用するようになり、いつのまにか一般に浸透するようになりました。
華氏さんの言うとおり、「言葉を奪い返そう!」よ。
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