米国資本主義は少数白人支配の仕組み2

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534名無しさん@3周年
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以下は、社会主義への批判である
しかし、資本主義は一つではないし、完全無欠でもない
社会主義への批判は、ある意味米国流資本主義への反省でもある

http://www.linelabo.com/nitta0206.htm
資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。
2002年6月 新田滋 にった・しげる 茨城大学教員
※ 2005年6月13日 若干の誤植を訂正し、公開。

さらぎ徳二編著『革命ロシアの挫折と崩壊の根因を問う』(さらぎ徳二・いいだもも・岩田弘・望月彰・生田あい・新田滋・府川充男執筆,2002年6月15日刊行,私家版)に掲載されたものを許諾を得て転載

 新田滋(東京大学大学院・茨城大教員)の存在を知ったのは,御茶の水書房から出版された大著『段階論の研究』を書店で見た時である。
 宇野学派いまだに健在なのか? 資本主義の今日を宇野原理論が如何なる段階として捉えたのかと買い求めてみると,予想に反し“システムとしての資本主義”の立場から国民経済学の延長的発展と捉える立場を否定,世界経済を捉える立場をとっている。
 つまり岩田弘の世界資本主義論を先駆的として評価しつつも,ウォーラーステインの“システムとしての資本主義論”を摂取している。
 昨年十一月二十三日,拙著の出版記念会に出席され,三ブロックのテーゼは誰が創案したのかと聞かれたことから,ウォーラーステインとの関係も知ることとなった。
 彼は一九六二年生れ,一九八〇年代に大学生となり,ダメなものはダメと明言する異色の,若い世代には珍しいマルクス理論の研究家である。(さらぎ徳二)
535名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 16:51:51 ID:/UEqQrDs
(続き)
http://www.linelabo.com/nitta0206.htm
資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。
2002年6月 新田滋 にった・しげる 茨城大学教員

第一節 資本主義はなぜ強靱であったか。

 マルクスの資本主義的市場経済についての考え方には,いくつかの重大な欠陥が存在した。
 労働価値説,剰余価値論,資本の有機的構成の高度化―相対的過剰人口―利潤率傾向的低下の理論,窮乏化論・自動崩壊論は大きな誤りを含んでいた。

 労働価値説は,投下労働時間が商品の価格を決定するというものである。
 しかし,これは産業部門ごとに不変資本と可変資本の比率(有機的構成)や資本の回転速度が均一だと仮定した場合にのみ成立しうるものである。
 つまり,いちばん単純化されたモデル(一次接近)では成り立つが,より複雑化したモデルでは成り立たなくなるものでしかなかったのであった。

 剰余価値論は,剰余労働時間の搾取が資本の利潤の源泉であるという理論である。
 このような理論は,労働価値説によってのみ論証できるものだと考えて,何が何でも労働価値説を擁護しようとした人々もいるが,別に労働価値説によらなくても剰余労働時間の搾取が起こることは説明できることである。
 労働市場が供給超過(買い手市場)であれば賃金は需要と供給のバランスで低く抑えられる。
 その結果,労働者がその低い賃金によって買い戻せる消費財を生産するのに要した労働時間が,実際の労働時間よりも短くなる場合も起こりうる。
 その場合,労働時間の差が剰余労働時間となるわけである。

 では,剰余価値論そのものは問題がないのかというとそうではない。
 マルクスの剰余価値論は,資本の利潤はすべて剰余労働時間が源泉であると考えている。
 そこに少なくとも二つの重大な欠陥があったのである。
536名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 16:53:06 ID:/UEqQrDs
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資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。
2002年6月 新田滋 にった・しげる 茨城大学教員

第一節 資本主義はなぜ強靱であったか。
 第一に,たとえば現代におけるビル・ゲイツ氏のような大富豪をみてもわかることであるが,資本家というものは仕事中毒であって労働者以上に仕事時間は長いといってよい。
 ところが,マルクスの労働価値説においては,それは不生産的労働であり価値非形成的労働なのである。
 そのため,資本家がみずからの仕事に対する報酬を受け取ることは,その全額が労働者の剰余価値形成的労働の搾取だということになってしまっている。
 このようなマルクスの考え方は,流通労働や事務労働,経営・管理労働や企画・開発労働は生産物を生産しないし商品価値を形成しない,したがって,社会主義計画経済では不必要になる部分だという考え方に立脚するものであった。
 のちにみるように,こうした考え方がマルクスの社会主義計画経済についての楽観的な謬見につながっていることに注意を促しておこう。
 資本家自身が仕事時間に対する報酬を全生産物のうちから受け取ることに対して,マルクスのようにその全てが搾取だとすることは誤りである。
 もちろん,近代経済学のいうように,その全てが資本家自身の仕事に対する「正当な」報酬であるという保障もないのである。
537名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 16:53:50 ID:/UEqQrDs
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資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。
2002年6月 新田滋 にった・しげる 茨城大学教員

第一節 資本主義はなぜ強靱であったか。

 第二に,現実に剰余価値はどのような形態で存在しているかというと,利潤という貨幣形態か商品資本形態,生産資本形態の増大した部分という現物形態で存在している。
 つまり,貨幣額か物量かのいずれかの形態で増大した部分が剰余価値の現実的な存在形態である。
 資本家にとって剰余価値の生産が嬉しいのは,それは貨幣が増加して購買できる物量の可能性が増えるからであり,また,実際に手にした物量が増えたからである。
 そのような観点からいえば,労働者から労働時間をよりたくさんせしめたかどうかは,資本家にとってはどうでもよいことである。
 そこでもし,いままでとまったく同じ労働時間契約のもとで,技術革新が起こり労働生産性が上昇したとしたらどうであろうか。
 たとえば,剰余労働時間がゼロで労働時間が六時間で一億個の生産物が生産される場合を出発点として考えてみよう(ここでは社会的総資本・総労働について考える)。
 そして,ここに新しい技術が導入されて,従来どおりの六労働時間で一・三億個が生産できるようになったとしよう。
 この一・三億個の貨幣評価総額といままでの一億個の総額とがかりに同一だとすると,資本家の貨幣ではかった名目所得はかわらないことになるが,物量ではかった実質所得は三十パーセント増大したことになる。
 つまり,資本家は労働者から労働時間を搾取することなく実質所得の増大というかたちで実質利潤を獲得することが可能なのである。
 このような技術の発展による実質所得の増大がもたらす資本の利潤の源泉については,マルクスは特別剰余価値による超過利潤というかたちで半ば考えかけていたことは周知のとおりである。
 しかし,それが「特別」であり「超過」であると考えていたところにマルクスの限界があったのである。
(略)
538名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 16:55:50 ID:/UEqQrDs
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第一節 資本主義はなぜ強靱であったか。

 さて,マルクスが資本主義の強靱さを見誤った理由には二つのことが指摘できる。
 第一は,資本主義的生産関係の柔軟性を過小評価したために,たかだか十九世紀中葉の軽工業的生産力の水準で桎梏と化したとみなしていたということである。
 第二は,経済的下部構造だけを自立化して観察すれば社会構成体の運動法則がすべてわかると考えたために,
法律・行政権力や議会・政党,あるいはさまざまな社会的諸団体の多様な次元における力関係の変動が,経済的下部構造と絡まりあって社会構成体のトータルな運動法則を規定するという視点をとることを抑圧してしまったことである。
(略)
539名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 16:57:51 ID:/UEqQrDs
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第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 マルクスは社会主義計画経済については具体的には何も考えていなかった。
 また,たくさんの人々からなる社会や集団における意志決定のやり方の困難さについても,驚くほど何も考えてはいなかった。

 古くから社会主義に対する批判の論法には,二つの代表的なパターンがあった。

 まず,いくら働いても平等な分配しかされないのでは,結局みんな一生懸命に働かなくなる。
 いいかえると自由な競争がないので新しいことを開拓する励みも,怠けることに対する歯止めもなくなり,社会的生産が非効率的になるというものである。
 この批判に対しては,マルクスの『ゴータ綱領批判』における,社会主義の第一段階では「労働に応じた分配」が行われるが,その過渡期を通じて人間性そのものが変革された社会主義の第二段階では「必要に応じた分配」が行われるようになるという模範解答が用意されていた。
 これは,しかし,あまりにも無責任な遁辞であろう。
(略)
540名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 17:00:13 ID:/UEqQrDs
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第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 また,二つめの社会主義批判のパターンは,収容所国家ソ連やコミンテルン各国支部(=各国共産党)の実態にもとづいて広く行われるようになった批判であり,共産主義では死滅するのは国家ではなく民主主義だということである。
 この批判は,ソ連をスターリン主義その他のさまざまな諸概念で規定して,そんなものは社会主義,共産主義とはかけ離れているという「反論」で,きわめて安直にすまされてきた。
 しかし,世の中に常識にもとづく素朴な疑問ほど恐ろしいものはない。
 常識的で素朴な疑問に対して,形而上学的に難解な,スコラ的に意地の悪い反論をしようとしてきた政治党派が,例外なくたどった末路をみるだけでもそれはあまりにも明らかである。
 しかし,なぜ常識的で素朴な疑問がそれほど恐ろしいものであるのかの論理的な解明は別個になされなくてはならない課題である。

 ボルシェビキはそもそも発足時から民主集中制という不思議な組織原則で出発した。
 これは本質的には後進国ロシアでの地下活動に対応するための秘密結社方式であるが,レーニンの西欧的インテリとしての矜持が民主主義を全面否定することを許さなかったところから生み出されてきたいちじくの葉にすぎなかったように思われる。
 任期制と選挙制のないところで代表者に権力が集中するという制度では,どこをどうとっても民主主義は存在しえない。
 せいぜい運が良ければよいお代官様による啓蒙専制君主制でありうるのが精一杯である。
(略)
541名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 17:02:47 ID:/UEqQrDs
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2002年6月 新田滋 にった・しげる 茨城大学教員

第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 しかし,レーニンはマルクス,エンゲルスの著作群の中に必死で過渡期の政治形態についての答えを探したはずである。
 問題は,そんな答えはマルクス,エンゲルスに存在しなかったことにこそあった。
 たしかに,レーニンはマルクス,エンゲルスが国家は暴力装置であるだけでなく幻想的共同性でもあるという規定を無視してしまった。
 だが,その規定を生かせばレーニンやスターリンはもっとうまくやれたのであろうか?
 残念ながら,そんなことでは事態はなんら変わらなかったであろう。
 そもそも,マルクス,エンゲルスには巨大な人口を抱える社会集団において,意志決定というものをどのように行うのかということについての自問自答が痕跡すら見いだせないのはまったく不思議なほどである。
 それどころか,マルクスはパリ・コミューンが立法・行政・司法の三権分立を廃してしまったことを肯定しているほどである。
 マルクスには三権分立,もっと一般的にいって権力分立(チェック・アンド・バランス)ということのもっている意味がどうもよくわかっていなかったといわざるをえない。
542名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 17:34:42 ID:/UEqQrDs
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第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 権力分立とは何か?それは権力が一箇所に集中した独裁体制の反対概念である。
 独裁的権力者というものは絶対に無謬でなければならない。なぜなら,もし誤謬を犯してもそれを批判したり是正させる権力をもつものが存在しないからである。
 では,人間は無謬な存在でありうるか。否であろう。
 それでは,独裁者の無謬性を絶対条件とする政治制度は人間にとって可能なものであるか。
 答えはいうまでもなく否である。
 したがって,当然のように独裁制,民主集中制の社会,組織においては,誤謬を無謬といいくるめることが必然的なこととなるのである。
 そして,独裁的権力者の支配が誤謬を是正されることなく累積していって最後には,それを是正するのは独裁者の暗殺,謀殺,軍事クーデター,あるいは暴力革命いがいにはなくなるわけである。

 これに対して,人間は誤謬する存在であるという原理に基づいているのが権力分立である。
 批判したり是正を求める権力をもったものが相互に分立していることで,誤謬を累積しながら独裁者が暴走するのをチェックするという考え方である。
 たとえば,近世以降のイギリスでは国王に対して貴族院(上院)があり,国王・貴族院に対して庶民院(下院)があり,庶民院(下院)には諸政党が対立し,それら立法権力に対して行政権力,司法権力があり,しかも地方分権が歴史的な特質となっている。
 したがって,権力者がこまごまと分散しているために,ある党派寄りの新聞が対立的な党派の政治家や国王を批判しても,弾圧から守ってくれる権力も一定の範囲内で存在しうることになるわけである。
 言論の自由というものは,そのような権力の分散の中で隙間を縫うようにしてはじめて現実的に存在することができるようになったものである。
 そして,自由な言論は,たしかにそれまで狭隘なところに押し込められてきた人類の知的発展を著しく解き放ちはじめた。
 その結果,言論の自由はあたかも普遍的な原則と考えられるようになってきたのである。
(略)
543名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 17:38:38 ID:/UEqQrDs
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2002年6月 新田滋 にった・しげる 茨城大学教員

第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 ところで,このような権力分立が定着した社会においては,行政権力の誤謬はどんなに時間がかかるにしてもいずれは是正されていくことになる。
 是正されないまでもガス抜き程度の軌道修正は行われる。
 したがって,このような社会においては暴力革命ということはもはや滅多なことでは起こらなくなる。
(略)

 マルクス,エンゲルスがこのようなことに関して,きわめて無頓着であったことは奇妙というほかはないが事実である。
 少なくとも,かれらは一八六○年代ぐらいまでは,イギリスでも暴力革命が起こると考えていたのではないだろうか
(そうでなければ六七年刊行の『資本論』第一巻の末尾に「最後の鐘が鳴る」などと書いて,わざわざ二十年近くも前の『共産党宣言』からの長文の引用を注記したりはしなかったであろう)。
 彼らは権力分立というものを理解できなかったから,かなり後までイギリスにおける暴力革命を予測していたし,暴力革命後のプロレタリア独裁の具体的なイメージについても権力分立なきコミューン三原則を立てることとなったと考えるほかはない。
544名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 17:40:08 ID:/UEqQrDs
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資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。
2002年6月 新田滋 にった・しげる 茨城大学教員

第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 マルクス,エンゲルスほどの思想家がなぜこのような盲点をもっていたのであろうか?
 それは,彼らが人間の可謬性ということについては,まともに考えたことがなかったということを意味している。
 また,複数の人間の間のコミュニケーションが透明で瞬時に誤解なく理解し合えるものだと考えていたことを意味している。
 人間の有限性,愚かさ,弱さ,謬りやすさ,他人のいっていることのわからなさ,といったことが常に念頭にあれば,権力分立の問題は視野に入ってこざるをえなかったはずなのである。
 人間が神のような理性をもち無謬の存在で透明なコミュニケーションが可能であれば,直接民主制でもすみやかに全員の意志の一致を見るであろうし,逆に,たった一人の独裁者の民主集中制でも人民全体の意志を体現しうるわけで,どちらにしても同じことになる。
 社会主義的な思想潮流がアナキズム的な直接民主制とボルシェビズム的な民主集中制の両極に分極化するのもそのためといってよい。
 そして,この両極しか念頭にない社会主義者たちの革命政権や革命政党においては,直接民主制の実験がたちまちにして行き詰まるや,ただちに民主集中制やら分派禁止へと反転して,
 あとは一度権力を握ったものが何かで死ぬまで誤謬を無謬と言いくるめ続ける過程へと転落していくことが,個々人の主観的善意とは別に作用する鉄の法則として立ちはだかるのである。

 このようにマルクス,エンゲルスが人間存在の有限性,可謬性,あるいは人々の間での意志や情報がどの程度滞りなくできるものかというコミュニケーションの不透過性について十分に考え抜いていなかったことは,
 そのまま次にみるように社会主義計画経済の実行可能性について十分に考え抜いていなかったという問題に結びついている。
(略)
545名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 19:43:26 ID:/UEqQrDs
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2002年6月 新田滋 にった・しげる 茨城大学教員

第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 社会主義や共産主義とは何かという次元とは別に,計画経済というものがうまくいかないということの意味を,哲学や文学から出発したマルクス主義者は考えたこともない。
 彼らは社会主義,共産主義が自己疎外の止揚や物象化からの解放といった抽象的哲学の実現に寄与することについてのみ考えたが――それ自体は重要なことである――,そうした社会的諸関係の物質的基礎はいかにして運営されるのかについて真面目に考察したことはない。
 しかし,それはまさに飲みかつ喰いする経済的下部構造の問題なのである。

 たしかに,資本主義的市場経済は一見したところ非常に無駄の多いシステムである。
 したがって,これを中央集権的な計画経済に置き換えたほうが人類の生産力が発展すると考えられたのは不思議ではなかった。
 しかし,では具体的にどうやって億単位の膨大な人口からなる社会の個人個人の趣味・嗜好や家庭の事情ごとに異なる需要条件と,生産現場ごとに異なる技術的な供給条件を,
中央政府(レーニン党なりゴスプランなり)は情報収集し分析し,的確な計画指令を地方末端にまで伝達してゆけるというのであろうか。

 これは二十世紀に多くの左翼系の経済学者が挑戦して誰も答えられなかった問題であった。
 そもそもマルクスは「将来の世代が考えるべき問題」だと逃げを打っていたにすぎない。
 このもともと答えのない問題に対して,レーニンなりスターリンなり毛沢東のやり方が悪かったからうまくいかなかった,などといっても二十世紀後半以降の知識人・学生・大衆はもはや騙されなくなったのであった。
 そのことから目を背けて「右傾化」だ,「保守化」だといっても空しかったのである。
 ここには,マルクスが(価値形態論を例外として)人間と人間の間のコミュニケーションの不透過性について考え抜いていなかったことが致命的に露出している。
546名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 19:44:56 ID:/UEqQrDs
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第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 社会主義計画経済に対して,資本主義市場経済においては需要と供給の調整は,
市場競争にさらされながら個々の資本家や経営者,事務員,技術研究者らによって行われる流通労働や事務労働,経営・管理労働や企画・開発労働などの「無政府的」行動によって遂行されているものである。
 そこでは,失敗したものは個別に没落しながら,総社会的には「効率性」が上昇する。

 他方,ソ連では具体的な計画経済のための海図なしに社会主義の実験に乗り出し,社会的な生産・分配を編成するための情報の収集・伝達・蓄積のための費用だけでも膨大なものとなり,
ついにこの費用の問題だけでも資本主義的市場経済よりはるかに非効率的な経済システムとなってしまったのであった。
 マルクスは,膨大な人口の社会集団において,政治的意志決定がどうしたらうまくゆくかといったことに思い悩まなかったのとまったく同じ意味において,膨大な人口の社会集団の生産・分配を編成するための手間暇・コストについても思い悩むことはなかった。
 そもそも,そのような問題意識がなかったのである。
(略)
547名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 19:46:53 ID:/UEqQrDs
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第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 ハイエクが社会主義,全体主義,ケインズ主義・福祉国家への批判の奥の手として出してきたのが,所詮人間は全知全能ではないのだから,社会全体の計画的統制などはうまくいくはずがないという素朴な疑問であった。
 そして,政府は一度失敗すると,それをどうにかしようとしてまた政策介入を行うが,それは失敗を上塗りするだけであり,
そうしたことを繰り返してゆくことによって経済は破綻し民衆の不満が鬱積するので,ますます警察国家化してゆかざるを得ないのだとハイエクは警告したのであった。
 ハイエクの批判そのものは全体的にはあまりに素朴な疑問の提示に終始している観は否めないが,しかし,彼の突きつけた素朴な疑問そのものは,「乗り越え不可能」のものとしてあるといわざるをえないであろう。

 そして,資本主義市場経済が在庫を無駄にしたり不況時に失業者を排出したりしながら,思いのほか強靱な弾力性をもっていたのも,
結局は,個々人が自分の利益だけを考え自分の責任で経済活動を行うことで,ある者は栄えある者は没落するというかたちで,社会トータルでみると存続し,産業技術的な発展も競争によって促進されてきたからである。
548名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 19:47:48 ID:/UEqQrDs
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2002年6月 新田滋 にった・しげる 茨城大学教員

第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

 誤った資本主義像やブルジョア民主主義理解にもとづいて構想された社会主義計画経済と「プロレタリア民主主義(民主集中制)」が悲惨な結果をもたらしたのは不可避的なことであったというほかはない。
 今後,資本主義市場経済やブルジョア民主主義に対するオルタナティブ(代替案)を本格的に再構築していくためには,資本主義批判,ブルジョア民主主義批判を一からやり直す必要があるであろう。
 それには非常に時間がかかるかもしれない。
 だが,それまで現実世界が静穏なわけでもなく,無批判的な現実肯定や保守主義などですまされるはずもない。
 したがって,歴史的経験から明らかになった,最低限やってはならないこと(レーニン主義や偏狭なナショナリズム等々)を明確にしたうえで,
当面する金融グローバリゼーションの暴威や,日本型政治システムの財政・金融破綻の泥沼等々の諸課題に対して,たとえ改良主義であれ,中央権力に対する権利のための闘争という政治的理念は見失われるべきではないのである。
(略)
549名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 19:49:09 ID:/UEqQrDs
>>534-548
以上は、社会主義への批判である
しかし、資本主義は一つではないし、完全無欠でもない
社会主義への批判は、ある意味米国流資本主義への反省でもある