経済学者は経済学を道具として使い、経済学の道具性と自らの職業の
職人性を絶えず意識して、食材をテーブルに並べたところまでで自らの役割は
終わりと強く自覚している。あとは、素人さんが他の食材と一緒に調理して味わえばよろしいと。
飯田氏の方法論的な単眼思考が重要だといっているのがコレ。自らの分を弁えた学者の倫理ですね。
他方で、山形浩生という人がいますね。リフレ政策を説きつつも、それはデフレ
=合成の誤謬という特殊な環境下でにおいてであって、あくまでも個人の決断や
行動の大切さを説く。しかしまたイデオロギー化した個人主義には流されない。
何に対してでもでしゃばるが、機を見るに敏く、見事なバランス感覚がある。
こういう人のことを稲葉用語でいう「筋金入りの素人」というんでしょう。
が、稲葉はこのどちらとも違います。彼は自称「素人」だが、「素人」と言えるだけの
実態がまるでない。言論活動の他に確固たる専門分野があるわけでもなく、
フルタイムの職業を持っているわけでもない。止むにやまれず一時的に追っているはずのテーマに抗する
基盤というべきものがまるでない。そして研究対象がイデオロギー化してミイラ取りがミイラになるざまw
帰る場所は他になく、リフレによる人文社会学批判くらいしか拠り所がないのに、それでもあくまで
「素人」と言い張るのはどういうことか。いまや稲葉は自分は「素人である」と宣言することを放言の
言い訳にする悪辣な学者にすぎない。
社会学者でもない、経済学者でもない、倫理学者でもない、しかし素人でもない。
その道のプロ(求道者)ではなく、倫理的な責任を負わないのに、その実リフレのことで頭がいっぱい。
こういう人間のことを一般に信者という。稲葉振一郎は経済学信者に成り下がってしまった。
いや、それでは幅広い射程と深甚な洞察力を備えた経済学という学問に失礼なので、リフレ厨と呼んでもよし。
>>119 下段最後を「先立つものは金であり、財 政 の 再 建 である」と書き換えれば
巷間大流行の財政再建イデオロギーと変わりがない件。