■空疎な小皇帝(石原慎太郎)を崇拝する空疎な人々■

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1衆愚政治と排外主義/参考文献「空疎な小皇帝−石原慎太郎」斎藤貴男著
現実の社会では格差が拡大し続けている。
多くの人々が安定した中流から下層に滑り落ちる危機に直面している。(中略)
そのような危機に直面したとき、人々は社会、経済の現実を変えるための政策を要求するのではなく、
現実が厳しいならせめて自らの意識の中で多数派、主流派へしがみつこうとする。
そのためには、一方で自分よりも下にいる者を見つけ、それとの距離を確認するという方法と、
自分よりもはるかに上にいる者との感情的距離を縮めるという方法がある。
前者は、異質なものや弱者に対するいじめや差別・排斥となって現れる。(中略)
後者は、貴種(名門)への憧れという現象である。(中略)
貴種への憧れは、嫌な奴、少数派、目障りな奴を攻撃するという心理と表裏一体になっている。
こうしたポピュリズム政治を体現するのが、石原慎太郎である。
彼は石原ファミリーという貴種の盟主である。
同時に、彼は「三国人」発言など、外国人、女性、障害者などに対する差別、偏見を公然と表現することで悪名高い。(中略)
2003年の都知事選挙で圧勝したことに示されるように、石原の人気はこうした暴言・放言にもかかわらず高い。
この種の暴言を聞いて、「溜飲が下がった」と共感する人もかなり存在する。
「人を差別することで自分の優越感を確認したい」
「弱い者をいじめて鬱憤を晴らしたい」といった、人間の持っている醜い面を、
貴種の政治家が公の舞台でより大規模に実践している。
その石原に、社会の主流からすべり落ちる危険を抱えた人々が共感を覚えている。(中略)
ポピュリズムと密接に結びついているのが、ナショナリズムの隆盛という現象である。(中略)
今のナショナリズムは、強者が自らの強さを誇示するものではなく、
敗者や弱者が心理的な逃げ場所を探すという意味でのナショナリズムである。(中略)
なんとか自分たちの居場所を見つけ、自分たちを正当化する材料を探そうという心理がナショナリズムに結びつく。
その対象の一つは、歴史である。
つまり歴史を書き換えることによって自己を正当化するという論法である。
国粋的な歴史教科書の採用を求める政治運動はその一つの現れである。
彼らは、そのことでつかの間の癒し(幻想的な慰藉)を得るのである。(後略)
「戦後政治の崩壊」山口二郎北海道大学教授著より一部抜粋