>>877 いや、なんだな
「自分に都合がわるいから、要らないから、嫌いだから、殺してもいーじゃん」
という話はあんまりレベルが高すぎて、誰もついていけないってば。
せめて胎児が人間であるか無いかで議論する方が、蟻のつま先ぐらいは意味があるんじゃないの
と言ってみるテスト
(あたくしは参加する気ございませんの。悪しからず)
>>879 >せめて胎児が人間であるか無いかで議論する方が、蟻のつま先ぐらいは意味がある
時代はもうとっくにその議論を卒業していまして、胎児が人間であろうが無かろうが、
関係ございません。
胎児は「他人のお腹を借りなければ発育し出産されない以上、お腹を貸している親の都合で
中絶されても文句を言える立場に無い」と、考えられているのです。
>>879 >「自分に都合がわるいから、要らないから、嫌いだから、殺してもいーじゃん」
>という話はあんまりレベルが高すぎて、誰もついていけないってば。
それはあやまった物の見方。わざと聞き間違えているとしか思えない。
ここで主張されている事は、
社会からの過剰な要求が、個人の幸福に『甚大な悪影響』を与えてもよいのか、というものだ。
ある人にとって「その家庭にホモセクシャルの子孫が不幸な結果を招く」と予想されるのならば、
胎児の段階で、誰にも迷惑をかけずに、中絶をしてもらうのが、その人の幸福追求権を、社会が
保障しているということになるだろう。
そして胎児は、法的には、着床(受胎)とともに人と認識した方が良さそうだと、“受精卵(接合子)を
医学で使用する事を目的として”便宜的に決められているに過ぎない。しかし実際は、「受精があった瞬間の
受精卵をもってしてヒトとなった」と見るのが当然である。受精卵は着床しないと育たないが、しかし
着床しなかったのは、胎児が流産・死産するのと同様の単なるアクシデント(自然死)だろう。
即ち、科学者・医者が、受精卵を着床させない事によって、人殺しを行なっているのに、胎児に
お腹を貸している当人である親が胎児の中絶を選択できないのは、不合理と言わざるをえない。
ある場合は人殺しで、他の場合は人殺しではないという、倫理のダブルスタンダードは藁える。