低学歴が国家を語ることの無意味さについてPart2

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2名無しさん@1周年
最近は、自由競争、自己責任という美名の下に、
「これからは能力主義。学歴や家柄なんて関係ない」なんてことが
よく言われる。騙されてはいけないのは、こういう能力主義を
マスメディアを通して喧伝してる連中は、のきなみ一流大学卒の高学歴で
社会的地位をすでに確立しているエスタブリッシュメントだということだ。
じゃあ、なんでそういう奴らは、能力主義の論理を振り回すのか?
3名無しさん@1周年:02/01/01 02:43
それは、彼らの言う能力主義の具体例を見れば分かる。
結局、彼らは、「能力主義」という名の下に、
解雇法、労働組合の弱体化、新卒採用の自由化、
雇用形態の自由化、労働契約の自由化を求めているわけだ。
これは、経団連の最近の政府提言の内容などにも表れ始めている。
結局、彼らにとって、能力主義とは、労働市場の自由化のことであり、
いらない従業員をすぐに切れるようにしたい、ということに過ぎないからだ。
では、今まで、労働基本権や労働組合によって雇用が守られていたのは、
どういう人間かというと、NTTにしろ、ソニーにしろ、JRにしろ、
社内の底辺で会社を支えてきた低学歴のノンキャリア社員だということだ。
経団連などは、こういうノンキャリの仕事は、派遣社員に任せるべきだと言うし、
常に「臨時雇用」の形にすれば、人件費の調整が容易になっていい、ということになる。
なにしろ、国家行政にしろ、企業経営にしろ、今のガンは、
「高い人件費コスト」と言われているわけだから。
NTTの10万人リストラ計画を見ればいい。
「能力に基づき、人材配置する」とは聞こえのいいものの、
結局、地方の下請販売代理店に追いやられる10万人のほとんどは、
高卒・専門卒・三流大学卒のノンキャリア社員なのだ。
4名無しさん@1周年:02/01/01 02:44
もちろん、上層部にとって、「切りたい」のは、
低学歴ノンキャリアだけでなく、「高学歴だけど使えない」社員も含まれる。
だが、全体的に見れば、高学歴になればなるほど、その地位は安定化する。
すでに「能力主義」が確立しているアメリカを見ても、
高学歴になるほど、失業率はグンと下がる。IVY卒になるともはや無敵だ。
「レイオフ」などで常に切られまくっているのは低学歴の下級社員。
つまり、労働市場の自由化で、一番バカを見るのは低学歴ということになる。
なぜ、高学歴が重宝されるのか。実は、上層部にとっては、本当に必要な能力とは、
低学歴ノンキャリアが想像するような営業能力でも事務処理能力でもない。
巨大金融機関や財閥商社、巨大メーカーなどを見れば分かるように、
各企業、各業界などの上層部同士における取引において、
どれだけコミュニケーション能力があるか、どれだけ「社交能力」があるかということだ。
ノンキャリ営業マンがちまちま靴底減らして物を売ってくるのも確かに会社に貢献しているが、
そういう「アッパーサークルにおける取引」に比べたら、ゴミ以下である。
実は世の中の大部分は、そうした「アッパーサークルの間でのかけひき」によって
成立しているのであり、そうした「アッパーサークル」に入るには、
第一に学歴であり、第二に家柄・出自なのだ。
だから、東京三菱やゴールドマンサックスのような世界規模の巨大銀行になるほど、
東大卒やイエール卒を雇いたがるのだ。
一方、巨大広告代理店・電通は、なぜ無能であると知りつつも、
大資本家の子息や政治家の息子を入社させたがるのか。
それは、大資本家の息子であるということ、それ自体が「偉大な能力」だからだ。
人脈がゼロの営業マンがチマチマ看板広告の営業をとってきたところで、
JAL社長の息子がJAL関係の広告を全部とってくれば、そいつはゴミ以下ということになる。
「能力主義」とは、聞こえはいいが、そういうことになる。
5名無しさん@1周年:02/01/01 02:44
むろん、日本は、いちおう資本主義国家、自由主義国家であり、
一貫して「能力主義」の社会ではあった。
だが、他方で戦後は、戦後民主主義という名の下に、
労働組合の権限が強化され、いったん社員を雇うと、
簡単には解雇できないようになっていた。
つまり、エスタブリッシュメント層の「強者の論理」に
対抗する労働者の「弱者の論理」が一応は力を持っていたわけだ。
だが、昨今の「構造改革」の中で、そうした「弱者の論理」を
どんどんと解体していこうという動きがある。
そして、それが解体すると、一番困るのは当然ながら「弱者」なのだ。
だが、そういう弱者に限って、広告・宣伝・プロパガンダに騙されやすいのは、
どこの国でも同じであり、「能力主義」と聞いて、
「低学歴のオレでも、頑張れば、社長に出世できるかも」とか、
「低学歴のオレでも、ベンチャーを起こして、活躍できるかも」といった
幻想に陥ってしまうのだ。そんな「純粋で都合のいい能力主義」の社会など、
これまで存在などしてこなかったし、
将来的にも、そんな「理想郷」など来るわけがないのだ。