>>125 都督というのは、民政権、将軍は軍事権。支那は身分階級が厳密に定められていて、将軍位であれば
四征(四=東西南北)将軍→四鎮将軍→四安将軍が第三品に位置づけられ、
倭の五王のうち最後の武以前は安東将軍を授けられていたのが、倭王武の上表文によってはじめて安東大将軍に叙された。
安東大将軍は第二品の階級で、車騎将軍→四征大将軍→四鎮大将軍→四安大将軍の順。
高句麗が征東大将軍または車騎将軍、百済が鎮東大将軍であるのに対し、大和朝廷倭王は安東将軍で格下だった。
朝鮮半島および高句麗の征討を企図していた倭王武にとっては、この点は問題だった。
ところでこの時期は、倭国内の政情不安はありつつも、大和朝廷が統一国家への道を歩み始め、日の出の勢いがあった。
しかしながら盤石の体制とは言えず、超大国・宋の機嫌を損ねる危険は冒せるはずもなかった。
そこで倭王武は、宋に入貢し、開府儀同三司(=高句麗と同等の地位)、朝鮮半島南部の各国の民政権・軍政権の
保持者である倭国王を自称し、その除正(正式な任命)を求めた。
しかるに、宋の外交政策上、その全てを認めるわけにはいかず、わずかに安東大将軍・倭国王のみが認められた。
もっとも倭王武としてはこれは想定の範囲内であり、元々冊封体制下から逃れる意図があったとも考えられる。
上表文が、これらが認められなければ倭国は独自の判断で行動するというニュアンスを含んでいるため。
何?と聞かれた部分に対する回答はこれで良いかな?
こういう官爵が欲しいんだけど認めてくれよ、という意味であって、倭王が既にその地位にあったわけではない。