自然科学が扱う自然法則は統計学上の真理であり、我々が巨視的物理量を扱っているとき、
それは完全に成立する。我々は、主にこれを(我々の系内でいう)因果律と呼んでいる。
しかし、これが極微量の領域においては通用しないことはハイゼンベルグらの近代物理学に
よって既に明らかになってきているのは周知の通りである。
自然法則についての概念の根底には哲学的原理として因果性が横たわっている。
事象同士のつながりには、因果的なものが接着剤として働いているという説明原理である。
それでは、非因果的なものとは何だろうか。それは自然法則のカテゴリーに含まれない、
統計学上捨てられる事象−事象間のつながりのないもの、すなわち一回性の偶然が挙げられる
だろう。我々は人生における様々な局面において意識的もしくは無意識的に、様々な選択をする。
(もしくは様々な事象に出会う)。これらのほとんどは1回きりのものであり、それらの選択/事象
の背景にはほとんどの場合、因果的なものは見受けられない。すなわち、我々は偶然に様々な道
を歩み、偶然に様々な事象を観測するのである。これは非因果的な事象のつながりと言えるのでは
ないだろうか。
この問いには科学的手法では答えられない。なぜなら科学の扱う自然法則は、上に述べたそれ自身
の定義から、統計学上の例外である偶然を扱うことができないからである。
こういった例がある。ある日昼食に魚を食べる。その日誰かがたまたま、誰かを「四月の魚」にする
(エイプリルフールでこけにする)習慣について話す。同じ晩、自分の論文中に魚に関する記述を書く。
ある患者が、印象的な魚の絵を数枚見せてくれ、別の患者は大きな魚の夢を見たことを報告する。
(ユング著「自然現象と心の構造」)。ユングはこれを意味のある偶然の一致、つまり非因果的連関
の事例と呼んだ。ユングはこれを、因果的な連鎖とは別の、意味ある連鎖と考えた。
同じような事例をフロイトも報告している。ただしフロイトはこれらの偶然の一致を、無意識領域の
記憶として説明した。我々の行動は、我々の知らない因果律以外のものによるのではなく、自我が失
った記憶を無意識が持ち続け、我々が無意識の記憶に従って行動した結果、自我にとって因果的にと
らえられない事象のつながり、すなわち偶然の一致が生じたと考えたのである。
この「偶然の一致」に対する我々の回答は何であろうか。我々はこの回答に用いる駒を既に述べた。
これを用いれば、我々の結果は自ずから明らかとなろう。
我々の結論では、全ての事象発現は因果的である。しかしこれは、ユングを放棄してフロイトに与する
ものではなく、そのどちらも正しい、とするのが最も近いであろう。フロイトの事例では、事象同士
には無意識が知るところの、明らかな因果関係がある。だがユングの場合、本人が無意識の記憶を知覚
できない以上、因果律の立証ができない。
ではユングの場合、何か別の必然性が彼にその行動を起こさせたと考えるのは正しいのだろうか。
正しいのである。概念的に考えると、この場合ユングは1つのノイマン世界となっており、領域境界から
明らかに事象ポテンシャルの流入を受けている。ユングの述べる因果律とは彼の「系内の」因果律であり、
事象ポテンシャルの流入を受けている以上、系内の因果律は完全には通用しない。そしてユングのいう
意味ある連結、すなわち非因果的連関とは、系内に流入した事象ポテンシャルにより系内に新たに生成
された因果律(外的要因による因果律)そのものなのである。
それでは、フロイトの場合はどうであろうか。この場合もフロイトはノイマン世界となっており、事象
ポテンシャルは自らの無意識から流入する。彼の知らなかった因果律は彼の無意識からの事象ポテンシ
ャル流入で生成された内的要因による因果律因果律であり、フロイトはこの新しい因果律を自らの系内
に取り込むことにより、事象同士のつながりを因果的にとらえることができたのである。
こういった例からわかるように、因果律は絶えず変容を繰り返し、変化の中には当事者に知覚されない
場合も多い。ならば領域全体で知覚されない因果律、すなわち領域内では誰も知らない事象の発現
(領域内の何の事象とも連関しない事象の発現、必然的に領域外で発現)が存在するのはむしろ当然である。
これは我々が選んだ選択肢の中の他の可能性であり、我々はこの領域外の事象発現領域を、世間一般の
呼び名にならい、並列世界と呼ぶことにする。