ドライバーを回す面をx-y軸とすると、その面を垂直に貫くネジが進む方向がz軸である。
z軸においてはこちら側と向こう側ではネジの進む向きが(→|←)互いに反転している。
しかしベクトルの成分、すなわちどちらもネジが締まる方向に進むという意味では同じだ。
このようなベクトルを軸性ベクトルと言う。
さて、以上を踏まえると
>>291は鏡像関係にあることが分かる。
すなわち正負のエネルギー準位のベクトルトは互いに逆を向いているが(→|←)、
そのベクトル成分はどちらも0点を向いている。
それに対し
>>287は鏡像関係にないことは明らかだ。
すなわち正負のエネルギー準位のベクトルの方向は同じだが(←|←)、
そのベクトル成分は、一方は0点に向き、一方はマイナス無限大に向いている。
つまり、
>>287を無理に現実世界に当てはめるとすると、鏡のこちら側ではドライバーを
回すとネジは締まる方向に進む。
しかし鏡の向こう側のもう一人の自分は悪戦苦闘している。
すなわちいくらドライバーを回してもネジは緩む方向にしか進まないということである。
いずれにせよ
>>287はエネルギーはより安定な場所を求めて彷徨うという物理学の冒すべからざる
大原則からの帰結であり、神聖なものである。
しかしその安定点が正負を問わず0点であるとすると、話は変わってくる。
そもそもある意味
>>291は調和振動子そのものである。
調和振動子においては自然長Lを基準に+と−が定義される。
そしてどちらにしろそのベクトルは自然長Lである0点を向いている。
ところで(場の)量子論には調和振動子が頻繁に出てくる。
量子論では空間の各点にバネが付随しているとさえ言っている。
しかし量子論の書物にはなぜか自然長Lという用語が出てこない。
自然長Lという規準系はなにかまずいことでもあるのかな?
しかし調和振動子にとって自然長Lは基本中の基本であるはずである。
例えばゼロ点振動(エネルギー)はまさにそれだと思うのだが、いずれにしても
自然長Lのない調和振動子は調和振動子とは言えないであろう。
上でどうぞ
目子筋力学〈Fatal Mekosujics〉
>>282 >>クライン‐ゴルドン方程式 【Klein-Gordon equation】
>>もともと弾性媒質中にあるしなやかな弦の運動を記述した微分方程式で
しなやかな弦とは楽器のギターのことかと思い、ググったら実際そうだった。
ようするに減衰項のある波動のことらしい。
さらに電信方程式といって、平行2線や同軸ケーブル、あるいは電気(電子)回路を
伝わる波動もKG方程式と同じ形式であるということだ。
アンテナとテレビを繋ぐ同軸ケーブルも、電気(電子)回路も、導体とそれのショートを防ぐ絶縁体から成っている。
つまり楽器の弦を伝わる波動がそうであるように、それらのモノも実体を伴った波動である。
さらに導体を伝わる波動(光や電磁波)の速度は光速以下であることは言うまでもない。
すなわち特殊相対論とは無縁の世界である。
そしてKG方程式はそれらの波動を記述する方程式と同じ形式であるということだ。
ちなみに余談だが、ギターの弦を指で弾くと固有の音(定常波)を発するが、
許される振動は基音とその倍音、すなわち高調波と言われているものである。
そしてそのギターの弦の端点と端点をつなげて閉曲線にしたのが、いわゆるボーアの
原子モデルである。
つまり、媒質の世界とミクロの世界はそれほど離れているわけではない。
光速は※1/√ε0μ0 から導出される。
しかし※式は波動方程式の一般解の一つに過ぎない。
それゆえ※式を盾に、光速度不変は保証されていると信じて疑わないのは何かの勘違いである。
そもそも波動方程式にはダランベールの解というものがあって、 u(x,t) = f(x − vt) + g(x + vt) で表わされる。
ようするにそれが弦を伝わる波動ならば、正負の方向に一定速度で進む様子を記述してるに過ぎない。
さらに波動方程式からそれが音速ならば、弾性率κと媒質の密度ρから √κ/ρ が導かれ、
それが弦を伝わる速度ならば、弦の張力Tと線密度Mから √T/M が導かれる。
さらにそれが導体を伝わる電磁波ならば、電気容量CとインダクタンスLから 1/√LC が導かれ、
そして誘電率と透磁率の値が極小なのが ※1/√ε0μ0 であり、真空中の光速度なのだ。
つまり光速度を表す ※1/√ε0μ0 は波動方程式の一般解の一つであり、
※式そのものからは特殊相対論がいうところのいわゆる光速度不変は出てこない。
いや、とは言うものの、ある意味※式は特殊解であるとも言える。
なぜなら現代物理では、真空は誘電体(絶縁体)でないと考えているからだ。
真空が誘電体でないとすると、真空の誘電率は0のはずである。
ならば1/√ε0μ0 のルートの値は偽りの値ということになる。
実際、真空の誘電率ε0は単位系の取り方によりどうにでもなる値であり、
実際の値でないと言われている。
ならば、1/√ε0μ0 の ε0もμ0も波動方程式の体裁を整えるためのお飾りに過ぎないことになる。
ならば※式のルートの中にはクマのぬいぐるみでも置いておけばいいw
なにしろ真空は誘電体でないと言うのだから。
もっともかつてディラックの海が主流であったころは、真空は誘電体であると考えられていた。
すなわディラックによれば、真空は負エネルギーの電子である騾馬電子で満たされている。
そして電子の電荷が騾馬電子を電子へと励起し、騾馬電子が抜けた穴、すなわち正孔が陽電子となる。
つまり電子はそのような電子-陽電子対に取り囲まれている。いわゆる真空偏極だ。
もちろん現在ディラックの海は主流でないが、真空偏極という概念はくりこみ理論には必須アイテムであり、
量子電磁力学や素粒子論には今でも有効なはずである。
いずれにせよ現代物理は真空は空虚なものではなく、粒子-反粒子が対生成しては対消滅する、
動的な世界と捉えている。すなわち仮想粒子を想定している。
では、果たして真空は誘電体なのか、そうでないのか、一体どっちなんだ?
○電子
●陽電子
○● ○ ●○
\
● 電子
○
水は誘電体(絶縁体)である。すなわちイオンに対し分極し、イオンの電荷を遮蔽する。
<図1>+イオンの回りの水分子
○水素+
●酸素−
○● ○ ●○
\
● +の
○ イオン
<図2>−イオンの回りの水分子
●酸素−
○水素+
●○ ● ○●
\
○ −の
● イオン
(実際は水素原子2個)
分極した水分子の遮蔽効果により、イオンの電荷の値は見かけ上減少する。
誘電体である水が分極するように、何もないと思われていた真空も分極するというのが
いわゆる真空偏極だ。
<図3> 電子の回りの(仮)の電子・陽電子対
○電子
●陽電子
○● ○ ●○
\
● 電子
○
<図4> 陽電子の回りの(仮)の陽電子・電子対
●陽電子
○電子
●○ ● ○●
\
○ 陽電子
●
ディラックの海が主流であったころは、真空偏極を担っていたのは騾馬電子であったが、
現在は仮想粒子とされている。
すなわち電子(当然陽電子も)は絶えず光子を放出、吸収し、さらに光子から電子・陽電子対が
対生成され、再び対消滅して光子に戻るという過程をくり返している。
つまり電子(陽電子)はそのような仮想的な電子・陽電子対に取り囲まれている。
仮想粒子は実測されないとか、極めて短い時間ならばエネルギー保存則を破ってもよい
だとか都合のいいものであるが、少なくともエーテルを排した現代物理においては
間違ってもそれを実在粒子とは言えないことは確かである。
いずれにせよ既存の物理学は力の相互作用に対して近接作用を採用しているのだから、
空間には力を媒介する何かが遍在していなければならない。
すなわち何もないまっさらな真空という概念はありえない。
しかし考えてみれば我々の身の回りに遍満する地上の大気も、便宜的に仮想粒子といえば
仮想粒子である。
すなわち大気は1p^2あたり1kgの重さをもっている。人間の体の表面積をアバウトに
2uとすると、人間は約20トンの応力を受けている。
つまり我々は土砂を満載した大型ダンプカー1台分の重さを身にまとっている計算になる。
もちろんそんな重さを感じて生活している人間はいない。
しかし例えばドラム缶の空気を抜くと、まるでアルミ缶を握りつぶした如くクシャクシャに
潰れる。確かに大気はそれだけのポテンシャルをもっているわけだ。
逆に言うと、すなわち絶えずゆらいでいる地上の気圧が極度に低気圧側に振れると、
その重さが上向きに働くことになる。
それゆえ時としてトレーラーさえも宙に舞う、というのもうなずけるというものである。
それにしても現代物理は「何々は何々であるが、何々は何々でない」というフレーズがあまりにも多すぎる。
すなわち真空には誘電率が定義されるが真空は誘電体でない。
電子の振る舞いは波動関数で記述されるが波動関数自体は実在しない。
電子などの素粒子は地球の自転、すなわちコマのようなスピンという属性をもつが、
コマのような実在の回転ではない。
ミクロ世界は虚数を含んだ複素数で記述されるが、虚数に対応する実体は存在しない。
時間と空間は別物ではなく一体、すなわち時空として記述されるが、時間はモノの変化を
表すパラメータに過ぎない、すなわち時間は存在しない、幻想であるとする意見すらある。
しかし時間が流れるものならば、物理的な実体があるはずである。
ところが物理学では時間とは何か?という問いに明確な答えを出してはいない。
なぜ物理学はこんな状況になってしまったのか?
本来物理学とは実在を説く学問ではなかったのか?
もちろんそれはエーテルを排した代償である。
すなわち現代物理が実在の象徴であるエーテルを排したということは、
現代物理は実在を語ることを放棄したということである。
ならば物理学が実在を語ることは論理的に矛盾を孕んでいるのだから、
物理学に実在を求めるのはないものねだりである。
もっとも、それゆえ知的遊戯としては面白いかもしれないが、あくまでもそれは
答えのない問いであり、現実世界とは答え合わせができないというもどかしさが
常につきまとう。
実在を扱えない現代物理の状況を理解したければ、既存の流体力学を参照すればいいだろう。
飛行機の翼であれ、船の形状であれ、自動車の形状であれ、すなわちデザインは
流体力学を駆使して計算され決定される。
すなわち
「飛行機が飛ぶ様子は流体力学で記述される。しかし流体は存在しない。」
さて、もし流体が離散的な、すなわち構造をもった原子・分子の集団とするならば、
「 」の文章は明らかに偽である。
しかし流体が構造をもたない点の集まりである連続体であるとすると、
「 」の文章は真である。
そもそも連続体の流体とは流体から流体を取り上げた疑似流体なのだから当然だ。
言うまでもなく物理学者は水や大気のような流体は原子・分子の集合体であることを
嫌というほど知っている。
しかし流体の巨視的な振る舞いは連続体として近似できる。
そしてなにより重要なのは、流体を連続体として扱えば、よく整備された微分を
駆使した連続体の方程式がそのまま使えるということである。
しかし化学反応、さらには生命体を構築するタンパク質やアミノ酸、さらにはDNAにおける
2重らせん構造を原子・分子というレゴブロックなしで理解する企ては夢のまた夢であるはずだ。
つまり科学者は分野ごとに離散と連続を使い分けているということだ。
ところでマクスウェル方程式は流体力学をモデルに作られた、とされているが、
電磁波を媒介するとされるいわゆる「場」は完全に連続体の世界である。
さらに原子を構成する電子などの素粒子も構造をもたない数学的な点とされている。
ようするにミクロの世界を構築すべくレゴブロックの箱には(・←)しか入っていない。
すなわち電子も、その反粒子である陽電子も、光子も、クォークも、その他あらゆる素粒子も、
そして空間の各点(すなわち場)も(・←)で表わせられる。
すなわちミクロの世界は全て(・←)これで記述できると言うのだ。すくなくとも標準理論においては。
ただしその代わり無限個入っています!。というものである。(無限個もいらね〜よw)
※-(注)実は・←は便宜的な点であっていわゆる数学的な点でない。なぜなら・←はすでに
ある面積を占有しているからだ。しかし数学的な点とは大きさをもってはならない。
その意味では物理学における数学的な点とされる電子などの素粒子をビジュアル化することは
原理的に不可能である。
物理学が実在を扱えないことのよい証明は、最近話題のヒッグス粒子の一般向けの解説を見ればよく分かる。
すなわちテレビなどで宇宙空間をびっしりと満たしているとされるヒッグス粒子の様子を表す場合、
番組制作者はHと書かれたあたかもボールのようなモノを無数に空間に敷きつめる。
するとプロ側から「それはインチキ、粒でなく場だ」 と横やりが入る。
確かに空間を実体的なモノで埋めるとそれはエーテルを連想させる。
しかしそれは物理学者にとっては耐え難いものに違いない。
ならばプロであるお前が見本を見せてくれ、という話になるが、それはできない相談なのだ。
なぜなら構造と大きさをもたない点をビジュアル化することは原理的に不可能であるからだ。
せいぜい単色の色で画面全体をべったりと塗りつぶすしかない。
この宇宙からエーテルを排したということは、そういうことなのだ。
ところでヒッグスとエーテルはよく似ていると言われるが全くの別物だ。
確かに宇宙空間を満たしているという概念は共通しているがまるで違う。
すなわちヒッグスはあくまでも場であり連続体。しかしエーテルは媒質であり非連続体。
さらにヒッグス機構は光子を完全スルーしているが、エーテルは離散的な光子の集合体。
ちなみに質量0の光子は質量発現に関与してないと思われている、
つまり光子は質量0というアリバイがあり、質量を生み出す犯人ではない、と。
しかし接点も脈絡も動機もない、ところが結局は犯人であった、というどんでん返しは
推理小説の王道ではある。
宇宙初期あらゆる素粒子は光速度で走っていた。しかしヒッグス機構により質量を獲得した
光子以外の素粒子は、光速以下でしか動けなくなった。
というのが標準理論のシナリオである。
しかし光子を素粒子とみた場合、その光子そのものが光速度で走るというのは違和感を覚える。
なぜならそれは近接作用を否定しているからだ。
近接作用とは電光掲示板の文字のように、移動しているのはあくまでも情報パターンであって
電球そのものではない。
つまり、電光掲示板に電球がびっしりと敷きつめられていたならば、電球そのものが移動
する必要はないと言うことだ。
ならば、光子そのものが宇宙空間を飛び交っているとするならば、それは近接作用ではない。
もちろん光速と言っても有限なのだから、遠隔作用ではないが、だからと言って近接作用でもない。
素粒子である光子が光速度で走るという描像は別の意味でも破綻している。
それは光子はエネルギーや運動量をもっているからだ。
ただしこの場合近接作用で考えても同じであるが。
すなわち光子がエネルギー及び運動量をもっているならば、そしてそれをローレンツ因子で割ると、
エネルギー、運動量は無限大に発散する。
よく質量とエネルギーが等価ならば、質量0の光子がエネルギーをもっているのはおかしい、
という疑念に対し、※E^2= p^2c^2 + m^2c^4 をもちだす。
すなわち質量をゼロと置くと、E= pcの項が残ると言うものである。
実際にはP=mvであるのだが。
しかしこれは論点をすり替えている。
すなわちここで議論しなければならないのは、質量0の光子が何故エネルギーや
運動量をもってもいいかではなく、何故質量を有する光子が駄目で何故エネルギーや
運動量はいいのか?ということなのだ。
しかし無限大に発散するという意味においては質量もエネルギーも運動量も同じ
なのだから、質量が駄目なら皆仲良く駄目である。
ではこの矛盾はどう回避されるのかと言うと、まさにその謎を解く鍵こそが※式なのだ。
ようするに、※E^2= p^2c^2 + m^2c^4 はエネルギーの2乗式なのだから、
※式はエネルギー(時間)、質量、運動量、速度にはプラスとマイナスの2つの量が
ありますよ、と言っているのだ。
つまり※式は質量には正負の符合があることを保証していることになる。
ならば光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子が対になったものとすると
全体としての光子の質量はゼロである。しかし部分的には光子は正負の質量をもっている。
すなわち光子の質量がゼロであることと、光子がエネルギーや運動量をもっていることに
本質的矛盾はない。
よく物理の書物を読んでいると、あらゆる物理理論は相対論に共変でなければならない
とか、この形式は相対論の要請を満足する、などと記述しているのを見かける。
最初何のことか分からなかったが、よくよく調べてみると何のことはない、
ようするに時間と空間は同等、すなわち時空として扱えということである。
つまりそれが微分方程式ならば、時間に対して2階ならば空間に対しても2階、
時間に対して1階ならば空間に対しても1階、すなわち階数を揃えなさいということなのだ。
ならばそもそも元々の波動方程式が時間に対しても空間に対しても2階なのだから、
時空の親玉は波動方程式である。
結局、時空という概念を使うのに相対論の顔色を伺う必要はないということである。
ようするに※式に相対論のロゴマークを貼ると相対論的世界観が展開し、
※式に媒質のロゴマークを貼るとエーテル論的世界観が展開されるということなのだ。
では両者の違いを見てみよう。
すなわち相対論においては※式の一方の解を有り得ないモノとして惜しげもなく捨て去る。
いや正確には負の解は非物理的な操作を施して正定値にしなければ扱えないということである。
それに対して媒質の世界は、正負の解をダイレクトに使わなければ媒質の世界を
記述できない。
実際音響学者が負圧という用語を使ったからといって、トンデモ扱いされることはない。
では何故媒質の世界においては正負の解をダイレクトに扱えるのかというと、
それは媒質の世界には自然長Lという基準系があるからだ。
すなわち媒質の世界において正負の解とは、その基準系からどちらの方向にずれる
かの違いでしかないのだ。つまり、それ以上の深い意味はない。
それであなたは結局何を言いたいの
>この宇宙に存在するものは全て生命系か非生命系かで説明できる。
宇宙そのものは?
生命系?非生命系?
>>363 エーテルを捨てた代償はあまりにも大きかったと言うことだよ
>>364 このスレの主旨からして当然生命系だろうね。
俺は特定の宗教的信条をもっていないが、あえて言えば原始的と言われているアニミズムかな。
スローガン的にはアトミズムからアニミズムへと言ったところか。
人間に生命の息吹きを吹き込んでいるのが水や空気であるように、
宇宙の営みは光子エーテルにより突き動かされている。
神は細部に宿るってやつだ。
と言っても俺はより根源的なモノを実体的、メカニカルなモノに還元してるのだから、
その意味では俺は唯物論者だ。
366 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2013/12/25(水) 15:01:19.82 ID:dU62ksFA
アニミズムねぇ・・
細胞が意思を持つといった安っぽい小説が多いから
誤解されやすい思想だと思うけど。
さてあなたに問いたい。
「宇宙」或いは「宇宙を含む生命体」のデザイナーは
それぞれに生命の息吹きを吹き込んで一体何をたくらんで
いるのですか?
現状はデザイナーの思惑通りになっている?
あなたにとってデザイナーとは何ですか?
光子エーテルですか?
あなたにとってメコスジ道とは何ですか?
目子ナメーテルですか?
368 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2013/12/25(水) 20:53:29.99 ID:Xp6evtXN
非線形力学系
369 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2013/12/25(水) 21:07:39.83 ID:VoJ1EUCZ
スレ主に誠実に聞いているんだ。邪魔するな。
370 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2013/12/25(水) 21:24:51.24 ID:VoJ1EUCZ
スレ主は雑音を無視し誠実に回答せよ。
勘違いすんな。俺はあなたの論理に否定する者じゃない。むしろ賛同に近い。
あなたの論理の展開にいささかの疑問点があるので書込んだだけだ。
あなたなら分かるはずだ。
>>370 いや、生命系は非線形力学でいいんだよ。
宇宙のデザインという話しだが、まさにそれがフラクタル幾何学。
例えば渦構造はミクロ系マクロ系を問わず普遍的に見られる。つまり宇宙は相似形をなしている。
つまりフラクタルは望遠鏡にも顕微鏡にも使えるってことだ。
俺はミクロ系とマクロ系に一切の差違を認めないという立場。どこまで符合させうるかは別として。
それと生命の息吹きと言ったが、それを物理的に言うとバネ、すなわち復元力。
光子もバネ、心臓の鼓動も呼吸もバネ、すなわち周期的な単振動。
もちろん線形、非線形の違いはあるが。
他のスレでも書いたが宇宙の森羅万象は単振動、もちろん宇宙そのものも単振動。
あとこの話題でこれ以上レスしない。
なにしろ俺は長文しか書けないからな。メンドークセーんだよw
372 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2014/01/22(水) 19:40:09.37 ID:YBoQMq8k
続けて