1 :
◆GOVXYB0Zc. :
現代科学は我々の宇宙に存在するものを2つの物理法則により記述している。
すなわちミクロ系には量子力学、マクロ系にはニュートン力学、あるいは(一般)相対論。
しかし、我々の宇宙に存在するものをミクロ系、マクロ系という2色刷りで
印刷することはできないのだ。
強いて二分法があるとするならば、それは生命系か非生命系かなのである。
そして生命(力学)の目的は、ミクロ系とマクロ系の統一、ひいては生命系と
非生命系の統一でる。
普通、初歩的には原子は太陽系をモデルとして扱う。すなわち太陽の周りをいくつかの惑星が回るように、
原子核の周りをいくつかの電子が回る、という描像だ。
しかしその後我々は、原子と太陽系とは似て非なるモノである、と思い知らされる。
すなわち太陽系は日食や月食などを秒単位まで予測する決定論的な世界であるが、
原子は位置と運動量の不確定性を標榜する確率論的な世界である。
原子の世界に分け入った物理学者達は、そこで展開される確率や統計、不確定性といった振る舞いに面食らった。
しかし、本来確率や統計、不確定性は我々の日常生活においては普通のことである。
例えば天気予報、株価や様々なリスクによる各種保険のメカニズム、さらにギャンブルと不確実性に満ちている。
つまり、物理学者は原子の世界は我々の日常世界のように確率が支配する世界であった、と言えばいいのだ。
ではなぜ物理学者は確率が支配する原子の世界に驚愕し、苛立ちを覚えたのか?
それはニュートン力学の圧倒的な成功体験があったからである。
近代科学はニュートン力学の定式化により成立したことは間違いない。
科学を科学たらしめていたのはその高い予言能力である。すなわち秒単位で日食や月食を予測する。
約76年周期で回帰するハレー彗星は、2061年に再び人々の前にその姿を表すであろう。
これは全財産を賭けても失うことはないほどの信頼性の高いものである。
空気抵抗を無視すれば、同じ高さから落としたトンカチと羽毛は同時に地面に落ちる。
放り投げた野球のボールも石ころも放物線を描いて飛んでいく。
そこに不確定性の入り込む余地はない。
つまり還元論の立場からすれば、世界を原子までに分解したのならば、さらに原子を原子核と電子に分解したのならば、
物理学者はミクロの世界にニュートン力学よりもさらに精緻な確実性を手にすることができると期待された。
ところが意に反して、ミクロ系はニュートン力学とは対極の世界であったというわけだ。
そしてそれはミクロ系とマクロ系が乖離した瞬間でもある。
さて、ここで見逃してはならないのは、この地上において空気抵抗を無視すれば、というフレーズである。
確かに、アポロ宇宙飛行士が月で落としたトンカチと羽毛は同時に落下した。
しかし、同じ実験をこの地球上で行うと同時には落ちない。木の枝から離れた枯れ葉は不規則な軌跡を描く。
野球のボールやサッカーのボールは握りや手首のひねり、蹴り方によって不規則に変化する。
つまり、厳密にはニュートン力学に従ってはいないように見える。
もちろんだからといって、ニュートン力学が間違っているというわけではない。
すなわち石ころやボールなどの質点を一次系、空気などの媒質を二次系とすれば良い。
つまり、一次系の質点はあくまでもニュートン力学に従っているのだが、二次系である媒質が邪魔をする、
つまり運動の本質はあくまでも質点であり、媒質は亜流であり俗物である。
一流の物理学者がやることはあくまでもより還元されたモノの振る舞いであり、
二次的なモノの振る舞いはいずれ一次的なモノから演繹されるだろう。
しかしこの方法論は明らかに倒錯している。
そもそも月の世界に羽毛はミスマッチである。大体、地球上に空気がなければ木は育たない。
ならばリンゴは落ちないし葉っぱも散らない。当然人間も存在しないのだから野球のボールも存在しない。
無機的な石ころも元々は、水素ガスの媒質から恒星を介して生成されたモノである。
つまり、本来媒質こそが一次系であって、運動の対象である質点こそが媒質からの派生物なのだ。
現在、ミクロの世界を扱う量子力学は、場という考えで記述している。
場とは空間の各点に定義された量であり多体系である。
すなわち電子などの素粒子は場が励起されたモノとして捉えられている。
さらにそこでは絶えず粒子の生成・消滅が起こっている騒がしい世界であり、
欧米の物理学者はしばしば生きのいい虫が詰まった缶詰のようだと揶揄する。
つまり、還元論が悪いわけではないが、宇宙からエーテルを排し、幾つかの部品に
分解したのはいいが、その周りには得体のしれない何かがまとわりついていた、
ということである。ゲームは振り出しに戻ったと言うべきか。
では生命系からの観点から、太陽系には決定論が成り立つという概念がそれほど自明ではない、
ということを説明してみよう。ただし以前別スレにレスしたものを投稿する。
われわれの太陽系はニュートン力学が理想的に成立する舞台である。
実際宇宙ロケットの軌道計算は位置と運動量の不確定を標榜する量子論によるものではなく、
ましてや空間の曲がりを考慮した相対論によるものでもない。
ではなぜ太陽系においてはニュートン力学(決定論)が有効なのか。
それはわれわれの太陽系が非生命系だからである。
いや、非生命系というのは言い過ぎかもしれない。
確かに太陽は盛んに活動している。地球の内部ではマグマがうごめいている。
しかし太陽系というシステムは非生命系なのである。メタボリズムが停止した系と呼ぶべきか。
もしわれわれの太陽系が普遍的にニュートン力学で記述できるのなら、
それは誰かが出来上がりの太陽、出来上がりの地球、そして慰みにハレー彗星のような天体を
ピンセットで慎重につまみ、適当に配置し、初速度を与えた故である。
しかし、われわれの太陽系はチリとガスがいわゆる万有引力で凝集したものと言われている。
デカルトは宇宙に存在するものを物質なるモノと精神的なモノに分けて説明した(二元論)。
しかし、デカルトは思想おけるフリーズドライを行ったのである。
そしてそのフリーズドライされた空間を最終的に定式化したのがニュートンなのだ。
つまり、ニュートンは一杯のコーヒーをいつでもどこでも好きなように飲めるようにしたのだ。
コーヒーの正しい飲み方はカップの中にお湯を注ぎ込むことである。
そして好みに応じてミルクや砂糖を加える。
同様にわれわれの太陽系を味わいたければ太陽系に水素ガスを注ぐなり、
太陽系を取り巻いていると言われているいわゆるオールトの雲を太陽目掛けて落下させることだ。
(シミュレーション)
太陽系に無数の彗星が飛び交うということは、ハレー彗星の回帰が世紀のイベントでなく
見慣れた光景になるということである。
その状況は人類にとって最悪の事態に違いない。
しかし各種天体にとっては干天の慈雨である。
そもそも地球であれ月であれ、そのような獲物を獲得して現在のような体躯に成長したのだ。
そして月のあばたはまさに成長の証しなのである。
以前、シューメーカー・レビー彗星が木星に衝突するという天体ショーがあったが、
あれはまさにカメレオンが長い舌先で虫を捕らえるがごとく、
木星が重力の爪で獲物を鷲掴みにした瞬間をわれわれは目撃したのである。
さてそのような状況下において、いわゆるニュートン力学の決定論が成り立つだろうか?
仮に天文学者が日食や月食の予測をしたとしよう。
しかしその間に地球や月には無数の彗星が衝突するのである。
すると当然天体の自己エネルギーや軌道は揺らぐ。そして日食や月食の予測がハズレるという事態に陥る。
つまり、天文学者は確率や統計のノウハウを学ばなければならないだろう。
そもそも現在の太陽系は太陽系の一生の時系列の一断面に過ぎない。
ならば太陽系には決定論が成り立つ、というのはそれほど自明なことではない。
結局われわれの太陽系は中性代、地上をわが物顔にのし歩いていた生きた恐竜ではなく、
大地から掘り出される恐竜の化石なのだ。
われわれの太陽系はジャングルをかき分けていって忽然と現れる古代の遺跡であり、
今では崩れかけた壁を修理する者も誰もいない廃墟なのである。
(もちろん地球のようにダイナミズムを維持している個々の天体はある)
つまり、現在の太陽系においてニュートン力学の決定論が成り立つのは、
かつて満ちていたであろう水素ガスや微小天体がいまや希薄になったからである。
よく太陽系の運行をビデオに撮り、逆回ししても状況は変わらない。
そしてそれゆえに運動方程式は時間反転に対し対称であると言われている。
しかし、もしビデオテープに流れ星が映っていたならば、逆回しの映像は明らかに不自然である。
その意味ではチリやガスは時間の素であり、時間の矢なのである。
太陽系はチリやガス(媒質)から生まれ、育まれた。
そもそも媒質が時空そのものであることは明らかである。
例えば水を凍らせると近似的に時間は止まる。そしてそれを利用したのが冷凍食品だ。
あるいは水そのものを取り除いても時間は止まる。そしてそれを利用したのが乾燥食品である。
密封したカップ麺は時間の流れが停止している。
しかし蓋を開け、お湯を注ぎ込むと時間の流れが生じる。もはや食べるしかない。
よく時間は幻想だとか、パラメータの一種に過ぎない等と言われるが、
俺に言わせるならば時間こそが唯一の実在なのである。
天文学者は星の一生という言葉を使う。あるいは宇宙のどこそこに星の赤ちゃんを見つけたと報告する。
星に誕生の瞬間があり、さらに成長、進化があり、そして最終的に死を迎えるならば、
それを生命系と言わずに何と呼べばいいのだろうか?さらに星は世代交代をする。
つまり、我々の地球に存在する鉄より重い元素は超新星の爆発により造られたと言われている。
さて、もし天文学者が天体に対して生命用語を使うのが単なる便宜上の比喩でしかないのならば、
天文学者はテレビドラマの「この番組はフィクションであり、実在のものとは関係ありません」
というテロップに倣って、「我々が生命用語を使うのは単なる比喩であり、実際の生命とは何の関係もない」
と注釈を付けるべきだ。
その状況は素粒子の世界も同じで、例えば素粒子には寿命という属性がある。
さらには生成消滅という言葉は生命系を連想させる。
つまり、無機的な世界とイメージされている物理学も、案外生命用語を多用している。
化学とは電荷(+−)の相殺を扱う学問である。
物理学とは質量(+−)の相殺を扱う学問である。
経済学とはマネー(+−)の相殺を扱う学問である。
ならば負の質量を知らない物理学者とは、電荷の±の一方を知らない
化学者であり、負債の文字を知らない経済学者みたいなものだ。
地上の生物はそこら辺の土くれから自らの体を造り、やがて土に還る。
化学者はどす黒い原油からプラスチックや化粧品や医薬品などの各種製品を造る。
塩素もナトリウムも猛毒である。単体でそれを口に入れるのは危険だ。
しかしそれらが結合した塩は人間にとって必須のモノとなる。
つまり化学者が見かけ上モノを出したり消したりという魔法を使えるのは、
電荷には+と−の量があることを知っているからである。
その様子はマジシャンが、鳩を出したり消したりできるのはテクニックによるものであって、実際に虚空から出し入れしてないのと同じだ。
ところが物理学者は+の質量を相殺すべき−の質量を知らないという。
ならば物理学者の演じる魔術は文字通り種も仕掛けもない、実際に虚空から時計や
ネックレスを取り出したり消し去っていることになる。
すなわち物理学が採用している「場」とはオカルトと親和性が高い世界である。
[水溶液]
酸性 │アルカリ性
H+イオン│ OH-イオン
濃度が高い│濃度が高い
─────┼─────
1 ph7 14
(中性)
塩酸と水酸化ナトリウムの反応式は
HCl + NaOH → NaCl + H2O
あるいは水が電離する様子は
H2O ⇔ H+ + OH-
つまり、化学反応における
A+B→C あるいは C→B+A といった化学式があった場合
AとBあるいはCは全くの別物であるが、だからといって影も形もない
状態から生成わけではなく、実体その物が消滅したわけではない。
生成消滅するのはあくまでも元々の性質であり属性である。
素粒子物理においては、電子と陽電子が対消滅すると光子に、
逆に光子から電子と陽電子が対生成されるとされている。
すなわち、e- + e+ → γ あるいは γ → e- + e+ (符合は電荷)
さて、陽電子等のいわゆる反粒子は負エネルギー解から導出されたわけであるが、
もし反粒子が負の質量をもっているならば、素粒子物理学は一夜にして化学と
同列に扱うことができる。
すなわち、電子(+) + 陽電子(-) → 光子(±0) あるいは光子(±0) → 電子(+) + 陽電子(-)
(符合のプラス・マイナスは質量)
化学者が見かけ上モノを出したり消したりできるのは化学者は電荷には+と−があることを
知っているからである。
ならば物理学に負の質量を導入すると、物理学者は素粒子を実体として把握することができる。
すなわち水が水素と酸素の結合体であるように、光子は電子と陽電子の複合粒子とすればよい。
光子を構造をもった実体と扱うと次のようになる。
●陽電子 ○電子
+(−) −(+)
\/
●○
光子(±0)
()の符合は質量。さらにズームインすると
陽電子 電子
● ○
●○● ○●○
● ○
\ /
●○
●○●○
●○
光子
となる。
上の図は囲碁を援用したものであるが、実際劫は光子の性質をよく表している。
<粒と波の二重性>
○ → ○
○●○ ○B○
●A● ●○●
● ← ●
(無限ループ)
劫は対局者がそれぞれA、Bに石を置くことで、実戦を無視すると無限回往復する。
すなわち白の地であり黒の地でもあり、そのどちらでもあってそのどちらでもない
というまるでパラドックスを絵に描いたようなものだ。
劫は位相数字的におけるメビウスの帯(クラインの壺)である。
すなわち表・裏・表・裏…
さらに論理学における嘘つきのパラドックスである。
すなわちある言及が真・偽・真・偽…
さらに力学的にバネであり、電子回路におけるコンデンサである。
つまり対極にある状態を絶えず往還する、すなわち振動する能力をもつ。
同様に光子も絶えず電子と陽電子の間を揺れ動いている。
すなわち光子の質量は時間平均すると全体的にはゼロであるが、
Δtにおいてはあくまでも正負の質量を有する。
◆GOVXYB0Zcさん
あなたの学歴は?
劫
誰か三行でよろ
26 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2010/10/16(土) 09:13:12 ID:ctkWKaYq
俺はよくわからんのだが
生物物理の
関連事項かな…………?
さよならメコスジ道
>>1-22 ____
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現代物理は最初から負の質量を有り得ないモノと定義している。
ゆえに負の質量は存在しない、実にわかりやすい帰結だ。
それゆえ科学は負の質量を導入した時点において破綻する。
しかし破綻するのはあくまでも科学のパラダイムであって、世界そのものではない。
なぜならもし負の質量を有するモノが現実に存在するならば、それなりの合理性を
もっているはずだからだ。
現代物理における負の質量、負のエネルギーに対する定義が間違っていることを
証明する方法は色々あるが、一例を挙げてみよう。
ニュートン力学における運動方程式は F=ma で表される。
すなわち物体を動かすには重たいモノほど大きな力がいる。もちろん物体は力を
加えた方向に加速する。
そして、もし負の質量をもつ物体があれば F=−ma で表されるとされる。
この数式の意味するところは、力を加えた逆向きに加速されるという事である。
ゆえに、もし負の質量を有する負物質は押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かう、
といった天の邪鬼な性質もつ、もしそんな物体が存在するならぜひとも見てみたいという代物である。
ところで、バネに繋がった錘の運動方程式は F=−kx で表される。
ようするに錘は力を加えた逆向きに加速されるというものである。
ならば F=−ma が負物質の挙動を示すならば、バネに繋がった錘は負の質量をもつのか?w
ということになる。
先ほど、もしそんな物体が存在するならぜひとも見てみたい、と述べたが、
何のことはない、それはバネの性質である。
すなわちバネは押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かう。
ようするに F=−ma は負の質量もつ物体の運動方程式ではない。
そもそもバネ定数kの前にマイナス符合が付くのは、そもそもバネは自然長 L が
安定点だからである。
すなわちバネを振動させるためには力を加えて位置エネルギーを高めなければならない。
しかしもし最初から位置エネルギーの高い状態にあったなら、必ずしもマイナス符合を
付ける必要はない。
それは地上における重力加速度を考えれば分かる。
例えば木になっているリンゴは地表から見れば高いポテンシャルエネルギー状態にある。
そしてリンゴが自由落下する様子は F=mg だ。
しかし、地表にある物体は持ち上げた瞬間上空に吹っ飛んでいくわけはないので
その場合の運動方程式は F=−mg である。
ようするに加速度は力を加えた逆向きに働くということである。
つまり、F=−ma は負の質量を記述する運動方程式ではない。
ところで、空中に放り上げたボールはあたかも重力に逆らったように上昇する。
しかし正の質量をもつボールは減速しながら上昇する。
ところが負の質量をもった物体は水の中の泡粒のように加速しながら上昇するのだ。
なぜなら負の質量にとっては上のほうが安定だからだ。
では負の質量をもつ地球に対して負の質量をもつ物体はどちらに向かうのか?というと、
この場合は下に落ちる。ただしこの場合、負の質量をもつ地球も物体も自らを負とは
呼ばないであろうがw
ようするに、電磁気力の場合、同極同士には斥力、異極の間には引力であるが、
重力は同極同士には引力、異極の間には斥力である。
>>32 >ところで、バネに繋がった錘の運動方程式は F=−kx で表される。
>ようするに錘は力を加えた逆向きに加速されるというものである。
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>>30 >それゆえ科学は負の質量を導入した時点において破綻する。
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/ ⌒ ⌒ \ 具体的にどう破綻するのか示してみろよ
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>>37 じゃあ試しに科学の教科書を、負の質量が存在するという前提で書き換えてみれ、
その場合物理学は負の質量を扱えるのか?
>>38 ____
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/ ⌒ ⌒ \ 負の質量を扱えるなんて言ってないのに
/ (●) (●) \ 書き換えてみろとか何言ってんだこいつ
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モノは高い所から低い方に落ちる。水は高い所から低い方に流れる。
そして、その行き止まりが(位置)エネルギーゼロの状態。
で、もしゼロよりエネルギーの低いマイナスのエネルギーの領域があったなら、
我々の見るモノ全てがゼロ点を超え、マイナス無限大めがけて落ちていく。
もちろんそんな馬鹿な話はない、と賢明な物理学者は負の質量(エネルギー)を否定している。
俺もその点は同意する。しかしそれゆえ負の質量は存在しない、ということにはならない。
そもそも負の質量のベクトルがマイナス無限大に向いていると誰が決めたんだ?
誰か実験で確かめたのか?単なる恣意的概念じゃないのか?
ようするに、正の質量も負の質量もそのベクトルはゼロ点に向いているとすれば、
負の質量(エネルギー)を否定する理由はどこにもないと言うことだ。
科学はこの宇宙からエーテル、すなわち媒質を取り去ったわけであるが、
しかしその媒質こそがまさに力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応した世界なのだ。
例えば音波は大気の疎密である。すなわち正圧と負圧が交互に絡み合いながら進む。
つまり正圧も負圧もそのベクトルは1気圧に向かい、負圧があったからといって
地上の大気全てが負圧に落ち込むなどということはない。
ガソリンエンジンは負圧を利用して吸気する。すなわちシリンダ内のピストンを押し下げると
自動的に空気が取り込まれる。そのメカニズムは人間の呼吸も同じだ。
ようするに負圧で空気を吸って、正圧で空気を吐き出す。
ならば、もし負圧を否定したとしよう。その場合どうやって空気を吸い込むのか?
まさか外部からポンプで正圧で送り込んでいるわけはない。
ただしその場合時間の逆行という荒技がある。w
すなわち正圧で空気を吐き出し、それをフィルムの逆回し状態にすると出たモノは引っ込む。
そしてそれを実際にやってるのが素粒子物理の世界だ。
すなわち反粒子は時間が逆行する粒子という概念。
動物は酸素を吸い込み、余分なモノとして炭酸ガスを吐き出す。つまり、呼吸は非可逆的だ。
ならば地上の酸素は一方的に減少し、逆に炭酸ガスは一方的に増加する。
しかし大気の組成はほぼ一定に保たれている。
それは何故か?一つの考え方として遅延解・先進解を使う手がある。
すなわちフィルムの逆回しを利用して人間に対し反人間を導入すればよい。
つまり反人間は炭酸ガスを吸って酸素を吐き出す。
もちろん現実世界において時間の逆行を担っているのは植物の光合成だ。
[呼吸]→
O2 ⇔ CO2
←[光合成]
すなわち呼吸と光合成は過去と未来、原因と結果、すなわち入力と出力が入れ替わっている。
もちろんだからといって因果律に抵触しているわけではない。
つまり、一方の時間が流れるということはもう一方の時間を巻き戻すということである。
それは昔のカセットテープのように、A面を再生することは同時にB面を巻き戻すことである。
すなわちA面でキリギリスが音楽を奏でてる間に、B面では蟻がせっせと時間を貯め込んでいるのだ。
[呼吸]
糖+酸素+水 → 二酸化炭素+水(非可逆)
⇔(可逆)
二酸化炭素+水 → 糖+酸素+水(非可逆)
[光合成]
動物は酸素を第一義、炭酸ガスを第二義、逆に植物は炭酸ガスを第一義、酸素を第二義と
した形態である。
つまり、呼吸は炭酸ガスを余分なモノとして捨て、植物は酸素を余分なモノとして捨てる。
つまり、呼吸と光合成においては酸素と炭酸ガスの役割が実と虚として入れ替わっていて、
数学的に複素共役の関係にある。
もちろんだからといって人間にとって炭酸ガスが不必要と言うわけではない。
何しろビールはビールでなくなるし、ドライアイスがなければ不便だ。
しかし動物にとって酸素がければ致命的だ。確実に死ぬ。逆に植物は炭酸ガスがなければ
自らの組織を作れない。もっとも植物も呼吸をしているらしいが。
結局、呼吸と光合成においては、時間を担う対象それ自体は基本的に非可逆であるが、
空間それ自体は可逆なのである。
つまり、動物の生活環境を時間反転、空間反転したものが植物の生活環境であり、逆も同様である。
もちろん両者は完全に隔離されているわけではなく、重ね合わさっていることは言うまでもない。
さらに時間軸は互いに逆行する実の正負とそれぞれ虚の少なくとも4つの(複素)次元がある。
時間の逆行=フィルムの逆回しというドグマに囚われている人にとっては、呼吸と光合成が
互いに時間を逆行しているという概念は受け入れ難いであろう。
ならばその者は従来通り、遅延解、先進解を使って親殺しのパラドックスに代表される因果律
と格闘していればいいだけの話である。
生物の世界にはいわゆる水と油の関係がある。すなわち親水性と疎水性だ。
身近には葉っぱが水を水滴にして弾く力である。油汚れは水だけでは落ちにくい、
それゆえ両方の性質をもったいわゆる界面活性剤を使うわけである。
さらに生物の細胞膜は親水基と疎水基をもったリン脂質による二重膜構造により造られている。
つまり内と外を隔てているわけである。
電磁気力は同極同士には斥力、異極の間には引力であるが、水と油の関係は似た者同士
には引力、異種の間には斥力が作用するという特性をもつ。
では、物理の世界においてもこのような関係性を見いだせないだろうか。
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37 名前: ご冗談でしょう?名無しさん [sage] 投稿日: 2010/10/16(土) 19:26
統合失調症なんじゃない?
狂ったように長文を書く症状の奴もいるし、言葉のサラダっていうぐらい支離滅裂だし。
病気のせいで本人は完璧な理論だと思いこんでいる。
簡単に言えば基地外。
>>48 >言葉のサラダっていうぐらい支離滅裂だし。
変な日本語w
>>37 お前、解ってレスしてんだろうな?
まあどうでもいいが、物理学が負の質量を扱えないということを説明して挙げよう。
ニュートン力学よれば、運動量、あるいは運動エネルギーは質量と速度の積で表される。
例えば運動量は P=mv すなわち運動量、あるいはエネルギーと速度は比例している。
(数値は定量的でないが)Eが 0 なら速度も 0 Eが 5 なら速度も 5 Eが 10 なら速度も10。つまり物体はエネルギーが大きければ速度も速い。逆にエネルギーを失うと減衰し、やがて停止する。
さて、ではEにマイナス符合を付けると、-E(5)なら速度も 5(マイナス符合を付けてもいいが
その場合は逆向きに運動する ) -E(10)なら速度も 10 -E(∞)なら速度も ∞ となる。
すなわちエネルギーと速度は反比例している。
物理学ではマイナスの世界はゼロよりエネルギーが小さい。すなわち 0 より -5、-5より -10
つまり絶対値の大きな方がポテンシャルが低い。
それゆえ負の質量をもった物体は、水が高い方から低い方に流れるようにマイナス∞目指して速度を
増しながら落ちていくことになる。
すなわち負の質量は減衰すればするほど速度を増すという特性をもっている。
それゆえ物理学はそんなモノは有り得ない、としている。で、俺もそんなモノは有り得ない、としてる。
さて、ここで注意すべきは物理学はミラー対称性を無視していることである。
鏡に映ったもう一人の自分は自分によく似てはいるが何かが違う。
すなわち、鏡の向こう側という異次元の世界にいる自分は右手は左手になり、左手は右手になっている。
右手を挙げると左手を挙げ、右目でウィンクすると左目でウィンクする。
さらに後ろに下がると後ろに下がり、鏡に向かうと向こうにいる自分もこちらに向かってくる。
すなわちベクトルの向きが反転している。
さて、その様子を図を使って説明してみよう。
図1
←時間│ ←時間
−の世界│ +の世界
←● │ ←○
─────┼─────
-∞ -χ 0 +χ +∞
※○は正エネ粒子●は負エネ粒子
つまり、物理学においてはプラス無限大が最もポテンシャルが高く、ゼロ点が最も低い。
さらに、もしマイナスのエネルギーの領域があると、今度はゼロ点が最もポテンシャルが高く、
マイナス無限大が最も低い。それゆえマイナスのエネルギーの領域があると、
我々の見るものすべてがマイナス無限大に落ちていくことになる。
ところが、現実の世界はそうではない。
図2
時間→ │ ←時間
−の世界│+の世界
●→ │ ←○
─────┼─────
-∞ -χ 0 +χ +∞
すなわち、媒質を伝わる音波は正圧も負圧もそのベクトルはゼロ点(1気圧-バネにおける
自然長Lに相当する)を向いている。
ちなみに
図3
←時間 │ ←時間
−の世界│+の世界
逆行○→ │ ←○
─────┼─────
-∞ -χ 0 +χ +∞
時間の逆行という概念を使って、ベクトルを反転させる方法もある。
さて、もし気象学者が図1のように一方的なベクトルを採用したなら、気象学は破綻する。
確かに高気圧は気圧が高い方から低い方に向かう。その結果として下降気流↓となる。
同様に、低気圧もより低い方に向かう↓とすれば自ずと台風になる。しかも下降気流の。
しかし実際の低気圧のベクトルは気圧を高める方向である。すなわち上昇気流↑だ。
あるいは、経済学が図1を採用したとするなら経済学は破綻する。
そもそも金を借りた者は月々そのマイナスの絶対値の数値を減らし、
最終的にゼロにしてきれいさっぱりしたいと思っている。
すなわち借金のベクトルはゼロ点を向いている。
では、もしどこかに金を返さなくてもいいから金を借りてくれ、という金融機関がオープンし、
そして実際に機能したとする。ならば経済学は破綻する。
なぜなら既存の金融機関はすべて潰れるからだ。
つまり、実学と言われているものはすべて図2の論理を採用している。
もちろん現在、物理学が採用しているのは図3である。
しかし図3を裏付ける元になったのはいわゆる先進解である。
それゆえもし先進解、あるいは先進波が発見され確認されたならば、俺の主張は意味を失う。
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/ ⌒ ⌒ \ 何言ってんだこいつ
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_
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/ ⌒ ⌒ \ それは現実の物質が負の質量を持ってないってだけで
/ (●) (●) \ 負の質量を持つ物質が仮に存在したとしたら現在の物理学で扱えないというのとは根本的に違うな
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>>55 >ところが、現実の世界はそうではない。
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/ ⌒ ⌒ \ 現実に負の質量の物質で実験したのか?
/ (●) (●) \ 実験してないけど私はこう妄想してますってだけだろ
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 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二 _|_|__|_
物質と反物質が対消滅すると莫大なエネルギーが解放され、物質と反物質は跡形もなく消え去ってしまう。
それゆえ反物質は存在しない、というのが現代科学のパラダイムだ。
果たして従来疑われることがなかったこの考えは本当に正しいのだろうか?
もちろん物質と反物質、あるいは粒子と反粒子の対消滅は実験事実であり、それを否定するものではない。
しかしそれほど単純なものだろうか?という疑問である。
そもそも物質と反物質の対消滅も燃焼の一種とすると、燃焼には点火エネルギーがいる。
もしそうでなければ、ガソリンスタンドで給油するなど危なかっしくて即禁止だ。
そもそもガソリンはシリンダのような密閉容器内で点火されて爆発するのであり、
それが開放系ならばメラメラと燃えるだけである。
さらに点火エネルギーの障壁は地上に太陽を造り出すことを困難にしている要因だ。
ならば物質と反物質が対消滅すると莫大なエネルギーが解放されるならば、それなりの点火エネルギーが
必要である、という仮説が成り立つ。
つまり、本来正の質量をもつ粒子と負の質量をもつ反粒子は反重力のバリアがあるので混じり合わない。
そしてそれにはニュートンの万有引力の法則が役に立つ。
すなわち重力は近づけば近づくほど急激に強くなるのであるが、同様に反重力も近づけば近づくほど
急激に強くなる。
[重力]
F= -G・M1M2/R^2
_ _
F= -G・M1M2/R^2
[反重力]
_ _
F= G・MM/R^2
質量とエネルギーが同等ならば、高エネルギーのミクロの世界では重力は無視できない。
さて、水と油は混じり合わないといっても生物は水と油から構成されている。
それと同じように物質も粒子と反粒子が複雑に絡み合っている。
つまり、巨視的には我々は反物質を見ることはないが、それは我々の世界においては物質が優位に
立っているからである。すなわち実と虚の関係だ。ならば宇宙のどこかに複素共役のもう一方の片割れ
である反物質が優位に立った領域があるかもしれない。
水と油が混じり合わないならば、水と油は2つの体積に分離するだけである。
しかし我々の身の回りでは両者は複雑に絡み合っている。
つまり、両者を結びつけたり引き離しているのがいわゆる両親性の界面活性剤なのだ。
つまり物理学でいうならば、それが粒子と反粒子の両方の性質を兼ね備えた光子や中間子
などのボソンなのである。
もし反重力なるものが存在すると、そしてそれを制御できるとなれば、それは空を飛ぶ自動車
が実現するのではないか、という夢を膨らますことができる。
しかしそれは現在夢のまた夢であり、青写真すらない。
しかし反重力、すなわち重力に抵抗する力がなければ宇宙の真の姿を描くことはできない。
中間子がクォーク・反クォーク対ならば、なはぜ対消滅しないのか疑問である。
しかし素粒子を実体として捉えると、光子は電子と陽電子の複合粒子であり、中間子は
正のクォークと反クォークの複合粒子である、となる。
すなわち対消滅で消滅するのはあくまでも元々がもっていた属性であって本体ではない。
もっとも、シャボン玉のように破裂して、その本体が消滅する場合もあるだろう。
すなわち物理的には質量のレベルにおいても打ち消される。そしてそれが化学との違いだ。
我々の体を形作るタンパク質は、多数のアミノ酸が結合して連なったものだ。
そしてアミノ酸同士が結合する際、それぞれのアミノ酸から H+ と OH- がとれ、
結果的に水分子一個がとれる。これを脱水縮合という。ちなみにその逆が加水分解。
この脱水縮合反応は糖からでんぷん、植物の体であるセルロースなどの炭水化物、
さらにはペットボトルや衣料品の原料であるポリエステルもこの原理による。
つまり、これらの反応は生物にとっては時空の一単位である水分子一個が関与している。
そして強い力で結びついているわけである。
原子核内では、陽子と中性子が中間子を介していわゆる強い力で結びついている。
ところで、強い力には近づき過ぎると急激な反発力である斥力芯があるとされる。
そしてそのメカニズムは謎である。
しかし、もし反粒子が負の質量をもっているとすると、それこそが反重力のバリアに他ならない。
タンパク質はアミノ酸同士から水分子一個が取れて高分子となっているわけだが、
強い力も時空の一単位である光子一個が取れて(あるいは付加されて)陽子と中性子が連結して
いる可能性が高い。
そもそもアミノ酸は酸と塩基、親水性と疎水性といった相反する性質を合わせもったものである。
そして、原子核における強い力も、粒子と反粒子の対消滅と反重力の複合力であるかもしれない。
それはシェークスピアの悲劇、ロミオとジュリエット効果とでも呼ぼうか。
ところで、俺は F=−ma は負の質量を記述する運動方程式でない、と述べたが、
正確にはポテンシャルのある系では正負の質量を問わず F=−|m|a である。
そもそも F=ma の振る舞いは重力勾配のない世界の話だ。
すなわち平らな床に対して台車を押す場合にはその通りである。
しかし上り坂を台車を押す場合は押した方向の逆向きに加速度が生じる。
そしてそれは色々な場面で誰もが日常経験している事実である。
ポテンシャルがある系と言えば、例えば調和振動子がそうである。
力が加わっていないバネは、自然長Lの状態にある。
言うまでもなくバネを引っ張ると長さが伸びる。
つまりプラスχ方向に伸ばすとその反対方向に復元力が生じる。
逆にバネを押すと長さが縮む。そしてやはり逆向きに復元力が生じる。
すなわち、バネにおいては自然長Lを基準にしてプラスとマイナスの長さが定義される。
それゆえプラスの長さは考えられるがマイナスの長さは考えられない、
と言い張る者は現実主義者を装った非現実主義者に過ぎない。
その様子は質量やエネルギーに対しても言える。
そもそもマイナスの量が意味をもつのは、物理量というものが相殺される量であるからだ。
例えば2種類の電荷は打ち消しあう。
ならば、一方をプラスとすれば一方はマイナスとしなければならない。
その様子は波動場においてより顕著である。
すなわち同位相が重なると加算されて振幅が大きくなるが、逆位相ならば減算されて
フラットになる。
そしてその事情は質量のレベルにおいても例外でない、というのが俺の主張だ。
よく、重力の原因である時空の歪みを表すのに、トランポリンの上にボーリングの玉を乗せる
図を使う。すなわち、時空がすり鉢状に歪んだ状態が重力場を形成するというものである。
図1
____ ____
\○/
 ̄
図2
_
__ _/●\__
\○/
 ̄
しかし、もしスペースシャトルの船内で生まれ育った子ども達が図1を見たならば、
その一義性はなんとも理解し難いに違いない。
彼らにとっては図2のほうが違和感なくすんなりと受け入れられることであろう。
すなわち、ゴム膜が一方向にしか歪まない、などという概念は受け入れ難いに違いない。
そしてそれは実際に、スペースシャトルの搭乗経験者に聞いて確かめれば分かることである。
いや、実際にスペースシャトルの搭乗経験者に聞けば、図2も違和感がある、
と応えるかもしれない。
すなわち、ゴム膜にボーリングの玉を近づけたところでゴム膜は歪まない。
図3
○
―――――――――――
●
つまり、ゴム膜を歪ませるためには何らかの力を加える必要がある。
図4
力 _
__ ↓ _/●\__
\○/ ↑
 ̄ 力
しかしいずれにしろゴム膜は2つの方向に歪む能力をもっている。
ならば、ゴム膜のような二次平面ですら2種類の曲がりをもつというのに、
高次元の宇宙が1種類の曲がりに支配されている、というのではあまりにお粗末である。
水面に、水の表面張力を利用してアーチ状に湾曲させたアルミ片などを浮かべると、
水面はその幾何学的能力に従って2種類の方向に歪む。すなわち上と下。
そして同じ方向の歪みは正負を問わず、歪みを最小にしようとして引力が作用し、
歪みの方向が違うと歪みを保存しようとして斥力が作用する。
<正曲率>
 ̄ ̄∨ ̄ ̄∨ ̄ ̄
→引力←
 ̄ ̄ ̄∨∨ ̄ ̄ ̄
→←
<負曲率>
__∧__∧__
→引力←
___∧∧___
→←
∧___
 ̄ ̄ ̄∨
←斥力→
__∧__
 ̄ ̄∨
← →
一枚の紙を折ったり手でもんだりすると折り目やしわができる。そしてそれは保存される。
しかしゴム膜を折っても手でもんでもしわはできない。それはゴム膜が極めて高い対称性を
もっているからだ。ゴム膜と水面は同じ性質をもっている。
例えば船が去った後、航跡がいつまでも残らないのはそのためである。
つまり、ゴム膜や水面の高い対称性はいわゆるゲージ場の幾何学を記述する空間なのだ。
さて、ゴム膜や水面のような二次平面には2種類の歪みが存在し、そして必然的に
引斥力が生じることが分かった。
ではそれを三次元空間に拡張するにはどうすればよいのか。
それには裏と表の概念を使えばよい。
正のベクトル
A――――――――→
B←――――――――
負のベクトル
まず正負のベクトルをもつ線分A,Bを用意する。
さらに線分A,Bには互いに互いを包囲仕合うという性質をもたせる。
そしてAがBを包囲した状態が粒子であり、逆にBがAを包囲した状態が反粒子である。
すなわちA,Bは表と裏、裏と表、実と虚、虚と実の関係にある。
さて、包囲理論(SURROUND THEORY)の立場からすれば、それを実践しているのが
囲碁というゲームに他ならない。
すなわち1個の黒石を4個(三次元的には6個)の白石で取り囲むと白の地になる。
さらにその共役量として、すなわち裏と表がひっくり返った形態も存在する。
仮にそのそれぞれを電子と陽電子に対応させると、あたかも両者が対消滅(対結合)した
ような図が光子モデルなのである。
陽電子 電子
● ○
●○● ○●○
● ○
\ /
●○
●○●○
●○
光子
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
\_________\
\|__________|
さて、表が青、裏が赤(色は何でも良いが)のテープを用意する。ただしこのテープは
弾性力をもったテープである。弾性体だということは上の図の状態が安定であり、
曲げるには力を加える必要があり、常に平な状態に戻ろうとする性質をもっている。
さて、上の図のテープに力を加えて輪にしたとしよう。
すると、それは囲碁の地と同じように例えば青と赤の面が表と裏に分離する。
包囲理論(SARAUNDO THEORY)の立場からすればそれが粒、すなわち粒子に対応する。
/ ̄\ /||\
/ _ \ /||||||\
|\/ \/| |\/ \/|
|||\_/||| | \/ |
\||||||/ \ /
\||/ \_/
反粒子 粒子
細長いテープを半回転ひねって輪にすると、いわゆるメビウスの帯になる。
__
/ ̄\ /_ \
/ _ \ // \ \
|\/ \//\ \/|
| \_/ /\ \_/ |
\ / \ /
\_/ \_/
メビウスの帯を2色に色分けしようとしてもどこかでぶつかり、せめぎ合う。
メビウスの帯は表(実)であり同時に裏(虚)でもある。
すなわち部分的には裏表(虚実)の区別はつくが、全体的には裏表の区別はつかない。
つまり、位相幾何学(トポロジー)の立場からはメビウスの帯(クラインの壺)は
波動場の量子なのだ。
宇宙の3形態
表(実)
________
\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
裏(虚)
/ \
裏 __ __表
/\ \ /\ \
( ( )))) (((( ) )
\/ / \/ /
 ̄  ̄
反粒子 粒子
\ /
__
表? / _ \
____//_\_\
/_______/
\ \//
\_/ 裏?
光子(ボソン)
光子の反粒子は光子自身である、という描像が正しければ、囲碁の劫は光子そのものである。
○ ○
○●○→○ ○
● ●←●○●
● ●
すなわち劫が絶えず、あたかもバネのように白と黒の間を往還するように、
光子は絶えず粒子と反粒子の間を揺れ動いている。
すなわち時間とは何か?エネルギーとは何か?、という問いの最終解答は、
「劫を取られた側が劫を取り返す行為」に他ならない。
劫は極めて高い対称性(極超対称性)をもっている。しかしそれは天秤が釣り合う
状態でなく、むしろどちらにしろ対称性が破れている。
ようするにどちらにしろ取り返せる、という意味で対称なのである(非平衡的平衡)。
自由空間に置かれた光子は絶えず正負の間を揺らいでいる。
しかし素粒子の周りの光子はその光子がもっている2値のどちらか一方にセットされる。
その様子は囲碁の実戦において、劫を取られた側は一度他の場所に石を置いてからで
なければ劫を取り返せないように、あるいは、水面が異物に対して水の表面張力で歪む
のと同じだ。そして、それが空間が歪むと言うことなのだ。
そして、非対称に歪んだ電子(陽電子)の周りの光子の対称性が回復された状態が
電磁波であり、クォークの周りの非対称に歪んだ光子の対称性が回復された状態が
原子力なのである。
● ○
● ● ○ ○
○●○ ●○●
○ ●
負の質量 正の質量
あるいは
● ○
● ○ ● ○ ● ○
○●○ ●○●
○ ●
負の質量 正の質量
高次元の宇宙を2次元に落とす
メビウスの帯
↓
―/― /-∞|―\―
/――/――|――\
∞ / | ∞
 ̄ ̄/ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄
-SPACE TENSION-
我々の宇宙は位相幾何学におけるメビウスの帯(クラインの壺)である光子で満ち満ちている。
つまり宇宙は光子エーテルで満たされている。
すなわち光子一個は時間と空間の1単位であり、そして最小単位なのだ。
さらに極超対称性粒子(質量の次元においても正負の値をもつ)である光子により
正負の重力場が形成され、この宇宙に引斥力をもたらす。
ちなみに我々の宇宙は実と虚からなる複素体である。
劫という文字を分解すると 去&力 となる。
すなわち劫という文字には過ぎ去っていくものの象徴である時間と、
力であるエネルギーの2つの意味が封印されていたのだ。
つまり劫、すなわち光子は時間とエネルギーの最小単位であり、
そしてまさに時空そのものなのだ。
つまり、我々は探し求めていた聖杯を手にしたということである。
さて、ここに至って宇宙の謎を解くRPGの第1ステージはクリアされた、と言ってもいいだろう。
そしてその攻略法の要点をまとめると、
・ミクロ系とマクロ系には全く別の物理法則が適用される→GAME OVER
・時間の逆行とはフィルムの逆回しである→GAME OVER
・負の質量(エネルギー)のベクトルはマイナス無限大に向いている→GAME OVER
・粒子と反粒子が出会うと対消滅し、跡形もなく消え去る、ゆえに反物質は存在しない→GAME OVER
・粒子も反粒子も正の質量(エネルギー)をもつ→GAME OVER
・光子の質量はゼロである→GAME OVER
・素粒子は構造をもたない→GAME OVER
・エーテルは存在しない→w
文系+オカルトオタク
「劫という文字を分解すると 去&力 となる。」
笑うところか?
いや、そのまんまだが?
>>87 >劫、すなわち光子は時間とエネルギーの最小単位
素粒子が最小単位というのがつっこみ所なんだよ低学歴。
光子が最小単位なら電子とはどんな単位ですか?
あるいはニュートリノとはどんな単位?
>>88 まずは高学歴による何々の最小単位の意味を説明してもらおうか。
例えば生物学者が、生命の最小単位は細胞である。と言った直後に、
細胞は核やミトコンドリア…から構成されている、と述べたら笑いが起きるのか?
あるいは水が水素と酸素に分解できるからといって、液体水素(酸素)を満たした水槽で
熱帯魚を飼えるのか?
>>84 >・ミクロ系とマクロ系には全く別の物理法則が適用される→GAME OVER
>・時間の逆行とはフィルムの逆回しである→GAME OVER
>・負の質量(エネルギー)のベクトルはマイナス無限大に向いている→GAME OVER
>・粒子と反粒子が出会うと対消滅し、跡形もなく消え去る、ゆえに反物質は存在しない→GAME OVER
あたりはそもそもそんな主張は無いし、
>・素粒子は構造をもたない→GAME OVER
は素粒子の定義が意味不明だな
>>89 まずは
>>83がどういう意味で最小単位という言葉を使ったのかを聞くのが先決だろ
最小単位とはそれ以上分割できないということ。仮に分割しても体を成さないこと。
例えばデジカメやディスプレイの画素のようなもの。
つまり、ディスプレイを限りなく升目に区切った場合、画素数以上に分割しても無意味。
そしてその対極にあるのが連続体。
あるいは水の中の生物にとっての空間(時空)の最小単位は水分子一個。
水分子はさらに水素と酸素に分割できるといっても液体水素(酸素)を満たした水槽で
熱帯魚を飼えないのは明らか。その場合水素と酸素は水分子という最小単位の要素。
で、俺は水が水素と酸素の結合体であるように、光子は電子と陽電子の複合粒子としている。
そしてその光子の集団こそが時空そのものであり、光子一個が時空の最小単位。
そもそも既存の理論は、電磁場は光子の集団であり調和振動子の集団であるとしている。
その意味では宇宙が光子エーテルで満たされているという考えはそれほど飛躍したものではない。
ただ違いは既存の理論は連続体を採用している。すなわち連続無限個の調和振動子。
それに対して水であれ大気であれ媒質は原子・分子というドットの集まりなのだから
離散的。
エーテルを捨てた代償として既存の理論は時空連続体に甘んじている。
もっとも、連続体で満足なら俺がとやかくいう言うのは余計なお世話かもしれない。
しかし、そもそも連続体の時空そのものを量子化しようという行為は無理がある。
実際、およそ100年間、世界中の優秀な頭脳が挑戦したにもかかわらず未だに
重力の量子化に成功していない。
いい加減あきらめろってw
重力の量子化はおよそ100年前にエーテルとともに
ゴミ箱に棄てちまった、てことにいい加減気づけよw
※L'(t')=L(t)√1−(v/c)^2
驚くべきことだが、エーテルを否定した特殊相対論はただの一度も実験で検証された試しは
ない、というのが俺の見解だ。ならばおよそ100年間反証されていないのは当たり前である。
例えば地球上空で生成された寿命の短いμ粒子が地表に届くのは、光速近い速度で走る
μ粒子の寿命が延びたからとされる。すなわち※の式にμ粒子の速度を代入すればよい。
しかしこれはローレンツ変換の有効性が確認されただけである。この限りにおいては
エーテル理論も同じだ。
つまり相対論を検証するには※の式に光速近い地球(実際にはそのμ粒子を除く
全宇宙)の速度を代入しなければならない。
つまり実験屋がμ粒子と併走して地球に突っ込み、※の式の通りに地球の大気が
数100メートルに縮んだのを確認しなければならない。
ちなみにμ粒子と併走する実験屋は静止系。
しかしそんな実験がなされた事実はないのだから、相対論による予想はあくまでも仮説だ。
あるいはジェット機に乗せた原子時計は、地上にある原子時計より特殊相対論の予測通り
遅れた、という報告がある。
実際には一般相対論を考慮すると結果的には進むのだが、しかし特殊相対論分の時間の遅れ
は観測されたというものである。
ならばこの実験は特殊相対論が間違っていたことの証明であるとも言える。
なぜなら、特殊相対論によれば、※の変換式にジェット機から見た地球の速度を代入しても
かまわない。つまりジェット機からの視点では動いているのは地球の方なのだから、
地球に置かれた原子時計の時間が遅れる。しかしそのような報告はない。
つまり特殊相対論の予測はハズれたのだから特殊相対論は間違っている。
さて、そのいい訳として、地球を周回するジェット機は厳密には慣性系ではないのだから、
特殊相対論の適用外である。とする見方もできる。
ならば特殊相対論によるとされた時間の遅れは宙に浮く。
しかし考えてみれば、この実験は双子のパラドックスの実写版と言える。
実写版とは変な言い回しだが、かつて思考実験に過ぎなかった双子のパラドックスが
まさに実現されているからだ。
すなわち地上に置かれた原子時計を双子の弟、ジェット機に積まれた原子時計を
双子の兄とすれば、まさに双子のパラドックスそのものである。
ならば、ジェット機に積まれた原子時計の時間の遅れは、ジェット機が離着陸した時の
加速、減速によるものなのか?
しかしいずれにせよ、そもそも特殊相対論の主張である任意の慣性系、
すなわち慣性系A、Bを用意して、互いに互いの時間が遅れる、あるいは互いに互いの
長さが縮む、という実験は存在しないことになる。
実験そのものが存在しないのであれば、反証されるわけがない。
しかし科学哲学の立場からすれば、反証可能性のないものは科学とは呼べない、という
過激な見方もある。
つまり、現在科学者がやってることは、μ粒子などの宇宙線にせよ、加速器(慣性系では
ないのは明白であるが)における
電子などの素粒子にせよ、明らかに動いているとおぼしきモノの速度をローレンツの
変換式に代入しているだけであり、その逆はない。
つまり、マラソンに例えるならば、折り返し地点には確かに特殊相対論は先頭にいた、
しかし特殊相対論がゴールのテープを切った姿を見た者は誰もいない、と言うことだ。
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/ ⌒ ⌒ \ 何言ってんだこいつ
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/ ⌒ ⌒ \ 相間は新しいスレを立てずに今あるスレでやれよ
/ (●) (●) \
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100 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2010/12/06(月) 16:36:10 ID:T9KC+OGK
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/ ⌒ ⌒ \ このスレは生命力学〈Vital Mechanics〉のスレなんだから
/ (●) (●) \ 相間はスレ違い
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/ ⌒ ⌒ \ 自分の理論を展開したいだけなら
/ (●) (●) \ 専用のスレがあるからそっちでやれ
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/ ⌒ ⌒ \ 重複スレだからちゃんと削除依頼出して置けよ
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103 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2011/01/25(火) 11:04:09 ID:B5UnqaK3
晒し上げ!
世界でいちばん絵呂いメコスジ
現在でもアカデミーの世界ではシュレーディンガーの猫は未解決問題なのかな?
S猫はミクロ系とマクロ系を隔てる禁断の壁である。すなわち不用意にこの壁を越えると、
科学はオカルトの総本山の看板を掲げなければなりませんよ、というものである。
最近はよく知らないが、量子力学の通俗書は確率や重ね合わせや不確定性、あるいは
粒と波の二重性、あるいは二重スリットの振る舞い、等々に対し、それゆえミクロの世界は
我々の常識が通用しない不可思議な世界である、というフレーズをウリにしていた。
そして、S猫もまたミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界の仲間である。
ところで、このスレの目的はミクロ系とマクロ系の統一である。
すなわち生命力学の観点からはS猫の謎は解消される。
結論を先に言ってしまえばS猫にミステリーもパラドックスも何もない。
なぜならS猫の仮想実験にはトリックが含まれているからだ。
そもそもミクロ系の対象である放射性原子とマクロ系の対象である猫は1対1の対応がついている。
例えば、特定の一個の放射性原子が何時崩壊するのかは確率でしか記述できない。
ただ多くの集団に対しては半減期のように定量的に語れるだけである。
それは特定の一匹の猫(人間)が何時死ぬかは不確定であるが、より多くの人間を集めると
その国(地域)の平均寿命に収束するのと同じだ。そしてそれは生命保険の手法でもある。
さて、一言で猫と言っても猫は部分からなる全体だ。例えば猫の絵を描くとしよう。
その場合、頭、胴体、足、尻尾、さらに顔に目鼻、ついでにヒゲを加えるといよいよ猫らしくなる。
すなわち猫はそれらの部分からなる全体なのだ。
さらに猫は全身毛で覆われているし、さらに皮膚、肉、骨、脳に五臓六腑、
さらにそれらを繋ぐ神経や血管、そして筋肉ときりがない。しかし最終的に細胞という最小単位にぶち当たる。
もちろん細胞も部分からなる全体だ。
すなわち細胞はDNAを納めている核やミトコンドリヤ等の複雑な構造をもっている。
そして細胞はさらに分子・原子に分解される。
ようするに猫は部分が集まって全体になり、その全体がさらに大きな全体集合の部分になる、
といった階層構造をもっている。もちろん猫が全体集合と言っても猫の集団(社会)から見れば
猫一匹は部分である。
マクロ系の猫が階層構造をもっているように、ミクロ系の原子もまた階層構造をもっている。
すなわち原子は原子核と電子に分割される。さらに原子核は原子番号に応じた幾つかの
陽子と中性子、そしてそれらを仲立ちする中間子に分割される。
さらにそれらのバリオンやハドロンは標準理論によるとクォークへと分割され、
さらに電子やクォークの周りにはいわゆる4つの力を媒介するゲージ粒子が取り巻いている。
さらにそれらのモノは超ひもに分割されるという説もある。
ちなみに超ひもはスーパーストリングと単数形で表されているが、
超ひもも分割されてハイパーストリングスと複数形で呼ばれるかもしれない。
ようするに、部分が集まって全体になり、その全体がさらに大きな全体の部分になる、
という図式は猫も原子も同じなのだ。
ところがS猫において比較されているのは部分と部分ではなく、ましてや全体と全体ではない、
部分集合と全体集合なのだ。
なぜならS猫の仮想実験において、毒ガス入りのビンを割る引き金を引くα線は電子を剥ぎ取られた
ヘリウムの原子核だからだ。さらにそのα線はどこから来たのか?というとラジウム原子が
放出したものだ(その結果としてラジウムはラドンに変わる)。
さらにそのラジウム原子はどこに在ったのか?というと、それは元々1時間以内にα線を放出
するかしないかに調整された微量(微量といっても無数個ある)のラジウム原子の集団である。
ようするにミクロ系からエントリーされているのはあくまでも部分集合の部分集合の
そのまた部分集合なのだ。
そして部分と全体を対応させるならばオカルトが出現するのは当然なのである。
例えば致命的でなければ人間の体の一部が欠損したからといって必ずしも死ぬとは限らない。
実際盲腸や胃、あるいは病巣を切除することは普通に行われている。
つまり、S猫に対比されたマクロ系とは、腹痛で苦しむ人間の盲腸を摘出した意味合いでしかないのだ。
あるいは不幸にして地雷を踏んで左足を失った人がいたとする。
この場合部分と全体を同一視すれば、右足を観測すれば生きてこの世にいる。しかし左足を
観測すれば非存在であり、その人間はあの世にいる、という奇妙なことになる。
あるいは人間の細胞はおよそ60兆個と言われている。
もちろんその中には生まれたてのモノもあれば盛んに活動しているモノもある。
さらに死んでいく細胞もある(老廃物として排泄される)。
この場合も部分と全体を同一視すれば奇妙な結果を得る。
すなわち生きている細胞を観測すればその人間は生きている。しかし死んだ細胞を観測すれば
その人間は死んでいる、ということになる。
もちろん人間の一生はただ一度だけとしても、その内部においては無数の生死のドラマが
演じられているのだ。
ところで、人間の血液の中の赤血球の寿命はおよそ3〜4ヶ月と言われている。
ならば便宜上100日とすると、2400個の赤血球を集めると1時間以内にその中の一個が死滅する
確率は50%である。だとしたら、S猫の仮想実験装置の微量の放射性原子を微量の細胞に
置き換えてもS猫の仮想実験は成立する。
だからと言って、人間とその部分である細胞との間に越えてはならない一線を引く必要があるだろうか?
S猫の仮想実験装置にはさらに別の不備がある。すなわち毒ガスの量だ。
つまり、S猫においては毒ガスが放出されると猫は確実に死ぬという前提になっている。
にもかかわらず蓋を開けるまでは猫の生死は決定されない、などと訳の分からないことを主張しているのだ。
つまり、あらかじめミクロ系には確率が、マクロ系には決定論が成り立つというトリックを忍ばせている。
確かに無防備の猫に致死量を遥かに越えた毒ガスを浴びせれば確実に死ぬだろう。
では猫にガスマスクを装着する、あるいは毒ガスの量を致死量ギリギリに抑えたならばどうなるのか?
その場合死ぬ猫もいるだろう。しかし中にはしぶとい猫がいて、全く平気な猫もいるだろう。
あるいはもがき苦しんでいる猫がいるかもしれない。
結局のところ一刻も早く蓋を開けて猫の生死を確認しなければならない、
というごく当たり前の結論しか得られないのだ。
ところで致死量でググると半数致死量という用語でてくる。
ようするに致死量には個体差があって絶対的な数値は決められない。
そこである量を与えて半数が死に至る量を半数致死量と呼ぶことらしい。
まさに確率と統計の世界である。結局、マクロ系の猫に対してもあらかじめ確率を導入しておけば、
マクロ系の猫に対しても不確かなことしか言えない、という状況に変わりない。
結局S猫の仮想実験は、ミクロ系には確率ありき、マクロ系には決定論ありきなのである。
ならばS猫の仮想実験装置の放射性原子を、確率で記述されるマクロ系の事象に置き換えても
S猫の仮想実験は成立する。
例えばインターネットと毒ガス発生装置をケーブルで繋ぎ、どこどこに地震が起きた、
どこどこに雨が降った、あるいは超新星が発見されたという情報が流れると毒ガスが
発生するようにセットすると、猫の生死はそれらの事象とリンクすることになる。
だからと言ってそれをミステリーと思い悩む必要があるだろうか?
細胞は細胞を維持しようとする免疫系と細胞を破壊しようとする異物や細菌、ウイルスと
いった正負のベクトルの重ね合わせである。
地震がプレートの歪みによる跳ね返り(解放)ならば、大地は歪ませようとする力と解放
されようとする相反するベクトルの重ね合わせである。
地球の大気は高気圧と低気圧、あるいは寒気と暖気の重ね合わせ(前線)である。
天体は重力により一点に壊縮しようとする力と、核融合反応による熱により拡散しようとする
相反するベクトルの重ね合わせである。
つまり天文学者は我々の銀河系において、超新星の出現は数十年に一度あるかないかとしか言えない。
もしミクロ系が我々の常識が通用しない不可思議な世界ならば、量子力学者はピンポイントで
地震が起きる日時と震度、超新星が出現する日時と方向を予測できるはずである。
ならばぜひともやってほしいものである。
さて、言うまでもなくS猫は仮想実験である。
しかし今回の原発の損傷により、仮想実験が仮想でなくなった。
すなわち、まさに我々自身がS猫状態に置かれているということである。
ならば致死量に満たないはずのα粒子一個を猫を死に至らしめるように増幅する毒ガス入り
のビンの役割は何なんだ?
つまり、仮想実験においてはα粒子一個と猫一匹の死が対応している。
しかし現実の世界では原発から放射線が出まくりなのに健康には影響しない、
とアナウンスする。この差異は何なんだ?
もちろんその答えは明らかである。
すなわち本来放射線物質の崩壊も猫の生死も確率と統計でしか語れない。
ただし猫の生死は外的要因によりコントロールできる。そしてそれはS猫で言えば
毒ガスの量である。そしてそれは原子の世界も同じである。
すなわち核物質に浴びせる中性子の量により核反応をコントロールできる(はずだ)。
そしてそれがまさに原発の原理ではないのか?
117 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2011/04/06(水) 00:06:18.99 ID:j8ACezxT
今時シュレ猫なんて流行んねんだよw
. / | \─`-
| /, / / | \
l/ //′ / /l. / ∧ | \ ヽ
/ 〃 / _./-ァ' |/ ,' -H.、 ! '.、 ',
///' ,/ /// j/ / '.| :|l | ヽ |
/' | i´i /:fr≠=r | /ァ=ォ !| | '.|
(⌒ー、 /, ´ヽ|. / N!ら、_リ ,! ' ん, ソ' ! /,ハ ,′ はいはいワロスワロス
\ { __ / l |/ :| ‘ー‐' , ー-'/N// |/
l ∨ y | 'l. |>、._ ーー'_ ノ !ル'
l. './, ,ハ | | ヾミこ彡'ヽ| ||
| .f / ,.'/ ____'. '. _/ ̄ ̄ ̄¨¨¨丶、__, ' ´ ̄ ̄〉
/////レ'´,. -‐-'、,ノ´ v / 7 _/.
{ ( /l/' K「 '´ ̄ ヽ.`) / / r'ーf
俺はS猫(埋葬される運命にある状態と、じゃれて愛くるしい状態にある猫が併存)は
部分と全体を同一視するトリックだと述べた。
だが、だからと言ってS猫を完全に葬り去ったわけではない。
なぜならその論理は、その定義により構造をもたないモノに対しては適用できないからだ。
ところで電子や光子などの素粒子は現在、構造をもたない点粒子とされている。
それゆえ素粒子の世界にはS猫をはびこらせる土壌がある。
もっとも、原子は構造体なのは明らかなのだから、原子レベルではS猫は存在しない。
現代物理においては何も無い真空、あるいはエネルギー最低状態の基底を |0>で表す。
そして生成演算子を作用させて真空を埋めていく。すなわち |n>
それに対して媒質、すなわち水の世界における電荷は |0>であり、|H2O>であり、|±0>である。
コップ一杯の水には想像を絶する電荷が満ちている。しかしそれが水である限り±0である。
水分子は水素と酸素が反応した生成物であり、いわゆるボソンである。
水分子は粒であり、振動する能力を有しているのだから波でもある。
すなわち粒であり波でありそれ以外の何物でもない。
つまり、水分子における重なり合っている排他的2値である水素と酸素はあくまでも部分系である。
電子と陽電子が対消滅すると光子に、逆に光子から電子と陽電子が対生成される。
ならば媒質をモデルに、光子は電子と陽電子の複合粒子とすればよさそうなものであるが、
電子も光子も構造をもたない点粒子とされているのだから、既存の物理ではそれはない。
ならば、例えば光子の反粒子は光子自身と言う時の光子はまさにS猫状態である。
つまり、部分系をもたない光子は絶えず光子全体が粒子と反粒子という排他的2値の間を
揺らいでいることになる。
結局、連続体の場が無限大の困難を内在するように、構造をもたない点粒子という素粒子論は
S猫の存在を内在する。
そして、それゆえにミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、とするか、
それゆえに構造をもたない点粒子として電子や光子を規定している標準理論には限界がある、
とするかは議論の別れるところである。
構造をもたない点粒子という概念が必然的にS猫の存在を許容すると言うことを見てみよう。
例えば医者が、細胞を量子力学的表示で記述したとする。すなわち
|細胞ψ>=|がん遺伝子↑>+|がん抑制遺伝子↓>
実際誰もが細胞にがん遺伝子とがん抑制遺伝子を併存させている。
がん遺伝子があるからと言ってがんになるとも限らないし、がん抑制遺伝子があるからと言って
がんにならないとも限らない。
そのメカニズムは複雑であろうが、要はスイッチオンオフの関係であろう。
すなわち <正常細胞φ|ψ> そしてその複素共役として <がん細胞φ|ψ>
さて、では細胞を構造をもたない点と考えたらどうなるのか?
すなわち粗視化して人間は構造をもたない点である細胞の集まりとするのである。
ならば細胞を|ψ>のように状態ベクトルで記述すると、細胞は生まれながらにしてがんに
冒されている細胞と、絶対にがんにならない細胞の重ね合わせになる。
さらにそれを人間全体に当てはめると、人間は生まれながらにしてがんに冒されている人間と
絶対にがんにならない人間の重ね合わせになる。
ならばがんになっていない人間は、がんに冒されているもう一人の自分はどこにいるんだ?
あるいはがんに冒されている人間は、絶対にがんにならないもう一人の自分はどこにいるんだ?
ということになる。
そしてその解決法として、互いにもう一人の自分は分岐、すなわち多世界解釈で説明しようと
するのは必然の流れなのである。
S猫は猫である必要はない。要は排他的2値があればよい。
例えば猫を裁判に置き換えてみる。すなわちシュレーディンガーの裁判だ。
|判決ψ>=|検察側↑>+|弁護側↓>
言うまでもなく裁判は、裁判の名において検察側も弁護側も部分集合である。
すなわち検察側は罪を重くしようとするベクトルをもち、逆に弁護側は罪を軽くしようと
するベクトルをもっている。
この場合も部分と全体を同一視、あるいは部分と全体が定義できなければ奇妙な結果を得る。
すなわち検察側が裁判そのものならば、そして死刑を求めたならば、被告は死刑だ。
同様に、弁護側が裁判そのものならば、そして無罪を主張したならば、被告は無罪だ。
ならば被告はあの世とこの世を往還しなければならない。
しかし現実には裁判長が判決を言い渡した瞬間(いわゆる波動関数の収縮が起こり)
、刑が確定する。
そして死刑であろうと無罪であろうと懲役何年であろうと、検察側と弁護側の主張が
重ね合わされたものに違いない。だとしたら判決結果はΨである。
さらに判決に不服な方が控訴すれば、そしてそれが認められたならば、刑は再び不確定になる。
結局、S猫は存在しないとするならば、ミクロ系とマクロ系を隔てる禁断の壁は存在
しないのだから、波動関数ψも状態ベクトルも汎用性をもつことになる。
つまり、それはマクロもマクロ、すなわち宇宙全体も波動関数で記述されなければならない。
つまり、我々の宇宙は排他的2値である物質と反物質が実と虚の関係で重なり合っている。
ある意味3Dの世界だ。
すなわち |ψ宇宙>=|物質>+|反物質>
そして我々が認識している世界が <物質優位|ψ宇宙> であり、その複素共役として <反物質優位|ψ宇宙> の世界がある。
床に落として2つに割れた洋皿の片方を拾い上げたならば、そのギザギザにぴったり合う
もう一つの片割れがある。
もし数学が科学の女王ならば、科学の女王は複素共役のもう一方の片割れをどこかに
産み落としているはずだ。
もし数学が信用に足る学問ならば、それはいずれ発見されるであろう。
S猫がマジシャンの、魔術を演じるためのトリックを仕込んだ小道具だとしても、
そこで問われているのは可逆と不可逆の関係である。
我々は生きている猫が死ぬことはあっても、死んだ猫が生き返ることはないと思っている。
しかしもし時間が可逆ならば、死んだ猫もゾンビのように生き返る。
すなわち、例え箱の蓋を開ける10分前に猫が毒ガスを吸って死んだとしても、
そこにゾンビ猫がいるかもしれない。
ところで、ミクロの世界は時間を逆行させると上手く記述されるらしい。
ならば、ミクロ系にはゾンビ化した猫がうようよいるということになる。
さて、このスレの目的がミクロ系とマクロ系の統一であると大きくでたからには、
マクロ系においても時間の逆行が有効である、すなわち時間が可逆であることを
証明しなければならない。
ところで、S猫を解説する書物は判で押したように半死半生の猫は考えられない、
という前提で論理を展開している。
しかしこれは明らかに間違いである。
なぜなら半死半生とは辞書を引くまでもなく実在する状態であるからだ。
すなわち生きるか死ぬかの境界にある様を半死半生というのであり、
どっちに転んでもおかしくない状態である。
つまり、半死半生の猫は考えられない、という前提の下で話を進めるということは、
生命系における日常用語としての半死半生、あるいは定量的意味での半死半生(部分死部分生)
を暗黙のうちに奪っていることになる。
そしてそれは同時に、ミクロ系における生命系のような生と死の中間状態にある
可能性を排除しているということになる。
例えば誰かが交通事故を起こし、多量の出血をしたとする。
もしすぐに発見され、適切な処置をされたならば助かるかもしれない。
しかし発見が遅れ、そのまま放置されたならば命を落とすだろう。
その状態を半死半生と言わずしてなんと言うのだろうか?
あるいは普通風邪で命を落とすとは思わないだろうが、
毎年多くの人間がインフルエンザなどで死んでいる。ようするに、程度の差はあれ、
あの世とこの世の階段に続く踊り場にある状態を我々は病気や怪我と呼んでいるのである。
もちろん、物理学者の言う半死半生とは日常用語としての半死半生ではなく、
定量的意味での半死半生(部分死部分生)でもない。
ようするに医学的に生きている状態と死んでいる状態が明確に区別される対象が
併存しているとするものである。
ならばそれは揚げ足をとるようだが、全死全生の猫は考えられない、と言うべきである。
いや、全死全生の猫も厳密には正しくない。
なぜなら死んだ猫も、DNAさえあれば遺伝子操作で生き返る可能性がないとも言えないし、
生きている猫も定量的に部分系として死んだ細胞を含んでいるからだ。
しかし、日常用語としての半死半生が現実に存在する以上、その対語として
全死全生を使うことにする。
さて、先ほど挙げた交通事故のように重傷を負うということは、
時計の針が狂ったようにグルグルと回り始めるということである。
そして適切な処置をするということは、時計の針に逆向きのトルクをかけることである。
すなわち生命系はあくまでも可逆なのである。
もし生命系が不可逆ならば、病気や怪我が治るなどということはありえないことである。
生まれた人間(生命)が死ぬのは外的であれ内的であれ死の因子(ベクトル)がある
からであり、簡単に死なないのは同時に生の因子(ベクトル)があるからである。
すなわち生命系とは正負のベクトルの重ね合わせなのだ。
死の因子
―――――――→
←―――――――
生の因子
そもそも我々の身の回りには細菌やウイルスなどの病原体が取り巻いているのだから、
その限りにおいては人間は生まれたとしてもすぐに死んでしまうはずだ。
しかし簡単に死なないのは病原体に対して貪欲な白血球や免疫系が機能しているからだ。
生命系が可逆であることのよい証明は、あたかもフィルムの逆回しのような現象が存在することだ。
例えば包丁で指を切ったとしても、ちょっとした傷ならばいつのまにか元の状態に修復する。
つまり、人間の体、組織には元の状態に戻ろうとする復元力があるということだ。
あるいはよく古いビルを爆破して解体する映像があるが、その映像を逆回しすると、ガレキが
スーっと集まってきて解体前の状態に戻るという奇妙な映像になる。
しかしそれが重要文化財ならどうだろう。すなわち何らかの原因で破壊されたとしても、
住民(国民)の合意さえあれば復元する。実際、火災で消失した金閣寺は元の状態に復元されている。
もちろんフィルムの逆回しとは直接には関係ないが。
その状況は今回の震災現場も同様である。
もし生命系が不可逆ならば、ガレキはそのままであり、町は廃墟と化すであろう。
しかし現在ガレキは撤去され始めており、被災地は復興という名の下に甦るであろう。
もちろん同じ状態に復元する必要はないが、新しく生まれ変わるということだ。
つまり、被災地はあくまでも日本という国の部分系なのだから、そこに生と死、
あるいは破壊と再生という排他的2値があっても不思議はない。
さて、もし物理学者の言うS猫が全死全生の猫ならば、放射性原子であるラジウムの状態は
|崩壊しない>+|崩壊する>=|生きている猫>+|死んだ猫>
となる。さらに書き換えると
|生きている猫>+|死んだ猫>=|ラジウム原子>+|ラドン原子+ヘリウムの原子核>
となる。しかしこれは明らかにおかしい。
なぜなら上の式が正しいのならば、ラジウムは絶えずα線を放出し、そして放出されたα線は
絶えず時間を遡ってラドンに吸収されるという過程を繰り返していることになる。
そしてラドンがα線の吸収を停止した時点においてラジウムがα崩壊した、ということになる。
結局、原子核内において重なり合っている排他的2値はあくまでも部分系とすれば
何の問題もない。
すなわち重なり合っている排他的2値とは、α粒子を原子核内に繋ぎ留めている
強い力であり、そしてα粒子が原子核内から飛び出そうとする力である。
そしてしきい値を超えた時にα崩壊が起きるのだ。
ちなみに俺の解釈よれば、強い力とは粒子と反粒子の対消滅と反重力の複合力である。
いずれにせよ原子は構造体なのだから、原子レベルにおいてはS猫は存在しない。
ポケットの中の小銭入れから硬貨を取り出し、親指で弾いて空中に放り上げる。
そして右手でつかみ取った瞬間、表か裏に収束する。
言うまでもなく一枚の硬貨は表と裏から成っている。
もちろんどちらを表と呼ぶかは任意であるが、一応日本国の文字が刻まれた方が表だ。
ところで、一枚の硬貨こそがまさに半死半生の猫ならぬ、半裏半表のコインなのだ。
仮にこれを極ありふれているという意味で「古典的コイン」と呼ぶことにする。
さて、では古典的コインに対する「量子的コイン」とは何なのか?と言うと、
S猫は全死全生なのだから、全裏全表のコイン、ということになる。
ようするに空中に漂っているコインは、表も裏も表側のデザインが刻まれたコインと、
裏も表も裏側のデザインが刻まれたコインが併存している。
そして右手でつかみ取った瞬間、そのどちらか一方、例えば表も裏も両面表側の
デザインが刻まれた面に収束する。これがいわゆるコペンハーゲン解釈である。
さらに、いや、この場合たまたま表側のデザインが刻まれた世界を選択しただけであり、
両面裏側のデザインが刻まれたコインを選択したもう一つの世界がある、すなわち
世界は分岐したのだ、というのが多世界解釈である。
ではコペンハーゲン解釈と多世界解釈のどちらが正しいのか?
というと、それはコインをひっくり返せばわかる。
すなわち、もし上を向いた面の反対側に全く違うデザインが刻まれていたとするならば、
コペンハーゲン解釈も多世界解釈も間違っていたことになる。
そもそも古典的コインは必ずしも古典的ではない。
例えば表側と裏側を青と赤の2色に色分けし、そして机の上に立てて回転させる。
すると紫色に見えるだろう。
さらに指で押さえると青と赤の面のどちらか一方に収束する。
しかし裏と表を何度ひっくり返そうとも紫色はどこにもない。
すなわち排他的2値が重なり合った状態と、そのどちらか一方に収束する現象が
古典的コインにおいて実現している。
そしてそれは日常用語としての半死半生の猫が実在するように、
実在するコインはまさに半分表であり、半分裏であるからだ。
そもそも物理学に裏側という概念はない。
信じがたいと言うべきか当然と言うべきか?
例えば以前レスしたように既存の理論による重力場は常に引力、すなわちゴム膜で
言えば表側しか使っていない。
図1
____ ____
\○/
 ̄
図2
_
__ _/●\__
\○/
 ̄
しかし、もし物理学に裏側の概念が存在するならば、当然図2のように正負の
2種類の重力場、そして引斥力が導かれるはずだ。
あるいは
WORM HOLE
A面/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
↓ ▼ ▼
/ : :
───┬──┬─
↑ └──┘
B面 BLACK BLACK
HOLE HOLE
上の図はいわゆるワームホールであり、BHとBH(WH)を繋げたものだ。
しかし、それはあくまでもA面の世界での話しであり、B面は何の係わりもない。
もし物理学に裏側の概念が存在するならば
・ ┌──┐
EXIT │ │
↓ │ │
/ ̄ ̄│ ̄ ̄△\
/▼ : \
: : \
 ̄│ ̄ ̄│ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│ │ ↓
└──┘ EXODUS
上の図のようにA面とB面を繋げた幾何学構造が考えられるはずだ。
いや、粒子と反粒子は表・裏の関係にあるのでは?と思われるかもしれない。
しかし既存の物理では素粒子は構造をもたない点とされてるのだから、
つまり内部構造をもたないのだから、表・裏は意味をなさない。
強いて表・裏を定義するならば全表全裏である。
例えば構造をもたない光子の反粒子は光子自身と言う時の光子は、
まさに全表全裏、すなわちS猫状態である。
すなわちミクロの世界はゾンビ猫が住まう世界だと言うのだ。既存の理論によると…
素粒子の世界では、反粒子は時間を逆行する粒子とされている。
これはボソンを説明できなかったディラックの海に変わる、負エネルギー解から
導出された反粒子を正の質量に改変するための苦肉の策である。
マクスウェル方程式から2つの解が出る。
そして何故かそれは時間を順行する遅延解と時間を逆行する先進解とされている。
普通物理学者は一方の解を無意味なモノとして無視する。
しかしファインマンは時間の対称性に意味があると考え、先進解を積極的に利用した。
そして、実際反粒子は未来から過去に走る粒子とするとミクロの世界を上手く記述出来るらしい。
しかし、それがマクロの物体ならば当然因果律に抵触する。
ミクロの世界ならば何でも許されるというものでもないだろう。
物理学者は負の質量には冷たいが、こと時間の逆行には寛容なようだ。
さて、陽電子は時間を逆行する電子とすると、そしてそれにより光子の対生成・対消滅が
説明できるなら、まさにそれはS猫のストーリーそのものである。
すなわち生きている猫が時間を順行して死ぬ、そして死んだ猫が時間を逆行して生き返る。
つまり、猫がこの世とあの世を往還する状態が波動場である。
ならば、まさにミクロ系は我々の常識が通用する世界ではない。
これはあまりにも奇妙なので、波動関数は実在しないとも言われている。
翻って生命が住む媒質はミクロ粒子のフィールドである場のような困難はない。
例えば水の世界は電離して酸性の場とアルカリ性の場に分離する。
酸性 アルカリ性
-t→ ←t
────┼────
0 7(中性) 14
すなわち水素イオン濃度が高いのが酸性であり、水酸イオン濃度が高いのがアルカリ性だ。
酸性は金属を、アルカリ性はタンパク質を溶かすという性質をもっている。
さらに酸性の場を好む生命がいればアルカリ性を好む生命もいる。
しかしいずれにせよ、どちらも中性になる方向のベクトルをもっている。
そして、時間を担う水素イオンと水酸イオンは水分子の部分系である。
すなわち、時間の順逆を同じ対象に担わせるならば因果律の問題が発生するが、
媒質においては時間の矢は2本あるのだから、因果律云々は関係ない。
その様子は大気をフィールドとする生命も同じだ。
[呼吸]→
↑ O2 ⇔ CO2 ↓
←[光合成]
動物は酸素を吸い、炭酸ガスを吐くというリズムを刻む。
逆に植物は炭酸ガスを吸い、酸素を吐くというリズムを刻む。
すなわち呼吸と光合成は過去と未来、原因と結果、入力と出力が入れ替わっている。
だからといって因果律に抵触しているわけではない。
この場合の時間の順逆を保証する数学解は複素共役である。
円の一点を一周させた軌跡を平面座標に射影するとサインカーブを描く。
その場合右に回すか左に回すかによって位相が半波長πずれる。
そして、さらに複素平面上に射影したものが複素共役だ。
ある意味呼吸と光合成はエントロピーの増大を互いに消し合っているとも言える。
もし地球上に植物がいなければ、地球温暖化などと生易しいものではなく、
動物はとっくの昔に窒息死していたはずだ(まあ、それ以前に動物は生まれていないかも)。
逆に植物からすれば酸素とは鉄などを赤く壊縮させる毒々しいモノであり、
さらに森林を消失させる悪魔的存在である。
その酸素を植物にとっては有用な炭酸ガスに変えてくれるのだから、
植物からみれば動物は忠実なる僕なのである。
つまり大気の組成は循環している。
そしてそれはあたかもメビウスの帯のように表と裏を往還するねじれた円環だ。
もし呼吸(光合成)が大気を吸って大気を吐き出すものなら、すなわち変数が1つならば、
どちらが過去なのか未来なのかの区別がつかない。
しかし実際には酸素と炭酸ガスという変数が2つある。
つまり呼吸は余分なものとして炭酸ガスを捨て、光合成は余分なものとして酸素を捨てる。
すなわち呼吸と光合成においては酸素と炭酸ガスの役割が実と虚として入れ替わっていて、
まさに複素共役の関係にあるということである。
もちろん動物と植物が互いにエントロピーの増大を消し合っているといっても、
元々は太陽からのエネルギーがあってこその話だ。
さらに元をたどれば水素ガスが重力場により凝集したからだ。
その意味では時間の流れは一方的である。
しかしもし我々はこの宇宙の部分系しか知らないとしたらどうだろう。
すなわち我々は物質優位の世界にどっぷりと浸かっているから時間の矢は一本しか
認識できないのだ。
つまり、もし複素共役のもう一方の片割れである反物質優位(反物質自身は自らを
反物質とは呼ばない、自虐的でない限り)の世界があるならば、時間の矢は互いに
逆行する2本あることになる。
すなわち物質の根源は循環している。
もし我々が茫漠たる宇宙空間を俯瞰できるならば、さらに悠久の時間の流れをビデオの
早回しのように見れるならば、我々は物質優位と反物質優位の世界を往還する波動場と
しての目まぐるしいダイナミズムを見ることになるであろう。
案外観測技術が進展すれば、ある日唐突に宇宙の壮大な交代劇を鑑賞できるかもしれない。
そしてその時我々は目撃するであろう。
宇宙全体に描かれた天井画が次第に色あせていき、全面的に描き直される様を、
ここで断っておくが、俺は何もファインマンの「反粒子は未来から過去へ走る粒子」
というフレーズを否定しているわけではない。ただニュアンスが違うと言っている。
つまり、例えば植物は動物から見れば未来から過去へ走る、としても構わない。
あるいは、サッカーの選手を突き動かしている原動力が相手のゴールポストの中に
ボールを蹴り込みたいという欲求ならば、つまり相手のゴールポストが未来の方向ならば、
相手チームの選手はまさに未来から過去へ走っていることになる。
もしグラウンドに相手チームの選手がいなければ、ひいきのチームは望むだけ、
好きなように点が入るだろう。しかし実際はイライラするほど点は入らない。
それは逆向きのベクトルをもった相手チームの選手がいるからである。↓●○↑
≪可逆空間≫
・ __┏┓_
/未来 過去/
/○___↓-t
/ ↑t ●/
過去 未来 /
_┏-┓___/
≪複素共役≫
・ Im__┏┓_
↓i=√-1 /
/○___↑ /
/ ↑ ●/
Re ih*∂ψ/∂t=Hψ
_┏-┓___/
サッカーの試合においてはひいきのチームが攻撃中は相手チームの防御側が励起され、
相手チームの攻撃中はひいきのチームの防御側が励起される。
時間の流れ○→
攻撃側(実時間)
―――――――→
←―――――――
防御側(虚時間)
相手チームがボールをインターセプトすると時間の矢は反転する。i^2=-1
←●時間の流れ
攻撃側(実時間)
←―――――――
―――――――→
防御側(虚時間)
結局、時間の流れは4種類あるということだ。
すなわち実の正負の方向性、そして虚のそれぞれの2種類である。
もし我々の宇宙が物質だけで構成されているのなら、そして正の重力場という
一方通行の力しか存在しないのなら、物質の形成する重力場は一瞬にして
この宇宙を崩壊に導くであろう。
すなわちエネルギーというものは本質的に暴走するものである。
しかしそのエネルギーの流れを制御するものが有るはずである。
すなわち我々の宇宙においては物質と反物質に働く斥力により時間の流れは制御されている。
〈物質優位〉
正の重力場〈引力〉
―――――――→
←―――――――
虚の重力場〈斥力〉
そしてその複素共役として
〈反物質優位〉
負の重力場〈引力〉
←―――――――
―――――――→
虚の重力場〈斥力〉
そしてそれを記述する数式として
◇ i*ST*∂ψ/∂t=Hψ
_ _
◆-i*ST*∂ψ/∂t=Hψ
ただしSTはSPACE TENSION(空間張力)
以上をもってミクロ系とマクロ系は統一される。
そしてそれは量子重力、あるいは量子宇宙論に他ならない。
test
158 :
雲龍院元信:2011/07/07(木) 20:03:55.11 ID:wYCmbR+g
すみません、まだ若輩モノのためできれば量子宇宙論についての説明をお願いします
シュレーディンガーの猫をアレンジしたものに、ペンローズが紹介したいわゆるペンローズ版がある。
|
|
|
光源―――/――光子検出器-ピストル→猫
↑
ハーフミラー
すなわち、光源から出た光子はハーフミラーを反射する状態と透過する状態の重ね合わせにある。
|ψ>=|↑反射>+|↓透過>
ハーフミラーを透過した先には光子検出器があり、光子を検知するとピストルの引き金が引かれ、猫は死ぬ。
すなわち
|ψ>=|↑生>+|↓死>
つまり、ハーフミラーによってミクロ系にリンクされたマクロ系の猫は、生と死の重ね合わせの
状態ベクトルψにあることになる。
ちなみにペンローズは、量子力学を信じるならば |ψ> をマジに受け入れることはできない、と言っている。
確かに、あの世に逝った猫とじゃれて愛くるしい猫が一匹の猫に併存しているのがミクロ系の実態ならば、
それを素直に受け入れることはできないであろう。少なくともオカルティストでない限り。
それゆえ状態ベクトル|ψ>は実在しないとも言われている。
しかし、そもそもがトリックなのである。
それはオリジナルのS猫と同じトリックである。
つまり、ペンローズはピストルの引き金が引かれると猫は必ず死ぬという状況設定している。
(すなわちマクロ系に対しては決定論)
ではなぜ猫は確実に死ぬのか?
それは猫を身動きできないようにぐるぐる巻きに縛りつけ、さらに猫の急所に銃口を
当て続けているからに他ならない。
ではミクロ系に対してそのような拘束条件を課しているのだろうか?
大体ドラマのヒーローにピストルの弾はなかなか当たらない。
仮に当たったとしても致命傷にはならない。
つまり、ピストルから発射された弾と標的という因果関係からは、まず当たるか
当たらないかの確率が定義される。
さらに仮に当たったとしてもそれが致命傷か致命傷でないかの確率が定義される。
結局、オリジナル版にしろペンローズ版にしろマクロ系に対しては常に決定論が成り立つ、
という前提の下に論理を展開しているのがシュレーディンガーの猫である。
しかし、そもそもハーフミラー自体が反射と透過が50対50になるように造られたモノである。
もしハーフミラーの半メッキを完全にメッキしてしまえば反射と透過は100対0になる。
すなわちハーフミラーは文字通り半死半生の猫であり、全死全生の猫ではない。
あるいはハーフミラーは半裏半表の古典的コインであり、全裏全表の量子的コインではない。
ようするに、オリジナル版にしろペンローズ版にしろ、マクロ系の猫に対しあらかじめ
確実に死ぬように拘束条件を課せば、マクロ系の猫は確実に死ぬと主張しているに過ぎない。
つまりそれは、ハーフミラーをあらかじめ完全に反射するように全メッキすれば、
やって来た光は完全に反射するのと同じだ。
その状況は偏光を分割する、あるいは位相をずらすビームスプリッターも同じである。
そもそも偏光板は偏光した波の一部を透過させるモノであり、
全透過と全遮蔽の重ね合わせでないことは明らかである。
あるいは位相と言えば波長に対し半波長が定義される。
例えばどんな複雑な波形も多くの正弦波(の和として)に分けられる、
というのがフーリエ変換の原理だ。
正弦波は正の位相(山)と負の位相(谷)の単調なくり返しである。
つまり一つ一つの波長は半波長という部分系から成っている。
結局問題は、マクロ系において半分何々で半分何々である、と記述されるモノが、
ミクロ系に遡る過程おいてどの時点でそれが全何々で全何々である、に移行するのか?
という問いである。
さて、上の問いに対する答えは明白である。
すなわちそれは構造をもたない連続体である場と、その場を量子化したとされる
構造をもたない点粒子である素粒子だ。
例えば電磁場を量子化したのが光子である。
しかし構造をもたない光子がなぜ調和振動子としてのバネの性質をもつのか?
あるいは構造をもたない光子がなぜ半波長という部分系をもつのか?
つまりなぜフーリエ展開できるのか?
もっとも光子が粒と波の二重性の粒的側面を表す、とする見方もあるが、
ならば粒と波の二重性は永遠に不可知の領域であり、理解不能である。
ところが媒質の世界にはそのような不可思議はない。
すなわち我々は媒質が何であれ原子の集団であることを知っている。
そしてその原子と原子がバネで繋がったモデルが分子だ。
ようするに媒質は(調和)振動子の集団であり、原子は正弦波、すなわち
サインカーブを描いているのだから、粒であり波であり、それ以外の何物でもない。
いずれにせよ波動というものは最終的に粒的なモノに還元される。
その様子は競技場のウェーブを考えれば分かる。
すなわちウェーブは観客席に陣取る個々の人間が起こす現象だ。
もし波というものが粒に還元されなければ、ウェーブが起きている競技場の観客席には
観客は誰一人としていない、というアナウンサーの意味不明な実況を聞かねばならない。
よくエーテルは波だから必要だとか、光子は粒だからエーテルは必要ない、とか言うが、
エーテルは粒だから必要なのである。これがエーテルの正しい定義だ。
さらに光子は電子と陽電子の複合粒子とすると、その光子の集団こそがエーテルの正体である。
競技場のウェーブが人間という粒的なモノに還元できると言っても、人間はいわゆる剛体ではない。
すなわち人間は少なくとも立つ(伸びる)と座る(縮む)の2値をもっている。
ようするに波動とは質量をもったモノが対極にある状態を加速と減速を交互にくり返しながら往復するものである。
その観点からすると構造をもたないとされる質量ゼロ(実際には質量1として計算している)の光子は、
波動場の量子としての資質が備わっていない。
しかし、もし光子を媒質をモデルにするならば、光子は自ずと粒と波の二重性をもつ。
例えば音波は大気の疎密(密疎)だ。
この場合、一対の正圧と負圧を音の量子とすると、すなわち↓●○↑、
一対の音の量子の質量(密度)は時間平均すると正負の値は相殺されてゼロであるが、
(すなわち1気圧-バネにおける自然長Lに相当する)
Δtにおいてはあくまでも正負の圧力をもつ。
同様に、光子は正質量の○電子と負質量の●陽電子が対になったモノとすると↓●○↑、
光子の質量は時間平均するとゼロであるが、Δtにおいてはあくまでも正負の質量をもつ。
いずれにせよ波動場を調和振動子の集まりとすると、絶対静止ではないにしろ、
自然長Lというエネルギー原点とも言うべき基準系があることは確かである。
現代科学はエーテルを過去の遺物としている。
しかしエーテル否定には明らかな誤謬がある。
そもそもエーテル、すなわち媒質は光の波的側面を説明するためにお呼びがかかったのであり、
そして光は粒的側面をもっているということでチェンジされたのだ。
しかし今日的知見からすれば媒質は粒的側面ももっているのだから、
エーテル否定は正当性を欠いている。
ようするに物理学者がエーテルに突き刺した剣はエーテルの心臓ではなく、
エーテルの幻影だったということだ。
かつて光は粒か波かの論争があった。
この場合光を粒とするとエーテルの存在は必ずしも自明でない。
なぜなら粒それ自身が進んでいくとすればそれを伝える媒質は不要だからだ。
しかし光は波とすると、じゃあその波を伝えるモノは何?、ということになる。
そして、もしそれを伝えるモノが存在するならば、それをエーテルと呼んだのである。
さて、やがて光は波であるとする状況証拠が次々と見つかり、
光=波説が最終的に勝利を納めるかに思われた。
ところが前世紀初頭に、光は粒の性質をもっているといういわゆる粒と波の二重性を標榜する
量子論の台頭があり、媒質の存在を自明としない光の粒説が勢力を盛り返した。
そして物理学者の間に、「光が粒ならエーテルいらなくね?」という雰囲気が蔓延し、
波としての商品価値しかなかったエーテル説は潮が引くように衰退した。
しかしこれは明らかにボタンの掛け違いである。
つまり、本来光に粒的性質が見いだされ時点で、エーテル派は驚喜乱舞すればよかったのだ。
なぜなら今日の知見からすれば媒質が何であれ粒々の集合体だからだ。
つまり、もしエーテルが光の粒的側面を説明できなくて棄てられたのならば、
じゃあ既存の媒質は波的側面だけで記述できるのか?という話になるからだ。
そもそも光、すなわち電磁波と媒質を伝わる波は波長領域で比較するとよく符合する。
我々が普通水の波を見て、それを波と認識するのは比較的波長が長いからだ。
しかし波長の極めて短い超音波は光の性質によく似ている。
例えばコウモリは指向性の強い超音波で外界を認識していると言われているが、
ひょっとしてコウモリは、母親の胎内の胎児を診るエコーの映像のように、
我々が思い描いている以上に鮮明な像で外界を捉えているかもしれないのだ。
あるいは超音波洗浄は振幅ではなく波長に依存する現象である。
すなわちいくら大きな音(振幅が大きい)を当てても短波長成分がなければ汚れは
落ちないが、それが超音波なら落ちる。
その様子は振幅ではなく波長に依存する光電効果とある意味同じだ。
あるいは甲高い声でワイングラスを割るというパフォーマンスがある。
あるいは超音波で結石を破壊するという医療分野がある。
この場合、石が破壊する現象は現象論的には弾丸をぶつけたイメージにより近い。
ようするに超音波はエネルギーがギュッと圧縮されたモノであり、分子結合を
ぶったぎるのに充分のエネルギーをもっているからであろう。
いずれにせよ物体は原子・分子から形成されたモノであり、波を伝える媒質も原子・分子
から成るのだから、単に本性を現したに過ぎない。
さらに、媒質の世界の生成消滅を記述するのが化学だ。
もちろん化学反応を普通生成消滅とは言わないが、原子・分子の性質に着目するならば、
生成消滅という表現もそれほど悪くはない。
電磁波を伝える場と(ところで場って何だ?、電磁波を伝える媒質はダメだが、
電磁波を伝える場はいいのか?)波を伝える媒質はよく似ている。
しかし決定的な違いは場はあくまでも連続体であるが、媒質は構造をもった原子・分子
からなる離散的なモノであることだ。
それゆえ真空が真実連続体ならばエーテルの出番はない。
しかし真空に離散的な兆候が見いだされたならば媒質、すなわちより
バージョンアップされたエーテルは万雷の拍手のもとに凱旋する。
音波を伝える媒質が単に音波を伝えるだけのために存在しているわけではないことは明らかだ。
もちろん人間は大気の振動を利用してコミュニケーションをとっているわけだが、
時として家屋を破壊し、木をなぎ倒す台風やハリケーンもまた大気の仕業である。
つまり、媒質にとって波を伝える能力は媒質の能力の一部でしかない。
ならば、光を伝えると想定されたエーテルが単に光を伝えるだけのために存在する
わけではないとすると、物理学者の4つの力を統一したいという夢は虚しいものがある。
さて、媒質の優位性の一つは力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応していることだ。
例えば地上における音波の疎密は大気圧を基準に定義される。
ところで圧力の単位系には絶対圧とゲージ圧の2種類ある。
絶対圧とは密閉容器の空気を理想的に排した状態、すなわち真空を0とするものである。
つまり絶対的な無、すなわち絶対無の世界であり何もない。少なくとも無以外は。
そしてその容器に空気分子を一個、二個と付加していくことにより圧力は増え続ける。
つまり、0より低いマイナスの圧力は存在しない。
それに対してゲージ圧とは大気圧を0とする単位系である。
つまりゼロと言っても存在する無、すなわち存在無の世界だ。
実際大気は1p^2あたり1sの重さをもっている。
人間の体の表面積をアバウトに2uとすると、人間は2dの応力を受けている。
つまり、人間は小型乗用車10〜20台分の重さを身にまとっている計算になる。
(トランスフォーマーかよ!、っていう話だ)
あるいは数p^2の吸盤は数sの重りを吊り下げることができる。
ようするに大気はそれだけのポテンシャルをもっているということだ。
もちろんそんな重さ、力を感じて生活している人間はいない。
我々が認識できるのは気圧の変化、すなわち1気圧からのズレなのだ。
さて、音波の疎密の密の位相を容器に閉じ込めたとしよう。
すると基準値0である1気圧よりも密度が高い分、見かけ上正の質量をもつ。
そして拡散しようとするベクトルをもち、エネルギーとして解放される。
すなわちまさに質量とエネルギーは等価なのである。
逆に疎の位相は密度が低い分見かけ上負の質量をもつ。
そして収束しようとするベクトルをもち、やはりエネルギーを解放する。
すなわちどちらも実のエネルギーであるが、ベクトルの向きが反対なのだから、
一方のエネルギーを正とするならば一方は負と呼ぶしかない。
↓ ↑
→●← ←○→
↑ ↓
負圧(収束) 正圧(拡散)
ちなみに負圧の位相で発生した泡粒は膨張し、正圧の位相で圧縮される。
すなわち短い周期で膨張と圧縮をくり返し、最終的に破裂するのがキャビテーションだ。
ならば、余談だが、もし真空下でキャビテーションのような現象が見いだされたならば、
それはエーテル理論の有力な証拠になる。
そもそも反粒子はディラックが、特殊相対論と量子力学を結婚させたことによる
負エネルギー解から産み落とされたものである。
ではなぜ量子力学と特殊相対論が結びつく必要があったかというと、
それは電子などのミクロ粒子は光速近くで走っていると思われたからだ。
すなわちガリレイ変換からローレンツ変換への書き換えだ。
しかし結婚指輪がローレンツ変換ならば、量子力学はエーテル説と結びつく可能性もあった。
すなわち未だ見ぬ幻の媒質の量子論の存在である。
ところで、負のエネルギー解が導出されるのは相対論だからというわけではない。
なんでもかんでも相対論のロゴマークを貼るのはよくない。
負のエネルギー解が導出されるのは波動場に特有なものなのである。
そもそも場の量子論は結果的に、孤立してると思われていた電子を空間的広がり、
すなわち電磁場と同じように多体系として扱うものだ。
そしてそれはある意味媒質への回帰である。
さて、波動場から正負の解が導出されるのは明らかである。
例えば光速は c=√1/ε0μ0 から、音速は c=√p(k)/ρ から、
ちなみに弦を伝わる波の速度はc= √T/ρ から導かれる。
すなわち波の速度を表す式は全て同じ形式だ。さらに波の速度は全て平方根である。
平方根であるということは、簡単に、√4が2と-2の正負の解をもつということなのだ。
ならば、プラスの速度は分かるがマイナスの速度は何だ?という話になる。
そして物理学者(数学者か?)はパズルの空隙に遅延解・先進解というピースをはめ込んだ。
遅延解とは普通にサッカーのボールを蹴った時の方程式である。
それに対し先進解とはフィルムの逆回し、すなわち後ずさりする選手の爪先めがけて
ボールが転がるという現実には有りえない、奇妙な方程式である。
普通物理学者は一方の解を無意味なものとして無視する。
しかしファインマンは先進解を積極的に利用し、ボソンを説明できなかったいわゆる
ディラックの海に変わる、負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー(質量)
に改変することに成功した。
ところで、もし波動方程式の正負の解が遅延解・先進解ならば、
じゃあ現実に存在する正の周波数・負の周波数は何なんだ?ということになる。
正負の周波数とは、例えば発電機を左右に回した時に、位相が半波長πズレた波である。
さらにそれを複素平面上に射影したものが複素共役だ。
ようするに、波動における時間の順逆とは半波長の位相のズレのことなのだ。
媒質においては正負の解をダイレクトに使わなければ媒質の世界を正しく記述できない。
すなわち上でレスしたように正圧は拡散しようとするベクトル(→)をもち、
負圧は収束しようとするベクトル(←)をもつ。
すなわち媒質においてはプラスとマイナスの2つの速度が定義できる。
つまり正圧と負圧は互いに時間を順行する状態と逆行する状態の関係にあり、
そして元の状態に戻ろうとする。元の状態とは基準値0である。
もちろんフィルムの逆回しとは直接には関係ない。
ファインマン流の時間の逆行という概念を使うと、負の物理量を代用できる。
例えば音波は空気の疎密(密疎)であるが、すなわち正圧で拡散、そして負圧で収束、
という過程を交互にくり返しながら音波は伝わる。
さて、では負圧は時間が逆行する正圧と定義すると、負圧のポテンシャルは必要ない。
すなわち1/2遅延波で時間を順行して拡散、さらに1/2先進波で時間を逆行して収束、
つまりこの過程を交互にくり返すとやはり音波は伝わる。
そしてそれは実際の音波と数学的にも現象論的にも同じ結果を与える。
(実際には同じではないだろうが)
言うまでもなくこの場合の音波は空気の疎密、すなわち縦波であるから、
拡散と収束を正負の解に対応させたわけであって、粒子と反粒子がそれぞれ拡散と収束の
ベクトルをもっている、という意味ではない。あくまでも例えだ。
正のエネルギー解から導出された粒子も、負のエネルギー解から導出された反粒子も、
どちらも正エネルギー、すなわち正の質量をもっているとされている。
しかし本来負エネルギー解の反粒子が正の質量をもっているということは、
ファインマン流の先進ポテンシャルを使った時間の逆行とセットだということだ。
逆に、もしファインマン流の時間の逆行に対する信頼が失われたならば、
もはや反粒子を正の質量をもつように再解釈する理論はどこにもないということである。
≪複素平面≫
表(実)
________
\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
裏(虚)
__
表? / _ \
___//_\_\
/_______/
\ \//
\_/ 裏?
光子(ボソン)
俺は光子は数学的に、すなわち位相幾可(トポロジー)におけるメビウスの帯
(クラインの壺)であると述べた。
さらに論理学における嘘つきのパラドックスであり、力学的にバネであり、
さらに電子回路におけるコンデンサである。
そしてそれを視覚化したのが囲碁の劫なのだ。
光子は極少のワームホールでもある。
すなわち表であったものが裏に、真であったものが偽に、さらに
勝っている状態から負けている状態に、というように対極にある状態を往復する。
すなわち光子は絶えず電子(粒子)と陽電子(反粒子)の間を揺れ動いている。
では、位相幾可学におけるメビウスの帯が複素平面であるということを説明してみよう。
まずメビウスの帯のある位置に↑の印をつける。そしてその矢印を帯に沿って
移動させる。すると丁度一周したところで↑の印をつけた裏側に到達する。
ただし矢印は↓のように反転している。
そしてさらに一周して初めてスタートした位置に戻り、矢印の向きも一致する。
すなわち一周するということが元の状態に戻ることだ
とすると、メビウスの帯は実質2周しなければならない。
次に単振動する系を見てみよう。
○A
↓|
+ 加|減
速|速
―――↓0↑―――
減|加
− 速|速
|↑
●B
さて、Bの位置にあるバネに繋がった重りは加速しながら0点に向かい、
0点を越えた時点で今度は減速しながらAに向かい、さらに反転して加速しながら
0点に向かう。
つまり、0点にあった重りは+の領域を丁度1往復した時点で0点に到達する。
そしてそれはメビウスの帯をある地点から指でなぞった場合、丁度一周した時点で
スタートした場所とすれ違うのと同じだ。
すなわち、0点にあった重りが元の状態に戻るためには、−の領域をもう1往復
しなければならない。
ところで、単振動は複素平面上の単位円の一点の回転と同相である。
すなわち、メビウスの帯はまさに複素平面そのものなのだ。
光子が位相幾可におけるメビウスの帯(クラインの壺)ならば、
光子は複素数で記述されなければならない。
すなわち光子は絶えず実と虚の間を揺らいでいる。
その様子を理解したければ囲碁の劫をモデルにすればいいだろう。
つまり劫は白の地であり黒の地でもある。
すなわちそのどちらでもあってそのどちらでもない、といった
まるでパラドックスを絵に描いたようなオブジェだ。
さて、今白が劫を取ったとしよう。すなわち白が実で黒が虚。
しかしそれは同時に次に黒に劫を取り返す権利を与えることでもある。
すなわち黒が劫を取り返すとi^2で黒が実(−)となり、白が今度は虚となる。
もちろん、白と黒のどちらをプラスとマイナスと呼ぶかは任意である。
結局、虚数とはエネルギーの巻き上げ、時間の巻き戻しなのだろう。
193 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2011/10/08(土) 20:08:26.61 ID:8epk/7pR
テスト
複素平面における単位円上の軌跡はz=r(cosθ+isinθ)で表される。
すなわち実部と虚部、加速と減速、コサイン波とサイン波が交互に入れ替わる。
ようするに単振動において、加速されて最大速度になった重りは0点を
越えた瞬間減速に転じる。
では減速によって落ちた速度、すなわち運動エネルギーはどこへ行ったのか?
というとそれは位置エネルギーに変換されたのだ。すなわちバネの歪みに蓄えられる。
そして純虚数になったところで重りの速度は0となる。
さらに次の瞬間再び虚数項は実部である加速に変換され、0点で最大速度となり、
0点を越えた時点で再び虚数項が鎌首をもたげる。以後無限ループ。
ようするに、複素平面上の単位円の一点の回転の軌跡は実部と虚部、加速と減速、
コサイン・サインカーブが90度の位相差をもって入れ替わるということである。
バネと錘から成る素朴な機械仕掛けのオブジェが複素平面、すなわち複素数で
表されるならば、現代物理学の倒錯した手法、カラクリが見えてくる。
すなわち物理学では負のエネルギー、負の質量、さらに虚数をまず有り得ないモノ
と定義する。
にもかかわらずミクロの世界はその有り得ないはずの負エネルギー解を使い、そして
数式にこれまた有り得ないはずの虚数iをちりばめる。
それゆえミクロの世界を探求する物理学者は、俺達はこんなにも得体の知れない化け物
と日夜対峙している、という自己陶酔に浸っているのだ。
しかし、それは明らかに滑稽な姿である。
ようするに、負のエネルギー及び質量、さらに虚数に対して正しい定義づけをするならば、
それらはミクロ系マクロ系を問わず普遍的なモノとなる。
例えば虚数の正しい定義は位相を90度ずらす操作、あるいは演算子
(これは普通に言われていることであるが)
さらにはエネルギーの巻き上げ、あるいは時間の巻き戻しである。
とするならば、虚数は有り得ないモノであるという前提は崩れる。
そもそも固有振動するバネと錘は2つの振動する系から成る。
すなわち錘が上下運動する振動とバネが伸び縮みする振動だ。
そして2つの実体は90度の位相差でコサイン・サインカーブを描いているのだから、
複素数で表されるのは当然である。
電気工学の分野では複素数を使う。
それに対し、本来虚数は実在しないが、計算上便利だからという理由で複素数を
使うという見方がある。しかしこれはとんでもない解釈である。
そもそも固有振動する電磁気的なコイルとコンデンサから成るLC回路は、
固有振動する力学的な錘とバネから成る系と同相である。
すなわちバネが自然長Lを基準に伸び縮みすることにより、正負のベクトルをもった
エネルギーを蓄えるように、コンデンサは正負の電荷を蓄える能力がある。
さらにコイルに交流電流を流すと電流を流すまいとする一種の抵抗、すなわち慣性
のような力を生じる。逆に電流が途絶えると、今度は電流を流し続けようとする。
そしてそれは質量をもった錘が慣性をもっているのと同じだ。
さらにコイルとコンデンサ、あるいは電流と電圧は90度の位相差をもって
コサイン・サインカーブを描いているのだから、LC回路が複素数で記述されるのは
当然である。
結局、複素平面において、実軸(コサイン)は錘や電流の運動エネルギーの大小を表し、
虚軸(サイン)はプラスからマイナス、逆にマイナスからプラスに反転する為の
位置エネルギーの巻き上げ、時間の巻き戻し、そしてその解放、再生を表している。
(ちなみに半径rは全エネルギー)
その限りにおいては虚数は実在する。
つまり、虚数は実在しないと言ってる者には、「お前は虚数に対してどんな妄想を
抱いているんだ?」と問うしかない。
虚数というものが実体をともなって初めて意味をもつならば、
むしろ訳が解らないのは、何の実体のない場に対して虚数を使うことだ。
すなわち構造をもたないとされる点の集まりである場のどこをどう探しても
調和振動子のメカニズムを見いだすことはできない。
ただ数学的操作をすると調和振動子と同じ形式に書けるというだけである。
結局はそのメカニズムは媒質をモデルにするしかない。
有り得ないモノと定義しているのは時間の逆行もそうである。
すなわち物理学では時間の順逆に対して遅延解・先進解を当てはめている。
先進解とは明日の新聞を見ることができるならば、株で大儲けできる世界であり、
未来のスポーツ年鑑をゲットしたならば、ジャグジー付きのバスで美女をはべらせる
ことができる世界である。
それゆえ賢明な物理学者は先進解を頑なに拒否する。
ところがにもかかわらず物理学者はその有り得ないはずの先進解を使い、
さらにこれまた有り得ないはずの負エネルギー解の反粒子を正のエネルギー、
正の質量をもつように改変した。
これは明らかに二枚舌である。
もし先進ポテンシャルを使うことが許されるならば、いわゆるタイムマシンを
実現したいと願う者たちに勇気と希望を与えていることになる。
ならば物理学者は彼らに対する責任を負う義務がある。
ここで注意すべきは時間の順逆を保証する数学解は2種類あると言うことだ。
一つは一般的に認識されている強力なドクマであるフィルムの順送りと逆回し、
すなわち遅延解・先進解である。
これはいわゆる親殺しのパラドックスに代表される因果律の問題が発生する。
時間の順逆を保証するもう一つの数学解は複素共役である。
複素共役とは、複素平面上の単位円の半径を反時計回りに回転させるか時計回りに
回転させるかの違いだ。
すなわちそれにより位相が180度ずれる。
ならば一方を正の周波数とするならば一方は負の周波数である。
そして正の周波数をf=1/Tとすると、負の周波数は -f=1/-Tとなり、
時間のtと-tが必然的にでてくる。
複素共役は因果律の問題は発生しない。
すなわち左に回すのも実の力、右に回すのも実の力、どちらにせよ原因があって、
結果として位相が180度ずれた波が生じるだけだ。
もっとも、だからといって何時いかなる場面においても因果の糸を手繰り寄せられる、
というものでもない。
すなわちもつれにもつれて複雑に絡み合った糸をほどくのは容易ではない。
それゆえどこかで断ち切る必要もあるだろう。
つまり何が原因で何が結果か不確定になる。
しかしいずれにしろ因果律を放棄する必要はないし、それについて悩む必要もない。
結局、時間の順逆を保証する数学解のどちらを採用するかによって世界観は変わってくる。
すなわち負エネルギー解から導出された反粒子は正のエネルギー、正の質量をもつ、
とするならば、それは先進ポテンシャルの注意書きをよく読んで、さらに同意した
上での話しなのだから、物理学者は因果律の問題をクリアしなければならない。
しかし複素共役を採用するならば、それは因果律の問題とは無縁なのだから、
物理学者は時間の逆行に対して口ごもる必要はない。
すなわち物理学者は上から目線で一般の人々に、時間の逆流する世界は存在する、
と言えばいいのだ。
そしてそれは俗に言うタイムマシンとは何の関係もない、と言えばいいのだ。
もちろんその代償として、反粒子は正のエネルギー、正の質量をもつ、
という根拠は失われる。
そもそも物理量を複素共役で表すということは、その絶対値、あるいはその2乗を
とることである。ならば -5も5も正の値だ。
その限りにおいては符合の正負を問うてはいないことになる。
例えば波のエネルギーは振幅の2乗とすると、正の位相も負の位相も正の値になる。
音波で言えば正圧も負圧も正のエネルギーをもつことになる。
しかしだからと言って、正反対のベクトルをもつ正負の圧力を同じエネルギーで
くくるのはアバウト過ぎる。
つまり、複素共役においてはその違いを抽出するのが偏角θである。
すなわち左に回すのを+θとするなら、右に回すのが-θだ。
すなわち初期位相によってエネルギーの形態は異なる。
その様子はバネで言えば、最初に伸ばして振動をさせるか、縮めて振動させるかの違いだ。
もし物理量が電荷ならば、磁場の中を通せばその曲がりの方向で正負が分かる。
しかしそれが質量の場合、すなわち陽電子等の反粒子の本当の符合の±は高度な実験を
待つしかない。
ようするに我々が知り得ているエネルギー、質量、運動量は、|E|、|M|、|P|、
かもしれないのだ。
物理量が絶対値、あるいはその2乗といっても、2乗すると負の数になる演算子がある。
すなわちまさにそれが虚数iなのだ。
すなわち虚数とはプラスとマイナスという相反する2つの世界を往還する使者とも言える。
結局、負エネルギー解から導出された反粒子はダイレクトに負のエネルギー及び
負の質量をもっているとすればいい。
ただし注意すべきは、反粒子自身は自らを「そうです、我々は負のエネルギー、
負の質量です」とは言わないということだ。
いや、そもそも自らを反粒子とは呼ばない、自虐的でない限り。
その意味では負のエネルギーは存在しない。
しかし、一方を正とするならば、一方は負とするしかないのだ。
なぜなら両者は相殺しあえる量だからである。
ニュートン力学、あるいはマクスウェル方程式、さらに相対論のように、
いわゆる古典系の物理学は実数で記述されると言われている。
それに対して量子力学を記述するシュレーディンガー方程式は、いきなり
オペラ座の怪人よろしく虚数iの仮面をかぶって登場する。
そして荘厳な、そしておどろおどろしいミクロの世界に我々を誘う。
すなわち複素数で書かれるミクロの世界と、実数で書かれるマクロの世界は別世界であり、
2つの世界は翻訳不能とされている。
ならば、そこら辺に転がっているバネと錘が複素数で表されるのは何なんだ?
という話になる。
ようするに、複素数で書かれることと実数で書かれることと、
それがミクロ系であるかマクロ系であるかは関係ない。
例えばバネと錘の関係で言えば、バネの変位χと錘の位置χは同じだ。
それゆえχを時間軸に沿ってプロットすると同じ1つの波になる。
しかしエネルギーの大小をプロットすると、位置エネルギーと運動エネルギーは
反比例の関係にあるのだから、位相がπ/2ずれた2つの同一波形が出現する。
もっとも、位置エネルギーと運動エネルギーを足した全エネルギーは(±)の実数になる。
その様子は我々が普段見慣れている水の波も同じだ。
すなわち水面を伝っていく波紋はただ1つの正弦波を描いている。
しかし、もし位置エネルギーと運動エネルギーのフィルターを通して水の波紋を
見るならば、やはり互いにπ/2ずれて上下する2つの同一波形を見ることになる。
さて、波動というものが基本的に実数でも虚数を含んだ複素数でも記述できるならば、
当然電磁波も複素数で記述されなければならない。
ところでよく電磁波が伝わる様子を描いた図を見ると、直交した電場と磁場が
位相差なしで描かれている。
しかし、電磁波と言えども復元力をもつわけだから、位置エネルギーと運動エネルギー
をもっているはずだ。
すなわち電場が位置エネルギー、磁場が運動エネルギーを担っていると思われる。
ならば両者はiサインとコサインカーブを描いているはずである。
もちろん全エネルギーは実数であろうが。
212 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2011/11/18(金) 10:40:24.19 ID:5aNz8uyr
電波テロ装置の戦争(始)エンジニアさん参加願います公安はサリンオウム信者の子供を40歳まで社会から隔離している
オウム信者が地方で現在も潜伏している
それは新興宗教を配下としている公安の仕事だ
発案で盗聴器を開発したら霊魂が寄って呼ぶ来た
<電波憑依>
スピリチャル全否定なら江原三輪氏、高橋佳子大川隆法氏は、幻聴で強制入院矛盾する日本宗教と精神科
<コードレス盗聴>
2004既に国民20%被害250〜700台数中国工作員3〜7000万円2005ソウルコピー2010ソウルイン医者アカギ絡む<盗聴証拠>
今年5月に日本の警視庁防課は被害者SDカード15分を保持した有る国民に出せ!!<創価幹部>
キタオカ1962年東北生は二十代で2人の女性をレイプ殺害して入信した創価本尊はこれだけで潰せる<<<韓国工作員鸛<<<創価公明党 <テロ装置>>東芝部品)>>ヤクザ<宗教<同和<<公安<<魂複<<官憲>日本終Googl検索
さて、ある意味逆説的であるが、0点から立ち上がるサイン波の前に虚数iが付いて
いるのは極めて重要である。
もしiがなければ風もないのに海は波立ち、地震が起きてないのに津波が押し寄せ、
気圧の変化もないのに嵐が吹き荒れ、机も椅子も人間も車も巨大な岩も、
我々の見るもの全てが宙を舞うことになる。
すなわち0点から立ち上がるサイン波の前のiは、そういう現象は自然には
起こりませんよ、と言っているのだ。
つまり、加速が起きるためには実の力を加えて位置エネルギーを高めなければならない。
例えば木の枝から離れたリンゴが地面に落ちるのは、位置エネルギーの高い状態から
低い状態に移行する過程である。すなわちこれが我々が普段経験、目撃する実時間。
それに対し、地面にあるリンゴが自ずと木の枝に戻ることはない。
ゆえにリンゴに限らず何かが落ちる為には位置エネルギーを高めなければならない。
すなわちこれが虚時間。
よく、リンゴが落ちるのを時間tとすると、-tはフィルムの逆回し、
すなわちこの場合、あたかも重力に逆らって上に向かう現象であるとされている。
しかしそれは本当は時間のtと-tの対称性ではない。
すなわちそれは時間のtと時間のitの対称性なのである。
tとitの対称性とは単に位置エネルギーを巻き上げた分の加速が得られるというものだ。
それはジェットコースターで加速と減速のスリルを味わいたければ、
何らかのエネルギーを注入してコースターをトコトコと高い位置にもっていかねば
ならないことを考えれば明らかである。
ケータイだろうとスマートフォンだろうと、電池が切れると何の反応も応答もしない。
それゆえ充電という過程が不可避であることは言うまでもない。
すなわち充電というエネルギーの巻き上げが虚時間。
そしてそれらの機器を操作するのが実時間。
どちらも電流が流れているに違いないが、一方は絶えず押し上げなければならない。
しかし一方はむしろ止めなければ勝手に流れる。
昔のゼンマイ式時計が時を刻むためには、まずゼンマイを巻き上げなければならない。
ところで力学の基礎方程式は時間のtと-tは対称である。ならばある現象があると、
それを時間反転(一般的にはフィルムの逆回し状態)した現象も起こりえるはずだ。
すなわち巻き上がったゼンマイが解放される方向を過去から未来の時間の流れとすると、
解放されたゼンマイが自ずと巻き上がる方向、すなわち未来から過去へと流れる
時間の流れも存在するはずだ。しかし我々はその一方の時間の流れしか目撃しない。
すなわち時間の矢はなぜ存在するのか?これはやっかいな問題であるとして
エントロピーの増大則で説明している。しかし別にやっかいな問題ではない。
すなわちゼンマイが解放される方向と巻き上がる方向とは時間のtと-tの
対称性ではなく、時間のtとitの対称性だからだ。
ようするにtとitの対称性とは、時計はゼンマイを巻き上げた分の時を刻みますよ、
と言うものである。
すなわち時間に方向、すなわち時間の矢が存在するのはエネルギー、時間は単に
ポテンシャルの高い場所から低い場所に移動する過程に過ぎない。
結局、問題は、誰がゼンマイを巻き上げたのか?という問いである。
結局、宇宙は虚時間から始まった、とするホーキングの主張は正しいのであろう。
もちろん、その主張の詳細の真偽は吟味する必要はあるが、宇宙は虚時間から始まった
とするフレーズは正しいのであろう。
ようするに、問題は、誰が最初に宇宙をポテンシャルの高い状態に、すなわちゼンマイを
キリキリと巻いたのか?ということだ。
そして、もしそうだとしたら、その数学解は複素共役(t,-t)しか有り得ない。
以前別スレに書いたレスを貼っとく
観測問題、例えばマクロ系の物体は客観的観測ができるがミクロ系の対象はつねに擾乱を伴う。
という概念には仕掛けがある。すなわちスケール不変性を破るというトリックだ。
それはどういうことかと言うと、ある特定の文字だけ拡大、縮小が実行されないコピー機のようなものだ。
例えば都市のミニチュアセットがあったとしよう。
その傍らにゴジラのぬいぐるみを着た人間が立っていたとしても違和感はない。
なぜならビルとゴジラは同じスケールだからだ。
しかし生身の人間が立っていたとしたら明らかに不自然である。
なぜなら人間はビルより少なくとも一桁小さいからだ。
観測問題もそれと同じである。
すなわち観測問題においてスケール不変性を破っているのは観測手段である光子である。
つまり、観測問題においてはマクロ系にも光子を使い、ミクロ系にも光子を使っているのだ。
もっとも光子というものが、
マクロ系、ミクロ系に対し中立的立場にあるのならばとやかく言うつもりはない。
しかし実際はそうではない。
なぜならミクロ系の住人である電子と光子はどちらも素粒子であり仲間であるからだ。
しかしわれわれが認識する外界は原子が無数に集まったモノであり、素粒子とは階層が違う。
それゆえマクロ系においては客観的観測ができるが、ミクロ系に対しては常に擾乱を伴う、
というのはバットでボールを叩くとあらゆる方向に飛んでゆく可能性があるが、
バットで地面を叩いても地球はびくともしない、と言うようなものだ。
相手のエースの球を打てなくて思い悩む四番バッターはいても、地球を動かせない
と嘆く打者はいないだろう。この命題に挑んだのはアルキメデスぐらいなものだ。
あるいはサッカーの選手がボールの代わりに地面を蹴ったとしても足首を捻挫するだけだ。
だが、だからと言って地球の軌道が永遠に不動であるとは限らない。
すなわち地球に同じスケールの何か、つまり天体をぶつければ地球といえども影響をを受ける。
例えば、仮想的に彗星なり小惑星なりの軌道を変えて月にぶつけたとしよう。
すると当然月には昨日までなかった巨大なクレーターができるわけだから、
百科事典の出版社は改訂版を出さなければならないだろう。
そして一発の砲撃が月を太陽系の藻屑と化してしまうかもしれない。
そしてその時に放出された重力波を観測する事によってわれわれは、
ついさっきまでそこに月があったことを悟るのだ。
つまり、ネズミであろうと人間であろうと、
電子に光を当てるという方法論でもって月を眺めると、宇宙の姿は劇的に変わってしまうのだ。
かつてアインシュタインが嘆いたように。
結局、観測という行為には第一種と第二種の2種類あるということだ。
≪第一種観測≫
電子に光を当てて電子を見ることを観測と呼ぶならば、われわれが光で外界を認識するのは
観測ではない。そもそも夜空を見上げなくとも月を観測できる。
例えば潮の満ち引きを見れば月の存在を確認できる。その場合光を使うが絶対条件でない。
もちろん潮の満ち引きは月の重力場が海水に擾乱を与えたものであることは言うまでもない。
≪第二種観測≫
逆にわれわれが光を使って外界を認識するのを観測と呼ぶならば、電子に光を当てるのは観測でない。
その場合電子や光子、すなわち素粒子ではない階層の異なる何かをぶつけなければならない。
もちろんそのような観測手段があるのかないのか分からない。どちらにしろ現在誰も知らないのだ。
その観点からすれば例えミクロの世界が不確定性原理に支配されていようとも、
第二種観測で電子を観測したならば、不確定性としての客観的観測が可能だと言うことである。
では不確定性の要因は何なのか?
その問いに対する答えはエーテル説の立場からは、すなわち媒質の世界を
徹底させると、例えば音速は絶対的でないからだ。
すなわち音速cは √p/ρ から導かれる。
しかし音速cは圧力と密度の名において一定であるが、それらの値の揺らぎにより
変化する。
同様に、光速度cは √1/μ0ε0 から導出されるが、透磁率や誘電率が絶対的
でなければ変化する可能性がある。
ようするに、我々が知り得ている光速度は平均値に過ぎないかもしれないのだ
その観点からするとミクロの世界の不確定性に対し、その背後には未知の
隠れた変数があるとしたアインシュタインの主張は正しいのかもしれない。
ただしアインシュタインの悲劇は、それが光速度cであることだ。
225 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2012/01/18(水) 19:19:16.12 ID:cmdf7J8X
晒しあげ
226 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2012/01/30(月) 20:17:59.28 ID:lxOSlYTX
さるべーじ
227 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2012/06/19(火) 21:02:09.53 ID:vzk36tZ5
>>1
光子エーテルさん、光子はいらない子みたいですよ!
「光子っていらない子」でググって下さい
ざっと読んだが物事、すなわちモノとコトの区別がついてないみたいだね。
例えばワイングラスはモノ。それが床に落ちて割れる現象はコトでありモノではない。
あるいはM・ジャクソンはモノ(者)であるが、パフォーマンスであるダンスは
表現でありコト、モノではない。
あるいは競技場の観客席に座る人間はモノ(者)であるが、立ったり座ったりして
生じるウェーブはモノの集団行動による現象でありモノではない。
で、そのブログの主はダンスやウェーブはモノではない、とごく当たり前のことを
言っているのだ。
しかしモノとコトは一体であり不可分である。
もしそうでなければ誰もいないはずの隣の部屋から、夜な夜な女のすすり泣きが
聞こえてくる、というホラーの世界になる。
もっとも、現代物理はモノである媒質を否定しているのだから、すなわち光は
媒質なしで伝わるとしているのだから、そのブログの主はある意味真っ正直だ。
そもそも光は粒か波かの論争があった。
図1-粒
←●
図2-波
_∧ ∧ ∧ ∧ _
∨ ∨ ∨ ∨
ニュートンは図1のように光は粒の流れと考えた。
それに対し図2は、光は水の波や音の波のように波長や振動数で語るべき
ものであるとするエーテル派のホイヘンス等によるものである。
やがて、光に波特有の現象とされる回折や干渉が見いだされ、光は波であるとされた。
しかし前世紀初頭に光は飛び飛びの値をもつという量子論の台頭、さらに光電効果や
コンプトン効果のように光はあたかもビリヤードの玉のように粒のように振る舞う、
と考えると上手く説明できる現象も見いだされた。
そしてそれはニュートン流の光の粒説の復活とみなされ、波の象徴とされたエーテルは
その定義により、歴史の表舞台から退場させられた。
しかし図1の描像ではその速度は任意であり、上限がある必然性はなく、
そもそも波動方程式が導出されないのは明らかである。
ところで図1からは波動方程式は出てこないと言ったが、だからといってニュートン力学と
波動方程式が無関係というわけではない。いやむしろ逆である。少なくとも古典論においては。
図3
┃ ∧ ∧ ∧ m
┃_/ / / -●
┃ ∨ ∨ ⇔
図3は調和振動子の模式図であるが、質量をもった錘はニュートンの運動方程式F=ma
に従う。さらにバネによる復元力はフックのバネ定数kと置いてF=−kxである。
すなわち、皮肉なことに、波動現象は対立していたニュートンとフックの共同作用と言える。
図1と図2は一見相容れないが、調和振動子においては質量をもった錘がサインカーブを
描いているのだから、調和振動子は粒と波の姿が共存している。
すなわち粒であり波であり、それ以外の何物でもない。
さて、原子と原子がバネで繋がった分子○…○は(調和)振動子である。
すなわち媒質においては調和振動子としての明確なメカニズムが存在する。
つまり、そもそも回折や干渉が波の特性であるとする描像そのものが怪しいのだ。
確かに○←粒的なモノが干渉するとは考えにくい。
しかし同じ粒的なモノであっても、それが○…○←調和振動子とするなら
粒と干渉は矛盾しない。
すなわち区別すべきは粒か波かではなく、モノとその振る舞い、すなわち状態なのだ。
電磁場は光子の集団であり、調和振動子の集団であると言われている。
しかしこの場合の調和振動子は固有振動、あるいはフーリエ変換で場を展開すると
正弦波が表れ、それが単振動、すなわち数式上は調和振動子と同じと言う意味である。
しかし場自体に調和振動子のメカニズムがあるわけではない。
それゆえサインカーブを見て、それがなんで粒なんだ?と言う疑問はもっともだ。
しかし、もし場を媒質をモデルに置き換えると、
すなわち光子は○電子と●陽電子の複合粒子となり、すなわち●○
つまり光子は粒として還元される。
もっとも既存の物理では電子も光子も構造をもたない点として記述しているのだから
それはない。ないものねだりしてもだめである。
それはエーテルを捨てた代償としてあきらめるしかない。
連続体を採用している場に粒子的描像をイメージすることは困難である。
それは既存の流体力学を考えればわかる。
マクスウェル方程式は流体力学をモデルに作られたと言われているが、
そもそもその流体力学自体が連続体である。
もちろん実際の流体は原子・分子からなる離散的なものであるが、粗視化すると、
すなわち原子・分子をいらない子とすると連続体として扱える。
ようするに連続体として扱えばよく整備された連続体の方程式が使えると言うことである。
流体を巨視的にdiv,grad,rot、さらに圧力や密度のようなスカラー、あるいは
ベクトル、テンソルといった量を微分を駆使して展開すると、飛行機の翼の形状や
自動車の形状をデザインすることができる。
しかしそれが電子レンジの原理となるとお手上げである。
電子レンジは極性をもった水分子がマイクロ波の電場に揺すられるからである、
と説明されるが、連続体の流体力学では水は時としてエネルギーの塊として振る舞う、
としか言えないであろう。
つまり、巨視的には流体は連続体として扱えるが、さらに短波長でズームインすると
原子・分子と言う離散的な構造が見えてくる。
そしてその原子・分子の離合集散を扱うのは、その原子・分子の存在を前提にしている
化学者の領域である。
ところで面白いのは、そのブログの主の記述によると、光子、すなわちフォトン
という用語を使いだしたのはアインシュタインではなく、化学者であるルイスという
人物らしい。偶然と言うべきか、必然と言うべきかw
化学者がモノを出したり消したりできるのは電荷にはプラスとマイナスの量が
あることを知っているからである。
ならば物理学に負の質量(エネルギー)を導入すると、物理学はミクロの世界を
実体として扱える。
そもそも反粒子は負エネルギー解から導出されたものである。
ならば反粒子は素直に負の質量をもっているとすればいい。なんでわざわざ
正の質量に改変しなければならないんだ?というと負の質量は存在し得ないように
定義されているからだ。
ならば存在を許されるように再定義すればいいだけの話である。
ところが物理学は別の道を歩んだ。現在負エネ粒子を正の質量に改変する方法は2つある。
すなわちディラックの海と先進ポテンシャルを使った時間の逆行だ。
どちらもトンデモ中のトンデモである。まあ負の質量よりはましという程度である。
そもそも物理学における虚数、負のエネルギー、あるいは時間の順逆に対する
イメージは、かすってはいるが本質をついているわけではない。
例えばもし仮に虚質量を有する物質があったなら、それはエネルギーを失えば失うほど
加速し、逆にエネルギーを得れば得るほど今度は減速されると言われている。
しかし、これは単にかすっているだけであり、せいぜいファールチップである。
〈複素平面〉
虚軸(位置エネルギー)
↑y
│──┐
│ │
│ │
│ │x
─┼──┴─→実軸
│(運動エネルギー)
上の図は単振動を複素平面に射影したものであるが、錘の運動エネルギーを実軸に、
さらにバネの位置エネルギーを虚軸に取ったものである。
さて虚軸の最大点(絶対値)、すなわち純虚数の時には運動エネルギーはゼロ、
すなわち錘は静止している。逆に虚数の値が減るほど、すなわち位置エネルギーが
減衰すればするほど錘の速度は増す。
さらに錘が減速する過程においては位置エネルギー、すなわち虚軸の値は増加する。
そしてそれは虚数質量をもった物体がもつとされている性質とある意味同じだ。
しかしそれはかすっているだけであって、フェアゾーンにあるのはあくまでも
現実の世界に存在する柱時計の振り子の運動であり、ジェットコースターであり、
その他もろもろ我々が普段目撃している全てのものなのだ。
何度も繰り返すがエーテルというハードが埃を被ったままなのは、そこに波という
ソフトしか組み込まれていないからである。
しかしエーテルが水の波や音の波のようにという類推から想定されたものならば、
水や大気は原子・分子というデジタル量からなるのだから、エーテルのハードには
離散的であるというソフトをインストールしなければ動作しないことは明らかだ。
さらに媒質は本質的にゆらぐ世界である。ならばそこに生じる波の速度が絶対的である
必然性はない。
さらに媒質の世界には自然長Lという基準系がある。
つまり、エーテルに媒質の世界を徹底させると、そしてそれが宇宙の営みと呼応
するならば、エーテル理論は現代科学に重要な位置を占めるだろう。
たとえそれが最初は異端の説であったとしてもだ。
科学の書物ではエーテルはMM実験により否定された、となってるが、
そのような歴史的事実はない。MM実験はエーテルに不利な条件を課しただけである。
しかし別に致命的であったわけではない。
大体現代科学はエーテルを否定したところで、それに変わる疑似エーテルとでも呼ぶべき
「場」を使っている。
場とは空間の各点に定義された量であり多体系である。
すなわち空間の各点にスカラー、ベクトル、テンソルといった物理量が付与されている。
・・・ →→→ ◇◇◇
・・・ →→→ ◇◇◇
・・・ →→→ ◇◇◇
scholar vector tensor
まさに媒質そのものである。
ならば何で電磁波を媒介する媒質がダメで、何で電磁波を媒介する場がいいのかの
合理的な説明が必要であろう。
もっとも場と媒質には決定的な違いがある。
すなわち場は構造をもたない連続体であるが、媒質は構造をもった非連続体である。
それゆえ、エーテルが在るか無いかという問いは、宇宙空間は連続体なのか?
それとも離散的なのか?という問いに置き換えることができる。
すなわち宇宙が真実連続体ならば、それは連続体を標榜する場で記述するしかない。
しかしもし宇宙に離散的な兆候が見いだされたならば、その時にはエーテルの出番である。
自然は連続体である、という思い込みはある意味人間の感性に合っている。
例えばディスプレイは離散的な画素の集まりだが、貪欲な我々はその価値を
画素数の多さに求める。
あるいは画面をスクロールする場合、カクカクしてはストレスが溜まる。
なめらかに動いたほうが絶対にいいに決まってる。
あるいは動画は静止画の連なりであるが、人間の眼、いや脳はたかだか30フレームで
連続体として認識する。もちろんハイスピードカメラのように、さらに時間を微細に
切り刻めば、自然の驚異を垣間見ることができる。
すなわち、自然は切り刻めば切り刻むほど真実に近づくというドグマ、そしてそのツール
としての微分への信仰はある意味当然だ。
しかしだからと言って、じゃあ連続無限個の画素をもつディスプレイはどこにあるんだ?
というとそんなものはどこにも売ってないし今後開発される見込みもない。
さらに今日情報化社会の到来とともに、デジタルの波が押し寄せている。
総務省もアナログ放送を停止したではないかw
かつて大航海時代、天動説から地動説に移行したように、大規模な情報化社会の到来
とともに、我々の認識するあらゆるもののそのベースはデジタルなものに置き換わっている。
そして原子・分子からなる媒質はまさにデジタルの世界であったということだ。
さらに例の大惨事により、自然エネルギーへの関心が高まっている。
自然、すなわち環境は水や大気、そして大地といったまさにエーテルの系譜である。
ならば媒質を否定した理論は、我々の行く末に何の指針も与えない、
今日的には実に寂しい理論なのだ。
エーテルの思想背景はその実在性である。
よくエーテルは理論の辻褄合わせのために想定された架空の存在、と思われている節が
あるがそれは大いなる誤解だ。
すなわちエーテルには液体である水、さらに気体である大気、さらに固体である大地
といった現実に存在するモデルがある。
その意味ではエーテルには実在性という強い制約がある。それゆえ一見不可思議な
現象も合理的な説明が求められる。
それに対して場とは我々の身近に対応するモノがない、あくまでも架空の世界である。
それゆえ場を名乗れば何でも許されるという風潮がある。
つまり、どんなに奇妙奇天烈な解釈も、ミクロの世界は古典的描像では語れない、
という言い逃れができるからだ。
ミクロの世界は古典論では語れない、と言っても、連続量=古典的、離散量=量子的
とするならば、連続体である場は立派な古典論である。
「なに古典論でない振りしてんだよ!って話だ」w
そもそも生命を育む媒質が古典論で記述できないことはちょっと考えれば分かることだ。
よく時空連続体である相対論は重力を量子化していないので古典的と言われている。
すなわち重力を量子化しようとすると無限大に発散する。
しかし無限大の困難を抱えているのは場の量子論も同じだ。
そもそも場の量子論は特殊相対論と手をたずさえて進展したのだから根っこは同じである。
そしてマクロ系には相対論、そしてミクロ系には量子力学、という偉大なる棲み分け
が行われている。
しかしそれは単に連続体である場が普遍的でないことの証しに過ぎない。
すなわち普遍的な理論にミクロ系とマクロ系を隔てる壁は存在しない。
ミクロの世界を記述する数式を不可思議な数である虚数iで装飾すると、
いかにもそこは不条理な世界であり、日常の常識を捨てなさい、というサインになる。
しかしエーテルの思想がその実在性を問うものだとすると、当然虚数も実体を伴って
初めて意味をもつことになる。
──●──0──○──
−x x
さて位相を360°変換するということは、図で言えばxはxそのものであり、
-xは-xそのものである。
さらに180°の位相変換はxを-xに、-xをxに、すなわち対極にある状態の変換だ。
すなわちプラスとマイナスの符号を入れ換える操作である。
では位相を90°変換する操作は何なんだ?ということになる。
虚数とは2乗すると-1になる数、すなわち √-1 である。
ところで虚数を使うことが位相を90°変換する操作、そしてその演算子とすると、
それは先程の数直線上には対応しない。
それゆえ複素平面を考えて、実軸に直行する虚軸↑(↓)を導入することになる。
さて、虚数が実体を伴って初めて意味をもつとするならば、それは我々の現実の世界と
対応していることになる。ではその様子をサッカーの試合で見てみよう。
ひいきのチームの選手がボールをキープすると一方的な方向性であるベクトルが生じる。
すなわち →○ さらにそれの180°の位相変換は相手チームの選手がボールを
インターセプトすることである。すなわち ←●(負のベクトル)
ここで注意すべきは、ひいきのチームの選手が味方の選手にバックパスするのは
別に負のベクトルではないと言うことだ。少なくとも高次の対称性においては。
それは味方の選手にバックパスしたボールと、
相手チームの選手が蹴ったボールの向きが同じとしても、その意味合いが全く違う
ことは明らかだからだ。
さて、では90°の位相変換とは何なのか?すなわち位相を90°ずらす演算子とは?
と言うと、それは互いに相手チーム防御側の選手である。
すなわち防御側の選手は一種の抵抗(インピーダンス)として働く。
つまり防御側の選手はあくまでも抵抗として作用するのであって、ボールをインターセプト
しない限りベクトルの向きは変わらない。
すなわち錘とバネの関係で言えば、ボールをキープして錘のように運動量(エネルギー)
をもっているのが攻撃側の選手であり、その攻撃側の選手に運動エネルギーを与える、
あるいは攻撃側の選手の運動エネルギーを吸収するのがバネ、すなわち防御側の選手である。
ようするに攻撃側の選手は運動エネルギー、そして防御側の選手は位置エネルギーを
もっている。
攻撃側の選手が相手陣内に攻め込むと、相手チームの防御側に押し返されるという力
が生じる。そしてそれはバネを押すと押し戻される力が発生するのとある意味同じだ。
しかしその力はあくまでも √-1である。なぜならそれはベクトルを反転させては
いないからだ。すなわちベクトルを反転させるためには位相をさらに90°変換
しなければならない。
すなわち防御側がボールをインターセプトして初めてi^2でマイナス1となり、
実の負のベクトルとなる。
ようするに、錘とバネからなる系が振動するように、サッカー(スポーツ一般)
の試合においては選手及びボールはこちらとあちらを行ったり来たりする、すなわち
往復運動する。そしてそれが波動場の意味であり、さらに波動場には複素数、
さらに複素共役を使わなければならないことは明らかである。
252 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2012/08/11(土) 11:51:28.37 ID:dql5bN+e
l
メコスジスの鏡
ところで俺は光子は囲碁の劫であると主張しているわけであるが、知的財産の観点
からも計り知れない規模だ。
それゆえ光子は劫であるという図式をしっかりと頭の中に刻んで欲しい。
後でぐだぐだ言ってもやっかいな事態になるのは領土問題を見れば明らかだ。
もちろん科学の基礎理論は万人に共有されるべきものであるが、だからといって他の国、
特に同じアジア圏の人間が同じ主張をし、そしてそれがスタンダードになったとしたら、
お前らはその状況に耐えられるかな?
もっとも今その重大性を認識できないとしても、あるいはこのスレがいずれDAT落ち
したとしても、過去ログ及びキャッシュに残る限りは無問題だが。
媒質を伝わる波、すなわち移動する波源から前方に放出された水の波や音の波はエーテルの
風の分遅く、逆に後方に放出された波はエーテルの風の分速くなるとされる。
←エーテルの風
c+V? →V c-V?
(((( ●))))
果たしてそうだろうか?確かに見た目はそうである。
ならば媒質を伝わる波は逆ガリレイ変換が成り立つという非物理的なものとなる。
ちなみに媒質を伝わる波においてエーテルの風とは、単なるドップラー効果に他ならない。
さて、もしそれが運動物体から放出された粒的なものならば、それは普通の意味で
いわゆるガリレイ変換が成り立つ。
v-V →V v+V
・←――●―――→・
すなわち前方に放出された物体は運動物体の速度分加算され、後方に放出された
物体は減算される。
それに対し、媒質を伝わる波はエーテルの風が吹くのだから、運動物体から放出された
前方の波の速度は減算され、逆に後方に放出された波の速度は加算されるというならば、
まさに逆ガリレイ変換である。
ならば媒質を伝わる波の速度をガリレイ変換に共変にするためには、
→V
(((((●)))))
のように現実の世界とは対応しない真逆なものとなる。
ここで何がおかしいのかと言うと、そもそも空間に局在する粒的なものと空間的広がり
をもつ波的なものを何の操作もなく較べていることだ。
すなわち両者は全く異なる方法論でもって何かを移動させているのだから、両者にまたがる
共通言語を使用しなければならないはずである。少なくとも科学が科学である限り。
すなわちそれはエネルギー、時間といった物理量である。
粒的、すなわち運動物体の運動エネルギーは E=1/2mv^2 で表される。
すなわち物体のもつ運動エネルギーは速度が速ければ速いほど大きい。
つまり、エネルギーと速度は等価であり、速度が速い遅いはエネルギーが大きい
小さいと言い換えても同じだ。
さて、波のエネルギーは振幅の2乗で表される。
ならば振幅が同じならば、波のエネルギーは単位時間における振動数に依存することになる。
ならば移動する波源から放出された前方の波の振動数はドップラー効果により増え、
後方に放出された波の振動数は減るのだから、そしてエネルギーと速度が等価ならば、
前方に放出された波の速度は速いのであり、後方に放出された波の速度は遅いのである。
遅い → 速い
(((((●)))))
その意味では媒質を伝わる波はガリレイ変換に対して共変である。
もっとも今述べた共変とは単にどちらも加減算される量である意味である。
しかしそもそも波には定数cが存在し、特別な意味をもつ。
すなわち定数cに達すると衝撃波が発生し、発散する。
その意味では共変でない。
光速不変はパラダイムの一つに過ぎない。
ならば光速可変というもう一つのパラダイムを構築することができる。
<粒的な速度を測る>
B →V A
|―― L―ー|
C
上図のような方法で長さLの電車の速度を測る場合、観測者CはAが目の前を通過した
時点にストップウォッチを押し、そしてBが目の前を通過した時点で再び押す。
さらにCが速度Vで左右に動きながら電車の速度を計測すれば、電車の速度(相対速度)
は変化する。
<波動の速度>
B →c A
|―― L――|
←C→
正弦波の波長Lを電車の長さに置き換えると、そして観測者Cが動きながらLの
通過時間を計測すると時間は短縮(あるいは遅れる)する。
すなわち周期Tは明らかに可変である。
ならば、速度は距離(長さ)を時間で割った値とすると、すなわちL÷T=λ/t=Vとなり、
光速度は可変となる。
もっとも、光速度不変は実験事実であり、現代科学は光速度不変により構築されており、
それによる不都合はない、と反論されるだろう。
それに対してはパラダイムが違う、と答えるしかない。
すなわち周期Tは可変なのだから、光速度は可変である、というパラダイムだ。
ちなみに観測者が静止していようとも、波長毎に周期Tは違うのだから、どっちにしろ
光速度は不変ではない。
粒的なモノと波の両方にまたがる共通の速度がある。すなわち角速度ωだ。
角速度とは円の一点を回す速度を角度で表したものである。
例えば自転車のペダルを単位時間に1回漕ぐのと2回漕ぐのとではそのスピード、
到達距離が違ってくる。
すなわち努力はあくまでも報われるのであって、角速度が違えば速度ベクトルも違う。
遅い
1回転――→
2回転―――――→
速い
円周の一点の軌跡を2次平面に射影すると正弦波、すなわちサインカーブを描く。
すなわち円の1回転は一つの波長、振動数に対応している。
そして、発電機がそうであるように角速度が速いほど単位時間における振動数は増える。
角速度が速いと言うことはそれだけのエネルギーを投入しているのだから、
振動数とエネルギーが対応しているのはある意味当然だ。
ならばエネルギーの大小と、速度が速い遅いが等価ならば、光速度は一定という
固定概念は捨て去らねばならない。
――→遅い
→) ) ) ) )
→)))))))))
―――――→速い
光速度不変の原理が成立した時代と、高度な情報機器が発達した現代社会とでは
時代背景が違う。
そもそも速度とは何か?と問うならば、それは情報が伝わる速さであろう。
ならば例えばパソコンのCPUの処理速度はクロック周波数に依存していることは(
それだけではないが)誰もが知るところである。
あるいはより短波長の光の方が、より大容量の情報を送ることができるのは、
ネットで動画や音楽をダウンロードする時に誰もが経験していることである。
つまり、高度な情報機器が張り巡らされたネット社会においては、プロである物理学者
よりも先に賢い一般市民の方が光速度可変、すなわち赤い光よりも青い光の方が速い、
という現実に薄々感づくことになる。
それは同じ一枚の紙幣を貰うならば、千円札よりも五千札、さらには一万円札の方が
より嬉しいようなものだ。
もっとも、だからといって、より短波長の光に絶対的価値を置くと言ってるわけではない。
つまり光、すなわち電磁波は波長に応じた性質、役割を担っている。
すなわち歩くよりも自転車の方が速いからといって、部屋中を自転車で走り回る
わけにはいかないし、100m先のコンビニへ行くのにジェット機のエンジンキーを
回す者もいないだろう。
さらには波長が短くなると指向性が強くなり、中継局を介さなければならず、
インフラ整備に莫大なコストが掛かる。
しかし単に速いか遅いかと言えば、より短波長の電磁波が速いのだ。
その意味ではガンマ線が最も速い光、すなわち電磁波であることは言うまでもない。
複素次元による宇宙の幾何学構造
定義1:2次平面は表面と裏面の2つの面から成るとする
2:どちらを表とするかは任意である
図1 3:表を実とすると裏は虚である
A面 4:以上の定義により、2次平面は複素数で表わされる
↑表 __↓________
/ / 図Tにおいて板状の帯は弾性体であるとする。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 裏↓ 弾性体であるということは曲げるには力を加える必要があり、
/ \ ↑B面 常に元のまっ平ら状態になろうとする復元力が働いている。
/ ̄\ / ̄\
/ _↑ \ / _↓ \ さて、帯状の板に力を加えて輪にするとA面とB面は外側と内側に
|\/ \/ | |\/ \/ | 分離され、閉じた系になる。
| \_/ | | \_/ | さらにどちらを表にするかにより、互いに共役な2種類の量を
\ ↓ / \ ↑ / 作れる。
\_/ \_/ 図2において、輪にすることにより加えた力は自己エネルギー
反粒子 粒子 (静止エネルギー)として保存している。
\ /
_
/ ̄\ / _ \
/ _ ↓\// \↑\
|\/ \// \ \/|
| \_/ /\ \_/ |
\ ↑ / \ ↓ /
\_/ \_/
光子(ボソン)
帯状の板の一端を180゜ひねって輪にするといわゆるメビウスの帯になる。
帯の任意の位置に印(↑)をつける。さらにその↑を帯に沿って平行移動させると、↑は
回転しながら進む。
そしてちょうど印をつけた裏側に達した地点で↑は反転して↓になる。
さらに長い道程をへてスタートした位置に戻り、矢印の向きも一致する。
メビウスの帯においては矢印、つまりベクトルは↑↓↑↓のように反転を繰り返す。
すなわちメビウスの帯は波的な性質をもっている。
さらにメビウスの帯は図2と同じく閉じた系なので、空間に粒的なモノとして局在し、
1個2個と数えられる。すなわちメビウスの帯(クラインの壺)は波動場の量子である。
よく複素平面は数学上の道具であり現実の世界には存在しない、という見方もあるが、そんなことはない。
なぜなら今目の前に複素平面であるメビウスの帯というオブジェが実在しているからだ。
ではなぜ複素平面であるメビウスの帯が現実世界に存在するのか?というと、
それは我々の現実世界が複素次元であるからだ。
┳ ┏━━┓
: ↑┃ ┃
: 〓 ┃
: ↓┃ ┃
↓■↑ ┗━━┛
バネ コンデンサ
(この文章は嘘である)←嘘つきのパラドックス
真・偽・真・偽…
_
表? / _ \
___/ /_\_\ ○ ○
/_______/ ○●○ ← ○ ○
\ \/ / ● ● → ●○●
\_/ 裏? ● ●
光子(ボソン)
力学におけるバネ、電子回路におけるコンデンサ、論理学における嘘つきのパラドックスは
同相であり、対極にある状態を往還する。すなわち振動する能力がある。
そしてそれを最も単純にモデル化したのが囲碁の劫なのである。
つまり光子は構造をもっている。すなわち光子には振動するメカニズムがある。
さらに宇宙は光子エーテルで満たされている。
すなわちそれがよりバージョンアップされた新しいエーテルの姿なのだ。
物質創成
●○
←●○●○→
●○
↑
光子は↑を基点に、←→を軸に互いに逆回転できるとする。さて高エネルギー状態に
励起された光子がちぎれんばかりに回転すると光子は←→方向に引き伸ばされる。
●●○○
←●○○●●○→
●●○○
引き伸ばされる長さは加えられるエネルギーに比例する。
↓
●●●●●●●●●●●●●●○○○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○●●●●●●●●●●●●●●●●○
●●●●●●●●●●●●●●○○○○○○○○○○○○○○○○
やがて引き戻される。
→ ←
●●●●●●●●○○○○○○○○
●○○○○○○○○●●●●●●●●○
●○○○○○○○○●●●●●●●●○
●●●●●●●●○○○○○○○○
→ ←
●●●●○○○○
●○○○○●●●●○
●○○○○●●●●○
●○○○○●●●●○
●○○○○●●●●○
●●●●○○○○
そして衝突 ↓
X
/ \
●●● ○○○
●○○○● ○●●●○
●○○○● ○●●●○
●○○○● ○●●●○
●●● ○○○
最終的にクォークの泡粒が創られる
光子の質量はゼロである、それゆえ光は光速度で走る。あるいは光子に質量があると
光は光速度では走れない、などと言われているが、これは何の根拠もない論理である。
そもそも光速度は有限である。一瞬にして宇宙の端から端へと伝わるものではないことは言うまでもない。
光子に質量があると光は光速度では走れない、というのはおそらくは質量をもったモノは決して光の速度
には加速できないというイメージからきているのであろう。
しかし例え光子を粒的なモノに還元したとしても、光子という粒そのものが空間を移動するわけではない。
それとも物理学者は光子を粒的描像ととらえた場合、その粒自身が宇宙空間を飛び交っている
とでも考えているのかな?
ちなみに素粒子論の立場では光子はいわゆるゲージ粒子であり、その長距離力ゆえ、
やはり光子の質量はゼロとしている。
音速は v=√p(k)/ρ から導出される。すなわち復元力と密度(質量)の比から求まる。
音速を表す数式は媒質の密度、すなわち質量が大きければ音速は遅く、逆に質量が小さければ
速くなると言っている。
そして質量0の極限では数式上は √p/0 となり、音速は無限大に発散する。
あるいは調和振動子を表す式は ω=√k/m である。
調和振動子においては質量mがあらわに出てくる。
そもそも調和振動子は模式図的にはバネと重りから成る系なのだから当然だ。
すなわち波動場とは質量を持ったモノが対極にある状態を加速と減速を交互にくり返しながら往復するものである。
この場合も質量0の極限では振動数は無限大に発散する。
もっとも質量項がなければバネは伸び縮みしないだろうが。
ところで電磁場は光子の集団であり調和振動子の集団であると言われている。
ならば光子に質量項がなければ、光子は調和振動子としての資質が備わっていないことになる。
もっとも実際には電磁場は質量1の重りがぶらさがったバネの運動と同等としている。
1という数字は便利な数字であるが、いずれにせよ光子に質量項がなければ、
これは明らかに矛盾している。
しかしこの矛盾は媒質の世界を参照すると解消される。
長さ10cmのバネであろうと長さ1mのバネであろうと自然長L(変位)は0である。
そしてバネを引っ張ると+方向に長さが伸び、逆に押すと−方向に縮む。
すなわちバネにおいては自然長Lを基準に+と−の長さが定義される。
それゆえマイナスの長さは考えられな〜い、などと駄々をこねても無駄である。
ゼロより長さが短ければ、それはマイナスと呼ぶしかない。
さて、地上の音波においてはバネの自然長Lに相当するのが大気の重さであり1気圧である。
すなわち圧力は高い方より低い方が安定だ、と言っても自然に1気圧以下に遷移することはない。
で、基準値0である1気圧を加圧するといわゆる正圧になり、減圧すると負圧になる。
そしてどちらにしろそのベクトルは1気圧に向いている。
さて今定常波を考えると、空間は瞬間瞬間には絶えず正圧と負圧の間をゆらいでいることになる。
しかし時間平均すると正負の圧力は相殺されて基準値0である。
同様に光子も正の質量を持つ電子と負の質量を持つ陽電子が対になったモノとすると、
光子の質量は絶えず正負の間をゆらいでいることになる ↓●○↑
すなわち光子の質量は時間平均すると0であるが、Δtにおいてはあくまでも正負の値を持つということである。
その様子は幾何学的に、すなわちメビウスの帯においては部分的には表と裏の区別はつくが、
全体的には表と裏の区別がつけられないのと同じだ。
あるいは囲碁の劫が部分的、すなわち時間的に白か黒かのどちらかの地にできるが、
劫自身はどちらの地であると主張できないのと同じだ。
そもそも物理量が0であるというのは2つの意味合いがある。
すなわち絶対的に0であることと、見かけ上0であることだ。
前者は文字通り何もない、探すだけ無駄だ。それに対して後者は、例えば電荷のように+と−の量があれば、
そして+と−の電荷が打ち消しあえば、見かけ上0の状態が存在する。
つまり物事を逆に見ると、すなわち質量にも+と−があるとすると、質量0の光子が創れるということだ。
すなわち光子の質量が0であることと、光子がエネルギーを有していることに本質的矛盾はない。
電子が光を放つならば当然陽電子も光を放つ。両者が放つ光が同じはずはない。
すなわち電子が放つ光と陽電子が放つ光は位相が180度ずれている。つまり初期位相が違う。
そしてそれは光子が2つの自由度をもっているからに他ならない。
量子力学と特殊相対論を融合させた理論を相対論的量子力学、あるいは場の量子論という。
しかしこの場の量子論は突っ込みどころ満載である。
そもそも量子力学と特殊相対論が結びつく必要があったのは、電子などのミクロ粒子は光速近くで
走っていると思われたからだ。すなわちガリレイ変換からローレンツ変換への書き換えである。
さらにシュレディンガー方程式は時間に対して1階、空間に対しては2階であるのだが、
相対論は時間と空間を対等に扱う。ゆえに階数をそろえねばならない。
そしてそのシナリオを元に、シュレディンガー方程式のエネルギーEを2次式であるE^2で置き換えて
導かれたのがいわゆるクラインゴルドン方程式である。
ところがである、
kotobankによると、
>クライン‐ゴルドン方程式 【Klein-Gordon equation】
>もともと弾性媒質中にあるしなやかな弦の運動を記述した微分方程式で
(数式略)
>のように書ける.量子力学においては,スカラー中間子(スピンのない中間子)を記述するのに用いられる.
とある。
これはどういうことなんだ?なんかおかしいとは思わないか?
ようするに量子力学に媒質を否定した相対論を取り入れたら、媒質を記述する方程式が導かれたということか?
何のジョークだよw
媒質に無関係な方程式が導かれたなら話は分かるが、そうでないならどこかでボタンの掛け違いを
やっていることになる。
ようするにこの意味するところは、相対論関係なく媒質はローレンツ変換に共変であったということだ。
すなわち媒質こそが時間と空間は一体、すなわち時空そのもであったということだ。
つまり、結婚指輪がローレンツ変換ならば、量子力学はエーテル説と結びつく可能性があったということである。
すなわち未だ見ぬ幻の媒質の量子論の存在だ。
KG方程式から正負のエネルギー解がでてくる。元々エネルギーの2次式なのだから当然だ。
そして物理学者は負のエネルギー解の解釈に頭の毛をかきむしることになる。
すなわちエネルギーはより低い方を好むという物理学の定義により、もし0より低い負のエネルギーの
世界があったなら、我々の見るもの全てがまるで底が抜けたように負のエネルギー無限大目指して
落ちていくことになる。しかしそんな馬鹿な話はない。
ちなみに正エネルギー解に対応する粒子を電子とすると、負エネルギー解に対応する粒子は騾馬電子と呼ばれている。
騾馬電子はエネルギーを失えば失うほど益々元気になる、すなわち速度を増すという奇妙な粒子である。
媒質を否定した相対論と結びついた場の量子論の基礎方程式が、元々媒質を記述するKG方程式である
というのは不自然でありミスマッチである。
実際、媒質の世界に騾馬電子(粒子)に対応する解は存在しない。
そもそも相対論におけるエネルギーの基準点は任意である。強いて最も低いエネルギー原点は
といえば何もないまっさらな真空だ。
それに対して媒質は何かが満ち満ちた世界、すなわち豊饒の海である。
さらに媒質の世界には自然長Lというエネルギー原点である規準系が存在する。
すなわち媒質の世界には初めから騾馬粒子なるものは存在しない。
日常誰もが使う掃除機は、負圧を利用してゴミを吸い取る形態であるが、モーターを回して
実の力を加えていることは言うまでもない。
つまり正負のエネルギー、すなわち圧力は正負を問わずそのベクトルは自然長L(この場合
自然圧Pと呼ぶべきか)を向いている。
すなわち媒質の世界には騾馬電子のような、自然にマイナスの絶対値の大きな方向に向かう
形態は存在しない。
ならば場の量子論が騾馬粒子を許容するならば、場の量子論はKG方程式に変わる、
騾馬粒子を許容する方程式を基礎方程式に置くべきである。もしあるのなら。
ちなみに音速は v=√p/ρ から導かれるが、他の波動方程式と同様にその速度は平方根である。
平方根であるということは正負の2つの解、すなわち+と−の2つの速度が有るということだ。
そして実際、媒質には明確に区別される相反する2つの速度が存在する。
↓ ↑
→●← ←○→
↑ ↓
負圧(収束) 正圧(拡散)
すなわち媒質とは力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応した世界なのだ。
言うまでもなく正の質量をもつ物体はエネルギー準位を落としながら最低点に向かう。
そして物理学ではもし0よりエネルギーの低いマイナスの領域があると、
水が高い方から低い方に流れるように、マイナス無限大の底なしの穴に落ち込むとしてる。
〔物理学のパラダイム〕
+m|─○──正の
|─↓──エネルギー
|────準位
0┼──────
|─●──負の
|─↓──エネルギー
−m|────準位
※○は正エネ粒子 ●は負エネ粒子
負エネルギー解の困難に直面したディラックは、真空は負エネルギーの騾馬電子で満たされていて
、すでに満席であるため正エネルギーの電子はマイナスの世界には落ち込めないと考えた。
そしてディラックの海に空いた穴こそが正の質量をもつとされる陽電子である。
〔ディラック流〕
+m|───正の
|─○─エネルギー
|───準位
0┼─────
|─●─ディラック
|─○──の海
−m|─●───
|─●───
しかしディラックの海はボソンを扱えないので、現在主流でない。
テスト
ファインマンは時間を順行する負エネ粒子を禁止し、時間の逆行というアイデアで
正エネ粒子が負エネ粒子に転化することを防いだ。
すなわち陽電子は時間が逆行する電子らしい。
〔ファインマン流〕
+m|─○─正の
|─↓─エネルギー
|───準位
0┼─────
|─●─↑─
|─↓─○─
−m|─X─逆行
さて、KG方程式が元々媒質の世界を記述する方程式ならば、騾馬電子は架空のモノなのだから、
負エネ粒子を正の質量をもつように改変する必要はない。
すなわち陽電子は素直に負の質量をもつとすればよい。
〔パラダイム転換〕
+m|─○─正の
|─↓─エネルギー
|───準位
0┼─────
|───負の
|─↑─エネルギー
−m|─●─準位
すなわちすべての道はローマへ通ず、ではないが、すべての力は0点に向かう。
ようするに、量子力学は新しいパラダイムの元に書き換えられなければならない。
ちなみにファインマン流における時間を逆行するエンジンはいわゆる先進ポテンシャルである。
しかし先進波が発見されたという話は聞かない。
そもそもファインマンの解釈もディラックの海と同様に、騾馬粒子を正のエネルギー、正の質量を
もつように再解釈する必要性から考えだされたものである。
しかし元々KG方程式に騾馬粒子は存在しないのだから、戦う相手が間違っていたことになる。
それゆえファインマン流の解釈も、いずれディラックの海と同じ運命をたどるであろう。
ところで猿の惑星という映画があった。地球から遠く離れた惑星にいると思っていた主人公が、
自由の女神という動かし難い現実に、「愚か者め!、ここは地球だったんだ」と怒り心頭に発する
ラストシーンはあまりにも有名であるが、
量子力学に媒質と対極にある相対論を取り入れたら見慣れた媒質の方程式が導出されたということは、
それはローレンツ変換は実はエーテルに対して不変であったということがバレたというオチであろう。
つまり、あろうことか物理学者は今の今まで媒質の世界にどっぷりと浸かっていたという、
まさかの大どんでん返しである。
物理学者は常に相対論にお伺いを立てて理論を構築する。
しかし本当にお伺いを立てなければならないのはエーテルなのである。
そして実際、最新の科学の動向は後者なのだ。
最近、ヒッグス粒子が発見されたらしい、というニュースが流れている。
さらに宇宙空間にはダークマターやダークエネルギーが満ちているという話もある。
そしてそれらに共通するのはエーテルがそうであったように、宇宙空間は何かで満たされている、
というシナリオだ。
かつて科学者は王様からエーテルの衣を剥がし、賢い人には見えるがお馬鹿には見えない、
と称して時空という衣を着せたが、どうやら最近は賢いはずの科学者でさえもその時空
という衣が見えないらしい。
それゆえ科学者という仕立て屋がとっかえひっかえ、今度こそは見えると称して、
その見えそで見えない衣を脱がしては着せ、しているのだ。
アインシュタインは後年、「一般相対論によれば空間に物理量が付与されている。
一般相対論によればエーテルなしの空間は考えることもできない」と述懐したらしいが、
まさに考えられないからこそ科学者たちは、空間をより具体的な何かで埋めようとしているのであろう。
そもそも曲がる歪む捻じれる、伸びる縮むは媒質の世界では日常用語である。
実際材料系の分野ではテンソルなるものは普通に使う用語であろう。
ならば真空とされる空間に実在する何かがなければ、それはエアーテンソルでしかない。
ところでヒッグスなるものは相対論に対して相当に失礼な話だ。
なぜなら重力が空間の曲がり、すなわち時空の歪みならば、さらに重力質量と慣性質量が区別が
つかない、すなわち等価原理が正しいならば、質量は時空の歪みじゃだめなのか?
ということになるからだ。ようするに時空はどこへ行ったんだ?という話だ。
そもそも重力と質量がまったく別のメカニズムで発現するというのも解せない。
ヒッグス機構はかつて高温であった宇宙空間が冷える過程で真空の相転移が起こり、
ヒッグス場が凝縮していわゆるヒッグスの海になったとするものである。
そして質量とはヒッグスの海による抵抗、すなわち動きづらさとしている。
しかしそもそも相転移は媒質の世界では普通の現象である。
すなわち温度変化により水が氷になったり水蒸気に転化する現象だ。
ゲージ理論によると力を媒介する光子などのいわゆるゲージボソンの質量は厳密に0とされている。
そして自発的対称性の破れにより、ゲージボソンは質量を獲得するというのが標準理論である。
ではなぜ光子の質量は厳密に0でなければならないのか?というと、その遠因をたどると
物理学の辞書には負の質量の文字がないからだ。
いや、正確に言うと物理学において負の質量とは騾馬粒子を意味する。
それゆえ物理学者は負の質量を扱えないということである。
ならば否応なく光子の質量は0でなければならない。
例えば電荷には+(−)の量しかないとしよう。ならば水分子の電荷は厳密に0である。
なぜなら水分子が+(−)の電荷をもつとするとその反発力によりバラバラになり、
水として凝集することができないからだ。
もちろん言うまでもなく電荷には+と−がある。
しかし大局的には、すなわち±0の状態にある限り電荷は表面化しない。
しかし元々+と−の電荷をもっているのだから、電離するとか分極することにより水は電荷を帯びる。
同様に、光子も+の質量をもつ電子と−の質量をもつ陽電子の複合粒子とすると、
光子の質量はプラマイ0となり、質量0の光子が創れる。
さらにそのバランスが崩れる、すなわち非対称になることにより光子は+、あるいは−の質量をもつ。
さらにその光子がエーテルとして空間を満たしていると、空間に様々な力が生じる。
すなわち宇宙のダイナミズムが説明できる。
例えば我々の周りを取り巻いている大気は普段穏やか表情を見せているが、先日のアメリカの
竜巻のように時として荒々しい表情を見せる。
すなわち音波を伝える媒質である大気は、単に音波を伝えるだけのために存在している
わけではないということだ。
すなわち家屋を破壊し、木をなぎ倒す台風やハリケーンもまた大気の仕業なのである。
つまり光子エーテル説に従うと、光子は単に電磁波を伝えるだけのために存在している
わけではないということだ。
さて、光子1個が時間と空間、すなわち時空の一単位とすると、そして重力場が時空の歪み
で説明できるのならば、質量も時空の歪みでいいことになる。
ただしそれは四次元時空連続体ではない。
なぜなら時空の量子である光子はすでに構造体なのだから離散的である。
さらに光子は正負の質量をもつのだから、複素数で表わさなければならない。
すなわち複素時空だ。
台風やハリケーンを撮影した衛星写真と、銀河を撮影した天体写真は渦を巻いている
という意味ではよく似ている。
台風の渦巻き模様は雲であり水蒸気であるが、だからと言っていくら水蒸気の
相互作用を研究したところで台風の渦を説明できないのは明らかだ。
なぜなら実際に渦を巻いてるのは目に見えない大気であるからだ。
もちろん水蒸気は熱エネルギーをもっている。それゆえ水蒸気は台風を
駆動するエンジンの役割を果たしているに違いないが、いずれにせよ
その背後に潜む大気を考慮しなければならないことは言うまでもない。
さて、銀河を撮った天体写真に写っているのは主に恒星などの光を放つ天体である。
しかしその見えている天体の重力源だけでは銀河の回転速度を説明できない、
というのがいわゆるダークマターが必要であるという動機づけである。
しかしもしより実在的な光子がエーテルとして宇宙空間を満たしているなら、
いや光子が時空そのものならば、光子エーテルがそれらの謎を解決するかもしれない。
ヒッグス機構を説明するのによく強磁性体のアナロジーが使われる。
すなわち棒磁石を熱するとやがて磁性を失う。
それは向きがそろっていた微小磁石の向きがてんでんばらばらになり、マクロとしての
磁性が失われたからだ。
すなわち微小磁石のそれぞれが勝手な方向を向いている状態が対称性がある状態であり、
向きがそろった状態が対称性が破れた状態である。
しかしこのアナロジーは不完全である。
なぜなら磁石にはN極とS極の2つの極があるからだ。それは電荷には+と−の量が
あるのと同じであり、相殺項があるということである。
つまり見かけ上力がない状態は±0の世界であり、絶対的に0の世界ではない。
ところが現代物理は質量に関しては+の量しか認めていない。
反粒子は負エネルギー解から導出されたにもかかわらずである。
すなわち質量に関しては相殺項がないということだ。
ならば対称性が破れる前の対称性は何なのか?ということになる。
ゲージ理論の一つの見方として、位相変換、例えば符号の正負を入れ替えても物理法則
は変わらないことを要請するものであると言える。
例えば既存の物理学では電子の電荷は−、陽電子の電荷は+と規定しているが、
例え電子の電荷を+としても、同時に陽電子の電荷を−とすれば物理法則は変わらない。
あるいは身近な例では、仮に世界中の車は右側通行であるとしよう。
しかしもし望むなら、明日から(もちろん十分な準備期間をとっての明日であるが)世界中の車を
左側通行にする、としても構わないはずである。
実際、現実に、ローカルとして日本のように左側通行を採用している国が存在する。
つまりその場合、交通標識をそのようにすればよいのだ。
そもそも右手系と左手系に対称性があるということは、対向車が真正面から向かってくる
可能性があることを意味する。
しかし現実に対向車とすれ違うことができるのは、それは右と左の対称性を破っているからだ。
さて位相変換、すなわち現代物理においては符号の入れ替えを許さない物理量が存在する。
すなわちそれはエネルギーだ。
もし正負のエネルギー準位が
>>291の図のようであれば、エネルギーの符号のを入れ替えても
物理法則は変わらない。なぜならどちらもそのベクトルは0点を向いているからだ。
しかし現代物理のパラダイムは
>>287の図である。
ならば正負の符号を入れ替えると物理法則は変わってしまう。
すなわち明日から正のエネルギーを負のエネルギーと呼ぶことにしよう、ということは
そのエネルギー準位は絶対値のより大きな方向が安定になるということである。
もっともその場合、百歩譲って大域的に負のエネルギー準位は0点に向かう、
しかし正のエネルギー準位は絶対値の大きな方向を向いている。
ゆえに正のエネルギーは存在しない、とすれば物理法則は今までと変わらない。
しかしそれにしたって、局所的変換は無理である。
すなわちどっちにしろ符号を入れ替えるということは車で言えば、アクセルから足を離すと
益々加速する世界であり、車を止めるにはアクセルを思いっきり踏み込まなければならない。
さらに放り投げたボールは空気抵抗などで減衰してエネルギーを失うと益々速度を上げる
という、凄まじい世界である。
ゲージ理論は大域的対称性よりも局所的対称性を重要視する。
すなわち時空の各点で勝手に位相を取り換えても理論が不変に保たれることを要請する。
しかしエネルギー、そしてそれに等価な重力、質量に関してはゲージ対称性は
成り立たないことを見てきた。
それゆえ既存の枠組みの下では4つの力を統一することは不可能である。
そもそも
>>287は実験的裏づけのない恣意的な概念である。
ただエネルギーはより低い方を好むという合い言葉に乗っかったものだ。
しかし実際の正負のエネルギー準位は本当は
>>291だとすると、現代物理の状況は
宝探しゲームをやるにあたり、主催者がうっかり砂の中に宝物を隠し忘れたようなものだ。
ならばいくら砂を掘ったところで宝物が出てくるはずがない。
やがて日が暮れて途方に暮れるだけである。
現代物理では無邪気に粒子も反粒子も正の質量をもっていると言うが、物理学者は
本当に反粒子は先進ポテンシャルにより駆動されていると思っているのかな?
負エネルギー解の反粒子が正の質量をもつということはそういうことなのだよ。
ならば電子が放つ光が遅延波ならば陽電子が放つ光は先進波なのか?
そもそも反粒子は何をもってして時間を逆行していると言えるのだ?
ファインマン流における時間の逆行は単に理論の辻褄合わせのための相殺項ではないのか?
テスト
しかし時間の逆行という概念が有効ならば、それは数学的に複素共役でいいはずである。
すなわち電子と陽電子が放つ光はそれぞれ正振動と負振動でよい。
ようするに初期位相が180度ずれているということだ。
つまり粒子と反粒子はエネルギーの形態が異なるのだから、
一方の質量を+とするならば、一方の質量を−としても何の問題もないということだ。
光子の質量は0であると言う。しかし光子は運動量もエネルギーももっている。
しかし質量とエネルギーが等価ならば、これは明らかに矛盾している。
実際、運動量は p=mv であり、運動エネルギーは k=1/2mv^2 であるからだ。
ならば質量が0ならば、運動量もエネルギーも0になる。
もっとも相対論的はローレンツ因子 √1−(v/c)^2 で割る必要があるが、
それにしたって質量mが0ならエネルギーも0であることに変わりはない。
ただしここで注意すべきは、ローレンツ因子のルートの中の速度vをcにすると
√0になることだ。すなわち0と言っても平方根なのだから±0である。すなわち√0=±0
このスレで何度も述べているように±0は絶対的に0でない。
絶対的に0であることとそうでないことの違いを例え話を使って説明してみよう。
蛍光灯の白もディスプレイの白も、基本的に白である。
しかし両者の違いは蛍光灯の光はあくまでも白だが、ディスプレイは任意の色を出す
ことができることだ。
つまりディスプレイは赤、緑、青の3原色の画素から成っている。
そして3原色のバランスの違いにより、様々な色を出す。
すなわちディスプレイは±0(3値であるが)の世界なのだ。
あるいはスポーツにおける得点、すなわち0対0も1対1も3対3も得点差はゼロである。
ひいきのチームが得点すると歓喜に酔いしれるがその喜びもつかの間、相手チームが得点
するとひいきのチームの得点シーンは遠い記憶の彼方に消え去る。
つまり互いに相手チームの得点はマイナスなのである。すなわち±0の世界なのだ。
その状況は光子の質量においても同様である。
すなわち光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子が対になった
ものであるとすると(○電子-陽電子●)となり、質量項が出てくる。
すなわち光子は絶えず電子と陽電子の間を揺れ動いている。
正負の間を揺らいでいるのはエネルギーや運動量も同じである。
その様子を理解したければ音における音圧を考えればよいだろう。
光が圧力を有しているように音も圧力をもっている。
音圧とは1気圧からのズレである。
音楽を聞く場合、スピーカーであろうとイヤホンであろうと鼓膜であろうと、
振動板を震わす能力が音圧である。
単純に正弦波を考えると、音波は正圧と負圧が交互に伝わっていく。
もし振動板に正圧と負圧が同時に掛かれば、振動板はどちらに振れるべきか
悩むことになる。しかし実際にはタイムラグがある。
いずれにせよ音圧、すなわち音のエネルギーは絶対値、すなわち正の値で表わされる。
しかしだからと言って、音の波に負圧の位相はない、とするとおかしなことになる。
あるいは各家庭のコンセントから来ている交流である電圧(電流)は普通100Vと言われているが、
それは直流に換算したいわゆる実効値であり、実際にはある瞬間には+141Vであったり、0Vであったり
−141Vであったりと絶えず正負の間を往ったり来たりしている。
もちろん電流、すなわち電子が左から右に流れようと右から左に流れようと仕事をする能力、
すなわちエネルギーは正の値である。
さて、では宇宙空間を飛び交う光、そしてそれを最終的に還元した光子が正の質量をもつ電子と
負の質量をもつ陽電子の複合粒子とすると、光子においては絶えず正負の質量の間をゆらいでいることになる。
そしてその状態が光子のエネルギーとすると、音圧がそうであるようにそのエネルギーの値は
絶対値であり正である。
しかしだからと言って、電子と陽電子が放つ光は同じものであり、両者の放つ光は区別する
ことができない、ということにはならないであろう。
つまり電子と陽電子が放つ光は初期位相が違う。
それゆえ電子が放つ光を正のエネルギーとするならば、陽電子が放つ光は負のエネルギーであるとしても
別に構わないということである。
ところで、
>>291の正当性を裏付けるのが鏡像変換、すなわちミラー対称性である。
>>53を参照。
例えば鏡の前でドライバーを右手に持ち、右に回して板にネジ(右ネジ)を締め込むとしよう。
この場合こちらから見て、こちら側も鏡の向こう側にいるもう一人の自分もドライバーをもつ手も
回す向きも同じだ。
しかし鏡の中のもう一人の自分は左手にドライバーをもち、さらにドライバーを左回転させている。
すなわち右ネジが左ネジになっている。つまりベクトルの成分は反転している。
そしてこのようなベクトルを極性ベクトルという。
ドライバーを回す面をx-y軸とすると、その面を垂直に貫くネジが進む方向がz軸である。
z軸においてはこちら側と向こう側ではネジの進む向きが(→|←)互いに反転している。
しかしベクトルの成分、すなわちどちらもネジが締まる方向に進むという意味では同じだ。
このようなベクトルを軸性ベクトルと言う。
さて、以上を踏まえると
>>291は鏡像関係にあることが分かる。
すなわち正負のエネルギー準位のベクトルトは互いに逆を向いているが(→|←)、
そのベクトル成分はどちらも0点を向いている。
それに対し
>>287は鏡像関係にないことは明らかだ。
すなわち正負のエネルギー準位のベクトルの方向は同じだが(←|←)、
そのベクトル成分は、一方は0点に向き、一方はマイナス無限大に向いている。
つまり、
>>287を無理に現実世界に当てはめるとすると、鏡のこちら側ではドライバーを
回すとネジは締まる方向に進む。
しかし鏡の向こう側のもう一人の自分は悪戦苦闘している。
すなわちいくらドライバーを回してもネジは緩む方向にしか進まないということである。
いずれにせよ
>>287はエネルギーはより安定な場所を求めて彷徨うという物理学の冒すべからざる
大原則からの帰結であり、神聖なものである。
しかしその安定点が正負を問わず0点であるとすると、話は変わってくる。
そもそもある意味
>>291は調和振動子そのものである。
調和振動子においては自然長Lを基準に+と−が定義される。
そしてどちらにしろそのベクトルは自然長Lである0点を向いている。
ところで(場の)量子論には調和振動子が頻繁に出てくる。
量子論では空間の各点にバネが付随しているとさえ言っている。
しかし量子論の書物にはなぜか自然長Lという用語が出てこない。
自然長Lという規準系はなにかまずいことでもあるのかな?
しかし調和振動子にとって自然長Lは基本中の基本であるはずである。
例えばゼロ点振動(エネルギー)はまさにそれだと思うのだが、いずれにしても
自然長Lのない調和振動子は調和振動子とは言えないであろう。
上でどうぞ
目子筋力学〈Fatal Mekosujics〉
>>282 >>クライン‐ゴルドン方程式 【Klein-Gordon equation】
>>もともと弾性媒質中にあるしなやかな弦の運動を記述した微分方程式で
しなやかな弦とは楽器のギターのことかと思い、ググったら実際そうだった。
ようするに減衰項のある波動のことらしい。
さらに電信方程式といって、平行2線や同軸ケーブル、あるいは電気(電子)回路を
伝わる波動もKG方程式と同じ形式であるということだ。
アンテナとテレビを繋ぐ同軸ケーブルも、電気(電子)回路も、導体とそれのショートを防ぐ絶縁体から成っている。
つまり楽器の弦を伝わる波動がそうであるように、それらのモノも実体を伴った波動である。
さらに導体を伝わる波動(光や電磁波)の速度は光速以下であることは言うまでもない。
すなわち特殊相対論とは無縁の世界である。
そしてKG方程式はそれらの波動を記述する方程式と同じ形式であるということだ。
ちなみに余談だが、ギターの弦を指で弾くと固有の音(定常波)を発するが、
許される振動は基音とその倍音、すなわち高調波と言われているものである。
そしてそのギターの弦の端点と端点をつなげて閉曲線にしたのが、いわゆるボーアの
原子モデルである。
つまり、媒質の世界とミクロの世界はそれほど離れているわけではない。
光速は※1/√ε0μ0 から導出される。
しかし※式は波動方程式の一般解の一つに過ぎない。
それゆえ※式を盾に、光速度不変は保証されていると信じて疑わないのは何かの勘違いである。
そもそも波動方程式にはダランベールの解というものがあって、 u(x,t) = f(x − vt) + g(x + vt) で表わされる。
ようするにそれが弦を伝わる波動ならば、正負の方向に一定速度で進む様子を記述してるに過ぎない。
さらに波動方程式からそれが音速ならば、弾性率κと媒質の密度ρから √κ/ρ が導かれ、
それが弦を伝わる速度ならば、弦の張力Tと線密度Mから √T/M が導かれる。
さらにそれが導体を伝わる電磁波ならば、電気容量CとインダクタンスLから 1/√LC が導かれ、
そして誘電率と透磁率の値が極小なのが ※1/√ε0μ0 であり、真空中の光速度なのだ。
つまり光速度を表す ※1/√ε0μ0 は波動方程式の一般解の一つであり、
※式そのものからは特殊相対論がいうところのいわゆる光速度不変は出てこない。
いや、とは言うものの、ある意味※式は特殊解であるとも言える。
なぜなら現代物理では、真空は誘電体(絶縁体)でないと考えているからだ。
真空が誘電体でないとすると、真空の誘電率は0のはずである。
ならば1/√ε0μ0 のルートの値は偽りの値ということになる。
実際、真空の誘電率ε0は単位系の取り方によりどうにでもなる値であり、
実際の値でないと言われている。
ならば、1/√ε0μ0 の ε0もμ0も波動方程式の体裁を整えるためのお飾りに過ぎないことになる。
ならば※式のルートの中にはクマのぬいぐるみでも置いておけばいいw
なにしろ真空は誘電体でないと言うのだから。
もっともかつてディラックの海が主流であったころは、真空は誘電体であると考えられていた。
すなわディラックによれば、真空は負エネルギーの電子である騾馬電子で満たされている。
そして電子の電荷が騾馬電子を電子へと励起し、騾馬電子が抜けた穴、すなわち正孔が陽電子となる。
つまり電子はそのような電子-陽電子対に取り囲まれている。いわゆる真空偏極だ。
もちろん現在ディラックの海は主流でないが、真空偏極という概念はくりこみ理論には必須アイテムであり、
量子電磁力学や素粒子論には今でも有効なはずである。
いずれにせよ現代物理は真空は空虚なものではなく、粒子-反粒子が対生成しては対消滅する、
動的な世界と捉えている。すなわち仮想粒子を想定している。
では、果たして真空は誘電体なのか、そうでないのか、一体どっちなんだ?
○電子
●陽電子
○● ○ ●○
\
● 電子
○
水は誘電体(絶縁体)である。すなわちイオンに対し分極し、イオンの電荷を遮蔽する。
<図1>+イオンの回りの水分子
○水素+
●酸素−
○● ○ ●○
\
● +の
○ イオン
<図2>−イオンの回りの水分子
●酸素−
○水素+
●○ ● ○●
\
○ −の
● イオン
(実際は水素原子2個)
分極した水分子の遮蔽効果により、イオンの電荷の値は見かけ上減少する。
誘電体である水が分極するように、何もないと思われていた真空も分極するというのが
いわゆる真空偏極だ。
<図3> 電子の回りの(仮)の電子・陽電子対
○電子
●陽電子
○● ○ ●○
\
● 電子
○
<図4> 陽電子の回りの(仮)の陽電子・電子対
●陽電子
○電子
●○ ● ○●
\
○ 陽電子
●
ディラックの海が主流であったころは、真空偏極を担っていたのは騾馬電子であったが、
現在は仮想粒子とされている。
すなわち電子(当然陽電子も)は絶えず光子を放出、吸収し、さらに光子から電子・陽電子対が
対生成され、再び対消滅して光子に戻るという過程をくり返している。
つまり電子(陽電子)はそのような仮想的な電子・陽電子対に取り囲まれている。
仮想粒子は実測されないとか、極めて短い時間ならばエネルギー保存則を破ってもよい
だとか都合のいいものであるが、少なくともエーテルを排した現代物理においては
間違ってもそれを実在粒子とは言えないことは確かである。
いずれにせよ既存の物理学は力の相互作用に対して近接作用を採用しているのだから、
空間には力を媒介する何かが遍在していなければならない。
すなわち何もないまっさらな真空という概念はありえない。
しかし考えてみれば我々の身の回りに遍満する地上の大気も、便宜的に仮想粒子といえば
仮想粒子である。
すなわち大気は1p^2あたり1kgの重さをもっている。人間の体の表面積をアバウトに
2uとすると、人間は約20トンの応力を受けている。
つまり我々は土砂を満載した大型ダンプカー1台分の重さを身にまとっている計算になる。
もちろんそんな重さを感じて生活している人間はいない。
しかし例えばドラム缶の空気を抜くと、まるでアルミ缶を握りつぶした如くクシャクシャに
潰れる。確かに大気はそれだけのポテンシャルをもっているわけだ。
逆に言うと、すなわち絶えずゆらいでいる地上の気圧が極度に低気圧側に振れると、
その重さが上向きに働くことになる。
それゆえ時としてトレーラーさえも宙に舞う、というのもうなずけるというものである。
それにしても現代物理は「何々は何々であるが、何々は何々でない」というフレーズがあまりにも多すぎる。
すなわち真空には誘電率が定義されるが真空は誘電体でない。
電子の振る舞いは波動関数で記述されるが波動関数自体は実在しない。
電子などの素粒子は地球の自転、すなわちコマのようなスピンという属性をもつが、
コマのような実在の回転ではない。
ミクロ世界は虚数を含んだ複素数で記述されるが、虚数に対応する実体は存在しない。
時間と空間は別物ではなく一体、すなわち時空として記述されるが、時間はモノの変化を
表すパラメータに過ぎない、すなわち時間は存在しない、幻想であるとする意見すらある。
しかし時間が流れるものならば、物理的な実体があるはずである。
ところが物理学では時間とは何か?という問いに明確な答えを出してはいない。
なぜ物理学はこんな状況になってしまったのか?
本来物理学とは実在を説く学問ではなかったのか?
もちろんそれはエーテルを排した代償である。
すなわち現代物理が実在の象徴であるエーテルを排したということは、
現代物理は実在を語ることを放棄したということである。
ならば物理学が実在を語ることは論理的に矛盾を孕んでいるのだから、
物理学に実在を求めるのはないものねだりである。
もっとも、それゆえ知的遊戯としては面白いかもしれないが、あくまでもそれは
答えのない問いであり、現実世界とは答え合わせができないというもどかしさが
常につきまとう。
実在を扱えない現代物理の状況を理解したければ、既存の流体力学を参照すればいいだろう。
飛行機の翼であれ、船の形状であれ、自動車の形状であれ、すなわちデザインは
流体力学を駆使して計算され決定される。
すなわち
「飛行機が飛ぶ様子は流体力学で記述される。しかし流体は存在しない。」
さて、もし流体が離散的な、すなわち構造をもった原子・分子の集団とするならば、
「 」の文章は明らかに偽である。
しかし流体が構造をもたない点の集まりである連続体であるとすると、
「 」の文章は真である。
そもそも連続体の流体とは流体から流体を取り上げた疑似流体なのだから当然だ。
言うまでもなく物理学者は水や大気のような流体は原子・分子の集合体であることを
嫌というほど知っている。
しかし流体の巨視的な振る舞いは連続体として近似できる。
そしてなにより重要なのは、流体を連続体として扱えば、よく整備された微分を
駆使した連続体の方程式がそのまま使えるということである。
しかし化学反応、さらには生命体を構築するタンパク質やアミノ酸、さらにはDNAにおける
2重らせん構造を原子・分子というレゴブロックなしで理解する企ては夢のまた夢であるはずだ。
つまり科学者は分野ごとに離散と連続を使い分けているということだ。
ところでマクスウェル方程式は流体力学をモデルに作られた、とされているが、
電磁波を媒介するとされるいわゆる「場」は完全に連続体の世界である。
さらに原子を構成する電子などの素粒子も構造をもたない数学的な点とされている。
ようするにミクロの世界を構築すべくレゴブロックの箱には(・←)しか入っていない。
すなわち電子も、その反粒子である陽電子も、光子も、クォークも、その他あらゆる素粒子も、
そして空間の各点(すなわち場)も(・←)で表わせられる。
すなわちミクロの世界は全て(・←)これで記述できると言うのだ。すくなくとも標準理論においては。
ただしその代わり無限個入っています!。というものである。(無限個もいらね〜よw)
※-(注)実は・←は便宜的な点であっていわゆる数学的な点でない。なぜなら・←はすでに
ある面積を占有しているからだ。しかし数学的な点とは大きさをもってはならない。
その意味では物理学における数学的な点とされる電子などの素粒子をビジュアル化することは
原理的に不可能である。
物理学が実在を扱えないことのよい証明は、最近話題のヒッグス粒子の一般向けの解説を見ればよく分かる。
すなわちテレビなどで宇宙空間をびっしりと満たしているとされるヒッグス粒子の様子を表す場合、
番組制作者はHと書かれたあたかもボールのようなモノを無数に空間に敷きつめる。
するとプロ側から「それはインチキ、粒でなく場だ」 と横やりが入る。
確かに空間を実体的なモノで埋めるとそれはエーテルを連想させる。
しかしそれは物理学者にとっては耐え難いものに違いない。
ならばプロであるお前が見本を見せてくれ、という話になるが、それはできない相談なのだ。
なぜなら構造と大きさをもたない点をビジュアル化することは原理的に不可能であるからだ。
せいぜい単色の色で画面全体をべったりと塗りつぶすしかない。
この宇宙からエーテルを排したということは、そういうことなのだ。
ところでヒッグスとエーテルはよく似ていると言われるが全くの別物だ。
確かに宇宙空間を満たしているという概念は共通しているがまるで違う。
すなわちヒッグスはあくまでも場であり連続体。しかしエーテルは媒質であり非連続体。
さらにヒッグス機構は光子を完全スルーしているが、エーテルは離散的な光子の集合体。
ちなみに質量0の光子は質量発現に関与してないと思われている、
つまり光子は質量0というアリバイがあり、質量を生み出す犯人ではない、と。
しかし接点も脈絡も動機もない、ところが結局は犯人であった、というどんでん返しは
推理小説の王道ではある。
宇宙初期あらゆる素粒子は光速度で走っていた。しかしヒッグス機構により質量を獲得した
光子以外の素粒子は、光速以下でしか動けなくなった。
というのが標準理論のシナリオである。
しかし光子を素粒子とみた場合、その光子そのものが光速度で走るというのは違和感を覚える。
なぜならそれは近接作用を否定しているからだ。
近接作用とは電光掲示板の文字のように、移動しているのはあくまでも情報パターンであって
電球そのものではない。
つまり、電光掲示板に電球がびっしりと敷きつめられていたならば、電球そのものが移動
する必要はないと言うことだ。
ならば、光子そのものが宇宙空間を飛び交っているとするならば、それは近接作用ではない。
もちろん光速と言っても有限なのだから、遠隔作用ではないが、だからと言って近接作用でもない。
素粒子である光子が光速度で走るという描像は別の意味でも破綻している。
それは光子はエネルギーや運動量をもっているからだ。
ただしこの場合近接作用で考えても同じであるが。
すなわち光子がエネルギー及び運動量をもっているならば、そしてそれをローレンツ因子で割ると、
エネルギー、運動量は無限大に発散する。
よく質量とエネルギーが等価ならば、質量0の光子がエネルギーをもっているのはおかしい、
という疑念に対し、※E^2= p^2c^2 + m^2c^4 をもちだす。
すなわち質量をゼロと置くと、E= pcの項が残ると言うものである。
実際にはP=mvであるのだが。
しかしこれは論点をすり替えている。
すなわちここで議論しなければならないのは、質量0の光子が何故エネルギーや
運動量をもってもいいかではなく、何故質量を有する光子が駄目で何故エネルギーや
運動量はいいのか?ということなのだ。
しかし無限大に発散するという意味においては質量もエネルギーも運動量も同じ
なのだから、質量が駄目なら皆仲良く駄目である。
ではこの矛盾はどう回避されるのかと言うと、まさにその謎を解く鍵こそが※式なのだ。
ようするに、※E^2= p^2c^2 + m^2c^4 はエネルギーの2乗式なのだから、
※式はエネルギー(時間)、質量、運動量、速度にはプラスとマイナスの2つの量が
ありますよ、と言っているのだ。
つまり※式は質量には正負の符合があることを保証していることになる。
ならば光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子が対になったものとすると
全体としての光子の質量はゼロである。しかし部分的には光子は正負の質量をもっている。
すなわち光子の質量がゼロであることと、光子がエネルギーや運動量をもっていることに
本質的矛盾はない。
よく物理の書物を読んでいると、あらゆる物理理論は相対論に共変でなければならない
とか、この形式は相対論の要請を満足する、などと記述しているのを見かける。
最初何のことか分からなかったが、よくよく調べてみると何のことはない、
ようするに時間と空間は同等、すなわち時空として扱えということである。
つまりそれが微分方程式ならば、時間に対して2階ならば空間に対しても2階、
時間に対して1階ならば空間に対しても1階、すなわち階数を揃えなさいということなのだ。
ならばそもそも元々の波動方程式が時間に対しても空間に対しても2階なのだから、
時空の親玉は波動方程式である。
結局、時空という概念を使うのに相対論の顔色を伺う必要はないということである。
ようするに※式に相対論のロゴマークを貼ると相対論的世界観が展開し、
※式に媒質のロゴマークを貼るとエーテル論的世界観が展開されるということなのだ。
では両者の違いを見てみよう。
すなわち相対論においては※式の一方の解を有り得ないモノとして惜しげもなく捨て去る。
いや正確には負の解は非物理的な操作を施して正定値にしなければ扱えないということである。
それに対して媒質の世界は、正負の解をダイレクトに使わなければ媒質の世界を
記述できない。
実際音響学者が負圧という用語を使ったからといって、トンデモ扱いされることはない。
では何故媒質の世界においては正負の解をダイレクトに扱えるのかというと、
それは媒質の世界には自然長Lという基準系があるからだ。
すなわち媒質の世界において正負の解とは、その基準系からどちらの方向にずれる
かの違いでしかないのだ。つまり、それ以上の深い意味はない。
それであなたは結局何を言いたいの
>この宇宙に存在するものは全て生命系か非生命系かで説明できる。
宇宙そのものは?
生命系?非生命系?
>>363 エーテルを捨てた代償はあまりにも大きかったと言うことだよ
>>364 このスレの主旨からして当然生命系だろうね。
俺は特定の宗教的信条をもっていないが、あえて言えば原始的と言われているアニミズムかな。
スローガン的にはアトミズムからアニミズムへと言ったところか。
人間に生命の息吹きを吹き込んでいるのが水や空気であるように、
宇宙の営みは光子エーテルにより突き動かされている。
神は細部に宿るってやつだ。
と言っても俺はより根源的なモノを実体的、メカニカルなモノに還元してるのだから、
その意味では俺は唯物論者だ。
366 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2013/12/25(水) 15:01:19.82 ID:dU62ksFA
アニミズムねぇ・・
細胞が意思を持つといった安っぽい小説が多いから
誤解されやすい思想だと思うけど。
さてあなたに問いたい。
「宇宙」或いは「宇宙を含む生命体」のデザイナーは
それぞれに生命の息吹きを吹き込んで一体何をたくらんで
いるのですか?
現状はデザイナーの思惑通りになっている?
あなたにとってデザイナーとは何ですか?
光子エーテルですか?
あなたにとってメコスジ道とは何ですか?
目子ナメーテルですか?
368 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2013/12/25(水) 20:53:29.99 ID:Xp6evtXN
非線形力学系
369 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2013/12/25(水) 21:07:39.83 ID:VoJ1EUCZ
スレ主に誠実に聞いているんだ。邪魔するな。
370 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2013/12/25(水) 21:24:51.24 ID:VoJ1EUCZ
スレ主は雑音を無視し誠実に回答せよ。
勘違いすんな。俺はあなたの論理に否定する者じゃない。むしろ賛同に近い。
あなたの論理の展開にいささかの疑問点があるので書込んだだけだ。
あなたなら分かるはずだ。
>>370 いや、生命系は非線形力学でいいんだよ。
宇宙のデザインという話しだが、まさにそれがフラクタル幾何学。
例えば渦構造はミクロ系マクロ系を問わず普遍的に見られる。つまり宇宙は相似形をなしている。
つまりフラクタルは望遠鏡にも顕微鏡にも使えるってことだ。
俺はミクロ系とマクロ系に一切の差違を認めないという立場。どこまで符合させうるかは別として。
それと生命の息吹きと言ったが、それを物理的に言うとバネ、すなわち復元力。
光子もバネ、心臓の鼓動も呼吸もバネ、すなわち周期的な単振動。
もちろん線形、非線形の違いはあるが。
他のスレでも書いたが宇宙の森羅万象は単振動、もちろん宇宙そのものも単振動。
あとこの話題でこれ以上レスしない。
なにしろ俺は長文しか書けないからな。メンドークセーんだよw
372 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2014/01/22(水) 19:40:09.37 ID:YBoQMq8k
続けて