ここで知識を披露したいと思います。
・二分法、アキレスと亀について。
最も短い長さ(プランク長さ)以下では、状態が確定しない。
これは現在の人類には観測できないがもっと文明が進めば観測できるようになる
というような問題ではなく、現実に、状態が確定していない。
点あるいは線として状態が確定していないものを分割することは不可能である。
よってプランク長さで二分法は終わりを告げ、アキレスは亀に追いつく。
・飛んでいる矢は止まっているについて
最も短い時間(プランク時間)において、静止する事は不可能である。
よって動くだけの時間がない、という仮定は却下。
・競技場
分割できる最小の長さ(プランク長さ)を最小の時間(プランク時間)で駆け抜ける
ことができるのは、質量がゼロの存在(例えば光)だけである。
勘のいい人はもうお分かりであろう。
光速度不変の法則により、競技場のパラドクスは厳密に否定される。
(ちなみに「一瞬のうちに一単位移動しようとすれば、二単位移動」するという仮定は、
異なる慣性系を混同させているために生じた混乱)
ゼノンのパラドックスを理解するのには
まずゼノンが生きていた時代背景を理解しないといけない。
確か、エレア派の基本的な考えである
「すべては一である」というものを論証したものだったはず。
その「すべては一である」(たぶん一元論のこと)という考えを否定する人が多く、
その者達が、「もし一であるとするならば」たくさんの笑うべき、
しかも自分自身を反駁するようなことが起らざるを得ないとして、
この主張をはじめにしたパルメニデスを笑いものにしようとしていたそうだ。
そこでパルメニデス説を擁護しようと考えたものが、ゼノンのパラドックスなのだそうだ。
つまり、ゼノンが一番言いたいことは、「多ではなく、一である」ということなんだ。
要するに、それぞれのパラドックスは(wikipediaは説明不足のような気がするが)、
『「もしも運動が存在するならば」「もし運動が行われているとするならば」「もし運動が行われたとすれば」
という仮定によって論議を進めるとおかしなことが起こる、よって仮定が間違っているのである。』
という論議の進め方で運動について否定し、同時に「多ではなく、一である」ことを証明したのである。
まだ、自分も今参考資料を見ながら勉強中で、一元論多元論についてはまだよくわからないので説明できない。
できれば自分でも調べてくれ。ただ、四つのパラドックスについてはある程度説明できそうなので、後ほど書き込みたいと思う。
そこでアリストテレスの報告をある程度意訳されているが見てみよう。
第一逆理「二分割」
「第一は、動くものは終点に達する前にその半分の地点に達しなければならないので
動かないとするものである」
注意すべきは「動くものは・・・動かない」というところで、これはあからさまな矛盾である。
第一逆理「二分割」は「終点に達する前に」「半分の地点に達する」運動が完了していると想定されている。
さらに、終点に達する運動そのものが仮定的な仕方で完了されたものと見られている。
シムプリキオスという人はこう話している。
「もしも運動が存在するならば、有限時間内に無限なものどもを通過し終えている何者かが存在するであろう。……有限距離を運動し終えたものは、
それが有限距離を運動し終えるのに要した有限時間内に、無限数ある半分を通過し終えたことになるだろう」
この現在完了並びに未来完了表現は基本的に良い表現で、「もしも運動が存在するならば」ということで、シムプリキオスは、完了された運動を想定している。
第二逆理「アキレス」
「第二は、いわゆるアキレスである。これは、走ることの最も遅いものですらもっとも早いものによって追いつかれないであろう、
なぜなら追いかけるものは、まず最初に、逃げるものが出発したその地点に到達しなければならず、したがって必然的に、逃げる者が、
たとえ最も遅いものであっても、常に何ほどかは先んじていなければならない、というものである」
アリストテレスによれば「二分割の論と同じ趣向」のものである。単に、ドラマチックな表現が与えられているだけで、言いたいことは同じなのだ。
第三逆理「矢」
これについてはwikipediaの記述には誤りがあるので注意してこの原文を見てほしい
「すべてのものは常に静止しているか動いているかであり、自身に等しいものに即してある時には、
何物も動くことはない。しかるに動くものは常に、いま、等しいものに即してあるとするならば、動く矢は不動である。
これは虚偽であろう。なぜなら他のどんな大きさも不可分なものからなってはいないように、
時間は不可分の今からなるのではないからである」
「第三は、いましがた述べられた、動く矢は静止しているというものである。これは時間が今からなるとすることから帰結するもので、
これが認められないなら、この推論は成り立たないであろう」
ゼノンの運動否定論のうちでもアリストテレスがとりわけ眼中に置いたものがこの逆理であった。
上記からわかるように、アリストテレスはこの逆理が逆理として成り立つ所以を、「不可分の今」または「今」に見ているのである。
ことの核心は当然「動く矢は静止している」という言説にある。これも第一の逆理に劣らぬあからさまな矛盾言説である。
この言説を考えるに際して、無視できないのは、ゼノンの真正の断片に、
動くものは、それが「ある」場所においても、「あらぬ」場所においても、動かない。
というものがあることである。そしてこれとは別個に、エピファニオスの伝える、
動くものは、それがある場所において動くか、あらぬ場所において動くかである。しかるにそれは、それがある場所においても、
あらぬ場所におても、動かない。したがって、それは決して動かない。
というヴァリエーションがあることも注目しておいてよいことである。