関係の場合表
列挙表
1、@条件A定言B相互 1、A⇒B B BかC
2、@条件A相互B定言 2 A⇒B BかC C
3、@定言A相互B条件 3、A AかB BならばC
4、@定言A条件B相互 4、A AならばB BかC
5、@相互A条件B定言 5、AかB BならばC C
6、@相互A定言B条件 6、AかB B BならばC
¬1、
@¬C ¬B ¬AB 自己矛盾:¬Bと¬AB
A¬B ¬B ¬AB 自己矛盾:¬Bと¬AB
¬2、
@¬C ¬C ¬AB
A¬C ¬B ¬AB 自己矛盾:¬Bと¬AB
¬3、
@¬BC ¬B ¬A
A¬BC ¬A ¬A
¬4、
@¬C ¬AB ¬A
A¬B ¬AB ¬A 自己矛盾:¬Bと¬AB
¬5、
@¬C ¬BC ¬B 自己矛盾:¬Cと¬BC
A¬C ¬BC ¬A 自己矛盾:¬Cと¬BC
¬6、
@¬BC ¬B ¬B
A¬BC ¬B ¬A
○対遇しても自己矛盾をして裏取りできずに言いっ放しになる言及
¬1@とA、¬2A、¬4A、¬5@とA
逆に、失敗してもどんどんやりたい時には、
¬1@とA、¬2A、¬4A、¬5@とAで解釈を組み立てると駄目となっても、否定の命題が
自己矛盾をして、やっていることと対応しない。
1、条件、定言、相互前件・後件
2、条件、相互前件、定言
4、定言、条件、相互前件
5、相互前件・後件、条件、定言
このような構想にすると、本質的にしぶとい構想です。ただ、一貫する力が強そうだが、目的も
ないのに続けてしまう怖さがありますね。こういうもので作ると良いものができそうかな?
実践理性の分析
1、条件、定言、相互前件・後件 Aならば、Bである。Bである。BかCである。
これは目的が拡張する構造である。目的では考えられない選言の後件がある。
2、条件、相互前件、定言 Aならば、Bである。BかCである。Cである。
1と一致するけれど、BかCかという問題で、Cには承認が必要である。
4、定言、条件、相互前件 Aである。Aならば、Bである。BかCである。
一定の目的を持つ構造である。Aであることが、AならばBに進み、Bに留まる。
漸次、進み、行為を引き出してやるのですが、節度を持った構造です。
5、相互前件・後件、条件、定言 AかBである、Bならば、Cである。Cである。
後件が広がりを持つ構造である。後件がCまで認める構造である。
これが結果しなくとも、同一的な否定を受けない構造です。
実践理性の選択
実践理性は一方と他方の対象へ向かう選択をする。
以前、純粋理性の考察で決定の問題を考察した。理論的な決定とは、物は決まっ
た概念であると決めると考えた。これで他の事柄で考えないので、自分
自身がどうやって考えて良いのか判らないという問題は解決したのであった。問題は
純粋理性とは違う実践的な選択である。
1、 Bを終えた後に、Cをやる。
2、 先ず、Bをやって、Cをやりに行く
4、 付随したものにしてやる
5、 求められるままのことである
1と2は後でやるか、先ずやるかを選ぶ。4は本来のことがあるので、その後のもの
としてやる。5は求められるままに従うこととして選ぶ、と考える。
何故、これだけの構造だけなのかというと、実践は結果を残す使命がある。多少の
障害は乗り越えねばならない。障害があるからといって、諦めてはいられないのだ。
それなので、長持ちしやすい順序や関係を選択的に構造化してみました。
5は選択なのか、と思うでしょうか。求められなくなったとしても、継続してしまうもの
として構造的には選択に加えてみました。
実践の心構え
理性は理論であるか、実践かに区別する。実践は表現であるか、予見かに区別する。
表現は私が知っている理性で物に付加価値を与える。予見は予め与えられるものを知っ
ているのだ。
予見は自己満足か、希望かである。自己満足とは予め私に与えられるものだと考えてい
る。希望は予め考えられるものを知っているのである。何をするにせよ私のものになるよう
に引き寄せるか、或ることに引き寄せられることである。私の利益にならないものは継続は
打ち切るのであり、或いは、目的の為に嘘を付いたりこれからある報酬を約束する。
吸引力があって、細かい粉を吸い寄せるもののようであり、反対に、重力があって引き寄
せられていくようなことである。重すぎるものは引き寄せられないし、それから遠いところで
は重力の影響が少ない。
神の祝福を受けているとか、他のものを虐げる信じ方をするのだ。
関係論理の構造
定言型
○先ず、定言、定言に付加する選言、選言から影響する仮言
○図
定言
定言∨選言
選言→仮言
∴定言 is 仮言
仮言型
○先ず、仮言、仮言が影響する選言、仮言と選言を含む定言
○図
仮言
仮言→選言
選言∧定言
∴仮言 is 定言
選言型
○先ず、選言、選言で前後を決める仮言、仮言は定言
○図
選言
仮言(前件ならば、後件)
定言
∴選言 is 定言
責任
条件 選言 定言
責任とは、相互の影響を認めることである。前件の時は認知であり、後件の場合は被責任である。
影響だけならば、無責任である。責任はこのようなことであると考える。
責任とは、私と相手に影響があると認めることである。責任が私か相手かという場合に、私であると
考えることは認知である。或いは、責任が私か相手かという場合に、相手であると考えることは責任を
取らされるというのである。しかし、相互的な事柄の関係であって、影響を理解していないと責任がない
と言われるが、それだけの事や仕事もある、何より影響もないのに責任を問うとは理解し難いのである。
むしろ、影響が生じたところで理解するのであって、私であるのか、相手であるのか、これらに考えが
及ばないところで無責任というのである。
責任の本質は意志の持続である。失敗したところで、一連の発生源が責任者である。例えば、
事故が発生すると責任者が辞任する。責任はネガティブなものだけでなく、財産の帰属先でもあ
る。商品を売ったら、金銭の入るのは責任があるからである。
全ての責任は無限責任者であって、ある程度区別した部分の責任は有限責任である。特別な
責任は自由意志である。
地形の表現
○本質スケール
観念 条件 矛盾
町 条里 雑然
平地 平ら おうとつ
山 急 緩やか
林 深い 密
海 深い 浅い
仏教 穢土 地獄
キリスト教 ヘブン ヘル
実践理性の分析
人格スケールの分析
1、実践
2、私 3、対象
2、私
4、道徳 5、方法
3、対象
6、表象 7、心
4、道徳
8、一貫 9、失敗
5、方法
10、規則 11、能動
6、表象
12、感じ 13、実態
7、心
14、意識 15、欲動
8、一貫
16、総体 17、一貫するだけ
9、失敗 ×
10、規則
18、肯定 19、否定
11、能動
20、場所 21、道具
12、感じ
22、五感 23、形相
13、実態
24、質料 25、実体
14、意識
26、受け取られ方 27、気持ち
15、欲動
28、性欲 29、人格
16、総体 × 結果や経過や全体などを含めて理想的か。知り得ないので閉じる
17、一貫
30、成功 31、失敗
18、肯定
32、範囲 33、程度
19、否定
34、置き換え 35、全否定
20、場所
36、近い 37、遠い
21、道具 × ここから雑多な道具の世界に行き、煩雑になるので閉じる
22、五感 × よく言われる五感のそれぞれのもので表現するのであえて言わない
23、形相
36、スタイル 37、意味
24、質料 × 物の要素。雑多になるのであえて言わない
25、実体
38、本質 39、存在
26、受け取られ方
40、同情 41、彼自身
27、気持ち
42、好 43、嫌い
28、性欲 × 性欲。ここではこれ以上考えません。
29、人格
44、寛容 45、厳格
30、成功 × ここではこれ以上考えません。
31、失敗 × ここではこれ以上考えません。
32、範囲 × ここではこれ以上考えません。
33、程度 × 何がどれくらいの量であるということです。これ以上は考えません。
34、置き換え × 私の意見と置き換える。閉じます。
35、全否定 × 全く相手の話しではないのです。閉じます。
36、近い × 閉じます。
37、遠い × 閉じます。
38、本質 × 対象の目的や程度を考えます。閉じます。
39、存在 × 在るというもので納得します。それを基に再考察します。閉じます。
40、同情 × 私と似たような受け取り方であると思うのです。比較。閉じます。
41、彼自身 × 彼自身独特の受け取り方があるというもので納得します。閉じます。
42、好 × 閉じます
43、悪 × 閉じます
次があるという概念と選択
人間は本質的に次にはもっと良いものに巡り合えるかもしれないという感情を持っている。
私たちはこれに決める選択をする。行動を起こす場合、選択は終わりを意味している。
私たちが決めるという選択と、次にもっと良いものがあるという感情は複雑な状態を作り出す。
先送りにすると決まることがない。しかも、この次においても出会わないかもしれない。いや、
満足いくものに出会わないかもしれない。どのくらいのもので満足したら良いのか。
私たちは決めるということにおいて、二種類の決め方がある。良さを理解することと、良くなる
ように物事を進めて行くものである。
この実践のジレンマをどのように解決するのか。次にもっと良いものに巡り合うという感情は
良さを理解するということで解決する。これからどのようなものに出会い、どのように進めていく
と選択と感情は両立し、次に進めながらも順序良く進む手順を考えるのである。だが、決めると
いう働きは何らこの感情に解決を与えてくれない。
良さを理解することは、これぐらいの良さなのだから、これぐらいのものであると考えるのであ
る。私がどのように考えるようにするのかという決定はもう先送りにすることがないのだ。
だから、これで良いのだ。
カテゴリーで表現する美
量-幾何学的な美
質-度の強い可愛さ
関係-機能美、麗しさ、清潔さ
様相-スタイル
反省的な美
教育-グラマー
社会-フォーマル、芸能の美(見所とか役所とか旬などの美)
自然-花鳥風月、侘び、寂
神-思想を具現化した芸術
理性と結合の概念で考察した美
善美-何に付けても善い美しさ
正美-折り目があり、基準に従う美しさ
実践理性で異なる反省概念
教育 | 社会 | 自然 | 神
意志 | 責任 | 原因 | 創造
カテゴリーの条件の関係は反省概念はそれぞれの概念で区別している。
教育においては意志があり、社会においては責任があり、自然においては原因があり、
宗教においては創造がある。この概念の区別により、どのような世界において条件を
考えていると判る。要するに、創造というと端的な存在があるということであり、責任が
あるというと社会的なことを必要としているのであって、原因というと自然な成り行きを
説明しているのである。そして、意志というと私自身にある考えなのである。
本来このような順列であるけど、読みづらいのは私自身もこうやって表現するまで
考えもしなかったからであります。
どのように関係を反省するのだろうか。本来、関係にはまだ、反省の区別がない。
本来的なことが存在というものに行き着いたところで、反省をする。教育と神がひとつで
あり、区別のなかったところに、原因はどこからであるという自然的な反省がなされる。
別のところからのものを原因であるとは言わないのである。自然的な原因が確かであっ
た後に、責任の概念が考察される。社会的に相応しい責任の取り方がある。社会的に
相応のものにそれ以上の責任は取らない。担うべき事柄を確認した後に、意志の概念
が考察される。責任や原因があって、創造を考察しても、人間に意志がないと、順次、
社会的な良さや自然的に良い方向を考えるのである。
本来、一つであった。存在に行き当たると、反省という区別がされる。存在から逆に、
一つのものを自然と責任と意志に区別していくのである。
これが私たちの持つ反省概念の論理構造なのである。
極端な責任の概念
私たちは意志がないのに責任を取るべきであると求められる。
私たちの言い分からすると、意志が無いのに責任を取るというのは不思議である。私自身
に求めていながら、私自身の意志を無くして、まだ、責任を問えるというのである。だが、責
任は私たちを問題にしていない。責任は社会的な事柄であって、社会的な事柄に従って、
責任を取りさえすれば、私自身の最も深い部分で了解を必要としている訳ではない。
責任は社会であって、教育ではない。
それなので、社会に協力できるだけの意志があればよいのである。
私たちは関係の概念を反省する。
責任の概念は原因を追求する役には立たないのか。
反省を単なる関係のカテゴリーと同一視していると、条件を責任の概念に置き換えてしま
う。
しかし、反省の概念は、Cならば、Mになる、という条件の論理的な進行を持たない。社会は
関係を自然に区別する。つまり、責任は関係が責任の庇護において勝手に論理展開してして
しまうものを原因という事として区別するのである。原因の無いものには責任は取りません。
ただ、私ならば、こういった状態を考えているというのである。
こうして、単純な条件の進行に反省を加えて、責任を取るのである。
宗教は三途の川を信仰している。川の流れがあり、川の流れを挟んだ両岸を横断する。
この世を此岸(しがん)といい、あの世を彼岸(ひがん)という。三途の川には懸衣翁(けんえおう)
・奪衣婆(だつえば)がいる。三途の川を渡るものは六文のゼニが掛かっていることであり、金が
掛からないことであると衣服を脱がす。金の掛からないものは奪衣婆が衣服を脱がし、懸衣翁
が衣領樹に衣を掛ける。脱いだ衣服は木の枝に吊下げて垂れた分だけ罪の重さが判る。
三途とは地獄、畜生、餓鬼の三悪を表した流れである。
此岸と彼岸のどちらにいるのか。三途を渡るのに必要な六文が掛かると彼岸行きである。
金が無くても衣服を動かしていることを考えるとまだ此岸である。だが、金が無く、衣服が無い
ものは彼岸にいる。六文のゼニが掛かっていたことではないとすると彼岸である。
こうして、どちらであると決まる。
慰謝や復讐
慰謝や復習が同じやり方で行うとすると、刑罰であって、慰謝や復讐ではない。
悪意があるとしても、意地悪であるけれども、復讐にならない。
或る限定した事柄において同じく応報する。
幾つも違う方法があるのに、問題となった同じことがらで報いを受けさせる。
例えば、社会制度に限っていると金を与える。
どんな観念において生きていくのが心地よいか、暮らしやすいか
(教育、社会、自然、神)
量において 原則、数学、NO.1、オンリーワン、認識番号100番、財産の量、何人いるから、幸福指数、唯一の神
連続において 歴史、本物、伝統、勤続、血筋、、人生の目的、筋物、キッカケ、源流、天皇
対立において 判断、相対性理論、趣味、裁判、集団、派閥、性別、セックス、重力、陰陽、幾人かの神
同じにおいて 理性、必要、自立、法、規定、所属、定職、会議、お揃い、幾何学、神は同じこと
内外において 仲間、新入り、村、よそ者、一門、外様、体面、内心、
様相において 形而上学、義務、常識、読み書きソロバン、詩、風流、経典
大体、金儲けなり、仲間なり、量的な話をしているのか、対立の話をしているのか、原則
は左記のことだ。原則からすると辿るべき運命は大体こんなものだ。
現状を見て、これからありそうなことを考えると原則を切り替えて考えたほうがいいかも
しれないとなる。
普段は、様相で生きていて問題がなさそうだね。
知る勇気
知る勇気は自分自身を損なうものであると自立であるが、自分のしたことが悪く思わ
れると同情であるが、自分のしたことの影響が将来悪いものであると客観的というのだ。
例えば、社会で健康診断をして悪い部分を知りたいというと自己管理というのであって、
相手に損害を与えて相手の身になって考えてみろと思い遣りを求められるのであって、
影響を数値化したり、結果を集めて、客観化するというのだ。
自立は義務である。同情はしたほうがよい。客観的は事実である。このように表現する。
何故、自立するのかというと、自立しなければならないということであって、それだけの
ことを考えているので、他に必要としない。
同情しなければならないというと、私か相手かのどちらも考えよというのでなくて、
私と共通するものが相手ではない、共通しない相手の事情を知ろうとすることではない。
私と相手の共通部分を含めて考えたほうがよいというのだ。
客観的は私と相手の共通部分でないものがあると示すものだ。私か相手かというと、
私と共通部分を差し引いたものが相手である。
他の全てを考えても、殆ど関係ないし、知る勇気でもないようだ。
選択的な実践理性の課題
実践理性の課題は行為と責任と構造である。
私の行いは責任を伴う。受動されたもので作られる構造を考える。構造
から考え得えるものを行為する。
しかし、構造から考えて満足できないものであると不可能である。
これが実践でものを選ぶところである。
どのように構造を考えるのか。先取られた構造から逆に私の行為の可能
を考えるのだ。ただ、どのような特徴が構造になるのだ、また、そういったこ
とでないしのだし、構造と対応して重要とするものがあるはずである。重要
なものがあるので、この構造には不可能となるのだ。
構造をどこまでのことであるという限界をどうするのか。決定に向かう時は
別なものであったのに、構造から考え得る重要なものと差があるのは何故か。
それらに応えると、こちらのほうが良いというのである。選択的な実践理性
の課題はこのプロセスを形にして、どれからやっていくかを整理することである。
そうすると、どれもやらないでおくという不具合が解消する。
これが選択的な実践理性の課題なんです。整理して報告しましょう。
実践的なカテゴリーの批判
経験 量 関係
道徳 様相 性質
実践的なカテゴリーの批判
序
理論では経験と合理の批判がなされた。私たちは実践でも批判を行い、
むしろ、異なるものと実践的な対立をしている、道徳と経験である。
経験は幾つの量を経験をした、経験は関係があったと表現する。道徳は
それ以外は考えられないとか他のものは駄目だと規定する。道徳は名前
をはっきりさせる必要があるのである。
INDEX
実践的な経験は道徳を必要としない
実践的な経験は相対的であり、道徳は名詞を確かにしなければならない
本論
以下同文
怒声は順当か。
怒りの感情は破壊活動となって物を壊す働きをする。
これは暴力といいます。
怒声は逆境か。
怒りの感情を向けられると人は媚態を見せる。
だが、恥ずかしいと思うと、反対の感情を示して、怒りや自分自身の範囲をしっかり定めること
で名誉を守る。
母音に怒りを込める声は、ルールを私から他人から引き取って自分に引き付ける働きがある。
怒りの声を挙げて、私に気を使って満足な笑みを浮かべる人は自分に引き付ける逆方向を持
っている。怒らない人や自分の範囲を区切らない人は彼の為に働くのだ。
これは見栄といいます。
実践理性批判
<特記仕様>
一部:純粋実践理性の原理論
一遍:純粋実践理性の分析論
一章:純粋実践理性の原則について
二章:純粋実践理性の対象の概念について
三章:純粋実践理性の動機について
ニ遍:純粋実践理性の弁証論
一章:純粋実践理性一般の弁証論
二章:最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について
ニ部:純粋実践理性方法論
<立面図>
┌──────────純粋実践理性の原理論─────────┐
│┌───純粋実践理性の分析論────┐ .. │
││純粋実践理性の原則について .│ .. │
││純粋実践理性の対象の概念について ...│ .. │
││純粋実践理性の動機について .│ .. │
│└─────────────────┘ .. │
│┌─純粋実践理性の弁証論───────────────┐. │
││純粋実践理性一般の弁証論 │. │
││最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について │. │
│└──────────────────────────┘.. │
└─────────────────────────────┘
┌─────────純粋実践理性方法論───────────┐
│ . │
└─────────────────────────────┘
結び
┌─────────────────┐ . ┌──────────┐
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
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│ │ │ │
│ │ │ │
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│ │ │ │
│ │ │ │
─┴───────┐ .┌──┴─┴──────────┴─
. │ │┌──────┐
. │ ││銘板(イマヌエル) │
. │ │└──────┘
. │ │=結びの郵便口=
. │ │
. │ │
─────────┴───────┴─────────────────
┌───────────────────────────┐
│現場名:純粋実践理性批判 イマヌエル・カント様 邸改修工事. │
└───────────────────────────┘