場の量子論 Part4

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700 ◆hMEhbRPKcw
>>696 >>693
 エバレットの論文は、
観測者も系に含めてモデリングすることで、
適用範囲が広がることや、
射影公準が要らなくなる可能性を示した点は評価できる。
 また、個人的には、量子力学に付随させうる形而上学・世界観として
自然に感じるという意味では >>696 に同感。

 しかし、(狭義の)解釈として多世界解釈を見ると、
論理的によくわからない部分がある。
特に、「確率を理論に最初から入れなくても
観測者にとっての主観的な確率が導出できる」
といった主張には疑問を感じる。(詳細は次レス)

 なお、ここで「狭義の解釈」と呼んでいるのは、
理論の数理モデルに現れる数学的概念と我々の経験を対応付ける方法のこと。
(狭義)解釈は、物理理論には必ず必要。
そして、(狭義)解釈は、最終的には
観測者が観測で得る情報について言及しないといけない。
701>>700の続き ◆hMEhbRPKcw :2008/05/12(月) 01:05:21 ID:???
 観測者から見た主観的な確率を導こうと思ったら、
例えば、観測者のメモリに記憶された測定結果についての
相対頻度に相当する物理量が何らかの意味で収束することが
言えればよさそうだけど、きっちり言えるのか。
無限回の測定結果をメモリに置くということは必然的に
無限自由度系を考えることになって、収束とかノルムの話はかなり微妙では。
どういった意味での収束なのか、
基底に依存しない形で厳密な議論はされてるんだろうか。
 エバレットの論文だと、
状態ベクトルの成分の集合に対して測度を定義してるけど、
それだと結局、記述者が指定した基底に依存した話になるよね。
つまり、観測基底を記述者が設定してやるという意味では
普通の確率解釈と同じになる。
それならそれで解釈としてはアリかもしれないが、
どうもその部分が(支持者にも)明確に意識されてないように思える。
# 特に和田純夫とかはそうじゃないか?

 要は、(狭義)解釈としての定式化が十分にされていないと思う。
記述者にとって何をインプットすると、観測者にとっての何がわかるのか、
その辺を明確にしてほしいところ。(俺の無知だったらスマソ)


 あと、エバレットの論文でもう一つ不満な点。論文では、
試行の際の着目する部分系の relative state は
既知でかつ毎回の試行で同一として計算してる。
しかし、実際には、
記述者にとっては relative state は(熱的な意味で)未知で、
いくら定温にしてても毎回の試行で少しは異なるはず。
だから、relative state は密度行列として記述すべきところでは。
この場合にどうなるかについては議論されてるのだろうか。