1 :
えてーる:
もしエーテルが存在したら
人間社会にどんな影響がでるのかおすえて
物理的妄想でお願い
もしメコスジが存在したら
3 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/03/12(日) 23:15:33 ID:Q9BjeHlc
もしメーテルが存在したら銀河鉄道にのせてもらう
妄想でも良いと聞いちゃ、
エーテルと光
空気と音
もしエーテルがあったなら、光速度不変と言う観測はなかった。
物理学者(特に相対性理論の支持者)は全員丸坊主だわなw
6 :
えてーる:2006/03/12(日) 23:32:57 ID:N0Jc2zOe
漏れSFゲームを製作中なんだがエーテルの存在が証明された場合の
何かしら物理的妄想で話を展開していきたいと思ってるんだ。
物理の知識は乏しいほうなんで、なにかしらここでネタが集まればと思い建てた
すまないが、誰か支援してくれ(><)
妄想でかまわないがあくまでも現実味を帯びた程度に
ポーションは存在する。
もし音が真空中でも伝播し色の模様が付いていたらどうなるか?
正に低速の光です、と、なると、音速を超えられなくなるわけで
移動中の宇宙船でも音は何時も先に存在する、しかし静止してる
観測者からは音速をこえてる事になる。 ぎゃはは
でも音速は時間(物質)と関係しない、
妄想もここまでか?
10 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/03/13(月) 04:56:56 ID:VSf00LuZ
エーテルの存在する世界をテーマにすればSF小説1本かけるな。
よしちょっと書いてくる
-o-
「エーテルまんじゅう」を商標登録しておけば億万長者w
初心な質問ですがエーテルってなですか?
精神エネルギーの事なのでしょうか?
宇宙が出来る前はエーテルで満たされていた、 と言ってる馬鹿
がいる・・・ほんとかも?
それがビッグバンの原因で今はエーテルは存在しないらしい、
全部、光に置き換わったらしい?
エーテルって 気 じゃない? そんな気がする。
>>17 なるほど・・・気ですか
森羅万象をつかさどる気・・・
そうかもしれませんね
俺にも気を、もう一杯くれ
20 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/03/13(月) 17:12:34 ID:KeA6lg1S
>>17 ドラゴンボールがありえないのは
エーテルで戦ってるからだったのか・・・!
動脈に突っ込むやつだね。
心臓しゅるつとかやるときの。
22 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/03/13(月) 18:10:19 ID:0JoUBu2g
ジエチルエーテルだろ
ものすげぇ臭い
何故あれでMP回復できるんだか
23 :
えてーる:2006/03/13(月) 20:48:33 ID:kFyX8v4m
エーテルがもし存在したとして
そこから何かしらでエネルギーを生むことはできんかね?
もち妄想で
エーテルは現在ありません。
その代わり今の宇宙があります。
これ以上、都合のいいこと考えてもだめだと思います。
仮定が仮定ですから、妄想でも難しいのです。
妄想をする時は、その妄想の墓場も考えて妄想してくれたまえ
>>23 ていうかエーテルが存在したら、
既存のあらゆるエネルギー、すなわち自動車が走るのもロケットが飛ぶのも原子爆弾も、さらには反物質爆弾であろうとエーテルに帰着する。
ようするにエーテルはあらゆるエネルギーの発生源。
だからエーテルは物質とか空間に変換されているわけ?
つぎ聞きたいですー
まずエーテルが存在すれば、それは空間そのものである、というのが基本。
それは海の中の魚にとっての水が、地上の人間にとっての大気が空間であるのと同じ。
現代物理では空間は互いに反対の性質をもつ電子と陽電子が対消滅し、プラマイゼロ(±0)になった状態と考えている。
もっとも科学はエーテルを否定している手前それをエーテルとは呼ばないが、
ミクロの世界では何もないと思われる真空からは絶えず電子・陽電子対が現れては消える現象が確かめられている。
さらにその電子と陽電子を加速器で衝突させると、物質の基本であるクォークが造られる。
つまり、空間が物質化したとも言える。
まあ例えて云えば、水や大気の中から生物などの個体が発生する様子に置き換えられるかもしれない。
ちょっと飛躍し過ぎたかな。w
光に対してエーテルは存在しない。
物質とか空間とかに対してエーテルは存在する。
てな事を言えば?
そうじゃない。
物理は存在を議論する学問じゃないんだ。
はい、それではこうします
光速に対してエーテルは抵抗しないがエーテルは光と関係する。
物質世界にエーテルは存在しないのです、代わりに真空という空間がある。
光の世界にエーテルは存在します、これを光空間と言います。
この空間の二重構造のため光速度不変が成立する。
同様に光空間において超光速時は光自体で光速まで収縮するのです。
だから光空間も絶対的空間ではなく相対空間です。
要するにエーテルの存在であるが、何に対してのエーテルか?が問題になる。
>>1 で、新しいエーテル理論とは、とのようなことですか?
それともう一つ、空間が膨張していると誰かがほざいているが、どうゆうこと?
重力の世界も多分、エーテルは存在します・・重力波であり重力空間です。
この重力エーテル空間は重力自身(物質)に影響され歪みます、光速にも影響します。
つまりあなたにとっては「場」が「エーテル」だってこと?
無理しないで「場」って言葉を使ったほうが
コミュニケーションの効率があがるよ。
重力波とか光の波とか海の波とか電磁波とか
波に関することは、やはり液体です。
単にコミュニケーション能力の差ではないと思うよ。
エーテルが禁句なのは相対論に抵触するから。
そもそもエーテルも場も、力を伝えるためには媒体が必要であるという意味では同じ概念。
ゆえに場の実在性がいよいよ明確になれば、その性質上いずれ相対論と対峙することになる。
かつてエーテルがそうであったように。
禁句じゃないよ,「相対論的エーテル」って言葉があるの知ってる?
>>38 相対論的エーテル?
初めて聞いた。詳しく
佐藤文隆さんの本にあるよ.
カシミア効果を考えれば真空はエネルギーを持った実体と
考えてもいいという理屈らしいけど,
そこでいうエーテルは相対論と無矛盾なものだから
まさに量子場のことをいってるんだろうね.
ここはエーテル・スレなのであえて言わしてもらうならば
エーテルが否定されたのはMM実験だけなんだよな(まぁ他にもあるかもしれないけど)
それに対し、エーテル説に有利な材料は山ほどある。
例えば真空の相転移、ダークエネルギー、カシミール効果、空間の曲がり、近接作用・・・
さらにアインシュタイン自身、
一般相対論によればエーテルなしの空間は考えることもできない、等と本音を漏らしている。
どれ一つとってもエーテルそのものである。
MM実験にしたって、エーテルを前提にしたローレンツ変換で説明できないわけでもないし。
エーテル説、楽勝でねえの。
光速に対するエーテルが破棄されました。
でも光に対するエーテルは破棄されていません。
音速は空気と言うエーテルがあるから観測条件によっては速度が変わる、
要するに絶対速度である。
光速はエーテルが無いから観測条件に関わらず変わらない、
要するに相対速度である。
>>42 の件は絶対に守ってみせる。
次の方どうぞ・・
光に対するエーテルは存在します。
例えば光の媒質が逃げる場合、光はこれに乗れません、したがって
媒質内空間での光速は変化する。
この場合、媒質が無かったら、光速は変化しないはずです。
音の場合は媒質に乗っかれるので音速は加速されるので、媒質空間での、音速は変化しない。
要するにだ、音の媒質が光速で動いても光速プラス音速であるが
光の媒質が光速で動いたら光は追いつけないって事です。
46 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/11/11(土) 21:03:28 ID:6pN0cxtR
エーテルは存在する。驚いたことに、これを発見したのはアインシュタインだ。
アインシュタインは、光電効果の研究から、光量子仮説を提唱した。
アインシュタインは、自分が発見したのは、「光」の粒子だと思った。
しかし、そうではなかったのだ。
アインシュタインの発見したのは、光のエネルギーを伝播する粒子、すなわち、エーテル粒子だったのである。
音の媒体は空気である。空気の最小単位は気体の分子である。
これと同じように、光の媒体はエーテルである。エーテルの最小単位はエーテル粒子(光子)である。
アインシュタインは完全に解釈を間違えたのだ。
これに気がついた俺かしこい。
47 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/11/11(土) 21:17:47 ID:m7VkBeAC
物理のエーテル好きは
いつの時代もかわらないw
48 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/11/11(土) 22:17:31 ID:C5rKlrcI
では、光の媒質フォトン=エーテルと解釈してよいということですか?
49 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/11/11(土) 22:42:17 ID:C5rKlrcI
>>38 重力波は重力を伝える波。
光の波と電磁波は同じ横波。
光は可視光線の電磁波であり、電磁波は波長が短くなったものですから、同じ。
海の波って何の関係が?
ただ液体に関係するものを挙げただけですよね。
光は固い媒質を伝わるとされていたからこそエーテル仮説が生まれたわけですから、
この場で光を液体と関連付けるのはナンセンスです。
50 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/11/11(土) 22:46:03 ID:C5rKlrcI
訂正
>>36 重力波は重力を伝える波。
光の波と電磁波は同じ横波。
光は可視光線の電磁波であり、電磁波は波長が短くなったものですから、同じ。
海の波って何の関係が?
ただ液体に関係するものを挙げただけですよね。
光は固い媒質を伝わるとされていたからこそエーテル仮説が生まれたわけですから、
この場で光を液体と関連付けるのはナンセンスです。
>>35 コミニュケーションと定義するより表現上の問題としたほうが良いかと。
「場」≒「エーテル」と言っていますが、初期のエーテル仮説は「場」にエーテルが
満ちている。でした。つまり「場」≒「エーテル」と解釈するのは
>>37のような誤解を招きます。
エーテルが場であったとしたならばそれは場ではありません。そもそもコミニュケーションの効率が関係しているかというと
そうでもないような気がしますが。
>>51 >初期のエーテル仮説は「場」にエーテルが 満ちている。でした。
ソースは?
初期のエーテル仮説って何?
エチルアルコールはうまいってことだなwwww
めんどくさい
エネルギー波なんだよ、エーテル自体、光速のエネルギー波動なんです
飲めば旨いかもしれない、で、ここに新たに光のエネルギーが
混入すれば瞬時に伝播するのだよ
エーテルとエタノールの区別もつかないのか?
理科知識は小学生以下だな。
56 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/11/12(日) 04:32:05 ID:yFdf/mpL
^0^
ほらあれ、カラビーヤウ多様体の中に丸め込まれているんだなきっと。
とすれば、だから我々の眼には見えないだけで、初期宇宙のころから、
すごい原始エネルギーを秘めたまま、3次元空間に飛び出せずにいる。
開いたひもの、フェルミ粒子はそこへ串刺しになっていて、ボーズ粒子は
ミシンの縫い目のように。閉じたひもグラビトンは、次元を一個多く使うから
よく分からんが、あえていえばそのリングの中にエーテルの世界が満ち広がっている。
であるか
59 :
(o^_^o):2006/11/12(日) 06:19:18 ID:A6Z1Cbnd
ステルヴィア以下だなw
正式にはジエチルエーテル
相対論のカリスマ啓蒙家のM氏は、「時間の本質をさぐる-共著」という本の中で、
エーテルは個体というなら、ヨウカンのようなもので、
としてエーテルをありえないモノと否定しているのはいいが、
その何頁か後に時空はコンニャクみたいなものだ!と言っている
(マジっすか)
時空がコンニャクのようなモノならエーテルと同じ矛盾を孕むんじゃないのか?
そもそもコンニャクってモロ媒質だと思うんだが?w
その理屈はおかしい
反例↓
俺は人を寄せ付けない点で神のようであると言える
神は人に愛される点でイケメンのようであると言える
すなわち俺はイケメンである
あ、俺実際にイケメンだから反例になってなかったわ
てかここってコミュニケーションが何だのそういうのまったく無くね?コミュニケーションだの糞だの関係してねーよ。
は?コミュニケーション?そういって自分自身はその気なんて無いんでしょう?コミュニケーション能力といっても具体的には何?
具体的な提示を出来ない奴がとやかく言うんじゃねーよ。
65 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/11/13(月) 20:22:50 ID:iBSnnuvY
エーテルが存在すると
↓
相対性理論あぽん
↓
相対性理論を大前提にした理論が軒並みあぽん
↓
古典力学最強伝説が復活
>>62 すなわち俺はイケメンのようであるんじゃないだろうか。
>>65 >古典力学最強伝説が復活←これは微妙だなー
相対性理論はある意味古典力学なんたがw
ニュートン力学は媒質を排した状態で理想的に成立する学問であり、決定論的。
それに対し、エーテル(媒質)の世界は天気予報を持ち出すまでもなく確率論的。
さらに流体力学や、カオス・フラクタル・生命といった複雑系の学問が扱うような
未知の領域であり、古典力学では手に負えず、新しい概念が必要。
>>14 エーテルは2種類ある、1つは化学のエーテル。もう1つは物理のそれ。
全く別物だよ。化学のエーテルはC2H5-O-C2H5 で、麻酔作用がある。
物理のエーテルは光の媒体。性質を持った「真空」と考えて良いかも。
マンガとエロゲとアニメのことしか知らない俺でも
>化学のエーテルはC2H5-O-C2H5
が間違いなのは分かる
すべての道はローマに通じてるって言うじゃない?
要するに、ローマからは道さえあれば何処にでも行けるって事じゃん?
だから、俺ん家の前の道にも繋がってるはずじゃん?
つー事は、すべての道は俺ん家に繋がってるんじゃね?
>>51 >初期のエーテル仮説は「場」にエーテルが満ちている。でした。
パンツの上にパンツをはくみたいな言い回しだなw
光に対するエーテルはあっても良いと思います
なぜかって? 光子とか粒子だからである
もし不都合が発生すれば、その時は波にすれば良い。
これで、なにか問題あるの?
74 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2006/11/14(火) 21:01:23 ID:7CV4ElCw
問題あるぞw
波動とは、エネルギーの性質。
粒子とは、物質の性質。
この二つは当然違う。
だから、光子というのは、光のエネルギーを伝搬する粒子のことだから、
正確にはエーテル粒子と言うべき。そうすれば光の二重性なるものは、
波動性 ・・・ 光の性質
粒子性 ・・・ 光を伝える媒体の性質
となり、実にすっきりする。
そもそも、光の二重性なるものは、アインシュタインがエネルギー量子を
光の粒子と勘違いしたことによって発生した問題。
75 :
73:2006/11/15(水) 00:01:57 ID:???
ありがとうございなす。
だとしたら、光子は媒体そのものであるが、その媒体も波動であり波である。
当然、光は波であるから、波の中を進む光の波の様子である。
波同士は干渉しないので、これで良いのである。・・・・と思いました。
ところで、3度K の波は波長が同じだと聞いていますが
これは干渉し合う訳ですねー?
>>69 在日と言ったら在日朝鮮・韓国人を指すのと同じ。で、正解をお願いしますね。
>>77 だよな、イヌと言ったら『わんことくらそう』のみかんを指すのと同じだよな〜
パソコン・ゲームばっかりしてると、ニートになるぞ。W
30才過ぎたら、就職口なくなるよ。日本の制度は30年勤めると年金が高くなる。
今までは 60才が定年だから、30才以上の人間はこの恩恵に預かれない。
だから、企業も役所も採らない。学者だけは定年が上だから、少し余裕がある。
学者になれる才能が無いなら、ゲームばっかりしないで、就職用の勉強しなよ。
>>72 何おまえ?いつのレスですか?石器時代にワープしてみたいの?
やめろよ。
>初期のエーテル仮説は「場」にエーテルが満ちている。でした。
それがパンツならおまえはチンカスだ。「チンカス」ww
がんばって取り除いてくださいねww
>>80 お前何を指摘されたか分かってないだろ。
>初期のエーテル仮説は「場」にエーテルが満ちている。でした。
誰がそれをパンツと言った?
パンツの上にパンツをはくみたいな言い回しだ、と言ったんだよ、バーカ
大体、概念としては場よりもエーテルのほうが先(古い)なんだが、
初期のエーテルって、いつの時代の話しなんだ?
光の媒質は最高に硬いものだと言われてきたが何故だろう?
絶対これは間違いである。
多分、音波の関係で、そう想像されたのかもしれない。
音は物質を媒体にする、光は真空をも媒体に出来る。
全宇宙は光速で膨張中であるため、膨張中の空間の光子は波動である。
これをエーテルとすると物質でなく波動だから問題無い・・はず。
それと同時に光速で膨張中の物質であるが、これを波動と言うには苦しいので
物体とします。
この世界は膨張世界由来の物体だけではなく、固有の物質も
存在しているのである。
ダークなんとかがそうだと思う、この物質とは波長が合わないので
観測できない。
>>74は粒的なモノは徹底的に粒。波的なモノは徹底的に波、と思っているみたいだね。
しかし粒も、それが分子のようなモノなら波動性をもつ。
例えば水の集合体は日常普通の水の波として観測されるが、たとえ水分子一個でも
波の性質をもっている(分子振動)そして、それを利用したのが電子レンジ。
ある意味で超音波洗浄は光電効果の音響版だ。
すなわちいくら大きな音(振幅が大きい)を対象物に当てても波長が長ければ汚れは落ちないが、
それが波長の短い超音波なら汚れは落ちる。
一般的に波長の短い波は粒に対応しているのだが、水の場合単に本性を表したに過ぎない。
なぜなら水の本質は水分子という粒なのだから。
つまり、水の世界においては粒と波の二重性に本質的矛盾はない。
ただし光の世界において、現代物理が光のイメージをどう描いているのかは俺は知らない。
結局、科学はボタンの掛け違いをしているのである。
すなわち光が粒の性質をもっていると確認された時点で、エーテル派は狂喜乱舞すればよかったのだ。
ところがそれが、あたかもニュートン流の光の粒説の復活と見なされ、エーテル説は潮が引くように衰退した。
ちなみに当時の科学のパラダイムは波=媒質であったわけであるが、
光が粒の性質を帯びているということで科学者はエーテルの呪縛から解かれたのだ。
しかし媒質は粒の集合体である、という新しいパラダイムを採用するならば、
エーテルは復活する可能性がある。
アインシュタインが光量子仮説により、粒の立場から光電効果を解明したのは確かだが、
それ以前、量子力学勃興期、ウィーンという物理学者が光の分子説から黒体放射のスペクトルを
上手く説明していた。
つまりそれまでは、光=波説が圧倒的勝利を収めていたわけであるが、
ミクロの世界から光=粒説の反撃が始まったのだ。
しかし考えるまでもなく、その状況は媒質の世界においては当たり前のことである。
すなわち巨視系においては水の波であれ音の波であれ波以外の何者でもない。
しかし超音波のような波長の短い波で世界を見ると、粒的な側面がみえてくる。
元々媒質は粒の集合体なのだから不思議はない。
さらにその最小単位が水分子のような複合粒子とするならば、それ自身粒と波の二重性を帯びている。
それゆえ媒質の世界から量子力学の粒と波の二重性に対する苦悶を見ると、何か滑稽ですらある。
ま、エーテルを捨てた代償と言えばそれまでだが。
>>80 >>81 てか、てめーらはまず語彙力身に付けよう。
日本語喋れないんじゃぁ相手の意図とか分からんからww
で、どうなの
エーテルは存在してもいいのか?
なんだ、量間のアインシュタイン先生と同じか? なさけない
エーテルの定義によるけど、
定義を修正してまでエーテルの概念を存続させる意味はなさげ。
>>92 甘い。
定義が変わって冥王星が降格したのはつい昨日のこと。
不自然な定義はちょっとした観測事例により自ずと覆る。
ま、この種の第一報は大抵外国からもたらされるんだよなw
エーテルの存在の有無と定義の関係を
冥王星と同列で考えられるその素朴な頭脳が羨ましい
どーも
ま、どうだ。つまり、エーテルは存在するか・しないか。
どっちだ?結局は。
エーテルは物理の為の概念だが、
物理は存在/非存在を議論することはできない。
>>96 光が波である以上、媒体としてのエーテルは存在する。
物質もまたエーテルの現象、つまり波だろう。
ではまとめ。
光の媒質がエーテルでありフォトンとされてきたものである。
以上、終了しました。--------------------------------------------------
100 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2007/01/26(金) 12:19:30 ID:8FLe9j53
宇宙そのものがエーテルと言った人がいた。
…誰だったっけ?
エーテルは存在する!
光の媒質がエーテルでありフォトンである
この媒質は宇宙では静止していません
即ち、この相対宇宙(膨張宇宙)において静止しているおである
だからエーテルの風は吹かない
電磁波に対してはエーテルの風は吹かない
物質(光子)に対してはエーテルの風は吹く
宇宙空間はエーテルだとすると空間は膨張、縮小、移動ができる(時空)
純エーテルは真空である
宇宙そのものがエーテル
エーテルは存在しなければならない。
電磁波に光子を乗せれば光子ロケットの出来上がり
宇宙旅行も夢でなくなったってこと?
時間は存在しないから・・可能です。
例えば、いったん外宇宙へ出て目的の恒星に進路を進み、それから
宇宙へ再突入すれば良いと思います、きっと近道が存在すると思うし
ワープと同じ現象が起こるとおもいます。
まあ、妄想だから外宇宙とか・・時間は存在しないとか・・でたらめを言って
いるがお許しください。
test
108 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2007/05/25(金) 04:18:46 ID:yS8I3SCt
アトポス死ね
110 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2007/06/04(月) 19:57:07 ID:TKx5L3pb
age
真空がヒッグス粒子とクォーク対で大入り満員というが、時空はどこ行った?
ていうか時空とかぶってないか。
112 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2007/06/24(日) 23:16:14 ID:BPm0yoIT
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
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113 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2007/06/24(日) 23:48:49 ID:t6YLOMes
相間の皆さんは、カーナビが10q単位で狂っても兵器なのですか?
エーテル梅がみれると聞いて飛んできました
115 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2007/08/01(水) 03:23:04 ID:rfEENc+c
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
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アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
アトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ねアトポス死ね
否定はできないな
117 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2008/01/02(水) 18:18:47 ID:+uHkASsn
エーテルが実在しない
実験的証拠は?
どんな実験なら納得するのか言ってみな。
宇宙は水(氷や水蒸気になる)のように相転移を起こすが、
水や大気のようなエーテルは存在しない、というのは二枚舌だなw
チラっと物理板覗いてこのスレ見たんですが、つまりエーテルとは「気」のことですか?
もしエーテルが存在して体に纏ったりすれば身体能力が上がったりとか?
エネルギーにもできるんですか?
そうです
カメハメ波とか聖闘衣とか全部エーテルです
__ヽ. / / \
. 〃´ア¨/ ∨ / ∧ ヽヘ
/ / / / / / / ! '. ',
´L/ |.f / / イ ,′|| .!_l_
f⌒', | '| f ,イ⌒メ、j / ! | l ||`\
f⌒', | l ! ヽ! l | / |/ // |.ハ-|、/ ||
. ! '. | | ! | l |〃⌒ヽ./′ |/ |ノイ ||
'. '. ! ! l ∨| N{んィr} ィ≠ミメ|/ .|
,.ゝ ⌒ { '. || |弋Zツ んィ} }} l/ !
_ノ 、__ ', ヾ.| | , 弋ツ ,ハ. !
{ | ′},.--' }. | | /` ー‐r ハ/ !
ヽ.二ぅ‐^ー-、ノ |ハ. ! / } /イ |
ノ` ⌒ 丁´ ヘ. |\ ヽ、 .ノ ,. ´ | l
} | ,. --- ヘ|、 ` ー-r一 ' ´ | ハ|
/ ! / ヽ. {、 ハ/
.′ |‐' |',\ `ヽ、__
. | | |!ハ ヽ ,. -|ヘ. `ヽ.
'. j| ', ! ヘ ',
ヽ __,. - 〃 \ ___,ノ ハ |
124 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2008/03/04(火) 17:55:08 ID:hBBJ5yAk
エーテルは存在する!
じゃ、こうしたら
エーテルは存在するが、エーテル理論(エーテル談義)は不要
>エーテル理論(エーテル談義)は不要
いや、そうではない。空間は調和振動子(微小なバネ)の集まりという意味においては
場も媒質(エーテル)も同じ。
しかし場は連続体。場=連続体とは限らないだろうが既存の場は連続体。
しかしバイオリンの弦も水も空気も原子・分子以下には分割できないのだから離散的。
つまり我々の実空間が連続体ならばエーテルの出番はない。
逆に実空間が離散的ならば、エーテルは万雷の拍手のもとに凱旋する。
水は分子(H2O)という離散的な粒の集まりであるが、水はさらに二段階の離散性を帯びている。
我々は普通水の流れ、すなわち水量は連続的なモノとして認識している。
実際バケツに水を満杯にしようとすれば、水道の蛇口を全開にするだろう。
さらにそれがコップならば、蛇口をやや絞るだろう。
さらにそれが計量カップならば、そして目盛りに合わせるならば、さらに蛇口を絞るだろう。
しかしどんなに頑張ろうとも、蛇口から流れる水を蜘蛛の糸のように細く絞ることはできない。
なぜなら最終的に水の表面張力が打ち勝ち、水滴となって落下するからだ。
すなわち連続から不連続に変わった瞬間である。
もし蛇口の下に水の張った洗面器があったならば、水面に生じる波は量子化されて E=hνである。
つまり、水の表面張力はあたかもプランク定数のような役割を果たすのだ。
そもそも全くスケールの異なるミクロ系とマクロ系を比べる場合、
細心の注意をもってあらゆる条件を同じにとらなければならない。
例えば電子は観測前は雲のように空間に広がっているが、観測するとある一点に見いだされる。
これを野球のボールに置き換えると、ピッチャーの投げたボールは超絶魔球のように
キャッチャーミットに収まるまで空間のそちこちに遍在することになる。
もしそれがミクロ系の実体ならば、我々がミクロ系を理解することなど到底不可能である。
しかし、バッターが打席に立つときには打率が表示されるではないか。
ピッチャーは防御率が表示されるではないか。
試合に勝とうとすればデータ(統計)を駆使するではないか。
さらに実戦においてはピッチャーの投げる球はブルペンで投げる球ではなく、
バッターが打つ球はフリーバッティングで打つ球でもない。
ようするに絶対に打たせまいとする側と絶対に打ってやろうとする側の重ね合わせなのだ。
つまり、本来我々の現実世界こそが確率や重ね合わせで記述されるべきなのである。
サッカーの選手がドリブルしながらボールを運べば、あたかも粒の運動として記述できる。
しかし実戦においてはすぐさま相手選手がボールを奪いにくる。
もし相手選手がいなければ、ひいきのチームは望むだけ好きなように点が入るだろう。
しかし実際はイライラするほど点は入らない。
なぜなら、ひいきのチームと相手チームの選手の力と力が打ち消し合っているからだ。
負のベクトル↓●○↑正のベクトル
そしてどちらかが相手チームの力を対消滅できなかった時、点が入るのである。
さて、今ひいきのチームの選手Aがボールをキープしていたとする。
すると相手チームのA'がボールを奪いにくるだろう。
しかしAは味方の選手Bにパスを出した。
○B
/
●A'…→●○A
もちろんこの場合移動したのはあくまでもボールでありAではない。
しかしそのように認識できるのは我々が選手の顔、背番号を知っているからである。
つまり観察者である我々と観察されるプレイヤーが同じスケールだからだ。
だがもし観察者である我々はボールに触れている選手しか認識できない、
しかも選手の個性が認識できなという条件を課すと、Aがパスを出した瞬間視界から消え、
あたかもBの位置に移動したと感じるであろう(量子飛躍)。
さて、もしグランドに選手が一人しかいなければ、そしてドリブルしながらボールを運ぶならば、
粒的なモノの運動として明確な軌跡を描くであろう。
例え観察者がちょっと目を離したとしても、その動きは予測の範囲に収まる。
しかし実戦においては観察者がちょっと目を離すと全く予測がつかない別の展開になる。
それはなぜかというとサッカー(スポーツ一般)の試合は全く逆の方向を向いた
正負のベクトル ↓●○↑ の重ね合わせだからだ。
さらにグランドには両軍合わせて22人の選手がいるのだから、
ボール(に触れている選手)の位置はグランド全体にある確率をもって遍在している、
と言わざるを得ない。
≪決定論的世界≫
┌───────┐
│ │
│ │
┴───────┴
〇
|□| 実時間
‖ ●
PK戦を考えた場合、相手チームの選手(ゴールキーパー)がいなければ100%の確率で入る。
むしろ外すほうが難しい。
≪確率論的世界≫
┌───────┐
│ 〇 │
│ ・□・虚時間
┴──/ \──┴
〇
|□| 実時間
‖ ●
さて、実戦においては相手チームのGKがいることは言うまでもない。
すなわち実戦においては、
絶対に入れようするベクトルと絶対に阻止しようとするベクトルの重ね合わせで記述される。
この場合ボールの運動は蹴る側に委ねられているのだから、蹴る側が実時間である。
しかし、ボールの軌跡はボールに触れていない相手のキーパーに影響される。
すなわち相手側には虚時間が流れている。
逆に言えば、キーパーがボールに触れ、ボールを大きく弾くと虚実が入れ替わるということだ。
すなわち、複素数を使わなければ現実世界を記述できないのである。
≪可逆空間≫
__┏┓_
/未来 過去/
/○___↓-t
/ ↑t ●/
過去 未来 /
_┏-┓___/
サッカーの選手がボールをキープすると一方的な方向性(ベクトル)すなわち時間の流れが生じる。
それは相手のゴールポストの中にボールを蹴り込みたいという欲求からきている。
それゆえわれわれがこの宇宙において、何故時間が過去から未来へと流れ、何故未来から過去
へは流れないのか?という問いを発することは、サッカーの試合中ボールをキープしている選手に、
あなたは何故相手の陣地に攻め込むのですか?
あなたは何故相手のゴールポストめがけてボールを蹴り込むのですか?
と質問するのと同じである。
よく時間の逆流とフィルムの逆回しを同一視する。しかしそれは間違いである。
例えばボールをドリブルしている様子をビデオに撮り、逆回しする。
すると後ずさりする選手の爪先めがけてボールが転がってゆくという奇妙な映像になる。
しかし、実際の競技場において時間が逆流するということは、
相手チームの選手がボールをインターセプトすることなのだ。
つまり、相手のゴールポストにボールを蹴り込むことが未来の方向とするならば、
まさに相手チームの選手(ボール)は未来の方向からやってくる。
同様に、粒子と反粒子は互いに時間が逆流した系に存在しているのであり、
反粒子は時間が逆行した粒子、という概念は単に数学的なつじつま合わせでしかない。
≪複素共役≫
__┏┓_
/ 虚時間/
/○___↑Im
/ ↑Re ●/
実時間 /
_┏-┓___/
時間の流れる方向が快不快の原則に従うならば、ひいきのチームがボールをキープしている
状態が正の時間である。
つまり、ボールをキープしているチームを応援している側には得点への期待感といった
メジャーな感情が流れる。
逆に攻め込まれているチームを応援している側には得点されるのではないかといった不安、
恐怖のようなマイナーな感情に支配される。
しかし、防御側がインターセプトした瞬間感情の流れは一変する。
つまり、基本的に時間の流れは4種類あるということだ。
すなわち実(攻撃側)の正負の方向性、そして虚(防御側)のそれぞれの2種類である。
さて、競技場においては選手(ボール)はこちら側とあちら側を行ったり来たりする。
すなわち競技場は波動場であり、あくまでも可逆なのである。
つまり正負の時間(及び虚時間)の流れを考えなければ現実世界を記述できない。
ではなぜ巨視的な物理的世界において我々は、ただ一方向の時間しか認識しないのだろうか?
それは我々が巨視的世界においては部分系しか知らないからである。
つまり、我々が認識している物理世界をサッカーの試合に置き換えると、
物質の量子が常にボールをキープしているからである。
さらにこの問いに答えるためには階層性、そして点とは何か?を明らかにしなければならない。
現代物理によると、空間は微小なバネの集まりだと言う。
──┬─┬
< |
> L
< |-1
> ┴ 0
< 1
│
■↓↑(復元力)
自然長 Lのバネを引っ張って離すと、ゼロ点を境に振動する。
バネは2つの自由度をもっている。
すなわち引っ張って離すのと、押して離すのとである。
その場合どちらを+か−とするかは便宜的だろうが、複数のバネを連動させると、
同じ位相ならば振幅は大きくなり、逆位相ならば相殺される。
すなわち 1+1=2 であるが、1+(-1)=0 である。
さて、バネを引っ張る(押す)と位置エネルギーをもち、離すと復元力により
ゼロ点に向かう。
-t→ ←t 時間
─────┼─────
-χ 0 χ
つまり、復元力はエネルギーであり、そしてそれこそが時間の本質なのだ。
バネの復元力こそが時間の正体とすると、バネには2つの自由度があるのだから、
時間 tと -tはそれに対応させれば良い。
すなわち時間の逆行=フィルムの逆回し、という概念は全くもって不必要である。
さらに時間に±があるように、エネルギーにも±があるとしなければならない。
<図1>
-E→ ←E エネルギー
─────┼─────
-∞ -χ 0 χ ∞
ちなみに
<図2>
-E ← ←E エネルギー
─────┼─────
-∞ -χ 0 χ ∞
上図のように基礎物理学はマイナスのエネルギーのベクトルは−∞の方向を向いている。
現代物理においてはエネルギーはポテンシャルの高い所からより低い方へと流れる。
そしてもしゼロよりポテンシャルの低い負エネルギーが存在すれば、
我々の見るもの全てが−∞めがけて落ちていくことになる。
もちろんそのような現象はありえないのだから、負エネルギーは存在しない。
というのが基礎物理学の論理である。
しかし負エネルギーのベクトルが−∞に向いているという実験事実はないし、
あくまでも恣意的な概念である。
物理学者は負エネルギーを無意味なモノとみなし、
負エネルギー解の粒子を正エネルギーをもつように腐心してきた。
例えばそれはディラックの海であり、ファインマン流の時間の逆行である。
時間を逆行させると「負」を消せることを証明してみよう。
大気圧を基準として正圧と負圧の物体(容器)A、Bがある。
A B
流出┏━━┓流入┏━━┓
← 正圧┃ → 負圧┃
┗━━┛ ┗━━┛
この場合Aは大気を流出し、Bは大気を流入する。
さて、もし負圧が存在すれば地上の大気は全て負に落ち込んでしまう、
として負圧を否定したとしよう。
その場合Bの現象を説明するには時間を逆行させれば良い。
すなわち「Bは時間が逆行するA」とすれば←が反転して→になる。
しかし問題が生じる。すなわちB(→)の動因である。
負圧というポテンシャルを否定したのだから、その動因はフィルムの逆回しであり、
いわゆる先進ポテンシャルなのか?
負エネ解の粒子を正エネルギーをもつようにしたディラック流の解釈は現在主流でない。
現在主流とされるファインマン流の解釈も先進解が見え隠れして危ういものである。
ようするに下図のように、
−E +E
●→ ←○
─────┼─────
-∞ -χ 0 χ ∞
+のエネルギーも−のエネルギーもそのベクトルはゼロ点を向いている、
とすれば負エネルギーの存在を認めても何の問題もないのである。
バネをもっとも単純に視覚化したのが囲碁の劫である。
○ ○
○ ○ → ○●○
●○● ← ● ●
● ●
誰か劫を白地か黒地に収束させたなら1億円差し上げます。
(もっとも俺はもっていないが、どこからかそれ以上の報酬と名誉を得られるだろう)
ただし交互に一手ずつ打つということと、
相手の石を取り囲むと相手の石が取れるというルールを踏まえた上の話である。
囲碁は白と黒のただ2種類(色を無視すれば1種類)の石を使うのだから、
究極のデジタルゲームである。
さらにあらゆるゲームの中で最も単純でありながら最新のコンピュータでさえ
太刀打ちできないという、奥の深いゲームでもある。
囲碁は究極のデジタルゲームと言ってもいわゆる白か黒の2値ではない。
例えばチェスの駒を輪切りにしても白い駒はあくまでも白く、黒い駒はあくまでも黒い。
しかし囲碁においては白地は黒を含んでいて、黒地は白を含んでいる。
さらに劫は白でもあり黒でもある。
すなわちそのどちらでもあってそのどちらでもない、というように量子論的である。
電磁場が調和振動子の集団であり光子の集団ならば、誰が考えても光子はバネである。
原子も分子もバイオリンも構造をもっているがゆえに振動する。
ならば構造をもたない点粒子である光子が何故バネとしての性質をもっているのか?
つまり、光子は構造をもっていると考えたほうが自然だ。
ただし注意すべきは、構造体であるから点ではない、ということにはならない。
すなわち点であることと構造体であることが矛盾しない数学、論理を構築すればいいのだ。
電子と陽電子が対消滅するとガンマ線が発生し、
逆にガンマ線から電子・陽電子対が生成される。
ならば、光子は電子と陽電子の複合粒子と考えてもいいのではないか。
つまり光子を記号化し、そして視覚化すれば光子は劫である。
そして宇宙は劫である光子で満たされている。
さらに電子の周りの光子は電子側にセットされ、
陽電子の周りの光子は陽電子側にセットされる。
○ ●
○ ○ ●○●
●○● ○ ○
● ○
電子 陽電子
つまり電子(陽電子)が光を放つという行為は、
劫を取られた側が劫を取り返す行為に他ならない。
そして、電子が放つ光と陽電子が放つ光は初期位相が半波長ずれている。
そしてそれこそが電子と陽電子が放つ光の違いである。
「数学は科学の女王」と言われる。
メビウスの帯という名の王女様は科学の書物といった社交界の人気者であるが、
なぜか独身を通してきた。だがいよいよ華燭の典を挙げる時はきたようである。
では王子様は誰あろうか?それは言わずと知れた光子である。
すなわち光子はメビウスの帯(クラインの壺)だったのだ。
光子は論理学における嘘つきのパラドックスでもある。
すなわち真であると思った瞬間偽からの反撃を受ける。それでは偽なのか?
というと、そうでもない。
すなわち数学におけるメビウスの帯、論理学における嘘つきのパラドックスは
同じ位相をもっていて、まさに光子と同じバネという性質をもっている。
そして、それを視覚化したのが劫なのである。
さて、極めて高い対称性(極超対称性)をもっている物質の周りの光子が非対称に
セット(励起)されるということは、嘘つきのパラドックスを真か偽のどちらか一方に
固定するようなもので、本来嫌悪されるべきものである。
しかし発想を転換するならば、それゆえに力が生じるのだ。
つまり、光子自身は常に嘘つきのパラドックスの審美性を回復しようと努力している。
そしてそれこそが重力の原因なのだ。
ようするに、劫やメビウスの帯は部分的(時間的)にどちらか一方に特定できるが、
全体的にはどちらか一方に特定できないということである。
もし電子(陽電子)の周りの光子が励起(固定)されなければ、
いくらでもエネルギーの小さい電磁波が考えられる。
しかし例えば水道の蛇口から流れる水量は、
水の表面張力という微小なダムにより、蜘蛛の糸のように細く絞れない。
すなわち不連続な粒々になる。
つまり、光子にも水の表面張力のような能力(空間張力)が存在している、
という仮説が成り立つ。
さて、重力の原因が空間の曲がり(歪み)とするならば、エーテルの立場からすると
それを担っているのは光子である。
すなわち物質の周りの光子は非対称に励起され、質量を獲得する。
宇宙初期空間に大量の水素ガスが満ちているとすれば、ある意味均質な歪みが広がっている。
 ̄∨ ̄∨ ̄∨ ̄∨ ̄∨ ̄∨ ̄
↓
そして時間と共に水素ガスは凝集していき、天体になる。
→ ←時間
 ̄ ̄\●/ ̄ ̄ ̄\●/ ̄ ̄
↓
→ ←
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∨
さらに最終的にブラックホールになると言われている。
ところで、相対論によると物体は空間の曲がりに沿って運動するのであって、
それは力が働いたわけではない。とする見方がある。
しかし重力の原因が、空間が空間張力を最小にしようとする行為とすると、
重力はやはり力である。
すなわち物質が凝縮していくということは、物質が空間を歪ませていた一部が解放
されるということである(質量欠損)。
ようするに、重力場により物質が凝縮するとは、
キリキリと巻き上げられていたゼンマイがほどけていく過程なのだ。
しかし話はここで終わらない。
重力が時空の歪みとすると、ある意味重力ほど理解しやすい力はない。
我々は水面だろうとゴム膜だろうと、2つの方向へ歪むことを知っている。
(ただし一般に言われている閉じた地球のような表面と、開いた鞍形の正負とは別)
<正曲率>
 ̄ ̄∨ ̄ ̄∨ ̄ ̄
→引力←
 ̄ ̄ ̄∨∨ ̄ ̄ ̄
→←
<負曲率>
__∧__∧__
→引力←
___∧∧___
→←
斥力
∧___
 ̄ ̄ ̄∨
←→
__ ∧__
 ̄ ̄∨
← →
つまり物質と反物質は互いに逆向きに時空を歪ませている。
そして必然的に物質と反物質の間には斥力が働く。
2次平面の2つの歪みは上と下に対応しているのであるが、3次元空間の2つの歪みは
表と裏に対応させれば良い。
すなわち囲碁の劫を立体的にイメージすれば、3次元空間に2つの歪みを作れる。
重力場が空間の歪みならば、そしてAの一方向の歪みしかないならば、
時間の流れは加速度的に進み、宇宙はあっと言う間に終焉してしまうだろう。
→ ←時間t
A  ̄∨ ̄∨ ̄∨ ̄∨ ̄
↓
→×←
B _∧_∧_∧_∧_
→ ←時間-t
∧ ∧
C  ̄∨ ̄  ̄∨ ̄  ̄
しかし宇宙はAとBの歪みが重なり合っていて、Cのようになっている。
つまり宇宙は粒子と反粒子に作用する斥力によって時間の流れは制御されている。
ミクロ系に適用される量子論をマクロ系に拡張するならば(量子宇宙論)、
宇宙においては物質世界と反物質世界が重なり合っている。
つまり、宇宙は物質と反物質という排他的2値が波動関数ψとして重なり合っている。
もちろん我々はミクロ系は別として、マクロな物体としての反物質を見ることはない。
それは何故かというと、我々の知っている世界が反物質に対し優位に立っているからだ。
つまり、実と虚の関係である。ならば数学が科学の女王ならば、
科学の女王は複素共役のもう一方の片割れをどこかに産み落としているはずだ。
もし我々が悠久の時間、茫漠たる宇宙空間を俯瞰することができたなら、
物質が優位な世界と反物質が優位な世界を往復する、波動場としてのめまぐるしい
ダイナミズムを目の当たりにすることであろう。
案外観測技術が向上すれば、ある日唐突に宇宙の壮大な交代劇が目撃されるかもしれない。
物理学者は何故マクロ系にΨを適用しないのかというと、それはシュレーディンガーの猫
というミクロ系とマクロ系を隔てる禁断の壁が邪魔しているからであろう。
すなわちS猫の生死の重ね合わせをマクロ系に適用すると言うことは、
物理学者はオカルティストと友好関係を結ぶと言うことである。
少なくともS猫が真実パラドックスだとしたら。
しかし実際にはS猫にミステリーもパラドックスも何もない。
つまり、S猫において重ね合わさっているのはあくまでも部分系とすれば何の問題もない。
例えば不幸にして地雷を踏んで左足を失った人間がいたとする。
この場合部分と全体を同一視すれば、右足を観察すればその人間は生きてこの世にいる。
しかし左足を観察すればその人間は非存在であり、あの世にいる、となる。
だが、重なり合っている排他的2値は部分系であるとすれば何の問題もない。
もちろん全体集合としての人間の生死を重ね合わすことも可能だ。
ならばそれは今朝来た朝刊に、誕生欄と死亡欄が併存しているのと何ら変わりはない。
すなわち人間社会は生まれ来る人間と死に逝く人間の重ね合わせなのだ。
つまり人間は全体集合といっても、社会全体から見れば部分である。
そしてそれを人口動態統計と言う。
人間社会が生まれ来る人間と死に逝く人間の重ね合わせであるように、
銀河系も今この瞬間にも誕生しようとする星々と、平穏な最期であれ華々しく散っていく
星であれ、死んでいく星々の重ね合わせである。
あるいは超新星の誕生(実際は死)はある日唐突に(少なくとも我々にとって)起こる。
つまり、日食や月食の日時を予測するように超新星の出現を決定論で記述できない。
すなわち天文学者は、我々の銀河系において超新星の出現は、
数十年に一度あるかないかである、としか言えない。
つまりミクロ系には確率が、マクロ系には決定論が、という二分法は明らかに破綻している。
しかしいずれにしろ宇宙のドラマを詳細に記述するには、階層性と点とは何かを
明らかにしなければならない。
>>147 [訂正]
○ ●
○ ○ ● ●
●○● ○●○
● ○
電子 陽電子
エーテルが光そのものだったり、ひかりの性質だったり、観測そのものだったら
エーテル理論そのものが不要になるか意味があやふやになっていく。
光速不変はパラダイムの一つに過ぎない。
ならば光速可変というもう一つのパラダイムを構築することができる。
<粒的な速度を測る>
B →V A
|―― L ―ー|
C
上図のような方法で長さLの電車の速度を測る場合、観測者CはAが目の前を通過した
時点にストップウォッチを押し、そしてBが目の前を通過した時点で再び押す。
(電車の長さ÷時間=速度)
さらにCが速度Vで左右に動きながら電車の速度を計測すれば、電車の速度(相対速度)
は変化する。
<波動の速度>
B →V A
|―― L ―ー|
←C→
正弦波の波長Lを電車の長さに置き換えると、そして観測者Cが動きながらLの
通過時間を計測すると時間は短縮(あるいは遅れる)する。
すなわち周期Tは明らかに可変である。
もっとも定数cは波長×振動数とすると一定である。
さて、正弦波は発電機がそうであるように、円を一周させると発生する。
そしてその一周する速さによって波長や振動数が決まる。
ところで、ランナーであろうと競馬の馬であろうと円を一周する速さ(角速度)によって
その到達時間はバラつく。
すなわちそれを直線に直すと速度ベクトルは
遅い
←――――
速い
←―――――――
となる。
自転車のペダルを単位時間に1回漕ぐのと2回漕ぐのとではそのスピード、到達距離
が違ってくる。
すなわちあくまで努力は報われるのであって、角速度が違えば速度ベクトルも違う。
遅い
←――1回転
←―――――2回転
速い
そしてその状況は波動においても同じだ。
例えば関東系の電力会社は1秒間に50回発電機を回している。
それに対し、関西系の電力会社は1秒間に60回発電機を回している。
ならば両者は角速度(角振動数)が違うのだから、自転車や競馬をもちだすもなく、
両者の速度が同じなどということはありえない。
振動数が1秒間に50(60)であるということは、各家庭の蛍光灯が1秒間に50(60)回
明滅しているということである。
ならば振幅を変化させれば、単純計算すれば1秒間に50(60)ビットの情報を送る
ことができる。
すなわち明るく明滅すれば 1 暗く明滅すれば 0 というように。
その場合関東系よりも関西系の電力会社のほうが情報速度が速いのは明らかだ。
その様子は時速50キロしか出ない車が時速60キロで走る車に追いつけないのと同じである。
もっとも1秒間に数十回の振動数では実用的でないが、それが線幅の異なる
赤色レーザーと青色レーザーでCD(DVD)を読み書きする状況を考えればその違いは明らかだ。
遅い
( ( ( A波
( ( ( ( ( ( ( ( B波
((((((((((((((( C波
速い
すなわち、波長の異なるA波、B波、C波の情報速度が同じということはありえない。
ただし水の波や音波の波面(位相速度)の速度は媒質に対して一定。
無媒質で伝わるとされる光はなんだか知らないがとにかく一定。
物理学の書物には情報やエネルギーを伝えているのは群速度であって、
位相速度は情報もエネルギーも伝えていない、と記述している。
しかしこれは明らかにパラダイムである。すなわち科学者集団の約束事だ。
例えば赤い花は赤い花として、黄色い花は黄色い花として十分に我々にメッセージを
伝えているではないか。
赤外線は離れた場所に熱エネルギーを伝えているではないか。位相速度が情報も
エネルギーも伝えていないのならば、なぜ単色のレーザー光で読み書きしたり
モノを加工したり切断できるのか?
天文学者は赤外線やX線やガンマ線で、あるいはドップラー効果で
宇宙を観ているではないか?そもそも群速度天文学など聞いたこともない。
もちろん単調な正弦波に意味のある情報を乗せるには変調しなければならない。
しかし、それにしたって波長の短い波の方がより大容量の情報を送ることができるのは、
ネットで画像や映像をダウンロードする時に誰もが経験していることである。
昔、アインシュタインロマンという科学番組があった。
この番組において、動く列車の前方と後方にピストルの弾丸と光を発射する場合、
その速度はどうなるのか?という問いを発していた。
もちろん結論は、ピストルの弾は加減算されるが光の速度は加減算されず常に一定、
というものであった。
確かに光に何の変化もなければ神秘的であり不可思議なことである。
しかし、実際には光の波長、振動数が変化している。
すなわち波長、振動数の変化というトリックをポケットに隠して商売しているのだ。
そもそも空間に局在する粒的なモノと、空間的広がりをもつ波的なモノを何の操作もなく
直接較べても無意味である。
つまり両者は全く異なる方法論によって何かを移動させているのだから、
両者にまたがる共通言語を使用しなければならない。
すなわちそれはエネルギー、時間という物理量である。
まずはエネルギーでみてみよう。
粒的なモノの速度が速い遅いとは、エネルギーが大きい小さいと言い換えても同じだ。
┌┐
││ エネルギー小
│< ● ←●
││↓
││●
───┘└─────
上図のようにブロック塀に鉄球をぶつけた場合、速度が遅ければ(エネルギーが小さければ)
かすり傷を残して下に落下する。
しかし速度を上げるとひび割れを起こすだろう。
さらに大砲をぶっ放すと下図の様に貫通する。
┌┐
││ エネルギー大
● ←● ←●
││
││
───┘└─────
つまり粒的なモノの速度が速い遅いとはエネルギーが大きい小さいと等価である。
さて、比較的長い波長の電磁波を障害物に当てると跳ね返される。
あるいは赤外線は物体の温度を温めるだけである。
しかし、波長の短い紫外線は人間の細胞の組織に良くも悪くもダメージを与える。
┌┐ エネルギー小
││ ←
││( ( ( ●
││→
││
───┘└─────
そしてさらに波長の短いX線やガンマ線は物体を貫通する。
┌┐ エネルギー大
←││ ←
(((((((((((((((((●
││
││
───┘└─────
以上のように、エネルギーという物理量で粒的なモノと波的なモノを較べると、
両者は現象論的には同じ結果を与え、等価なのである。
ならば、粒的なモノの速度の大小がエネルギーの大小に対応しているのならば、
光の速度もエネルギーの大小に対応しているとしなければ、整合性がとれないはずである。
次に時間という物理量で粒的なモノの速度と波的なモノの速度を較べてみよう。
粒的なモノであれ波的なモノであれ、速度が速い遅いということは目的地への到達時間が
速いか遅いかである。
アインシュタインロマンの様にピストルの弾と光を比較するならば、
光の場合振動数が変化しているのだから、光源というピストルは単位時間における
弾の数が変化した、と言わざるを得ない。すなわち
●●● ← ● ● ●
( ( ( ( 波源 ) ) ) )
上図を極端にディフォルメすると、前方に発射した光はマシンガンの弾に変わったのであり、
後方に発射された光は火縄銃の弾に変わったのである。
波長(振動数)の異なる、波源から発射された光は波数及び角速度が違う。
● ●
( ( (←A
●●●●●●●
( ( ( ( ( ( ( (←B
|― L ―|
もちろん最初の波面は同時に標的に到達する。しかしそれゆえ光速不変とするならば、
誰かがケータイをかけると世界中のケータイが鳴りだす、という話になる。
上図は極端にディフォルメしたものであるが、仮にマシンガンの弾も火縄銃の弾も
一個一個の弾の速度はどちらも同じとしても、両者の速度は同じでない。
それは2人の男を決闘させればわかる。
もし光速不変ならば火縄銃でもよいはずだ。
そしてそれにより命を落とすはめになったら、
光速度不変の原理を呪うしかない。
現代科学は光速は不変とすることで光を科学の最高位に位置づけてきた。
しかし、もし光自身が光速不変を知ったならば、「俺はそんな無能な存在でない」
と怒りだすに違いない。
ようするに光はその波長、振動数を変化させることによって速度を変化させているのだから、
光速度はあくまでも可変とするのが我々の光に対する真摯な態度なのだ。
170 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2008/09/04(木) 18:25:28 ID:ofi2kV2Y
晒しアゲ!
僭越ながら
>>164 の別バージョンを。
確かに光に何の変化もなければ神秘的であり不思議なことである。しかし、
実際には光の振動数が変化している。すなわち波長は不変、光速が
変化している(観測前の入射光でのこと)というまぎれようのない現実を
ポケットに隠して商売しているのだ。
エーテルは存在する
物質が高速で移動すれば、その固有時間は遅れる
光に対するエーテルは存在しない。
蒼のエーテルはいつ出るんだろうか。
いまだにシュレーディンガーの猫をパラドックスと思い、頭の毛をかきむしっている物理学者なんているのかな?
別スレでS猫は部分と全体を同一視するトリックと書いたが、
S猫の仮想実験装置にはさらに別の不備があることを指摘してみよう。
結論を言えばそれは毒ガスの量である。
すなわちS猫においては毒ガスが発生すると猫は確実に死ぬという前提になっている。
にもかかわらず蓋を開けるまでは猫の生死は決定されない、などと訳の分からないことを主張しているのだ。
つまり、あらかじめミクロ系には確率が、マクロ系には決定論が成り立つ、というトリックを忍ばせている。
では毒ガスの量を致死量以下に抑えたらどうなるのだろうか?
その場合死ぬ猫もいるだろう。しかし中にはしぶとい猫がいて、全く平気なものもいるだろう。
あるいはもがき苦しんでいる猫がいるかもしれない。
結局のところ、一刻も早く蓋を開けて猫の安否を確認しなければならない、
という極当たり前の結論しか得られないのだ。
ところで、致死量でググると、半数致死量という用語が出てくる。
ようするに致死量には個体差があって、絶対的な数値は決められない。
そこで、ある量を与えて半数が死に至る量を半数致死量と呼ぶと言うことである。
まさに確率と統計の世界である。
結局、S猫の仮想実験装置において、マクロ系の猫に対してもあらかじめ確率を導入しておけば、
マクロ系においても不確かなことしか言えないという状況に変わりない。
大体、S猫の仮想実験装置は特殊な環境と思われがちであるが、
昨今の毒餃子事件、メラミンに汚染米とその他もろもろ、我々自身がまさにS猫状態に
置かれていると言うことである。
その意味ではそれらの事件はS猫に対するパロディとも言えなくもないが、
不謹慎なのでこれ以上言及するのは差し控えよう。
シュレーディンガーの猫をアレンジしたものに、ペンローズが紹介したいわゆるペンローズ版がある。
|
|
|
光源―――/――光子検出器-ピストル→猫
↑
ハーフミラー
すなわち、光源から出た光子はハーフミラーを反射する状態と透過する状態の重ね合わせにある。
|ψ>=|↑反射>+|↓透過>
ハーフミラーを透過した先には光子検出器があり、光子を検知するとピストルの引き金が引かれ、猫は死ぬ。
すなわち
|ψ>=|↑生>+|↓死>
つまり、ハーフミラーによってミクロ系にリンクされたマクロ系の猫は、生と死の重ね合わせの
状態ベクトルψにあることになる。
ちなみにペンローズは、量子力学を信じるならば |ψ> をマジに受け入れることはできない、と言っている。
確かに、あの世に逝った猫とじゃれて愛くるしい猫が一匹の猫に併存しているのがミクロ系の実態ならば、
それを素直に受け入れることはできないであろう。少なくともオカルティストでない限り。
それゆえ状態ベクトルψは実在しないとも言われている。
しかし、そもそもがトリックなのである。
それはオリジナルのS猫と同じトリックである。
つまりペンローズは、ピストルの引き金が引かれると猫は確実に死ぬという状況設定をしている。
(すなわちマクロ系に対しては決定論)
ではなぜ猫は確実に死ぬのか?それは猫を身動きできないようにぐるぐる巻きに縛りつけ、
さらに銃口を猫の急所に当て続けるからに他ならない。
ではミクロ系に対し、そのような拘束条件を課しているのだろうか?
つまり、単にピストルの弾が発射、そしてその先に猫という因果関係からは、
猫の生死は確率でしか記述できない。
すなわち光子がハーフミラーを透過→ピストルの弾が発射→見事(?)猫の急所に当たり即死、
という状態もあるだろう。
しかし弾がそれ、怯えている状態の猫、あるいは弾がかすった状態、あるいは体の一部に当たり
もがき苦しんでいる、まさに半死半生の瀕死の状態の猫等様々な状態が考えられる。
結局、ミクロ系にリンクされた猫は上に述べた様々な状態と、ハーフミラーを反射して何事もない平穏無事な猫の重ね合わせであり、
決してあの世に逝った猫とじゃれて愛くるしい猫の2値の重ね合わせではない。
結局、シュレーディンガーの猫の仮想実験装置はミクロ系には確率ありき、
マクロ系には決定論ありきなのである。
ならばS猫の箱の中の放射性原子を確率で記述されるマクロ系の事象に置き換えても
同じパラドックス及びミステリーが発生する。
例えば人間の細胞の寿命は種類によってまちまちであるが、
細胞の寿命が決定論により記述できないのであれば、微量の放射性原子を微量の細胞に置き換えても
S猫の仮想実験は成立する。
あるいはインターネットと毒ガス発生装置をケーブルで繋ぎ、どこどこに地震が起きた、
どこどこに雨が降った、あるいは超新星が発見されたという情報が流れると
毒ガスが発生するようにセットすると、猫の生死はそれらの事象と連動することになる。
だからと言ってそれをミステリーと思い悩む必要があるだろうか?
細胞は細胞を維持しようとする免疫系と、細胞を破壊しようとする異物や細菌、ウイルス
といった正負のベクトルの重ね合わせであることは言うまでもない。
地震がプレートの歪みによる開放(跳ね返り)ならば、大地は歪ませようとする力と
開放されようとする相反する力の重ね合わせである。
地球の大気は高気圧と低気圧の重ね合わせである。
天体は重力により一点に壊縮する力と、核融合反応により拡散しようとする相反する力の
重ね合わせである。
そもそも天文学者が、我々の銀河系において超新星の出現は数十年に一度あるかないかである。
と言うのと、放射性原子の崩壊が確率でしか語れないことに違いはあるのだろうか?
もしあるとするならば、量子力学者は超新星の出現を決定論で記述して欲しいものである。
182 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2008/10/17(金) 19:39:33 ID:9H5BgT7v
量間乙
S猫がマジシャンの、魔術を演じる為のトリックを仕込んだ小道具だとしても、
そこで問われているのは可逆と不可逆の関係である。
すなわち生きている猫が死ぬことはあっても死んだ猫が生き返ることはない。
というのが我々の常識である。
しかしS猫においては生と死の境界があいまいであり、
あたかも2つの世界を往還しているように見える。
実際ミクロの世界を記述する理論は時間を逆行させると上手くいくらしい。
ところで、そもそもS猫においてはパラドックスもミステリーも何もない。
すなわちミクロ系とマクロ系を隔てる禁断の壁はないのだから、
時間の逆行はマクロ系においても有効である。
つまり、全体における部分系においては因果律に抵触しない時間の逆行は可能である。
すなわち死んだ猫も生き返ると言うことだ。
例えば野球の試合において、初回の表、相手チームが1点入れたとする。
つまり相手チームが勝っている状態であり、ひいきのチームが負けている状態である。
しかし5回の裏にひいきのチームが1点入れた。
すなわちどちらかが勝って(負けて)いる状態から、どちらとも言えない状態になったわけである。
ようするに競技場はあくまでも可逆なのである。
もし野球の試合が不可逆ならば、どちらかのチームが1点入れた時点において終了である。
つまり、いつかは逆転してくれるという望みがあるからこそ、
熱狂的ファンは最後まで試合を見つづけることは言うまでもない。
言うまでもなく野球の試合においては、打った選手は一塁ベースに向かって走り出し、
そしてホームベースを踏むと得点になる。
│
│ ←
├──┐
│ │
↓│ │↑
└──┴───
→○
≪フィルムの逆回し-先進解≫
│
│ →
├──┐
○│ │
↑│ │↓
└──┴───
←
もし時間の逆行=フィルムの逆回しとすると、選手は後ろ向きに走り出すという
奇妙な映像になり、1対0であったものが0対0になる。
しかし、実際の競技場において時間が逆流するということは、
相手チームの選手がダイヤモンドを駆け回ることなのだ。
≪リアルワールド-複素共役≫
│
│ ←
├──┐
│ │
↓│ │↑
└──┴───
→●
すなわち1対0であったものが1対1になり、得点差は0であり、
数学的にはフィルムの逆回しと等価である。
さて、1対1の膠着状態から相手チームが9回の表に1点を入れ、ひいきのチームが0点だった。
すなわち審判がゲームセットと言った瞬間、それまで可逆だったものが不可逆になる。
翌日の数あるスポーツ紙の一紙ぐらいはひいきのチームが勝ったと記述しているのでは、
等と淡い期待を抱いてもムダである。
ところで勝った○チーム、つまり勝利の雄叫びをあげる者がいれば負けて●屈辱に打ちひしがれる
敗者がいる。これは強力な保存則である。
すなわち、どちらか一方だけが存在している等ということはありえない。
その場合勝ったチームを応援している者にとっては快の時間が流れる。実際ビールが旨い。
逆に負けたチームを応援している者は不快な感情に支配される。
誰も相手チームの選手のヒーローインタビュー等聞きたくないであろう。
さて、審判がゲームセットを宣言した瞬間、可逆であったものが不可逆になるのであった。
しかし、さらに階層の大きなその年優勝するかしないかという全体集合から見れば、
個々の試合は可逆である。
すなわち開幕ゲームに勝ったからといって優勝するとも限らないし、
負けたからといって優勝できないとも限らない。
気の早いファンは勝った試合を見ては優勝すると思い、無様な負け試合を見ては優勝できないと
思うかもしれない。しかしそれはそう思うだけである。
つまり優勝するチームも何十試合かは負けるのであり、優勝しないチームも何十試合かは勝つのであり、
どちらにしろ勝った試合と負けた試合の重ね合わせなのだ。
野球(スポーツ一般)の試合においてはひいきのチームが攻撃中は相手チームの
防御側が励起され、相手チームが攻撃中はひいきのチームの防御側が励起される。
つまり両者は複素共役の関係にあり、互いに互いの力と力が打ち消し合っている。
そして対称性が破れた結果として一つのアウト(ヒット)、得点、1勝(1敗)、
そして優勝が生まれるのであり、そしてそれが量子化の意味である。
つまり、各階層における一つ二つと数えられる「点」は豊富な構造をもっている。
例えば一つのアウトにしても、1球で終わったかもしれないし10球粘られたかもしれない。
あるいはホームランによる得点もあれば、ヒットを連ねた得点もある。
逆にいくら塁上をにぎわしたとしても、選手がホームベースを踏まなければ得点にならない。
すなわち点は構造体であり、相反するベクトルのせめぎ合いであり、そして重ね合わせなのだ。
全体における部分系において、互いに時間が逆行した2つの時間軸があることは、
地球に生息する動物の呼吸と植物の光合成の関係を考えれば明らかだ。
[呼吸] →
O2 CO2
← [光合成]
すなわち、呼吸とは酸素を吸い込み、炭酸ガスを吐き出すものであり、光合成とは
炭酸ガスを吸い込み(取り込み)、酸素を吐き出すものである。
つまり、呼吸と光合成は過去と未来、すなわち原因と結果が入れ替わっている。
もちろん、だからと言って因果律に抵触しているわけではない。
普通、一般的な時間の逆行のイメージ、パラダイムはフィルムの逆回しである。
すなわち人間は酸素を吸い込み、余分なものとして炭酸ガスを吐き出す。
その様子をビデオに撮り逆回しすると、炭酸ガスを吸い込み(取り込んで)、
余分なものとして酸素を吐き出しながらだんだん若くなるといった奇妙な映像になる。
それゆえ時間の逆行はありえないことだとされている。
ところで、時間の対称性を保証する数学解がいわゆる遅延解・先進解だ。
もし時間の順逆を保証するものが遅延解・先進解しかなければ、誰が何と言おうと
時間の逆行は先進解であろう。
そして誰が何と言おうとも先進解に対応する現象はいずれ発見されるであろう。
しかし我々の現実世界には時間の対称性を保証するもう一つの数学解、
すなわち複素共役が存在しているのだから、そして実際に時間の対称性に対応する
現象が存在しているのだから、時間の順逆は複素共役でいいのである。
遅延解・先進解とは時間の順逆を同じ対象に担わすものである。
すなわち通常の人間を遅延解とすると、炭酸ガスを吸って酸素を吐き出す「反人間」と
呼ぶべきものが先進解だ。
では炭酸ガスを取り込んで光合成を行い、余分なものとして酸素を吐き出す植物の
存在は何か?という話になる。
つまり遅延解・先進解では動物と全く対極にある形態である植物を扱えない。
呼吸と光合成は互いに時間が逆行している、と言われてもピンとこないかもしれない。
しかしそれは時間の逆行=フィルムの逆回しというドグマに囚われているからである。
親殺しのパラドックス等に代表される因果律と格闘してきた勇者達には誠に申し訳ないが、
ご苦労さんと言うしかない。
物理的な時間の逆行とフィルムの逆回しは何の関係もない。
ただ数学的、現象論的(過去の状態に戻るという意味)には一致するかもしれないが
物理的には全く無意味である。
そもそも時間に向きが生じるのは、変数が2つあるからである。
もし呼吸(光合成)が空気を吸って空気を吐き出すものならば(すなわち変数が1つ)、
どちらが過去とも未来とも区別がつかない。というより呼吸(光合成)の概念すらない。
つまり、[呼吸]=酸素→炭酸ガスの流れは許されるが、炭酸ガス→酸素の流れは禁止される。
同様に、[光合成]=炭酸ガス→酸素の流れは許されるが、酸素→炭酸ガスの流れは禁止される。
すなわち、呼吸と光合成においては酸素と炭酸ガスの役割が実と虚として入れ替わっていて、
まさに複素共役の関係にあるということである。
それは、スポーツの試合において、攻撃側と防御側という変数が2つあると時間の向きが
生じるのと同じだ。
ちなみに複素共役においては時間のtと -tが必然的に出てくることを証明してみよう。
円の一点を一周させたものを平面座標に投影すると正弦波、すなわちサインカーブになる。
その場合時計回り、反時計回りによって位相が半波長πずれる。
そして、一方を正の周波数とすると一方は負の周波数である。
つまり、互いに山と谷が逆転し、重ね合わせると打ち消し合う。
さて、f=1/ Tとすると、
負の周波数、すなわち -f=1/-Tとなり
時間tと-tがでてくる。
以前、別スレ(dat落ち)に書き込んだレスを貼っとく
§回折は粒の特性である§
従来、回折は波の特性とされてきた。
実際光や電子の回折現象を観測することにより、それらは波の性質をもっているとされる。
ところが、実は回折は粒の特性なのである。
≪粒による回折のイメージ≫
図1 ●
↓
──┐●┌──
──┘ └──
//| \
●● ● ●
<不規則>
図1のようにスリットめがけてボール(粒)を落としたとする。
もしボールが上手く通り抜けたならば真下に落ちるだろう。
しかしスリットの縁に触れ、方向を曲げられたならばあちこちに分散する。
しかし規則性は説明できない。
ゆえに粒的なモノによる回折の説明は困難である。
≪実験事実≫
図2 ● L
↓
← →
──((●))──
──┘ └──
/|\ M
波動
(2次的)
さて、実際に上の図のような実験を行うと、けっして図1のようにはならない。
(ただしスリットの間隔は、ボールが通れるか通れないかの幅である)
すなわちボールがスリットの縁に触れると、ボールは激しく振動する。
理想的に振動したボールはすっかり位置エネルギーを失い、
ボール自身はスリットを通り抜けられない(ボールがもっていたエネルギーは
音として通り抜けられる)もちろんボールは床に落ちる。
しかしそれはMの位置エネルギーによるものであり、L によるものではない。
すなわち回折の主役はあくまでも粒であり、波動は2次的なのである。
回折が粒の特性ならば、波による回折はどう説明するんだ?
と思われるかもしれない。
実はこの場合も粒の立場から説明できるのである。
図3 ○密
●疎
──┐ ┌──
│○←圧力高い
──┘ └──
/↓\
拡散
そもそも波とは山と谷が交互に移動して行くものであり、その半波長は粒の性質をもっている。
そしてスリットは半波長を選択するのである。図3は音波の例であるが、
スリットに密の位相があるとしよう。すると周りよりも圧力が高いため、拡散しようとする。
図4 ●疎
○密
──┐ ┌──
│●←圧力低い
──┘ └──
/↑\
収束
上の図は図3とは逆に、疎の位相がある状態である。
すなわち周りよりも圧力が低いため、収束しようとする。
結局スリットは発振装置なのであであり、回折は発振作用なのだ。
音叉A,Bがある。
さて、音叉の前にいる友人に音叉を叩く瞬間眼をつぶってもらい、
そしてどちらか一方の音叉を叩く。その友人に共鳴の知識が全くないと仮定する。
さて、その友人にどちらの音叉を叩いた?と問うと、何と答えるだろうか?
共鳴現象はギターの弦を考えても同じだ。
すなわちギターが何台あろうとも、一つのギターの開放弦を弾くと全てのギター
の開放弦が鳴りだす。
ちなみに微妙に調弦されてないとうなりが生じる。
で、何が言いたいかというと、いわゆる二重スリットの謎解きである。
すなわち分割不能な電子は分割する必要はない。
二重スリットを共鳴系とすればどちらか一方を通過、否、どちらか一方に到達
すればいいのである。
(
>>197の定義により、電子銃から発射された電子そのものがスクリーンに到達
するわけではない)
俺は数学を勉強したことはないが、負の数の概念を教えるのは小学校から?中学校から?
まぁどっちでもいいが、数直線上の一点に原点をとると、
例えば右に行く方向を正(プラス)とすると左に行く方向が負(マイナス)である。
図1
←負 正→
─────┼─────
-∞ -χ 0 χ ∞
さて、0を何もない状態とすると、何かが存在すると(プラス)の数値が付随する。
ならばマイナスの存在は何か?という話になる。
すなわちプラス1個、100個のリンゴは考えられるが、
マイナス1個、100個のリンゴは考えられない、というわけである。
さて、学校で教える、というよりは基礎物理学、あるいは数学が採用している
数直線上に存在する正負の解のベクトルは一方的なものである。
図2
小さい← < ←大きい
最 最 最 最
小 大 小 大
─────┼─────
-∞ -χ 0 χ ∞
すなわちプラスの領域においては数値が大きいほどポテンシャルが大きい、
そしてゼロ点が最も小さい。
逆にマイナスの領域においては今度はゼロ点が最もポテンシャルが大きく、
絶対値の数値が大きくなるほど小さくなる。
しかし、以上の解釈は現実の世界とは何の対応関係もない、架空の世界なのだ。
例えば音波を考えてみる。
図3
負圧●→ ←○正圧
─────┼─────
-∞ -χ 0 χ ∞
音波は大気の疎密、すなわち負圧と正圧が交互に伝わって行くものであるが、
もし音波を伝える大気が図2の論理に支配されているのならば、
地上に音波が発生する度に大気圧は減少する。しかしその様な事実はない。
否、そもそも音波は発生しない。
ようするに、大気が正圧か負圧かというのはゼロ点(1気圧)からプラス側にずれるか
マイナス側にずれるかの違いなのだ。そして、どちらにしろ1気圧に向かって復元力が働く。
図4
負の 正の
ポテンシャル ポテンシャル
高 → 低 低 ← 高
─────┼─────
-∞ -χ 0 χ ∞
すなわち、正負を問わず絶対値が大きいほどポテンシャルは高いのであり、
正負を問わずゼロ点が最もポテンシャルが低いのである。
一対の正圧と負圧●○を音の量子とすると、さらにそれぞれ正負の質量(エネルギー)を
もっているとすると、音波においては音の量子の質量がゼロであることとエネルギーを
有することに本質的な矛盾はない。
すなわち○正圧は密度が大きい分重く、●負圧は密度が小さい分軽い。
しかし一対の●○は±0(1気圧の重さ)である。
つまり、時間平均するとゼロであるが、●○のそれぞれはあくまでも正負の質量を有する。
さて、光の量子である光子を媒質(エーテル)の立場から解釈すると、
光子は正の質量をもった電子○と負の質量をもった陽電子●の複合粒子である。
すなわち光子を●○とすると、全体としての光子の質量はゼロであるが、部分的には
正負の質量を有する。
さらに光子を劫をモデルにすると、
● ○
● ● ○ ○
○●○ ●○●
○ ●
負の質量 正の質量
となる。
すなわち、正負のエネルギーとは、あるいは時間とはそれぞれ劫を取られた側が
劫を取り返す行為に他ならない。(復元力)
劫は非平衡的平衡なオブジェである‐すなわちどちらにしろ対称性が破れているが、
どちらにしろ取り返せるという意味で対称性がある。
さらに、物質(正粒子)の周りの光子は電子側にセットされ、反物質(反粒子)の周りの
光子は陽電子側にセットされる。
それゆえ反物質(反粒子)は必然的に負の質量(エネルギー)をもっていなければならない。
陽電子などの反粒子が負の質量をもっていると主張すると、既存の物理学に反すると
思われるかもしれない。
しかしそれは既存の物理学が、本来負エネルギー解の反粒子を正の質量をもつように
再解釈した下に構築しているからである。
すなわちそれはディラックの海であり、ファインマン流の時間の逆行だ。
しかし現在ディラックの海は主流でないし、時間の逆行もかなりアブナイものである。
そもそもなぜ時間の逆行が良くて、なぜ負の質量がダメなのかの理屈が分からない。
いや、その理由ははっきりしている。
すなわち物理学者が図2のパラダイムを採用している限り、物理学者は負の質量(エネルギー)
を扱いたくとも扱えない、ということだ。
つまり物理学者は現実の世界とは対応関係のない、ありもしないパラダイムで
負の質量を定義し、そして負の質量はありえない、として負を捨てているのである。
時間の逆行という概念を使うと、現象としての負の物理量を代用できる。
例えば高気圧は下降気流↓であり、低気圧は上昇気流↑であるが、
もし気象学者が望むとあらば、時間を逆行させると低気圧という概念は必要ない。
すなわち低気圧は時間が逆行する高気圧とすれば、下降気流↓が反転して上昇気流↑になる。
あるいは、掃除機はモーターを回して負圧を作り出し、拡散したゴミを一ヶ所に収束
させるものであるが、負圧が存在すると地上の大気は全て負に落ち込んでしまう、として
負圧を否定したとしよう。その場合時間を逆行させると負圧のポテンシャルは必要ない。
すなわち時間の逆行装置である掃除機は、見事なまでに拡散したゴミを収束させる。
ならばその掃除機は、いわゆる先進ポテンシャル(先進解)によって駆動されているのか?
↓ ↑
→●← ←○→
↑ ↓
負圧(収束) 正圧(拡散)
実際の掃除機は負圧のポテンシャルを利用したものであって、
いわゆる先進ポテンシャルを利用したものではないことは言うまでもない。
よく、プラスの長さは考えられるがマイナスの長さは考えられない、などと言われるが、
別にマイナスの長さを導入しても何の問題もない。
例えば高気圧、あるいは正圧をもった形態の直径を +χとすると、
低気圧、あるいは負圧をもった形態の直径は -χである。
すなわち、同じ性質を共有するものを重ね合わすと加算されるが、
反対の性質をもった形態を重ね合わすと減算され、場合によって両者は消失する。
つまり一方の長さを正とするならば、一方の長さは負としなけば計算が合わない。
ここで注意しなければならないのは、負の長さ、負の質量、負のエネルギーといった
負の物理量を消去する唯一の方法があるということである。
すなわちそれは誰も自らを負と呼ばない、ということだ。少なくとも自虐的でない限り、
例えば正物質に対し反物質と呼ぶが、では反物質と呼ばれた側は
そうです、我々は反物質です。と言うだろうか?おそらく言わないであろう。
つまり、仮に正の質量に対し負の質量、正のエネルギーに対して負のエネルギーが
存在するとしても、誰も自らを負と呼ばない。
誰も自らを負と呼ばないならば、その意味では負の質量(エネルギー)は存在しない。
しかし一方を正と呼ぶならば、一方は負と呼ぶしかないのである。
なぜならば、両者は相殺し合える量であるからだ。
場の量子論はある意味で物質なるものと空間との一元論である。
すなわち何もないはずの空間から粒子・反粒子対が生成され、さらに元の何もない状態に戻る。
そしてそれを記述する言葉が、生成(消滅)演算子である。
ならばそれはある意味で化学の世界と類似している。
[水溶液]
酸性 アルカリ性
─────┼─────
1 ph7 14
(中性)
すなわち酸とアルカリにおいてはph7がゼロ点、すなわちどちらとも言えない
(両方の性質を有する)状態であり、
どちらかにずれるかによって酸性の場とアルカリ性の場に分離する。
つまり、まさに酸と塩基は互いに生成・消滅の演算子の役割を果たしている。
ただし化学者と物理学者の違いは、化学者は電荷には+と−があることを知っているのに対し、
物理学者は+の質量を相殺すべき、−の質量を知らないことだ。つまり、物理学者の世界観は、
+の世界
─┼──────
0 +χ +∞
である。
結局、媒質(エーテル)の世界にはゼロ点という基準系が存在する。
すなわち媒質においてゼロとは何もない状態ではなく安定点であり、正負の物理量が
結合、あるいは重ね合わさって±0の状態であり、ある意味ψの世界である。
さらに我々の知る限り連続体の媒質はないのだから、媒質は量子論以上に量子論的である。
場を媒質に置き換えると空間(時空)を実体として把握できる。
すなわち水が水素と酸素の結合体であるように、光子は電子と陽電子の複合粒子とすると、
[ゲージ粒子]
○ ○
○ ○ → ○●○
●○● ← ● ●
● ●
電子と陽電子の物理量が重なり合っている。
すなわち部分的(時間的)には区別がつけられるが、全体的には区別がつかない。
まさに絶えず虚実が入れ替わるψの世界である。
その部分と全体の区別を無視し、同一視してアッチの方向へ行ったのがいわゆる
シュレーディンガーの猫である。
結局のところ場とは疑似エーテルにしか過ぎない。
すなわち物理学者はエーテルを否定したところで、実際に使っているのは媒質なのだ。
例えば競技場のウェーブを考える。
言うまでもなくウェーブは観客席に陣取る個々の人間が起こすものだ。
この様子を場で記述すると、観客席A,Bの間に C がいる。さらにA,Cの間に D がいる。
さらにA,Dの間に E が…この操作を競技場全体に飽くことなく無限回繰り返すと場が
でき上がる。
すなわち場とは構造をもたない無限個の点の集まりなのだ。
ならば、連続体の場においては必然的に物理量が無限大に発散する。
可算個でありパイが決まっている実際の競技場はそうではないが、場は無限大の困難が
内在する。
結局、物理量を有限値にするためにはどこかで切断因子を導入せざるをえない。
つまり場と媒質の違いは、数学的操作によって離散化の手続きが必要なのが場で、
最初から離散化されているのが媒質なのだ。
では連続体の場をどうやって離散化させるかというと、例えば端点のあるギターの弦、
あるいは閉曲線に生じる定常波は長さ Lに対し整数倍の波長に限られる。
つまり数学的操作を行えば弦の波動と同じものになる。ただ違いは何かというと、
弦の振動は原子・分子の間隔以下にはなれないが、連続体である場はいくらでも振動数が
大きな波が考えられる、ということである。
量子力学には調和振動子が頻繁にでてくる。調和振動子というと聞こえはいいが、
要はバネに錘が繋がった素朴な機械仕掛けのオブジェである。
もちろん、原子・分子、結晶からなる媒質は調和振動子以外の何物でもない。
ところが構造をもたない点の集まりである場のどこを探してもバネと錘のメカニズムはない。
ただ数学的操作をすると調和振動子と同じ形式に記述できるというだけである。
電磁場の光子のイメージ→(・)場の量子論に基づくとこれ以外には表現のしようがない。
しかし、場を媒質に置き換えると
光子→(電子-陽電子)となり、光子を実体と把握でき、バネと錘(質量項)がでてくる。
さて、場と媒質は基本的に空間の各点に与えられた物理量が連続的か離散的かの違いは
あるものの、
空間の各点にスカラー・ベクトル・テンソルといった物理量が付与されているという
意味ではそれほど違わない。
ならば、光を伝える媒質(エーテル)にエーテルの風が定義できるならば、
光を伝える電磁(場)に場の風が定義されないのはおかしい。なぜ完全スルーなのか?
光が横波ならばエーテルは個体でなければならない、というならば、
それは場も同じではないのか?
つまりエーテルに困難が生じるならば、場にも同じ困難が生じる、ということである。
要するに、場は媒質の上位にある、という考えは幻想にしか過ぎない。
216 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/02/02(月) 10:58:14 ID:tw+hW7mw
誰か突っ込んでやれよw
いや。良くこれだけ妄想出来るなと関心してたw
いや。ひも理論といい勝負だなと関心したw
219 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/02/02(月) 17:51:16 ID:6X7wS8L5
アルテマ使い放題だな
MPが回復する…
ただそれだけのことだ
221 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/02/02(月) 20:18:54 ID:M6ymeE1u
不動点が生じる
エーテルは存在する!!
真空の場がエーテルなのだ!!
ちょっと物理とは関係ないんですけど、
風来のシレンで「エーテルデビル」っていうモンスターが要るんですが、
わたしはずっと「エーデルデビル」と思っていました。
エーテル噴火したね
あれだ。長すぎて読む気がしない。
誰か主張を3行でまとめてくれ。
226 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/02/04(水) 00:54:13 ID:am3abiv8
エーテルは存在する!
存在するんだ!!
ダッーーー!!!
イーサネットってエーテルからきてるんだぜ!
228 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/02/04(水) 01:11:01 ID:7PLVHSIm
ほんと?
もしメーコスジが存在したら
230 :
麻生:2009/02/04(水) 13:53:51 ID:rCvH89zI
やっぱり後半はエリクサーだよな
231 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/02/04(水) 19:55:25 ID:2Xj0YCYj
むしろ大事に扱い過ぎてエリクサーを使うタイミングを逃してしまうんだが…。
233 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/02/04(水) 21:53:49 ID:RT27u8mf
死ぬほど頭痛いときはほしい
ヒッグス場はエーテルみたいなもんじゃなかろうか?
これも以前別スレに貼ったもの
物質創成
●○
←●○●○→
●○
↑
光子は← →を軸に、↑を基点に互いに反対回りに回転できるとする。
さて、高エネルギー状態に励起された光子がちぎれんばかりに回転すると、
光子は← →の方向に引き伸ばされる。
●●○○
●○○●●○
●●○○
← →
●●●○○○○
○○○●●●●○
●●●○○○○
引き伸ばされる長さは加えられるエネルギーに比例する。
●●●○○○○○
○○○●●●●●
●●●○○○○○
← →
やがて引き戻される
●●●○○○○○
○○○●●●●●
○○○●●●●●
●●●○○○○○
→ ←
●●●○○○○
○○○●●●●○
○○○●●●●○
○○○●●●●○
○○○●●●●○
●●●○○○○
→ ←
そして衝突
→×←
○○○
○●●●○
○●●●○
○●●●○
○○○
●●●
●○○○●
●○○○●
●○○○●
●●●
最終的にクォーク?の泡粒が創られる。
237 :
kaihara:2009/04/26(日) 14:43:21 ID:loXep3M0
前レス読んでないけど、
電子を飛び出させる時のエネルギーがエーテルを振動させて、そのエーテルにのった電子が干渉縞をつくる。
というのはどうです?
238 :
kaihara:2009/04/26(日) 14:45:44 ID:loXep3M0
239 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/04/26(日) 16:57:35 ID:atJg6XS/
シルバートゥースという人がマイケルソン・モーリーの干渉計よりはるかに
精密な測定装置を使って実験した結果エーテルの存在を間違なく確認したそ
うだ。レーザーを利用したものらしい。Speculatioens in Science and--
tecnorogy,VO1.10.No1.3〜7
240 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/04/26(日) 23:27:43 ID:atJg6XS/
>>239光はなぜ遅すぎるか。132に回答が出ました
現代物理によると粒と波の二重性は不可知の領域らしい。
すなわち局在の象徴である粒的なモノと、空間的広がりをもつ波的なモノが
一つのモノに収まっていることに納得がいかないと言うことである。
ようするにミクロの世界を探求する物理学者は、俺たちはこんなにも得体の
知れない化け物と日夜格闘しているという自己陶酔に浸っているのかもしれないが、
それは単にエーテルを捨てた代償に過ぎない。
すなわち媒質の世界から見ると、それらの苦悶はある意味滑稽である。
バネに繋がった錘の軌跡を時間軸に沿って2次平面上にプロットすると、サインカーブを描く。
すなわち調和振動子はどっから見ても粒的な物体である。
にもかかわらず正弦波を生じながら振動するのだから、調和振動子は粒と波の二重性が実現している。
そして原子・分子からなる媒質は調和振動子の集団そのものなのだから、
媒質においては粒と波の二重性に思い悩む必要はない。
例えば、局在する ○←粒的なものが上下に波打ちながら進んで行くとすれば考えにくいが、
○…○←原子と原子がバネで繋がったモデルを考えるならば(すなわち分子)、
粒であり波であり、それ以外の何者でもない。
光が粒であるか波であるかの論争は、ニュートンの粒説とホイヘンスらの波説との長い対立があった。
しかし光に波特有の回折・干渉が見いだされ、さらに、光は電磁(波)の一種に過ぎないことが分かった。
ならば水の波や音波との類推から、光も何らかの媒質が必要とされた。それがエーテルである。
要するに、エーテルは波だから必要とされたわけである。
ところが前世紀の変わり目に、ウィーンという物理学者が光の分子説で空洞内の黒体放射の短波長側の
スペクトルを上手く説明した。しかし長波長側は従来の波説と一致した。
そして両者を整合させたのがプランクである。
光=波説で圧倒的な勝利を納めていた物理学者に、ミクロの世界から光は粒的な側面をもっている
という反例が示され、波としてのエーテルへのこだわりは急激に失われ、エーテル説は潮が引くように衰退した。
しかしこれは明らかにボタンの掛け違いである。
そもそも回折や干渉が波特有の現象という描像そのものが怪しいのである。
確かに、○←粒的なモノが干渉を起こすとは考えにくい。
しかし同じ粒的なモノであっても、それが ○…○←調和振動子とするなら粒的なモノと干渉は対立しない。
そして重要なのは、水であれ大気であれ原子・分子といった粒々の集合体であるということだ。
要するに、エーテル(媒質)は粒だから必要なのである。これが正しいエーテルの定義である。
そして、それが粒的か波的かは波長域に依存する、と言うことである。
つまり、水の波であろうと音波であろうと光(電磁波)であろうと、
それが粒的であるか波的であるかというのは単に波長域の違いに過ぎないのだ。
例えば超音波で母親の胎内を見ると、胎児の性別が分かる。
かつては産まれなければ分からなかったものが今では分かるのだ。
すなわち本来音は耳で聴くものであるが、超音波を使うと映像に変換して見ることができる。
つまり、波長の短い超音波は光と似た性質をもっていると言える。
あるいは何かを洗浄しようとした場合、いくら大きい音(振幅が大きい)を当てようと、
短波長成分が含まれていないと汚れは落ちないが、それが超音波なら汚れは落ちる。
すなわち超音波洗浄はある意味光電効果の音響版と言えなくもない。
ここで繰り返すが、音波を担う媒質は原子・分子といった粒々の集まりだということだ。
ようするに、単に本性を表したに過ぎないと言うことである。
量子力学によると電子は観測前には空間全体に広がっているが、観測するとある一点に見いだされる。
そしてそれを波動関数の収縮と呼ぶ。
それゆえミクロの世界は我々の常識が通用しない、不可思議な世界だということである。
ところで次のような命題を考えてみよう。
※水を満たしたコップに水素イオン(すなわち陽子)を1個注入したとする。
ではt時間後に水素イオンはどこにいるのか?
この場合もやはり水素イオンはコップの中全体に広がっていると言うしかない。
なぜなら水は水素と酸素の複合粒子なのだから、陽子はそこいら中に存在しているからだ。
もちろん、例えば特定の陽子を生命科学における手法のように造影剤でマーキングしてトレースできるならば、
空間全体に広がった陽子という概念は必要ないかもしれない。
しかし特定の陽子に目印が付けられない以上、水素イオンを水の中に注入した瞬間、我々はそれを見失う。
すなわち、※の命題は本質に確率的になる。
さて、場を媒質に置き換えるならば、すなわち水が水素と酸素の複合粒子であるように、
光子は電子と陽電子の複合粒子であるとすると、宇宙は光子エーテルで満たされている。
ならば電子はそこいら中にうじゃうじゃと局在していることになる。
しかしほぼ同量の陽電子と対になっているならば、我々が観測できるのは過剰な電子だけである。
つまりたとえある一点で電子が観測されようとも、他の場所の存在確率が0になったわけではない。
電子は依然としてそこいら中に局在している。ただ陽電子と対になって隠れているだけである。
さて、水の中に注入された水素イオンはどのようにして水の中を移動するのか?というと2つの様式が考えられる。
1つはその陽子自身が移動する場合である。それはサッカーのボールをドリブルしながら運ぶようなものだ。
もう1つは、陽子が近くの水分子にくっ付き元々の陽子を弾きだす。
さらに弾きだされた陽子は別の水分子にくっ付き元々の陽子を弾きだす。この一連の行為によっても陽子は移動する。
例えて言うならパス回しでサッカーボールを運ぶようなものだ。
野球で言うなら5、4、3のダブルプレーと言った場合、三塁手自身が一塁に移動するわけではない。
5、4、3と移動するのはあくまでもボールである。しかしボールをもった選手は移動する。
あたかも電光掲示板の文字のように。
水を張ったバケツを遠くへ運ぼうとした場合、周りに誰もいなければ自分自身が移動しなければならない。
しかし周りに媒介する人間の集団がいるならば、バケツを次々と渡せばバケツは遠くへ運ばれる。
つまり人間そのものは移動しない。あるいは微小距離しか移動しない。
しかし、(バケツをもった)人間は移動する。
その様子は、水の波が移動するのはあくまでも情報パターンであって、水そのものではないと同じだ。
現在物質波の概念は不可知の領域と言われている。実際物質波の明快なコンセプトはない。
しかし光子は電子と陽電子の複合粒子であり、光子が空間を満たしているならば、
電子が空間全体に広がっているという概念はある意味当たり前である。
さらに空間のどこかに見いだされたとしても、それが空間全体に広がっていた電子が一ヶ所に収斂した
わけではない。元々そこにいた電子がたまたま我々の目に留まっただけである。
水は誘電体(絶縁体)である。すなわちイオンに対し分極し、イオンの電荷を遮蔽する。
<図1>+イオンの回りの水分子
○水素+
●酸素−
○● ○ ●○
\
● +の
○ イオン
<図2>−イオンの回りの水分子
●酸素−
○水素+
●○ ● ○●
\
○ −の
● イオン
(実際は水素原子2個)
分極した水分子の遮蔽効果により、イオン間の相互作用は元の値の1/100以下に
なると言われている。
<図3> 電子の回りの(仮)の電子・陽電子対
○電子
●陽電子
○● ○ ●○
\
● 電子
○
<図4> 陽電子の回りの(仮)の陽電子・電子対
●陽電子
○電子
●○ ● ○●
\
○ 陽電子
●
誘電体である水がイオンを取り囲み、イオンを遮蔽するということは、
裏を返すと水はイオンに対して良い溶媒であるということだ。
さて、真空は誘電率が定義されるのだから真空も又誘電体であろう。
すなわち裸の電荷と、それを取り巻く仮想粒子による有効電荷という概念は
水の世界と良く似ている。
ところで、この力を媒介する仮想粒子という概念もよく分からない代物である。
仮想粒子は観測にかからないだとか、実測されないだとか、極めて短時間なら
エネルギー保存則を破ってもよいなどと都合のよいモノであるが、少なくとも
エーテルを排した現代物理においては間違っても実在粒子とは言えないわけだ。
そもそも無という状態には2種類ある。すなわち絶対無と存在無だ。
絶対無とは文字通り何も無い。少なくとも無以外は。
それに対し存在無とは一見何も無いように見えて実は存在している状態である。
物理学においては真空、すなわちエネルギー最低状態の空間を |0> で表し、生成演算子を作用させて真空を埋めていく。
しかし媒質の世界、すなわち水における電荷は |±0> である。
コップ一杯の水には想像を絶する+と−の電荷が満ちている。しかしそれが水である限り±0である。
そして+(−)の電荷を加えようとも、+(−)の電荷を取り除こうとも、+(−)の電荷が存在する状態を作れる。
水素と酸素の泡粒を混ぜ合わせ点火すると、強烈なエネルギーを放って爆発し、生命にとっての時間と空間になる。
すなわち水分子一個は水に生息する生命にとっての時空の1単位である。
つまり、まさに媒質は生成消滅の場なのだ。
この場合媒質においてはいかなる保存則も保たれている。
すなわち電荷レベルで見ると、電荷0の状態から H+と OH-が対生成され、さらに対消滅して0の状態に戻る。
もちろん質量レベルでは厳密性を無視すれば変化しない。
ところが基礎物理学、すなわち場における生成消滅においては質量の保存則は満たされていない。
例えば、質量0のγ線から+の質量をもつ電子と+の質量をもつ陽電子が対生成される。
さらに両者は対消滅して再びγ線になる。すなわちどちらにしろ質量の保存則は満たさない。
もし仮に陽電子の質量が負であるとすると、それは電荷と同じように質量の保存則も定義されるのだが。
そもそも反物質、すなわち陽電子等の反粒子は負エネルギー解の粒子として導出されたものである。
いわゆる非相対論的なシュレーディンガー方程式は E = p^2/2m から導出された。
それに対して相対論によるとされるより厳密な式である、 E^2= p^2c^2 + m^2c^4 から
いわゆるクライン・ゴルドン方程式が導かれ、さらにディラック方程式が導出された。
つまり、特殊相対論+量子力学=場の量子論、と言うことなのであろう。
Eの2乗式であるということは、正と負の2つの解があるということである。
そして負の解の空隙を埋めるパズルのピースとして反粒子は姿を表した。
しかし悲しいかな物理学者は負のエネルギーを扱えなかった。
>>203 それゆえディラックの海やファインマン流の時間の逆行という離れ業により今日反物質は市民権を得た。
しかし現在ディラックの海は主流でないし、もしファインマン流の時間の逆行の合理性に対する信頼が
失われたならば、もはや反粒子は正の質量をもつという再解釈を正当化する理論はない。
ここで注意すべきは、負エネ粒子のベクトルが−∞の方向を向いているという実験事実はないと言うことだ。
実際どこかの実験台に負エネ粒子を乗せたという話は聞かない。
つまり、もし負の質量を有する負エネ粒子が我々の目の前を漂っていたとしても、負の質量に対する定義が間違っていたならば、
負の質量を有する粒子は絶対に発見されることはないということだ。
それは鯨を魚の大型種と定義するならば、鯨は絶対に発見されないのと同じである。
なぜなら鯨は哺乳類だからだ。
そもそも水分子における電荷は電離するとか分極するとかしない限り大局的には観測にかからないのだから、
便宜的に仮想粒子と言えば仮想粒子である。
あるいは我々を取り巻いている地球上の大気もそうだ。地上の大気は1p^2 あたり1sの圧力、重さをもっている。
人間の体の表面積をアバウトに2uとすると、人間は約20tの応力を受けている。
もちろんだからといって、そんな力を感じて生活している人間はいない。
しかし、例えばドラム缶の空気を抜くと、まるでアルミ缶を握りつぶしたごとくクシャクシャに潰れる。
確かに大気は潜在的なポテンシャルをもっているわけだ。
もちろんそれはトリチェリの実験において、水銀を76pの高さまで押し上げる力である。
あるいはもっと身近には、数p^2の吸盤は数sの物体を吊り下げることができる。
吸盤自体は仕事をしているわけではなく、エネルギーを消費しているわけでもない。
力を有しているのはあくまでも大気という媒質であり空間なのだ。
さて、一見何もないと思われている真空において、2枚の平行板を近づけるといわゆるカシミール力が働く。
カシミール効果の原因は真空のエネルギーともゼロ点エネルギー(振動)によるものともされるが、
ようするに平行板の内と外との仮想粒子の振動モードの違いによるものらしい。
しかしいずれにせよ、エーテルを捨てた現代物理においては、間違ってもそれを実在粒子とは言えないことは確かだ。
258 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/06/24(水) 21:21:17 ID:UStEbeJ3
量子力学にいちゃもんつける相間も珍しいw
下の図は12本の線からなる立方体だ。図を凝視していると突然表の面と裏の面が反転する。
さらに凝視し続けると、それぞれAの状態、Bの状態とすると、A、Bの間を揺れ動く。
/ |\
/ | \
|\/ \/|
|/\ /\|
\ | /
\| /
Aの状態とBの状態は排他的関係にある。それゆえ粒と波の二重性を例えばAの状態が粒、
Bの状態を波として説明している記述を見かける。
しかし別の解釈も可能だ。つまり立方体は形あるものとして空間を占有している。
さらにA、Bの状態を往復するのだから、その現象自体が波なのである。
そもそもAにもBにも見えるということは、両者の間に対称性があるからである。
ここで穿った見方をするならば、A、Bの対称性を粒と波の対称性とする見方はひいては
超対称性に繋がっていくのではないか?
しかしA、Bの対称性が波であるとするならば、より高次の対称性があるということである。
オセロゲームの石は○と●の排他的2値を持っている。すなわち白が表の時は黒ではなく、
黒が表の時は白ではない。この場合も12本の線からなる立方体の例のように例えば、○は粒の状態、
●は波の状態、であると記述してあるのを見かける。つまり、よほど粒であることと波であることを
対立させたいのであろう。
しかし、そうではなく、そもそもオセロの石自体が粒なのである。にもかかわらず○と●の間を
往復する、そしてその対極にある状態を行ったり来たりする行為そのものが波なのだ。
仮に白が表を向いているとする。当然黒側は不快なわけだ。それゆえ最終的にはひっくり返してやろうと
機をうかがっている。すなわち常に復元力が働いている。
つまり、石がひっくり返るのは○と●に対称性があるからであり、ひっくり返らないのは
技術的非対称があるからである。
ちなみに四つ角は安定であり、対称性は破れていて、そこが勝敗の別れ所であることは言うまでもない。
ではそもそも粒とは何なのか?粒であると規定する原理はあるのだろうか?
幾つかの白と黒の碁石を握り床にぶちまけたとする。すると白と黒の石はランダムに広がり、明確な形は現れない。
では白と黒の石に互いに互いを取り囲む、という性質をもたせたならばどうなるのか?
もちろんそれは実際の囲碁というゲームに他ならない。
さて、白が黒を包囲したとする。すなわちこの状態が粒なのである。すなわち白と黒は表と裏に分離され
明確に区別がつく。床にぶちまけたランダムな石の配置は表と裏の境界をもたないが、一方が一方を包囲してしまえば
局在した形が空間を占有する。
もちろんその共役量として、黒が白を包囲した、すなわち表と裏がひっくり返った形態も対称性の観点から存在する。
○ ●
○●○ ●○●
○ ●
仮にそのそれぞれを電子と陽電子に対応させるならば、あたかも両者が結合して重なり合った
図が劫であり光子モデルなのである。
○ ○
○ ○ ← ○●○
●○● → ● ●
● ●
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
\_________\
\|__________|
さて、表が青、裏が赤(色は何でも良いが)のテープを用意する。ただしこのテープは弾性力をもったテープである。
弾性体だということは上の図の状態が安定であり、曲げるには力を加える必要があり、
常に平な状態に戻ろうとする性質をもっている。さて、上の図のテープに力を加えて輪にしたとしよう。
すると、それは囲碁の地と同じように例えば青と赤の面が表と裏に分離する。
包囲理論(SARAUNDO THEORY)の立場からすればそれが粒、すなわち粒子に対応する。
/||\ / ̄\
/||||||\ / \
|\/ \/| |\/ \/|
| \_/ | |||\_/|||
\ / \||||||/
\_/ \||/
細長いテープを半回転ひねって輪にすると、いわゆるメビウスの帯になる。
/ ̄\ / ̄ \
/ \ // \ \
|\/ \//\ \/|
| \_/ /\ \_/ |
\ / \ /
\_/ \_/
メビウスの帯を2色に色分けしようとしてもどこかでぶつかり、せめぎ合う。
メビウスの帯は表(実)であり同時に裏(虚)でもある。
すなわち部分的には裏表(虚実)の区別はつくが、全体的には裏表の区別はつかない。
つまり、位相幾何学(トポロジー)の立場からはメビウスの帯は波動場の量子なのである。
ユークリッド幾可学
曲率=0
―/― /―-|―\―
/――/――*――\-
/ | \
 ̄ ̄/ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄
A B
ユークリッド幾可においては直線 A上にない点*を通る平行線はただ1本引ける。
非ユークリッド幾可学
||| /|\
||| / | \
||| | | |
/ | \ | | |
/ | \ \ | /
\|/
曲率=負 曲率=正
非ユークリッド幾可学、すなわち地球表面のような閉じた球面には平行線は引けない。
あるいは鞍形、漏斗状のような双曲平面には無数の平行線が引ける。
非々ユークリッド幾可学
曲率=±0
正のベクトル
―――――――――→
←―――――――――
負のベクトル
ユークリッド幾可においては直線を右から引こうが左から引こうが任意である。
しかし非々ユークリッド幾可においてはその限りではない。
すなわち、互いに逆向きのベクトルをもつ平行線は交わらない。
つまり、互いに水と油のように交わらない、という意味で平行線なのである。
さらに、互いに逆向きのベクトルをもった直線は互いに相手を取り囲もうとする。
そして互いに包囲して対称性が破れた状態がそれぞれ物質と反物質なのだ。
ようするに、物質(反物質)とは正負のベクトルをもつ2直線からなる構造体なのだ。
さらに空間とはそれぞれ対称性が破れたモノ同士が対になったモノである。
すなわち物質なるモノ、空間なるモノ、そして力を担うモノに本質的差はない。
ようするに物質(反物質)とは空間の片割れ、すなわち割れた一片なのだ。
高次元の宇宙を2次元に落とす
メビウスの帯
↓
―/― /-∞|―\―
/――/――|――\-
∞ / | ∞ \
 ̄ ̄/ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄
-SPACE TENSION-
我々の宇宙は位相幾何学におけるメビウスの帯(クラインの壺)である光子で満ち満ちている。
すなわち光子一個は時間と空間の1単位であり、そして最小単位なのだ。
さらに極超対称性粒子(質量の次元においても正負の値をもつ)である光子により
正負の重力場が形成され、この宇宙に引斥力をもたらす。
ちなみに我々の宇宙は実と虚からなる複素体である。
ノーベルトルよ、パクんなよ!
268 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/07/30(木) 17:25:52 ID:mY1nSuW6
隔離スレハケーン
<構造体としての点>
点は構造体である。いや、そもそも構造体でなければ点ではありえない。
では点を数式化してみよう。
アレフχlim(∞)=0
俺は数学を勉強したことがないので表記法が正しいかは分からないが、
ようするにカントールの無限集合論を一般化したものである。
と言ってもカントールの無限にも色々あるというアイデアを頂戴しただけであり、
カントールの無限集合論とは直接的には何の関係ない。
上の数式の意味するところは、ある(無限)集合χにおいて、その極限が0に一致するならば
すなわちそれが(点)なのである。
では具体的にみてみよう。
1日は24時間である。そしてその1時間後は午前1時だ。すなわち (24)=0
もっとも午前1時を25時、午前2時を26時、以後27、28…としても構わない。
ならば次の日は永遠にやってこないだろう。すなわち昨日、今日、明日という概念はなくなる。
つまり24という極限があるからこそ我々は、連続的な時間というものを一個二個と認識できるのだ。
ようするに アレフχlim(∞)=0において、極限(24)が0に一致するならば、それが点なのである。
さて、我々は1日という一つの単位によって規定されているわけであるが、
だからといって1日という単位の単調な無限の羅列で生活しているわけではない。
すなわち1週間というさらに階層の大きな全体集合によって行動を規定されている。
例えば月曜から金曜まではせっせと働き、週末には思いっきり遊び、日曜には体を休めるというように。
さらに1ヶ月という単位があり、さらに1年、世紀、ミレニアムとキリがない。
もちろん、1日を構成する1時間は分(60)の集合であり、さらに秒、ミリ、マイクロ、ナノ、ピコ、
フェムト秒とこれまたキリがない。
地球上を真っ直ぐどこまでも進んで行くと、やがて出発点にたどり着く(戻ると言うべきか)。
すなわち無限遠点(∞)が出発点(0)に一致するならば、それが地球の大きさなのであり、点なのだ。
地球が地球型惑星である限り、地球の大きさは任意ではない。
すなわち地球の大きさをどんどん大きくしていくとぶよぶよになり、重力的に不安定になり、
やがて2つにちぎれるか太陽系の藻屑と化してしまうだろう。
つまり地球型惑星の大きさには上限(下限)がある。
その状況は木星型惑星にも言える。
木星は太陽になりそこねた天体とも言われるが、もし木星が十分な水素ガスを身にまとっていたならば
その時点において惑星としての木星は消滅する。
すなわち十分な質量を獲得した木星の内部で核融合反応が進行し、自ら光を放つ恒星となるからだ。
そして同時に、かつては木星の周りを回っていた幾つかの衛星も惑星へと昇格する。
すなわち木星型惑星においても上限と下限があり、決してその大きさは任意ではない。
我々の太陽は平均的な恒星と言われ、その寿命はおよそ100億年と言われている。
では太陽よりも巨大な天体はより長寿命なのか、というとそうではない。
一見巨大な星はその分大量の燃料がありそうなものだが、巨大な星は巨大であるほど
自らの体重を支えるためにより大量の燃料を消費する。
それゆえ例えば太陽の10倍の質量の星の寿命は1000万年と言われる。
つまり巨大であればあるほど、宇宙的な時間のスケールからすれば打ち上げ花火のように
儚いものとなる。
すなわち恒星の大きさは寿命というパラメーターにより規定されている。
我々は普通、頭の中に無限に大きな数を思い描くことはできないと思っている。
実際、仮にどんなに大きな数をイメージしても、それに1を加えるとさらに大きな数が創れてしまい、
キリがない。しかし現実の物理的な世界においてはその限りではないことをすでに説明した。
すなわち物理的世界においては上限(下限)がある。
つまり1を加えるとその物理的実体は消失する極限、すなわちカタストロフィが待ちうけている。
ようするに点は構造体であり、点であるための構造をもっている。
アレフχlim(∞)=0 においてその極限がゼロであるということは、
点の最大領域は常に0だと言うことである。すなわち我々の世界はゼロの集まりなのである。
夜空を見上げると無数の星々が輝いている。
しかしだからといって宇宙は恒星がランダムに配置されたもので成り立っているわけではない。
すなわち恒星は何百、何千億と集まって銀河という名の下に閉じこめられている。
つまり宇宙的スケールから見れば宇宙は銀河を最小単位とする点から成っているのであり、
恒星が最小単位であるわけではない。
さらに我々の銀河系のような銀河が集まり銀河団という構造を形成し、さらに超銀河団を形成する。
ようするにミクロ系であれマクロ系であれ階層構造を成していて、決してこの宇宙に連続性を見いだす
ことはできないことは明らかである。まさに無限にも色々あると言うことだ。
従来、一般的に点は構造をもたないものとされてきた。つまり構造体はさらにより小さな要素をもつからだ。
しかし少なくとも点が何らかの性質を有するならば、点とは分割するとその性質を失うモノ、とすると
点と構造体は矛盾しない。
例えば人間一人一人は社会を構成する点、すなわち最小単位としても構わないであろう。
実際人間を2つに分割して投票用紙を2枚下さい、と言っても無理な話だ。
もちろん人間は無数の細胞に分割され、さらに細胞は無数の原子に分割される。
しかしだからといって原子をいくら集めても人間には成らない。
つまり原子から人間を構成するにはまず細胞という有機体を経なければならない。
さて、もし電子や光子等の素粒子が点であるならば、それは必然的に構造体でなければならない。
逆にもし構造体でなければそれは点ではありえない。いささか逆説的ではあるが。
では階層構造はマクロ系にもミクロ系にも永遠とつづくのだろうか?
いや、そうとも限らない。すなわち アレフχlim(∞)=0 ならば、
それを変形すると、アレフlargestx=アレフsmallestxとなる。
すなわちマクロ系とミクロ系は実は繋がっていて、円環構造を成しているのかもしれない。
277 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/10/01(木) 15:48:02 ID:sFthkahU
ageてやるね!
マクスウェル方程式は流体力学をモデルに作られたと言われている。
実際、div(発散-湧き出し、吸い込み)、grad(勾配-天気図の等高線みたいなモノか)、
rot(回転、渦-台風や竜巻みたいなモノか)。
まさに流体力学そのものである。
ならば相対論がエーテル(媒質)を否定した理論ならば、マクスウェル方程式は
流体力学から流体を取り上げたようなモノなのか?
じゃあ、実体がないのなら、div、grad、rotを担っているのは何なんだ?ということになる。
もちろんそれは言うまでもなく「場」である。媒質はないが場があるということである。
ならば「場」とは何だ?という話だ。
場とはφ(r,t) r(x,y,z)で表記される。
すなわち空間の各点にスカラー、ベクトル、テンソルといった物理量が付与されている。
・・・ →→→ ◇◇◇
・・・ →→→ ◇◇◇
・・・ →→→ ◇◇◇
scholar vector tensor
スカラーとは温度や密度などのように大きさはもつが方向をもたない量であり、
ベクトルとは風や水の流れ、力や速度のように大きさと方向をもつ量であり、
テンソルとはある微小面にかかる応力とか歪みなどの複雑な量である。
つまり何のことはない、媒質そのものである。
材料系の分野では、テンソルなるものは普通に使う用語であろう。
結局エーテルを否定したところで、実際に使っているのはエーテルなのである。
媒質と場に違いを見いだすのは難しいが、強いて違いは何かと言うと離散的か連続的かの違いだ。
すなわち媒質は原子・分子という構造をもった最小単位の集まりであるのに対し、場は構造を
もたない無限個の点の集まりである連続体である。
媒質は画素(ドット)を一単位とするデジカメ、あるいはディスプレイのようなものだ。
そして、映像としてこの世界の森羅万象を上手く再現する。
それに対し場が連続体だということは、場は画素のないディスプレイみたいなモノか?
つまり古典的なのである。そもそも生命を育む媒質が古典力学で記述できるわけがない。
その意味では場を媒質の上位に置く現代物理は倒錯してると言える。
科学の書物ではエーテルはMM実験により否定された、となっているが、そのような歴史的事実はない。
MM実験はエーテルに不利な条件を課しただけである。
その後フィッツジェラルドやローレンツにより、物体は進行方向に縮むというアイデアが提出され、
いわゆるローレンツ変換が導かれた。
さらにポアンカレにより厳密に定式化され、たとえエーテルがあったとしても実験装置が縮むならば、
エーテルは観測にかからないという結論を下したのである。
ようするにエーテルは否定されたのではなく、捨てられたのだ。
つまり、当時光は非連続な飛び飛びの値をもち、あたかも粒としての性質をもつとする、
粒と波の二重性を標榜する量子論の台頭があり、さらにアインシュタインは光量子仮説
により光電効果を上手く説明した。
すなわち、波としての商品価値しかなかったエーテルは時代に取り残され、
物理学者の興味はエーテルを仮定する必要性はないとする相対論にシフトしたのである。
ではエーテル説と相対論によるMM実験の結果を説明する違いをみてみよう。
ローレンツらによればエーテルは存在している。
すなわち実験装置がナノレベル縮んだとすればエーテルの風は観測にかからない。
それに対して相対論によれば実験装置は宇宙空間に静止している(とみなせる)。
地球は本来回転座標系であるが、近似的に微小時間(距離)においては(局所)慣性系とみなせる。
つまり、実験装置が空間に静止しているのならば、直行する光の経路の速度に対する違いはない。
ならばその代償として、地球を除く全宇宙が実験装置に対し動いていることになり、ローレンツ短縮する。
あるいは全宇宙に時間の遅れが生じる。
ならば相対論の基本は遠隔作用である。
ガリレイの相対性原理によれば、静止と等速直線運動は同じ物理法則が成り立つ。
すなわち等速直線vで動く電車の乗客にとっては、電車が静止しているとみなしてもかまわない。
ならば周りの景色が速度vで動いていることになる。そしてそれは相対論も同じだ。
ただ違いは、ガリレイの相対性原理では周りの景色が動くのは見かけの運動とみなせるのに対し、
相対論においてはローレンツ変換が絡むのだから、単なる見かけの運動とは処理できない。
そしてそれは遠隔作用を要請する。
そしてそれを可能にしているのが座標変換という瞬間移動装置だ。
すなわち人間様が座標変換すれば、瞬時に宇宙の果てから果てへとその視点を移すことができる。
そもそもエーテルは、力の相互作用を近接作用により説明するために導入されたものであるが、
相対論がエーテルを否定した理論ならば、その母体から遠隔作用がでてくるのは必然なのである。
ところで、既存の流体力学は連続体として扱われているということである。
言うまでもなく流体は原子・分子の集まりからなる離散的なモノだ。
しかし粗視化すると近似的に連続体としてみなせる。ようするに連続体として扱えば、
よく整備された連続体の力学の方程式がそのまま使えるということである。
しかし、それはあくまでも原子・分子という実在する媒質を消去した疑似流体なのだ。
そしてそれは電磁波というものを、エーテルという実在を排して場で記述するのと同じ筋書きだ。
すなわち例えエーテルという実体があったとしても、電磁場を連続体として扱えば、
エーテルを考慮する必要がない、ということである。
現代物理が実在性の象徴であるエーテルを排したということは、現代物理は実在性を語ることを放棄したも同然である。
例えば、波動関数の収縮はその一例であろう。
すなわち空間全体に広がっていた電子は観測するとある一点で見いだされる。
つまり、位相速度は光速を超える。この様子を実在として語ることは難しい。
あるいは電子を平面波で展開すると波として空間全体(宇宙の端から端)に広がる。
そして粒として観測するとある一ヶ所に収束する。
まさに遠隔作用である。
つまり、相対論がそうであるように、エーテルを排した場も又遠隔作用がでてくる。
すなわち世の中上手くできていて、ある前提(実在を排した)の下にはそれ相応の帰結が導かれるということである。
ところで、そもそも平面波こそがまさに媒質の特性なのである。
水面に浮かぶピンポン玉を上下させると球面波が生じる。
そして球面波は地震波のように波源が特定できる。
しかしピンポン玉を一列に並べて水面上で上下させると平面波になる。
ピンポン玉一つ一つは球面波であるが、互いに干渉し合って平面波になるのだ。
ではその状況をエーテル無しとエーテル在りで比べてみよう。
エーテルが無いとするならば、局在しないピンポン玉が空間全体に広がっている
(この時点においてすでに人間の理解を超えている)。
すなわち位置 A だろうが B だろうがただ確率の波として広がっている。
そして観測すると位置xにピンポン玉が見いだされるのだ。
さてエーテル在りとすれば、局在するピンポン玉が空間全体を埋め尽くしいる。
ならば空間のどこにピンポン玉が見いだされようとも、元々そこに局在していたのだから、
超光速どうのなど言う必要はない。
ではなぜ局在するモノが観測にかからないのか?というと、電子と全く反対の性質をもつ
陽電子が対になって互いに互いの性質を打ち消し合っているのが空間の正体だからだ。
そしてそれこそが媒質の特性なのである。
例えば液体水素と液体酸素を混ぜ合わせ、点火すると強烈なエネルギーを放って水になる。
(これはロケットの推進剤でもある)
水は水であって液体水素でも液体酸素でもない、あくまでも水である。
水は水素と酸素が反応した燃えカスであり灰である。
それと同じように宇宙空間は電子と陽電子が燃焼した燃えカスである光子、
すなわち光子エーテルで満たされている。
そしてその灰の中からフェニックスのように素粒子が生まれては消え、しているのだ。
291 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2009/10/13(火) 19:19:17 ID:AmWy5Tix
あんで、エーテルが存在するかのように考えた方が受け入れやすいのか?
そういう切り口が大事なんだわな。
>流体は原子・分子の集まりからなる離散的なモノ
こう言い切ってしまうと、真空は?はどうなりますか?
>水面に浮かぶピンポン玉を上下させると球面波が生じる。
水面の波は日常的にあり目に見えるので波の例示に汎用されますが、
非常に特殊な波なので、それを比喩にするときには注意してください。
球面波にはなりません。
>そして球面波は地震波のように波源が特定できる。
波源が特定できるのは速度とやってきた方向を知るからで、球面波の故ではありません。
>ピンポン玉一つ一つは球面波であるが、互いに干渉し合って平面波になるのだ
これはメチャクチャなだけです。
ちなみに水面の波は非干渉性の波です。
コヒーレントでなければ干渉しない、は水の波でも同じです。
>>流体は原子・分子の集まりからなる離散的なモノ
>こう言い切ってしまうと、真空は?はどうなりますか?
離散的になるよ。
>>水面に浮かぶピンポン玉を上下させると球面波が生じる。
>球面波にはなりません。
球面波を三次元の波という意味にとったなら、そりゃあならないよ。円形波とすればよかったかな。
>>ピンポン玉一つ一つは球面波であるが、互いに干渉し合って平面波になるのだ
>これはメチャクチャなだけです。
同期してなければな。
>ちなみに水面の波は非干渉性の波です。
はぁ?
>コヒーレントでなければ干渉しない、は水の波でも同じです。
そうだよ。波動一般だよ。
>球面波を三次元の波という意味にとったなら
普通に常識ある者ならそういう意味にしかとれないだろうな。
似非科学の特徴として、既存用語を自分勝手に定義、解釈して使用するというのがあるが・・・
>>295 自分勝手に解釈するの典型だな。ホイヘンスの原理の別のページ。
http://www.cfv21.com/phys/huygens.htm >波面が平面である波動を平面波、波面が球面である波動を球面波と言う。
また例えば教育TVのペ−ジでは
>波の種類→円形波(水面など)、球面波(音波など)、平面波
と厳密に分けている。
要するに物理用語としては厳密に定義されているんだな。
295のそのページをよく読んでみろ。そのページでは記述に円形波と球面波とで
きちんと区別して書いてるし、上のほうで円形波と球面波との説明があるじゃないか。
定義が曖昧というのはそうやって混同する295みたいな奴が居るってだけのことだな。
もっともこれは教育者の責任でもある。
波の実験では通常、水面を使った円形波が簡単であり実務的だわな。
そして波の性質から平面(円形波)を立体(球面波)に敷衍し得る事は明白なのだが、
(実験中に)敷衍している事を理解出来ない人間が居るということを
教育者は留意しなければならない。
エーテルと言われてもジエチルエーテルしか思い浮かびません
そりゃ、アカデミーの世界ではエーテル説は壊滅したからね。
だがヒッグスだとかダークマターだとかダークーエネルギーだとか、
エーテルの亡霊が闊歩しているw
301 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2010/02/09(火) 08:37:07 ID:+lKbjX2P
そりゃ、バカデミーの世界ではエーテル説は壊滅したからね
エーテルは存在する!!
303 :
悪魔が滅んで正義が勝つ、日月神示:2010/02/12(金) 22:27:19 ID:GSmDgiRf
世界は一つになったぞ。一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してある
事が出て来たぞ。臣民にはまだ分かるまいなれど今に分かりて来るぞ。くどう
気つけて置いた事が愈々来たぞ。覚悟はよいか。臣民一人一人の心も同じにな
りておろうがな。学と神の力との大戦ぞ。神国の神の力表す時が近うなりたぞ。
今表すと、助かる臣民殆どないから、神は待てるだけ待ちているのぞ。臣民も
可愛いが元を潰す事ならんから、愈々となりたら、どんな事ありてもここまで
知らしてあるのざから、神に手落ちあるまいがな。愈々となれば、分っている
事なれば、なぜ知らさぬのぞと申すが、今では何馬鹿なと申して取り上げぬ事
よく分っているのぞ。因縁の身魂にはよく分るぞ。この神示読めば身魂の因縁
よく分るのぞ。神の御用をする身魂は選りぬいて引っ張りておるぞ。北に気を
つけよ、東も西も南もどうする積りか。神だけの力では臣民気の毒出来るぞ。
神と人との和の働きこそ神喜ぶのぞ。早う身魂磨けと申す事も分るであろう。
メイソンの世界統一。米国とロシアはグルで、日本はロシア等に侵略され、
米国は裏切って日本を攻撃する。その時になって日米同盟のイカサマが暴露さ
れる。悪の仕組は日本魂を根こそぎ抜いて、日本を一呑みにする計画であるぞ
。日本の臣民悪の計画通りに尻の毛まで抜かれて、詐欺で身包み剥されている
事に気づかんか。
祓いせよと申してある事は何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはメグ
リなくする事ぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。それ払ってしまうまでは
誰によらず苦しむのぞ。人許りでないぞ。家許りでないぞ。国には国の借銭あ
るのぞ。今度の世界中の戦いは世界の借銭なしぞ。世界の大祓いぞ。神主お祓
いの祝詞あげても何にもならんぞ。お祓い祝詞は宣るのぞ。今の神主宣ってな
いぞ、口先許りぞ。祝詞は読む物でないぞ。宣るのざぞ、祈るのざぞ、融けき
るのざぞ。祝詞も頻蒔きや国津罪皆抜けて読んでいるでないか。これでは世界
は清まらんぞ。悪や学に騙されて肝腎の祝詞まで骨抜きにしているでないか。
皆心得ておけよ。神の事は神主に、仏は坊主に、医療は医者に、学問は学者に
と申している事、根本の大間違いぞ。
メーテルは存在する!
柳 下 浩 紀
「光は光子という粒だからエーテルを必要としない」
最近はよく知らないが、一昔前の相対論関係の書物にはこのフレーズがよく使われていた。
そして光は波だからエーテルが必要である、と信じて疑わなかった物理学者達から
エーテルの呪縛を解き放つ呪文の役割を果たした。
すなわち、「光が粒ならエーテルいらなくね」という訳である。
ならば今日的知見から、光が粒(の性質をもっている)ならばなぜエーテルを必要としない
のかの合理的な説明を聞きたいものである。
図1-粒
←●
図2-波
_∧ ∧ ∧ ∧ _
∨ ∨ ∨ ∨
光は光子という粒だからエーテルを必要としない、というフレーズを文字通り受け入れるならば、
図1のように粒的なモノそのものが空間を移動するというイメージなのか?
実際、光は光子(光量子)という粒であるという主張はニュートン流の光の粒子説の復活と
見なされた。
しかし図1の描像ではその速度は任意であり、上限がある必然性はなく、
そもそも波動方程式がでてこないことは明らかである。
ちなみに図2は光とは水の波や音波のように波長と振動数で語るべきモノである、とする
エーテル派のホイヘンスらによるものである。
図3
●●●●●●●●○
↓
●●●●●●●○●
↓
●●●●●●○●●
光と言えども電磁波の一種に過ぎない。
つまり電場と磁場が交互に絡み合いながら進んでいくモノであり、少なくとも●という場が介在する。
すなわち例え光が粒の性質をもっていたとしても、それ自身が移動するわけではなく、
移動するのはあくまでも電光掲示板の文字のように励起された状態、情報である。
で、連続体である場を量子化したものが(素)粒子である、というのが場の考え方である。
だからその連続体である場を離散化したものを媒質と言うんだよ、というのが俺の主張だ。
図4
┃ ∧ ∧ ∧ m
┃_/ / / -●
┃ ∨ ∨ ⇔
ところで図1からは波動方程式は導出されない、と述べたが、だからといってニュートン力学と
波動方程式が無関係というわけではない。いやむしろ逆である。
そもそもニュートン力学を使わなければ波動方程式を記述できない。少なくとも古典論においては。
図4は単振動する系、すなわち調和振動子の模式図であるが、
質量をもった錘●はニュートンの運動方程式 F=maに従う。
さらにポテンシャルによる復元力はフックのバネ定数 Kと置いて F=-kxである。
つまり、波動現象は皮肉なことに対立していたニュートンとフックの協同作用と言える。
図1と図2は一見相容れないが、調和振動子においては質量をもった●が正弦波、
すなわちサインカーブを描くのだから、調和振動子は粒と波の性質を合わせもっている。
すなわち、光は光子という粒だからエーテルを必要としない、というフレーズは的外れである。
原子が規則的に並んだ結晶、あるいは原子と原子がつかず離れず結合した分子は(調和)振動子である。
○…○ ○…●
()つきにしたのは分子にも色々あり、必ずしも単振動とは言えないからだ。
媒質において、その最小単位である原子・分子それ自身は調和振動子であるが、無数の
分子の集団が介在する固有振動する楽器の奏でる音色(定在波)も調和振動子と同じ形式である。
つまり、圧力(ポテンシャル)最大の時は分子集団の速度はゼロ、
圧力最小の時は分子集団の速度は最大、すなわちそれは調和振動子と同じ図式だ。
ようするにフラクタルの関係にある。
さて、電磁場は光子の集団であり調和振動子の集団であると言われている。
その意味では媒質の世界と何ら変わりはない。
ただ違いは、媒質においては原子・分子という調和振動子としての明確なメカニズムが在るのに対し、
電磁場においては光子は質量ゼロの構造をもたない点粒子である、とされているのだから、
調和振動子としてのメカニズムがないことだ。
ただ便宜上質量1と置いて計算しているだけである。
図4から明らかなように、そもそも波動とは加速と減速を交互にくり返すモノである。
さらに、そもそもバネには自然張という基準となるモノが存在する。
ところで光子などのミクロ系の粒子は粒であり波であり、そのどちらでもあってそのどちらで
もない、すなわち量子と呼ばれている。
しかし、少なくとも光子が調和振動子ならば、そして古典的描像に接点をもたせるならば、
量子=調和振動子なのである。
ならば、例え基礎物理学が量子という言葉を手に入れたとしても、それゆえエーテルの概念は不要と
はならない。実際、音波を量子化したフォノンが存在する。
よく、時空連続体である相対論は重力を量子化していないので古典論であると言われているが、
じゃあ古典論でないはずの量子力学が拠って立つ基盤である場は?
というとやはり連続体なのである。
「おいおい、なに古典論でない振りしてんだよw」という話だ。
連続量=古典論 離散量=量子論とするならば、連続体である場は立派な古典論である。
そもそもディラックが量子力学と特殊相対論を結婚させたのは、電子は光速近い速度で走って
いると考えられたからだ。
すなわちガリレイ変換からローレンツ変換への書き換えである。
しかし結婚指輪がローレンツ変換ならば、量子力学はエーテルと結びつく可能性もあった。
すなわち「場の量子論」ならぬ幻の「媒質の量子論」の存在である。
もっとも、当時(現在でも)の物理学者にとって、時空が最小単位からなる構造体であるなど
思いもよらなかったのかもしれない。
何しろ世界は切り刻めば切り刻むほど真実に近づくというドグマ、そしてそのツールとしての
微分への信仰があった。
しかし世紀も変わった現代、世界は否応なくデジタル社会へと変貌している。
総務省もアナログ放送を停止すると言ってるではないかw
そして、まさに原子・分子からなる媒質はデジタルの世界であったということだ。
かつて大航海時代、天動説から地動説に移行したように、大規模な情報化社会の到来とともに、
我々の認識する時間と空間もそのベースはデジタルなモノへと置き換わっている。
さらに21世紀を生きる人々を規定するであろう共通テーマとしての環境。
言うまでもなく環境とは水や大気、そして大地といったまさにエーテルへの系譜である。
つまりエーテルなしでは世界は語れない、我々はそんな時代へと突入したのだ。
質量とエネルギーは等価であるという。
実際、原子力発電所においては質量が莫大な熱エネルギーに変換されており、
加速器においては莫大なエネルギーを投入することにより各種素粒子が生成されている。
ならば、質量とエネルギーが等価ならば、そして光子が運動量及び運動エネルギーをもつならば、
光子は質量をもっていなければならないはずである。
運動量及びエネルギーは質量と速度の積で表される。例えば P=mv
つまり普通の物体であれば質量はあらわに扱われるが、それが光子となると
PやEは質量を覆い隠すオブラートの役割を果たす。
すなわち P=hν/c=h/λ E=hν=hc/λ
つまり一見質量は隠されてはいるが、波長や振動数の中に封印されているのだ。
負のエネルギー解を許すクラインゴルドン方程式は相対論によるとされるEの2乗式である
E^2= p^2c^2 + m^2c^4から導かれた。
しかし正負の解が導出されるのは相対論だからと言うわけではない。
何でもかんでも相対論のロゴマークを貼るのはよくない。
正負の解が出てくるのは波動場に特有なモノなのである。
実際、KG方程式は弾性媒質における弦の振動と同じ形式らしい。
上の記述を具体的に説明してみよう。例えば音波における速度、すなわち音速は
√k(p)/ρ k=弾性率 p=圧力 ρ=密度 ちなみに光の速度は 1/√ε0μ0
から導かれる。ようするに速度は平方根(2乗根)である。
ならば簡単に √4 が(2)と(-2)の正負の解をもつのと同じだ。
正負の解に対する解釈は色々あるが、遅延波・先進波であるとする立場もあるし、
正の周波数と位相が半波長πずれた負の周波数としてもよい。
ようするに波を伝える空間は、場であれ媒質であれ時空の各点に正負の物理量が定義されていて、
+と−から0が、逆に0から+と−が作られる何かなのである。
それゆえ、正の位相、負の位相同士が重なり合うと振幅が加算されて大きくなり、
逆位相が重なり合うと振幅は減算されフラットになるいわゆる干渉が起こりえる。
波動を伝える媒質に正負の物理量が定義されているのは明白である。
例えば大気中を伝わる音波は大気の疎密だ。ようするに正圧と負圧が交互に絡み合いながら進む。
大気をバネの一種とすると、自然長に相当するのが1気圧である(自然圧と呼ぶべきか)。
エネルギーは圧力差がなければ取り出せない。
仮に空間(大気)が加圧され、すなわち自然圧からプラス側にずれると正圧になり、+の位置エネルギーを獲得する。
正圧は1気圧より密度が大きい分、見かけ上正の質量をもつ。そして拡散しようとするベクトルをもつ。
すなわち質量はまさにエネルギーなのである。そして1気圧に向かうことによりエネルギーを解放する。
逆に空間が減圧され、マイナス側にずれると負圧になり、−の位置エネルギーを獲得する。
負圧は1気圧より密度が小さい分、見かけ上負の質量をもつ。そして収束しようとするベクトルをもち、
正圧がそうであるように負圧もまた1気圧に向かうことによりエネルギーを解放する。
すなわち負圧は正圧とそのベクトルが反対というだけであってどちらも実のエネルギーである。
一対の振動する正圧と負圧●○を音の量子とすると、△tにおいては○と●はそれぞれ正負の質量(密度)をもつ。
しかし時間平均すると正負の密度は相殺されてゼロ、すなわち1気圧の重さである。
さて、光子を媒質をモデルに電子と陽電子の複合粒子とすると●○となる。
さらに劫をモデルにすると
○ t ○
○●○ ← ○ ○
● ● → ●○●
● -t ●
負の質量 正の質量
となる。
すなわち光子においては絶えず正反(負)の間を揺らいでいる。
すなわち△tにおいては正負の質量をもつが時間平均すると質量はゼロである。
ようするに部分的(時間的)には正負の値をもつが全体的にはゼロということだ。
それは劫が時間的にどちらの地であると言えるが、劫自身はどちらの地であると主張できないのと同じである。
現代物理においては負の質量は最初からありえないモノとして定義されている。
しかし自然が物理学者の定義に従っているとは限らない。
例えば正の質量をもった通常物質はエネルギーを失えば減衰し、やがて停止する。
それに対し負の質量をもった物体は負のエネルギーを失えば失うほど益々元気になるとされている。
確かに例えば950hpで発生した台風やハリケーンが900hpになると益々元気になる。
さらに800hpになるともはや手がつけられない、それは風速3桁の世界であろう。
しかし実際の台風は暖かい海水温によりエネルギーを供給されて勢力を増すのであり、
あくまでもそのベクトルは上昇気流であり、気圧を高める方向である。実際台風は大暴れした後
やがて温帯低気圧になり、何事もなかったようにそこら辺の空間に埋没し、消え去るのである。
※気象における高気圧、低気圧は、周りより気圧が高い状態を高気圧、低い状態を低気圧と呼び、
必ずしも1気圧が基準というわけではない、念のため。
水の表面張力を利用して数枚の1円玉を水面に浮かべて近づけるとあたかも重力が作用したようにくっ付く。
我々は日常1円玉同士はくっ付かないことを掌の中で経験している。だが水面上ではくっ付くのだ。
それは1円玉が水面を歪めたからである。まさに空間(水面)の歪=重力なのである。
ただし水面上における凝集力は表面張力を常に最小にしようとする力であり、一般相対論によるところの
物体は空間の曲がりに沿って進むという概念とは微妙に異なる。
単独の1円玉の周りの歪みの量よりも、1円玉同士がくっ付いた状態の歪みの量の総和は小さい。
すなわち歪みの量が減った分が周りの空間に解放されたわけである(質量欠損)。
逆に引き離すにはその分のエネルギーを加えなければならないことは言うまでもない。
1円玉は水面を一方向にしか歪ませないが、アーチ状に湾曲させたアルミ片等を水面に浮かべると
水面は2つの方向に歪む。すなわち上と下である。そして同じ方向に歪んだモノ同士は歪みを最小に
しようとして引力が働き、歪みの方向が逆向きのモノの間には歪みを保存しようとして斥力が働く。
(異種の歪みは水と油のように混じり合わないということだ)
すなわち水面のような2次平面には正負の重力場が存在することは明らかである。
<正曲率>
 ̄ ̄∨ ̄ ̄∨ ̄ ̄
→引力←
 ̄ ̄ ̄∨∨ ̄ ̄ ̄
→←
<負曲率>
__∧__∧__
→引力←
___∧∧___
→←
斥力
∧___
 ̄ ̄ ̄∨
←→
__ ∧__
 ̄ ̄∨
← →
さて、2次平面における幾何学を光子エーテルの概念を使って高次元に拡張すると、我々の宇宙に
引斥力、すなわち正負の重力場を作り出すことができる。
そもそも2次平面ですら2つの方向の曲がりをもつというのに高次元の宇宙が1種類の曲がりに
支配されているというのは納得がいかない。
かつてアインシュタインは統一場理論、すなわち重力と電磁気力を統一しようとした。
現在の知見からすると、強い力と弱い力が知られていなかった時代に統一場理論を完成させることは
無謀であったとされている。が、そんなことはない。
大体4つの力が出揃った現代においても統一理論は未だ未完成ではないか。
つまりあらゆる力が統一できないのは別の理由、すなわち現代物理学が不完全な対称性を
採用しているからなのだ。
光子を構造体としての調和振動子とみた場合、光子においては正の質量をもつ電子と負の質量を
もつ陽電子の間を絶えず揺らいでいる、ということは正負のエネルギー及び正負の時間が相殺
されているということだ。その意味では空間に一方的な時間やエネルギーの流れは生じない。
それは丁度この地上の大気が1気圧のままであったなら、よどみこそすれ風の流れが生じないのと同じだ。
すなわちエネルギーは気圧差がなければ取り出せない。
ではどういうメカニズムで一見何もないように見える空間から様々な力が生まれるのだろうか。
囲碁の実戦において劫を取られた側は一度他の場所に石を置いてからでは劫を取り返せないというルールがある。
もしこのルールがなければ、一度盤面に劫が発生したならば対局者は宇宙が終わるまで劫を取り合わなければならない。
少なくとも対局者が劫にこだわる限り。
しかし自然は人為的な囲碁のルールを支持している。
例えば水面が異物に対し表面張力により歪む現象である。
水面は極めて高い対称性をもっている。それゆえ水面はいつも鏡を磨いたようにまっ平なのだ。
たとえ水面を波立たせても波の山と谷の総量は変わらない。
水面はゴム膜と同じ性質をもっている。例えば船が去った後、航跡がいつまでも残らないのはそのためである。
そして物質の周りの光子も非対称に励起されるなら、それが空間張力(スペーステンション)のメカニズムである。
光子エーテル説に従うと、時間と空間の最小単位である光子においては絶えず時間が正負の間を往還している。
その意味では空間に一方的な時間の流れは生じない。
空間に一方的な時間の流れが生じるのは空間に異物が発生した時である。
すなわち正反物質(粒子)は空間を歪ませる。空間が歪むという現象は光子において正負の間を往復していた
時間の流れがどちらか一方に固定されるということだ。
つまり、時計でいうならゼンマイを巻き上げた状態である。
そして物質は空間を歪ませた分の時間の流れを獲得する。
さらに時間の流れる方向は空間の歪む方向により2種類あることは言うまでもない。
ちなみに、極超対称性粒子である電子(陽電子)の周りの光子の対称性が回復された状態がいわゆる電磁波であり、
クォークの周りの光子の対称性が回復された状態がいわゆる原子力なのである。
つまり我々の世界において時間の矢、すなわち時間が一方的に流れるのは重力場が存在するからである。
すなわち空間は常に空間張力を最小にしようとする。
宇宙初期大量に満ちていた水素ガスが凝集して天体になり、さらに天体の内部において核融合反応により
より重い原子に変換される。つまりその過程で物質の周りの歪みが空間に解放される(質量欠損)。
ようするに物質が重力場により凝集するという行為は巻き上げられていたゼンマイがほどける過程なのだ。
ならば時間の逆行をフィルムの逆回しに求めるのは明らかに間違いである。
なぜなら巻き上げたゼンマイがほどける方向に向かうのは自明であるが、
ほどけたゼンマイが自ずと巻き上がる様は不自然だからだ。
つまりフィルムの逆回しは元々対称でないものに対称性を仮定しているのであり、
そもそも物質が重力場において凝集するということそのものが対称性(の回復)の表れなのである。
さて、極超対称性理論の立場からは反物質(粒子)は負の質量をもっていなければならない。
さらに当然反物質は負の重力場を形成し、物質に対し斥力をもたらす。
ある意味でエネルギーと時間は同じものである。実際エネルギーの流れ=時間の流れなのである。
そしてその最小単位が極超対称性粒子である光子なのだ。
ところで、もし我々の宇宙が物質だけで構成されているのならば、さらに正の重力場しかなければ、
物質の凝集は加速度的に進行し、宇宙はあっというまに終焉してしまうだろう。
すなわちエネルギーの流れというものは本質的に暴走するものである。
しかしその流れを制御するものがあるはずである。そしてそれを我々は時間と呼んでいるのである。
結論を言えば、一方的な力である正の重力場だけでは規則的な時間の流れは説明できない。
すなわち宇宙は物質の形成する正の重力場と反物質の形成する負の重力場が重なり合っている。
ある意味3Dの世界と言えるかもしれない。
ミクロ系に適用される量子論をマクロ系に拡張するならば、すなわち量子重力、
あるいは量子宇宙論を完成させるには、電磁場のように重力場にも引斥力を考慮しなければならない。
ただし重力の場合、同極同士には引力、異極の間には斥力である。
<この世界に反重力を導入するとどういう宇宙像が描けるかを説明してみよう。
ただし改めて書き上げるのは面倒なので、4年前に別スレにレスしたものを投稿する。>
現代科学は、宇宙(空間)は実は何もない空っぽの状態ではなく、
正粒子と反粒子が絶えず対で生まれては消えるダイナミカルな空間である、と記述している。
反粒子 粒子
●←―0―→○
+ (対生成) +
●―→×←―○
+ (対消滅) +
しかし質量のレベルではどちらもプラスである。
ならばそれはスポーツにおいて、ひいきのチームの得点も相手チームの得点も
互いにプラスである、と言うようなものである。
負の質量、マイナスのエネルギーがハードSFの専売ならば、
われわれが生きている現実世界はSF小説を超えている。
例えば誰かが住宅ローンを利用して家(マンション)を購入したとする。
負債 資産
●←―0―→○
− (対生成) +
●―→×←―○
− (支払い) +
すなわち手持ちの資金が無いにもかかわらず、何千万という資産を手に入れることができるのだ。
もちろんその代償として負債が対で発生する。
そして金を貸した者と借りた者の間で支払いという名の対消滅が行われる。
予算不足の国家が国債を発行することにより、何十兆という金を捻出するのも上と同じ図式だ。
すなわち無からの宇宙創成ならぬ無からのマネー創出である。
さて、普通客がコンビニ等で買い物をした場合、その場で支払いする。
しかし分割払いのように、長期に渡る支払いもある。
そして債権者(+)と債務者(−)の関係はその数値がゼロになるまで保たれる。
すなわち支払いを+と−の数値が相殺する対消滅の一種と考えると、
経済の世界においては制御された対消滅もあるということである。
物理学では、物質と反物質が出会うと莫大なエネルギーを放出して対消滅し、跡形もなく消えてしまうと言っている。
すなわち有無を言わせぬ対消滅である。
もちろんそれは実験(観測)事実としても、経済の世界を物理学に参照するならば、
制御された対消滅もあるのではないだろうか、
そしてもしあるとしたら、そしてそのメカニズムは反重力しかありえない。
すなわち制御された対消滅:反重力のバリアである。
物理学が指針としているのが対称性だ。
すなわち物質の材料である粒子が存在するためには粒子は反粒子と対で生成されなければならない。
では対で生成されたはずの反粒子は何処へ行ったのか?という問いが現代科学の最大級のテーマである。
その問いに対し科学者は2つのシナリオを描いている。
(1)粒子と反粒子は対生成されたのであるが、何らかの対称性の破れにより粒子だけが生き残った。
すなわち反物質からなる世界は存在しない。
(2)対生成された粒子と反粒子の間で何らかの分離機構が働き、われわれの世界は物質だけで成るが、
どこかに反物質で構成された宇宙があるかもしれない。
そして現在は(1)が優勢である。
さて、制御された対消滅:反重力のバリアという概念を使うと、
反物質は何処へ行ったのか?という問いに対し第3のシナリオを提出することができる。
すなわち物質と反物質の共存説だ。
ただし物質と反物質の共存と言っても、
われわれが普段見慣れている物質と同じように反物質がそこいら中にある、という意味でも
太陽系のすぐ隣に反太陽系がある、という意味でもない。
いや、ある意味でもっと身近な存在なのだ。
すなわち私のいう物質と反物質の共存説とは、
物質の薄皮一枚剥がせばその裏には反物質がべったりと張り付いている、
そういう意味なのである。
物質と反物質が出会うと莫大なエネルギーを放出して対消滅してしまう、
それゆえ反物質は存在しない、というのが現代科学の合い言葉だ。しかし発想を転換すると、
物質と反物質が出会うと莫大なエネルギーを放出するならば、宇宙がそれを利用しないはずはない。
というのが物質と反物質の共存説(量子宇宙論)のテーマである。
物質と反物質の対消滅も燃焼の一種とすると、そもそもモノを燃焼させるためには点火エネルギーがいる。
それが地上に太陽を造りだす事を困難にしている要因だ。
重力は4つの力の中で極めて弱い力である。
しかしミクロの世界のような高エネルギーの世界では逆に強くなると言われている。
つまり重力が強くなるということは必然的に反重力も強くなるということである。
ようするに本来粒子と反粒子は水と油のように混じり合わない。
そして点火エネルギーを与えられた状態が例えば加速器の内部なのだ。
かつて太陽の輝きを石炭の燃焼で説明していた時代もあった。
もちろん現在はそれは核融合の灯であることが分かっている。
太陽が水爆と同じ原理で燃えているならば何故今にも爆発しないのか?
というとそれは制御された燃焼だからである。
さて、では銀河レベル、あるいは大宇宙を突き動かしている力は何なのか?
もしそれが核融合レベルというならば、それはかつての太陽の輝きを石炭の燃焼で説明していた
今では笑い話に過ぎない歴史の繰り返しだ。
すなわち宇宙を突き動かしている力は何か?と問われれば、それは物質と反物質の対消滅以外有り得ない。
ようするに物質と反物質が対消滅すると莫大なエネルギーが解放されるならば、
宇宙がそれを利用しないはずはないのである。
WORM HOLE
A面/ ̄ ̄ ̄ ̄\
↓ ▼ ▼ \
/ : : \
───┬──┬───
↑ └──┘
B面 BLACK BLACK
HOLE HOLE
上の図はいわゆるワームホールであり、BHとBH(WH)を繋げたものだ。
しかし、それはあくまでもA面の世界での話しであり、B面は何の係わりもない。
QUASAR
BLACK ┌──┐
HOLE │ │
↓ │ │
/ ̄ ̄│ ̄ ̄△\
/▼ : \
: : \
 ̄│ ̄ ̄│ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│ │ ↓
└──┘WHITE HOLE
上の図はBHとWHを繋げたものであり、いわゆるクェーサーである可能性がある。
宇宙の3形態
表(実)
________
/ /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
裏(虚)
/ \
裏 __ __表
/\ \ /\ \
( ( )))) (((( ) )
\/ / \/ /
 ̄  ̄
反粒子 粒子
\ /
__
表? / _ \
____//_\_\
/_______/
\ \//
\_/ 裏?
光子(ボソン)
陽電子などの反粒子が負エネルギー解から導出されたのならば、陽電子などの反粒子は素直に負の質量、
負のエネルギーをもっているとすればいい。
つまり、負の質量の特性が存在しえないモノと定義されているのならば、存在を許されるように再定義すれば
いいだけの話である。ところが物理学は別の道を歩んだ。
すなわち負エネ粒子を正の質量、正のエネルギーをもつように再解釈する道である。
現在、負エネ粒子を正エネ粒子に再解釈する方法は2つある。
すなわちディラックの海とファインマン流の時間の逆行だ。
しかしディラックの海は現在主流でない。なにしろボソンを説明できないらしい。
ファインマン流の解釈もかなり際どい考え方である。
『なんてたって時間の逆行だw』
それがマクロの物体ならば当然因果律に抵触する。
ミクロの世界ならば何でも許されるという話でもないだろう。
結局、負の質量を排除したのはいいが、その代償として負の質量と同等、
いやそれ以上の不合理を物理学に持ち込んだのである。
物理学者は負の質量には冷たかったが、こと時間の逆行には寛容だったようだ。
もっともファインマン流の考えをマジに受け入れている物理学者は少数派だろうが、
なにしろミクロの世界をよく記述できるのだからしょうがない、というところか。
しかし時間の逆行が有効であるということは、裏を返せばそれこそが反粒子は実は
負の質量をもっていることの証明なのである。
なぜなら再定義された負エネ粒子の特性と、時間の逆行は数学的にも現象論的にも
等価であるからだ。
ファインマンのアイデアは波動方程式における時間の対称性、すなわち遅延波、先進波からきている。
例えば水面に石を落とすと中心から周りに波紋が広がっていく。これが遅延波。
逆に周りから中心に収束するのが先進波である。
遅延波を過去から未来へと向かう波とするなら先進波は未来から過去へ向かう波ということになる。
しかしここで注意しなければならないのは、先進波=収束波ではない、ということだ。
例えば水を張った洗面器の縁を叩くと見事な収束波が観測される。
だからといって因果律を破ったわけではない。なぜなら原因は洗面器の縁を叩いた行為だからだ。
ようするに収束波は珍しくもなんともないということだ。
結局、波動方程式の正負の解が遅延波・先進波ならば、拡散波としての先進波もあることになる。
すなわち洗面器の縁を叩いていないのに中心から拡散する先進波としての拡散波である。
ところで、もし波動方程式の正負の解が遅延解・先進解ならば、
現実に存在している正の周波数・負の周波数は何なんだ?ということになる。
正の周波数・負の周波数とは、例えば発電機を左右に回した時に位相がπずれた波である。
そしてそれを複素平面上に射影したものが複素共役である。
つまり、波動方程式の正負の解の指定席に複素共役の波が収まったならば、そもそも
遅延波・先進波の座席はないのだ。(もっとも正負の周波数も遅延波と言えば遅延波ではあるが)
大体、先進波なるものは未だ観測されたためしのない仮想上の波なのだ。
下の図はエネルギー準位に対する現代科学のパラダイムだ。
+m|─○─正の
|─↓─エネルギー
|───準位
0┼───―――
|─●─負の
|─↓─エネルギー
−m|───準位
すなわち正の質量をもった粒子はエネルギー準位を落としながらゼロ点に向かう。
そしてもしゼロよりエネルギー準位が低い負のエネルギーの世界が存在したならば、
我々の見るもの全てが水が高い所から低い方に流れるようにマイナス無限大の底なし穴に
落ちて行く。
〔ディラック流〕
←順行 │ ←順行
ディラック│
の海│
●●○●│←○
────┼────
-∞ 0 +∞
※○は正エネ粒子●は負エネ粒子
負エネ解の困難に直面したディラックは、真空は負エネ電子で満たされていて、
すでに満席であるために正エネ粒子は負の世界に落ち込めない、と考えた。
〔ファインマン流〕
←順行 │ ←順行
←●×│
逆行 │
○→│←○
────┼────
-∞ 0 +∞
ファインマンは時間を順行する負エネ粒子を禁止し、
正エネ粒子が負エネ粒子に転化することを防いだ。
すなわち負エネ粒子は時間を逆行することしか許されない。
そして、我々から見るとそれは時間を逆行する正エネ粒子と解釈できるらしい。
〔負のエネルギーに対する再定義〕
順行→ │ ←順行
│
-t │ t
●→│←○
────┼────
-∞ 0 +∞
さて、全ての道はローマに通ず、ではないが、全ての力はゼロ点に向かうとすれば、
負エネ粒子を正エネ粒子に再解釈する必要はない。
上図は媒質にそのモデルが存在すると意味ではトンデモ失格だ。
つまり、反粒子は時間を逆行する正粒子と考えても、反粒子は上図のように振る舞う
と考えても現象としては同じ結果を与える。
なぜならベクトルの方向が同じだからだ。問題はどちらがより合理的かということだ。
パラダイム変換
〔再定義された正負のエネルギー準位〕
+m|─○─正の
|─↓─エネルギー
|───準位
0┼───―――
|───負の
|─↑─エネルギー
−m|─●─準位
結局、正負のエネルギーを再定義すれば負エネ粒子を正エネ粒子に再解釈する必要はない。
そもそも負エネ粒子のベクトルが−∞に向いているという実験事実はないのだから。
つまり量子力学は新しいパラダイムの基に書き換えられなければならない。
ここで注意すべきは、電子などのミクロ粒子の質量の符合を特定する判定法はあるのか?
というものである。
もしそれが電荷ならば、磁場の中を通せば曲がりの方向で+−を特定できる。
しかしミクロ粒子の質量の場合、我々が知り得ているのはその絶対値かもしれないのだ。
すなわちエネルギーも運動量も質量も |E| |P| |M| かもしれない。
つまり絶対値、あるいはその2乗をとっているのならば、その限りにおいては
符合の正負は問うてはいないことになる。そしてそれは確率さえも例外でない。
すなわち存在確率がたとえ−1になったとしても構わない。
すなわちそれは負エネ粒子に対応させればいいのだ。
ようするにミクロ系が基本的に波動場であるならば、+と−の量があって初めて波動場なのである。
355 :
ご冗談でしょう?名無しさん:2010/05/18(火) 14:25:29 ID:jYkgEKRh
晒してやるね!
余談だが、
光速は 1/√μ0ε0 (1式) 音速は √k/ρ (2式)、
ちなみに弦を伝わる波の速度は √T/ρ T=張力
から導かれる。すなわち全て同じ形式だ。
1式を変形?すると √1/μ0ε0 (3式)になり、2式と完全に一致する。
分子が1であるなら1式も3式も導出される数値は同じであろう。
つまり1式は必ずしも光速不変を保証していないことになる。なぜならば、
もし1式により光速不変が導かれるならば、その定義により音速も不変になるからだ。
1式から言えることは光速は透磁率と誘電率の名において一定というだけである。
それは音速が弾性率や密度の名において一定であるのと同じだ。
相対論の信奉者は1式により光速不変を主張するかもしれないが、逆に数式自体は
光速は不変でないと主張している、という見方もできる。
まあ控えめに言っても両義的な式である。
俺は気づいてしまった、宇宙の神秘を、そしてそのベールを剥がしてしまったことを、
実にあっけなかった、
すなわち宇宙の森羅万象は単振動だったのだ、ミクロ系だろうがマクロ系だろうが
そして宇宙そのものが単振動だったのだ、
ラグランジアンもハミルトニアンもシュレーディンガー方程式もフーリエ変換も、
そしてゼロ点振動によるエネルギーもゆらぎも、
数学であろうが何であろうが単振動だったのだ、すなわち調和振動子という名の、
たとえそれが非線形であろうとも単振動の拡張でしかない、
>>357 宇宙の時間は,各所各く星でばらばらのスパンだけど
時刻だけは何処でも同一なの?
例えば今僕が今と感じたら宇宙中が同一の今なの?
だったら時刻というものは時間と言うスパンと如何調整されているんか?
天才様おしえてください
この世が絶対時刻であれば、量子の不思議な振る舞い
も証明されるはずですけど?
どうなの? 写経さん
>358、359
時間と時刻の違いを説明してくれ
時間が有って時刻が決まるのであるとすると
時間も時刻も同じです
ただ0時刻と言って
>>358 で言っている事だと
今という瞬間は何処でも今であることになる。
今は全宇宙繋がっていて共通の土台である という妄想である。
でこれが量子の振る舞いまで同期しているのならこの不思議が実は
なんでもないことになるわけです。
362 :
358:2010/06/12(土) 10:25:59 ID:???
これを証明できない、だから否定する事は簡単なんだけど
これをやると、自分自身の直感に嘘をつくことになるwー
胃がイテェー
>>359 >この世が絶対時刻であれば、量子の不思議な振る舞い
>も証明されるはずですけど?
量子の何が不思議で何が証明されるんだ?
>>363 本気で言っているのですか?
だとすれば<<357は何?
いやー失礼しました ほんももの写経さんだったようだ
>>364 何を言いたいのかよく分からないけど、俺は宇宙の森羅万象は単振動である。
と言った覚えはあるが、単振動=絶対時刻と言った覚えはないよ。
そもそも絶対時刻なる用語もあまり聞かないし。
>>359 写経ってコピペのことか?
なら原文を晒してみろよ!
おちついて
コピペは単なるコピー
写経は尊いことであるのです、だから尊敬して読ませてもらっています。
調和振動子なるものが全ての波動の移動を司るとすれば
これの振動子は宇宙中同調していることになる
振動子自体の振動についての感想は如何なの?
何だか調和振動子の「調和」に釣られているようだ。
もしかしてCPUのクロック周波数をイメージしてるのかな?
しかし例えば太陽光であれ電球の光であれ非可干渉性の波である。
あるいは身の回りに飛び交う音波はある意味雑音だらけだ。
つまり、場であれ媒質であれ波動が調和振動子の集団を介して伝わるといっても
必ずしもそれらが常に同期しているわけではない。
ようするに同期させるためには境界条件が必要である。
例えばレーザーはある長さに置かれた2つのミラー間を往復させて位相がそろった
可干渉性の波を発生させているのであり、
クォーツ時計は水晶振動子の規則性を利用したものだ。
つまり、水晶、すなわち結晶は周期的境界条件を満たしている。
もし宇宙全体が同期しているのならば、宇宙は結晶構造を成していなければならない。
最近話題のブブゼラ。これは相当にうるさい。
うるさいを「五月蠅い」と表記したのは言い得て妙である。
ところで管楽器は長さが決まっている(長さが違うと音程が変わる)。
つまり長さという端点、すなわち境界条件があるから固有の音を発するのだ。
そして管の中では空気分子は同期している。さらに無数のブブゼラ同士が共鳴しあい、
さらに競技場の形状によって反響が相まってあのような虫が飛んでいるような
独特な音になるのである。
その様子はある意味人間の行動様式に似ている。
すなわち個々の人間の行動は普段てんでんばらばらだが、競技場の応援風景を見ると
同じタイミングで奇声を発し、同じタイミングで手を振る。
あるいは熱狂的なコンサート会場では観衆は、テンションの高まりと共に
同じタイミングで体を揺すり、同じタイミングでペンライトを振る。
ようするに、個々のモノが同期するためには境界条件が必要である。
ここで重要なのは、楽器が固有振動する系と言っても、何時いかなる時も同じ音を
発するとは限らないと言うことだ。
例えば、同じ時刻に全く同じギターの弦を東京とパリで爪弾いたとしても同じ音を
奏でるとは限らない。なぜなら温度や湿度によって楽器の音色は変わるからだ。
楽器は絶えず空気(水分)を吸ったり吐いたりしている。つまり梅雨時と乾燥
した気候では音程が異なる。
そもそもなぜ演奏前にチューニングするかといえば、それはとどのつまりは
音速は絶対的でないからだ。つまり、音速を決定する因子である弾性率や密度は
絶えず揺らいでいる。それゆえ例えば弦楽器には調弦ネジが付いているのだ。
アインシュタインは量子力学の基礎である確率や不確定性に不快感を示し、
神はサイコロを振らないとしてそれらの背後に隠れた変数があるとした。
しかし現在隠れた変数理論は主流でない。
ところで俺はエーテル、すなわち媒質を擁護してるわけだが、もしそれを徹底
させるならば、アインシュタインの確率や不確定性の背後には未知の変数がある、
という解釈は正しかったのかもしれない。
ただしそれがアインシュタインにとって悲劇的なのは、それが光速度cだと言うことだ。
音速は弾性率や密度の値により絶えず揺らいでいる。同様に、
光の速度もその因子である透磁率や誘電率が絶対的でなければ揺らぐ可能性がある。
ようするに、我々が知り得ている光速度は平均値に過ぎないかもしれないのだ。
(つづく)