時間ってなんだろう?

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546ご冗談でしょう?名無しさん
哲学から来た人へ
力学において
エネルギー保存則、運動量保存則、角運動量保存則
が時間に依存しないところから論じてください。
これを相対論ではどのように表現されているか論じてください。
547ご冗談でしょう?名無しさん:2009/02/23(月) 09:29:49 ID:???
時間に依存しない、ということではない。

時間で運動量を理解しているというだけ。
ゼロ次元、つまり絶対座標は光速度一定の法則でこの自然にはどこにも存在しない。
しかし座標原点の設定は理解において必要。
空間は三次元でその大きさを理解しているが、0から3次元なんてのは無い。
それらは物理的存在、たとえば箪笥でも岩でもかまわないが、縦横高さと抽象して比較理解する。
元々出発点なんか無いのだが、理解に必要というだけ。
時間も同様に何らかの運動量の抽象であり、それらが物理的実態として自然に存在するわけではない。
ある運動量を基準にして様々な運動量を理解しているということ。
つまり時間も他の次元同様自然という存在の抽象であり、そのものとしては存在しないというだけ。
548ご冗談でしょう?名無しさん:2009/02/23(月) 09:43:40 ID:???
光速度一定の法則で、絶対座標、つまり運動量としてゼロという自然存在は無い、つまり自然は運動するという無矛盾な自然観を科学は獲得することになる。
しかし、自然を理解するうえでは適当に座標原点、つまり運動量ゼロという設定が必要になる。
理解そのものが相対的になる所以。
ここで理解の本質が示される。

保存則は何も生まれないし無くならないとする。
しかし認識上ではわたしたちは生まれ、そして死ぬ。
ここで少し考えてみる。
わたしたちが生まれる、というのも死ぬというのも物理として考えたら物理的状態の運動変化というだけで何も生まれないし、何も無くならない。
では現在生きているわたしたちはどのような存在か?
実はこの今においても運動変化している。
栄養を摂るが、それらは肉体となり、また活動源になる。
わたし、という表現は、じつは静的、同一として理解しているが、物理的に同一ということは一瞬たりともありえない。
大きく考えても、生まれたときと、ここにいるわたしは大きく物理的に変化している。
この今でさえも。
理解する物理的存在の運動量も、存在しない座標原点を媒介に理解している。
つまり理解の本質は静的ということになる。

相対性理論は理解の本質をも浮き彫りにしている科学においても認識においても重要な理論だろう。

この理解しがたい法則に打ち樹てられた理論は人間の認識の相対性をも明らかにしている。


時間は自然存在ではないが、自然を抽象して自然を理解する観念的な存在だということ。