>>649の補足というわけでもないですが、関連して、
実は地球上の生命全体を一つの生命体として見ても良いのではないかと考えています。
太古の昔、自己複製能力を獲得したある種の有機化合物(生命)は、その能力により
周りの有機物を資源に、自分自身をねずみ算式に増やしはじめた。
当然、この生命は資源が許す限り自己複製を続けて行くが、ここで対象となる資源が
壊れやすく不安定な有機物であったことは、一つ重要な意味が在ったように思います。
(まあ、不安定な素材であったからこそ自己複製という芸当も可能だったのだろうけど)
無機物であれば、一度形成された状態は非常に安定で、半永久的に保存されるのに
対し、不安定な有機物は、やがて分解されて場に資源を放出、そして、それを再利用
して新たな自己複製を繰り返す、という"準"安定なサイクルを形成する。
というより、こういう準安定的なサイクルを形成する以外に、不安定な有機物が、
"形ある状態"を永く維持する手段は無かった。
この”準”安定なサイクルの中で、生物(有機物)はその不安定さ故に変化していき、
多種多様となり、ついには、弱肉強食的に分解と自己複製を半ば強引に繰り返す、
食物連鎖というより安定なサイクルを形成するに至った。
つまり、太古の昔に分裂を始めた一個の細胞は、変化を伴いながら増殖し、あるものは
食物連鎖の底辺を形成し、あるものは地球のガン細胞呼ばわりされつつもその頂点に
居座るようになった。
でも実は、これもより安定なサイクルを構成する為の役割分担に過ぎず、多細胞生物が
一個の受精卵から発生した群体生物であるように、生態系全体も一個の生命から発生した
郡体生物である、というのもあながち間違いでは無いのでは?
実際、数ヶ月前にオーストラリアの牛だった物質は、
食べた私のヒト細胞として蘇っているのですから。
名前の欄にも書いてますが、私はキリスト教やイスラム教などの一神教の神というのは、
自然の淘汰圧の概念が擬人化されたものではないかと考えています。
いってみれば、普遍的にみられる原始的な自然崇拝が洗練されたもので、その着想が
秀逸で、人々の原始的な本能(行動基準、潜在意識)にもマッチしていたため広く受け入
れられ、世界中でポピュラになったのではないかと。
「自らの内側にある神の声」、例えば仲間を殺してはいけない、とかいう進化の過程で、
特に群れ化の過程で身に付けた生物としての性質(脳内の回路)を、言語化して、改め
てこれを守るように、多くの庶民に分かり易く説いたのがこれらの宗教ではないでしょうか。
ちなみに一神教の宗教と、進化論の仲が悪いのは、同じ物を信仰の対象としているからで、
一種の近親憎悪のようなものでは?同じ親から生まれた仲の悪い兄弟なのかもしれません。
一方で、三大宗教の残り一つである仏教。特に原始仏教ですが。
ひょっとしたら、
>>650のようなことを説いているのかも知れない、と考えたりもします。
特に、「諸行無常」「諸法無我」という言葉を聞くにつれそう思ったりします。
一般大衆への救いとしては、明確な”神”を与えるキリスト教やイスラム教はとても優
れた宗教であると感じます。一方で仏教、特に原始仏教ですが、人々を救い導くこと
には割と無頓着で、この世の理をただひたすらに追及しているようにも感じられます。