竹内薫ってすごいの?

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358洩れ車
>>357
日本人は(聖書原理主義者は別として)ID論と進化論を対立するものとは考えていないかもね(神々様の匠をダーウィンが明らかにしたと考えりゃ済む)。
或はデザインしたのは「何か」であって「キリスト教の神」ではないと考えても良い訳だし(「量子」か?)。
Credo-Believe in something-/草尾 毅
Credo, but I don't know in what./ドストエフスキー

『虚数の眼』(湯川薫名義)読みますた。下記作品を連想しますた。それと『博士の愛した数式』も。
ttp://cinema.intercritique.com/comment.cgi?u=770&mid=2948
テルレスの青春(1966/独=仏)テルレスが見たもの。それは,この世界に実在する虚数。鏡
聡明なバイネベルクもまた,世界の虚数を求めていたが,それを魂に求めたがゆえに,その企ては失敗した。
数学における論理に統一を与える虚数。現実における虚数は,世界を統一するものである以上,個別の存在者に内的統一を与えるもの,すなわち魂ではなく,むしろそれは,個別の諸存在者を統一するものである。
我々の世界は,諸存在者の総体である。存在者は,可算名詞である。その総体と言う時,それらをつなぎ合わせて統一性を与えるものは何か?神?コギト?予定調和?理念?絶対精神?
テルレスが見たものは,世界を統一するものであるというものの,それが如何なるものかは具体的に示されていない。
世界の虚数が,諸存在者の統一を与えるものである以上,それは存在者ではあり得ない。もし,テルレスが見たものを言葉で説明したならば,その虚数は,一個の存在者となる。
それは言葉ではあらわすことが出来ない。
それゆえ,この全編を通じて饒舌すぎるほどの語りにもかかわらず,それは本質の周囲をめぐり,ついには本質に至らずに終わる。
言葉だけに頼らず,映画的要素のあらゆる部分から,我々は“感じる”しかない。テルレスがそうしたように。……
http://www.bk1.co.jp/product/1225491/review/97986
作者ムージルは職業軍人にして機械工学を修めた技術者であり,大学では哲学・数学・物理学の学位を有している明晰かつ厳密な科学的思考の持ち主である。その作品の一種神秘主義的とさえ思われる難解さは,
世紀末から二十世紀初頭のウィーンにおける《知》が対象を分割(分類・整理/選別・排除)するものだけではなかったことを知らしめてくれる。