その日の夜も、少女の話す物語を聞いていた。
夢の世界のことについて話す少女の顔は、いつもながらとても楽しげだった。
そんな少女の様子を見ていると、なんだかこっちまで微笑ましい気分になった。
しかし、その日はいつもと少し様子が違っていた。
話の途中で少女は突然、その動きを停止してしまった。
まるで電池の切れた機械仕掛けの人形のようだった。
毎回、話が一段落つくたびに、
少女はその動きを停止し、いつもの状態に戻っていたが、
夢の世界について話している時にそれが起こることはこれまでにはなかった。
私はどうしたのかと思い、少女の顔を覗き込む。
少女は話をしていた時とは一転して、無表情になり目の焦点があっていなかった。
「あれ、さくらちゃん? どうしたの? お話の続きは?」
私は少女に話しかけたが、やはり反応はなく、少女はかすかに首を振るだけだった。
小さな唇がわずかに動いていたが、何を言っているのか聞き取ることはできない。
そして、そのままベッドに倒れ込むようにして横になってしまった。
顔を見るとやはり無表情のままだった。
どうやら今日はここまでのようだった。
私は溜め息をひとつつくと、ベッドの端にあった少女の体を中央へ移す。
そうしてそっと布団をかけると、食器を載せたトレイを持って少女の部屋を後にした。
その後、私は遅くまで自室にあるコンピュータに向かい仕事をしていた。
キーを打ちながら少女のことを考える。
今日はいつもと少し様子が違っていた。
あるいは少女の状態も少しずつ変化しているのだろうか。
もしかしたら、それとわからないだけで、
少女の心は少しずつ回復しているのかもしれない。
だとしたら、それはとても喜ばしいことだ。
あの少女は笑顔でいる時のほうがずっとかわいい。
あの少女がずっと笑顔でいられる日がいつかは来るのだろうか。
ふと、時計を見るとすでに午前1時を過ぎようとしていた。
そろそろ寝たほうがいいな…。
腕を振り上げ、伸びをしようとしたまさにその時。
突然、二階から大きな物音と共に少女の悲鳴が聞こえた。
「な、なんだ!?」
私は慌てて立ち上がると、部屋から出て二階へと続く階段を駆け上がる。
その間に更にもう一度、少女の悲鳴が聞こえた。
心の内から湧いてくる嫌な予感を吹っ切るかのように、
二階にある少女の部屋の前まで急ぎ、強くノックする。
「さくらちゃん!? どうしたの? 入るよ!」
返事を聞くまでもなく、勢いよくドアを開け、部屋に入ったその先。
私の視線の先では、ベッドの上で少女が一人震えていた。
「さくらちゃん…? どうしたの?」
ベッドの側まで歩み寄り、少女の肩に手をかける。
しかし、少女は目を見開き、小刻みに震えながら壁を凝視したままだ。
少女の見ている方向に私も目をやるが、
そこにはただ何もない真っ白な壁が存在しているだけだった。
虫でも出たのかと思い、隅々まで見渡してみたが、やはり何もない。
「どうしたの? 何かいたの?」
少女の方を振り向くが、少女は目を見開いたまま、私の問いには答えない。
ただ、何かを囁くかのように、小さな唇がわずかに動いている。
「…さくらちゃん? さくらちゃん!?」
どうしようもなく、ただ少女の肩を揺する。
そして、消え入るような声で少女はようやく言葉を発した。
「…も…えちゃう…の」
「え? さくらちゃん? なんて言ったの?」
「…燃えちゃうの…お兄ちゃんが燃えちゃうの…」
「さくらちゃん…?」
この少女は何を見ていると言うのだ…?
「ああ…だ、誰か…」
段々と少女の声が大きくなっていく。
「誰か、誰か…助けて! お兄ちゃんが、お兄ちゃんが柱に挟まって動けなくなってるの! 早く助けないと火が…火が…!」
私の中の困惑が徐々に大きな不安へと変貌していく。
まさか…あの日のことを思い出しているというのか?
「お願い、誰か来て…お兄ちゃん、お兄ちゃん、しっかりして…誰か…誰かお兄ちゃんを助けて!」
少女の目から涙がこぼれていた。
「さくらちゃん! さくらちゃん、しっかりするんだ!」
少女の肩を揺さ振り、大声で呼びかける。
しかし少女は一向に正気に戻らない。
「お兄ちゃんを助けて…早く…そうしないと、そうしないと…ああ…」
少女の動きがピタリと止まった。
正気に戻ったのか?
私は一瞬期待する。しかし次の瞬間。
「イヤァァアァァァァァァァァァァァ!!」
少女は絶叫していた。
「お、お兄ちゃんが燃えてる! お兄ちゃんが燃えてるの! お兄ちゃん! …やだよ…こんなのやだよう…!」
少女は自らの顔を両手で覆い、首を振っている。
まるでそうすることで、目の前の惨劇から逃れることができると信じているかのように。
間違いない。呆然としながらも私は確信していた。
少女はあの日の晩のことを思い出しているのだ。
あの日の晩、住んでいた家が燃え、自分の兄が炎に包まれたあの日の晩を思い出しているのだ。
「さくらちゃん! さくらちゃん!」
私は肩を揺すり、必死に呼びかける。
しかし少女はいまだ泣き叫び、その声を止めることはできない。
「くそう…どうしたら…どうしたらいいんだ!」
私は拳をベッドに叩き付ける。
自らの記憶を掘り起こし、その光景に絶望している少女をどうやって助けろというのだ!
自分の無力さを思い知らされ、私は頭を抱え込む。
少女の記憶…少女だけが見ている光景。
少女だけが見ている…。
その時、私の脳裏に、ある共通項が浮かびあがった。
「そうだ…」
私は再び少女の肩を揺すりだす。
今度はなるべく優しく、ゆっくりと揺する。
「さくらちゃん、カードだ。カードの魔法を使うんだよ」
私の言葉に少女が始めて反応を示した。
「カード…?」
「そうだ、カードだ。たしか君の持っているカードで水を自在に操るカードがあっただろう?」
「水を操るカード…ウォーティ…」
「そうだ、ウォーティだ。そのウォーティで火を消すんだ。そうすれば君のお兄ちゃんはきっと助かる」
「うん、わかったよ…やってみるよ…」
少女は無表情になり、何か呪文のような言葉をぶつぶつと呟き始めた。
私はその様子をじっと見守っていた。
呪文の言葉が終わり、しばらくしてからも少女は無表情なままだった。
「さくらちゃん…?」
段々心配になってきた私に対し、ようやく少女は顔を上げた。
「火が…消えた…」
笑顔だった。
「火が消えたよ…」
もう一度繰り返す。
「そうか…それは…良かった」
「お兄ちゃん、無事だった…。少し火傷したみたいだけど大した怪我じゃないみたい…」
「ああ…そうか。それは本当に…良かった」
「ありがとう、おじさんのおかげだよ」
少女が無邪気に微笑む。
「良かった…本当に良かった…」
呟きながら、私は思わず少女を抱きしめていた。
過酷な現実に対して、少女の体はあまりにも小さい。
「本当に良かった…」
ただ、その言葉だけを繰り返す。それ以外の言葉は何も言えなかった。
気が付くと、少女は私の腕の中で眠ってしまっていた。
きっと泣き叫びすぎて、疲れてしまったのだろう。
私は穏やかな表情で眠る少女の体を改めて強く抱きしめていた。
ずっと抱きしめていた。