障害者に対する誹謗中傷がひどすぎる

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134201えどうぃん
喜怒哀楽や不平不満等の感情の原因は100%それを感じる人の持つ固定観念にある。観念に強く執着すればそれだけ湧いてくる感情も強くなる
固定観念とは、個人が持つ固着観念、既成概念、主観、評価基準、先入観、世界観、見識、信条、思想、哲学、イデオロギー、主義主張、思考パターン、思い込みなど、無意識的にせよその人が「これは正しい」「かくあるべし」等と認めている情報、価値観、定義付けのことである
笑いや感動や驚愕も固定観念に依るが、幼児のように自我が未発達な期間や先天的な脳障害がある場合、また脊髄反射や、摂食や性交等による肉体的快楽等については、そこに直接観念の作用する余地がないので論外

如何なる事象も最初から意味のあるものはない。ただ「起きている」だけである。見た人が各自の視点・観点から定義を与えて初めて、意味や価値が生じる
種々の形態の情報も、元を辿ればただの光の濃淡や空気振動等に過ぎない
貴方がたった今目にしているこの文面も、実態は単なる画面に映った黒白模様である。日本語という共通キーを手掛かりに、貴方が現在持っている固有のフィルタ・色眼鏡を通して解読し意味を判断している

読者が触れ得た情報をどう読み取ってどう活用するかは、完全にその読者の勝手自由である。例えそれが誰かに教わった考え方・見解であっても、読み手が他者に「強要」されることなく自由意思でそれを選んでいれば、その結果に対する責任は読み手自身にある
例えば貴方がある情報に接してどれほど憤りを覚えたとしても、それはあくまでも貴方の判断基準・尺度に照らして貴方自身が無意識的にせよ選んだ解釈の結果であって、その情報の発信者には「貴方の憤りに対する原因・責任」は全くない
ここで言う「強要」とは肉体に対して直接的物理的な被害が及ぶケースのみであり、暴言や誹謗中傷については騒音となるもの以外「強要」に当たらない。例えそれが脅迫文でも、恐怖心を抱く事自体は読み手の勝手な所為である

続く
135201えどうぃん:2005/06/05(日) 17:07:53 HOST:219-100-243-247.denkosekka.ne.jp
つまり人は本来(ネット上では絶対に)自分の感情を他人のせいにはできない。怒りの矛先を少なくとも自分以外の誰かに向けるのは、筋も間も勘も気も思いも見当も御門も違う。これに気付いていない人同士が互いに鏡となって矛盾を見せ合う行為が「争い」である
そもそも何を見てどんな印象を抱きどう感じるかは個人の自由である。もし貴方がその自由に制限を与えようと(例えば相手に自分の理想を押しつけようと)すれば、その瞬間に貴方も不自由(苛立ちなど)を感じる羽目になる(人を裁けば自らが裁かれる)
それが「貴方が与えたものを貴方が受け取る」というこの宇宙の仕組み(仏教で言う因果応報、物理学で言う作用反作用)である
従って貴方が誰かに嫌悪感を抱いても、その原因は常に「貴方の持つ固定観念・定義付け」であって「相手」ではない

逆に言えば、仮に貴方が誰かを怒らせたり悲しませても、相手が自前の了見・価値基準で勝手に感じている事なので、貴方が後悔や自責の念を感じる必要は一切ない
相手が幾ら貴方に罪悪感や劣等感を感じるよう仕向けても、そもそも御門違いなので貴方が自己嫌悪に陥る理由にはならない(これは無論、迷惑を掛けたり失敗しても反省や訂正や改善をしなくて良いという事ではない)
また、感情自己責任とはいえそれを表現すべきではないという事ではない。感情は自己表現の一つであり、自他共に己を知らしむチャンスなので、寧ろ積極的に感じたままを間を置かずに表現すべきである
実際、感情を抑圧する者ほどそれを爆発させやすく、感情の自己責任が取れていない者ほど(自分が傷付かなくて済むように)他者の表現の自由を制限したがる

また、自称知識人の多くは気付いていないが、「何かを批判・非難する」ということはその対象に関して中途半端な知識しか持っていない(無知の無知)証拠である。故に批判すればするほど一時的表面的解決になるだけで、実態は益々隠蔽され問題は長期化する

続く
136201えどうぃん:2005/06/05(日) 17:08:08 HOST:219-100-243-247.denkosekka.ne.jp
感情に限らず人生で体験する全て(外界)は「体験者がどんな固定観念を持っているか(内界)」を映し出す“鏡”に過ぎない。従って感情的な批判や非難は全て自己矛盾する
例えば、極悪非道な犯罪者に対して「あんな思いやりのない人間がいるなんて信じられない」などと責め立てたがる人ほど、その罪人の立場を思いやれていないように
何かと差別問題化する人の心の中にこそ根深い差別心があるのも同様の理屈。内部に矛盾がなければ外部に矛盾を見る事はできない

人は100%当人が与えた定義付け通りを体験する。「人生は必ずしも思い通りにならない」と定義していれば正にその通りの(必ずしも思い通りにならない)体験をする。常に本人の現時点の固定観念が、過去や環境を定義している
「体験が先で観念が後という観念」も含めて、常に「観念が先で体験が後」である
従って、繰り返したくない体験に出会ったら「どんな固定観念がこの体験を見せているのか」「その固定観念は執着に値するのか」と考えてみると良い。原因となっている観念を変えれば、似たような体験をしなくなる
なお個々人のみならず集団・社会においても観念は具現化する。グループ全体が抱いている総体観念はそのグループ内で起こる出来事となって現れる。例えば貧困は人々の中にある「飢餓への恐怖」、犯罪は「自己存在の喪失に対する恐怖」が顕在化したものである

全ては必然であり、起こるべくして起こっている。偶然や奇跡、運、矛盾、不合理、理不尽、不条理などは、その現象・物事の因果や必然性を理解(説明)できない人が主に自身への言い訳として用いる概念に過ぎない
同じように「闇」も存在しない。存在するのは「知覚能力の限界」である
同じく「客観」も存在しない。存在するのは「共有された主観」である
真実は「人の数だけ」ある。「真実は一つ」は、数ある真実の中の一つに過ぎない。だからいつの世も「唯一の真実」に拘る人だけが、争いを通して己の矛盾を体験する

以上は、記述者が短い人生の中で漸く知り得た狭い視野と限られた経験から捻り出した独断と偏見即ち個人的主観である。真か否かを判断するのは貴方自身であり、いずれにせよ貴方は貴方が信じた通りを体験する

おしまい