新学期だよ♪文壇BAR

このエントリーをはてなブックマークに追加
115呑んべぇさん
野坂昭如の『文壇』(文芸春秋)では、1961年から70年までの
作者自身の「文壇生活」がえがかれる。大空襲になんとか生き残った彼は、
いくつものあやしげな商売を経て、56年、芸能マネージャーとなり、
やがて新興のテレビ業界に居場所を見出(みいだ)した。六一年、小説雑誌の
雑文(コラム)の仕事を得て、活字の世界に転じた。テレビ時代の最盛期には
年収1千万円を超え(現在の1億2千万円程度!)、運転手つきの
外車に乗って夜な夜な赤坂で遊んでいたというから、金のための転身ではない。

「文壇バー」への通勤がはじまる。だいたい出版社にレストランがあり(中央公論社)、
酒場がある(文芸春秋)。銀座のバーには「社長専務クラス」の作家が出没する。
小林秀雄と美人ママのキスシーンを目撃する。

そんなバーに「3日にあげず」通っても1年で12万円、ところがなんとなく
河岸をかえて週一回に減じたら、腹を立てたママが半年で80万円の請求書を
送ってきた(この時代だと、それぞれ10倍したらよい。いくら飲んでも5千円の
「学割」だって、ちっとも安くはない)。
116呑んべぇさん:04/11/07 02:20:23
文壇酒場では誰も文学論など口にせず、作品評価や人物月旦(げったん)を
行わなかった。意外だが、それはそうだろうとも思う。そんなことが毎晩では、
とても身がもたない。つまりそこは、サロンであった。職場を持たない
自由業者たちの疑似的職場であった。

もっとも、作家たちの性癖、交遊、家庭の事情までを見なければ気が
済まない「現場主義」の批評家もいたし、編集者たちにとっては真正の職場で
あっただろう。作家の育成こそ天職、と考えているような編集者たちには
「伯楽」という古典的な呼び名がふさわしかった。そして「プレイボーイあがり」の
野坂昭如にとって(彼はコラムニスト時代、プレイボーイ評論家ではなく、
ほんもののプレイボーイという虚構で名をなした)、バーの補助椅子から
作家の定席、壁を背にすわることが望みだった。
  
そこでは、吉行淳之介の立居振舞いに程のよさと品格があった。
これが小説家の典型かと、しみじみ眺めた。
117呑んべぇさん:04/11/07 02:24:53
酒場でも作品のヒントをトイレでメモする勤勉な人、かつ誠実な嘘つきとも
いうべき野坂昭如は、その天職たる小説家として大成したが、文壇バーは
事実上ほろびた。それは原稿料の伸び悩みと、文学全集が絶えたせいである。

『文壇』は三島事件直後の七〇年大みそか、丸谷才一が『たった一人の反乱』を
書きあげたところで終わる。戦前の延長としての文壇、あるいは「玄人自身が
誰かが玄人であるかを決める、という制度」(大塚英志「不良債権としての『文学』」
群像六月号)にのっとった男たちだけの特権的空間、文壇は消滅した。

しかし以来四半世紀、いまだ新しい文壇は生まれない。文壇に限っていうなら、
戦後は、実に始まってさえいないのである。

                          関川夏央(文芸時評)