野坂昭如の『文壇』(文芸春秋)では、1961年から70年までの
作者自身の「文壇生活」がえがかれる。大空襲になんとか生き残った彼は、
いくつものあやしげな商売を経て、56年、芸能マネージャーとなり、
やがて新興のテレビ業界に居場所を見出(みいだ)した。六一年、小説雑誌の
雑文(コラム)の仕事を得て、活字の世界に転じた。テレビ時代の最盛期には
年収1千万円を超え(現在の1億2千万円程度!)、運転手つきの
外車に乗って夜な夜な赤坂で遊んでいたというから、金のための転身ではない。
「文壇バー」への通勤がはじまる。だいたい出版社にレストランがあり(中央公論社)、
酒場がある(文芸春秋)。銀座のバーには「社長専務クラス」の作家が出没する。
小林秀雄と美人ママのキスシーンを目撃する。
そんなバーに「3日にあげず」通っても1年で12万円、ところがなんとなく
河岸をかえて週一回に減じたら、腹を立てたママが半年で80万円の請求書を
送ってきた(この時代だと、それぞれ10倍したらよい。いくら飲んでも5千円の
「学割」だって、ちっとも安くはない)。
文壇酒場では誰も文学論など口にせず、作品評価や人物月旦(げったん)を
行わなかった。意外だが、それはそうだろうとも思う。そんなことが毎晩では、
とても身がもたない。つまりそこは、サロンであった。職場を持たない
自由業者たちの疑似的職場であった。
もっとも、作家たちの性癖、交遊、家庭の事情までを見なければ気が
済まない「現場主義」の批評家もいたし、編集者たちにとっては真正の職場で
あっただろう。作家の育成こそ天職、と考えているような編集者たちには
「伯楽」という古典的な呼び名がふさわしかった。そして「プレイボーイあがり」の
野坂昭如にとって(彼はコラムニスト時代、プレイボーイ評論家ではなく、
ほんもののプレイボーイという虚構で名をなした)、バーの補助椅子から
作家の定席、壁を背にすわることが望みだった。
そこでは、吉行淳之介の立居振舞いに程のよさと品格があった。
これが小説家の典型かと、しみじみ眺めた。
酒場でも作品のヒントをトイレでメモする勤勉な人、かつ誠実な嘘つきとも
いうべき野坂昭如は、その天職たる小説家として大成したが、文壇バーは
事実上ほろびた。それは原稿料の伸び悩みと、文学全集が絶えたせいである。
『文壇』は三島事件直後の七〇年大みそか、丸谷才一が『たった一人の反乱』を
書きあげたところで終わる。戦前の延長としての文壇、あるいは「玄人自身が
誰かが玄人であるかを決める、という制度」(大塚英志「不良債権としての『文学』」
群像六月号)にのっとった男たちだけの特権的空間、文壇は消滅した。
しかし以来四半世紀、いまだ新しい文壇は生まれない。文壇に限っていうなら、
戦後は、実に始まってさえいないのである。
関川夏央(文芸時評)