http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB ウル
ギルガメシュ叙事詩によって、ジョージ・スミスは時の人となった――だが彼がその名声を享受した
のはわずか3年に過ぎなかった。というのも、彼はメソポタミアの途上、アレッポでウィルスに感
染して死ぬのだ。だがこのときまでに、彼はアッシュールバニパルの書庫からさらに書版を発見し
ていた。それは世界の創造の物語を書いたもので、聖書の「創世記」との類似は、洪水物
語と同様、驚くべきものだ。
これは世界的な関心を呼び起こした――聖書の物語は、シュメールの原典の焼き直しに過ぎない
のかもしれないのだ。信者たちにとっては、これらの物語は聖書の真実をヴィクトリア朝
の用語で言えば、不可知論者たち)にとっては、聖書もギルガメシュ叙事詩と同様に古代のフィク
ションとすることができた。スミスは万人を幸福にしたのだ。
ボッタ、レヤード、ローリンソンらの発見は、古代メソポタミアへの地滑り的関心を引き起こした。有望な調査
の候補地は、バスラの港から20マイル(約32キロ)北にある典型的な砂漠の丘陵である。
アラブ人はこれをテル・アル・ムカイヤルと呼んでいた。「アスファルトの丘」の意味だ。
それは砂漠を防ぐ遮蔽のほとんど無い不毛な平地にあった。1854年、ラッサムがアッシュールバニ
パルの書庫を発見して2年後、イギリスの役人J・E・テイラーがイギリスの外務省から派遣された大
英博物館のためにその塚を視察するためだ。
テイラーは考古学者ではなく、歴史的建造物の判別に関してはまったくの素人だった。彼にわ
かる範囲で言えば、それは四角い建造物で、かつて宮殿のように見えた。その上にさらに
3つの四角い構造がはめ込まれており、ちょうど階段ピラミッドのようになっていた――この
知らせが文明社会にもたらされると、これこそがバベルの塔なのではないかと考えられた。
これはまったく弁解の余地のない失態だ。というのも、ジョージ・スミスの時代には、ヘンリー・ロー
リンソンはすでにテイラーが送ってきた円筒印章のいくつかを翻訳しており、この塔を築いたのが
ウル=ナンムと呼ばれる人物であることを知っていたのだ。この名前の前半に彼は興味を持った。
「創世記」に寄れば、アブラハムの父はカルデア人のウルという都から家族をつれて出たという。こ
の破壊された塔は、聖都のウルの一部だったのか?そして実際、その通りであることがや
がて判明するのだ。
適切なことに、1922年に大英博物館に指名され、この地に赴いて発掘調査を行ったのは聖
職者の息子だった。第一次世界大戦前、レナード・ウーリーは、シリアのカルケミシュで発掘を行った。助
手はT・E・ロレンスと言う男で、彼は後に「アラビアのロレンス」として知られることになる。
1923年にイギリスとアメリカの合同調査隊が到着したとき、素人目にはアル・ムカイヤル遺跡は待ったく
見込みが無いように見えた。半分は解された塔の周囲には、平坦なビスケット色の砂漠が広が
り、そこに多数の塚が点々としているだけだ。だがウーリーは、シャーロック・ホームズに匹敵する推理
力を持つ考古学会の探偵だった。彼の目に見えていたのは、麦畑に囲まれ、目も眩むよう
な陽光を受けて輝く運河が張り巡らされた要塞都市の遺跡だった。
問題は、中東が緑をなす地であった時代に、こののどかな地域の中心であった神殿、宮殿、
家々を発見することだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9 T・E・ロレンス
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,:2008/09/14(日) 06:43:38 ID:XwIsvyr90
88 :
,:2008/09/14(日) 06:47:51 ID:XwIsvyr90
女王の墓は贅沢な贈り物で一杯だった。たとえば2つの舟の模型は、一つが銀、もう一つ
が銅で、それぞれ長さ2フィート(約61センチ)あった。頭飾りや鬘もあり、それはラピス・
ラズリ、カーネリアン、金の輪、白樺の葉や花で飾られていた。ウーリーの妻ケイトは居丈高な女で、たぶ
ん気性は女王ジュバトと共通するものがあったと思われるが、ともかく彼女には才能があり、
この女王の頭像を粘土で作り、塗装した。それはカイロ博物館のネフェルティティの胸像と競っている。
3年間の発掘で、ウーリーと作業員たちは古のウルの都を見下ろすことが出来るようになった。狭
い路地、市民のの豊かさを示す二階建ての家(当時の家のほとんどは一階建てだった)アーチ
のある戸口も一般的だった。ヨーロッパでそれが知られるようになるのはアレクサンダー大王以後の
ことだ。ウルは、多くの部屋を備えた広い邸宅に住む、裕福な中産階級の都のようだった。
さらに、幅200フィート(約61メートル)、深さ40フィート(約12メートル)の巨大な
穴が見つかった。その土壌はほとんどが廃棄物と古い灰だった。深さ40フィートもの廃棄
投棄場があったということは、その中身は極めて長期にわたって、もしかすると何世紀に
もわたって蓄積されたということだ。明らかに住民たちは、町の城壁の上からごみを捨て
ていたのだ。
だが、廃棄物のほとんどは年代測定が不可能だった。そこで、発掘6年目に当たる1912年、
ウーリーは多くの穴を掘り、年代のわかりそうなものがないか調べてみることにした。そして
すぐに、彼は仰天するような発見をするのである。
「突如、土壌の性質が変わった。それまでの陶器と廃棄物の層の下に、まったく不純物の
無い粘土があったのだ。それは完全に均質で、その組織から見て、水によって堆積したも
のだった。作業員は、これが底だと考えた。つまりそれこそ、元来のデルタを形成した川の
沈泥であると、、、、」。
だがそうではなかった。9フィート(約2・7メートル)に及ぶ粘土の層の下に、再び廃棄物
の層が出現したのだ――ただし、今度は石器だった。明らかに、より原始的な時代のもの
だ――大洪水によって終わりを告げた時代だ。だがそこには焼成煉瓦が存在していた。つ
まりそれは、泥煉瓦による原始的な村ではない。洪水によって沈んだのは都市だったのだ。
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,:2008/09/14(日) 07:01:15 ID:XwIsvyr90