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巨大石球は何に使われたのか  、、、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%9F%B3%E7%90%83 コスタリカ石球











68,:2008/07/03(木) 21:16:34 ID:63B+56Tm0

これらの問いに対する答を、ほとんど偶然に提唱したのは、コスタリカの若き教授アイヴァー・
ザップだ。彼はもともと世界最大の謎の一つ――コスタリカの石球に挑戦してきた

それが発見されたのは1930年代初頭のことである。ユナイテッド・フルーツ・カンパニーが、中央アメ
リカはコスタリカの南東部、ディキ・デルタと呼ばれる一帯に、バナナのプランテーションを作ろうとジャングルを
切り開いていた。木々を切り倒し、焼き払いながら進んでいた労務者たちは、巨大な石の
半球が地面から突き出しているのを次々と発見し始めた。苦労して掘ってみると、それは
巨大なビーチボールのような球体だった。ビーチボールと違うのは、それが花崗岩で出来ていたと
いう点だ。最大のものは直系9フィート(約2・7メートル)以上、最小のものはテニスボールほどの大
きさだった。

明らかに、これらの球体はかつてさまざまな宗教施設の一部をなしていたものだ。土塁の
上に安置され、周囲を石柱や彫刻で囲まれていたらしい。だが驚くべきことは、これを製
作した人々の技術の高さである――その多くは完全な球体であり、表面は紙のように滑ら
かだった。

この巨大な石球は確かに奇怪なものではあったが、それには人々の好奇心を急速に枯渇さ
せる何かがあった。コスタリカの大都市であるサン・ホセよリモンの金持ちは、これを自宅の庭に運ば
せたが、それによってその最大のものは重さ20トンに及ぶことが分かった。小数の考古
学者たちはそれを見て首をふり、これは太陽か月、あるいはその両方を表しているのだろ
うと述べて、それきりだった。

10年ほど後、アメリカの考古学者サミュエル・K・ロスロップは、美しい妻と休暇を過ごすためにディキ
地方を訪れたとき、パーマー・スルの庭にこの石球を見た。しかもそれは数百個もあり、それが
何であるかを解き明かした者は誰もいないと聞かされた。つまり、解くに値する謎だ。そ
してたまたまロスロップには、暇な時間があった――彼は目下、コルテガ族の陶器の発掘に取り込
んでいたのだが、盗賊の出没で、その作業の継続が困難になっていたのだ。彼はこの興味
深い謎の解明に取り組むことに決めた。
69,:2008/07/03(木) 21:27:26 ID:63B+56Tm0

研究は遅々としてはかどらなかった。この滑らかな球体には、文字通り引っかかりが何も
なかったのだ。だがついに彼は、元のままの位置にある石球を調べに出かけ、それらがし
ばしば3個一組で、三角形に配置されているということに気づいた。また場合によっては、
45個の石球が直線状に配置されていることもあった。だが3角形のほうは非常に不規則

で、しばしば異なる大きさの石球で構成されていた。
そこには何らかの意味、隠された暗号があるに違いない。だがその意味は見当もつかなか
った。彼はハーヴァードのピーボディ研究所の後援で石球に関する論文を書き、もっととりつく
島のある謎の追求に戻ってしまった。彼以外に、この謎を追及した考古学者はなかった。
というのも、あの短い論文だけで、ロスロップの好奇心は枯渇してしまったからだ。

さらに30年のときが流れ、石球のことを思い出すものも居なくなったかと思われた。だ
が1981年、コスタリカ大学の若き建築学教授が、まったく異なる観点からこの石球の謎に挑
もうと考えた。彼の名がアイヴァー・ザップ。その着想の源は、イギリスの研究家ジョン・ミッチェルの著
作である。ジョン・ミッチェルといえば「レイ・ライン」だ。レイ・ラインとは、イギリスの片田舎を、まるで
運河のようにまっすぐ走る直線路のことだ。ザップはディキ・デルタの石球が描く長い直線を思
い起こし、こう考えた。

ここでザップの推論を追うためには、先にジョン・ミッチェルとレイ・ラインについて説明しておく必要
がある。

この直線が「発見」されたのは1921年のことで、発見者はイギリスの実業家アルフレッド・ウォト
キンズだった。彼はヘレフォードシャーのブレッドウォーダインの近くで馬に乗っていたとき、いくつかの古
い小径がヤのようにまっすぐに何マイルも伸びていることに気がついた。それらはしばしば
丘の頂に向かっていた。突然彼は、イギリスには何百というこれら「古の直線道」が縦横に走
っているのではないか、と思い至った。彼はこの直線路を「ley」または「lea」と名づけ、
ブリテン島の最初の住民たちの交易路であったと考えた。

ジョン・ミッチェルがこの問題に関わってくるのは1960年代半ばのことだ。そのきっかけは彼
が空飛ぶ円盤に興味を持っていたことだ。ミッチェルは、空飛ぶ円盤の多くがレイ・ラインの近く、
特にいくつかのレイ・ラインの交点で目撃され、またレイ・ラインは地上からよりも空中からのほう
が見分けやすいという興味深い事実に気づいた。


レイ・ラインみつからねーや、、、。無いんですね、、、。
70,:2008/07/03(木) 21:29:40 ID:63B+56Tm0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B0 ダウジング

中国にもまた「龍脈」と呼ばれる同様の線があり、それは「天地の気の経路」とされてい
るということを知ったミッチェルは、レイ・ラインもまた何らかの「大地の力」の流れを示すもので
はないかと考えた。例えばダウザーはダウジング・ロッドやペンデゥラムの反応によってレイ・ラインを探
知することが出来る。

また、レイ・ラインはしばしば、埋葬塚や古い教会、ストーンヘンジのような古代遺跡などの「聖なる
場所」を通過している。

アイヴァー・ザップにとっては、ティキ・デルタの石球はストーンヘンジの巨石と同じ問題を投げかけてい
るように思えた――さらに言うなら、大ピラミッドの巨石ともだ。それらはどのようにして、
これほど完璧に造形されたのか?そしてどうやって運んだのか?石球の一部はコスタリカ沿岸
の高山でも発見されている。大多数のチームを組んだとしてもそれを転がして山頂まで運搬す
るのは不可能に思える――あまりにも困難であり、かつ危険だ。

ザップは学生たちを連れてディキ・デルタに赴き、この謎を解こうと試みた彼らは途方に暮れた
が、そのうちに一条の光が見えてきた。ロスロップは、石球が博物館や庭に移される前の状況
を図に残していた。それを見たザップは2つの3角形の一辺が直線状に配置されていること
に気づいた。そしてその直線路は、まっすぐ磁北極を指していたのだ。

もしそうなら、残りの2辺もまた地球上の何らかのポイントを指しているのだろうか?

彼はこの思い付きを地図上で検証しようとして、定規で直線を延長してきたが、結果には
がっかりさせられた。直線は特に何かを指しているというわけではないように見受けられ
たのだ。だがそのとき、当然ながら、地図というものは地球の円い表面を平面に投影した
ものに過ぎないということに思い至った。ザップはもう一度、今度は巻尺と地球儀で同じこ
とをやってみた。するとただちにそれが自己欺瞞ではないということが判明したのだ。球
体が発見されたパーマー・スルから延びた一本の直線はまっすぐココス島を指し、さらにガラパゴス
島を通ってイースター島に達していた。そういえばイースター島でも、コスタリカの巨大石球よりははるか
に小さいが、同様の石球が発見されている。
71,:2008/07/03(木) 21:33:04 ID:63B+56Tm0

だが、この「サイトライン」についてさらに調べていくうちに、ザップは疑念を抱き始めた。その
直線は、実際にはイースター島から42マイル(約25キロ)ほど外れていたのだ。だがその後、
彼は自分の確信を強める事柄を思い出した。ポリネシアの船乗りは、彼や雲の様子を見ること
で、70マイル(約112キロ)先の島の存在を知ることが出来る。島の存在がそれらに
影響を及ぼすのだ。また彼らは、アジサシやクロアジサシなどの陸生の海鳥の存在にも注目する。
そんなわけで、二つの島を貫く7000マイル(約1万1200キロ)の直線がたった4
2マイルの誤差でイースター島w

お指しているというのは、10分ヒットと見なせるのだ。

彼の疑念は、他のサイトラインを調べることで完全に晴れた。同じ3角形のほかの辺は、大西洋
を越えてジプラルタル海峡を指していた。また別の3角形では、辺は正確に大ピラミッドを指して
いた。あるいはまた別のものは、南イングランドを指しているのみならず、正確にストーンヘンジ
を貫いていたのだ。これは偶然ではありえない。


つまりアイヴァー・ザップはコスタリカの石球の目的を解明したのだ。それは航海のための指標だっ
たのである。そうであれば、その一部が平地に直線状に並んでいたり、海を見下ろす山の
上にあったりする理由も解ける。また、太平洋を望むコスタリカ南岸沖のカノ島で、本土よりも多
くの石球が発見された理由もわかる。

ロスロップもまた、これらの石球がしばしばインディオの墓地と関係するところで発見されるとい
うことに気づいていた。そこで彼は、それは死者に対する何らかの儀礼であったのではな
いかと考えていた。だがもしもそれが実際に方向の座標であるなら、それは墓地の近くに
置く意味も分かる。船乗りは、死んだ航海士の霊に導いてもらうことをねがったのだろう