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,:2008/06/29(日) 10:35:00 ID:W5ZVcliE0
同じTV番組を制作中、エジプトとメキシコの繋がりを示すもうひとつの手がかりを教えられた。
われわれはボリビアのラ・パスから車を走らせ、アルティプラノと呼ばれる広大な高原を越えて、
アンデスの古代都市ティアワナコに向かった。この聖なる遺跡は、海抜2・5マイル(約4000メート
ル)のところにある。だがティアワナコはかつてはティティカカ湖臨む港都だった。何らかの地殻変動が
大地を傾け、湖を12マイル(約19キロ)も彼方にやってしまったのだ。
ティティカカ湖には今もなお、タツノオトシゴなどの海生生物が豊富だ。つまり、明らかにそれはかつ
ては海面と同じ高さにあった。地質学者によれば、それは今から1億年前のことだという。
だが土地を傾け、ティアワナコから港を奪った大変動が何であれ、それは先史時代ではなく、ティア
ワナコの歴史時代に起こったことは確実だ。
かつての港都の痕跡で、現在残っているのは「プマ・プンク(ピューマの門)」くらいのものだ。
そこには巨石のブロックがナインピンズのように散らばっている。そのひとつには鋸の刃でつけら
れた長い切れ込みがあるが、それはまるでダイヤの鋸で切られたかのようだ。
数百ヤード離れたところに、カラササヤと呼ばれる壁で囲まれた巨大な神殿跡がある。この囲みの
北西隅には、ティアワナコで最も有名な(太陽の門)がある。それはまるでパリの凱旋門のミニチュア
のようだ。この門のまぐさ石には、その中心にある「入り口」に向けて走っている割れ目
がある。だが20世紀になるまで、それは単なる割れ目ではなかった。アーサープナンスキーの古典
作品「ティアワナコ――アメリカの人類の揺籃」(1945-57)所収の写真では、それは文字通りに二つ
に割れている。それが何らかの地殻変動によるものであることは明らかだ。
ティアワナコ周辺を見て回って驚かされるのは、その石造技術の高さだ。100トン以上にもなる巨
石のブロックが精密に切り出され、カミソリの刃一枚通らないほどぴったりと組み合わされている。
だが、プマ・プンクのように、石組みが外れたところでは、しばしば金属製の留め金のような
もので固定されている。恐らく地震でばらばらになってしまうのを防ぐためだろう。同じ
番組に携わっていた天文考古学者のニール・スティード教授は、こうした留め金の一つを調べた。
それは大体長さ6インチ(15センチ)ほどで、大文字Iのような形をしている。教授によれば、
建築家たちは携帯用の加熱炉のようなものを持っていたに違いないという――顕微鏡で調
べたところ、それは融解した状態のまま流し込まれたものだというのだ。
62 :
,:2008/06/29(日) 10:42:11 ID:W5ZVcliE0
そんな携帯用加熱炉のようなものの痕跡はまったく見つかっていない。だが単なる焚き火
などでは、この留め金の金属を融解させるほどの温度は得られない。また、アルティプラノには
燃料となるような木材もない。ショーン・モンゴメリが書いていた、ブラウン気体は数秒のうちに融解
した金属の液体を作ったという話を読んで、私はティアワナコの金属の留め金を思い出した。そ
れはスティードが言うように「携帯用加熱炉」で溶かされたのだろうか、それともトゥーラの柱形
にあったような「溶接トーチ」のようなものが使われたのだろうか。
番組の次の場面は、エジプトのギザの遺跡だった。メンカウラー王のピラミッドから50ヤード(約800
メートル)のところで、私は、精密の掘られたブロックの壁を調べているショットを撮影された。
そして、エジプトもまた、このようなブロックに同様の留め金が用いられているのを指摘した。
グラハム・ハンコックも指摘しているように、それはカンボジアのアンコール・ワットでも見つかっている。
ティアワナコにはもうひとつ、トゥーラと同様の疑問をおこさせる特徴がある――アカパナと呼ばれるピ
ラミッドだ。これはかつて7つの段と水平な頂を備えた巨大な階段状ピラミッドだったもので、
何らかの工業施設か、あるいはヨーロッパ共同市場の官僚の家のように見えたかもしれない。
それはかつてこの神殿の領域を圧倒していたが、長年の間にその平板な石の90パーセント
は土建屋によって持ち去られ、今では一見したところ自然の丘のようになってしまってい
る。だがその頂に登れば、そこに一種の湖があったことがわかる。
だがそれは丘ではない。その内部は、トランのピラミッドと同様、トンネルがあり、用途不明の小部
屋がある。ボリビアの考古学者オズワルド・リベラは、この小部屋をこのピラミッドの「王の間」と
呼んでいる。また石つくりの水路によって水が流され、周囲を濠が取り囲んでいる。ピラミッ
ドの上に降った大量の水は中央の方庭に集められ――それが今では湖のように見える――
おそらく第一段の周囲を巡っていた排水設備に流れ込み、それから外に出て、再び内側に
導かれ、もう一度外に出て濠に流れ込む。頂は湖の水のように見える緑の小石で覆われている。この建物全体が、水のモニュメントとなっているのである。
われわれは、トゥーラに関するシッチンの言葉を思いおこした。「隣接する多数の小部屋を備えた多
層の建物が残されているという事実は、何らかの産業プロセスを示している。さらにまた、、、、、
この遺跡において、非常に古い時代に、テオティワカンと同様、何らかの浄水施設があった可能性を示している」。
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,:2008/06/29(日) 10:44:09 ID:W5ZVcliE0
私はアカパナ・ピラミッドの頂に立ち、遥か南のキムサチャタ山脈を見た。次に周囲に広がる広大な高
原を見渡した。ティアワナコが繁栄を極めていた頃、この場所はどんな風に見えたのだろうか。
200トンに達する巨石ブロックで建造された港のある巨大都市を思い浮かべることはほとんど
不可能だった。どうやってそんな巨石をここまで引き上げたのか?そしてこの湿度の高い
高原のど真ん中の都市はいったい何をしていたのか?それが今とはまったく違っていたと
いうことは明らかだ。何十もの活気のある村があり、人力も豊富だっただろう。
それから何が起こったのか?この不毛な高地に、何らかの巨大な破局が訪れたことは明ら
かだ。とりわけ、それはいつか?
カラササヤの向かいにある博物館と、アラン・L・コラータの「ティアワナコ」(1993)によれば、ティアワナコ
は西暦100年ごろから発見し始め、500年ごろに最盛期に達し、その後は1000年ごろまで
徐々に衰亡していった。だがこれは明らかな疑問を引き起こす。もしそうなら、「太陽の門」
を真っ二つに割り、港の巨石をぶちまけた破局はいつ起きたのだろうか?それは明らかに、
単なる局地的な地震ではない。だが西暦500年ごろにこのあたりにそのような破局があっ
たという痕跡はまったく存在しないのだ。
20世紀初頭、ティアワナコ遺跡の研究に生涯を費やしたアーサー・ボナンスキー教授は、ティアワナコが作られた
のは紀元前1万7000年ごろである、と結論した。彼の推論の根拠は、夏至と冬至の位置を
記したカラササヤの二つの観測点にあった(至というのは、太陽が北回帰線もしくは南回帰線の
真上に来るときを言う)。このとき、2つの至点は赤緯プラスマイナス各23度30分となる。だが
カラササヤが造られた時点では、この至点はわずかに赤道に近かった――正確には23度8部48
秒である。このように回帰線の幅が変わるのは、「黄道傾斜」と呼ばれる地球のわずかな回
転運動のためで、これに基づいてポナンスキーはカラササヤ建造の年代を計算したのだ。すでに見た
ように、彼の結論は紀元前1万7000年ごろであった。
ボナンスキーの仮説は考古学会に大論争を引き起こした。学者たちは彼が何千年も早く見積もり
すぎていると考えたのだ。だが1927年から30年にかけて、ポツダム大学のハンス・ルーデンド
ルフ博士等が率いるドイツ人学者らのグループは、ポスナンスキーの結論を追試し、基本的には合意
した。だが、学会の狂騒に気圧され、最終的にはティアワナコの建造を紀元前9300年にまで引き
下げた。だがこれですら考古学者や歴史家にとっては、なお9000年も古すぎたのだ。そし
てすでに見たように、現在もこの見方が主流となっている。
だが完全にそうであるわけではない。メソアメリカ「の考古学者ニール・スティード教授は、長年にわた
ってティアワナコの調査をした結果、この聖なる都の建造年代を今から1万2000年前とした。そ
して驚くべきことに、21年にわたってティアワナコの発掘に当たったボリビア国立考古学研究所の
オズワルド・リベラ教授もまた、それを認めたのである。
64 :
,:2008/06/29(日) 10:47:44 ID:W5ZVcliE0
これが何故驚きかというと、1996年製作の「人類の起源の謎」というTV番組の中で、リベ
ラはスティードの計算に反対する旨を公表していたからだ。彼自身の見解によれば、ティアワナコの建
造者たちは単に少々ミスを犯したに過ぎない――結局のところ、スティードの論拠はたった21分
の違いに過ぎないのだ。だがスティードは納得しなかった――彼によれば、カラササヤの建造者もティ
アワナコの設立者も正確無比であり、些細な誤りも犯さない、というのだ。
1996年を通じて、リベラはティアワナコの日没を観測し続けた。その結果、最終的に彼はスティードの
正しさを認めるに至った。そこには「些細な誤り」もなかったのだ。日没の計測は日の出
とまったく同じ示度を示していた。かくしてリベラもまた、カラササヤの建造年代を1万2000年
前だと認めたのだ。
1997年、グラハム・ハンコックの「天の鏡」に紹介されているインタヴューで、リベラはティアワナコが失われた
文明によって築かれたものだとすら認めている。そしてこの文明とは「事実上、アトランティスと
考えていいかもしれません」とまで言っているのだ。
ハプグッドが1959年に思いつき、地質学者たちによって無視され否定されてきたアイデアは、
徐々にだが認められつつあるようだ。