243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
乃木大将の死とともに終つた陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかつた。
過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなつた。といふのは、大正知識人が徐々に指導者となる時代、
昭和初年にいたつて、このやうに否定され忌避され抑圧された陽明学的潮流は、地下に潜流して、過激な右翼思潮の
温床となつたために、ますます大正知識人に嫌はれる対象となり、被害者意識から大正知識人が、後輩へあへて
伝へまいとした有害な「黒い秘教」になつたのである。
一方マルクシズムは、知識層の革命的関心の、ほとんど九十パーセントを奪ひ去つた。北一輝のやうな日本的
革命思想の追究者は、孤立した星であつた。マルクシズムが陽明学にとつて代り、大正教養主義・ヒューマニズムが
朱子学にとつて代つたといふこともできるであらう。朱子学の、なかんづく、荻生徂徠のやうな外来思想の心酔者は、
大正知識人にとつてもむしろ親しみやすかつた。しかし国学と陽明学はやりきれぬ代物だつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 11:29:09.61 ID:HAF933Dl
国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になつた。インテリは触れるべからざるものに
なつたのである。
今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒してゐるいくつかの思想的タブーがあり、武士道では「葉隠」、
国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがつて天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、
インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされてゐる。さういふものを何か「いまはしい」ものと
考へるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落としてゐる。西欧的合理主義の移入者であり代弁者で
あるところに、自己のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なほ日本知識層の気質の底に
ひそんでゐる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまはしいもの、
醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つで
あつたのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 11:29:28.89 ID:HAF933Dl
現代日本知識人は、かくて無意識のうちに朱子学的伝統を引いてゐる。すなはち、西欧化近代化の文明開化主義の
明治政府と、その劇画化としての第二次大戦後の政府との、基本方針を逸脱せぬところで、同じ次元で、これを
批判し、あるひは「教育」する立場に矜りを見つける。マルクシストさへ、近代化の方策の差といふのみで、
近代主義者には変りがないから、近代主義の先駆としての立場から、「保守的」政府を批判し、それ以上には
出ないのである。大内兵衛氏が、自民党内閣と社会党と双方に関係するのは、双方が近代主義の異腹の児で
あるといふ点で、矛盾はない。
現代日本知識人の身を置く立場や思想は、マルクシズムの神話の崩壊につれ、ますます朱子学の各分派といふ様相を
呈するであらう。私見によれば陽明学は、決してその分派に属さない。むしろ今こそそれは嘗てあつたよりも
激しい形で、提起され直さねばならない。あらゆる政治学が劇薬でありえなくなつた現在、菌にも耐性ができて、
大ていの薬では利かなくなつたのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 11:30:19.67 ID:HAF933Dl
さて今まではといへば、たとへば(中略)氏(丸山真男)はそのかなり大部の著書の中でわづかに一頁の
コメンタリーを陽明学に当ててゐるに過ぎない。氏は、陽明学をあくまで朱子学に依存する一セクトとして見、
これを簡略に説明して、朱子の「知先行後」に対して「知行合一」を主張するところの主観的、個人的哲学で
あるとなし、陽明学は朱子学の理の内包してゐた物理性をことごとく道理性のうちに解消せしめたが故に、
朱子学ほどの包括性をもたず、朱子学ほどの社会性を失つた、と説いてゐる。
しかしながら陽明学は、明治維新のやうな革命状況を準備した精神史的な諸事実の上に、強大な力を刻印してゐた。
陽明学を無視して明治維新を語ることはできない。
大体、革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの
二本の柱にあると思はれる。(中略)二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッカーの準備した
能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの「二十世紀の神話」が、
ナチスのミスティシズムを形成した。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 11:35:13.94 ID:HAF933Dl
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に
入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは
人間性の自然である。
明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によつて準備された。
本居宣長のアポロン的な国学は、時代を経るにしたがつて平田篤胤、さらには林桜園のやうなミスティックな
神がかりの行動哲学に集約され、平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培つた。
また、これと並行して、中江藤樹以来の陽明学は明治維新的思想行動のはるか先駆といはれる大塩平八郎の乱の
背景をなし、大塩の著書「洗心洞箚記」は明治維新後の最後のナショナルな反乱ともいふべき西南戦争の首領
西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 11:36:18.81 ID:HAF933Dl
また、吉田松陰の行動哲学の裏にも陽明学の思想は脈々と波打つてをり、一度アカデミックなくびきをはづされた
朱子学は、もとの朱子学が体制擁護の体系を完成するとともに、一方は異端のなまなましい血のざわめきの中へ
おりていき、まさに維新の志士の心情そのものの思想的形成にあづかるのである。
主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによつて善悪を超越する哲学であるこの陽明学といふ危険な思想は、
丸山氏のいふところの、まさに逆を行つて、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派といふ仮面に隠れながら、その実、
もつとも極端なラディカリズムと能動的ニヒリズムの極限へ向かつて進んでいつた。その「良知」とは、単に
認識の良知を意味するものではなく、「太虚」に入つて創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、
武士的な行動原理と思はれる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもつとも危険な消息を伝へるものであつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 11:12:34.02 ID:mAy/8bsu
(中略)
私はさつき、死に直面する行動がニヒリズムを養成するといふことを言つた。陽明学の時代にはニヒリズムと
いふ言葉はなかつたから、それは大塩平八郎(中斎)の中斎学派がとりわけ強調した「帰太虚」の説の中に
表はれてゐる。
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚といふものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを
良知によつて弁別し得る最後のものであり、ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると
主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚はそのまま
太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた
思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に
偏在する太虚に帰することができるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば能動的ニヒリズムの根元と
考へてよいだらう。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 11:13:41.01 ID:mAy/8bsu
ただ、この太虚が仏教の空観に、ともすると似てきてしまふことは、森鴎外も小説「大塩平八郎」の中でそれとなく
皮肉に指摘してゐる。仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の
創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達してまた現世へ
戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へにはこの仏教の空観と陽明学の太虚を
つなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、
また陽明学的な行動ともいふことができるのである。
陽明学をごく簡単に説明したものとしては、井上哲次郎博士の「王陽明の哲学の心髄骨子」といふ古い論文がある。
(中略)明代の哲学者王陽明は朱子哲学の反動としておこつた人であるが、朱子哲学が二元論であつたので、
これに対して一元論の哲学を唱導し、陸象山の思想を受けてこれに自由主義的あるひは平等主義的な傾向を与へて
陽明学を体系づけた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 11:16:17.43 ID:mAy/8bsu
(中略)
そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに
立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
もちろん、認識と行動との一致といふことを離れて考へてみても、われわれが認識ならぬ知に達する方法としては
古人がすでに二つの道を用意してゐた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、
一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいはゆる脱自、陶酔、
恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するといふ方法である。これは哲学の中の二つの潮流を
形づくると同時に、人間の行動様式、行動様式の表はれとしての倫理や文化などの、すべての分岐点として現はれた。
陽明学を革命の哲学だといふのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとした
ものだからである。私がかう言ふのは、学問によつてではなく行動によつて今日までもつとも有名になつてゐる
大塩平八郎のことをいま思ひうかべるからだ。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 19:44:15.67 ID:mAy/8bsu
(中略)
大塩が思ふには、われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、太虚の一つである。
この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも口や耳を通じてひそんでゐる。われわれが持つて
ゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に
帰すれば、天がすでにその心に宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていくほかはない。形の
あるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつてゆすぶられる。何故なら形があるからである。
しかし、地震は太虚を動かすことはできない。これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を
語ることができるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
253 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 19:44:34.58 ID:mAy/8bsu
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超脱して
真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。また、心の外にある虚は、
すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。この説は世界の実在はすなはちわれであると
いふ点で、ウパニシャッドのアートマンとはなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」といふことを
つねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと思はれるのである。心がすでに太虚に
帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。
心が本当に死なないことを知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 11:42:37.77 ID:Fr6MGjUQ
(中略)
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、平八郎とは
反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」といふ人が無数にふえていくことが想像される。
肉体の延命は精神の延命と同一に論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重の
ヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり
恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり平和である。しかし、そこに肉体の生死を
ものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が
底流することになるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 11:43:19.36 ID:Fr6MGjUQ
(中略)
大塩平八郎の死は、前にも言つたやうに天保八年三月のことであつたが、それから四十年を経た、西郷南洲の
西南の役における死に思ひ及びと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によつて貫かれて
ゐることにわれわれは気づく。西郷の「手抄言志録」によれば、その第二十一には、死を恐れるのは生まれてから
のちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の
性質であつて、肉体を離れるとき初めてこの死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ
気持のうちに死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである、
といふ意味のことをいつてゐる。
現にま西郷は幕吏に追はれた親友の僧月照と共に薩摩の海に舟を浮かべ、月照が示した和歌に同感して直ちに
彼と共に相擁して海に身を投じたことがある。そのときに死んだのは月照だけで、西郷は蘇ることになるのであるが、
彼はその後一生、月照と共に死ねなかつたことを憾みに思つてゐたやうである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 11:43:43.23 ID:Fr6MGjUQ
(中略)
この(「南洲遺訓」)文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に
同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させる
のである。聖人がわれわれの胸奥に住むならば、その聖人とわれわれとは同格でなければならない。甚だ傲慢な
哲学であるが、それはあたかも「葉隠」の、「われは日本一なりとの増上慢なくてはお役に立ち難し」といふやうな
自我哲学の絶頂と照応してゐる。
このやうな同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考へて
ゐるところからは、決して行動のエネルギーは湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と
同一視することであり、自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 11:44:01.63 ID:Fr6MGjUQ
そのやうな行動の、次元を絶した境地は、吉田松陰が獄中から品川弥二郎に送つた書簡の中にもうかがはれる。
松陰は一つの空虚を巨大な空虚に結びつけ、一つの小さな政治的考慮を最高の理想に結びつけて、小さな行動を
最終の理念に直結させるための跳躍の姿勢をさまざまにためした。そのとき狭い獄舎の中で松陰が試みた精神的
ジャンプは、たちまち日常生活の次元を超えて、空間と時間とを新しい次元へ飛躍させたのである。
松陰が入つていつたこのやうな心境を証明するもつとも恐ろしく、私の忘れがたい一句は、「天地の悠久に比せば
松柏も一時蠅なり」といふものだ。(中略)
そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた。われわれの生存がもつてゐる
種々の困難、われわれの日々の生が担つてゐるもろもろの条件を脱却して、直ちに最小のものから最大のものに、
もつとも短いものからもつとも長いものへ一ぺんに跳躍し、同一視する観点を把握してゐた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 15:30:18.27 ID:Fr6MGjUQ
(中略)
この陽明学はおそらく、乃木大将の死に至つて、日本の現代史の表面から消えていつたやうに思はれる。その後、
陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティーの基本を形づくることに
なつて、ひそかに潜流し始めたものであらう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、
西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれてゐる。そしてその日本人の政治行動
自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやつた行動のいくつかの
めざましい事例がみられるのである。
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、
その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、
これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは
予言してもよい。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 15:30:38.43 ID:Fr6MGjUQ
日本における革命運動は、日本的革命とは何ぞやといふ問題をひさしく閑却してきた。革命はすべて外来思想であり、
マルクシズムも亦西欧の近代化の一翼に乗つて日本に入つてきた一思想であつた。そして、日本といふアジアの
後進国家が物質文明による近代化に乗り出したときに、その近代化に随伴する一つのアンチテーゼの思想が
移入されたのは必然的であつた。そして、マルクシズムの思想の日本化のためには、苦しい血のにじむやうな
努力が要つた。
転向の問題は、一度、外来思想を人間の肉体と心情を通して濾過し、その心情の根底において思想とは何ものかを
問ふといふことによつて、日本の知識人に重要な歴史的転機を与へた。もし、あの転向の思想的体験が戦後の
革命思想に正当に貫かれてゐたならば、私は「日本的革命とは何ぞや」といふ問題が、真に展開されてゐたで
あらうと思ふ。
しかしながら、戦後のアメリカ民主主義による突如の解放によつて、革命思想の日本化肉体化といふ問題は一時
置きざりにされた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 15:30:59.68 ID:Fr6MGjUQ
即ち、それは再び啓蒙思想に復帰し、近代主義に立ち戻り、すべてを振り出しから始めるといふ新しい楽天的な、
再度の近代化西欧化の代表をつとめるやうになつたのだ。戦後、このやうな近代主義がたちまち破綻したのは
当然のなりゆきである。
その後の新左翼の勃興は、かうした混迷、矛盾を経て老朽化していつた共産党的革命思想に対するアンチテーゼで
あつたが、その後被ら自身が自分の思想の肉体化といふことについて、風土性の問題から離れざるを得ぬといふ
時代的環境に置かれていつた。すでに農地改革以後、ブルジョア革命が成就した日本で、極度の急激な工業化と共に
大衆社会化状況が生まれ、工業化、都市化の進展は農村人ロの減少をもたらし、その思想の風土性は、帰るべき
故郷を失つた状態にあつた。主に学生運動は都市から発生し、その都市化の極点における空白においてのみ、
一般の大衆の精神的空白と相わたつた。そのとき、もはや革命思想は日本的、風土的なものに還元されるべき
手がかりを失つてゐた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
261 :
言い男:2011/03/07(月) 18:26:47.93 ID:JfY6N6OI
個人
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 10:34:44.88 ID:u5UNyE6e
(中略)
七〇年は予想されたやうな波瀾も見せずに、再び占領体制下と同じやうな論理が復活するのに役立つた。いまや
自民党も共産党も同じやうな次元の議会主義政党に堕し、共に政治目標実現の最終的な不可能を知りながら、
目前の事態の処理によつて大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか、といふ術策に憂き身をやつすやうに
なつた。このやうな政治行動は、すみずみまでソロバンづくの有効性によつて計量され、有効性の判断が政治行動の
メリットの唯一の基準になつた。すでに自民党がさうである如く、共産党も政権獲得のための票数の増加と、
日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな
目的に対する有効性によつて判断してゐる。
それをジャーナリズムはまた、理想主義の終焉、あるひは脱イデオロギーの時代が来たとよんでゐる。そして
工業化社会の果てに、ポスト・インダストリアル・ジェネレーション、脱工業化社会が来るといふことは、つとに
予見されたことであつたが、その予見は半ば当り半ば当らなかつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 10:35:06.27 ID:u5UNyE6e
工業化の果てにおける精神的空白は再びまた工業化によつて埋められ、精神の飢ゑが再び飽満した食欲によつて
満たされることになつた。そして先にも言つたやうに、人は心の死、魂の死を恐れないやうになつたのである。
陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいと
するかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、
もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつとも
きびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側に
ゐるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたやうに日本の行動家の魂の中で
いつたん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 10:35:37.36 ID:u5UNyE6e
もし革命思想がよみがへるとすれば、このやうな日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から
出発するより他はない。一方、国学のファナティックなミスティシズムが現代に蘇ることがはなはだむづかしいと
するならば、陽明学がその中にもつてゐる論理性と思想的骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを
用意するかもしれない。
われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の陰に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬つてきた。われわれは西洋に
対して戦ふといふときに何をもとにして戦ふかを、つひに知らなかつた。そして西欧化に最終的に順応したもの
だけが、日本の近代における覇者となつたのである。明治政府自体が西欧化による西欧に対する勝利といふ理念を
掲げたときに、その実力による最終証明となつたものは日露戦争であつたから、その後の日本は西欧的な戦争を
戦ふことによつて西欧に打ち勝つといふ固定観念に向かつて進んで、第二次大戦の破局に際会した。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 10:35:55.50 ID:u5UNyE6e
一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。
それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が
貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に
対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正することによつてしか、
最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその
政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの
陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の
闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 19:45:58.19 ID:u5UNyE6e
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児の
やうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと
思つてゐる。安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 19:48:35.61 ID:u5UNyE6e
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。精神といふと、またいつもの精神主義かと
いはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で
行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。
そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは大勲位の
勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 19:50:34.62 ID:u5UNyE6e
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに見て
わらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のことなど
考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。さういふ
基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのではないかと
疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、自分一人しかゐない、
自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 19:52:49.62 ID:u5UNyE6e
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。左翼の大衆運動といふものは、大衆を動かさ
なければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが
基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。ところが
われわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、
初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、さういつた
絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。かりにも世間を
甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにもならないところまで
来てゐることを自覚して欲しい。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/09(水) 11:41:20.00 ID:IiXacfSS
Q――石原(慎太郎)氏に向かつて「自民党にはひつたら党を批判するな」といふあなたの論法。これを
おし進めると、抵抗を否定することになる。従属といふか、非常に暗いものを要求する、抵抗を押へるのでは
ないか、と思ふのだが……。
三島:抵抗は死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。たとへば抵抗は楽しいもの
であるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。ベ平連式の“抵抗”は、大衆にアピールする。
抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないでフランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスをやることだ、これが
非常にいやなんです。抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきやできないのが本当である。
内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。共産党を内部批判すると
英雄になる。公明党を内部批判すると英雄になる。自分の属してゐるものの内部批判した男が英雄視される。
こんな間違つたことはない。抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/09(水) 12:00:10.43 ID:IiXacfSS
(中略)藩のきびしさは、いまの会社などとは、なるほど、くらべものにならないかもしれない。しかし、
そこに仕へるものの内面的なモラルといふものは同じだ。つまり、お前はこんな批判をしたから切腹ものだ、
首をはねる、なんて規則は外面的な規則でしよ。だけど自分は賊名を着せられてもあへてやるんだとか、あるひは
自分の中では内面的にそれを許さない、といふ場合に、人間はどういふ態度をとるべきか。その態度決定は文化や
伝統が規定すると思ふんです。(中略)
Q――「個人的なフラストレーションと公的な憤りを混同するな」といふことを書いてをられる。現代の抵抗には、
確かに、そんなのが多い。
三島:そろは抵抗側の政治組織の問題です。つまり個人的な怨恨を巻きこまなければ、大きな抵抗は組織できない。
さういふ組織がいけないといふのではない。(中略)
いまの日本は「公」と「私」の別がないやうな国、私益優先の国ですね。人命尊重以上の高い価値を持つたものは
なくなつた。それがいまの日本です。ですから「よど号」事件なんかでも、日本の政府は人命尊重以外には何も
いへない。日本には、それ以上の国是がないんだから。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/09(水) 12:06:07.72 ID:IiXacfSS
韓国でも北朝鮮でも国家意志といふものがあつたでせう。いまの日本には、国家意志などといふものはない。
石原君なんか、国家意志を持たうとするために政治家になつたのぢやないか。さういふ日本から脱却して――。
ぼくは、そのために彼を応援したのぢやないのか。だから石原君が私益優先みたいな社会の中で「私」と「公」を
混同するやうなものの考へ方だつたら、初めから矛盾ぢやないのか。あくまで公的なものだけを大切にするのが
彼の政治行為ではないのかと思ふのです。ぼくはむりやりにでも「公」と「私」を分けなきや政治行為なんて
できるものではないと思つてゐる。いまの若いもの、若い政治家が持つてゐる満たされないもやもやしたものを、
公的なものにすりかへてゐる。これは卑怯です。石原君だけでなく、日本人の多くが、いまさうですね。会社の
帰りに、いつぱい飲みながらやる上役の悪口が、いま日本中の世論といふものの原型になつちやつた。昔は、
あんなもの私的なもので、上役とのいさかひはその場で終はつた。翌日はケロッとしてゐたものだ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/09(水) 12:09:09.09 ID:IiXacfSS
Q――士道とは何か。
三島:山鹿素行の士道とか、吉田松陰のそれとか、士道にもいろいろあつてね。さう堅いことばかりいつてゐる
わけぢやない。「柔よく剛を制するの理(ことわり)をわきまふべし。しゐてつよからんと思へば、かへつて
よはきことあり。われつよければ、かれも又つよし」なんてのもある。こりや、ぼくのこといつてるのかも
わからんが……。
ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。内面的なモラルといつてもいい。内面的なモラル
といふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。
今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。ストイックなのは
損だと、だれもが考へてゐる。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/09(水) 12:13:25.95 ID:IiXacfSS
Q――「士道」といふもの、そもそもアナクロニズムではないのか。みんなが「士道」を実践してゐないのに、
一人だけサムラヒになつても効果がないんぢやないか。
三島:ぼくは「士道」を、みんなに向かつて鼓舞するつもりはない。ストイックなものだから、一人がさうで
あればいい。あるひは十人がなるかもしれないが、この巨大な社会の歯車の中で、一人がストイックになれば、
それがしだいに波及して順々に歯車が動いていくんぢやないか。さういふ気違ひみたいなヤツがゐないと、
日本、面白くないと思ひますね。
アナクロ? さうかもしれない。しかし、人間、どんな新しい身なりをしてゐても、一つだけ古いものを
持つてるのがダンディーぢやないのですか。精神的態度として。士道ていふのはダンディズムですよ。男の
“見伊達”といふか、さういふものですね。精神的な伊達ものですね。最新流行の服を着て、口に何十年か前の
古いパイプをくはへてゐるやうに、精神的にも一点、アナクロニズムが残つてゐるてのがダンディーなんですよ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/09(水) 12:17:12.03 ID:IiXacfSS
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。
三島:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで一滴の
しづくのやうにその人の心にしたたつたら、自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。「士道」といふ
ものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。われわれの心の中を探つてみると、心のなかに
持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。やましいものがあれば、士道に反してゐるのだ
と考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。なぜやましさを感じるか。それは士道にもとつてるからなんです。
士道つてそんなものではないか。一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 11:57:56.96 ID:oaucq5SW
私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。
鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。
生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義と
そこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべき
ことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、
文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。
或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分の
シニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 12:00:14.93 ID:oaucq5SW
この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかつた。私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。
なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとつては、
排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど
愚かになれるわけではない。
この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。
思想的節操を保つたたために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、
思想的に変節しないといふことは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明には
ならぬであらう。つきつめてみれば、「男の意地」といふことを多く出ないのである。それはそれでいいと内心
思つてはゐるけれども。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 12:02:38.69 ID:oaucq5SW
否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を
果たすわけではないが、政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ
果たしてゐないといふ思ひに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、
といふ考へが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代
二十五年間を、否定しながらそこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷に
なつてゐる。
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれは
ほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて、文学に対する近代主義的妄信を
根底から破壊してやらうと思つて来たのである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 12:04:31.79 ID:oaucq5SW
肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強ひの
結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかつたことであり、
もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいへば、「死刑囚たり且つ
死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を
発見したときに、近代がはじまつたのではなからうか。私のこの「近代」といふ意味は、古代についても
妥当するのであり、万葉集でいへば大伴家持、ギリシア悲劇でいへばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を
代表してゐるのである。
私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失つた。原因はすべて私のわがままに拠る。私には寛厚といふ徳が
欠けてをり、果ては上田秋成や平賀源内のやうになるのがオチであらう。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 12:07:03.25 ID:oaucq5SW
自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」といふ境地になれないものか、
われとわが心を疑つてゐる。私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦つてゐるのが、一体、人生を
愛するといふことであるかどうか。
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望が
いかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけの
エネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのでは
ないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、
私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/12(土) 15:02:45.92 ID:ajd7BZpY
Q――現代のビジネスマンに要望することは?
三島:私はね、商人といふのはきらひなんですよ。ですからね、万国博にも行つてゐないですよ。あれは商人の
お祭だから、武士は行かないんだといつてぐわんばつてゐるんです。
とはいひながらね、デパートだつて商人だしね、武士といへども、商人とつきあはざるを得ない、つらいところ
ですよね(笑)。武士だけやつてゐると、お米も食へなくなつちやふ。
かういふ世の中だから商人様全盛の世の中でしよ。ですけど、ぼく本人の中にはやつぱり武士の魂はあると思つてね。
商人の中にも銭屋五兵衛みたいな男もゐますしね。明治の政商でも、政治とかんでゐて、そこでやつぱり自分の
意気地を投げ打つといふ気持があつたと思ふんですよ。商人がきらひといふ意味は、商人を尊敬しないわけぢやない。
ただ一般に、商人には自己犠牲の精神がないからきらひなんです。
日本人といふのは、自己犠牲の精神がなくなつたら日本人ぢやないですよ。今の商人といふのはさういふ気持が
ないから本当のユダヤ人になつちやふだらうと思ふんです。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/12(土) 15:03:58.21 ID:ajd7BZpY
資本といふのは、本質的にインターナショナルなものですよ。どんな国の、いかにも民族資本でもね、
インターナショナルな性質をもつてゐるのが資本だと思ふんですよ。ところがそつちの面ばかりが出てくるとね、
日本人の魂が商人道によつてをかされてきてゐると思ふ。そのお金本位、金権主義にをかされてゐるのがこはい。
私は、青年が金権主義といふものに反抗する気持がいちばんよくわかる。自分らが企業体の中で活躍するとき、
いかに武士の魂をもつてても、結局、金権主義、ご都合主義、さういふものによつてをかされていくといふのは、
青年として耐へがたいだらうと思ふ。それでボクは武士は武士として一人でぐわんばつてゐる。ところがボクもね、
扶持をくれないから浪人なんですよ。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/12(土) 15:05:28.48 ID:ajd7BZpY
やつぱり日本人は身を殺して仁をなすといふ気持がなければだめなんだけど、これがね元禄時代と同じでね、
今、税法がモラルを崩壊させてゐるでしよ。あのころの侍がみんな藩のお金を平気で使つて飲み食ひする、
何をする、さういふことをしない人もゐますがね、当時から日本人はさういふ悪いところがあるんですよね、
公私混同みたいなところが。
とくにね戦後は税法のおかげで会社の交際費が自由に使へるとね、社長にいたるまで家族つれてすし屋に行くとか。
戦前は少なくともポケットマネーがありましたからね、重役クラスになりますと、金の使ひ方が公私混同して
ゐなかつたですよね。これは自分のこづかひといふけぢめがあつたでしよ。今何でも会社の伝票を切る、
かういふことがいちばん日本人全体のモラルを崩壊させてゐると思ふんです。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/12(土) 15:08:28.74 ID:ajd7BZpY
Q――先生の小説、たとへば「奔馬」なんかにも自己犠牲といふことが強く出されてゐますね。
三島:さうですね。「奔馬」は自己犠牲を非常に強く出してゐる。このごろ外人記者なんかに会ひますとね、
日本に軍国主義が復活してゐることを懸念してゐる。これは実はまちがひだつていふんです。(中略)
といふのは武士道といふのを、日本人がわからなくなつてゐるからだ。武士道といふのは何かといふことを
外人に説明するとき、三つあるといふんです。
それはSelf-respect 自尊心ですね。次はSelf-responsibility 自己責任ですね。自己において責任が終了するといふ。
第三がSelf-sacrifice 自己犠牲ですね。この三つのうちどれをとつても武士ぢやないといふんですよ。そしてね、
軍国主義といふのは外国からきたものでね、このSelf-respect と、Self-responsibility はあるかもしれない。
Self-sacrifice は欠けてゐると。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/12(土) 15:12:27.89 ID:ajd7BZpY
かうなつたらアウシュビッツの収容所長だつてさうなんで、自尊心はもつてゐた、責任観念はもつてゐた、ただね
Self-sacrifice といふものは外国にはないから、だからさういふことになるといふふうに説明するんですよ。
ですから本当に日本人が武士道にめざめれば、あなたがたが心配することは何もない。身を殺して仁をなすことが
武士道の極意だと説明するんです。その場合、欠けてゐるものは武士道のみならず、ことに商人に欠けてゐる。
そして、とにかく口では国家の再建をとなへ、日本精神をとなへ、自分の金は一文も出すのはいやだ。十円の
金も惜しい、全部会社の伝票、そんな精神ぢやだめなんだといふことですね。(中略)
常に自主防衛といふと核装備なんだかんだといふけれども、自主防衛といふのは自分が苦しい思ひをするといふ
ことがだれもわかつてない、まづ自分が犠牲をはらふといふことがまづない。
それは私の「楯の会」の根本理念である、まづ自分が苦しい思ひをしないで何で自主防衛ができるかといふことを
青年にわからせたいですね。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/12(土) 15:17:05.42 ID:ajd7BZpY
Q――「楯の会」も誤解されてゐる?
三島:ええ、「楯の会」を誤解するやつに限つて自分の金が惜しい人ですよ。つまり自分の身を犠牲にするのが
惜しい人なんだ。そんな連中に限つてつらいことをひとつもしたくないんですね。
Q――行動の美学といふことが先生の基本テーマだと思ひますが、その本質は?
三島:やつぱり、行動の美学の本質といふのは、日本に武士道といふのがあるんだから、武士として生きる
といふ以外にないですね、男としてはね。女にはまた別のがあるでせうけど。どうやつて生きるかといふのは
むづかしいことです。
女性といふのは生き方なんか教へる必要ないんです。女性はね、戦後の体制といふものを女性が代表してゐるんです。
この戦後のあらゆる困つたことは、みんな婦人参政権のせゐです。憲法改正ができないのも婦人参政権のおかげが
一つある。
そしてこの平和ムードの奥底にあるのもこの女性的なものです。どんなに会社でバリバリした男でもうちに帰ると
女房にガッチリおさへられてゐると、その女房はですね、すでに解放された女で、男の理念にしたがはず、女の
独特の理念をもつてゐるわけでせう。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 13:30:36.29 ID:1PNsvqJm
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたとしても、
その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、証言出来る
ことであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な行動の
精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた行為の
有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識するものに
とつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。
三島由紀夫「わが同志観」より
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 13:32:42.32 ID:1PNsvqJm
(中略)
「われわれ」といふ集団の感覚の次元で行動し、同志的結合を持続する時、個人はすでに、超個人的契機を
掴んでゐることが前提になる。その超個人的契機とは、神のやうな個人に直結した形である場合と同時に、神と
個人とを繋ぐコミュニティのイメージが必要となつてくるのである。そこには、もはやニュートラルな心情は
崩壊してゐるのである。
人間は、このやうなコミュニティを媒介としてしか、つまり伝統的共同体を形づくるところの超個人的なもの――
絶対的な存在に接近することが出来ないといふ、逆説的な精神構造を持つてゐる。その個人的契機は、多様であるが、
その内的原因を探れば、遠く、古い価値と、それに繋がるところのコミュニティの投影が必ずある。この投影こそが、
内側の人間を外側の人間へ弾き出す力になるのである。
さう考へてゆくと、「われわれ」は危険ではあるが、誘惑に導く美しさが見えてきはしないか。この危険な誘ひに
私の興味は募る。しかしそれは、悲壮な自己陶酔と紙一重でなくて果して何であらうか。
三島由紀夫「わが同志観」より
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 13:34:21.92 ID:1PNsvqJm
私は、いやしくも盟約を交はして事を起す同志であれば、動機の深浅、運動経歴のキャリア、性格の相違等を、
ことさら問題にしようとは思はない。男と男が誓ひ、行動を起さうとする集団が、栄辱をそれぞれ等分するのは
当然である。
つまり、日常的な同志愛から出発しながら、いかにして、最終目的のために、目前の甘美な同志愛に耐へ抜く心の
強さを得られるか。同志的決起へと至る極限状況は、ある面において、倫理的憤激の最終的な責任を、自己に負ふか、
他者に負はせるか、といふ方向へ引き裂かれて行かざるを得ない。究極的に、自己に負ふとすれば、自刃があり、
他者に負はせるとすれば、制度自体の破壊に行きつくしかない。
そのやうなクオリティを見分ける判断力は、人間の弱さと強さとの問題でもある。
三島由紀夫「わが同志観」より
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 21:03:27.93 ID:itqdUsla
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:01:49.32 ID:K6RTQObd
私は戦時下のあの時代を、一面的に見られることの腹立ちを、いつも抑へることができない。又、あの時代に
不適格者であつたことを誇りにする人の気持が知れない。あの時代に永い病床にあつて、つひに病死した青年は、
自分の心の傷とも闘はねばならなかつた。しかし文学は、克己的な青年にとつては、嘆きぶしでも愚痴の捨て場
でもなく、精神の或る明るい平静な矜持を保つための方法だつたのである。
なるほど繊細鋭敏な感受性は、戦争には何の役にも立たない。だが、さういふ感受性の受難の運命は、戦時中だらうと
平時だらうと同じことだと悟り、若くして自若とした心を獲得することは、いづれにしろ一つの勝利だつた。
東氏は自分の非運を、誰のせゐにもしなかつた。
三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:03:48.22 ID:K6RTQObd
私は今の若い読者が、自分と同年配の青年が戦時中いかに生きいかに死んだかに、興味を寄せてゐることを
知つてゐる。そこには多くの壮烈なヒロイズムの例証があつた。同時に、もつと静かな、もつと苦痛に充ちた、
もつと目立たないヒロイズムもあつたことを知つてもらはねばならない。
明るい面持で、少女について語り、いささかの感傷もなしに、少年期について語り、感情の均衡を破ることなしに、
人間の日常について語ること、それも亦、あの時代にはとりわけ貴重なヒロイズムだつた。ただ耐へること、
しかも矜持を以て耐へること、それも亦、ヒロイズムだつた。
現在の芸術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けてゐる。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な
兆候ではないか、と考へる者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の
青少年の魂の底から、埋もれてゐた何ものかを掘り出す機縁になることを、私は信ずる。
三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/20(日) 16:53:08.48 ID:1FWdzH1F
現下の日本のもつとも重要な問題は、国家理念の確立と、青年に「大義とは何か」を体得せしめることであります。
多くの青年が、日本が犯される時は銃を執つて戦ふ覚悟を、口でこそ示しますが、その方途も、真の敵の所在も
明確につかんでゐないのが実情であります。
間接侵略の過程においては、まづ基幹産業の侵蝕と破壊が企てられることは、常識でありますが、わが企業体を
身を以て守るといふ覚悟乃至行動は、それ以上の高い国家理念の裏附なしには期待することができません。
企業防衛こそ国土防衛の重要な一環であり、一例が電源防衛にしても、それ自体がただちに国土防衛の本質的な
ものにつながります。
しかしこのやうな自覚も、強い思想的バック・ボーンなしには、たちまち足元から崩れ去るのが、今後の複雑な
政治状況であり、又、そのためには団体生活の訓練と、一定の基礎的な肉体訓練が必須であります。
三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/20(日) 16:53:28.85 ID:1FWdzH1F
このやうな青年によつてこそ、日本の安全保障と自主防衛の精神は、将来へ向つて輝やかしく保持され、国の安全こそ
企業の安全につながることが、国民全体によつて理解される糸口がひらけるのであります。
企業防衛イコール国土防衛の精神を確立するために、われわれは陸上自衛隊の協力を得て、従来の体験入隊より
一歩前進した、比較的長期間の組織的体験のプランを作製し、各企業体経営者各位の賛同を得て、J・N・Gの
横の組織を創り出したいと念ずるものであります。
仮 案
一、中卒あるひは高校卒の青少年を、一定期間(十日乃至一ヶ月)当組織へお預りし、体験入隊をお世話し、
必要に応じて年一回、あるひは春秋二回といふ風に継続し、J・N・G隊員として、溌剌たる挺身的な模範社員を
各職場へお返しします。企業防衛を国土防衛の基盤として理解する、信念ある中堅社員育成のために、資する
ところ大なるものがあると信じます。(後略)
三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 11:48:18.62 ID:traQknmC
戦後平和日本の安寧になれて、国民精神は弛緩し、一方、偏向教育によつてイデオロギッシュな非武装平和論を
叩き込まれた青年たちは、ひたすら祖国の問題から逃避して遊惰な自己満足に耽る者、勉学にはいそしむが
政治的無関心の殻にとぢこもる者、「平和を守れ」と称して体制を転覆せんとする革命運動に専念する者の、
ほぼ三種類に分けられるにいたりました。(中略)
われわれは一九六〇年以後、言論活動による国の尊厳の回復の準備を進めて参ると共に、一九六五年にいたつて、
国防精神を国民自らの真剣な努力によつて振起する方法の研究に着手しました。(中略)…核兵器の進歩は
却つて通常兵器による局地戦(いはゆる代理戦争)の頻繁か発生を促し、これを戦ふ者も正規軍のみでなく、
ベトナム戦に見る如く人民戦争の様相を呈して来た以上、必ずしも高度に技術化された軍隊でなくとも、
通常兵器を以て国防に参与できる余地のあることが常識化されるにいたりました。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 11:48:55.23 ID:traQknmC
そもそもわが自衛隊は、安保体制下集団安全保障の一翼を担つて、国防の任務に就いてをりますが、この任務のうち、
純然たる自主防衛の領域は、新安保条約によれば、
一、間接侵略に対する治安出勤
二、非核兵器による局地的直接侵略に対する防衛
の二領域であります。この二つのケースにおいては、自衛隊は、いかなる外国軍隊の力をも借りず自らの手で
国防を引受けるといふ重大な任務を負うてゐるのであります。(中略)
「間接侵略」の形態も亦、一様ではありません。革命の客観的条件の成熟と向うが認めた時点が何時であり、
そこへ向つて、いかなる一連の動きによつて「間接侵略」といふ内戦段階へ移行するかは予断を許さぬのみならず、
現に今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐると考へて
いいのです。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 11:49:16.92 ID:traQknmC
これに応戦する立場も、単に自衛隊の武力ばかりでなく、千変万化の共産戦術に応じて、あるひは言論、あるひは
行動により、千変万化の対応の仕方を準備するのが賢明であります。そのための最後の拠り処は、外敵の
思想的侵略を受け容れぬ鞏固な国民精神であると共に、民族主義の仮面を巧妙にかぶつたインターナショナリズムに
だまされない知的見識であり、又、有事即応の不退転の決意でなければなりません。このやうな決意を持たぬ思想は、
怯懦に陥つて、いつか敵の術策に陥ることをなしとしないのであります。
不退転の決意とは何か? すなはち、国民自らが一朝事あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を守る決意であり、
自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。
しかし、気魄だけでは実際の役に立たないので、武器の取扱にも周到な教育を要し、指揮統率の能力も、
又これに応ずる能力も、一定の訓練体験なしには、つひに画に描いた餅にすぎません。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 11:49:41.47 ID:traQknmC
又、別方面から考へれば、何事も感覚的にしか理解しえない無関心層の青年に、国防精神を植ゑつけるには、
単なる思想指導や言論による教育では不十分で、実際に彼らに執銃体験を与へることによつて、彼らが
武器といふものの持つ意義も危険も知り、感覚を土台にして、より高い国防精神に覚醒する端緒をつかむといふ
ことも十分考へられるのであります。
ここに思ひ到つたわれわれは、諸外国の民兵制度を研究し、左記のやうな各種の資料を得ました。
(中略)
以上のやうに、民兵制度なるものを種々検討してみたわれわれは、平和憲法下の日本で、われわれ国民が
市民としての立場で国防に参与する方途は、ここにあると確信するにいたりました。民主国家国民としてあらゆる
自由と権利を享楽してきた日本人は、戦後、義務の観念を喪失したと云はれますが、実はまだ使つてゐない権利が
一つ残つてゐるのではないか、民主国家の国民としてのもつとも基本的な権利である、「国防に参与する権利」
だけは、まだ手つかずのままではないか、といふのがわれわれの発想のもとであります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 11:50:11.42 ID:traQknmC
民兵といふ言葉はみすぼらしく、魅力的でないので、われわれは祖国防衛隊といふ言葉を使ひます。(中略)
専門家の概算によると、長大な海岸線を持つわが国の国土防衛のためには、三五万から百万の陸上兵力を
必要としますが、(中略)…のこりの十七万は何とか国民の自主的な努力により確保せねばならぬのであります。
従つて祖国防衛隊は、大都市においては都市防衛、海浜地域においては沿岸警備、山間地域においては
対ゲリラ防衛を任務とすることになるでせう。又、出勤した正規軍師団の後方警備要員としても有効適切であります。
ヨーロッパ諸国の軍事制度を研究した者は、むしろ戦前の日本の国軍一本化がむしろ異例であることを知つてゐます。
正規軍以外の各種の軍隊の並立のうちに発達してきたヨーロッパ軍事制度の歴史に鑑み、日本の戦前の軍事制度に
関する常識を、戦後の平和憲法下の特殊事情を考慮して、一ぺん徹底的に考へ直し、真に有効な現代的方途を
発見してゆかなければなりません。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 11:53:19.72 ID:traQknmC
現に戦時中も、総力戦体制と称しながら、軍の権力構造を保持するために、知識人や行政上経営上の指導者をも
一兵卒として召集し、無理な一本化を急いで弊害のみを助長させた教訓は近きにあり、むしろ、戦争末期は
市民軍の養成を別途に推進すべきであつたのであります。
正規軍の増強と精鋭を望む議論としては正論でありますが、日本の現状から見るとき、徴兵制度の弊害の記憶が
ありありと残つてゐる国民感情から見ても、又、もし将来徴兵制度復活が実現されても、そのときはもはや
国論統一が成し遂げられた時点であり、国論統一が成就するや否やわからぬ過渡期の危機を収拾するには間に合はず、
前途のとほり、間接侵略の複雑微妙な進行過程において、徴兵制を強行すれば、軍自体の赤化の危険さへ
懸念されるのであります。その点からも、「思想堅固な者にのみ、武器をとらせる」方式を別途に考へなければ、
間接侵略に真に対処することは不可能なのであります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 11:53:39.54 ID:traQknmC
これらの考察ののち、われわれは一九六六年秋にいたつて、祖国防衛隊のもつとも基本的な原案を作製しました。
(中略)
概ね、右のとほりでありますが、無給である以上、隊員には強い国防意識と栄誉と自恃の念の養成が必要とされます。
又、まだ法制化を急ぐ段階ではありませんから、純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他はなく、
一方、一般公募にいたる準備段階に数年をかけ、少くとも百人の中核体を一種の民間将校団として暗々裡に
養成することが先決問題と考へられたのであります。(中略)
われわれはかくて自衛隊内部にも知己を得て、国防問題について真剣に論じ合ひました。われわれの知りたいことは、
市民軍の指導者たる幹部要員の教育に、必要最低限度、どれだけ訓練が必要とされるか、現行法制下でそれが
可能か、といふことでありました。そしてつひに、それが可能であるといふ成果を得たのであります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 11:54:01.45 ID:traQknmC
祖国防衛隊基本綱領(案)
祖国防衛隊は、わが祖国・国民及びその文化を愛し、自由にして平和な市民生活の秩序と矜りと名誉を
守らんとする市民による戦士共同体である。
われら祖国防衛隊は、われらの矜りと名誉の根源である人間の尊厳・文化の本質及びわが歴史の連続性を
破壊する一切の武力的脅威に対しては、剣を執つて立ち上がることを以て、その任務とする。
隊 歌
強く正しく剛(たけ)くあれ
文武の道にいそしみて
正大の気の凝るところ
万朶(ばんだ)の花と咲き競ふ
日本男子の朝ぼらけ
われらは祖国防衛隊
若く凛々しく勇ましく
高根の雪に恥づるなき
市民の鑑(かがみ)武士の裔(すゑ)
祖国を犯す者あらば
かへりみはせじ楯の身を
われらは祖国防衛隊
清く明るく晴れやかに
憂憤深き夜は明けて
正気光りを発すれば
歩武堂々の靴跡に
敵影(てきえい)霜と消え失せん
われらは祖国防衛隊
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 13:57:01.47 ID:Dmee37i8
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞がこの
青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。かういふヒステリー症状は、
ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、かれらは何を隠さうと
したのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 13:57:23.09 ID:Dmee37i8
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 13:57:42.99 ID:Dmee37i8
電線の下を通るときは、西洋の魔法で頭がけがれると云つて、頭上に白扇をかざして通り、あらゆる西欧化に
反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された
西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、
敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、一つの
例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際起つた
もつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、
このやうに純思想的文化的叛乱ではない。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 13:58:05.39 ID:Dmee37i8
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと
共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の近代ほど、
光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。私の四十年の歴史の中でも、
前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の二十年は、平和主義の下で、
あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 14:02:51.28 ID:Dmee37i8
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、
失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例で
あつた。それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、
ヴィエトナムがどこにあるかさへ知らなかつたのである。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 14:03:09.53 ID:Dmee37i8
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中に
あつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 21:34:17.64 ID:2DgtJoOF
今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさへ言へることで、あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら
威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を
日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである。
そして今日の「日本は大したもんだ派」は、みんなこの上に立脚してゐるのである。私がお茶漬ナショナリストと
いふのは、かれらのナショナリズムの根拠を追ひつめてゆくと、舌の上に感じる「ものの味」といふ、どうにも
否定できない、しかも主観的で説得力のない、さういふもののエモーションを一方に持ちながら、一方では
文明開化以来の迷妄に乗つかつてゐることだ。
では、「日本はまだ貧しい」とか、「日本はどうして大したもんだ」とか言はないで、問題をそんな風に大きく
しないで、ただ、
「お茶漬は実にうまいもんだ」
とだけ言つたらどうだらうか?
比較を一切やめたらどうだらうか?
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 21:35:35.43 ID:2DgtJoOF
(中略)
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮であつても
少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、衰亡して
しまふ。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口のPTA精神や、青少年保護を名目にした
家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに
一驚を喫した。こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは
言はずに、せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 21:36:23.68 ID:2DgtJoOF
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。
一つは私の泊つてゐたニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルに、たまたまオリエント研究関係の
国際会議か何かで、三笠宮殿下が御来泊になり、正面玄関に大きな日の丸の旗が掲げられ、パーク・アヴェニューに
ひるがへつた。これは実に晴れがましい印象だつた。自分も一日本人、一同宿者として、その巨大な日の丸の旗の、
一センチ角ぐらゐを受持つてゐる感じがして、心がひろがるのであつた。
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、
へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、
胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 21:37:52.77 ID:2DgtJoOF
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、日本人の
感情として、外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな心情を
鼓吹するやうにできてゐて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…(中略)
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない、さういふ
中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつき
ながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 17:42:54.14 ID:Uvh+42QR
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッと
するやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から
感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、
できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に
置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。
三島由紀夫「愛国心」より
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 17:43:16.75 ID:Uvh+42QR
もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の
花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で
十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。もしキリスト教的な愛で
あるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。従つて、「人類愛」といふのなら多少筋が通るが、
「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の裡にしか、
理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。
三島由紀夫「愛国心」より
316 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 17:43:40.19 ID:Uvh+42QR
ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装を
してゐて、それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては変りがない、
といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。
これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の感情に
基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。アメリカ人の愛国心と日本人の
愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。「愛国心」といふ言葉は、この種の
陥穽を含んでゐる。
(中略)
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、
「大和魂」で十分ではないか。
三島由紀夫「愛国心」より
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 17:43:59.25 ID:Uvh+42QR
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、
移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、
合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。国は
まづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、
かつ限定的個別的具体的である。観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく
日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、
使はないはうがより正確なのだが)しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。
三島由紀夫「愛国心」より
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 17:44:24.05 ID:Uvh+42QR
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間に
この心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本を
より的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、
恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。一つだけたしかなことは、
今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。
さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分を
いつはつた考へだと言へるであらう。
三島由紀夫「愛国心」より
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 12:32:34.44 ID:nzoObMbZ
われわれ楯の会は自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に
報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で
準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、またわれわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の
柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知った。ここで
流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには
一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の
場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。
たとへ強弁と言はれようとも自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
三島由紀夫「檄」より
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 12:34:36.83 ID:nzoObMbZ
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして
末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、
自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただ
ごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるを夢見た。しかも法理論的には
自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、
軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来ているのを見た。もつとも
名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。
三島由紀夫「檄」より
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 12:37:49.88 ID:nzoObMbZ
自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、
警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは
戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目覚める時こそ日本が目覚める時だと信じた。自衛隊が自ら
目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の
本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、
と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念はひとへに
自衛隊が目覚める時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正が
もはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて
命を捨て、国軍の礎石たらんとした。
三島由紀夫「檄」より
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 12:47:02.58 ID:nzoObMbZ
国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて
軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは
「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を
正すといふ使命のため、われわれは少数乍(なが)ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な
警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に
何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、
敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。
三島由紀夫「檄」より
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 12:51:15.56 ID:nzoObMbZ
政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して
頬つかぶりをつづける自信を得た。これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて
実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家に
とつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。
そこで、ふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来
二十年に亘つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は
政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を
晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は
「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
三島由紀夫「檄」より
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 12:55:09.10 ID:nzoObMbZ
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が
残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。
男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、
決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも
「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、
自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれた
カナリヤのやうに黙つたままだつた。
三島由紀夫「檄」より
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 13:00:20.40 ID:nzoObMbZ
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に
与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の
本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。
日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。
武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当たつては
自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての
五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、
自衛隊からは出なかつた。
三島由紀夫「檄」より
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 13:03:12.93 ID:nzoObMbZ
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に、戻して
そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは
生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの
愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、
今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを
熱望するあまり、この挙に出たのである。
三島由紀夫「檄」より
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 10:44:39.88 ID:ImUhGjfI
Q――生、虚構(フィクション)、事実(ファクト)について。
三島:あらゆるものがニセモノ。政治も芸術も、どこかで有効性にすがりついてゐる限りフィクションだ。
事実は死だけ。存在証明の最終的なものは死だ。焼身自殺などは事実の最高。かうした日常性=フィクションに
対して、一人の芸術家が抵抗しようとする時、死しかない。事実としての死。主義(イデオロギー)なんか
問題ぢやない。
Q――現代について。
三島:(中略)知識人が守りたがつてゐたものは何か? 守るためには何かしなきやならない、ことがわかつてきた。
“守る行為”を今まで何と思つてきたか? 暴力が平和を、平和が暴力を守る時もある。暴力の等価性、それが
紛争状態で証明された。デモクラシーは、他の国へ入つて他の国の人を殺すこともできるものだ。ベトナム戦で
はじめて現実を知つたんぢやおそいのだ。日本人は絶対性を好む。相対的、簡易主義に立脚してゐるデモクラシーを
絶対化したところに誤りがある。
三島由紀夫「壮麗なる“虚構”の展開」より
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 20:18:14.98 ID:7bgK+PRV
ものを書くことと農耕とは、いかによく似てゐることであらう。嵐にも霜にも、精神は一刻の油断もゆるさず、
たえず畑を見張り、詩と夢想の果てしない耕作のあげくに、どんな豊饒がもたらされるか、自ら占ふことができない。
書かれた書物は自分の身を離れ、もはや自分の心の糧となることはなく、未来への鞭にしかならぬ。どれだけ
烈しい夜、どれだけ絶望的な時間がこれらの書物に費やされたか、もしその記憶が累積されてゐたら、気が狂ふに
ちがひない。……しかし、今日も亦、次の一行、次の一行と書き進めてゆくほかに、生きる道はないのだ。
三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 書物の河)」より
にせものの血が流れる絢爛たる舞台は、もしかすると、人生の経験よりも強い深い経験で、人々を動かし富ます
かもしれない。音楽や建築に似た戯曲といふものの抽象的論理的構造の美しさは、やはり私の心の奥底にある
「芸術の理想」の雛型であることをやめないのだ。
三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 舞台の河)」より
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 20:19:15.33 ID:7bgK+PRV
私の肉体はいはば私のマイ・カーだつた。この河は、マイ・カーのさまざまなドライヴへ私を誘ひ、今まで
見なかつた景色が私の体験を富ませた。しかし肉体には、機械と同じやうに、衰亡といふ宿命がある。私は
この宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもつとも危険な道を歩かされて
ゐるのである。
三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 肉体の河)」より
この河と書物の河とは正面衝突する。いくら「文武両道」などと云つてみても、本当の文武両道が成立つのは、
死の瞬間にしかないだらう。しかし、この行動の河には、書物の河の知らぬ涙があり血があり汗がある。言葉を
介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、人々が寄つて来ないのも尤もだ。
この河は農耕のための灌漑のやさしさも持たない。富も平和ももたらさない。安息も与へない。……ただ、
男である以上は、どうしてもこの河の誘惑に勝つことはできないのである。
三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 行動の河)」より
思想的立場からこの著者に偏見をもち、かういふ本をことさら避けてとほる人たちが居れば、さういふ人たちは
私には狭量に思はれる。何はあれ、宮崎氏は、道徳的善悪を離れて、自分の感じ方に忠実なのである。
私は別にかつての軍隊の讚美者でもなく、軍隊生活の経験も持たない身は、それについて論じる資格もないが、
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない反感を感じたおぼえがある。
たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、
戦死した彼らのかたはらには、ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふシーンが
あつた。甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。日本人が
ボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的であり、
人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死をジャスティファイする権利をもつてゐる。
三島由紀夫「『青春監獄』の序」より
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 12:37:34.04 ID:81ES1X5G
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、死んでゆける人間は、
稀に見る聖人にちがひない。私はすべてこの種の特殊すぎる物語に疑ひの目を向ける。兵隊であつて文学者あつた人の
書くものも、一般人を納得させるかもしれないが、私のやうな疑ぐり深い文士を納得させない。私の読みたいのは、
動物学者の書いた狼の物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。狼がどんなに嘘を並べても、狼の目に
映つた事実であり嘘であれば、私は信じる。
私は何も礼を失して、宮崎氏を狼呼ばはりするのではない。しかし氏の著書は、或る見地から見て、実に
貴重なのである。
(中略)
氏は決して異常でもなければ特殊でもない。(中略)軍隊そのものも、決して日本および日本人にとつて、
突然変異的な発生物ではなかつた。その社会的必然、経済学的必然は自明であり、兵隊のもつてゐた平均的情緒、
平均的悲哀は、日本人の内に深く根ざし、今日おもてむき軍隊をもたない日本にも、この種の感性は、依然
普遍的に潜在してゐる。
三島由紀夫「『青春監獄』の序」より
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 20:14:58.36 ID:xXm0o1Kd
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。だれでもみづから美徳の
代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も負はずに社会的正義の代表者たり
うるはずがないからである。
また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、子供も読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、
事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を置くのも困る。みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、
最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。
三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 16:49:07.43 ID:g/qmgT6y
十年前の東京では、左翼と右翼の分れ目ははつきりしてゐた。平和憲法を守れ、といふスローガンを人生の
何ものよりも大切にし、政府のやることはすべて戦争へ一歩一歩国民を狩り立てることだと主張し、子供に戦車や
軍用機の玩具を買つてやることを拒否し、横文字の本をよく読みこなし、岩波書店と何らかの関係があり、
すこし甲高いなめらかな声で話し、にこやかで紳士的で、いささか植物的で、暴力には一ぺんで砕かれてしまふ
やうな肉体、ひどく肥つてゐるか、ひどく痩せてゐるかした肉体を持ち、眼鏡をかけ、ベレエ帽をかぶり、
その両わきから白髪が耳の上に垂れ、軽井沢に小さい別荘を持ち、決して冷静を失はないやうに見える紳士は、
みな左翼だつた。(中略)
右の如き左翼人は、多くは国立大学の教授たちで、一流新聞や一流出版社の論説欄を支配し、政府から月給を
もらひながら、一方ではその反政府的論説によつて、左派のジャーナリズムから稿料を支払はれ、しかも大学の
中では、封建的君主そのままで、権力主義を押し通してゐた。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 16:49:38.64 ID:g/qmgT6y
これが新左翼の攻撃するところとなり、そのもつとも喜劇的な一例としては、次のやうなのがある。或る有名な
左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で人気を得てゐたが、
新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど暴虐でなかつた。
軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、他ならぬ彼の
学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 16:50:04.22 ID:g/qmgT6y
(中略)
私は暴力の支配する大学に招かれて、ラジカル・レフティストの学生たちと論争したが、かれらは誇張した
言語表現では伝統的支那風であり、人民裁判方式の愛好者たる点では現代共産中国風であり、日本の伝統否定では
インターナショナリストであり、テロリズム肯定では日本のサムラヒ風右翼風であり、論理愛好癖では西欧風であり、
しかもすべて共産主義者を以て自認してゐた。
日本のヤクザ映画と称する特殊な映画は、伝統的アウトローの世界を描き、古い日本的メンタリティーを押し売りし、
感傷主義とヒロイズム、暴力肯定と非論理性において、もつとも右翼的日本的心情主義に愬(うつた)へるものとして、
左翼文化人が頭から軽蔑してきたものであるが、その日本型ジョン・ウェインは学生たちのアイドルになり、
左派の学生は暴力デモに出かける前夜、必ずこの種の映画を見に行つて、熱情を心に充填するのである。
次第次第に日本では、誰が右翼、誰が左翼と簡単にレッテルを貼ることがむづかしくなつてきた。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 16:53:28.12 ID:g/qmgT6y
イデオロギーの相互循環作用が起り、極端な右と極端な左が近づくかと思ふと、現在穏健な議会主義的革命を
主張してゐる偽善的な日本共産党が、大学問題などで、政府自民党と利害を等しくするやうになつたりしてゐる。(中略)
かういふややこしいイデオロギーの循環作用は、日本で百数十年前に起つた現象とよく似てゐる。明治維新前の
日本には、四つのイデオロギーが、四つ巴になつてゐた。すなはち、佐幕、開国、尊皇、攘夷である。(中略)
尊皇開国、佐幕攘夷、尊皇佐幕、(さすがに開国攘夷だけはなかつたが)、などといふ各派があらはれ、しかも
この各派を、短期間に廻りあるく人間まであらはれた。そして明治維新の大変革によつて成立した新政府は、
はつきり「尊皇開国」のイデオロギーをかかげて、統一国家を形成したのである。
(中略)しかし日本の歴史が証明するところによると、日本といふ国は決して内発的な革命を敢行しない国であつて、
必ず日本に起るのは、外発的な革命、すなはち外国の軍事的政治的経済的思想的な衝撃力によつて、やむをえず
起された革命なのである。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/23(土) 19:03:04.83 ID:VMTj4RHR
宝田明は美味そうだ。
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 14:46:24.35 ID:RO7IWUD6
僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以降の日本の歴史で、あんなに日本人の欺瞞をうまく成功させたのは、
あの人だけでしょう。それはどこから学んだかというと、イギリスですね。日本の政治家は少なくとも正義、
真実あるいは誠実という顔をしていなければならなかったのに、吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に
味方をした。あんなにアメリカ人をもてあそんだ人はいないよ。それにまたみごとに乗せることができたのは、
イギリス的な教養が彼にあったからだけど、イギリス的な教養は日本の昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。
いつも国家主義者の怨嗟の的であり、日和見主義、無力の良識、不決断の象徴であった。 ところが吉田茂は、
そのイギリス的な教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 14:47:55.07 ID:RO7IWUD6
あんなに日本人のなかで、欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。政治家が
どんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。国民の考えていることと、欺瞞とがみごとに一致した時代は
もうこないでしょう。今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、国民はだれもが味方をしていない。あなたも、そして
僕も怒っているのは、それですよ。欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 15:02:46.78 ID:RO7IWUD6
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を仕掛けたんだね。
しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、汚れているといって使わない。熊本の鎮台に
対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。
なぜ日本刀だけで、負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだった
からだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり計算して、こうだからやると
いうのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたが
どっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 15:13:27.35 ID:RO7IWUD6
生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵でみるだろうね。神風連の
事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。(中略)
あなたがもし、もう一つ芸術家の立場を完全にもたなければならないということになったら、生活者の知恵だけでは
足りない何かが出てくる。そのときはバカなことでも、絶対に敗北するとわかってる戦いでもやらなければ
ならなくなってくる。
言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。腕力があり、剣があって、
初めて自分の思想が貫かれるのだろう。最後に人間の顔と顔とが、ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に
立たないと思う。やっぱりそのときには剣がものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを一所懸命、
言葉で考えてる人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら間違いだと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/27(水) 11:50:44.93 ID:576oCG8+
僕は「仮面の告白」以来、小説というのはやっぱり人生を解決する、あるいは人生を料理するものだという考えが
抜けないね。どんなに唯美的に見えても、その小説が何か作家の行動であって、一種の世界解釈だという考えは
抜けないね。ほんとうに生きるということと同じなんだから、それは唯美的に見える作家のほうがかえって強く
持っている考えであるかもしれない。ほんとうの意味のつめたい客観性というものは持てないですよ。
日本人というのは方法論がないかわりに、無意識の形式意欲がある。無意識の形式意欲に対する日本人独特の
感覚的な厳しい意欲がある。そしてある新しいものが入ってくると、日本人は無意識にそれを形式的に
キャッチしようと思う。(中略)小林秀雄がフォルム、フォルムとしきりに言うけど、日本人の直感的なものだね。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/27(水) 12:00:47.47 ID:576oCG8+
あらゆる忠義によるラジカルな行動を認めなければ、天皇制の本質を逸すると僕は言っているわけです。
場合によっては共産革命だって、もし錦旗革命だったら天皇は認めなければならないでしょうね。天皇制の
本質なのかもしれませんよ。それをよく知らないで、右翼だとかファッショだといってバカにしきって戦後共産党が
やっていたのは共産党がバカだといいたいね。米のなかった時代に朕はたらふく食った、汝国民は飢えていろなどと
いう代りに、何で赤旗をもって宮城前で天皇陛下万歳をやらなかったかといいたい。あそこで陛下の帽子を
ふっているあとを追いかけていって革命を成功させなかったか、それをやらなかったからこそいまこういう目に
あっている。
彼らは天皇制護持を平気で言えるという時点まで踏み切れない。だから日本の共産党はダメなんだ。天皇制護持まで
できれば成功していたし、第一党になっていただろうと思うが。彼らに言わせれば、まあ惜しいことをした。
しかしもう遅い。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/27(水) 12:04:14.09 ID:576oCG8+
安保賛成、新憲法賛成というのは福祉の原理だよ。つまり家にテレビ置いて、マイカー置いて、ピクニックやって
安心したいという。安保反対、新憲法反対というのは民族自立の原理だ、ロジックとしては。どうしてそういう風に
ならないであんな風(安保反対、新憲法守れ)になっているのかということにを言っているのだけど、(中略)
守れ、守れだけじゃダメなんだ。一番汚らしいと思うね。大江健三郎は守れの犠牲になっていますよ。戦後を守れ、
民主主義を守れを文学でやるのは方法がまちがっている。なぜなら守るというのは剣の使命であって、言葉の
使命ではないからだ。言葉はただ刺すだけだ。守ろうと思ったら、剣を執らなきゃだめだ。(中略)
大江君も今度の「万延元年のフットボール」でも、右翼の劇団に属して渡米し、帰って来てマーケットを襲う弟に
憧れと愛情をつよく持っていますよ。大変なアフェクションだ。これは矛盾していますね。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/28(木) 04:45:46.91 ID:ElPLsMZQ
宝田明が天皇陛下ならよかったなあ
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/30(土) 11:02:51.57 ID:I/SlWehr
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。夕方、御飯になって遊びと別れるときの、あの辛さ、
ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。
しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。
市民というものは何を売っても、肉をひさぐことはしない。しかし芸術家というものはそれをどうしても
やらなければならないんですね。そこに市民と芸術家のちがいがある。
色気があり過ぎてもだめ、なさ過ぎてもだめだと思いますが……。あまりあり過ぎると、女蕩(たら)しになる。
生活者になってしまうと思う。生活者になれない程度の色気のなさ、そうかといって考古学者にもなれない色気の
あり方、そういう微妙なところで小説は書けて行くのではないか。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/30(土) 11:04:57.04 ID:I/SlWehr
美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり
市民は電気冷蔵庫のデザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、というのが市民の
修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない最後の一線でしょう。
幸福というものは掴んだ瞬間になくなるからといって諦めるのは、卑怯だと思う。
大体、人体というこんな複雑な機械が故障なく動いてるということは幸福ですよ。そのためには一億くらいの
条件がそろわなければ、こんなことを喋っていられるコンディションにならないんだ。これはある意味で幸福だな。
第一、人間は幸福でなければ生きていませんよ。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 10:48:42.62 ID:txEd4IWA
小説を書くというのは、ことばの世界で自分の信ずる「あすのない世界」を書くことですね。そして、あすの
ない世界というのは、この現実にはありえない。戦争中はありえたかもしれないけれども、今はありえない。
今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の
水曜日に帝国ホテルで会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、
その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、今は、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですよね。そして文学は、ぼくのなかでは依然として、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えるかどうかわからないという一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です。
ぼくは文学では、そういう世界を、どうでも保っていくつもりです。それはぼくの悲劇理念なのです。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 10:49:43.09 ID:txEd4IWA
悲劇というのは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、
自分に負わされたもの、そういうもの全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、
必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の
社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだ
ということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。
そうするとわれわれも、ある程度、その法則に則って生活しなくては生きられないわけですから。それで来週の
水曜日、帝国ホテルで会うということについても、ある程度、迂回作戦をとりながら、その現実に到達するために
努力する。ところが、芸術では、そんなことする必要はまったくないのですから、来週の水曜日、会えないところへ
しぼればいいわけですよね。ぼくにとっては、そういう世界が絶対、必要なのです。それがなければぼくは、
生きられない。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 10:50:59.21 ID:txEd4IWA
(中略)
ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、ギリギリに
しぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。それはぼくの構想力の問題であり、
文体の問題でもあるんですが、あるいは、法律を勉強したのが多少、役にたっているかもしれません。犯罪が
起これば、これは刑事事件ですから、そこで刑事訴訟のプロセスが進行するわけでしょ。これは完全に、必然性と
不可避性の意図のなかに人間をとじこめてしまいますからね。そういうものがぼくにとっては、ロマンティックな
構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目もふらず破滅に
向かって突進するんですよね。そういう人間だけが美しくて、わき目をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 10:51:44.12 ID:txEd4IWA
ヴァレリーもいってるように、作家というのは、作品の原因でなくて、作品の結果ですからね。自己に不可避性を
課したり、必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果です。ですけれども、そういう結果は、ぼくはむしろ、
自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんかするよりも、むしろ、自分の
望んだことなんですから……。生活が芸術の原理によって規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしくみえようと、気違いじみてみえようと、それはけっきょく、
自分の作品が累積されたことからくる必然的な結果でしょう。ところがそれは、太宰治のような意味とは、
違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を、完全に分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活に
ある必然を命ずれば、それは実は芸術の結果ではなくて、運命なのだ。というふうに考える。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 10:52:45.75 ID:txEd4IWA
それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。つまり、運命を
清算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。運命を感じてない人間なんて、
ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。
「新潮」の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私が
どういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている。日本でいちばん理解しにくい考えは、
それなんですよね。それで、作品と生活との相関関係ということが、私小説の根本理念ですから、その相関関係を
断ち切ることは、絶対できない。私の場合は、作品における告白ももちろん重要ですけれども、実は告白自体が
フィクションになる。作品の世界は、さっきも申し上げたように、かくあるべき人生の姿ですからね。もし、
自分が作品に影響されてかくあるべき人生を実現できれば、こんないいことはないわけですけれども、逆に
そうなれないというのが、人生でしょ。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 10:55:35.86 ID:txEd4IWA
そうなれないことが人生で、それでは、そうなれない人生をもっと問題にして、どうにもならんことを小説に
書けばいいではないか、という考え方も出てくると思う。しかし、ぼくは、それは絶対やりたくないですね。
死んでも、やりたくない。そういうことを書く作家というのが、きらいなのです。小島信夫の「抱擁家族」などと
いうのは、そうならない人生を一生懸命書いているわけです。そうなれない怨念を書くのが文学だとは、ぼくは
決して信じたくない。
文学というのは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じている。告白といいますけれども、告白も、
かくあるべきだ、こうなりたいんだ、けれども、こうならなかったという、それを語るのが、告白であって、
告白と願望との関係は、ひと筋なわではゆかないと思いますよ。人はいつでも、告白するとき、うそをついて、
願望を織り込んでしまうと思うのです。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 11:41:54.00 ID:rDnBMpUn
(中略)
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも
逃げてなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。それでも追っかけてくるのが、
ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。ぼくは作家というのは、
生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。
だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駈けだしたときに、そのあとをデートリッヒみたいに、はだしで
追いかけてくる女は、ほんとうの女ですよ。ぼくはそれが、ほんとの文学だと思います。ぼくの場合は、
できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それが、ぼくの文学です。
その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 11:42:32.39 ID:rDnBMpUn
(中略)
ぼくはいつも、あとから自分の素質を発見するのですけれども、――ぼく、剣道なんて、けっしてうまく
ありませんけれども、剣道やる人間になるなんていうことは、昔は想像もしなかった。おなじことで、論理的能力を
発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、何か出て
くるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してからですからね。
それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。三十ごろになって、
アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。人間の能力なんていうものは、ほんとに、
早く決めてしまうことないと思いますね。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 11:43:11.04 ID:rDnBMpUn
(中略)
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。
その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由は
ないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤をくりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に初めて、
自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと
自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの
「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。
現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず
遠ざかって、前へ、前へ、上すべりしてゆくように、社会構造ができている。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 11:45:38.95 ID:rDnBMpUn
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、カラー・テレビになる。現代社会は、
その機械と同じことで、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、
それはなにも与えないで、ぼくらを、先へ、先へ、進めるでしょ。
でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、いちばん前に。ぼくはほんとに、それが
自分の夢でないと思ったのは、インドへ行ってからですよ。…インドへ行って、人間の、ほんとの能力というのは
あったんだ、という感じを強くもった。テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、
もっとよくみえるはずですし、つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。
みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 11:47:28.00 ID:rDnBMpUn
(中略)
目ですね。
ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)“観世音の目”ということ、
いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら
負けてしまう。そうではなくて、“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を
鍛錬し、養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。
それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。
あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。人間の寝た跡はそんな形になっていませんよ。
しゃっちょこばってますわね。寝てもまだ、からだがこわばっている。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 11:51:43.62 ID:rDnBMpUn
ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。それから、
運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、
人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。そして、からだをこうやって曲げても、手の指先が足に
つかないようになってしまう。これはもう、源泉から遠ざかってしまっているわけですね。
…ぼくは、自由なものは美だと思うし、自由は源泉のなかにしかないと思うのです。プラトンと同じで、
動くものが、美しい。ぼくは静止したものはきらいですから、美術品なんて、あまり好きではないですね。
動くものが、美しい。“動くもの”というのは、自由ですし、自由は、それは未来にはなくて、源泉のなかに
あるのだ、という感じがする。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
360 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 20:50:41.91 ID:CqV6IopL
肉体の外に人間は出られないということを精神は一度でも自覚したことがあるだろうか、これは私がいつも考えて
きたことであります。なぜなら、われわれは自分の肉体の外へ一ミリも出られない。こんな不合理なことが
あるだろうか。
おれの作品は何万年という時間の持続との間にある一つの持続なんだ。ぼくは空間を意図しないけれども、
時間を意図している。
たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒に
とじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。
堂々と言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在いわれている
直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。
空間を形成する日本人というのは諸君のような新しい日本人だ。ところが時間の中に生きている日本人というのは
まだ日本にはいっぱいいるのだよ。(中略)その人間の中にあるものだね、私は日本人のメンタリティの一つの
大きな要素と考えるのだ。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 20:53:08.97 ID:CqV6IopL
文化というものは一つの長い時間の集積でもってここにまた自分の中に続いている。外在すると同時に内在する
その中から自分がセレクトするというのが自分の現在一瞬一瞬の行為である。
時代は抹消されても、その時代の中にある原質みたいなものは抹消されないのだよ。
私にとっては、関係性というものと、自己超越性――超時間性といいましたかな、そういうものと初めから私の中で
癒着している。これを切り離すことはできない。初めから癒着しているところで芸術作品ができているから、
別の癒着の形として行動も出てくる。
天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないからいつまでたつても
殺す殺すといってるだけのことさ。そろだけさ。
言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかにどんなふうに残るか
知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 11:23:30.83 ID:8dSLZdcn
Q――つぎに東南アジアについてちよつと聞きます。インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、東南アジアと
日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。
三島:中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。もし日本と中共とのあひだに国境があつて
向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。まあ海でへだてられて
ゐますからね。もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。
三島由紀夫「インドの印象」より
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 11:25:16.71 ID:8dSLZdcn
Q――日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な“大平感”なんだらうけれど、日本にさういつた幻想が
あることも、また一つの現実ぢやないでせうか。
三島:たしかにさうですね。幻想(イリュージョン)といへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。
ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実(ファクト)」です。
しかし、日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、事実と
イリュージョンとの合金です。「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件が
あるでせう。海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。
ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。幻想をくだくには
幻想をもつてしなくつちや。ですからもし、ぼくが政治家だつたら……。
Q――「中共はこはくない」といふ幻想は、どうやつてくだきますか?
三島:「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもつてですよ。
三島由紀夫「インドの印象」より
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 11:29:31.32 ID:8dSLZdcn
Q――寺院も寺院だが、信仰をする人々、つまりレリジョン・イン・アクションはどうでしたか。
三島これはもう……インドでは宗教が生きてゐます。あれだけ宗教がナマナマしく生きてゐる国は見たことが
ありませんね。(中略)
Q――実践を持つてゐる宗教は強いといふことぢやないですか。キリスト教を例にとつても、宗教改革いらい
プロテスタンティズムは、宗教とは人間の頭のなかの問題である、といつてきた。ところが、長い目で見ると
カトリシズムのはうが結局は強かつたといふやうな……。
三島:さうです。現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。人間は、
目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。だからカトリックの
荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも同様だが、生きてゐる宗教とはそんなもの
なんですよ。プロテスタンティズムのやうなものは理論としてはりつぱだし、啓蒙主義の時代には役立つたかも
しれないが、いま宗教が復活するとすれば、あんな形では絶対に復活しませんね。人間を苦しめるだけですよ。
三島由紀夫「インドの印象」より
365 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 11:32:33.20 ID:8dSLZdcn
Q――日本人のものの考へかたのなかで、絶対に日本以外には通用しないものがある、と感じませんでしたか。
三島:これはインドに限りませんがね。ぼくは外国に行くときは、必ず「ノー」といふ言葉を用意して行くんです。
外国では「ノー」といふのが三分の一秒でも五分の一秒でもおくれたら、あとで自分がえらいめにあふ。
「ノー」といふべきときは必ず「ノー」(大声で)と急いでいはなくちやならん。日本ぢや「ノー」といはなくても、
あとでちやんと始末がつきます。
Q――日本文化をどう思ひましたか。インドは、いはば日本文化の源流ですが。
三島:昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(豊饒の海)も、唐・天竺的な大きい文化圏の上に
立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。で、いまは
もつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、
みんなあすこにあります。
三島由紀夫「インドの印象」より
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 12:07:06.37 ID:RYzTl98n
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。共産主義の粛清のほうが
数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの昔から、殺されたのは一人で、六十万人が
一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。これは虐殺であります。
(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも
嘘がつける。やはり身辺が危険だと思うと、人間というものは多少は緊張して、(中略)真面目な話をするのです。
人間というものは刀を突きつけられると、よし、おれは死んでもいってやるのだ、「板垣死すとも自由は死せず」
という文句が残る。しかし口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない、痛くもないから、お互いに
遠吠えする。民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 12:07:46.30 ID:RYzTl98n
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、相手のあらゆるものを
抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。それが言論を通じて徐々に徐々に
高められてきたのが政治の姿であります。しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論は
すぐ偽善と嘘に堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。
(中略)日本ではこうやって言論が自由自在に生きている。確かに美しい風景ではあるけれども、何か身を
賭けた言論、身体を賭けた言論というものが少ない。自分一人で、一千万人を相手にしても退かないという言論の
力が感じられない。何でも自分一人じゃ弱いと思うから、何万人でデモをやらなければならない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 12:08:33.06 ID:RYzTl98n
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が入ってきたときに――私はそれを
実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除という
ような形になってしまって、大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、たちまち
殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。
一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という。つまり一人の
日本刀の言論だ。(中略)そして、日本で言論と称されているものは、あれは暴力。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 12:09:22.60 ID:RYzTl98n
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。例えば戦争をしておっても、誰も
妥協を考えてやるのではないのです。勝つことが目的であって、最終目的に対して、十とれるところが八だとか、
八とれるつもりがまあ五だろうというのが妥協であります。初めから五を考えると、二しかとれません。そして
妥協ということは大人の知恵で、全然妥協しない戦いというものはないわけですが、ものの考え方というものは
私は順序があると思う。
民主主義は妥協が原則だといいますが、相対的な理論の闘争の中で、自分がそれをある程度本当に信じて
邁進する人間がいなければ、いまの自民党と社会党みたいなことになっちゃう。そして国会解散期には、あっちに
流れたり、こっちに流れたりという状態になっちゃう。それが一番妥協の醜い形だと私は思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 12:09:58.41 ID:RYzTl98n
ところで私は、暗殺者が必ずあとですぐに自殺するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の道だと思っている。
本当はこれをやらなきゃいけない。(中略)
私は人間というものは全部平等だと思う。(中略)
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理があるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を許すか、許さないか、
ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは不幸なことではあるけれども、その政治原理の中に
そういうものが自ずから含まれている。もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の
意味がありますか。諸君が投ずる一票が一ト粒の砂粒だったら、何になりますか。あれは諸君がたとい無名で
あっても、あるいは社会的な地位がなくても、その一票があなたの全身的な政治的行為であって、その集積が
民主主義をなしている。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 12:13:04.12 ID:RYzTl98n
(政治家も、)一投票者も、政治的意見において本当に一対一で、人間的に一対一だという考えが含まれなければ、
民主主義は成立しない。だから暗殺というのはアクシデントではあるけれども、民主主義に暗殺はつきものだと
私がいったのは、そこなのです。
ところが、共産主義ないし全体主義というものはそういうことをやらん。彼らは権力を握って、邪魔なやつを
粛清すればいい。全体主義は人を粛清するのに、そんな暗殺のような自分の危ないことはやりません。ニュースを
隠して、秘密警察で守り、その中で一番憎いやつをそっと殺す。犯人もわからなければ、何もわからない。
民主主義というのは非常にペシミスティックな政治思想です。(中略)
民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、いつまでたっても
無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものをやろうというのが民主主義なんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 11:28:51.75 ID:26WSd8ie
アメリカの民主主義はフロンティアなんかの自警団的なものが基盤にある、(中略)どんな政治体制でも歴史的な
基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では日本の天皇制もまったく同じだと思います。
ですから民主主義が悪いとか、天皇制がいいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に
立った政治体制ができていくということは当然だと思います。
国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。(中略)資本主義国家も
国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の国家の時代という点では、国家の管理機能は
むしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、
そんなことは先のことである。我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんと
いうように私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、それに対する
防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 11:29:14.20 ID:26WSd8ie
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そして
この階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、
日本の例をとってみますと、日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識がある国です。というのは、
ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、
クラブというのがありますね。みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブを
ステイタス・シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段をするわけです。
(中略)そうすると自分の息子に来るお嫁さんが違ってくるのです。(中略)アメリカにはステイタス・シンボル
というものが非常にたくさんあります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 11:29:43.96 ID:26WSd8ie
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。(中略)一つの社会風俗的
現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金で
キャデラックに乗っている、それがブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けばそれがブルジョアなのか。
そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に別荘を持っている。(中略)私は階級差というものの
甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
そして富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を使ったってできるのだ。
(中略)権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、我々はむしろ
権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 16:32:26.60 ID:26WSd8ie
人間の考えは――全部の人間が同じ考えをするということができれば、本来民主主義なんていうものはこの地上に
成立する余地はないのです。そんなものは要らない。したがって戦争も要らないわけだ。ところがどうしても
人間というものは全部同じ考えを持ち得ない。しかも言語を共有しながら同じ言葉を持ち得ないというところで、
バベルの塔のような神話があるわけだ。これは人間観の根本的な問題です。
大体ソヴィエトへ行った人の話を聞きますと、非常にアメリカ人とよく似ているそうです。アメリカ人は別の方法で
あんなコンフォーミティな人間ができちゃった。誰に聞いても、同じような冷凍食品を食べていますから頭の中は
同じになっちゃう。しかし実に親切で、自分の身の周りのことについては気持よく話してくれる。ただ、国家・
社会の問題になると何もわからないという人間達ですね。それは確かにソヴィエトでもできつつあるでしょう。
けれども、人類全部がそうなることが人類の幸福であるかどうかというと問題はまた残りますし、本人が幸福なら
いいじゃないかということになりますと、これは人間観の相違としか思う他にない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 16:34:01.23 ID:26WSd8ie
行動には必ずリアクションがある。そのリアクションはどこからくるかというと、自分の敵からくるわけですね。
敵がなければかなわん。(中略)
大体韓国の人達はいろいろな面で反共精神が強いのだけれども、これは実際に自分の親族が殺され、あるいは
自分の親兄弟が共産主義者から酷い目に遇ったりしている。(中略)
インドネシアでは役人の中にも共産党が入っていましたから、こいつらがみんな私腹を肥やしたり、宗教を
弾圧したりして農民に嫌われちゃった。農民も何年か我慢して、いまにあの野郎どもと思っていたから、いざ
共産クーデターを起そうとしたらば、逆に鋤、鍬で殺されちゃったわけだ。この恨みというのはすごいですね。
しかし、私は別に何ら危害を受けたわけではない。ただ敵として私が選んだ。これは私独特のものですね。私は
自分の行動を起すにはどうしても敵がなきゃならんから選んだ。そこで私は何ら矛盾を感じてないわけです。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
377 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 16:35:25.16 ID:26WSd8ie
(日本では)惨状に対する異常なヒューマニスティックな同情から革命衝動が起るということは現在ではほとんどない。
(中略)被圧迫者が傍にいるという状況は、インドでホテルの二階で食事をとっていますと、窓から街路には
飢えた乞食がいっぱい見える。かわいそうな佝瘻(くる)病の少年が痩せこけた自分の弟を腕に抱いて、
もう一方の手を伸ばしています。それを見るとこっちは御飯が食べられなくなっちゃうですね。そういう国でこそ
共産革命ないし革命の情熱が涌き起るかというと、インドの共産主義者ってみんな金持ちなんです。なぜかというと、
共産主義の文献を読むにはお金がなければならない。金をかけて大学を出なければ……。みんなオックスフォード、
ケンブリッジへ行くのです。そういう上流階級が主に共産主義者の中心になって、しかも共産主義の知事のいる県は
他の県に米を移出しない。ですからその県に、米があっても、隣の県の飢え死にを放棄する。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 16:36:33.43 ID:26WSd8ie
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に同情する人がなく
なっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン動物愛護協会というものなんです。
これは生活の余裕がなければできないことで、オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方は
わかりますが、犬を可愛がって、犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうに
なっちゃうものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中からどうやって
社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
ちょっと問題が大きくなりましたが、その中で自我というものは大きくなればなるほど本来今言ったようなものが
溢れているはずなんですが、その溢れる対象に使われない場合には、何かでそれが捩じ曲げられてぶつかって
いくことになるわけですな。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 11:55:12.09 ID:52xFyZvr
天皇と国民を現代的感覚で結びつけようということは小泉信三がやろうとして間違っちゃったことだと思うのですよ。
小泉信三は結局天皇制を民主化しようとしてやり過ぎて週刊誌的天皇制にしちゃったわけですよ。そして結局
国民と天皇との関係を論理的につくらなかったと思うのです。というのは、ディグニティをなくすることによって
国民とつなぐという考えが間違っているということを小泉さんは死ぬまで気がつかなかった。それでアメリカから
変な女を呼んできて皇太子教育させたり、そういうふうな形でやってきたわけです。ですからその考えはまだ
宮内官僚に随分残っているから、当然天皇制というものがそういう形でうまく国民と結ばれるということについては、
私は悲観的ですね。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 11:56:31.74 ID:52xFyZvr
人間は未来ということを考えると、必ず現在というものを犠牲にするか手段化するという不思議な動物だと私は
思います。未来社会がもし理想的な社会になる。その社会のために現在我々が動いているとすれば、我々は
その社会への橋であり、プロセスであり、道具なんですね。(中略)これがあらゆる未来というものに関する
思想の――私は左とか右とかいうのじゃない、未来というものを想定した思想にからむ一つの危険だと思います。
(中略)
私はいわゆる革命家、社会運動家、改良主義者、こんな人達と話します時に自分との一番の違いだと思いますものは、
私は「未来がない」という考えなんです。(中略)もちろん我々は一週間や十日のところは大体未来ということを
考えて暮しておりますが、それはもうすでに現在に繰り込まれた実務的な時間の問題で、私がいっているのは
そういうことではないことはおわかりだと思います。つまり自分の行動のモラルの根拠として、未来を置くのか、
あるいは現在ないし過去を置くのか、ここで人間の行動の様式とモラルが完全に変ってきちゃうのです。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 11:57:12.18 ID:52xFyZvr
世間では進歩的、未来に向って、明るい未来に向って、人類の将来に向って、お手々をつないでというのが
大好きですな。(中略)ですが私はそういうミーハー受けのするスローガンにはいつも疑いの目を向ける。なぜ
私が未来がないかと申しますと、未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、
連綿たる過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、その一番ラストに
自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は日本というものの一番の精髄をになってここにいま
立って、そこで自分は終るのだ。そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な
誇りは持てないと思います。(中略)
文化というものはずっとうしろからつながってきて自分のところで途切れちゃう。そうするとこれから未来へ
つなぐには誰がやるだろうか。それは私より若い人がいるのだし、また自分がおしまいだと思っている若い人が
次々と出てくるからこそ、いつも文化というものはそうやってつながっていくのだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 11:57:57.42 ID:52xFyZvr
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
自分がどうやって死ぬかということは大体五十、六十になってくると先が見えてきちゃう。それを未来を所有する
というのです。青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
(中略)青年が未来に対して野心を燃やし、幻影を持つのは当然のことであります。ただその場合に、最後に
自分というものが未来のためだけにいま生きて怠けているのではないのだ。明日死んでも十分な生き方をしなきゃ
ならんということが青年らしい考え方だとむしろ思うのです。「葉隠」なんかでも、日々死を心に当てて生きろと
いうことをいっておりますが、朝起きた時に今日死ぬかもしれないという気持だったらば、どれだけ人間は
全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない。そういう表現の中にしか人間の生死観も、文化というものの力も
自分を護る決意もないのじゃないか、こんなふうなのが私の未来観であります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 11:58:43.49 ID:52xFyZvr
言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。(中略)もし美しき社会主義を夢見れば
醜き社会主義にやられてしまうんだ。
私が共産主義を嫌いなのは美名をもって人間をたぶらかすからです。そして私は偽善というものが嫌いなんです。
共産主義は自由な未来に向って人間を唆す毒薬だと思います。
第二次大戦後に(アジアで)民族自決主義がリバイブしたのはあくまでも大東亜戦争の直接の影響だと思います。
それによってアジアの諸民族が自信を持って民族独立の道を歩き出したのだと私は信じて疑いません。
文化というものは結局マルキシズムの階級史観では絶対に解明できない。あらゆる哲学者が文化論、芸術論になると
失敗するのです。
十九世紀の主権国家の理論で私は日本の国家を規定して、その国家を守れといっているのじゃないのです。国家は
さまざまなんです。国家は我々なんです。
私は未来がないのだ。しかし私の背後には長い長い文化伝統があって私で終るのだから、おれの身には指一本
触れさせないぞという覚悟で戦うのです。そして私は勝たなきゃならない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 11:38:52.63 ID:v4Hbjp4D
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。そういうときに何が
あるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。
ぼくの考えをいうと、「わだつみの像」というのは、ある悲しい記念碑ではあるけれども、どこに根拠があるかと
いうんだ。テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか
出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる。「きけわだつみのこえ」なんていうセンチメンタルな本を誰かが
作為的に集めて、平和主義の逆の証明にして、ああいう像をおっ立てた。全学連は、何だかわからないんだけれども、
この野郎、大学の進歩教授と一つ穴のムジナだろうと、ひっくり返しちゃった。(中略)この次ひっくり返すのは、
広島の「過ちは繰り返しませぬから」の原爆碑、あれを爆破すべきだよ。これをぶっこわさなきゃ、日本は
よくならないぞ。
「きけわだつみのこえ」なんていうのは、一つの政治戦略だ。前からぼくは反発していた。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 11:39:47.30 ID:v4Hbjp4D
三島:いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは
“正しい”という意味なんだから。(笑)
鶴田:ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。
人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。
三島:そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。
鶴田:昭和維新ですね、今は。
三島:うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。
鶴田:三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。
三島:ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 12:35:34.67 ID:iuz5AX3g
三島:戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、ぼくは必ずしも信じない。
(中略)客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の客観的条件というのはないんだ、
それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。それを熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかが
かもしだされてくる。
三島:ぼくは、戦後の人間というのは、新左翼でもなんでも、西洋人になっちゃたんじゃないかと思うな。
西洋人はそんな行動(犬死)はとらないよ。必ずリミットがあるんだ。
けっきょく、人間の生命ほど尊いものはない、という考えだよね。その考えが、どっかで掣肘するんだ。
野坂:だから自分の生命ほど尊いものはないんであって、実際問題としては、人間なんて他人が何百人死のうと、
どういうことはないわけでしょ。彼らは、そういうことがはっきりわかっている人なんですね。
三島:ウン、そうなんだよ。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「剣か花か」より
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 12:36:10.91 ID:iuz5AX3g
未来を信じないということはだね、つまり自分が終りだということだろう。自分が終りだということは、あとに
続くものを信ずるということなんだ。あとに続くものを信ずるということと、未来を信ずるということは、完全に
反対の思想なんだ。
未来を信ずるという思想は、自分をプロセスと規定するものだよ。高見順がああいう気の毒な一生を送ったのは、
そういうことなんだよ。
ただしね、自分が終りだということは、谷崎潤一郎もそうだったろうな。川端さんもそうなのかもしれない。
人のことをいっちゃ卑怯なら、おれもそうだ。(笑)あとに続くものを信ずるということは、絶対に未来に対して
自分をプロセスと規定しないことだよ。
滑稽だということは、客観的に滑稽ということなんだ。(中略)客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。
しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。
三島由紀夫
いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」より
いま石原慎太郎のやってる右巻き放言が三島の劣化コピーって気もしてくるな
石原の方は馬鹿を引っかけて信者として確保程度の効能しか感じないが
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 16:16:29.80 ID:iuz5AX3g
村上:日本人というのはどうしてこう人がいいのですかね。だまされやすいというのか。
三島:ぼくはだまされやすい云々よりも、言葉が軽視されたということがすべての間違いのもとだというふうに
思うのですけれども、たとえば戦術的にいっても、政治の基本は、言葉で「おれはあした羽田から発つ」というと、
羽田から発たなければならないというのが政治のルールと基本であって、(中略)こっちも「あした首相官邸を
占領する」といったら、その言葉は文学の言葉と本質的に同じ重さを持つべきだ。
村上:武士に二言はないと言う。
三島:それでね。ぼくら小説を書くときはそういう言葉を書くつもりで書いているのだから、そうしたら
やらなければならない。そりゃ死んでもやらなければならない。だから「十一月に死ぬぞ」といったら絶対
死ななければいけない。政治の言葉が文学の言葉と拮抗するのはその一点を措いてないのですよ。ぼくはそう
思うのですね。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 16:17:18.49 ID:iuz5AX3g
それを全部戦術である、あれはああいって敵をだまかしたのだ、実は死ぬ気はなかったので、ちゃんと戦力は
温存してある、首相官邸をどうせ占領できないことはわかっているが、敵の目をくらますためにそういったのである、
などと言う。これは戦術というものの一番最低の戦術ですね。欺騙行動というのですけれども、ぼくはそれは
もう言葉がばかにされている段階だと思うのです。一度言葉をばかにしたら、あと永遠にこれをばかにしなければ
ならない。
「言霊の幸ふ」というのは、紀貫之が「猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」ですか、「古今集」の序に
ありますね。言葉が現実というものを支配しているのだ、そうして現実の人間感情というのは結局その言葉から
出て来たものでできているのだという、現実に対するアンチテーゼを立てる立て方なんですね。(中略)あの言葉は、
言葉が先であって、現実が先なんだということは一言もいってない。(中略)
しかしぼくが一歩言葉の外に出ればそこじゃ責任は完全にかかってくるという考えですね。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 17:42:00.10 ID:tha3PioL
村上:祭りというのは天皇が中心になって米を斎き祭るというようなことですか、やはり米を食っていなければ
いけないわけですな。
三島:米は絶対食いますね。日本人はどこまでいっても食いますね。ここでパン食ってますけれど、米はとにかく
どこまでも食いますな。米が一つの象徴になったってぼくは構わないと思う。日本中に水田が全部なくなって、
宮中の陛下がおつくりになる一坪の水田になっちゃった――それでも構わない。
村上:そうすると三角寛さんの山窩の研究に出てくるような米を食わないやつがほんとうの日本人だというあれは
どうお考えですか。
三島:(中略)そういう民衆の中のちょっとした変ったものを見つけて来て、それを拡大する歴史観というのは
いろいろありますよ。八切止夫なんかそんなことばっかりいって暮している。(笑)そんなもの歯牙にかける
必要ないです。文化に関係ないです、そんなもの。そんな人間がいつ文化を創造したですか。いつ文化の高い洗練、
日本語の一番高いものをそんな人間が保証しましたか。山窩が日本語というものを保証しやしない。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 17:43:02.26 ID:tha3PioL
村上:米をつくるということと、米を斎き祭るということと、言霊の幸ふということが合致するわけですね。
三島:そうですね。
村上:それがほんとうのネーションであるとおっしゃる?
三島:三種の神器とぼくがいうのはそれですけれども、あなたもそれ、お書きになっている。この間、石原慎太郎に
笑われちゃった。小田実と二人で、私をあざ笑っていましたよ。三種の神器だって、三島にも困ったものだ――
石原が笑ったら、小田実が共感の笑いをもって……。(笑)
村上:その点自民党と社会党も近いわけですな。
三島:いや、石原と小田実って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな。
村上:ともかく非常にモダンな人が多いから、三種の神器なんていうと驚いちゃうのですね。われわれは心の上では
非常に身近なんだけれども。(笑)
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 17:44:19.92 ID:tha3PioL
三島:ですからぼくが皇居を守るというのは、一般のやつとちょっと違うのは、宮中三殿守ればいい、宮中三殿の
ことなんですよ。文化というのは、結局それ以外に文化を最終的に守るといったって、「源氏物語絵巻」とか
国立博物館にある文化財とか、文部省の文化財保護委員会の思想とか、そういう思想は戦う思想じゃないのです。
そういう思想は絶対にどんな政治形態ができようが、これからも、大丈夫です。そういう思想は官僚の思想ですね。
ぼくはひょっとすると言論の自由を守るという思想もそっちの方じゃないかと思うのですね。下手をすると、
というのは言論の自由の問題は非常に微妙なんだけれども、文化というものの発達に、言論の自由というものが
ほんとうに栄養分になるかどうか、ときどき疑問に思うのです。(中略)
村上:結局自分が美しいと思う生き方を生きて見せるというほかに手がない。
三島:それ以外に全くないですね。ところがそのチャンスすらなくなっちゃった。(中略)
村上:なかなか腹を切るチャンスもないですし、うまく切れるかどうかむずかしい。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 11:34:50.90 ID:oC9g+dO8
これしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか身を投げることしかない。
それはもっとつきつめれば焼身自殺だよ。このあいだ、アメリカの国会議事堂で自殺した少年と同じだ。これは
ことばにかけると同じ重さを、からだにかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
嘘なんだけども効果はある。
アメリカ大使館の窓から旗を三つぐらい垂らせば世界中に報道され、これはたいへん象徴行為になって効果が
あるんだけれども、根底的に意味はない。意味がないんだけれども、意味があるかのごとくなっている。そして、
全学連は最終的に意味があるかのごときところで満足しているということが表現者として気に入らないんだ。
これは正義運動としての自己冒涜だよ。正義運動を正義運動たらしめる根底的なものは、最終的に自己破壊しかない。
それができないということは、もう一つの表現のところに頼っているんだ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 11:36:00.52 ID:oC9g+dO8
テロリズムといわれようとなんといわれようとかまわない、ことばを刻むように行為を刻むべきだよ。彼ら
(全学連)はことばを信じないから行為を刻めないじゃないか。もっとも、それを彼らに要求するのは無理かも
しれない。というのは、教育が彼らにことばというものの最終的な意味と重さを教えなかったから。そして
それは日本の文士、へっぽこ小説家どもの責任でもある。だから、彼らはことばの軽さに慣れて、テレビ的行為を
すばらしい政治行為だと思っちゃうんだよ。
(全学連は)ファクトを信じない時代の子で、自分らのやることはファクトだと思っていない。
一定の仕組まれた政治的プログラムのなかの一つのパブリシティだと思っている。パブリシティとファクトとを
厳密に分けなければわれわれの言語信仰は崩れるわけで、そこが気に入らない。全学連は、どこにファクトがあって、
どこがパブリシティなのかぜんぜんわからないでしょう、これはある意味ではいちばん気味が悪いよ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 11:37:20.59 ID:oC9g+dO8
去年、福田赳夫さんに「自民党は安保と刺しちがえてくださいよ」といったんだけど、これは自民党の歴史的
役割りだと思うんだ。戦後の国際協調主義みたいなものの最終的なもので、これを自民党がやってくれなければ
その後の日本は開けない。
中国人はものを変えることが好きでね、人間を壷の中に入れて首だけ出して育ててみたり、女の足を纏足
(てんそく)にしてみたり、デフォルメーションの趣味があるんだよ。これは伝統的なものだと思うんだ。
中国というのが非常に西洋人に近いと思うのは、自然にたいして人工というのを重んじるところね。中国人の
人間主義というのは非常に人工的なものを尊ぶ主義でしょう。作って、変えたという確信を持つことが権力意識の
獲得ですから。だから意識の変革というのをやりたくてしようがないんだよ。中国文学の専門家には悪いけど、
これは中国人の伝統的な趣味だと思うんだ。
変革といった瞬間にすぐ偽善に陥る、モラルといった瞬間にすぐ偽善が押し寄せてくる、それはほんとに怖いねえ。
全共闘諸君は若いかもしれないけど、若いなりにそういったものが垢として身についているかもしれない、怖いねえ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 12:06:56.09 ID:HHk/1ewc
(堤氏の父・堤康次郎氏の)家長というもののすご味を感じたな。冷酷なようだけれども、家を守るということは
ああいうことだね。いまのヒューマニズムじゃちょっと割り切れないが、あの当時、そんなヒューマニズムなんて
言っていたら、みんな三国人に取られちゃいますよ。(笑)
ルース・ベネディクトの「菊と刀」という本がありますが、これほど日本を馬鹿にした本はない。しかし
「菊」というのは文化で「刀」が武道という分け方は面白い。戦後は文化国家というので全部「武」に関するものは
抑圧されちゃった。みんな腰抜けを製造するのが文化みたいになっちゃう。もちろん戦争中のように軍人が威張ると、
軍人自体が腐敗して、頽廃していくんです。(中略)
ほくは、学生にアニマルプライドを持てといってるんだ。(中略)「千万人といえども吾往かん」というときに、
千万人のほうに自分を入れちゃうから、吾のほうがなくなっちゃう。(笑)「楯の会」でも百人が群なんじゃないんだ、
一人一人なんだということをしきりにいうんです。
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 12:08:44.88 ID:HHk/1ewc
三島:(二・二六と全学連を)くらべること自体、二・二六の将校への冒涜ですよ。二・二六の栗原中尉というのは、
火薬庫を守るのに将校が不寝番をやるんですが、栗原中尉だけは、いねむりしたところを見たことがない。
なぜだろうというと、従兵が言うには、いつも下着に血がついている、ナイフで突っついていたからというんです。
全学連の指導者はなにをやっていますか。安田講堂の攻防では指導者は前の日にみんな逃げちゃった。人間という
ものはそんなものじゃないんです。やれ世間にがまん出来ないとか、破壊か先だとか、表面的な類似で
二・二六事件をいっしょにすると、冗談言うなというんです。
堤:今の学生には純真さがない。(中略)
三島:人間が悪くなったんだと思いますよ。それは青年の責任でね。大人の教育が悪いという考えは、とても
嫌いなんです。「楯の会」の講義で、「君ら教育が悪いとか社会が悪いとか一言も言うな」とぼくは言うんだ。
(中略)どうして運命を自分で背負わないんですかね。運命はどんな時代だってあるでしょう。背負わない人は
嫌いなんです。
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 12:14:10.38 ID:HHk/1ewc
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。
(中略)
失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする。
僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でもなんでもない、ただ爆弾持って
駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、
百メートルを十六秒以下でなければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。ベトコンはやせて
いるから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。どうして日本のインテリというのは、
ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との
関係において。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 10:35:34.40 ID:9SB0nRHs
戦後のいまの世界を見ていますと、たいていのことはフィクションで片づいちゃう。(中略)思想的な激突を
やる代わりにテレビでもって討論会をやる。そんなふうに、だんだんだんだん影がうすまってくるわけですね。
そしてすべてがフィクションの世界にとけ込んでしまって、どこに生死を賭けた大事があるのかわからなくなってくる。
激突しても、これは本当に死ぬ気があるのかどうか、殺す気があるのか、あるいは殺される気があるのか
わからないところで対決する。それが現代ですね。「葉隠」は、そういうものを非常に嫌うわけですね。
そういうのは芸能に携わる人間のやることであって、(中略)武士というものはそういうものじゃなくて、
本当に死ぬということが武士なんだから、そういう点で、河原乞食なんかいくら軽蔑してもかまわないという
考えですね。現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、なにから、
やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
401 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 10:36:29.22 ID:9SB0nRHs
全学連の運動というのはね、方向がどうあれ、根本は実感主義の復活ということだと思うのですね。これは
全学連のみならず、右の学生もそうなのであって、(中略)自分の成長期に、なんら実感にふれないで大人に
なっていったらどうなるだろう、すごい恐怖だと思うのですよ。われわれは、少なくとも空襲という実感が
ありましたね。それから死体がそこらにころがっているという実感がありました。中世の人間は、「方丈記」も
そうですが、そういう実感の中から初めてフィクションも出てきた。
私はインドに去年行きまして、ベナレスで、癩病の乞食がいっぱい並んでいるところを見て、なるほど弱法師と
いうのは、ここから出たんだと思ったのです。そして芸術の根源というのは、ああいうところにあって、ああいう
恐ろしい実感、あのファクトを一生懸命洗練したり、磨き上げたり、抽象化するから芸術が起こるのであって、
現代みたいにファクトがないところで、どうやって芸術をやっていくのかという危機感は、私どももっているわけです。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 10:37:25.66 ID:9SB0nRHs
たとえば、私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。うそでかためれば安全、
謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、
不特定多数の人間の平均的な好みに自分を会わせれば成功だし、会わせれることができなきゃ失敗。これが
現代社会ですよ。
(中略)
現代的コミュニケーション、現代的対人態度というものの中にある毒を清めたいときに、「葉隠」を読めばいいと思う。
「葉隠」をサラリーマンの心得みたいに思うことは、ずいぶん間違いだと思うのです。
ぼくは、もうちょっと人間関係ががたぴししたらいいと思うのです。人間関係全部ががたぴししないから、
集団の衝突になっちゃうのがいまの世の中だと思いますし、いまの近代社会というものの宿命だと思います。
どうも人間関係ががたぴししないで、あまり円滑にすべりすぎるから、一方では衝突が起こるのだろうと思います。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 15:57:35.03 ID:6tjK0hLE
少なくとも自民党が危ないときになって国民投票をやったとします。そうしてウイかノンかというのを国民に
問うたとします。できることは、安保賛成(ウイ)か安保反対(ノン)かどっちかしかない。安保賛成というのは、
はっきりアメリカですね。安保反対というのはソビエトか中共でしょう。日本人に向かっておまえアメリカをとるか、
ソビエトをとるか中共をとるかといったら、僕はほんとうの日本人だったら態度を保留すると思うんですね。
日本はどこにいるんだ。日本は選びたいんだ、どうやったら選べるんだ。これはウイとノンの本質的意味を
なさんと思うんですよ。
(中略)まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況にいる。これで安保騒動を
とおり越しても、まだやれないんじゃないかという感じがしてしようがない。それで去年の夏、福田赳夫さんと
会ったときに、「自民党は安保条約と刺しちがえて下さいよ」と言ったんですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 15:58:23.07 ID:6tjK0hLE
私が大きなことを言うようですが、私の言う意味は、自民党はやはり歴史的にそういう役割を持っている、
自民党は西欧派だと思うんです。西欧派は西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい。
その次に日本か、あるいは日本でないかという選択を迫られるんであるというふうに言ったことがある。いま
右だ左だといいましても、安保賛成が右なのかということは、いえないと思うんです。安保賛成も一種の
西欧派ですよ。安保反対はもちろん外国派です。そうすると国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には
加担していないですよ。
ですからナショナリズムの問題が日本では非常にむずかしくなりまして、私が思うのに、いま右翼というものが
左翼に対して、ちょっと理論的に弱いところがあるのは、われわれ国粋派というのは、ナショナリズムというものが、
九割まで左翼に取られた。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 15:59:08.58 ID:6tjK0hLE
だって米軍基地反対といったって、イデオロギー抜きにすれば、だれだってあまりいい気持ちではない。それから
アメリカは沖縄を出て行け、沖縄は日本のものであったほうがいい、なにを言ったところで、左翼にとってみれば、
どこかで多少ナショナリズムにひっかかっているから広くアピールする。そうして私は、ナショナリズムは
左翼がどうしても取れないもの――九割まで取られちゃったけれども、どうしても取れないもの、それに
しがみつくほかないと信じている。だから天皇と言っているんです。もちろん天皇は尊敬するが、それだけが
理由じゃない。ナショナリズムの最後の拠点をぐっとにぎっていなければ取られちゃいますよ。そうして日本中が
右か左の西欧派(ナショナリズムの仮面をかぶった)になっちゃう。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 15:59:57.18 ID:6tjK0hLE
林:僕は今の左翼の“ナショナリズム”は発生が外国指令だと思う。いくら彼らに教えても反米はできるが
反ソ、反中共はできない。したがって尊王ということは、彼らにとっては、もってのほかです。いま愛国主義が
彼らに先取りされているようにみえるが、実際は取られていないんだな。われわれ右翼がうっかりしている間に
日本のナショナリズム、愛国主義とアメリカ帝国主義打倒をすり変えてしまったんですよ。
三島:この間も羽田で火炎ビンを投げたのは毛崇拝で、かつ愛国だというんでしょう。あれは明らかにおっしゃった
ような代表的なものですが、(中略)やつらは天皇、天皇といえばのむわけないです。のむわけないから、
やつらから天皇制打倒というのを、もっと引出したいですよ。(中略)
これをもっとやつらから引出さなければならない。やつらのいちばんの弱味を引き出してやるのが、私は手だと
思っているんですがね。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:14:00.61 ID:QUGdbLGg
三島:いま左翼のあとを追って理論化を急いでもなんにもならん。
私は三派の連中なんか、共闘派の連中と論争してみたけれども、(中略)連中は言葉使いは変だし、訳の
わからんことを言いますが、少なくともポレミッシュですよ。非常に論争にたけています。足をすくうのも平気だし、
こんなことは真似しようと思ったらむだな勉強です。僕は純粋な青年にこんな毒々しい技術を学ばせたくないですね。
もし理論武装といって、そういうことを意味するんならやめてほしい。
林:(中略)左翼学生たちが果たして頭がいいかどうかということには、私は疑問を持つ。彼らの理論は
鵜呑み理論であって、イデオロギー以上には出てこない。
三島:(中略)ただポレミッシュだ。ポレミックが非常にうまい。
林:(中略)訓練され学習させられていますからね。(中略)(右翼は)まず、たった一人の大川周明、たった一人の
北一輝が出ればいいんですよ。(中略)現在の右翼の理論武装のためには、新しい北、大川が出なければならない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:14:48.46 ID:QUGdbLGg
三島:もう一つ大事なのは、ユーモアとウイットですね。左翼の連中は小憎らしいけれども、ユーモアが
あるんですよ、ときどき。(中略)右翼の理論というのは、儒教の悪影響だと思うんだけれども、とにかく衿を
正して聞かなければならないような理論ばっかりですね。とにかくユーモアとウイットで相手をこてんぱんに
のすような、おもしろい理論がない。そういう文章がない。
赤尾敏なんかユーモアがあるな。
林:それはちょっと皮肉な意味でね。
三島:あれは若いやつが喜んで聞いてますよ、おもしろいと言って。
林:赤尾さんがアメリカの旗を掲げているのは困る。僕は手紙を出したいくらいだ。あれをはずせば立派な
ものじゃないか。なぜアメリカの星条旗を掲げるんでしょうね。
三島:ある意味では日本の右翼の追いつめられた姿をいちばん正直に露呈しておる。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:15:59.78 ID:QUGdbLGg
三島:僕は理論なんか根底的に必要じゃないと思うんです。根底的には誠だけでいいんですよ。誠以外になにが
いりますか。
林:その意見に賛成です。右翼にはユーモアはなくとも、誠がある。いちばん安心してつき合える。左翼のやつは
つき合えない。油断ができない。
三島:いちばん根底には誠だと思います。誠があるかないかですよ。
私もいま誠だなんて、きれいなことを言いましたけれども、実態の人間にぶつかってみると、そうもいえないな。
いまの青年でも右だから誠だ、左だから誠でないと思っていると、つい間違えることがある。自分で苦い目に
会ってみなければわからない。これは原則論であって、右翼は最終的には誠だけだ。それをはずしたら右翼じゃない。
左翼は誠がなくてもいいんだというところで左翼だと思うんですが、それだけの建前、もし建前をはずしたら
いろんな人間がいます。左翼もいっぱいいるし、右翼もうじゃうじゃいる。実態に触れると、いまの青年だからと
いっていちがいに純真だといえないでしょう。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:16:53.88 ID:QUGdbLGg
三島:最近感心したのは、大東塾の靖国神社問題に対する対処の仕方ですね。これには感心している。つまり
靖国の霊を国が神道の祭祀にしたがって顕彰し、弔うべきだというだけのことです。彼の言いたいことは。
それを政治家だとか、いろんな圧力団体がそうさせない。遺族会すらそういう本旨を誤っているという場合に、
だれがその思想をとおすのか。その思想をとおすのに、言論だけでたりるのか。どの政治家のところへお百度詣り
したら、それをとおしてくれるのか。人間がそういうことを考えたら、それをとおす方法といったら、やっぱり
ぶんなぐるほかないでしょう。だからちょっとぶんなぐったでしょう。
政治家をぶんなぐることがいいかどうかわからない。ただ影山(正治)氏の塾の人がやったことは、ある一つの
思想をとおすには、どうしても法的にも、議会政治の上でも、どうしてもとおらない。しかしそれが日本にとって
本質的なものだと考えたら、あの方法しかないんじゃないですか。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:19:05.37 ID:QUGdbLGg
その方法の良し悪しというよりも、あの方法しかないからやったんでしょう。そういうふうな、どうしても
やらなければならんことで、ほかに方法がないということをやるために右翼団体というものはあるんだと思うし、
塾というものがあると思うんだ。それはその姿勢は守らなければならない。それを捨てたらだめだと思うんですよね。
あの人はその観点からあの事件についてはちゃんとしていると思う。
林:右翼は長い歴史を持ち過ぎて、政治家、財界人と仲良くなり過ぎている傾きがある。政界財界から二歩も
三歩も距離をおいて、いざというときにその尻をひっぱたくのが頭山満、内田良平先生以来の右翼浪人の
生き方だった。対露軟弱論者の伊藤博文はずいぶんおどかされたり、はげまされたりしている。
政界と財界に対して常に一敵国を形成しているという根本態度だけは、僕は右翼人に忘れてもらいたくない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
412 :
忍法帖【Lv=1,xxxP】 :2011/07/02(土) 06:08:00.54 ID:7awekSGq
a
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 10:44:02.27 ID:T4T4fAeg
三島:日本人の心のなかには、日本人というのは自分の主義主張のためには体を張るものである、命を最終的に
惜しまないものであるという伝統的なメンタリティーがあるでしょう。そうして新左翼というものはそのすれすれのところへいって、
国民に期待を抱かせたわけです。あのとき(安田城攻防)期待したやつはずいぶんいる。ところがそうでなかった。
これから先右翼に対する期待はそれが残ってる。ほんとうに体を張るやつはどっちかなということを国民は
みていますよ。
私はここで右翼も左翼と同じ体質になって、体を張らないんだということになったら、これは絶対絶望だと
思うんですよ。左翼と違って体を張るんだということが右翼の最終的なもので、それが国民の心というものを
ほんとうにつかむ唯一の方法だと思う。これは言ってやさしいことではありません。軽々に言うべきでは
ないんだけれども、ほんとうにそこしかないんじゃないですか。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 10:45:17.79 ID:T4T4fAeg
林:誠と命が右翼だ。左翼はどんなえらそうなことを言っても、それがない。(中略)彼らには戦略があるだけだ。
これはマルクスの生産力説と唯物史観から生まれている。人間というものをまるで認めてない。ちょっとした
不満は人間疎外というし、彼らの人間性回復とは実は動物になりたいということなんで、だから三島君は
“東大を動物園にしてしまえ”と言った――あんな学生動物がたくさんできてきたのだから。(笑)
三島:つまり義のために死ぬというのは人間の特徴で、動物にはない。義のために死なないのは、動物と人間の
境い目がつかないやつ。(中略)
林:(中略)いまの日本の左翼にもレーニン的なところがあり過ぎるんだ。(中略)裁判官が書いていたね。
安田講堂のそばの建物にたてこもった学生は、地方から出てきたばかりで、中央の闘争ぶりを見ろと、だまして
つれて行かれたんだそうですね。そういうことをやるんですよ。右翼ならそういうことはやらんなあ。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 10:46:49.13 ID:T4T4fAeg
三島:公明党はちょっと気味が悪いところがあるな。というのは僕は一九七五、六年には、ひょっとすると
連立政権ができるんじゃないかと思っています。(中略)
林:児玉誉士夫さんは、民社と公明党と自民の連立政権をつくれと言っている。
三島:しかしその場合、公明党のいちばんの持参金は自衛隊と警察ですよ。これはほかの野党はだれも持っていない。
林:そんなにたくさん入ってるんですか。
三島:非常なもんですよ、公明党の自衛隊と警察に対する手の打ち方は。十年たてば持参金になる。(中略)
林:武力という実力だな。これは噂だけれども、共産党が公明党になだれ込んでいるのと同じ比率で、右翼も
なだれ込んでるというんだが、ほんとうですか。
三島:そういうことも言いますがね。もう一つの可能性としては、公明党は分裂するでしょうね。
林:革命派と合法派と。
(中略)
共産党は人民戦線などというが、結局独力でやらなければならない。僕はあれは異教だと思ってるよ。マルクス主義は
キリスト教の裏返しだから、日本には土着しない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 10:48:23.55 ID:T4T4fAeg
林:池田大作という人物は聡明な男だから、なにを読んでみても、理路整然と逃げてる。大事なところは少しも
触れない。いま正面から公明党を攻撃しているのはやはり大東塾ですね。
三島:ですから連立政権ができたとき、そういう時代がくれば、ほんとうにそれに対抗する勢力は右翼しかない
でしょう。
(中略)
林:いろんな「文化人」が「潮」にも「赤旗」にも書くでしょう。自民党の出版物に書くと安い。知識階級とは
そんなもんですから、あてにしなくていい。(中略)
三島:辛辣なことだが、そうですね。講演料がたくさん出ているところへ行く。文化人なんというのは頼らない
ほうがいいですよ。
僕は反共というのは、実は嫌いなんですよ。共産主義だろうがなんであろうが外国思想はみんな反対というのが
国粋主義であって、共産党だから反対じゃなくて、日本の純粋性をくもらすものは、共産主義であろうが、
資本主義であろうが、民主主義であろうが、なんでもいかん。だから日本人でいいんです。そのためには右翼と
いわれたって、なにいわれたってそんなことかまわない。そこから出発してほしいと思いますね。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 11:39:16.27 ID:BjX55snA
三島:人間がさがして最後に到達するものは根だよ。そうだろ。
石原:いろんな意味での存在の根に対する回帰でしょうね。(中略)
三島:回帰だろう。回帰のなかには自由という問題をこえたものがあるはずだ。ぼくは簡単に言うと、こういう
ことだと思うんだ。つまりわれわれは何かによって規定されているでしょう。これは運命ですね。日本に生まれ
ちゃった。(中略)
自由を守るというのはあくまで二次的問題であって、これは人間の本質的問題ではない。自由を守る、ある政治体制を
守るということは、人間にとって本質的問題でも何でもない。ぼくは、おまえ民主主義を守るために死ぬか、と
言われたら、絶対に死ぬのはいやですよ(中略)われわれはある政治体制を守るために死ぬんじゃない。じゃ何を
守るために死ぬのか。バリューというものを追い詰めていけば、そのために死ねるものというのが、守るべき
最終的な価値になるわけだ。それはこの自由の選択のなかにないとぼくは思うんだね。自由の選択自体のなかにはない。
もっと規定しているもののなかにそれがあるんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 11:40:41.01 ID:BjX55snA
三島:ニーチェの「アモール・ファティ」じゃないけれども、自分の宿命を認めることが、人間にとって、
それしか自由の道はないというのがぼくの考えだ。
(中略)
石原:(中略)しかし宿命というものを忌避しようとすることは、人間にとっての自由です。そこに、神のでない
人間の意志がある。
三島:しかし宿命を忌避する人間は、またその忌避すること自体が運命だろう。そういう人間はそういうふうに
生まれついちゃったんだ、反逆者として。
石原:しかしそれはその人間の一つの存在の表現であって、ぼくはやはり人間の尊厳というのはそこにしか
ないと思うな。
三島:君はずいぶん西洋的だなあ。ぼくはそういう点では、つまり守るべき価値ということを考えるときには、
全部消去法で考えてしまうんだ。つまりこれを守ることが本質的であるか、じゃここまで守るか、ここまで守るかと、
自分で外堀から内堀へだんだん埋めていって考えるんだよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 11:42:28.16 ID:BjX55snA
三島:(おれは)最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。
石原:三種の神器って何ですか。
三島:宮中三殿だよ。
石原:またそんなことを言う。
三島:またそんなこと言うなんていうんじゃないんだよ。なぜかというと、君、いま日本はナショナリズムが
どんどん侵食されていて、いまのままでいくとナショナリズムの九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ。
石原:そんなもの取られたっていいんです。三種の神器にいくまでに、三島由紀夫も消去されちゃうもの。
石原:やはりぼくは世界のなかに守るものはぼく自身しかないね。
三島:それは君の自我主義でね、いつか目がさめるでしょうよ。
石原:いや、そんなことはない。
三島:(中略)天皇制という真ん中にかなめがなければ、日本文化というのはどっちへいってしまうかわからない
ですよ。(中略)
ですから(全共闘)三派が直接民主主義なんてことを言うと、(中略)君らの求めるそういう地上にないような
政治形態を天皇に求めればいいじゃないかって言うんですよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
420 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 11:43:37.82 ID:BjX55snA
三島:伝統の多様性というものを守るためには闘う必要はないんだ。伝統なんかたった一つだけ守ればいいんだ。
絶対守らなきゃあぶないものを守ればいいんだ。守らなきゃたいへんなものを。そうすればほかのものは、
たいていだいじょうぶですよ。
(中略)
アイデンティティーというのは、最終的にアイデンティティーを一つ持っていればいいんだ。言わば指紋だよ。
君とおれとは別の指紋を持っている。ナショナリズムでもなんでもない。指紋が違う。それで文化を守るという
ことは、最終的にアイデンティティーを守ることなんだ。
石原:ぼくはやはり守るものはぼくしかないと思う。
三島: 身を守るということは卑しい思想だよ。
絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
石原:身を守ることが?……ぼくは違うと思う。
(中略)
三島:だけど君、人間が実際、決死の行動をするには、自分が一番大事にしているものを投げ捨てるという
ことでなきゃ、決死の行動はできないよ。君の行動原理からは決して行動は出てこないよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 11:49:55.11 ID:BjX55snA
石原:そんなことはない。守るというのは「在らしめる」ということ。そのためには自ら死ぬ場合もある。
献身、奉仕だってある。自分に対する献身もあるでしょう。
三島:それは自己矛盾じゃアないか。自分に対する奉仕のために自己放棄するなんてばかなやつは世のなかで
聞いたことがない。
石原:いや、そうですよ。はっきりありますよ。他者というのはぼくの内にしかないんだもの。
(中略)ぼくのうちに在るもの、つまり友人があったり、家族があったり、民族があったり、国家があるわけ
でしょう。(中略)
三島:それじゃ君、同じことを言っているじゃないか。つまり君の内部にそういう他者を信じるか、外部に他者を
信じるかの差にすぎないでしょう。
石原:(中略)大体ぼくは人間が他人を信じるなんて信じられないな。
三島:君は絶対、単独行動以外できないでしょう。
石原:そう思います。だから派閥をつくれって言われても人間を信じては派閥なんかつくれない。
三島:絶対の単独行動でどうして政治をやるんですか。
(中略)
もうすでに君は何かの形で(中略)意識しないディボーションをやっているんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 00:20:45.78 ID:RSknjyih
石原:ぼくはときどき言うんだけれども、行きすがるときにいきなりつばをはきかけられて、とがめて顔をふいて
もらってもどうにもならんでしょう。やはりなぐるか、切るかしなければいけない。(中略)
三島:そりゃそうですよ。そのときはやる。
石原:現代の社会には名誉というものがないと思うな。
三島:それを守らなくちゃ名誉はないわけだが、しかしそれは自分を守るということと別じゃないかな。つまり
男を守るんだろう。
石原:結局、自分を守ることじゃないですか。
三島:それは、ある原則を守ることだろう。
石原:男の原理。現代では通用しなくなった男の原理。
三島:男というのは動物ではない、原理ですよ。普通男というと動物だと思っているんだ。女から言うと、男って
ぺニスですからね。あの人、大きいとか、小さいとか、それは女から見た男で、女から見た男を、いまの世間は
大体男だと思っているんだろうがね。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 00:23:44.24 ID:BWcuqVwh
三島:ところが、男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう原理を
守らなくちゃならないでしょう。その原理というものは、石原さんが言うように自分だとはぼくは思わないですよ。
自分ならそんな辛い思いをして原理を守る必要はない。自分を大事にするんだったら、つばをはきかけられても、
なるたけけんかしないでそっとしておいて、かかわりあいにならないで、そばで人が殺されそうになっても、
警察に調書を取られるのはたいへんだから、そっと見ないで帰りましょうというほうが、よほど生きるのは楽ですよ。
だけどそこで原理を守らなければならないのが男でしょう。
三島:三種の神器です。ぼくは天皇というのをパーソナルにつくっちゅったことが一番いけないと思うんです。
戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、みんなが天皇をパーソナルな存在にしちゃったからです。
天皇というのはパーソナルじゃないんですよ。(中略)
それで天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、
天皇制廃止論者をつくっちゃった。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 00:38:47.88 ID:BWcuqVwh
三島:(小高根二郎の「果樹園」に)戦争中、丹羽文雄が「海戦」を書いたときに、ぼくを非常にかわいがって
くれた先輩の蓮田善明が丹羽を非難攻撃した話が出ている。丹羽という男はいかに頑冥固陋な男か、海戦の最中、
弾が飛んでくるなかでも一生懸命メモをとって海戦の描写をしている。これは報道班員として任務を遂行して
いるわけで、そのために丹羽は名誉の負傷までしている。ところが蓮田は丹羽を非難して、なぜそのときおまえ
弾運びを手伝わないかといっておこっている。(中略)そこにはかなり重要な思想が入っていて、ほんとうに
文学というのは客観主義に徹することができるか、文学者はそういうときにキャメラであるのか、単なる「もの」を
記録する技術者であるのか、あるいは文学とはそういうときにメモをとることをやめて弾を運ぶことであるのか、
という質問を蓮田がしているのじゃないかとぼくは思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 00:39:52.95 ID:BWcuqVwh
三島:ぼくはそれは丹羽文雄が悪いとは決していってない。丹羽文雄は己れの信奉している文学の観念に
忠実だったと思う。ぼくは丹羽文雄のシンセリティーを微塵も疑わない。
(中略)総力戦というのは人間をあらゆるフィールドにおいて機能化してゆくものですね。大砲を撃つ人は大砲、
報道班員は文章によって記録あるいは報道し、あるいは軍宣伝のために利用される。そういう近代的な総力戦では
丹羽は正しい任務を果たしている。だけど文学というものは絶対そういう機能になり得ないものだということを
信じたい。
そうすると、文学が絶対に機能になり得ないということを証明するためにはどうすればいいかということになると、
そのとき弾を運べばいいじゃないかという結論になっちゃう。いかに邪魔でも、どいてくれといわれても。
(中略)
中村:それは戦時でなくいまの技術社会でもそうだね。
三島:いまおこっている問題なんだ。それは戦争の話と考えていない、いまおこっているものだ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 00:45:26.72 ID:BWcuqVwh
三島:ぼくはその問題はそういうふうに現代の問題として考えるのだけれども、文学の機能化ということと
文学と行動との問題はいつもからみ合っているというふうに考える。なぜなら、現代技術社会における行動とは
その九九%までが、自分の機能によって縛られているもので、これは戦時中から「職域奉公」という思想で
はじまっていた。文学にしたって同じなので、(中略)文学文学と言っていればいいかというと、それこそ受身で、
しらずしらずのうちに機能化されてしまっているということが現代なんだと思うな。(中略)平和な時代だと、
実に複雑なヴァリエーションに富んでいて、のんびり芋掘りの話を書いていても、文学好きの実業家の消閑の具に
使われているかもしれないから、うかうかしていられぬわけだ。(中略)文学をこういう「しらずしらず」の
機能化から目ざめさせるには、文学外の行動の必要が起ってくるのじゃないか。その弾運びだけが文学だという
状況が来るかもしれないのではないか。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 00:46:23.99 ID:BWcuqVwh
三島:つまり、文学者が、言葉イコール行動、文学イコール行動と信じていることは、しらずしらずの機能化に
からめとられる危険があるので、あるとき自分の機能から絶対に離れたところで「何かのため」という行動を
やってみたらどうだ。(中略)
そこで、自分をそうやって文学からあるとき弾き出す力というものを、文学に本質的に具わった逆説的な
(ある意味で健康な)能力と考えるか、そういう力はもともと文学に存在しないと考えるか、で考えが完全に
二分されると思う。蓮田善明はその前者の考え方をした人だと思うし、僕は狭義の文学というよりも、どうしても
そういう広義の文学というものに魅力を感じる。そしてそれは、どちらがより強く文学を信じているか、という
信仰の形の論争にもなると思います。しかし、現実の例は、それほど高尚な話ではなくて、今起っている文学の
機能化というのは、簡単にいえば中間小説化ですよ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 13:50:36.39 ID:BWcuqVwh
三島:汚れてない思想というものはぼくは文学のなかにあるかどうかは疑問で、汚れてない思想というものは、
もしその思想を信奉すると文学を捨てなければならぬかもしれないという危険がいつもある。それが文学と行動との
問題にぶつかってくる。
(中略)
もし技術社会のなかにおける文学の機能ないし技術ということを考えれば、いまのテレビなどに毒されている
大衆が要求し、その大衆が人生の慰めあるいは疲れ休めとして要求する技術的によくできたおもしろい小説で
十分じゃないか。それ以上に現代読者ないし現代社会は何も要求していないと思う。一部の気ちがいじみた青年は
文学に哲学を求めたり文学に思想を求めたりするかもしれないが、社会はそんなものを全然要求していない。
ですからプロレタリア文学時代よりいまの時代のほうが文学が社会から要求されていないという意識は強かる
べきだと思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 13:51:50.40 ID:BWcuqVwh
三島:ぼくは最近アイラ・レヴィンというアメリカ人の「ローズマリーの赤ちゃん」という大衆小説の飜訳を
読んだ。こんなおもしろい小説を読んだことはない。すごくうまくできている。サスペンスの積み上げから何から
完璧です。しかし何もない。思想もなければ哲学も何も徹底的にない。そのかわり技術の高さは日本の大衆小説を
百倍しても追いつかないくらい技術が高い。そういうものがあるんだね。
中村:やっぱり金になるからみんな勉強するんだね。
三島:ぼくはあの小説を読んで、「群像」なんかに載っている純文学は技術という点において百倍劣ると思ったね。
中村:それは千倍かもしれない。
三島:音楽もアメリカやソ連ではそうなりつつある。アメリカもソ連に非常に似た傾向がある。演奏技術など
非常に高度に達している。技術社会の人間というのは技術を喜んで、ほかのものをべつに喜ばない。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 09:56:38.45 ID:oJmbFBkt
三島:僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、
否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。
武田:いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう。
三島:でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった。
武田:それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。
三島:そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ。
武田:いやだろうけど、それは我慢していかないと……。
三島:それじゃ、我慢しないでだよ、たとえば、戦後社会を肯定して、お金をもうけることは非常に素晴らしい
ことだ、これならだれに対しても恥ずかしくない、と言えるかな。
武田:言えないでしょう、それは。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 09:57:18.22 ID:oJmbFBkt
三島:言えないでしょう。そうすると、われわれだってどっちもいけないじゃないの。どうするのよ……。
武田:だから最後まで強気をもつということよ。
三島:強気をもつということは、もう小説を書くことじゃないだろう、そうすれば。文学じゃそれは解決できる
問題じゃない。
武田:だって、小説だって、あの長いもの書くのに、強気でなければ書けないよ。
三島:しかし僕は、それは絶対文学で解決できない問題だと気がついたんだ。まあ頭は遅いけど。
たとえば政治行為というものはね、あるモデレートな段階で満足できるものなら、自分の良心も満足するだろう。
たとえば、デモに参加した、危険を冒して演説会をやった、私は政治行為をやったということで、安心して文学を
やっていられる。私は自分の良心にこれだけ忠実にやったんだぞ、ということで、文学をやる、小説が売れる、
お金が入る、別荘でも建てる、犬でも飼う、ヨットを買う、そんなことほんとうにいやだな。
武田:それは、あなたはいやでしょうね。
三島:ほんとうにいやだな。
武田:だけども、つまり政治行動というものは、ほんとうはそうじゃないからね。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 09:58:14.75 ID:oJmbFBkt
武田:文学をやっていれば、いちおう決定しないですむ、というような風習が日本にある。
三島:あるんだよ。それは日本ばかりじゃない、僕はヨーロッパからきた風習だと思うよ。日本だったら
決定してますよ、明治維新までは。それは、ものを書く人間、詩をつくる人間、それから、少くとも文章を
書く人間は決定してますよ。だけど、いまの日本じゃ、非常にヨーロッパ的になったんです。つまり、ものを
書く人間のやることだから、決定しないですむんだという考えがある。僕はとってもそれがいやなんだよ。
(中略)
僕は、学生が東大で提起した問題というのは、いまだに生きていると思っているけれどもね。つまり、反権力的な
言論をやった先生がね、政府からお金をもらって生きているのはなぜなんだ、ということだよ。簡単なことだよ。
周の粟をくらわず、という人間がぜんぜんいないということだよ。これは根本的批判だよ。
私立大学ならそれはいいよ、だけど官立大学じゃそれは成り立たんじゃないですか。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 09:59:04.51 ID:oJmbFBkt
武田:たとえば、いまヘドロの問題があるでしょう。ヘドロの一番の問題は、われわれが紙を使って生きていると
いうことですね。もし日本文学全集が出なくて、あるいは大新聞があんなに増頁しなかったら、石狩川のヘドロも
大昭和製紙の田子の浦のヘドロも出ないですよね。それを自分が、自分の芸術、あるいは自分の美をうたいあげる
根底は、けっきょくそのヘドロによって支えられているという感覚がないと、無限に批判できますよ、それは。
(中略)画家の使う絵具だって、映画監督の使うフィルムだって、全部ヘドロを出しているんだもの。それを
ふまえないで公害問題を言うと、それこそまた戦後の空虚だね。
三島:またはじまっていると僕は思うんだ。つまり、公害を批判すれば、またそれでいいんだ。(笑)文学と
いうものは、そういうものにいつも反抗してきたはずだろう。ところがいま文学の機能というのは、ほとんど
反抗しないようなところにきちゃって、反抗する力もなくなっちゃったんじゃないの。そういうものはウソだと
いうことを。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 10:35:09.88 ID:kYaIUYdr
言論の自由も左翼の言論の自由と右翼の言論の自由がある。私も小説を書いていますときはさほどに感じない
けれども、文壇というところは、文学賞など審査する場合、私ははっきりいえますが、かりにも思想的偏向で
作品を選んだことはない。たとえそれが、共産党員であろうがなかろうが、自分と政治的意見がかわろうが、
文学作品としてよければいいという立場を通しております。しかしひとたび評論の世界に入ると、なるほど
むずかしいもんだなということを最近痛感したことがあります。
私事ですけれども(中略)「文化防衛論」というのを書きました。つまらんものですが、一所懸命書いたんで
七十枚ほどの長いものになった。そうすると、読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが
文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。見ようによっては親切すぎるわけですね。
ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 10:36:35.70 ID:kYaIUYdr
三島:もう一つはテレビの場合、ぼくらは実にニュース取材というのは困るんです。うっかり映像を出すと、
映像にウソはつけない。私がカメラの前に立つ、何かをしゃべる。何かをやる、それをフィルムではどうにでも
なるということですね。しまいにちょっとしたコメントリィをつけて「……と三島は意気揚々、過激な言論を
吐いて高笑いをしていた」なんていわれたら、これはもうマンガになっちゃう(笑)
マンガにされるのも悲劇にされるのも、みんな向こう様の自由。ですから言論の自由にしろ、偏向にしろ、
われわれは実に微妙なところで生きているということです。
小汀:ほんとうにそうです。(中略)
無着成恭という寺の坊主の、あんまり日本語のできない人、(笑)それと対等で議論するというんだ。ぼくは
(中略)しゃべる機会がほとんどない。こららにしゃべる機会を司会が与えないようにしているんだ。(中略)
(無着は)発言したら最後、マイクをはなさないんだ。(中略)向こうが七分の土俵を使えて、こちらは三分しか
使えない。そういうたくみな戦術をつかうんだ。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 10:37:22.89 ID:kYaIUYdr
三島:タクシーに乗っていたとき、ラジオで無着成恭が子供の質問に答えていたんです。子供が「先生、
スサノオノミコトとか、アマテラスオオミカミの話は本当にあったんですか」ときくと、その無着が「チミ、
それね、ぼくこれからハナスしるけどね。あのスンワ(神話)というのは、ほんとうのハナスと違うの。
ツガ(違)うけれども、あのネ(中略)アマテラスオオミカミ(天照大神)ツウ人がいだの。それがら
スサノオノミコト、ツウ人がいだの。これが悪い人でね、何したがどいうど、まんず、田んぼ荒らして米とれなぐ
したの。(中略)それがら機織りをこわして……(中略)あの岩戸ツウのはどう考えればいいがツウと、あれね、
お墓なんだね。(中略)」(笑)
これじゃ、ぼくは子供が可哀想になっちゃった。(笑)唯物史観の、つまり、やり方を教えて、まず基本的な
生産関係の生産手段の破壊とか、そういうところから教えていって、それがいかにいけないことかと。そして
神話的なことを全部リアリスティックに教えている。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
437 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 10:38:03.33 ID:kYaIUYdr
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。
(中略)とにかく厚顔無恥というのが彼らの特質ですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 10:38:39.29 ID:kYaIUYdr
(全般的に右寄りの人たちは)清らかなものはそっとしておきたいって気持ちがとても強いんだけれども、
清らかのまわりには濁流がうずまいている。われわれが清らかなものをもとうとすると、清らかなものだけ
もっていたら、どんどん押流されてしまう。エロティックというのは清らかなものの中にもあるんだということが
理解できないんですよ、彼らは……。むしろ左翼はそこらはうまいですよ。はじめから民青なんかのサークルでも
男女交際、(中略)きれいな女の子なんかがいっしょに手をつないでくれる。まあフォークダンスやりましょう、
そのうちに女の子のほうがアクティブだと、「こんどのなんとかの反戦デモに参加しない?」というと、
「きみにいわれたら……」ということになるでしょう。みんなエロティックからはいっていますよ。(中略)
これでは(右翼は)チャームという点がむずかしい。ユーモアも笑いもなくてはね。
いかに思想が正しくても欠点は欠点で自覚しなきゃいかんと思います。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 19:58:46.77 ID:xHApclQi
核兵器というのは男で、世論というのは女という考えを非常に強くもっているんですよ。
(中略)それをさらに敷衍しますと、こういう世の中にしたのは、どうも核が原因じゃないかと思えるんです。
というのは国家権力でも何でも、権力というのは力ですから、「“力”イコール兵器」で、兵隊の数と強い兵器を
もっている方が強い。当然でしょう。それが世界歴史を支配してきた。いままでは兵器は使えるからこそ
強かったんです。ところが使えない兵器をついつくっちゃったんですね。広島で使ってあんな惨禍を起こして
使えなくしてしまった。使えない兵器というのは、あるいは力というのは恫喝にしか用をなさない。恫喝ないしは
心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。そうなると、片一方の方は使えぬ兵器に対する
ものとして人民戦争理論みたいに、ずっと下の方からしみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。それをみて
被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 19:59:51.38 ID:xHApclQi
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、何より強い立場とする人間ができてくる。
そうすると、やられないやつまでも、やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。つまり女が
男にだまされたといって訴えるようなものです。とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、なぐられることだと。
そして痛くなくとも、「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。それで全学連がヘルメットの
下に赤チンを綿にしみこませていて、なぐられると赤チンがダラダラと垂れるようになっているという話も
ききますが、それも被害者ぶる者の強さの一例ですね。
被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。なぜなら向こうは力が使えないに決まって
いるんだから。それが世論であり、女の勝利だと思うんですね。女はあくまで「弱い女をどうしてこんなに
いじめるんだ」と、断然反対してくる。すると男はそれ以上、腕力をふるえないから負けちまうわけですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 20:00:26.67 ID:xHApclQi
(中略)力対力という関係が、戦後の世界ではだんだん薄れてきつつあると思うんですよ。(中略)
われわれの主張は正しいのに、こんなに弱い、武器をもたない学生がやられているじゃないかと、頭から血が
流れているじゃないかと。全学連を非難する人たちも、やっぱりおしゃもじをもって、主婦連じゃないけれども、
弱いわれわれの生活を守るのにはどうすればいいのか、すべて「弱いわれわれ」が前提になっている。これは
世論のいちばん大きな要素で、われわれが世論に迎合するためには、自分が強者、あるいは加害者であったら
たいへんなことになっちゃう。
自衛隊があんなに悪口をいわれるのはもう、自衛隊が力だということがはっきりしているからですね。そして
警察の悪口がいわれるのは、警察が力だということがはっきりしているからですね。力をもっているやつは
かなわない世の中になっちゃっている。これは戦略をよほど考えないと、いまわれわれは左翼の言論を力だと
思って評価したらまちがいで、あれは弱さの力なんですね。それをいちばん象徴しているのは、ぼくは核と
世論というものの関係だと思います。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
442 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 11:06:30.57 ID:ntBEh9Qb
「ウエストサイド・ストーリィ」というミュージカルがありますが、実に皮肉な歌が出てきます。暴力団の
不良少年どもが、お巡りがやってくると、みんなで被害者意識を訴える歌を歌うんです。われわれは社会的な
病気だ、ソーシャル・ディジーズだ、すべて社会の被害者で、社会の矛盾がわれわれに集中されて、こういう
人間になっちまった、われわれに罪もなければ責任もない、教師が悪い、社会が悪い、政治が悪い、経済が悪いと
いうんです。お巡りは閉口してしっぽを巻いて逃げ出すんです。
ああいう逆手のとり方というのは、日本では一般的になっちゃった。いつも個人が責任をとらないからです。
それは現体制にも責任があるんで、誰も個人が責任をとらなければ、罪を人になすりつけるほかない。そうすると
金嬉老のような殺人犯の罪さえ、誰かに、あいまいモコたるものになすりつけることはできるんですね。これは
人間が、本当に自分個人の責任をとらなくなった時代のあらわれですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 11:07:06.52 ID:ntBEh9Qb
たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、(中略)何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという
気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。
たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。それは右にも共通するからですね。
ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。安保条約をやめて
双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない、そのときには君らの国に基地をくれと
いったんです。(笑)ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、基地を
ほしいと……。一坪でもいいんです。そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中にはいってきたら、
撃っちまえばいいんですからね。そのくらいのことをアメリカは考えなければだめだと。(中略)双務的で
あれば、国民は納得する。納得させるためには、アメリカの広いところで、一坪くらいの土地がなんだ、と
そういったんです。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 11:07:38.46 ID:ntBEh9Qb
向こうで基地反対闘争でも起これば大成功です。(笑)こっちもやっているし、向こうでもやっているから、
おあいこですね。
それで解放されますよ、こっちのアメリカの基地は、そのかわりにこっちで責任をもって守ってやる。
もうひとつは自立という問題に関係するんですが、自衛隊がどうもいざというときには、アメリカの指揮で
動くんじゃないかという心配をみんなもっているわけですよ。これは自衛隊によく聞いてみても、最終的な指揮権が
どこにあるかということになると、実にむずかしいですね。(中略)最終指揮権については、いろんなカバーが
あるわけですね。(中略)
私はどうしても日本人の軍隊をもたなければいかん、どんなに外国から要請があっても、条約がない限り動かんと、
あるいはこっちはこっちの判断でやっていく軍隊がなければならん、そうすると、どうすればいいんだということを
いろいろ考えた。どうしても二つに自衛隊を分けて、全くの国土防衛軍と、それから国連協力軍の二つに分ければいい。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
445 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/18(月) 10:33:54.42 ID:5v57lLSI
ぼくは陸上自衛隊の九割までは国土防衛軍でいいと思う。そうすれば、その軍隊はどんなことがあっても日本を
まもるため以外は動かないんだから、国民の信頼を得ますよね。
(中略)
ところで自衛隊のことは、ぼくはあんまり細かいところまで知りすぎているんで、物をいいにくくなって
いるんですが、訓練の安全管理の問題を一つとってみても、予算がいろいろ響いている点があると思うんです。
はやい話が自衛隊には、はばかりの紙がないんです。紙の予算がないんです。だからみんな兵隊はPXで鼻紙を
買って、けつをふいているんですよ。
(中略)紙ならいいです。別に命にかかわりはないから。ところがレインジャー訓練のとき、末端の部隊には、
新しいロープが配給にならないんです。そうすると、何度も何度も耐久限度のすぎたやつを使っているところが
あるんですね。ちょっと危ないなと、思ってもやっちゃう。それでロープが切れて、現実に事故が起こっている。
これは予算ということもひとつの問題です。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/18(月) 10:34:17.83 ID:5v57lLSI
こういうことをあまりいっちゃいかんかもしれないけれども、防衛大学の学生なんかに聞きますと、われわれの
軍隊はシビリアン・コントロールの軍隊であると。だから政権がかわれば、それに従うのは当然だと。日本に
共産政権ができれば、われわれは共産軍になるのは当然だという考え方をするのが、かなり多いらしいですね。
そういう考え方は間違いだということを世間はこわいから教える自信がないんです。これは軍隊の重大な問題で、
自衛隊というのは、もともとイデオロギッシュな軍隊であるということを、もっと周知徹底させないと……。
それを世間でたたき、国会でたたき、ぼくにいわせると、イデオロギー的な軍隊であるけれども、名誉の中心は
やはり天皇であるというところで、すこし極端ですが、そこまでいかなければだめだと思うんです。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/18(月) 23:35:37.52 ID:5v57lLSI
ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)するわけですね。
ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、いろんなものが、パンドラの箱みたいに、
ワーッと出てくるんです。だから、ぼくはもし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、
またどんなに悪口を言われようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、と思うように
なりました。ぼくのこの気持ちは、思想的立場の違う人、ゼネレーションの違う人にはきっと理解できないんだと
思います。
(中略)
もし白(純粋さ、純白)が観念的なら残酷さも観念的だ。白がザッハリッヒ(客観的、即物的)なら残酷さも
ザッハリッヒだ。ぼくにはその両者は、同一次元のものとしか考えられないんです。それを意地悪な人が見れば、
あいつは苦労を知らん、戦争を知らん、貧乏を知らん、だからそんな甘い見方をするんだ、とこんなふうに
なってしまう。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 20:18:56.04 ID:cPSUDHt5
しかし、ぼくだって、ぼくなりに戦争を見ているんですよ。たとえば勤労動員に行って、仲間が艦載機の機関銃に
やられて、魚の血みたいなのがいっぱい吹きだしているのを見たり、まあ多少は知っているんです。そして
「平家物語」ほどではないけれども、人間はすぐに死ぬんだ、死ねばどうなるかということを認識したんです。
これは相対的な問題なんで、おれは死体を百も見たから、三つしか見ないお前より戦争体験が深刻なんだ、とは
言えないし、おれはお前より貧乏だったから、だから偉いんだぞとも言えないはずです。(中略)
殺された側の人間はどうだとか、テロリズムはいけないとか、そういう思考は戦後ずっとつづいてきているし、
ぼくはもう聞き飽きたんです。ロシア革命だってフランス革命だって、貴族はみんな殺されているんですよ。(中略)
二・二六事件で感心するのは、女や子供をひとりもやっていない点ですね。これは立派だと思います。女や子供を
殺すのはキタナイですよね。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 20:20:17.19 ID:cPSUDHt5
古林:現在の文壇にはセックス小説、姦通小説が氾濫していますよね。セックスがマイ・ホーム主義的な秩序の破壊、
つまり反体制なものとして各作家の意識にとらえられているわけです。三島さんにも「美徳のよろめき」のような
作品がありますが、しかしこれは背徳の美学の追求であって、セックス描写があるわけではない。(中略)
現体制の頽廃をののしり、新しい社会正義の樹立を目ざす三島さんが、この風潮に無関心であるのは不思議ですね。
三島:(中略)だけど、いまの相対主義的な世界におけるエロティシズムというのは、フリー・セックスでしょう。
なんにも抵抗がない。あんな絶対者にかかわりを持たぬセックスなど、ぼくはエロティシズムとは呼びたくないですね。
ぼくの考えでは、エロティシズムと名がつく以上は、人間が体をはって死に至るまで快楽を追求して、絶対者に
裏側から到達するようなものでなくちゃいけない。だから、もし神がなかったら、神を復活させなければならない。
神の復活がなかったら、エロティシズムは成就しないんですからね。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 20:21:14.04 ID:cPSUDHt5
三島:ぼくは吉本隆明の「共同幻想論」を筆者の意図とは逆な意味で非常におもしろく読んだんだけれど、
やっぱり穀物神だからね、天皇というのは。だから個人的な人格というのは二次的な問題で、すべてもとの
天照大神にたちかえってゆくべきなんです。今上天皇はいつでも今上天皇です。つまり、天皇の御子様が次の
天皇になるとかどうかという問題じゃなくて、大嘗会と同時にすべては天照大神と直結しちゃうんです。そういう
非個人的性格というものを天皇から失わせた、小泉信三がそれをやったということが、戦後の天皇制のつくり方に
おいて最大の誤謬だったと思うんです。そんなことをしたから、天皇制がだめになったとぼくは思っているんです。
それはあなたのおっしゃる政治的に利用された絶対君主制=天皇制というものと、ぜんぜん意味が違うんです。
小泉信三はぼくの、つまりインパーソナルな天皇というイメージをめちゃくちゃにしたやつなんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 20:22:14.53 ID:cPSUDHt5
三島:ぼくは死の問題について彼ら(全共闘)に期待していませんよ。つまり彼らが革命のために死ぬかどうか
という点を、ぼくはずっと注意して見てきたけれど、彼らは革命のためには死なないね。明治維新のときは、
次々に志士たちが死にましたよね。あのころの人間は単細胞だから、あるいは貧乏だから、あるいは武士だから、
それで死んだんだという考えは、ぼくは嫌いなんです。どんな時代だって、どんな階級に属していたって、
人間は命が惜しいですよ。それが人間の本来の姿でしょう。命の惜しくない人間がこの世にいるとは、ぼくは
思いませんね。だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです。維新にしろ、革命にしろ、
その覚悟の見せどころだとぼくは思うんだが、全共闘には、やっぱり生命尊重主義というか、人命の価値が
至上のものだという戦後教育がしみついていますね。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 20:23:38.55 ID:cPSUDHt5
古林:マイ・ホーム主義の限界をウーマン・リブで衝き破ろうとする動きもあるのですが、これは……。
三島:バカの骨頂ですね。
女が女であることを否定したら損だということが理解できないんですね。ただバカな女どもですよ。
古林:(戦後は)やはり余生という意識がありますか。
三島:いまだにあります。(中略)天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いまでもぼくの内部に生きて
いるんです。だから死ぬとき、もう遺書を書く必要はない。(中略)あれを書いたときのぼくは子供だったが、
もう二十にはなっていたんだから、あの時点で十分に自分のすべてを自覚的に注ぎこめたと思うんです。もちろん、
あの時代特有のふんい気、少年らしい気どりやミエ、それから世間体もあったでしょう。ですけど、遺書を
書いちゃったんですからね、自分の意志で。ぼくは、あれから逃れられない。いつでもそう思っています。
だから余生です。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
453 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 23:44:41.09 ID:elGshaHu
古林:私の場合は海軍のパイロットで――といっても、特攻隊には直接の関係はありませんでしたが、(中略)
最近、いろんな記録やら写真集が出版されるでしょう。あれの巻末によく特攻隊員の名簿なんかが掲載されて
いますね。あそこに知っている名まえがずいぶん出てくるんですよ。(中略)どうしてこの男が死んで、ここに
私が生き残っているんだろうかと、そんなことを考えると、いたたまれない気持ちになります。私が生きているのは
たんなる偶然なんです。あいつがおれのかわりに生きてたとしたら……と、思うたびに、戦後の二十五年は一挙に
空白となって、戦争下の記憶へたちまちショートしてしまうんですね。
三島:その気持ちはよくわかります。ぼくも、だから、たとえば「最後の特攻隊」なんていう映画は、絶対に
観にゆきません。(中略)ぼくはヤクザもの映画なら出かけるけど、「最後の特攻隊」なんてのは観たくない。
古林:私も観たくありませんね。それにウソのような気がするんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 23:45:29.94 ID:elGshaHu
三島:同時に ぼくがウソだと思ったのは「きけわだつみのこえ」でした。あの遺稿集は、もちろんほんとに
書かれた手記を編集したものでしょう。だが、あの時代の青年がいちばん苦しんだのは、あの手記の内容が
示しているようなものじゃなくて、ドイツ教養主義と日本との融合だったんですよね。戦争末期の青年は、
東洋と西洋といいますか、日本と西洋の両者の思想的なギャップに身もだえして悩んだものですよ。そこを
突っきって行ったやつは、単細胞だから突っきったわけじゃない。やっぱり人間の決断だと思います。それを、
あの手記を読むと、決断したやつがバカで、迷っていたやつだけが立派だと書いてある。そういう考えは、
ぼくは許せない。〈わだつみの像〉が京都でひっくりかえされたが、ぼくは快哉を叫びましたね。ぼくは一面的な
考え方はどうしても嫌いなんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
455 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 00:45:10.65 ID:tV/xyM7C
三島:防衛大出身の三尉たちと話していましたらね、これは個人的見解でしょうが、彼らは平然として言うんですよ。
われわれはまったく職業的軍人であって、技術者であり、ニュートラルなんだと。だから共産政権ができたって、
軍隊は必要なんだし、そのときは喜んで赤軍になりますって。(中略)
古林:(中略)その連中の理念は旧海軍と似ている点もありますね。(中略)海軍に入ったら、もっと猛烈に
精神教育をやられるだろうと覚悟していたんです。ところが入隊してみたら、軍人勅諭を暗誦できるヤツなんか
一人もいない。(中略)
三島:海軍は昔から文明開化ですものね。
古林:(中略)とにかく徹底的に分業化した技術主義でしたよ。
三島:戦後、山本五十六が英雄になったのは、そういう技術主義的英雄だったからですよ。陸軍の持っていた
暗い精神主義は、アメリカ的理念では理解できないんだよね。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 14:27:01.06 ID:tV/xyM7C
三島:どろ臭い、暗い精神主義――ぼくは、それが好きでしようがない。うんとファナティックな、蒙昧主義的な、
そういうものがとても好きなんです。ぼくのディオニソスは、神風連につながり、西南の役につながり、萩の乱
その他、あのへんの暗い蒙昧ともいうべき破滅衝動につながっているんです。
(中略)
少年時代の劣等意識がいまになって過剰期待にふくれあがったって、それは当然なんですよ。それを抑制するのが
インテリだと世間では思っているらしいけれども、ぼくは、それが気にいらないんです。人間はバカですから、
こっちが低くなるとこっちへ足す、あっちが高くなるとこっちを低くする――それがふつうの人間のやることですよ。
たとえば、この机がガタガタすると脚を一本切る。ウワーッ、こっちが低くなったと、そっちの脚を切る。また、
そっちが低くなったと、あっちを切る。こうして机はだんだんに脚がなくなっちゃっう。これが人生じゃないですか。
ぼくはいま、ちょうどその机の脚がなくなっちゃっう段階にきているんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
457 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 14:27:59.78 ID:tV/xyM7C
古林:今後の日本文学についてどう考えておられるか、締めくくりの意味で感想を聞かせてください。
三島:ぼくは自分をもうペトロニウス(ローマ皇帝ネロの側近で、「サチュリコン」の作者)みたいなものだと
思っているんです。そして、大げさな話ですが、日本語を知っている人間は、おれのジェネレーションでおしまい
だろうと思うんです。日本の古典のことばが体に入っている人間というのは、もうこれからは出てこないでしょうね。
未来にあるのは、まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。安部公房なんか、そっちへ行ってるわけですが、
ぼくは行けないんです。それで世界中が、すくなくとも資本主義国では全部が同じ問題をかかえ、言語こそ違え、
まったく同じ精神、同じ生活感情の中でやっていくことになるんでしょうね。そういう時代が来たって、それは
よいですよ。こっちは、もう最後の人間なんだから、どうしようもない。
(中略)ぼくの言いたいことは、「わが友ヒットラー」と「癩王のテラス」でぜんぶ言いつくしましたよ。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 23:09:25.21 ID:e34S01pF
○
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 11:09:01.43 ID:Ko9yqAZf
「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。
小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、
かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあとで、
一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、
一ト並べされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。
それはさうと、昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、
と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失ったら
二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 11:09:32.98 ID:Ko9yqAZf
戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。良人といふ権威に去られ、よるべなく
身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。下品な比喩ですが、彼女はまだ若かつたから、日本の男が誰か一人立上れば、
彼女をもう一度女にしてやることができたのでした。しかし、口さきばかり巧い、彼女の財産を狙ふ男ばかり
周囲にあらはれ、つひに誰一人、彼女を再び女にしてやる男が現はれることなく、彼女は年を取つてゆきます。
彼女が老いてゆく、衰へてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。
このごろ外人に会ふたびに、すぐ「日本はどうなつて行くのだ?日本はなくなつてしまふではないか」と心配さうに
訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。「これでいいぢゃないか、結構ぢゃないか、
角を立てずに、まあまあ」さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 11:09:58.73 ID:Ko9yqAZf
スウェーデンはロシアに敗れて百五十年、つひに国民精神を回復することなく、いやらしい、富んだ、
文化的創造力の皆無な、偽善の国になりました。
この間もベトナム残虐行為査問会(ストックホルム)で、繃帯をした汚ないベトナム農民が証言台に立ち、
犬をつれた、いい洋服の中年のスウェーデン人たちがこれを傾聴してゐるのに、違和感を感じる、と書いてゐる人が
ゐましたが、日本が歩みつつある道は、正に、「犬を連れた、いい洋服の中年男で、外国の反戦運動に手を貸す
『良心的』な男」の道です。
どの社会分野にも、責任観念の旺盛な日本人はなくなり、デレッとし、ダラッとしてゐます。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 19:59:45.19 ID:CK7Sc/+G
Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。
三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。
Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。
三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より
Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?
三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。
三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 22:24:27.61 ID:gTJPS3Sj
小生はたつた一つの的を何とか最上の瞬間に射当てようと、弓を引いてゐるやうな気がします。これは小生の
手に負へぬ強弓で、弓を引きしぼる腕がともすると耐へきれずに落ちさうになります。しかし引きしぼつて、
待つて待つて、これぞといふ瞬間に放さなければ、矢は思ふ方向へ飛んで行かないことも確実なのです。
三島由紀夫
昭和44年3月3日、林房雄への書簡より
全学連が静かになつて、又日本は眠りかけてゐるやうな気がします。本質的なことはなほざりにされ、又
「仮面の日本」がつづくうちに、素顔を忘れてしまふだらう、と思ふと、いささか焦燥の感なきを得ません。
(中略)
いくら年をとつても心は傷つき易く、矜りも傷つき易く、それだけにロマンティケルなのでせう。しかし日本は
いよいよロマンティシズムから遠のいてゆく感があります。
週刊誌でスエーデンではボクシングが禁止されたといふニュースを読みました。青年が烈しいトレーニングの
要るスポーツを好まず、テニスやバドミントンやボーリングにしか人気がないのださうです。いよゝ先進国の
無気力ここに極まれりといふ気がします。
三島由紀夫
昭和45年3月6日、林房雄への書簡より
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 12:45:58.21 ID:0DQKjPky
保
465 :
ソニン:2011/09/01(木) 16:58:44.72 ID:mdaejtkN
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 15:25:18.91 ID:4f5U6WTp
〜
「スイス政府民間防衛」より。新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」
第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」
第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」
第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」
第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」
最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」
許さん!
民主党もフジテレビも電通も日教組も創価学会も総連も民団も
蝕まれた検察も国家公安委員長になった山岡も
ぜーーーーーんぶゆるさんっ
(,,・`ω´・)
469 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 16:05:14.00 ID:6hTv359d
、
千葉ニートにきくわ
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/22(火) 11:32:57.68 ID:Aq33SJUC
゜
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/13(火) 12:03:48.69 ID:ZV/+MalT
、
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/08(日) 23:01:06.28 ID:AtjJUpRd
 ̄
´
〇
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/02(金) 04:39:07.85 ID:kNe2MC5O
三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは必定だろうゼッ!
分かったナッ!!!!!!!
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/03(土) 03:19:52.21 ID:HSA4egWA
三島かく語りき。
まんこ
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/24(土) 12:04:15.13 ID:0sg2lMod
:
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/08(金) 21:48:34.83 ID:ThgP1azz
;
480 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/27(水) 06:40:03.94 ID:23P4Nfbz
【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】
481 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/29(金) 15:53:02.13 ID:1bj6dc1t
アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。
【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/29(金) 23:24:59.48 ID:1bj6dc1t
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/20(金) 17:47:53.58 ID:bn1vUQG9
檄
485 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/13(木) 23:08:41.65 ID:9Boy/Cz/
。
486 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/13(火) 15:41:58.71 ID:p6KQLf+8
#
487 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/01(金) 12:45:20.85 ID:uhzSLM/y
啓蒙主義がなんの力も持たなくなった。啓蒙ということがあり得なくなった。おそろしい時代にきたね。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
488 :
萬ちゃ:2013/02/21(木) 00:29:20.01 ID:TmFxQybF
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/29(金) 20:57:00.88 ID:kOZLPPjg
ぼくらは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、三時間全然微動もしない姿を
見ている。とにかく三時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。
そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなことは言いたくないよ、おれは(笑) 言いたくないけどね、
人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれがどうしてもおれの中で否定できないのだ。
それはとてもご立派だった、そのときの天皇は。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/28(火) 09:17:58.38 ID:4B7MIf74
q
毎日嫌がらせをされています。
ジョン・トッド 国際金融資本 コリンズ家 デュポン家 軍産複合体 CIA
ロックフェラー帝国の陰謀-見えざる世界政府(原著1976年) で検索。
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:mTllo/Ph
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に
自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の
同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子
三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、
小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。
三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」
後の井脇ノブ子である。
今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを
身につけている
ネトウヨとは・・・
人格に問題があるため社会に適応できない人種
そのため周囲に対して自分の存在を誇示するためのステータスが一切ない
唯一の拠り所が「自分は日本人」ということのみである為
ネット上で在日韓国人・朝鮮人を叩いてわずかな優越感を得ることでアイデンティティを保っている
また昨今では嫌韓流思考が顕著であり、またネトウヨ自身が社会と接する機会が少ないこともあり、
「韓流ブームは全て嘘」と本気で信じている。
その思考が右翼にも似ている為、ネトウヨと呼称される
@社会的地位:下層
A経済力:低収入、または無収入。
高い収入を得る人間に対しては、例え在日以外にも異様なまでの敵対心を持つ。例:公務員叩き。東電叩き。ステマ叩き。障害者叩き。
B対人関係:不得意。
匿名の掲示板以外では何も話すことは出来ない。その分ネットには莫大なエネルギーと時間を費やす。
494 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN ID:5jwcdtRu
大国に囲まれ2年に1回は異民族の侵入を受けたほぼ無勝、千敗の超〜賤な民はバイクじゃなく
馬や船にのって悪さしに来たヒャッハーなお兄さん達に(漫画では決して描かれないが)T,G,C
Aを注入され続けたため、その末裔が気性の激しいgo姦魔となったのは無慈悲な地政学的宿命。
性器待つ覇者○ンギスカンと同一のYを継ぐ者だけでも現在全世界に1600万人(男性200人に1
人)もいるが貢献大。‘恨‘の文化や歴史捏造癖は惨めな歴史故のことだがおかげで若干背は高く
なり一部のオバ様達にあ〜逞しいと言わしめましたとさ。 あ〜キムい、キムい。
495 :
靖国参拝、皇族、国旗国歌、神社神道を異常に嫌うカルト教団:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN ID:AGhfaAUe
★マインドコントロールの手法★
・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する
偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法
・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする
誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法
↑マスコミや、カルトのネット工作員がやっていること
TVなどが、偏った思想や考え方に染まっているフリや常識が通じないフリをする人間をよく出演させるのは、
カルトよりキチガイに見える人たちを作ることで批判の矛先をカルトから逸らすことが目的。
リアルでもネットでも、偽装左翼は自分たちの主張に理がないことをわかっているのでまともに議論をしようとしないのが特徴。
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/02/09(日) 15:14:24.15 ID:DYqCFeR7
age
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。: