◆三島由紀夫の遺訓◆

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138名無しさん@お腹いっぱい。
左翼はいつも、より良き未来世界といふものを模索してゐる。いつもより良き未来社会へ向かつて我々は進歩して
ゆくと考へてゐるのです。(中略)
ところがソビエトはご承知のやうな状態になつた。これは完全な官僚社会のみならず、その常套語を使へば、
帝国主義なのです。そして、かつて日本人が未来社会と思つたのが帝国主義になつてしまつた。もうスターリン批判
以来、日本人のソビエトに対する夢も崩れた。では、中共はどうか。中共はどうも日本人の西洋崇拝から言ふと少し
外れる処があつたんだけど、文化大革命といふことがあつたので、ますます日本人の理想から遠くなつてしまつた。
近頃は経済的には先進国になつてゐますので、その点でも、あらゆる後進国的なラディカルな革命のやり方で
やれるものかどうかといふ疑問は幼稚園ぐらゐ出てゐれば大体分るわけです。
そこで未来社会の展望を失つたところに彼らの焦燥と彼らの一種の絶望感があることは確かなのです。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
139名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 11:05:26 ID:YN97m/9M
(中略)
それで、より良き彼らの本当の未来社会とは何であるか。皆さんは、「自由からの逃走」といふエーリッヒ・フロムの
本などをお読みになつたことがあるだらうと思ひますが、“われわれの窮屈に閉込められたこの自由といふ名の下に
於いて、人間が一種のフィクションに堕してしまつた社会”から何とか抜け出して、“自由な人間主義の本当に
実現される世界、しかもそこでは社会主義がその最も良いところを実現してゐるやうな社会”であります。
いはゆる、ヒューマニテリアン・ソシャリズムですが、完全な言論自由化の社会主義といふやうな、誰が考へても
実現不可能のやうな、より良き未来に向かつて進んで行かうと、それがまあ大体の左翼型のラディカルな革命の
行動の先にある未来国であると考へて良いと思ひます。(中略)
何も私は共産主義に対抗して生きてゐるわけではありません。別にそれを職業にしてゐる人間でもありません。
ですけれども彼らの考へにうつかり動かされ、蝕まれていつたならば、どういふ結果になるか目に見えてゐる。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
140名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 11:11:30 ID:YN97m/9M
(中略)
私は未来といふものはないといふ考へなのです。未来などといふことを考へるからいけない。だから未来といふ言葉を
辞書から抹殺しなさいといふのが私の考へなのです。(中略)我々はアメーバが触手を伸ばすやうに、闇の中を
手探りで少し先の未来までは予測ができる。或ひは来年くらゐまでは予測できるかもしれない。しかし、人間が
予測されない闇の中を進んでゆくためには、その闇の彼方にあるものを信ずるか、或ひはその闇といふものに
対決して本当に自分の現在に生きるかといふことの二つの選択を迫られてゐるといふのが私の考へ方の基本であります。
“未来に夢を賭ける”といふことは弱者のすることである。そして、自分をプロセスとしか感じられない人間の
することであります。(中略)
このやうな思考の中からは人間の円熟といふことも出て来なければ、人間の成熟といふ思考も絶対に出て来ない。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
141名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 11:18:36 ID:YN97m/9M
実は、人間は未来に向かつて成熟してゆくものではないんです。それが人間といふ生き物の矛盾に充ちた
不思議なところです。人間といふものは“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らないんです。
「葉隠」といふ本を御覧になつた方があるとみえて、笑つてゐる方がそこに居りますが、やはり死といふ事を
毎日毎日起り得る状況として捉へるところから人間の行動の根拠を発見して、そこにモラルを提示してゆく。
非常に極端な考へ方なのですが、あれ程生きる力を与へられた本を私は知りません。
あの思考には、未来が無いのです。我々は常識で考へて「未来がない」と言ふと、まるで破産宣告を受けた人間とか、
ガンの宣告を受けた人間のやうに考へますが、さうではなくて、私は、「青年にこそ未来がない」と、私自身の
考へから、経験から言へるのです。(中略)
青年といふのが“未来を所有してゐる”のではなくして、“未来を夢みてゐた”のであります。そして、未来を
所有してゐる人間といふのは、棺桶に片足を突つ込んだ人間のことを言ふのです。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
142名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 11:25:49 ID:YN97m/9M
そこで、何も未来を信じない時、人間の根拠は何かといふことを考へますと、次のやうになります。未来を
信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、今日の私、
現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。そして、長い文化と
歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。つまり、自分が支へてきた
文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。今、私が四十歳であつても、
二十歳の人間も同じ様に考へてくれば、その人間が生きてゐる限り、その人間のところで文化は完結してゐる。
その様にして終りと終りを繋げれば、そこに初めて未来が始まるのであります。
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であると
いふ気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な
成熟といふものを信じられないのではなからうか。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
143名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 11:28:39 ID:YN97m/9M
或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。
自分の背中に日本を背負ひ、日本の歴史と伝統と文化の全てを背負つてゐるのだといふ気持に一人一人がなることが、
それが即ち今日の行動の本になる。
「今日も行動を起す」と言つて、何も角材を持つて飛び出すのではなくて、その気持の中から、自分は果して
それに相応しいのだらうか、自分は果して本当に日本の歴史と伝統といふものを正確に且つ立派に代表して
ゐるだらうか、といふ気持がその人の倫理になります。また、成熟の本になります。
「俺一人を見ろ!」とこれがニーチェの「この人を見よ」といふ思想の一つの核心でもありませう。けれども、
私は中学時代に「この人を見よ」といふのは「誰を見よ」といふのかと思つて先輩に聞きましたところ、
「ニーチェを見よ」といふことだと教へて貰ひ、私は世の中にこんなに自惚れの強い人間がゐるのかと驚いたことが
あるのです。しかし、今になつて考へてみると、それは自惚れではないのであります。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
144名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 11:32:43 ID:YN97m/9M
自分の中にすべての集積があり、それを大切にし、その魂の成熟を自分の大事な仕事にしてゆく。しかし、
そのかはり何時でも身を投げ出す覚悟で、それを毀さうとするものに対して戦ふ。(中略)
ここにこそ現在があり、歴史があり、伝統がある。彼らの貧相な、観念的な、非現実的な未来ではないものがある。
そこに自分の行動と日々のクリエーションの根拠を持つといふことが必要です。これは又、人間の行動の強さの
源泉にもなると思ふ。といふのは人間といふものは、それは果無(はかな)い生命であります。しかし、
明日死ぬと思へば今日何かできる。そして、明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができるといふのは、
人間の全力的表現であり、さうしなければ、私は人間として生きる価値がないのだと思ひます。
大体、中南米諸国の民族は、間に合はないと何でも明日に延ばしてしまふのですが、日本人の精神といふのは、
その間に合はないといふところがない。さういふところが日本人の良いところであつて、それが日本精神で
あるとさへ私は思ひます。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
145名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 11:36:13 ID:YN97m/9M
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が
結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。
これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を
賭けてゆくところにあるのです。
特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと
思ふのです。ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。
私は未来は信じないけれども後世は信ずる。特攻隊の立派な気持には万分の一にも及びませんが、私ばかりでなく、
若い皆さんの一人一人がさういふ気持で後輩を、又、自分の仕事ないし日々の行動の本を律してゆかれたならば、
その力たるや恐るべきものがあると思ひます。

三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より