【シンビーノ】三船敏郎【開門〜〜ん!】

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865この子の名無しのお祝いに
■[一般] アルバム・対話の十字路写真秘話(13) 俳優・三船敏郎氏 (聖教2006/1/18) 12:16


◇略歴紹介 三船敏郎
1920年〜1997年。1947年デビュー。「無法松の一生」「風林火山」など生涯で146本の映画に出演した。
海外での出演作も「グラン・プリ」「レッド・サン」など多数。黒澤明監督作品には「酔いどれ天使」
「野良犬」「羅生門」「七人の侍」「用心棒」「赤ひげ」など16本に出演。「めったに俳優には惚れな
い私も、三船には参った」(黒澤監督)、「日本を代表する民間大使といっても過言ではない」(熊井啓
監督)等と評された、20世紀を代表する映画人である。

◇第1回日米親善友好大文化祭
1981年1月17日、ハワイ。ホノルル市内の野外劇場で「第1回日米親善友好大文化祭」が開催された。
翌日18日はハワイ会館の庭園でSGI(創価学会インタナショナル)メンバーの交流の集い(2000人の
日米親善交友会)が開かれ、その両方に三船敏郎さんの姿があった。

18日、明るいハワイの太陽の下、名誉会長が三船さんに駆けよって語りかけた。「三船さん。何が
あっても『正々堂々』と進んでください!」 世界の映画界に名を知られる名優は、少し恥ずかしそ
うに、ニッコリほほえんだ。
866この子の名無しのお祝いに:2012/01/12(木) 14:52:49.15 ID:ztPAEJmD
◇神も仏もあるものか!
三船敏郎さんは1974年(昭和49年)に入信した。「この世には、神も仏もあるものか!」が口癖だった。
「神様や仏様がいたら、あんなひでえ戦争なんか、起こるはずないじゃないか」

1920年(大正9年)中国・山東省の青島生まれ。少年時代、父の写真館で働いた。
1940年に徴兵。「満州」の関東軍へ。それが父母との永遠の別れになった。

写真班で、航空写真をもとに要地の地図をつくった。少年兵の教育係もやらさ
れた。自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいく。「もしも死ぬこ
とになったら、他のことばをいう必要はない、『オカアチャン!』というんだ
ぞ!」 反抗的な言動のため、最後まで上等兵のままだった。

敗戦後にその戦争体験を、「悪夢のような6年間」と述懐した。後年までこの
「悪夢」にうなされた。ギギッ、ギギッと歯ぎしりして、声を上げて跳ね起きる夜もあった。

867この子の名無しのお祝いに:2012/01/12(木) 14:57:08.81 ID:ztPAEJmD
◇学会員として
仏法と出会ったのは、50才を過ぎてからだった。すでに世界的な名声を手に入れている。
しかし、プロダクション経営で、家庭で、苦しいことがつづいていた。華々しい外見は、
人生の幸福を保障しない。そのことを、五体で感じる日々だった。

あるとき、一人の人間の命には、仏界から地獄界までの十界が具わっていると説く
「十界互具」を知った。「俺は、この地獄、餓鬼、畜生、修羅を、ぐるぐる回って
いるような気がする。悔しい」と、こぶしで涙をぬぐった。

初代会長が戦争中に獄死した学会の歴史にも、強い関心を持った。「池田大作とは
どんな人なんだ」。名誉会長その人に、興味が向かった。名誉会長より8才年上の
三船さんには、人物を見てやろうという気持ちもあった。しかし、実際に会ってみ
て、伝聞と「実際に己の目で確かめた」現実と、こんなにも違うものか、と驚いた。

ハワイ会館近くで座談会に出席して、「白人も黒人もスパニッシュも、同じ題目を
唱えるのか」と目を見張った。アメリカ芸術部の友が「瀬戸の花嫁」を日本語で語
って歓迎してくれ、その真心に涙した。会合や文化祭では、スポットライトの当た
らない場所で準備に励む、青年や壮年たちの笑顔が魅力的だった。

全員で1本の映画を完成させる苦労を知り尽くしているからこそ、「彼らの行動は、
本物だ」「彼らが慕う先生も、本物だ」と納得した。

「皆さんに喜んでいただけるなら」と、海外の文化祭にも、一芸術部員としてすす
んで出演した。特別扱いを嫌うのは若いころからの信条だった。付き人もつけずに飛行機に乗った。

海外作品のロケ中に、親しい人に吐露していた。「残酷な軍人やエコノミックアニ
マル。日本人は、そんなやつらだけじゃあないと、世界中に知らしめたいんだ」 映
画を通じて文化交流に奮闘した、「孤独な先駆者」の一人だった。

世界のミフネ。その人生には、名誉会長が贈った「正々堂々」の一言が、よく似合う。