【そんなことは】砂の器3【決まっとる】

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548この子の名無しのお祝いに
映画評論家はこの映画をどう見ているのか?
「映画砂の器が問いかけてくるもの」(ハンセン病、岩波書店、2001)の中で白井佳夫はかなり詳しく述べている。

・「不治の業病の人間の哀しみを、涙と共に謳いあげる」のが新派劇にルーツを持つドラマの常道であり、松竹はその新派劇から発展した現代劇をつくってきた映画会社であること、野村芳太郎も山田洋次もその流れの中で生まれた監督だ、とまず前置きし、

・橋本忍が「この映画は人形浄瑠璃なんだ」と言っていることを紹介し、それはもの言わぬ人形である乞食の親子の旅を、物語を説明する浄瑠璃語り(を演じる刑事)、加えて三味線ならぬオーケストラが感情をかきたてる音楽を勤めるという仕組みを説明している。

・橋本が映画に期待したのは「脚本の字面だけ読めば話は暗く陰惨だが、背景(=日本の風景)にある程度の金をかければ、これほど派手派手にしあがるもにはない、興行すればかならずあたる」というもの。

・『とすると映画「砂の器」は徳川時代の封建制度のもと、江戸期に大成された日本的な古典劇の、哀しみを受身の姿勢でひたすら耐え忍ぶ、それによって観客にしみじみ涙を流させる形のドラマのスタイルをふんだものなのである。』とまとめている。

・そして白井のこの映画への意見はかなり厳しく難しい
『ハンセン病を、生まれる前からすでに定まった運命、という風に想定したドラマ作りは、映画が製作された時代を考慮したとしても、どう考えても古い(中略)
だが、作り手たちは、原作のもつ危険な種を、映像として大きく拡大したドラマを実に日本的なドラマツルギーを駆使して「派手派手に」「ケレンの趣向」をこらして「当たる」ように作ってしまった。(中略)

作り手たちを糾弾すればすなわちそれでよし、とすむことでもないあたりがとても難しいところである。私自身の心情にもこの映画に思わず涙してしまいかねないようなところがありもするからだ。(中略)
私たち日本人は広島・長崎の原爆の悲劇を描いた映画を、避けがたい運命のドラマのように作ってこなかっただろうか(中略)

映画「砂の器」の問題点というのはとても根が深い、まさにそれ自体がハンセン病者たちへの排除・差別・隔離の長い歴史につながる問題にもそのまま重なってくる。』