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この子の名無しのお祝いに:
(公開当時の観客にとっての映画)
この映画では病気についての情報、患者たちの主張という事について何も描いていない、
この一見「当時の常識・無害な演出」が、実はハンセン病患者への見方を左右する決定的な演出だと指摘できる。
なぜなら、当時でも映画製作者がハンセン病患者の置かれた状況を改善したいという積極的な意図があれば、改善すべき点についての情報を示しただろうから。
しかし橋本忍が語ったように映画製作者の意識は、患者の状況を改善しようというものではなく、彼らの存在をドラマの重要な要素として利用したに過ぎなかったようだ。
こうやって、この映画は当時常識とされた、患者は仕方のない哀れなもの、そういう対象・道具としてしか使わなかった。
それでも感動した人は、これにより彼らへの差別を知ったという事を強調し誉めるかもしれない。
そこで患者から見た功罪と考えたたならば、確かに結果として無知な客にハンセン病患者への同情心を強く印象づけたという利益があろう、
しかし法律の早い時期の改定があれば、彼らの状況の根本的な改善がされた訳で、
そういう要求や状況を何も伝えず、それらが終わった事と印象づけた罪の方がはるかに大きかったのではないだろうか。
この映画を当時見た何も知らぬ観客には、患者は哀れな可哀そうな存在だが、全て過去のことと考え、映画を見てこういう人達が法律で不当に差別されている事に気づく人はいないだろう。
映画が現状を説明せず全体を過去のものとして描くことは結局、患者への措置=らい予防法を肯定する機能をはたしたと考えるのが妥当だろう。