科学関係ぶっちゃけスレ

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、、、  ゲーテの能動的注視   、、、



ここでナーバイが、エドワード・ホールが、マイケル・ヘイズが、ユングが、シュワレール・ド・リュビックが述べてい
ることは、自然は意味に充ち満ちており、そして現在のわれわれはそれに対して盲目とな
ってしまったということだ。

それどころか、現代人は自分自身がどのように「盲目」であるのか、ということすらわか
らない。我々が見るのはただ鼻先にあるものだけであり、どれほど目を見開いてもそれ以
上は見ることができない。

だが「盲目」というのはそれだけではない。ウィリアム・ジェイムズが「人間の盲目性について」
で述べているような盲目性というものがある。ノース・キャロライナの山地で馬車に乗っていたとき、
彼は新しく開墾された区画(コウヴと呼ばれていた)を嫌悪をこめて眺め、何と醜いのだ
ろうと考えた。一体どんな人間がここに住んでいるのか、と御者に尋ねると、御者は陽気
に答えた。「こうゆうコウヴのひとつも手に入れるまでァ、死んでも死に切れねェってもん
でさァ」。入植者たちはそれぞれのコウヴを人生の勝利と見なし、それを美しいものと考え
ているという事実を、突如としてジェイムズは知った。

われわれはしばしば事物に自分自身の考えを押し付け、無頓着になることによって、それ
にたいして盲目となる。それは、自分はそれについてすでに理解しているという思い込み
によるものだ。ジェイムズはコウヴを醜いと確信しており、実はその醜さは彼自身の目にある
のだとは思いもしなかった。
324:2008/10/25(土) 22:23:02
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2 マイケル・ヘイズ
だがたとえそれを頭で分かっているつもりでも、我々にとっては古代エジプト人の――ある
いは、我々の祖先であるクロマニオン人の――世界観は我々のそれとはまったく異なっており、
彼ら自身の「高度に発達した科学」を築き上げていた、ということを理解することは極め
て困難だ。そこでいくつかの実例を挙げてみることにしよう。

この「古代人の視覚」を自然に手に入れていたごく小数の人々の中に、詩人のゲーテがいる。
ゲーテの科学観を見れば、それがどのようなものであるのかを理解することができるだろう。
そのために、私自身がゲーテの科学観を知るに至った次第をご説明しよう。

私は十代の頃に、懐かしいエヴリマン叢書で初めて「ファウスト」を呼んで以来、ゲーテのファンだった。
人生に対する無常の感覚に彩られた彼の学者としてのヴィジョンは、16歳の私の深い心の琴線
に触れた。彼の作品の良質な英訳は稀だが、何年もの間に私は手当たり次第に彼の本を集
めていた。

何年か前、私は「ゲーテの色彩論」という英訳本を見つけたが、それを買うかどうかかなり
迷った。私はゲーテが熱狂的なアマチュア科学者だったことを知っていたが、基本的にはそれ以上
のものではない、と思っていたのだ――要はアマチュアだ。だがともかく、私はその本を買った
――そして読みもしないまま書棚に放置していた。

私は、ゲーテのどの一部にせよ、これを放逐してしまう危険性を認識するべきだったのだ。

たとえは私は、顎間骨についての彼の見解が最終的に正しかったことが証明されたのを知
っていた。この骨は上顎部にあり、切歯を支えているもので、あらゆる動物がそれを持っ
ている。だが1780年代に、著名なオランダの解剖学者ペーテルカンペルが、人間の独自な点は顎
にそれを持たないことだ、と宣言した。だが、ダーウィンやラマルクよりもはるか以前から進化論
だったゲーテは、そんなことはありえないと確信していた。そこでゲーテは山と積まれた動物
と人間の頭骸骨を研究し、人間にも痕跡的にではあるが顎間骨はあることを発見した。
325Nanashi_et_al.:2008/10/26(日) 16:09:46
● 子持ち予想犬、天才予想犬プリンちゃん
http://www.geocities.co.jp/AnimalPark/5784/

個人リンク
http://www2s.biglobe.ne.jp/~eba/ 大洋ホエールズだ!
http://www.morinono.net/ MoRinono


緊急のときは
ギコ太郎掲示板
http://jbbs.shitaraba.com/sports/12734/gikotaro.html
326:2008/10/27(月) 23:38:53
だがカンペル等科学者に対してこの発見を報告すると、科学者たちは彼をアマチュアとして一蹴し
たのだ。だがダーウィンのころまでには、正しいのはゲーテでありカンペルが誤っていたことが認め
られるようになった。

とはいうものの、こと色彩に関する限り、ゲーテといえども定説に異議を唱えるなんて不可
能に思えた。学校で終わったとおり、白い光は実際には虹の7色からなっている――赤、
橙、黄、緑、青、藍、紫だ。ニュートンは簡単な実験でこのことを証明して見せた。ブラインドに小さな穴を開け、細い一条の光線しか入らないようにして、これをプリズムに通したの
だ。すると光線は7色に分かれた。まさしくそれが結論ではないか?

ゲーテはプリズムを借りてきて、ニュートンの実験を追試しようとした。そして直ちにおかしなこと
に気づいたのだ。そのプリズムを通して白いテーブルの上を見ても、それは7色のテーブルには
見えない。それは依然として白いテーブルであり、7色に見えたのはその縁の周りだけだった。
そしてこのことは一般に事実とされている。色彩は、一種の教会すなわち縁があるときにのみ現れるのだ。

ゲーテは一枚の紙を用意した。上半分が白く、下半分の黒いものだ。その真ん中の線のとこ
ろでプリズムを覗くと、赤、橙、黄の色が白いほうの半分に走っているのが見えた。だが意
図的に黒い境界を見ると、虹の暗いほうの色が見えたのだ――境界近くがライトブルー、それ
からダークブルー(藍)、そして紫である。つまり色彩の順序は、虹の順序である赤、黄、緑、
藍、紫ではなく、黄、橙、赤、藍、紫だったのだ。明らかにニュートンの法則に反している。


そこでゲーテは、一見して実に奇妙な結論を引き出した。暑い日に空を見ると頭上は深い青
だが、地平線に近づくに連れて色彩は明るくなる。そこでは、大気――光を蓄積している
――は厚い。だが、ロケットに乗って上昇すると、空は徐々に青く、暗くなっていき、漆黒の
宇宙に至る。
327:2008/10/28(火) 06:55:43
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%81%AE%E8%89%B2%E5%BD%A9%E8%AB%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89光

一方、太陽が真上にあるとき、それは黄色い。だが地平線上に降りてくるとその光は赤く
なる。つまり、太陽光線に関する限り、大気は3つの明るい色を作る。黄、橙、赤だ。闇
に関する限り(外宇宙)、大気は3つの暗い色を作る。青、藍、紫だ。

これを示すために、ゲーテは暗い色彩――青、藍、紫――は闇の希釈によって作られるので
あり、明るい色彩――黄、橙、赤―-は光の濃密化によって作られる、と述べた。

これを読んだとき、私自身は髪を掻きむしって本を窓から投げ捨てたくなった。いったい、
ゲーテのこの説のどこがニュートンより優れているというのか?そしていずれにせよ、それがどう
したというのか?

そんなとき、友人のエディ・キャンベルが、アンリ・ボルトフトの「自然の全体性――ゲーテの科挙の方法」
という本を貸してくれた。著者は物理学者ディヴィッド・ボームの弟子だった科学者だ。

一見して難しげな本で、読むのに何年もかかりそうだったので、自分用のを一冊買った。
で、一年以上書棚にほったらかしにしていた。だがようやく覚悟を決めて読み始めると、
それはこれまで買った中で最も重要な本の一つであることがわかったのだ。

ボルトフトの本には興味深い新事実が示されていた。まず第一に、ゲーテは色彩を観察するとき、
目を閉じて、今見たばかりんぽものを脳裏に浮かべていたという。正しい順序で色彩を見
ようと努め、最終的に実際のリアルさで脳裏に描き出したというのだ。つまり、先に述べ
た「直感像」を実践していたのだ。一体何のために?
328:2008/10/28(火) 07:10:57
今見たばかりんぽものを脳裏に  →  今見たばかりのものを脳裏に  、、、


ボルトフトによれば――

「ゲーテの方法で色彩という現象を観察するためには、通常よりもさらに能動的に見ること
が必要となる。

「観察」という述語は、あまりにも受動的である。われわれは観察というものを、単に現
象を前にして目を開いているということ、と解釈しがちである、、、ゲーテの方法で現象を観
察するためには、見ることの方向性を逆転させるかのように見ることが必要である。つま
り見る主体と見られる対象の方向の逆転である。これは、見るということに注意を向ける
ことによって達成される。つまり単に視覚的印象を得るのではなく、目を向けている対象を真に見
ることができるのである。それはあたかも見るという行為に没入するようなもの
である。このようにすることで、われわれは色彩の本質を体験することができるようにな
るのだ」

そしてイマジネーションの中に色彩を再現するゲーテの方法について述べた後に、ボルトフトは次のよう
に説明する。「その目的は、現象との接触を深化させることの出来る器官の開発である、、、、」

ゲーテはこれを「能動的注視」と呼んでいる。私に言わせれば、これこそが現代人と古代人
の違いなのだ。現代人よりもはるかに密接に自然と接触していた古代人は、この能動的注
視に驚くほど熟達していた。

たまたま、ボルトフトのゲーテ論を読んでいたのは明るい夏の日の朝6時30分ごろで、私はベッド
に腰掛けていた。突如私は、彼の言うことを理解した。窓から庭の木々や潅木を見て、私
は意図的にゲーテの言うとおりにやってみた――つまり能動的に見ることにしたのだ。
329:2008/10/28(火) 07:25:33
能動的注視  、、、体験において対等でない、、、。


ゲーテはこれを「能動的注視」と呼んでいる。私に言わせれば、これこそが現代人と古代人
の違いなのだ。現代人よりもはるかに密接に自然と接触していた古代人は、この能動的注
視に驚くほど熟達していた。
                        >>

そうか?
330:2008/10/28(火) 07:27:00
能動的注視  以前の問題がある
331:2008/10/28(火) 07:31:01
それでわかったのだが、私が普段庭を見ているとき、常に受動的にそれを見ていた。それ
を当たり前とし、目に見えるすべてのものをすでに知っていると思い込んでいたのだ。底
で私はすべての観念と先入観を排し、あたかも初めて見た他人の庭であるかのように見て
みた。

次の瞬間、私は自然の中に引き込まれたように感じた。草や潅木が突然よりリアルに、生き生
きとして見えた。さらに、それらが私と交流しているように感じられたのだ。まるで気の
置けない友人たちに囲まれているような、奇妙な感覚だった。完璧にくつろぐことができ
るクラブに入会したかのようだ。

多くの詩人たちがそうであるように、ゲーテはこの種の知覚を生まれつき備えていたのだ。「フ
ァウスト」の中で、彼は自然を「神の生ける衣服」と呼んでいる。彼の叙情詩には、押し寄せ
るような驚くべき生命力がみなぎっている。それはファン・ゴッホの後期の作品――「イトスギの
ある道」と「星月夜」―-を思い起こさせる。木々は緑の炎となり、空に向かって遠吠えす
る。

よく知られた話だが、ゲーテと詩人シラーは、イェナで行われていた退屈な科学の講義を抜け出し
た。そしてゲーテは、自然を記述するほかの方法があるに違いない、と言った――それをバラ
バラに分割するのではなく、それを生きた現実として、全体から部分へと向かう方法だ。シラ
ーは肩をすくめた。「ああ、まあ机上の空論って奴だね」。

だが彼は間違っていた。ゲーテにとってはそれは机上の空論ではなかったのだ。それは彼が
木々や花々や草を見るときに見えている何かだった.それらは生きているかのように見えた
のだ、あたかも自然全体が、ある意味において、一つの有機体であるかのように。

一つのエクササイズとして、「能動的注視」でもって庭を見て欲しい。絵のような静物とし
て見るのではなく、それが絶えず運動していることを認識するようにするのだ――極めて
ゆっくりとした運動だが、運動には違いない――そして植物が、虫や鳥や蜂と同様、生き
ているのだと言うことを認識して欲しい。